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斎藤さんのお話

さざなみ会/齋藤 嘉博

  終活で身辺の整理をしているなか、「さざなみ会」と書いた二冊の文集が目に入りました。
  諸兄、とくに弱電(こんな言葉はもう死語になりましたネエ)関係を卒論に選ばれた方には「さざなみ会」という名をご記憶の方も多いと思います。阪本先生を中心に岡村先生など弱電関係の先生方の研究室になっている私たちが学んだ工学部3号館4階がその拠点でした。さざなみ会.jpg
さざなみ会
  阪本先生の自叙伝「厚みと含み」によれば、そのルーツは戦時中にまでさかのぼります。研究室は激しくなる空襲を避けて上諏訪に疎開。そうした荒れた日々のなかで研究を進めながらお互いに慰め親睦を図るためにこの会が作られたとあります。数メガという当時としては周波数の高い現象を取り扱っていたので「さざなみ会」なる名をつけたとありますが、現在の5Gの時代になるといささかちぐはぐ。大波もいいところでしょう。

  手許にある文集の一冊目は第40回さざなみ会(1985.4.14.)を記念したもので百人あまりの方達が投稿されています。そこに阪本先生は「高周波研究室の第一回の研究発表は昭和19年9月22日、滝保夫、安村光峯両氏による3米受信機・雑音調査です」と書かれています。また岡村先生は「戦争が終わって5年間の海軍生活に別れを告げて研究に戻ったのがついこの間のような気もします」と。

  田宮さんの記録によれば第二回のさざなみ会の懇親会は194755日、戦後の二年を経てのち3号館4階の高周波研究室で、15回以降は好仁会食堂でと記録されています。その後、回を重ねて最終回の第44回は19924月、調布深大寺の脇にある雀のお宿で行われ、このときの皆さんのご意向で出来たのが手許にある二冊目の文集

  その冒頭に宇都宮先生は「阪本先生が亡くなられて13年、研究室の主、高木さんも他界された。田宮さんにはこの会の運営に大変お世話頂いたが、この辺で56年の歴史のあるさざなみ会を解散すべく、先輩先生方にもご了解を頂いた」と書かれ、さざなみ会の終焉を宣言されたのでした。また猪瀬先生は「高周波談話会やさざなみ会での思い出が走馬灯のように駆け巡った。さざなみ会の方々と共に奥多摩の山々をはるかに見晴るかす、阪本先生のご墓所に詣でた時、相州の清冽な大気の中で、黄金時代は終わったと痛切に思った」と書かれています。

  この会の構成、第一回は前述のように疎開先の方達の集まりでした。戦後は電気科の教授と研究室に残られた卒業生、若手研究者が中心ですが、そうした内輪の方々だけでなく国鉄、電電公社、他の大学、そして関連の企業からも集まった多くの方々で構成されていました。当時はまだほとんど知られていなかった医用電子の研究に大学や企業から何人もの熱心な方が集まっておられたのです。いまではビルの同じフロアに様々な企業の部屋が作られて他の分野の知恵を入れようという業際の試みが普通になってきていますが70年前にすでにその芽は出ていたのでした。

  55年卒業の私たちのクラスでは大学院に進級された秋山先生、大越先生、吉村博士の俊秀がメンバーで、休学、落第生の私は社会での激しい実務に耐えることがまだ難しいからと、研究生としてこの研究室、さざなみ会の隅にはいらせていただきました。今でこそ医療の現場は電子機器の重装備。CTを撮ればすぐに輪切りの映像が診察の先生の手許に届いて診断ということになる状況ですが、当時は周波数の低いα波、β波の脳波を測定、記録するのが大変。真空管のドリフトをいかに防ぐかなんていう低次元のことが研究の対象だったのです。ほぼ同年輩の東口先生、藤崎先生は休学続きで午後の実験にもあまり出席できずに回路の設定にも不慣れだった私を懇切に指導してくださいました。

  そうした研究の傍ら、月に一度の水曜日の昼食はみなさんお弁当を持って4階に集まり、食後には順に旅の様子や身の回りのことなど研究とは離れた話題を話す機会が作られて、これは研究発表の折の表現力の勉強になるのでした。氷川丸で米国留学に出発される宮川先生を横浜港にお送りしたり、国鉄からの研究生だった日下部さんと富士山麓、山中湖に近い大学寮に泊まって討論したり、私にとって大変懐かしいバラエティに富んだ4年間でした。後年私が美術大学という電気とは異質の世界で仕事ができたのも、こうした雰囲気のお陰と思っています。

  同窓会から送られてきた最近のメールに「温故知新」と題して桑折先生ほか14人の先生方の回想が載っていたのをご覧になったでしょうか。各先生方の回想は大変懐かしく、さざなみ会の想い出と合わせながら拝見したのでした。電気工学科、すばらしい教室だったのですネ。

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斎藤さんのお話

さざなみ会/齋藤 嘉博

  終活で身辺の整理をしているなか、「さざなみ会」と書いた二冊の文集が目に入りました。
  諸兄、とくに弱電(こんな言葉はもう死語になりましたネエ)関係を卒論に選ばれた方には「さざなみ会」という名をご記憶の方も多いと思います。阪本先生を中心に岡村先生など弱電関係の先生方の研究室になっている私たちが学んだ工学部3号館4階がその拠点でした。さざなみ会.jpg
さざなみ会
  阪本先生の自叙伝「厚みと含み」によれば、そのルーツは戦時中にまでさかのぼります。研究室は激しくなる空襲を避けて上諏訪に疎開。そうした荒れた日々のなかで研究を進めながらお互いに慰め親睦を図るためにこの会が作られたとあります。数メガという当時としては周波数の高い現象を取り扱っていたので「さざなみ会」なる名をつけたとありますが、現在の5Gの時代になるといささかちぐはぐ。大波もいいところでしょう。

  手許にある文集の一冊目は第40回さざなみ会(1985.4.14.)を記念したもので百人あまりの方達が投稿されています。そこに阪本先生は「高周波研究室の第一回の研究発表は昭和19年9月22日、滝保夫、安村光峯両氏による3米受信機・雑音調査です」と書かれています。また岡村先生は「戦争が終わって5年間の海軍生活に別れを告げて研究に戻ったのがついこの間のような気もします」と。

  田宮さんの記録によれば第二回のさざなみ会の懇親会は194755日、戦後の二年を経てのち3号館4階の高周波研究室で、15回以降は好仁会食堂でと記録されています。その後、回を重ねて最終回の第44回は19924月、調布深大寺の脇にある雀のお宿で行われ、このときの皆さんのご意向で出来たのが手許にある二冊目の文集

  その冒頭に宇都宮先生は「阪本先生が亡くなられて13年、研究室の主、高木さんも他界された。田宮さんにはこの会の運営に大変お世話頂いたが、この辺で56年の歴史のあるさざなみ会を解散すべく、先輩先生方にもご了解を頂いた」と書かれ、さざなみ会の終焉を宣言されたのでした。また猪瀬先生は「高周波談話会やさざなみ会での思い出が走馬灯のように駆け巡った。さざなみ会の方々と共に奥多摩の山々をはるかに見晴るかす、阪本先生のご墓所に詣でた時、相州の清冽な大気の中で、黄金時代は終わったと痛切に思った」と書かれています。

  この会の構成、第一回は前述のように疎開先の方達の集まりでした。戦後は電気科の教授と研究室に残られた卒業生、若手研究者が中心ですが、そうした内輪の方々だけでなく国鉄、電電公社、他の大学、そして関連の企業からも集まった多くの方々で構成されていました。当時はまだほとんど知られていなかった医用電子の研究に大学や企業から何人もの熱心な方が集まっておられたのです。いまではビルの同じフロアに様々な企業の部屋が作られて他の分野の知恵を入れようという業際の試みが普通になってきていますが70年前にすでにその芽は出ていたのでした。

  55年卒業の私たちのクラスでは大学院に進級された秋山先生、大越先生、吉村博士の俊秀がメンバーで、休学、落第生の私は社会での激しい実務に耐えることがまだ難しいからと、研究生としてこの研究室、さざなみ会の隅にはいらせていただきました。今でこそ医療の現場は電子機器の重装備。CTを撮ればすぐに輪切りの映像が診察の先生の手許に届いて診断ということになる状況ですが、当時は周波数の低いα波、β波の脳波を測定、記録するのが大変。真空管のドリフトをいかに防ぐかなんていう低次元のことが研究の対象だったのです。ほぼ同年輩の東口先生、藤崎先生は休学続きで午後の実験にもあまり出席できずに回路の設定にも不慣れだった私を懇切に指導してくださいました。

  そうした研究の傍ら、月に一度の水曜日の昼食はみなさんお弁当を持って4階に集まり、食後には順に旅の様子や身の回りのことなど研究とは離れた話題を話す機会が作られて、これは研究発表の折の表現力の勉強になるのでした。氷川丸で米国留学に出発される宮川先生を横浜港にお送りしたり、国鉄からの研究生だった日下部さんと富士山麓、山中湖に近い大学寮に泊まって討論したり、私にとって大変懐かしいバラエティに富んだ4年間でした。後年私が美術大学という電気とは異質の世界で仕事ができたのも、こうした雰囲気のお陰と思っています。

  同窓会から送られてきた最近のメールに「温故知新」と題して桑折先生ほか14人の先生方の回想が載っていたのをご覧になったでしょうか。各先生方の回想は大変懐かしく、さざなみ会の想い出と合わせながら拝見したのでした。電気工学科、すばらしい教室だったのですネ。

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斎藤さんのお話

今年は/齋藤 嘉博

  新年おめでとうございます。
昨年はコロナに明けコロナに暮れた一年でした。それが終わるでもなく、さらにオミクロンなんていう新顔。今年はなんとか自由に旅の出来るようになればと願いながら。
  小生今年94回目のお正月を迎えました。随分長いこと生きてきたものです。1928年、私が生まれたこの年には林芙美子が放浪記を発表し、アメリカではディズニーのスティームボートウィリーでミッキーマウスが誕生した歳でした。そして振り返るとこの間に世界は人間社会からロボット社会へとその変容がひどいことに驚くのです。

  小学校時代、ソロバンは必須でした。大正から昭和へ、五つ珠から四つ珠に代わった時。暗算、九九、高校では対数を学んで対数表と計算尺の操作。コンピューターが話題になるのが大学時代。正月1.jpg
  初期には水銀柱の記憶装置が使われて山下先生、元岡先生の研究室ではパラメトロンをお使いだったのでしょうか。私に初めての計算機はトランジスターの使用でしたが記憶容量は32キロビット。プログラムは数字言語で16が足し算、18が掛け算だったように覚えています。スミソニアン博物館には1800本の真空管を使った初期の電子計算機がいまでも飾られているでしょう。その後MIT留学時に使ったのはFORTLANで書いたIBM7090。大容量の記憶にはテープが用いられていました。大型とはいえ、たかが9999の線形計画法の計算に1時間もかかったのでした。懐かしい思い出です。

  電話は交換手のジャック差し込みによる手動からストロージャー。ダイアルからプッシュホン、そして自動車電話、モバイルへと進歩しました。子供のころ電話のあるお家は大変少なく、呼び出し電話は落語のテーマにもなったくらいです。
  3mほどのアンテナを張って聴いた鉱石ラジオ。そして二球、並四、スーパーと進化。名古屋で開局した中部日本放送のラジオを東京にいた我が家、自作の受信機で聴いた感激はいまだにわすれません。
  テレビは6インチのブラウン管を使っての自作時代からハイビジョン、そして壁に掛けられる液晶の大画面でまだ足りずに、4K8Kへと。我が家にはいまだに放送衛星初期の80cmφのアンテナが残っています。正月2.jpg

  そう。そうした経緯を経て計算機と電話とテレビが一体になったウェアラブルのスマホを今小学生が持っているのですから。と言う小生、スマホが使えなくてお蔵に入ったまま。いや大変な世界になったものですがこのブログに顔をだして頂ける諸兄。皆さん同じ経験なのですネ。そして今の若い方達にはもうけっして経験のできない過去。

  しかし進歩の裏に公害、大気汚染、洪水竜巻の災害、海洋汚染、そして多くの犯罪とマイナスの面がつきまとっていました。あっちへ行け、こっちへ曲がれと指示するカーナビのままハンドルを動かす習性はコンピューターの奴隷になって、ネットが盛んになればなるだけサイバー攻撃の楽しさが増え、SNSでの弊害、事故や不自然は大きくなるばかり。

  さてこれからの90年、いや50年は??

  空には自動車が戦後のハエのように沢山飛び交って交通渋滞。テレビはすべてヴァーチャル番組。でも地震の予知も火山噴火の予知もできていない!ましてあの世のことは皆目。いやうまくいけば冥途との交信も可能になるかもしれませんネ。そうすると「この世よりあの世の方がイイね、宇宙旅行より楽しそう」と多くの人があの世への旅を試みる。地球上には人間がいなくなって。

  今年、寅年の初夢はこんなところでしょうか。先年京都の千本閻魔堂で頂いて私の机の上にある閻魔様のお人形がニコニコと笑っておられます。

  諸兄、今年もコロナ回避でお元気にすごされますように。

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斎藤さんのお話

今年は/齋藤 嘉博

  新年おめでとうございます。
昨年はコロナに明けコロナに暮れた一年でした。それが終わるでもなく、さらにオミクロンなんていう新顔。今年はなんとか自由に旅の出来るようになればと願いながら。
  小生今年94回目のお正月を迎えました。随分長いこと生きてきたものです。1928年、私が生まれたこの年には林芙美子が放浪記を発表し、アメリカではディズニーのスティームボートウィリーでミッキーマウスが誕生した歳でした。そして振り返るとこの間に世界は人間社会からロボット社会へとその変容がひどいことに驚くのです。

  小学校時代、ソロバンは必須でした。大正から昭和へ、五つ珠から四つ珠に代わった時。暗算、九九、高校では対数を学んで対数表と計算尺の操作。コンピューターが話題になるのが大学時代。正月1.jpg
  初期には水銀柱の記憶装置が使われて山下先生、元岡先生の研究室ではパラメトロンをお使いだったのでしょうか。私に初めての計算機はトランジスターの使用でしたが記憶容量は32キロビット。プログラムは数字言語で16が足し算、18が掛け算だったように覚えています。スミソニアン博物館には1800本の真空管を使った初期の電子計算機がいまでも飾られているでしょう。その後MIT留学時に使ったのはFORTLANで書いたIBM7090。大容量の記憶にはテープが用いられていました。大型とはいえ、たかが9999の線形計画法の計算に1時間もかかったのでした。懐かしい思い出です。

  電話は交換手のジャック差し込みによる手動からストロージャー。ダイアルからプッシュホン、そして自動車電話、モバイルへと進歩しました。子供のころ電話のあるお家は大変少なく、呼び出し電話は落語のテーマにもなったくらいです。
  3mほどのアンテナを張って聴いた鉱石ラジオ。そして二球、並四、スーパーと進化。名古屋で開局した中部日本放送のラジオを東京にいた我が家、自作の受信機で聴いた感激はいまだにわすれません。
  テレビは6インチのブラウン管を使っての自作時代からハイビジョン、そして壁に掛けられる液晶の大画面でまだ足りずに、4K8Kへと。我が家にはいまだに放送衛星初期の80cmφのアンテナが残っています。正月2.jpg

  そう。そうした経緯を経て計算機と電話とテレビが一体になったウェアラブルのスマホを今小学生が持っているのですから。と言う小生、スマホが使えなくてお蔵に入ったまま。いや大変な世界になったものですがこのブログに顔をだして頂ける諸兄。皆さん同じ経験なのですネ。そして今の若い方達にはもうけっして経験のできない過去。

  しかし進歩の裏に公害、大気汚染、洪水竜巻の災害、海洋汚染、そして多くの犯罪とマイナスの面がつきまとっていました。あっちへ行け、こっちへ曲がれと指示するカーナビのままハンドルを動かす習性はコンピューターの奴隷になって、ネットが盛んになればなるだけサイバー攻撃の楽しさが増え、SNSでの弊害、事故や不自然は大きくなるばかり。

  さてこれからの90年、いや50年は??

  空には自動車が戦後のハエのように沢山飛び交って交通渋滞。テレビはすべてヴァーチャル番組。でも地震の予知も火山噴火の予知もできていない!ましてあの世のことは皆目。いやうまくいけば冥途との交信も可能になるかもしれませんネ。そうすると「この世よりあの世の方がイイね、宇宙旅行より楽しそう」と多くの人があの世への旅を試みる。地球上には人間がいなくなって。

  今年、寅年の初夢はこんなところでしょうか。先年京都の千本閻魔堂で頂いて私の机の上にある閻魔様のお人形がニコニコと笑っておられます。

  諸兄、今年もコロナ回避でお元気にすごされますように。

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斎藤さんのお話

榛名山への散歩/齋藤 嘉博

  今年の秋も次第に深まってコロナも漸く下火の勢い。となると私の歩き虫が疼きだして昨日(29日)は兼ねてからの想いだった上毛三山のうち榛名山への散歩にでかけました。
  高崎駅から90分のバスはやや退屈です。それでも榛名神社を過ぎるころからは立派な杉木立に囲まれたハイウェイ。榛名湖畔駅のあたりは閑散とした冬景色でしたが、ここから30分ほど湖畔を歩いたロープウェイ駅の駐車場にはかなりの数の車が。そうここまで来るのは車ですネ。免許返納がくやしい。
榛名1.jpg榛名3.jpg榛名4.jpg
  二連のキャビン、300mほど上がるロープウエイで山頂駅から見ると、雲一つない青空の下、東に筑波山、西に浅間山。眼の下には榛名山の側火山である天目山、氷室山の姿と関東平野が広がって。バカと鶏は高いところが好きと教えられていましたが、やはり見晴らしのいい高さは気分のいいこと。ここからさらに坂道を上がって1,391mの山頂にある榛名富士神社にお参り。数人の若い人たちが社殿で手を合わせていました。

  高尾山の例にならって下りはゆうすげ温泉への山道を歩いて下ろうと思っていたのですが、入口に「この道は風致保安林で十分な整備が出来ていないので歩かないで」との警告書。仕方なく再びロープウエイで湖畔に降り立ちました。初夏には高橋兄に喜んで頂けそうな黄色いユウスゲ、紫のホタルブクロがあたりを彩り、冬には氷結した湖面に穴をあけてのワカサギ釣りが有名なこの湖ですが今の季節は冷たい風のなかに紅葉と黄葉が真っ盛り。船宿に人もなく岸につながれたスワンボートもさびしそう。遊覧船も動いていないようでした。

  帰途榛名神社にお参りしました。祭神は火と土の神様。赤い大鳥居をくぐって社への入り口、隋神門に「本堂はここから15分」とありました。杉木立の中、神橋をわたり眼の下を流れる渓谷と滝を眺めながら坂道と石段を上がること十分あまり。神門をくぐったところであと100段ほどの石段を見上げてこれはちょっとネと辟易。残念ながらそこで遥拝をして、傍らの社務所でお守りを頂き下山しました。トシですネエ。

  暗くなった6時過ぎに無事帰宅。行程15,000歩。ひさしぶりにすっきりとした一日を過ごすことができました。帰途新幹線から見た富士山のシルエットが印象的でしたネ。この次はと奥多摩、八ヶ岳などへのハイキングを目論んでいます。
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斎藤さんのお話

榛名山への散歩/齋藤 嘉博

  今年の秋も次第に深まってコロナも漸く下火の勢い。となると私の歩き虫が疼きだして昨日(29日)は兼ねてからの想いだった上毛三山のうち榛名山への散歩にでかけました。
  高崎駅から90分のバスはやや退屈です。それでも榛名神社を過ぎるころからは立派な杉木立に囲まれたハイウェイ。榛名湖畔駅のあたりは閑散とした冬景色でしたが、ここから30分ほど湖畔を歩いたロープウェイ駅の駐車場にはかなりの数の車が。そうここまで来るのは車ですネ。免許返納がくやしい。
榛名1.jpg榛名3.jpg榛名4.jpg
  二連のキャビン、300mほど上がるロープウエイで山頂駅から見ると、雲一つない青空の下、東に筑波山、西に浅間山。眼の下には榛名山の側火山である天目山、氷室山の姿と関東平野が広がって。バカと鶏は高いところが好きと教えられていましたが、やはり見晴らしのいい高さは気分のいいこと。ここからさらに坂道を上がって1,391mの山頂にある榛名富士神社にお参り。数人の若い人たちが社殿で手を合わせていました。

  高尾山の例にならって下りはゆうすげ温泉への山道を歩いて下ろうと思っていたのですが、入口に「この道は風致保安林で十分な整備が出来ていないので歩かないで」との警告書。仕方なく再びロープウエイで湖畔に降り立ちました。初夏には高橋兄に喜んで頂けそうな黄色いユウスゲ、紫のホタルブクロがあたりを彩り、冬には氷結した湖面に穴をあけてのワカサギ釣りが有名なこの湖ですが今の季節は冷たい風のなかに紅葉と黄葉が真っ盛り。船宿に人もなく岸につながれたスワンボートもさびしそう。遊覧船も動いていないようでした。

  帰途榛名神社にお参りしました。祭神は火と土の神様。赤い大鳥居をくぐって社への入り口、隋神門に「本堂はここから15分」とありました。杉木立の中、神橋をわたり眼の下を流れる渓谷と滝を眺めながら坂道と石段を上がること十分あまり。神門をくぐったところであと100段ほどの石段を見上げてこれはちょっとネと辟易。残念ながらそこで遥拝をして、傍らの社務所でお守りを頂き下山しました。トシですネエ。

  暗くなった6時過ぎに無事帰宅。行程15,000歩。ひさしぶりにすっきりとした一日を過ごすことができました。帰途新幹線から見た富士山のシルエットが印象的でしたネ。この次はと奥多摩、八ヶ岳などへのハイキングを目論んでいます。
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斎藤さんのお話

榛名山への散歩/齋藤 嘉博

  今年の秋も次第に深まってコロナも漸く下火の勢い。となると私の歩き虫が疼きだして昨日(29日)は兼ねてからの想いだった上毛三山のうち榛名山への散歩にでかけました。
  高崎駅から90分のバスはやや退屈です。それでも榛名神社を過ぎるころからは立派な杉木立に囲まれたハイウェイ。榛名湖畔駅のあたりは閑散とした冬景色でしたが、ここから30分ほど湖畔を歩いたロープウェイ駅の駐車場にはかなりの数の車が。そうここまで来るのは車ですネ。免許返納がくやしい。
榛名1.jpg榛名3.jpg榛名4.jpg
  二連のキャビン、300mほど上がるロープウエイで山頂駅から見ると、雲一つない青空の下、東に筑波山、西に浅間山。眼の下には榛名山の側火山である天目山、氷室山の姿と関東平野が広がって。バカと鶏は高いところが好きと教えられていましたが、やはり見晴らしのいい高さは気分のいいこと。ここからさらに坂道を上がって1,391mの山頂にある榛名富士神社にお参り。数人の若い人たちが社殿で手を合わせていました。

  高尾山の例にならって下りはゆうすげ温泉への山道を歩いて下ろうと思っていたのですが、入口に「この道は風致保安林で十分な整備が出来ていないので歩かないで」との警告書。仕方なく再びロープウエイで湖畔に降り立ちました。初夏には高橋兄に喜んで頂けそうな黄色いユウスゲ、紫のホタルブクロがあたりを彩り、冬には氷結した湖面に穴をあけてのワカサギ釣りが有名なこの湖ですが今の季節は冷たい風のなかに紅葉と黄葉が真っ盛り。船宿に人もなく岸につながれたスワンボートもさびしそう。遊覧船も動いていないようでした。

  帰途榛名神社にお参りしました。祭神は火と土の神様。赤い大鳥居をくぐって社への入り口、隋神門に「本堂はここから15分」とありました。杉木立の中、神橋をわたり眼の下を流れる渓谷と滝を眺めながら坂道と石段を上がること十分あまり。神門をくぐったところであと100段ほどの石段を見上げてこれはちょっとネと辟易。残念ながらそこで遥拝をして、傍らの社務所でお守りを頂き下山しました。トシですネエ。

  暗くなった6時過ぎに無事帰宅。行程15,000歩。ひさしぶりにすっきりとした一日を過ごすことができました。帰途新幹線から見た富士山のシルエットが印象的でしたネ。この次はと奥多摩、八ヶ岳などへのハイキングを目論んでいます。
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斎藤さんのお話

テレツーリズム/齋藤 嘉博

  過日この欄に載せて頂いたモロッコ紀行、諸兄はどのように読んでくださったでしょうか。モロッコへの興味は冒頭に書いた通り。しかしこの旅のお話し、カスバの様子などはその気持ちに誘われたfake、ヴァーチャルの旅記だったのです。現地の写真がありませんでしたので不審に思われた方もおられたと思います。コメントを頂いた小林さんゴメンナサイ。
  このトシで遠方への飛行機の旅やドライブもいつまで出来るかなと思いながら、しかし行きたいところはまだまだ沢山。そこで考えたのが地図の上でのヴァーチャルの旅。地図を拡げ旅行書を読みながら、あそこに飛んでここはドライブでと、もう十数年前にニュージランド、インド、マレーシア、アフリカなど二十に余る世界の観光地の旅スケジュールを作ったのです。モロッコもそのうちの一つ。そのときのプランに最近モロッコ大使館で頂いた観光パンフからの情報を加えて書いたのでした。

  その昔に作ったプランの中からいくつかをご紹介しましょう。

  トルコ;東西文化の接点トルコは是非行ってみたい国の一つ。この国については’12年のブログに大橋さんの二回にわたるすばらしい紀行稿が寄せられています。それによると世界遺産のアンティオコス王遺跡への山道はなかなかハードの模様。そこでここはパスして、成田12:50発のTKでイスタンブールを乗り継ぎアンカラへ飛び、車を借りてカッパドキアへ直行。ここから古都コンヤ、綿の城と呼ばれるパムッカレへとトルコの西部高原地帯を走り、イズミールからトロイの遺跡へ。地中海の夕陽を楽しんだのち車を返却して船でイスタンブールに向かおうというプラン。イスタンブールには沢山の見所がありますのでここでは4泊して帰国という16日間のプランでした。

  ニュージランド;ニュージランドは日本と経度も近く経度もほぼ同じ。島の面積も似通っていてなぜか大変親しみの湧く国です。成田から南島のクライストチャーチに飛んで、星が美しいと言われるテカポで「善き羊飼いの教会」、湖を散歩してスターウォッチング。マウントクックと氷河ミルフォオードサウンドを楽しんだら空路で北島に移り、トンガリロ国立公園やロトルアの温泉に浴してオークランドから帰国という18日間のスケジュール。諸兄の中にもこの国を楽しまれた方は多いのではないでしょうか。

  何回か訪れたドイツもクリスマスの時期に行ってみたいネと、シュツットガルトのクリスマス市場から始めてニュルンベルグなど古城街道を軸にプラハまで走り各地のクリスマスを観ようという魂胆。ここはアウトバーンがしっかりしていますので時速200Kmの快感を交えて。運がよければバイロイトでワグナーのオペラも。ベルリンのクリスマス市場を最後にという欲張り日程は19日間。これもすでに経験された方が多いでしょう。

  難しいのはインドとアフリカ。タンザニアのキリマンジャロ高原、動物の楽園、セレンゲッティ国立公園いいでしょうね。そしてインドはお釈迦様の遺跡、ルンビニ、ブッダガヤー、サールナートなどを中心にと想いながら、私がこれまでに知っている地域とは異なる風土。なかなか全体の感触がつかめないのです。この辺りなにかよいヒントがあればご教示頂けるとありがたいのですが。

  こうした頭の中の旅はコロナで不急不要の外出を控えさせられている身には格好の、しかし楽しい時間つぶしです。観光資料はその国の大使館、領事館などで手に入りますし、近頃はUチューブなどwebで検索するとけっこう楽しい現地の動画を観ることが出来るので幻の旅もかなり現実味を覚えることができるのです。いうなればテレツーリズム。諸兄もいかがでしょうか。

  といっても遺跡を目の当たりにして古代に飛ぶ想い、広い広い山野の自然を歩き眺める感動、喧噪の街の中で人々のざわめきを感じながらカフェで過ごすひと時の経験はテレ、ヴァーチャルではとても得られない感触です。ヴァーチャルはやはりそれだけのもの。このころコロナの影響でディジタル庁を作ったり、テレワークを推奨していますが、画面をとおしてできるのは仕事の骨格、それに肉付けぐらいまで。魂を入れるということには至りません。ディジタル仕事の会社には「このような不祥事は再び起こさないように」と頭を下げるトップの姿が増えることでしょう。早くコロナが治まってもう一度山野を歩きたいですネエ。間に合うかナ。

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斎藤さんのお話

モロッコ紀行/齋藤 嘉博

  私がモロッコに興味をもったのは往年の名画カサブランカ。どこの映画館だったか忘れましたがハンフリーボガートとイングリットバークマンの競演がすごく印象に残っているのです。
  もう一つはずっと後になってトポロジーを勉強した時、書の一筆書きの章に「入ったら抜け出ることのできないモロッコのカスバ」と。一体どんなところ?それに私の友人でフランス語にも堪能なT君、「モロッコに行ってきました。面白いところですヨ」と話をしてくれたのが拍車になりました。陽昇る国の日本からずーッと西の果てマグレブ(陽入る国)、アフリカ大陸の北の端。諸兄の中にもモロッコに行かれた方は少ないだろうと思います。ジブラルタル海峡に面したモロッコにはパリのオルリー空港から3時間余りの飛行でカサブランカに到着します。列車でマラケシュへ。
  その夜はちょっと張りこんで昔は富裕層の邸宅だったというリヤドに泊まり、庭の奥の方にしつらえられたハマス(サウナ)でリラックス。翌朝ガイドさんを頼んで街中へ。迷路のまちと言われるこのメディナ(城壁に囲まれた旧市街)を方向感覚には自信のある小生もさすがに一人で歩く気になりません。城壁に囲まれたメディナの南にある王宮をさらっと拝見して期待していたスークへ。いやなるほどの迷路です。メインの通りは飴屋横丁?いや京都の錦市場のほうが似ているかもしれません。細い道に食べ物、お土産、絨毯など様々なお店がぎっしり。そして行き止まりの小道が多いのです。モロッコ1.jpg
モロッコ2.jpg

  京都の路地(ロージ)も狭い道ですが多くは通り抜けが出来ます。ここでは行き止まり、引き返しがあたりまえ。そしてロージは狭くても両側が木造建築ですのでなんとなく解放感がありますが、ここでは両側とも石の壁。全く異世界に迷い込んだ感じです。3時間の散歩を終えてとあるレストランで郷土料理、尖り帽子の土鍋に焚かれたミートボールのダジンの昼食。これはおいしかった。工芸品を集めた博物館、砂漠関連の博物館を訪ね、城壁の外にあるマジョレル庭園を散歩して宿に帰りました。

  翌日は一泊二日の砂漠ツアーに参加。マラケシュからワルザザートへ。砂漠の道と思っていましたらオト、アトラス、4,000m級を含むというアトラス山脈越えの山道。しかしちゃんとした舗装道路で、これならレンタカーでも走れたか!と。左に豪快な山脈、右の下にはダデスの谷と景色の良い道、カスバ街道を走っているのですが、いつの間にかぐっすりと寝ていました。

  砂漠の街、エルズーガに到着したのは夕方。ホテルに入ると早速キャメルトレッキング。ラクダの背に乗って砂漠の中を散歩。いやサハラ砂漠って大きいですネ。鳥取の砂丘はまア公園の砂場、アメリカのホワイトサンズでは真っ白な砂が一面に広がって感激しましたが、サハラはやはりスケールが全く違います。どこまでも続く茶色の砂。やがて夕陽が砂山の向こうに沈んでいきます。二人のナガーイ影を作ってくれたモニュメントバレーの夕陽も感激でしたが、一桁いや二桁もスケールが違います。そして陽出る国の日本でみる二見が浦の景色を思い出しながら陽沈む国の砂漠の夕陽は誠に感無量。ま二度とこんな時間を過ごすことはないでしょう。翌朝この砂漠の朝を散歩しながらもう一度この砂漠の雄大さを実感したのでした。

  マラケシュからフェズへ飛んで後半はモロッコの歴史の旅。フェズは新市街のホテルに泊まってこの日の午後はホテル周辺の散歩。新市街は欧州の街とほぼ同じ。しっかりした道にトラムが走り高級店舗が並んでいます。翌日タクシーでお目当ての旧市街メディナへ。まずフェズの西北、小高い山の上にあるマリーン朝の墓地へ。ここから一望の城壁に囲まれたフェズ(旧市街)は、なだらかな丘陵の上に波打って、この中にごちゃごちゃした迷路街があるとは思えない様子でした。マラケシュの迷路街で経験を積みましたので今回はガイドなしに歩いてみようと一人で緑の美しいタイルで装飾された入口のブー・ジュルード門をくぐりました。世界遺産にもなっている1,200年前につくられた街。1,200年まえといえば平安京の時代。そちらは朱雀大路が真ん中を貫いたすっきりした街づくりなのにとこのごちゃごちゃに呆れながら両側の店を覗きました。一番奥のサファリーン広場まで歩いて、その脇にあるカラウィンモスクを外から眺めて引き返しました。

  先の入り口の門に近いダール・バトハ博物館はこの国の歴史を示す、コーランの写本や装飾品、生活品などが並べられて想いを1200年の昔に走らすことが出来ますが、庭はこの建物の持ち主が天国の楽園をイメージして作ったものとか。これも頼道の平等院の庭と比べて宗教が違うと楽園のイメージも全く違うネとの感を深くしたものです。一日ぶらぶらとこの迷路を歩いて無事ホテルに帰着しました。

  翌日以降はメクネスに宿を移して、街とその郊外にあるヴォルビリスの遺跡を訪ね、カサブランカ経由でパリに帰着しました。これまでに訪ねた米国や欧州の国々、キリスト教国とは全く違う雰囲気、アラブとイスラム教の雰囲気。世界は、地球は広いなあと満身で感じた一週間でした。
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斎藤さんのお話

COVID-19考/齋藤 嘉博

  コロナが止まりません。天城峠を散歩したのは一昨年。昨年は四ヶ所の散歩を計画していました。
  その一は谷川岳。天神平までリフトで上がり、保登野沢コースを谷川温泉へ下ろうと言う魂胆。次は妙高高原。小学校の折、クラスは夏休みにこの高原で合宿をしたのですが、病弱の私は欠席。その想いが残って赤倉高原と苗名の滝を訪ねたい。さらに八丈島と知床半島。どちらも素敵な海の景観。しかしコロナでまだいずれも果たされていません。京都にも行きたいし、日々計画を練り直しながら一体いつになったら旅に出られるんだアとぼやいています。

  小生の前回(‘20.8.01)のコロナ考について、小林兄は海外のコロナ事情を紹介していただきながら日本の報道が過小評価になっていることを懸念され、“この恐れが杞憂に終わればよいが”とコメントしてくださいました。お説の通りに杞憂ではなく現実となりました。その後年末からの感染拡大は諸兄ご承知の通り。

  今日からやっとワクチンの接種がはじまってすこし終焉への明かりが見えてきたように思いますが、そのなかでのオリンピック!!健康と命が大切と準備され、アスリートたちの気持ちもわかりますのでお祭りはしてみたいところ。特にパラはあの身体でよくと尊敬の気持ちを禁じえません。命と健康を守るために準備は万全と言います。万全は結構ですが原発の事故も津波には万全のはずでした。水際対策も果たして。日産のゴーンさんが何の苦も無く抜け出る検疫です。ウィールスがすり抜けるなんていとも簡単。イギリス株、インド株、ブラジル株などのオリンピックなんていうことにならなければいいがと。これも杞憂に終わればいいのですが。

  コロナの蔓延で見えたことはこの社会が「遊び」で満たされていることへの驚きです。経済的に損失を被ったのはディズニーランドも旅行業者も、飲み屋もすべて遊びの話。旅の世界と食の世界なのです。経済の回復はK字形だそうで自動車、電機、製造業はあまり被害を受けずに上昇気流、しかし旅とレジャーの世界は急降下。

  この“遊び”について前回のコロナ稿にミミクリ、イリンクスなど異様な言葉でご紹介したロジェ・カイヨワの本、遊びと人間(Les Jeux et les Hommes)を読み直してみると今の社会を見通したかのようななかなか味のある言葉が並んでいるのです。

 ・遊びは何も生産しない。

 ・遊びとは容易に構成しがたい諸力をうまく組み合わせる術である。

 ・遊びは特定の職業の訓練をするのではなく障害を克服し困難に立ち向かう能力を高めることによって人生全体への案内役をはたしているのだ

 ・遊びが満ち足りた想いになるのは周囲の人たちを巻き込む反響をうんだ時だけである。

 ・競馬場やカジノが人であふれているように、人波でおしあいへしあいするのが楽しみなのだ。

  そういえば昨今のライブステージはみんなグループでおどっていますネ。ウィールスも“密”がお好き。そして歯車の遊びに言及して

 ・ある機械装置をうまく機能させるのはさまざまの部品の間に存在するこの遊びなのだ、

  近頃のテレ社会ではあまり見なくなった歯車ですが、古い技術者の私たちにとってはよく理解できる言葉です。この本が書かれたのは1958年(初版)。日本ではまだ遊びとは遠い日々が続いていた頃でした。皆がはやく再び遊びに浸ることのできる日々になってほしいものです。