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武田レポート

リトアニア史余談114:コンスタンツ公会議における論争/武田 充司<br />

   コンスタンツ公会議といえば教会大分裂を終らせ、宗教改革の先駆者ヤン・フスを処刑したことで知られているが(*1)、リトアニアやポーランドの人々にとっては、この公会議で行われたドイツ騎士団との論争を抜きにしては語れない、歴史的公会議であった(*2)。
 ドイツとスイスが接する国境の湖、ボーデン湖のほとりにあるコンスタンツで、1414年11月15日から開かれていた公会議に、ドイツ騎士団の代表団が11輌の4輪荷馬車を連ねて乗り込んできたのは、その年も押し迫った12月のことであった。そして、年が明けた1415年1月には、ミコワイ・トロンバ(*3)に率いられたリトアニアとポーランドの合同代表団もコンスタンツに到着した。

 この公会議で彼らの議題が初めて取り上げられたのは1415年5月11日であった。ポーランド・リトアニア連合とドイツ騎士団の双方が文書を提出し、それぞれの主張の正当性を開陳し、相手の非を激しく糾弾した。
 ドイツ騎士団の代表は、彼らが招かれてポーランド北部に入植した当時からの歴史を説き起こし(*4)、ポーランドの平和と繁栄に如何に貢献したかを語ったあと、それにもかかわらず、ポーランドの人々は悪魔の異教徒リトアニア人と結託してドイツ騎士団に歯向かい、約束を守らず、殺人、放火、略奪などをくり返したと激しく非難した(*5)。
 これに対して、ポーランドの代表は、非人道的なドイツ騎士団の行為と武力による不法な抑圧の数々を、実例をあげて非難し、キリスト教徒であれ異教徒であれ、彼らの財産権は守られるべきで、罪のない隣人の財産を奪うことは教皇の権限を超えていて自然法に反すると断じた。また、武力に訴えて異教徒を改宗させることは、「真の改宗は“自由な選択”と不可分である」とする聖書と教会法に反する行為で、決して正当化できないと論じた(*6)。

   このような激しい論争があったあとのこの年の11月28日、最近キリスト教徒に改宗したという60人ほどのジェマイチヤ人の一団がコンスタンツにやって来た。そして、翌年(1416年)の2月、公会議で陳述する機会を与えられた彼らは、「長い間ドイツ騎士団の残虐行為に苦しめられたが、我々はローマ教会の信仰に帰依することを望んでいる。しかし、ドイツ騎士団の攻撃と侵略が続いているので、多くの者が改宗することをためらっている。」と述べたあと、「我々はリトアニア大公国の一員であり、ヴィタウタス大公に我々をキリスト教徒として受洗させる権限を与えて欲しい。」と請願した。

   こうしたジェマイチヤ人の訴えは公会議に集まった聖職者たちに大きな衝撃を与えたが、これをどう処理するかは難しい問題だった(*7)。新教皇マルティヌス5世は明白な結論を出すことなく公会議の閉会を宣言したが、そこには強かな政治的配慮も示されていた。

〔蛇足〕
(*1)ローマ教会の大分裂は、アヴィニョン教皇時代を終らせたグレゴリウス11世が亡くなった翌年(1378年)に始まった。このとき、後継教皇としてウルバヌス6世が選ばれたが、この人が粗野で尊大な独裁者あったため、枢機卿たちが彼を廃位してクレメンス7世を新たに選出したことから、ローマのウルバヌス6世とアヴィニョンの対立教皇クレメンス7世が並立する時代になったが、フランス王シャルル5世がクレメンス7世を支持したのに対して、神聖ローマ皇帝カール4世と帝国諸侯がウルバヌス6世を支持したため、当時のヨーロッパを分断する政治的対立に発展した。そして、この公会議が開かれた当時は3人の教皇が鼎立するという最悪の状況であった(「余談113:ホロドウォ会談と飢餓戦争」の蛇足(8)参照)。一方、ボヘミアのプラハ大学教授で同大学の総長も務めたヤン・フスは、イングランドのジョン・ウィクリフ(1384年没)の思想に強く影響された先駆的宗教改革の主導者だったが、この公会議で異端尋問をうけたあと、1415年7月6日に有罪宣告をうけ、直ちに焚刑に処せられた。これは1517年に始まったとされるマルティン・ルターの宗教改革より百年以上も前の出来事である。そして、これがもとで、ボヘミアではフス派による反乱が起り、いわゆる「フス戦争」(1419年~1436年)が始まった。
(*2)この公会議において、ドイツ騎士団もポーランド・リトアニア連合も、どちらも、長年争ってきた問題について、ヨーロッパの良識に訴えて自分たちの主張の正当性を立証しようとした。
(*3)ミコワイ・トロンバについては「余談107:ジャルギリスの戦い」の蛇足(4)参照。
(*4)「余談58:ポーランドに招かれたドイツ騎士団」参照。
(*5)この論陣を張ったのはドイツ騎士団総長の代理人ペーター・フォン・ヴォルムディトで、彼は「トルンの平和条約」の条項も説明し、ポーランド王がこれらの条項を無視しているとも主張した。
(*6)この論陣を張ったのはクラクフ大学の総長パヴェウ・ヴウォドコヴィツ(Paweł Włodkowic)で、この人は、「ジャルギリスの戦い」直前の言論戦で当時のクラクフ大学総長スタニスワフとともに、国家間の平和共存を説いて活躍した若き論客であった(「余談103:開戦前夜の言論“正義の戦いについて”」の蛇足(9)参照)。彼の論点の中心は:教皇の命令があればキリスト教徒が合法的に異教徒の主権国家を攻撃できるのか。そして、たとえ教皇がすべての人間に対する裁判権を持っていたとしても、彼ら異教徒が知らない法律に違反した廉で彼らを罰することができるのか、などであった。彼の演説は体系的で論理的なもので、のちに論文として出版された。このあと、ドイツ騎士団は13世紀の教会法学者ホスティエンシス(セグシオのヘンリー)の思想に依拠して反論したが、パヴェウ・ヴウォドコヴィツは屈せず、ホスティエンシスの主張が間違っていることを52の論点にまとめて反論した。これものちに小冊子として刊行された。
(*7)当時はまだパヴェウ・ヴウォドコヴィツの主張に反感をもつ人たちが多かった。たとえば、ドミニコ会の修道士ヨハネス・ファルケンベルクはパヴェウ・ヴウォドコヴィツを異端と断じ、異教徒を殺害して彼らの土地を取り上げ、キリスト教徒のものにするのは合法的であると主張して、ドイツ騎士団の行為を擁護した。しかし、さすがに、こうした極論は当時も批判されたが、それでも、先に述べたホスティエンシスの思想(たとえば、教皇の世俗的事項に関する権限は非キリスト教国にも及び、彼らが教会の統治権を認めないならば、彼らの主権と土地を奪うことは正当な行為として許される等)は17世紀頃までカトリック世界に大きな影響力を保っていて、スペインの残忍なアメリカ新大陸征服を正当化する論理として使われていたという。我が国の戦国時代にやって来たポルトガルやスペインの宣教師たちの論理も同様で、彼らは「トロイの木馬」であったと言えよう。
(2021年7月 記)
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斎藤さんのお話

モロッコ紀行/齋藤 嘉博

  私がモロッコに興味をもったのは往年の名画カサブランカ。どこの映画館だったか忘れましたがハンフリーボガートとイングリットバークマンの競演がすごく印象に残っているのです。
  もう一つはずっと後になってトポロジーを勉強した時、書の一筆書きの章に「入ったら抜け出ることのできないモロッコのカスバ」と。一体どんなところ?それに私の友人でフランス語にも堪能なT君、「モロッコに行ってきました。面白いところですヨ」と話をしてくれたのが拍車になりました。陽昇る国の日本からずーッと西の果てマグレブ(陽入る国)、アフリカ大陸の北の端。諸兄の中にもモロッコに行かれた方は少ないだろうと思います。ジブラルタル海峡に面したモロッコにはパリのオルリー空港から3時間余りの飛行でカサブランカに到着します。列車でマラケシュへ。
  その夜はちょっと張りこんで昔は富裕層の邸宅だったというリヤドに泊まり、庭の奥の方にしつらえられたハマス(サウナ)でリラックス。翌朝ガイドさんを頼んで街中へ。迷路のまちと言われるこのメディナ(城壁に囲まれた旧市街)を方向感覚には自信のある小生もさすがに一人で歩く気になりません。城壁に囲まれたメディナの南にある王宮をさらっと拝見して期待していたスークへ。いやなるほどの迷路です。メインの通りは飴屋横丁?いや京都の錦市場のほうが似ているかもしれません。細い道に食べ物、お土産、絨毯など様々なお店がぎっしり。そして行き止まりの小道が多いのです。モロッコ1.jpg
モロッコ2.jpg

  京都の路地(ロージ)も狭い道ですが多くは通り抜けが出来ます。ここでは行き止まり、引き返しがあたりまえ。そしてロージは狭くても両側が木造建築ですのでなんとなく解放感がありますが、ここでは両側とも石の壁。全く異世界に迷い込んだ感じです。3時間の散歩を終えてとあるレストランで郷土料理、尖り帽子の土鍋に焚かれたミートボールのダジンの昼食。これはおいしかった。工芸品を集めた博物館、砂漠関連の博物館を訪ね、城壁の外にあるマジョレル庭園を散歩して宿に帰りました。

  翌日は一泊二日の砂漠ツアーに参加。マラケシュからワルザザートへ。砂漠の道と思っていましたらオト、アトラス、4,000m級を含むというアトラス山脈越えの山道。しかしちゃんとした舗装道路で、これならレンタカーでも走れたか!と。左に豪快な山脈、右の下にはダデスの谷と景色の良い道、カスバ街道を走っているのですが、いつの間にかぐっすりと寝ていました。

  砂漠の街、エルズーガに到着したのは夕方。ホテルに入ると早速キャメルトレッキング。ラクダの背に乗って砂漠の中を散歩。いやサハラ砂漠って大きいですネ。鳥取の砂丘はまア公園の砂場、アメリカのホワイトサンズでは真っ白な砂が一面に広がって感激しましたが、サハラはやはりスケールが全く違います。どこまでも続く茶色の砂。やがて夕陽が砂山の向こうに沈んでいきます。二人のナガーイ影を作ってくれたモニュメントバレーの夕陽も感激でしたが、一桁いや二桁もスケールが違います。そして陽出る国の日本でみる二見が浦の景色を思い出しながら陽沈む国の砂漠の夕陽は誠に感無量。ま二度とこんな時間を過ごすことはないでしょう。翌朝この砂漠の朝を散歩しながらもう一度この砂漠の雄大さを実感したのでした。

  マラケシュからフェズへ飛んで後半はモロッコの歴史の旅。フェズは新市街のホテルに泊まってこの日の午後はホテル周辺の散歩。新市街は欧州の街とほぼ同じ。しっかりした道にトラムが走り高級店舗が並んでいます。翌日タクシーでお目当ての旧市街メディナへ。まずフェズの西北、小高い山の上にあるマリーン朝の墓地へ。ここから一望の城壁に囲まれたフェズ(旧市街)は、なだらかな丘陵の上に波打って、この中にごちゃごちゃした迷路街があるとは思えない様子でした。マラケシュの迷路街で経験を積みましたので今回はガイドなしに歩いてみようと一人で緑の美しいタイルで装飾された入口のブー・ジュルード門をくぐりました。世界遺産にもなっている1,200年前につくられた街。1,200年まえといえば平安京の時代。そちらは朱雀大路が真ん中を貫いたすっきりした街づくりなのにとこのごちゃごちゃに呆れながら両側の店を覗きました。一番奥のサファリーン広場まで歩いて、その脇にあるカラウィンモスクを外から眺めて引き返しました。

  先の入り口の門に近いダール・バトハ博物館はこの国の歴史を示す、コーランの写本や装飾品、生活品などが並べられて想いを1200年の昔に走らすことが出来ますが、庭はこの建物の持ち主が天国の楽園をイメージして作ったものとか。これも頼道の平等院の庭と比べて宗教が違うと楽園のイメージも全く違うネとの感を深くしたものです。一日ぶらぶらとこの迷路を歩いて無事ホテルに帰着しました。

  翌日以降はメクネスに宿を移して、街とその郊外にあるヴォルビリスの遺跡を訪ね、カサブランカ経由でパリに帰着しました。これまでに訪ねた米国や欧州の国々、キリスト教国とは全く違う雰囲気、アラブとイスラム教の雰囲気。世界は、地球は広いなあと満身で感じた一週間でした。
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小林レポート

半世紀前の記録から:チューリッヒ1/小林 凱

  二年ほど前にアフリカを旅した記録を、今回と同様な趣旨でレポートにして投稿したことがあります。
  この時は僅かな記録の行間を薄れた記憶を絞り出して埋める作業にエネルギーを消耗したと思いましたが、今年(2021)に入って東日本大震災に関連したブログを書いたら案外記憶が残って居ました。そこで余り固い事を考えずに、更に前の話になりますがどこまで書けるか試そうと思いました。

  題材については矢張り外地での話が楽しく、出来れば皆さんにも繋がりの有る所がそれぞれの記憶を辿って頂けるかと思います。そこで半世紀前を思い出して見たのですが、その頃良く行って居た所に西独のデユッセルドルフ(Dusseldorf)とスイスのチューリッヒ(Zurich)がありました。デユッセルドルフは最も多く行った所ですが、これは当時の東西に分割されたドイツの西側のビジネス拠点が集結していた事情から、出張時の行き先となって居たものですが、今はすっかり変わって居る事でしょう。一方二番目のチューリッヒは、このブログでも多くの級友が、目的地だけでなく経由地としても訪れている事が判りました。斎藤さんの路面電車のお話でもチューリッヒが登場していたのではと思います。そこで今回は此処をを訪れた思い出を書いて見ることにしました。

  半世紀前のチューリッヒの町を紹介します(今も基本的なところは余り変わって居ないだろうと勝手に想像しています)。全景の写真ですが、これはホテルで貰った絵葉書です(Fig.1)。当時のチューリッヒのホテルでは泊り客にポケットサイズの案内に部屋番号を記載して渡していました。Fig1.JPG
Fig.1
  そこには市内地図に宿の位置と、主要機関の連絡先や店の広告が記載され、これらの部分は各ホテルに共通でした。それと絵葉書がフロントにありました。宿泊客には家族や友人にこの町からの便りを出しなさいという事でしょう。
  1967年3月、初めてこの街を訪れた時の印象が鮮やかです。空港からのリムジンバスで中央駅(HauptBahnHof-HBF)に着くと、其処からほぼ真っすぐにチューリッヒ湖に向けて伸びる駅前大通り(Bahnhof Strasse)が素晴らしいと思いました。当時の街並みを地図と大通りの写真でご覧に入れます。(Fig.2,3)
  諸兄も滞在されたホテルの位置などチェックされると良いかと思います。実を申せば私は此処に出て来る範囲しかこの町を知りません。
Fig2.JPG
Fig.2
Fig3.JPG
Fig.3
  私が此処を訪れたのは1967年から69年の間で、残念ながら全て仕事での話です。多くの場合日本からは一人で出て、現地で欧州に駐在している方と合流して仕事をして、済むと現地の方はデユッセルドルフなどの根城へ帰るのを、HBFからの空港リムジンを見送って宿に行きました。
  当時の記録ですが67年3月中旬に行き、4月上旬にロンドン経由ニューヨークに向かっています。この時の宿が地図で国立劇場(Stadtteater)の近くにあるHotel Plaza(Map No.46-Goethe Str.)です。
  この辺は静かな区域で、劇場に行く人たちの宿と書いてありましたが、私はそうした華やかな人たちは見ていません。恐らく出歩く時間帯の違いでしょう。一人で居る時に昼間は良くバーンホフシュトラッセへ行きました。この通りには金融機関だけでなく市民が楽しむ色んなお店もありました。(Fig.4)Fig4.JPG
Fig.4
  なおこの時の週末に良い具合に都合がついてユングフラウに登ったので、その時の様子をこのブログに投稿しています。

  次は1968年3月、先ずジュネーブへ入り、あと鉄道でローザンヌ、ビエール(Biel)を経て夕刻チューリッヒに着きました。この時の宿はCity Hotel(Map No.15-Lowen Str.)、地図では駅の右下にあり駅から割合近い処です。
  その次は1969年1月でこの時の宿はButterfly Hotel,( Map.No.12- Kreuz Str.)、地図では67年の宿の少し右です。
同じく69年の4月にも行って居ますが、この時は朝早くチューリッヒに着いて鉄道でアーラウ(Aarau)という町に行き、夕刻チューリッヒに帰ってきてその日の夜の便でデユッセルドルフへ向かいました。。駅から直ぐリムジンで空港へ向かいましたから滞在と言える時間はありません。(Fig.5)Fig5.JPG
Fig.5

  この町はドイツ語圏でしたが、ほとんどの場所で英語が通じたので不便はありませんでした。なおこのブログではドイツ語のウムラート(Umlaut)マークは省いて居る点ご容赦下さい。
  通貨はスイスフラン(SFr.)で、当時の仏フランが70円位でスイスの方が強含みだった様に思うのですが、記録していません。
  食事についての記憶が少ないのは、余り良いものを食べていなかった所為でしょう。一つ覚えているのは干し肉の料理で、塩味の干し肉を薄くスライスして綺麗にカールしたものをお皿に並べて出され、各自が取ってバターを塗って食べるもので、Bundnelfreischと言った様に思いますが淡い記憶のみです。これはビールとの相性が良かったが、数人で行かないと注文しにくい料理でした。バーンホフシュトラッセで駅から湖の方を向いて右側にLowen Brau(ライオンビール)のサインの出ている店があってこの料理が出されていました。なおこのビールはピルゼン風の美味しい味でした。

  原稿を書いた後からですが、今回は何か古いガイドブックを拡げた様な話になって済みません。次回はもう少し角度を変えた話も入れてレポートしたいと思います。
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季節の花便り

6月の花便り/高橋 郁雄

  今回も近場からの取材のみとなりました。サフィニアが初登場で、桔梗(キキョウ)と姫女菀(ヒメジョオン)は再登場です。
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サフィニアキキョウ(桔梗)ヒメジョオン(姫女菀)
サフィニア:川崎市宮前区の花屋さんの店先で、6月3日に撮影しました。ナス科ツクバネアサガオ属。原産地:日本。開花期(4~10月)。花の色は多種(紫・黄・白・ピンク・赤)ある。
  1989年に開発された比較的歴史の浅いペチュニアの園芸品種。(サントリー)と(京成バラ園芸)が共同で開発した品種で、サントリーの駐在員がブラジルを原産とするペチュニアを数系統持ち帰ったことが品種改良の始まりだったとか。
  名前の由来:枝が波打つように広がる様子から、「Surfing(サーフィン)」と「Petunia(ペチュニア)」を合わせて「サフィニア」と名付けられました。花言葉=「咲きたての笑顔」。
キキョウ(桔梗):我が家の近所で、6月14日に撮影しました。英名(Balloon Flower):写真の右上に開花する前の蕾が見えますが、膨らんだ風船のように見えることから、この英名が付けられました。
  花言葉=「清楚・気品」。
ヒメジョオン(姫女菀):我が家の近所で、6月24日に撮影しました。この花に似た花に「ハルジオン」がありますが、よく似た花なので見分けが付きにくいのです。以前にも書きましたが、ハルジオンは「4~6月」、ヒメジョオンは「5~8月」に咲く。ハルジオンは茎の中が空洞、ヒメジョオンは茎の中が詰まっている。ハルジオンは葉が茎を抱くように付く。ヒメジョオンの葉は茎を抱くようには付かない。そこで、今回は写真で葉の付き方が判るように撮影してみました。判りますか?。
  花言葉=「素朴で清楚」。