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斎藤さんのお話

高尾山/齋藤 嘉博

  眼に眩しい新緑、爽やかな風、青い空。日本では最高の季節の今、コロナが止まりません。敵は技術革新を進めてつぎつぎと新しい武器を作って変身している様子。一方防戦の側はワクチンもままならないなかで不要不急は避けて、どこにも出ないで家にいて、お酒はやめての灯火管制。と言っても働き盛りの方達が家に籠るのは無理というものでしょう。すべて一年前のgo to政策のむくいです。しかし老い先短い身体、ぼんやりと過ごしてばかりはいられません。コロナを避けて不急不要の散策を考えるのもボケ防止への一計。
  なるべく電車の混雑を避け、時刻を選んでとの思案。昨年から高尾山のハイキングに興味を持っています。高尾山は国定公園、山頂から何本ものしっかりしたハイキングコースが用意されていて年寄りでも歩くことのできるのが嬉しい。歩かれた諸兄も多いと思います。

  我が家からは京王電車を使って1時間余で高尾山口に。通勤時間帯、逆コースの電車は空いています。標高200mの清滝駅からケーブルカーで470mの山上駅まで上がって猿山の公園を左に見ながら舗装された薬王院への参道を。浄心門をくぐるとその先に男坂と女坂への分岐。男坂は108段の石段でこれはきつい。右にぐるっとまわるのが女坂。これもかなり急な坂道ですが休み休みあがれば同じところに出ます。

  薬王院の下にある小さな広場では二体の天狗様の像がお出迎へ。お参りをしてここから山頂まであと20分。標高599.3m、の山頂には下から歩いて登ってきた何人かの若い方達が。西に富士山を望むことが出来ます。
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  山頂からは1号路から6号路、それに稲荷山コース、いろはの森コースと8本のハイキングコースが用意されています。これを歩いてケーブルの下駅まで降りるのに若者の脚でいずれもほぼ100分。わたしの脚で二時間弱。コースは急な下り道、木桟道など整備はされていますので安心して歩くことが出来ます。

  昨年はまずいろはの森コースを。この道だけは山の北側に下りる筋で、山頂に近い降り口から木の階段がしばらく続く非常にきつい急坂。それ以降も杖が必要な急な坂道が続きます。日影キャンプ場を過ぎればもう坂道も終り。JRの高尾駅と相模湖駅を小仏峠を越えて結ぶ旧甲州街道の日影バス停に出ることが出来ます。

  1号路、薬王院への表参道は都道。舗装されていて車が通ることができますが、かなり急な坂道で、下りはかえって歩きにくい。景色もあまりないし、つまらん道です。しかし途中、ちょっと本道からそれたところに金比羅神社のお社があって、八王子方面の展望台になっています。ここでランチをという次第。

  3号路はカツラ林コースで山頂から表参道途中の浄心門まで。下には降りません。それだけに急な坂道は山頂に近いごく短い区間だけであとは軽いアップダウン。林の中の歩きやすい散策道。この道を歩いたとき、後から来た老ご婦人が話しかけてきました。「おいくつですか?私お会いした方々のお年を伺うのが楽しみなんです」と。お元気そうな方で私は八十七才なんですがと言われる。「さてずいぶん長く生きているのでもう齢は忘れましたが昭和三年生まれなんです」と返事をしましたら、「あら!もう90歳以上!お声をかけた方で90歳以上の方は初めてです」って。すぐ計算ができるなんて、このご婦人はずいぶん達者です。しばらくお話をしたあと軽い足取りで先に歩いて行かれました。いつまでもお元気に歩かれますように。

  6号路のびわ滝コースはむかし子供と一緒に何回か歩いた記憶がありますが、今年はじめは道の補修中で歩くことが出来ませんでした。たくさんあるコースのなかでは一番人気のあるコースで、修復も終ったようですので近いうちに歩いてみようと思っています。その道にほぼ平行して尾根を歩くのが稲荷山コース。それほどきつくはない下り道に折々軽い上がりがあって快適なハイキングコースです。途中稲荷山の展望台では南に開けた展望を楽しむことが出来ます。

  4号路は山頂付近から一旦北側の谷に降りて吊り橋を渡り、ここから山道を上がってケーブルの山頂駅付近に出る道ですが、その上りを嫌ってまだ歩いていません。しかし距離は短いのでゆっくりと時間を採って歩けばいけるだろうと、吊り橋の感触をこれからの楽しみにとってあります。

  帰りは再び高尾山口から京王電車で。2時ごろの電車はガラガラですのでコロナの心配もなく気分よく一日を終えることが出きるという次第。行きたいところ、歩きたいところは沢山あるのですが、とにかく早くコロナが終息してくれないと動きが取れませんネエ。諸兄お元気にお過ごしくださいますように。

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斎藤さんのお話

ザイオン国立公園/齋藤 嘉博

  ブライスキャニオン国立公園のゲートから50マイルほど走って、トンネルをくぐり急な坂道を下りたところがザイオン国立公園の入り口。昨年の稿(12/01)にご紹介したアメリカの国立公園訪問者数では5番目の国立公園です。私にはこの“地味な国立公園が5位?”とちょっと意外。諸兄のなかでもここを訪れた方は少ないのではないでしょうか。
  公園のオフィシアルロッジはどこも半年以上も前に満員になるのが常で、私共も一晩の宿しか取れず、あと二日はゲート直近のモーテルに。ロッジの前を流れるバージン川の前も後もそそりたつ何百メートルもあろうかという高さの崖の下。しかし山の中の澄み切った空気がすっかりと胸の中まできれいにしてくれました。
  公園内はドライブ禁止。その代わりに二両連結のバスが頻繁に走って主な観光地点へと運んでくれます。この公園の眼玉はエンジェルスランディングへの登山と水の中をジャブジャブと歩いて行くナローズ。
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ザイオン渓谷
エンジェルスランディング
への鎖場
ナローズへの川歩き
  一晩を暖炉の前で過ごして翌朝、バスに乗ってエンジェルスランディングへ。かなりの山道を歩いて到達したランディングへの入り口からは鎖にすがって上がる岩場。上までと張り切ってしばらく上ったのですが、行きはヨイヨイ帰りはコワイ。これは装備も体力も十分でない我々にはちょっとヤバイと頂上を見上げながらあきらめて引き返し、別のハイキング道を歩くことにしました。片側は切り立つ崖、反対の側はバージン川の流れる切り開かれた谷の景色。道端には沢山の野草やサボテン、そしてミュール鹿。崖の上の方、どこからか水が落ちてきています。ウィーピングロックという名前が気に入りました。カナダのロッキーにも同じ名前のものがありましたっけ。オブザーベイションポイントからは先ほどのバスが蟻のように。なかなか気分のいいハイキングでした。

  ロッジに帰って崖を見上げながら、なんだかグランドキャニオンをコロラド川まで下りた感じだネと家内と話をしていたのですが、それはあたっている感覚でした。その夜、ビジターセンターで買った本を読みましたら、この辺りは太古に隆起したコロラド平原。
  それをコロラド川の流れと雨風が削ってグランドキャニオンができ始めたのは古生代、ほぼ3億年も昔のこと。そしてこのザイオン国立公園は時代が下がって中生代、1,5億年前の地質の話でスケールは大分違いますが、やはり平原をバージン川と風雨が削って出来たのだそうです。ザイオン1.jpg

  お隣のブライスキャニオン国立公園の生成はさらに下って新生代、三千年ほどまえに浸食がはじまったという。いずれも気の遠くなるようなお話しですがこうしたことをはじめに学んでいれば、先ほどのハイキングの景色に中世ジュラシック期の感触を味わうことが出来たのかもしれません。やはりちゃんと予習をしておくものですネ。

  翌日はもう一つのポイント、ナローズへ。バスの終点、テンプルオブシナワバから10分ほど川沿いに歩いて川床へ。そこにちょっとした人だかりが。「アレ、大きな蜘蛛!」と私が口にしたとたんに隣のおじさんが「いや、これは蜘蛛ではなくてタランチュラだよ」と。そうですよネ。蜘蛛なんていう大きな分類ではなく次の科の名前での知識。小さいときからの教育でしょうか。しばらくタランチュラのダンスを見ながら子供のころからの教育の大切さを考えていました。

  さて目的はナローズの探検。ここから川のなかを30分ほど歩くと両腕を延ばせばとどくほど高い両岸の岩が狭く迫っているところ。若い人たちが次々と水の中を歩いて行くのですが、ジャブと入ってみるとけっこう冷たい。それに水濡れの後始末も考えると、昨日のエンジェルスと同じようにこれはとても装備と体力が十分ではない我々素人の歩く川ではなさそう。行ってみたいという気持ちとやめた方がという気持ちが交錯してしばらく川面を眺めていましたが、やはりヤメタ!ダメですネエ。オトシですネ。でもしかたがないでしょう。若い方達が楽しそうに水の中を歩いて行くのを見ながら、なるほどこれなら訪問客の数が多いのも頷けると納得したのでした。

  この旅、実はブライスキャニオンを訪ねることが目的で、せっかくの機会だからお隣のこのザイオンを訪ねてみようと思い立ったもので、予習不足、準備不足。それでも大変楽しい、勉強になった200310月の3日間でした。ブライスキャニオンについてはまたいずれ稿をあらためて。ザイオン7.jpg
ザイオンの印象

  写真はビデオからの再撮像ですのでよくありません。ネットで「ザイオン国立公園」とインプットするとなかなかよい動画をUチューブで見ることが出来ますので是非覗いてみてください。

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斎藤さんのお話

不急不要で過ごしたお正月/齋藤 嘉博

  年末には都の感染者数は1,000を越えて、とても「明けましておめでとう」なんて言う雰囲気ではありません。年末のうちに明治神宮、高尾山の薬王院、それに毎年恒例の西向天神社への初詣をすまして、徘徊もままならない時間を過ごしたお正月でした。
  そんな時に娘が「これお年玉」とAIR VEHICLEと名付けた組立てパズルをもってきてくれました。細かく指を使う作業で、私がボケないようにとの想いか、あるいはボケの度合いをチェックしようと思ったのか。
  物作りは積み木に始まって子供の時から頭と手の運びを訓練するのに格好の遊び。このブログのお仲間にはアマチュア無線の大家もおられますし、工学部を選ばれた諸兄は昔からさまざまなものの工作に挑戦されたことと思います。鉱石ラジオから始まって戦時中はもっぱら並四。戦後は中間周波一段、二段のスーパーを発振に悩みながら配線を工夫。6インチのブラウン管を使ったテレビまでも組み立てたものでした。一世を風靡したプラモデルの時代には飛行機、船。鉄道模型はいつの世にも子供から大人まであこがれの対象でした。
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  このAIR VEHICLEは厚さ1.2mmの薄板三枚を糊付けにしたしっかりとした板に100点あまりの部品をレーザーカットし、それを羽目あわせて出来るもの。精度は1/100mm以下でしょうか。パズルと書いてあったのも気にいりました。MG4.jpg
 
  単なる組立て模型ではなく知恵の輪のような複雑な組み合わせ。写真にみられるように上部は飛行船風。下部の船内にはゼンマイを内蔵し、可動部分も多いのでインストラクションには「The product is for people who ages over 14」と書かれていましたが90歳以上も無理かナと思いながらスタート。なるほど部品の勘合はしっかりとしていてかなりの力が必要。ペンチを使わないと正確な接合になりません。上部、飛行船風の部分が出来ると一息。下部の可動部分の組立てには金属の細い棒などが必要で、それに軸受けを正確な長さで止めるための治具まで付属していました。5日間、延べ10時間ほどで完成。出来上がってみるとなんとなく未来的、ゼンマイを巻くとプロペラを廻しながら外輪の回転でゆっくりと動きます。ジブリのアニメに出てきそうな感じ。これに乗って宇宙にでも行くかと夢をみながら正月をすごしました。
  一方年末、私は新宿の東急ハンズに出かけて正月の時間つぶしになにか面白いものはと物色。6階のバラエティ売場には様々の模型などが並んでいます。眼にとまったのは小型のジグソーパズル。
  もうずいぶん昔、エバグレーズ国立公園のビジターセンターでフラミンゴ、サギ、ハクトウワシそれにワニなど、この国立公園に遊ぶ沢山の水鳥をあしらった直径50cmほどの円形のジグソーパズルを買ったのが初めての経験。それ以来アメリカで国立公園に行くと折々パズルを買ってきたものでした。MG5TR.jpg
  齢をとると面倒になってここしばらくジグソーから遠ざかっていましたが、並んだ品を眺めながらこれこれと選んだのがなかで一番複雑な絵と見えた、ガウディのサグラダファミリアをデザインしたミニジグソー。このパズルの世界もレーザーカットの技術導入で一片の大きさがぐっとちいさくなって、出来上がり340x225mmの枠内に1,000ピース!一片の大きさは76.5mm2で旧来のジグソーのほぼ1/6の大きさです。これを手に入れて家内にプレゼント。私にはとてもこうしたものに手を出す勇気はありません。やはり女性は忍耐強い。一片が小さくなっただけ空など色の変化がない部分での勘合が大変難しいと言っていましたが、作り初めて二週間ほどで完成。こちらもまだあまりボケていないようです。
  こうしてこのお正月をすごしました。コロナの感染が始まって一年。最初から「不急不要の外出は自粛して」との掛け声でしたが、不要な外出ってあるかナ。なるほど他人から見ればパチンコも酒場での一杯も不要のことと思われるでしょうが、本人にとっては健康のために、ストレス解消、明日への活力のために必要な外出であり会合。私の徘徊も傍目に見れば全く不急不要。でもやはり健康のため、ボケ防止のために必要な徘徊なのです。その定義は全く不明。昔の「欲しがりません、勝つまでは」を想いださせるもので、若い人たちがなかなか従わないのもうなずけます。ワクチンの接種が待たれますが行先にはまだまだむずかしいことがまっているでしょう。早いこと終息して自由にあちこち歩ける空間がほしいのですがネエ。
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斎藤さんのお話

ロッキーマウンテンNP/齋藤 嘉博

  前稿でご覧に入れた米国国立公園の訪問者数が二位のグランドキャニオン、高橋兄からゴルフをしたとのコメントを頂きましたが、大峡谷を越えるナイスショットをしたら気持ちがいいでしょうネ。
  その次の三位はロッキーマウンテンNP。ここはアメリカ大陸の屋根、great divideを含む壮大な山岳公園で多くの方が訪ねるのもうなずけます。コロラド州のデンバーに近いこの公園は山脈の東にグレートレイク、西にエステスパークと二つの玄関口を持っていて、その間にある12,183feetの峠を立派なTrail Ridge Roadが結んでいます。米国内での通り抜け道路としての最高峰。嘗て小林兄がここを走破されたとコメントにあったと思います。壮大な山を見渡しながら走れば最高の魅力でしょう。西のグレートレイクに4泊して峠をドライブし、エステスパークで4泊をしながらゆっくりと山の展望と高原を楽しもうというのが私のプランでした。昼過ぎにデンバーに着き、車を借りて標高8,500feetのグレートレークに到着したのはそろそろ陽が落ちようという頃。
  予約したモーテル、ベストウエスタンの部屋に荷物を置いてさて湖を散歩と思いましたら、家内が「頭が痛いので行きたくない」と。それなら私だけでと小さな街を抜けて湖岸を散歩。ジェネラルストアで夕食を買ってモテルに帰着。買ってきたアイスクリームを食べた家内はそのまま寝てしまいました。ま、軽い高山病だろう、明日になれば高度に馴れてすっかり良くなるさと多寡をくくっていたのですが、夜中にアイガーの山中と思われる岩山道でスノーボードに男を載せて降りてくる数人のグループに出会った夢を見ました。どうしたのと尋ねると「この男、高山病で参っちゃってネ、高山病はとにかく早く低いところに下りなきゃいかんのでおりるところサ」と。そうか!とこの夢に教えられ、夜が明けるとモテルのカウンターがあくのを待ってあと三泊の予約をキャンセルし、早々に車をとばして高度ほぼ3,000feetのデンバーの街に下りました。
  デンバーに着いてホテルの部屋に入った頃には家内の頭痛もほぼ治まって、夕方には「街を歩いてみない」とまで回復。やれやれと翌朝、旅行の保険で指定されたクリニックに行き診察を受けましたら確かにHigh Altitude Sicknessと診断され簡単な薬をくれました。頂いたシートには This sickness can progress to stupor, coma and death. The most effective treatment is oxygen , rapid evacuation to a lower altitude. と書いてありました。なるほど夢の通り。
  一件落着。三泊をデンバーで過ごしたおかげで予定になかった街の博物館や名所を訪ねることが出来、次のエステスパークのモテルに行くことが出来ましたが、ここの高度は7,500feet。こちらを先にすればよかったのでしょうネ。私の計画ミス。 
  エステスパークでの4泊は順調でした。朝五時半に起きて車で付近を散歩。
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写真1:朝の散歩
写真2:朝の山稜
写真3:FC展望台
  陽が上がってくると青黒い雪山が次第に赤みを帯びてきて林の中ではミュール鹿の一行が朝食を採っています。RM4.jpgRM5.jpg
写真4:Fern Lake付近写真5:Lily Lake
  モレーンパークは昔のモレーン湖(上流からの土木石が堆積した池)でしょう。広いのんびりとした草原。高山の花が沢山咲いていました。奥の方、Fern Lakeのあたりまで入っていくと六月というのにまだ雪が大分残っています。もちろん前述のTrail Ridge Road にも上がってみました。最高峰の地点まで行くのはちょっと躊躇しましたが、このくらいなら大丈夫かとすこし手前、11,500feetのForest Canyon展望台までドライブ。ここでロッキー山脈の雄大な姿を満喫することができました。最終日にはいくつかの池と滝を散策。当初計画のTR Roadの最高点をドライブすることはできませんでしたが、夢のお告げのお陰で無事山岳自然満喫の旅を終えることが出来てシカゴに向かいました。2011年6月のことでした。
  病と火は小さいうちに始末するのがベスト、上記のハプニングではそれを実感しました。二匹のウサギを追っても得ることは少ない。go to なんとかはウィールスに餌をあたえるようなものでしょう。今日11日、東京の感染者数は621人。痛手は大きくなるばかりなのですがネ。

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斎藤さんのお話

アメリカの国立公園/齋藤 嘉博

  
  コロナで家を出ることが憚られる毎日。“地球の歩き方”のうち「アメリカの国立公園」を読みながら昔の旅を想い出していました。
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  アメリカには58の国立公園がありますがそのうちの8件はアラスカ州。ここには昔アンカレッジ経由で欧米に飛んだときに飛行機から望んだマッキンレー山を擁するデナリ国立公園などすばらしいところがあるようですが、なかなかここまで行く勇気は出てきません。他の50件は広いアメリカのあちこちに作られています。
  “歩き方”によればこれらの国立公園の入場者は表のようになっているそうです。ダントツのグレートスモーキーNPはノースカロライナ州とテネシー州にまたがる公園。YNP 02.jpg
  私は行ったことがないのですが、目立ったモニュメントはないけれど森林のなかにハイキングコース、キャンピンググランドなどがよく整備されていて、ニューヨーク、フィラデルフィア、ワシントンなどの大都会からI-81を使えば比較的近い。したがってバケーションには多くの方がキャンピングカーを連ねることになるのでしょう。

  訪問者を日本人に焦点を当てるとどのようになるのでしょうか。私の推測ではやはりまずグランドキャニオンが1位。なんといってもネームバリューがありますし、交通の便もロスアンゼルス、ラスヴェガスから飛行機、バス。さらに園内まで鉄道も通じていますから。2位は?ヨセミテかナ。日本人の訪問客が多いハワイは?以前はハワイ島という一つの国立公園でしたが今はマウイ島のハレアカラとハワイ島のキラウェアに分かれています。諸兄は前述の十公園のうちいくつの公園を歩かれたでしょうか。

  米国の国立公園はどこもビジターセンターが大変整備されていてその公園の細かい情報を知ることができるのが魅力ですし、いわゆるお土産品だけでなく、かなり高度の専門書も用意されているのが素敵です。YNP 03.jpg

  レンジャーの活動もホントウニ立派。そしてのびのびとした広さとそこに生きる動物たちの姿が嬉しい。たとえば国立公園発祥の地であるイエロストーンNPはワイオミング、モンタナ、アイダホの三州にまたがり面積は220万エーカー、約9,000Km2で四国のほぼ半分、東京、神奈川、埼玉の三都県をあわせてもまだ足りません。

  この広い地域は地質学的に特徴をもつ五つの区画に分けられています。この公園でもっとも有名なオールドフェイスフル、1時間に一回、高さ100mの噴出を繰り返す間欠泉があるのはガイザーカントリー。YNP 04.jpg
ガイザー・オールドフェイスフル

  その周りには沢山の人がすばらしいショーを待っていて噴出の時にはオーと咆哮、拍手。もうお年齢のガイザーですが元気なものです。この地区にはほかにもたくさんのガイザーが。なかでもグランドガイザー、キャスルガイザーは噴煙100mには及びませんがなかなかの噴出口。しかしいずれも噴出の周期が20時間ほどですのでなかなか噴出がみられない。したがって多くの観光客はここをすっと素通りしてしまうのです。私たちは運よくそのキャスルの咆哮に出会うことができました。すばらしい光景でした。

  ここでのもう一つの私のお目当ては西北のルーズベルトカントリー。川岸の平原に遊ぶバイソンが見もの。東京科学博物館の三階にある剥製群のなかでも髭もじゃの、かっこういいバイソンはヨーロッパバイソンでした。こちらはアメリカバイソン。YNP 05.jpg
バイソン

  みかけはほとんど変わりませんがやはり剥製と本物では迫力が違います。草原のような河原でのんびりと草を食んでいる本物、しかも沢山の群れを眼じかに見ることができるなんてすばらしい光景でした。そう、今年はフロリダ州で多くの山火事が発生して被害をもたらしましたが、この公園が山火事に会って壊滅状態になったのが1988年。8年ほど昔のことでした。まだ一部には焼けただれた木々の林が残っています。しかし10年経つと自然も次第にもとに戻ってきます。公園内には “Bears Return!!”とあちこちに公園の復活を喜んだ張り紙が掲げてあったのが印象的でした。

  マンモスホットスプリング地区は別府地獄の数百倍の広さ!棚田のように広がって硫黄の匂いがたちこめる中を桟道が巡っていてその景観を楽しめる。この地区にあるホテルのバンガローに泊まって公園を楽しんでいたのですが、ある日ランチで鳥の手羽を甘辛く煮たバッファローウィングを注文。YNP 06.jpg
マンモスホットスプリング

  モンタナから来ているという可愛いウェイトレスに、「イエロストーンではバッファローに羽根が生えているの?」と問いましたら、さもおかしそうにケッケッケエと大きな高い笑い声を残してキチンに入って行きました。すごく印象に残っています。

  イエロストーン湖を含むレイクカントリーではもうすぐ岸に近い水の中から高温の温泉がわき出してそのあたりはお湯の湖。魚が温泉を楽しんでいましたっけ。その湖から流れ出すイエロストーンリバーにかかる上、下の滝も水量が豊富で滝つぼ近くのビューポイントまで降りることができて壮観な印象。

  この公園で5泊をし、その翌朝、お隣のグランドテットンNPを抜けてソルトレイクまで走り、ここからニューオリンズへ飛んでコンピュータ映像の学会SIGGRAPHに出席しました。公園内での走行870miles1996年7月のことでした。

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斎藤さんのお話

おじいちゃん/齋藤 嘉博

  過日従弟のS君から「こんな記事を見つけました」とメールがありました。私のおじいちゃんが理事をしていた帝國飛行協会の会報の大正十一年正月号に寄稿した「夢に見る空中旅行」という記事です。まず概要を旧仮名遣いのままご紹介しましょう。

  【今年の新年は此頃開通された東京小田原間の飛行旅行を試みる為め、元日の屠蘇を祝ふや否や芝浦の日本航空輸送会社の東京発着所に駆け着けた。余は此会社のパッスを有って居るから満員なるにも拘らず直ちに乗込むことができた。賃金は東京小田原間片道が五圓、往復が八圓、汽車賃の二等に較べて約二倍であるが、時間に於いては約四倍の利益があるから急ぐ人には嬉しい。(中略)この輸送会社、客も漸次増加してこの頃は二梃宛午前、午後の二回の往復にも拘わらず常に満員の盛況なのは航空機の価値が一般に普及した徴候で誠に喜ばしい次第である。
  艇内は二列に籐椅子が五脚宛配列されて操縦士を含めて十三人が乗り込んでいる。後尾には喫煙室や便所があり、其上無線電信の装置があるから飛行中自在に通信が出来る。陸上の無線電信所は高大で而も煩雑な装置を要するが、飛行機では之が意外に簡単である。中径二十珊位の巻枠から垂鉛を附した長さ百米突許りの針金をくるくると垂下せば、これで受信が出来、中径同じく二十珊位の砲弾形の電気モーターの頭部に小さなプロペラを装着すれば強力な電気が起こって之を利用して発信できる。(中略)窓から外界を望めば彩色地図を観る如く、盆景を観る如く愉絶快絶真に羽化登仙して蓬莱に遊ぶの感がある。東海道の宿駅は次から次と活動写真の様に矢継ぎ早に展開する(中略)。小田原着水場が向ふに見える。富士は白扇を倒まにして雄姿を誇り、汽車は黒煙を棚引いて後方に疾走する。餘りの勝景に心を奪われ艇掌から窓外に頭部を出す事を差し止められて居るのも忘れて、うかと窓から頭を出した……と思う間もなく首から上が寒風に吹き飛ばされそうになって思わず…アッ—…と大聲を発した……此の一刹那に目が覚めた。(後略)】

  注;水上飛行機の絵は文に添付のものではなく私のイメージです。おじいちゃんは多分もう一回り大きい、双発の飛行機を考えていたのではないかと思います。

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水上飛行機の絵
  私は最初タイトルも見ずに読み始め、すっかりこの文に引き込まれて、そうかこの時代に芝浦と小田原の間に飛行便かアと以前バンクーバーで飛んでいたゲタバキの水上遊覧飛行機を思い浮かべながら読んでいました。が最後に夢!なるほどと私も夢が覚めた想い。

  このお爺ちゃんは1871年、明治4年の生まれで陸軍の軍人。日露戦争に乃木将軍のもとで二○三高地の戦いに加わり金鵄勲章をもらっているのです。折々母に連れられてその実家を訪れているのですが、みんながするような膝に上がって甘えるなんていう記憶は全くありません。いつも奥の部屋で怖い顔で何かをしていると言った印象。それでも退役後の仕事の一つとしていた印刷会社では講談社の仕事をしていた関係で少年倶楽部が数日早く手に入る。それをもらうのが大変な楽しみでした。私が中学一年生の折、お爺ちゃんは丁度七十の古希で、お祝いがあったのを覚えています。だいたい私がお酒を飲めないのも、左利きであるのもこのおじいちゃんの遺伝なんです。

  先の文、夢物語に託しながら飛行機による交通の未来論を述べているのですが、私が気にとめたのは空中アンテナのくだり。大正11年、1922年と言えばまだラジオ放送もはじまっていない時代に、軍人で専門でもない事柄をこれだけ書くのはよほど無線交信に興味があったのに違いありません。そしてハタと私が電気工学科に入ったのもこのお爺ちゃんのDNAがしからしめるところだ!と思い当たったのです。私の父は経済の畑で仕事をしているのになぜ私が電気工学を目指したのかというのは昔からの疑問でしたが、この文を読んで長年の難問が解けた!

  左利きの件などフィジカルな遺伝がDNAの組み合わせで出来上がっているというのはこのところの定説になっていますし、DNAを読めば顔形を非常に正確に再現できるのだそうですが、メンタルな部分にまでDNAの制御が行届いている?のかと思ってびっくりしたのです。昔は親の職業を継承するのは当たり前。歌舞伎にしても舞踊にしても家元がつないでいますし、鎌倉時代の三代の名仏師、康慶、運慶、湛慶なんて見様見真似で職を継いでいると思っていたのです。蛙の子は蛙と言う故事がありましたっけ。 “蛙は孫も蛙”と言ってもいいでしょう。あらためて祖先の大切さを思い知ったのでした。ただもう一歩考えてみると、戦時中に友人が陸士、海兵と言っているときに私は一度も軍人になろうとは思っていませんでした。このDNAは? 人間て全く不可解です。でも今年のお彼岸には久しぶりにお爺ちゃんのお墓参りをしようと思っています。

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斎藤さんのお話

観光時代/齋藤 嘉博

  前稿に小林兄から頂いたコメント、「大本営、大政翼賛会」と、なるほど言いえて妙ですネ。そして「東部軍管区情報、B29百機が大子上空を西南に飛行中」のラジオを聴きながら灯火管制の暗い部屋のなかでじっと耐えた頃を思い出しました。
  今の「マスク」はさしずめその時代の防空壕といったところでしょうか。そして焼夷弾ならぬコロナ菌の雨。でもこうした比喩を理解できる人も少なくなりました。
  コロナを恐れての灯火管制、外出自粛で一番大きな痛手を受けたのは観光業界のようです。広い駐車場にお客のないバスが並び、空港に飛行機が並んでいるのを見るとこのパンデミックの脅威についての実感がわいてきます。
  イリンクス、遊びの中でも旅は身体にも頭脳にも心にも大切なひと時。日常の生活から離れての時間。このブログ欄にもたびたび諸兄の海外旅行のお話を読ませて頂きました。大橋兄が大きな荷物をもってあれだけの旅をするのは大変。あらかじめの計画もトーマスクックやミシュランと格闘をして組まれたものと思います。私のアメリカドライブにしてもランドマクナリーの地図とAAA、ハーツの地図での計画策定でした。そして実行、記録(反省)と三度の楽しみと学びを得ることが出来る機会なのですから。子供たちが夏休みも短く、修学旅行もできずに旅の経験をコロナのために逃したとき、その明確な関連を見つけ出すことは難しいでしょうが、将来の発育に大きな障害が出るのではないかと心配です。
  このところ観光はブーム。バブルといってよい状況でした。観光白書(令和元年版)によれば日本人の海外への出国数は2018年に1900万人。一人当たりの回数にすると0.14回で、世界で18位とランクは下のようですが、ランクの上位は地続きの欧州の国々ですから地の利が違います。一方外国人の訪日人数は同じ年に3,000万人をこえているのです。この数値は2014年に比べて2.4倍。そのうちの27%が中国人、24%が韓国人。日本の美を楽しむよりは買い物に血眼。瀑買いなんていう言葉ができる時代ですから、バブルと言っていいでしょう。それにともなって様々な弊害も出てきています。春、お花見の頃の上野公園には大声で騒ぐ沢山の中国人。墨堤のお花見なんていう風流はどこへやら。一昨年の春、金閣寺を訪れた折にはあの鏡湖池の周辺がラッシュ時の新宿駅のホームのような混雑でした。観光収支は大幅に2.3兆円の黒字で、お国は稼いでいるつもりでしょうが私たちにとっては迷惑至極。迷惑よりもお客さん方ご自身も十分な観光の楽しみを感じていないのではないかと思います。京都の神社、仏閣は静かな佇まいの回遊式庭園が売り物。いや感じてほしいことなのでしょう。それがラッシュアワーなのですから。
  昨年この欄でご紹介したカチカチ山の山頂にしても富士山の展望がよい場所は新宿駅なみ。しかし一歩離れて三つ峠へのハイキングコースに入るともう人気はまばら。出会ったのは日本人が数人と外国はスウェーデンから来られた若い方一人でした。観光1.jpg
カチカチ山頂の混雑
  スイス、あるいはフランス、ドイツ、チロルなどアルプス地方をハイキングしているとそのあたりの観光施設が大変充実しているのに気付きます。グリンデルヴァルトから少し下ったグルントでロープウェイに乗り、メンリッヒェンに上がってここからクライネシャイデックまでのほぼ1時間半のハイキングは初心者のためのコース。観光2.jpg
メンリッヒェンから
クライネシャイデック
  何度か歩きましたが、正面にユングフラウとメンヒの頂、左下に広がる森を見ながらアップダウンもほとんどない、ゆったりとした歩きは素晴らしい感触でした。モンブランの裾野に位置するシャモニーからも縦横に登山電車、ロープウェイが用意されていて、モンブランの優しい山姿やグランドジョラスの威容を心行くまで楽しむことが出来るのです。チューリッヒには山岳交通の様子を上手に紹介した博物館があってロープウェイやアプト式鉄道の様子を楽しく勉強することができました。
  こうしたコースを歩きながら感じるのは日本の山々を歩くのとの違いです。それは森。日本の山を歩く道のほとんどがアップダウンンのきつい森の中であるのに気付きます。アルプスにはヴァルトと名付けるところは沢山あるのですが、多くのコースは木々のない展望のよい道。したがってどこもユングフラウやマッターホルンの山容を眺めながら歩くことが出来ます。わが国でのハイキング道では展望台として作られたところ以外での見晴らしはほとんどない。その代わりに木々と落葉、豊かなフィトンチッドの香り、谷合を流れる清冽な水と滝を思う存分に楽しむことができる。
  昨年このブログでご紹介した天城街道では私の歩いた道のすべてが太郎杉の森のなかでした。観光3.jpg観光4.jpg
踊子街道杉の道踊子街道七滝
  秋田の白神山地のブナ林を歩くなんていいでしょうネ。関東近郊の軽井沢、那須、日光などには白樺を含め、木曽路には檜、サワラなど。アルプスのような寒冷地、南アジアのようなジャングルとは違った温帯地域の恵みをもっているのです。ただわが国のハイキングコース、よく出来ているのにメンテが悪い。完成したときには大変に快適なコースなのですが、しばらくすると道は落葉に埋もれてわからなくなり、道標は朽ち、橋は錆びて歩く快適さが失われてしまっているのです。ということで観光立国を目指すのでればお土産屋さんの振興も大切ですが、ハイキングコースの充実と森全体を健康に保つためのメンテナンスに力を注ぐことが必要でしょう。

  しかしとにかくコロナが納まらないと何処にも出かけることが出来ません。と家で文句を言っているこの頃です。
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斎藤さんのお話

コロナウィルス/齋藤 嘉博

  コロナのお陰で徘徊もままならず、日々退屈をしています。諸兄はどのようにおすごしでしょうか。日本では数少ない良い季節、新緑に映える季節にStay Homeなんてまったく色気がありませんでした。
  昨年は天城を散歩しておりました。今年は妙高の高原を散歩したいと思っていたのですが、とてもコロナの猛威にはかないません。それでもと“密”を避けながら日本三奇橋の一、猿橋に出かけて橋の木組みと渓谷の流れを楽しみ、あじさいの道を散歩してきました。コロナ1.jpg
桂川を越える猿橋
  先の5月なかば、15日は葵祭の日でしたが御所車の行列は取りやめ。さぞ紫式部は嘆いていることでしょう。そして8月の祇園祭も山鉾の巡行も宵山もとりやめ。もともとこうしたお祭りは怨霊の災いを納める催しでした。今私の手許に「京都<千年の都>の歴史」という本(岩波新書、高橋昌昭著)があります。平安京の時代に疫病で皆が大いに苦しんだ折、その蔓延を防ぐために各種の神事、祭礼、法会が繰り返され、亡くなった人の怨恨を慰めるために御霊会が開かれたと書かれています。京都三大祭りのうち葵祭は加茂の神の祟りで生じた風水害と凶作を鎮めるために始めたお祭り、祇園祭は疫神でかつ疫病を除く神である牛頭天王をお慰めする祭、北野天満宮は菅原道真公の恨み怨霊を治めるためのお社。
  疫病神のお祭りを一層盛んにしなくてはならないときにお祭りの縮小は少し政策が違っているのではないかナ、全国民に10万円を配るよりもこれを神様にお供えしてお祭りを丁寧にするのが大切なんだがナ、(国家が宗教行事をすることはできないのでしょうが)なんて思いながらこのところの感染者数の推移を見ています。コロナ2.jpg
7月24日の
NHKテレビから
  いや確かにこのパンデミック、神の祟りかもしれないのです。人類はこれまでに技術進歩、快適な生活、経済活動の繁栄などの理屈をつけて自然をすっかりと破壊してきてしまいました。気候温暖化、近頃の大雨もその象徴でしょう。蝶々、とんぼ、それに蝉の姿も見る機会が少なくなりました。この神の怒りを治めるのにどのようなお祭りがいいのでしょうか。ほんとうにもう一度阿部清明に頼んで神泉苑で御霊会を行うのが良いのかもしれません。
  この騒ぎのおかげでクラスター、ソシアルディスタンスなど、もう50年も前に勉強した言葉が、いま巷間に滋く使われています。ソシアルディスタンスという言葉は、人と人の間の関係、親密度、距離、世の中の本質を象徴している言葉なのですネ。
  70年代の前半、未来学が盛んな頃、清水幾太郎さんの翻訳でロジェ・カイヨワの「遊びと人間、Les  Jeux et les Hommes」という書が翻訳されて話題をよびました。カイヨワはこの本のなかで遊びを

アゴーン(競争);スポーツ、囲碁将棋、

アレア(運);宝くじ、カジノ、競馬、パチンコ、

ミミクリー(模擬);演劇、映画、ライブショー、

イリンクス(眩暈);登山、スキー、ジェットコースター、観光

  と分け、人間にとって遊びはなくてはならない生活要素だと説いています。不思議にこれらの項はすべて今“自粛”を呼びかけられていること。そして「いずれの遊びも孤独ではなく、仲間を前提とする」と書いているのです。いくら危ないと分かっていてもパチンコに行く、ライブショーに参加する。三密を避けろ、夜の接待はいかんといっても、そうした人間生活の本質を制限することは無理なのでしょう。単に経済とのバランスということではないのです。

  社会経済は一時低下しても不死鳥のように蘇ってきます。戦後の復興、あるいはリーマンショックも同様でした。もちろんそこには大きな犠牲あるいは社会変化があるのですが、経済が完全にダウンすることはないでしょう。そして経済よりも人間の遊びへの欲求をどのように処理しながらコロナへの三蜜に対応するかが大切だと思うのです。

  一旦「東京アラート」を決めて橋の照明まで派手に宣伝したのに、一週間後にはそんな規定はもう無理だとなると、土俵をひろげてしまうなんてルール違反です。Go toキャンペーンにしても、目の前に感染者の増加が目に見えているのにメンツにこだわって強行。東京は除くなんていう姑息な手段。世の中が順調に行っているときの政治はだれでもできるのでしょうが、こうした危急の時にこそ政治家の手腕がとわれます。結果はほぼおなじでも、go toキャンペーンを人間の遊びへの性向を支える政策という点に軸足を置いて考え、人間を中心に設計すればずいぶんと異なった雰囲気になるでしょうに。この齢のわたしでも新宿に買い物に行くことが出来ない、自然の中を散歩できないということに大きなストレスを感じているのですから。

  戦後、私が結核を患ったとき、この疫病の当時の死亡率は諸病のなかで最大でした。1949年、戦後の疲弊がひどい時期でしたので報道もどの程度され、国がどのような処置をしたのかおぼえておりませんが、東京の郊外には隔離病棟が設けられていたものです。私は幸いにもそうした療養はせず、丁度治療薬のパスが開発されてその恩恵に浴した次第。このコロナの終息も治療薬の開発が唯一の終焉への道でしょう。

  定時のニュース番組ではあまり報道されませんが、ニューヨークやブラジルの惨状を視ると胸が痛みます。この稿は25日に書いています。皆様の眼に触れる時点ではまた様子がかわっているでしょう。とにかく一日も早くコロナの猛威が終息してほしいものです。諸兄どうぞお大事に。
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斎藤さんのお話

三策/齋藤 嘉博

  医師団の強い提言にもかかわらず政策はもたもたして、コロナウィールスの蔓延が止まりません。こうしたなかで30会の延期を早々に決められた小林兄の慧眼に敬服いたします。

  ヴィールスのおかげで徘徊もままならなくなりました。昨年は1月にカチカチ山に上がって秀麗な裏富士を楽しんだので、今年は日本平からの表富士の姿を見ようと計画していましたがこの状況ではとても。こうした観光地には外国人の来訪がまだまだ多いでしょうし、途中の交通への乗車も気になります。とすると振り上げたこぶしのやり場は?満員電車には乗らない近場で、1m以内には人がいなくてと、いろいろと考えた末に散したか所をご紹介しましょう。

第一話 仙川沿い

  成城学園駅のそばを流れる仙川はその源流もあまり定かではない小さな川です。この川の川下はやがて国分寺の日立中央研究所の池に発する野川に合流し、さらに多摩川へと注ぎます。仙川.jpg
仙川
  成城駅にほど近い昔の東宝映画スタジオの脇から上流へと歩いてみました。スタートすると成城の住宅地を抜けてまもなく小田急の下をくぐります。深さ5mほどのコンクリートで護岸されたはば20mほどの川の両岸には遊歩道が整備されていて、時折ジョギングをする人、散歩をする人を見かけ、ところどころにはベンチも置かれているのどかな道がずっと北へと続いています。成城学園大学の運動場の脇を通ると住宅地。陽当たりのよい東側にはしっかりとしたマンションの窓。祖師谷公園には、休校で学校に行くことができなくなった子供たちが沢山遊んでいました。環八と仙川を結ぶバス通りを越えると川はぐっと左にカーブして烏山小学校の辺りで??駅に行くにはどのようにと通りがかりのお嬢さんに尋ねたら、わたしも駅に行きますのでご一緒しましょうと親切に。複雑な住宅地の迷路を抜けて仙川駅まで。この散歩12,000歩でした。川沿いの道は静かで坂もなく散歩には最適。過日神田川沿いに環七から井の頭公園まで、ほぼ京王電車の井の頭線に並行している道を歩きましたが、これも同じような感じのなかなかいける散歩でした。

第二話 昭和公園

  立川にある昭和記念公園は昔の立川飛行場。叔父がここで軍用機のパイロットをしていたころ、私の小学校時代でしたが訪れたことがあります。いまは国営の大きな公園になって、一隅には昭和天皇記念館も作られています。その面積165ha。代々木公園の3倍以上の広さです。西立川の駅からゲートを入るとすぐに水鳥の池。若い人たちがボートを楽しんでいました。この池を右に見ながらパークトレインも通う広い道を北へゆっくりと散策。その左に夏には子供たちで賑わう大きなプールがあります。三叉路を左にとって滑り台やのぼりジャングルのあるこどもの広場へ。ここでも子供たちが楽しそうに遊んでいました。昭和記念公園概要2.jpg
昭和記念公園概要
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水鳥の池
  こもれ日の丘を抜けて日本庭園へ。日本庭園らしく池と橋と茶屋の取り合わせ。やはり心が落ち着きます。ここを抜けて出ると、丁度走ってきた園内を走るパークトレインから子供たちが手を振ってくれました。大きなケヤキが一本ぽつんとあるだけのみんなのはらっぱを横切って、もときた西立川口のゲートへ。

  この公園には完備した自転車通路が設けられていますので次回は自転車で走ってみようと思いながら公園を後にしました。この日の歩行も12,000歩でした。東京の近郊にはこのほか埼玉県に武蔵丘陵森林公園という国営公園があります。こちらは304haで昭和公園のさらに二倍。樹木の多い起伏のある楽しい公園で日本にもこんなところがと思えるほどのよい公園です。

第三話 神代植物公園

  この植物園は家から京王電車で簡単にいくことができますのでもう何回も来ている所。バラ園が売り物で、その季節には沢山の人で賑わうのですが、不要不急の外出を控えてというお達しのあるこの頃では入場者もまばら。しかしちょうど桜が満開になっていました。神代植物園.jpg
神代植物園
  花の時期には混雑している梅園には人影もなく、残りのつばきが寂しげに咲いているといった風情。五月にはちょっと離れた水生植物園の菖蒲が見ごろになります。すぐお隣にはそばが名物の深大寺があり徘徊にはおあつらえの公園なのです。

  なお上記二つの公園は人込みを避けるために先週土曜日からいずれも休園になりました。いよいよ徘徊の場所がなくなりそうですが年寄りには普段からの運動、歩きが必要です。諸兄も工夫をしてこのウィールス禍を乗り切ってください。

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斎藤さんのお話

ライン下り/齋藤 嘉博

  大橋兄が書かれた南ドイツへの旅を拝見して、もう20年も昔のことを想い出しました。ライン下りは多くの諸兄が経験をされていると思います。ボーデン湖に発したラインの流れをマインツからケルンまで185Km、両側に古城や古い街並みそれに有名なローレライの岸を眺めながらの船旅。  
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ライン下りの観光地図グーテンベルグ博物館博物館解説書
  小生フランクフルトから電車でマインツへ。しかしこの街にはライン下りの前にすることがあったのです。それはグーテンベルク博物館を訪れること。印刷術の父として知られているグーテンベルグはこの街で最初の印刷物、四十二行聖書を印刷しているのです。10時の開館を待つ間にお隣の大聖堂を拝観してから正面にグーテンベルグの像が建つ博物館に入りました。その様子を書いた拙著「メディアの技術史」(電機大学出版)の一節を転載しましょう。

  ライン川とマイン川が合流するところにマインツという街がある。当時城壁に囲まれていたこの小さな町に印刷術の父とされるグーテンベルグが生まれたのは1397年であった。この街にあるグーテンベルグ博物館には六層になった各階に印刷に関する様々な品と機械が展示されている。その中での圧巻はやはり彼が最初に印刷したと言われる二冊の四十二行聖書であろう。花文字でぴっしりと書かれた1282ページに及ぶ厚いラテン語の聖書がそれ以前の貴重な写本と一緒に照明を制限したくらい部屋に展示されている。(中略) 博物館の下層にはがっちりとした高さ三メートルほどの木柱に支えられた、ぶどう絞りの機械にヒントを得て作られた印刷機が置かれて、そこで当時の様子が再現されるデモンストレーションが行われている。錫と創鉛の合金で活字を作り、これを組み上げた版にインクを塗る。インキは革製のタンポンでむらなく広げられ、部分的に赤いインキが塗られる。台の上に置かれた版の上にホルダーに挟んだ紙を置き、その上から葡萄を絞る要領でレバーを強く回すと二色刷りの印刷が完了する。その実演を見ていた見学者たちから期せずして拍手が沸いた。

  この拍手はいまでも耳に残っています。グーテンベルグは上記の四十二行聖書を180部印刷し、そのうちの48セットが現存しているそうで、日本にも慶應義塾大学に一冊が保管されているよし。私は以前パサディナの図書館でこれを見たことがありますが、やはりグーテンベルグの古式印刷機での刷り上がりを見た眼での心象はまた格別。そして博物館の最上層には現存する世界最古の印刷物、わが国で推古天皇の時代に作られた百万塔陀羅尼のレプリカが展示されていたのは嬉しいことでした。

  グーテンベルグの時代から600年以上の歳月を経ました。私がまだ中学生の折、家から坂を下ったところにあった共同印刷の工場ではその昔と同じように、植字工が沢山の活字箱からひとつひとつ活字を拾って版を組上げ、本が作られていました。NHKの研究所では初期の頃ガリ版刷りのレポートを書いて青焼きの報告書を作ったのを覚えていますし、また留学の前には英会話だけでなくタイプライターの使用をずいぶん練習したものでした。

  私の手元には当時のタイプライターが保存されています。文字の配列はこれとパソコンではおなじですので、その経験は大変役にたったものでした。今ではほとんどがコンピュータによる作成。字ばかりでなく絵や写真なども簡単に文の中に取り込んでプリントできるという世の中になりましたが隔世の感があります。ラインr3.jpg
懐かしいタイプライター

  この見学のために午前中発のライン下り観光船には乗ることができず、といって午後の観光船では帰りが遅くなりすぎる。というわけで12時半発ケルン行きの急行便に乗船。これはビジネス用の百五十人ほどが定員のボートでしたから、しぶきをあげて早いスピードで走ります。寄港の港が少ないのはけっこうですが、山の上にある古城も、両岸の街々も、そしてローレライの岬もあっというまに後方に飛んで。ゆっくりと川下りを楽しむなんていう雰囲気ではありませんでした。家内と「もう一度来ないとネ」と笑ったものです。というわけで川下りの船からの写真は大橋兄の稿を参照してください。

  コブレンツからの帰りは川の右岸を走る列車でゆっくりとラインを堪能。リューデスハイムで下車をしてリフトで山に上がり、ニーダーバルト記念碑(ドイツ帝国発足記念の像)の下にある展望台からラインの流れを眺めました。この辺りぶどうの産地で、山にあがるリフトからの足元は一面のブドウ畑。グーテンベルグがぶどう絞りの機械を使って印刷を始めたという事が実感されるのでした。駅までの途中の“つぐみ横丁”には沢山のワインガーデンがならんでいます。アルコールに弱い私ですが、とある一軒に入って提灯が吊るされている野外のテーブルでゆっくりとリースリングを頂きました。フランクフルトのホテルに帰着したのはもう夜更けでしたっけ。

  大橋さん、ありがとうございました。お大事に。