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戦時中・思い出

一期一会  / 中川 和雄

私はここ二十年余り 靖国神社参拝を続けています。この夏の参拝の折り 社頭近くで、思いがけず、若い女性からインタビューを受けました。

「アノー、少しお話聞かせてもらっていいですか?」
「どういうことでしょう?」
「靖国神社にはよくいらっしゃいますか?」
「年二回は来ます。行く末を祈る初詣と過去を省みる八月の二回です。尤も混雑を避けて日にちはずらしています。今年は千鳥ヶ淵の桜の頃にも家の者と来ましたので三回目になります。」
「毎年来られるのは靖国神社に関係することがあったのでしょうか? 学校であまり習わなかったこともあり、私は日本の現代史をよく知りません。それで自分で調べてみたくなり、少し前からここに来て、参拝に来る人々からお話を聞いています。」
「靖国神社に参拝するのは、戦争に征かれ亡くなった方々への礼儀と 私は思っています。けれど現在、靖国神社については、いろいろいう人たちがいます。ですから私は誰も誘いません。一人でお参りを続けています。」
「もう少し詳しく話して下さい。」

「昭和二十年、中学三年生だった私たちは、学徒勤労動員で三重県の鈴鹿海軍航空隊の基地に併設されていた第二海軍航空廠 鈴鹿支廠で働いていました。勤務は朝7時から夕べ7時まで、休日は月に二日で第一と第三日曜日です。第五日曜日は休みません。仕事の多くは熟練した組長や伍長の指導を受けて、激しい訓練で傷んだり、不調になった零戦をはじめいろいろな海軍機の部品の交換や調整をすることでした。飛行機は着陸時の衝撃が激しいらしく引込脚の具合が悪くなることが多かったと記憶します。
私たちはそれぞれの職場に分かれて作業に励んでいましたが、米空軍の来襲によって空襲警報が発令されると基地のはずれに設けられた防空壕に待避しました。そのときはふだん離ればなれの友達とも一緒になり、警報が解除されるまでお喋りしていました。
夏になる頃から、鈴鹿基地では特別攻撃隊を見送ることが多くなりました。霞ヶ浦や木更津の海軍航空基地から九州の鹿屋基地に向かう途中だったのでしょう、鈴鹿で数日を過ごし、また飛び立って行かれるのでした。空襲は次第に激しく、空襲警報の発令は多くなりました。待避壕では特別攻撃隊の方々とご一緒することもありました。今にして思えば、特別攻撃隊は隊長さえ二十代後半です。多くは二十歳そこそこの若さです。待避している間は将棋を指したり、何と言うこともない雑談をして過ごしました、非常の時代に、非情の命令を受けて戦場に向かわれる方々。祖国が危急の淵にたったとき、その国に生まれその国に育った人の務めを回避する者はありません。当時、多くの人々に共有されていた『祖国のために』との想いは、お互いに敢えて口にすることはありません。それだけに私たちの間にはその想いは通い合っていたと信じます。
『この方々が特別攻撃隊だ』と思うと、私にはそのお姿が眩しく思われました。
敗戦を経て世の中は変わりました。生きている人との約束ならば、話し合って変えることもできるでしょう。けれど国の行く末を希い合った死者との誓いは絶対です。変えることはできません。私は靖国神社参拝を続けています。
特別攻撃隊が南の戦場にむかわれる時には、私たちも滑走路の脇に並んで見送りました。『帽振れ』の号令の下、海軍の礼式にしたがい、全員が帽子を振って見送るなか、滑走路の彼方から全開したエンジンの轟音とともに、次々に離陸する零式艦上戦闘機。どの方もどの方も風防を一杯に開き、身体を機外に乗り出すようにして手を振ってゆかれました。そして基地上空を幾度も幾度も旋回されて、飛び去ってゆかれる編隊を見送り、私たちは流れ落ちる涙のなかで帽子を振り続けるのでした。
 『このような時代だけれど・・・・』といわれたのか、『このような時代だから・・・・』といわれたのか、今となっては確かめられません。
『勉強しろよ。君たち。』
と空襲下の待避壕で言い残された方も飛び去って逝かれました。」

「私は今 二十四歳ですが・・・・・・・・。」
女性は涙ぐんで紅くなった眼もとをハンカチで抑えています。
そして・・・・・・・・。気づいた私もまたあの日以来、脳裏に鮮烈に焼付いている当時の情景が まざまざと眼前に蘇ってくるのでした。
 靖国の社殿近く、参道わきで若い女性と 世代の離れた爺さまとが眼を紅くして話しこんでいるのは、なにか奇異に見えるのかも知れません。行き交う人々のなかには振り返って行かれる方もあるようです。
「もっとお話をうかがいたいのですが・・・・・・・・。」
連絡先を求められました。話し合いたいこと、知って戴きたいことは、私にも多々あります。けれど話すからにはしっかりと受けとめてほしい。しかしその内容はかなり重い。受けとめたことで 女性の心になんらかの影を落とすようなことになれば申し訳ない。私は辞退しました。
「私は名前をいうほどの者ではありませんので・・・・・。
いつかまたお逢いすることがありましたら、ゆっくり話し合いましょう。 今日は話を聞いて戴き、とても嬉しかった。ありがとう。ほんとうにありがとう。」
女性とは別れました。再び逢うことは多分ないでしょう。後になって思いました。このような一期一会もあっていいのではないでしょうか。
六十八年の歳月を隔てて、現代に生きる若い女性が、あの日々の特別攻撃隊の姿に流されたあの涙が、厳しい時代にあって、さまざまに燃えていたであろう青春の想いを、国土護持の一念に 胸深く包み込んで散って逝かれた特別攻撃隊の方々に、せめてもの供養と受けて戴ければ・・・・・ 。
と切に希われるのでした。                               合掌
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戦時中・思い出

故郷 / 中川 和雄

  昨年度の冬学期末、近くの大学で受講していた「自然資源経済論」の最終講義は「福島原発被災からの復興・再生を考える」と題する市民公開シンポジウムでした。参加者は大教室をほぼ満たしました。シンポジウムが終わるころ、主催の教授から「被災地の復興を祈って、『故郷』を合唱したい」と提案されました。参加者は全員賛同し、懐かしい小学唱歌『故郷』の歌詞が正面スクリーンに投影されました。
教室を満たした二百数十名の合唱が進むにつれて、故郷(三重県 津市)にも厳しかった戦中・戦後が、想い出となって重なってくるのでした。


「兎追いし かの山   小鮒釣りし かの川」

  長兄が中学生だった昭和10年頃までは兎狩りは県立中学の学校行事でした。近くの里山の麓を低学年生が取り囲み、草むらにひそむ兎を上へ上へと追いあげます。頂上近くには上級生が網を用意して待ち構えています。逃げあがってくる兎を追いかける様子などを兄は楽しく話してくれました。私らの時代は戦争で、兎狩りは既になくなっていましたが、戦後、山越え7 kmの通学の帰途、春には少し道を外せば陽だまりの斜面には、わらびがびっしりと芽を出していました。夏にかけて水を張った田んぼでは無数の田螺が拾えました。これらを採り集めて帰ると、母が煮付けや木の芽和えに美味しく料理してくれました。
 

「如何にいます 父母   恙なしや 友がき」
敗戦の日、父は50代半ば まだ若く元気でした。けれど戦災によって家と家財と蓄えのほとんどを失った父には、戦後の日々はあまりにも苛酷でした。間借り生活が続く昭和21年2月17日 突然、金融緊急措置令が施行されました。いわゆる新円切替えです。翌月2日限りで、それまで流通していた紙幣は効力を失います。手持ち現金はすべて銀行に預金するほかありません。そして預金は封鎖です。一ヶ月に戸主300円、家族は一人につき100円しか引出せません。わが家は八人家族。一ヶ月 1000円に過ぎません。さらに加わったのがいわゆる復金インフレ、すなわち 政府全額出資の復興金融公庫貸出しに基因するハイパー インフレーションはわが国近代経済史上 最も激しいインフレーションでした。貨幣価値は日に日に下落していきます。家業は戦時下に公布された企業整備令により心ならずも廃業していて、所得はありません。八人家族が生きるため、父はその再開に努めました。もとより焦土の街に店舗を構えることは望めません。行商です。復員した兄たちも暮らしをたてることに懸命でした。それまで重いものを持ったことのない母も重い風呂敷包みを背負って村々を回りました。社会の激変に生活は苛酷でした。父の傷心は深く 体力も気力も みるみる衰えました。そして・・・・・ 敗戦の日から僅か一年八ヶ月。昭和22年5月3日、新憲法施行の夕べ、父は失意のうちに世を去りました。共に苦労を重ねた母も既に亡くなりました。
生活に事欠く戦災家族に、親切にしてくださった村の人々にも、失礼したまま長い々々年月が流れ去りました。鰻取りを教えてくれた子供たちはその後どうしたのだろう。彼らの鰻取りは実に巧みだった。教えてもらっても私は、彼らに はるかに およばなかった。

和20年11月、政府の議会への終戦報告によれば、市街地を狙った米空軍の無差別爆撃による罹災者数は8,054,094といわれます。夥しい人々は焦土と崩れさった国土に、この国の復興と生活の再建を切に希いました。「必ず元に戻す!」と焦土に誓った人々は多かったと信じます。被爆の翌日。まだ火照っている街の舗装を踏んで、我が家の焼け跡に立った中学3年の私もその一人でした。疲れきった人々は懸命に働きました。そして以前に優る豊かさを戻しました。長く苛烈だった復興の日々、戦い敗れた人々を内に抱いて めぐる里山の起伏も、清らかに流れる河川も、故郷の山河は、こよなく優しく美しかった。
「山はあおき 故郷   水は清き 故郷」
合唱は終わりました。

敗戦の惨禍にすべてを失いながら懸命に生きた日々も、今は懐かしい思い出となり、余韻は淡い感傷さえ伴って胸に沁みてきます。隣席の学生さんたちに話しかけてみました。
「あなたたち山に兎を追ったことありますか?」
「うさぎ? 山に兎がいるんですか?」
話はかみ合わないようです。
「川で鮒を釣ったことはありますか?」
「・・・・・」
彼はなにか怪訝な顔付き。私は両手の人差し指を十糎くらいに開いて
「ホラ。これくらいの小さな鮒。釣ったでしょう」
彼は納得しました。スクリーンに映し出されている歌詞を指さして、
「あの漢字(鮒)、フナと読むのですか?」
「・・・・・」
時代は遠く流れ去りました。

里山に 昭和は遠く なりにけり。