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斎藤さんのお話

テレツーリズム/齋藤 嘉博

  過日この欄に載せて頂いたモロッコ紀行、諸兄はどのように読んでくださったでしょうか。モロッコへの興味は冒頭に書いた通り。しかしこの旅のお話し、カスバの様子などはその気持ちに誘われたfake、ヴァーチャルの旅記だったのです。現地の写真がありませんでしたので不審に思われた方もおられたと思います。コメントを頂いた小林さんゴメンナサイ。
  このトシで遠方への飛行機の旅やドライブもいつまで出来るかなと思いながら、しかし行きたいところはまだまだ沢山。そこで考えたのが地図の上でのヴァーチャルの旅。地図を拡げ旅行書を読みながら、あそこに飛んでここはドライブでと、もう十数年前にニュージランド、インド、マレーシア、アフリカなど二十に余る世界の観光地の旅スケジュールを作ったのです。モロッコもそのうちの一つ。そのときのプランに最近モロッコ大使館で頂いた観光パンフからの情報を加えて書いたのでした。

  その昔に作ったプランの中からいくつかをご紹介しましょう。

  トルコ;東西文化の接点トルコは是非行ってみたい国の一つ。この国については’12年のブログに大橋さんの二回にわたるすばらしい紀行稿が寄せられています。それによると世界遺産のアンティオコス王遺跡への山道はなかなかハードの模様。そこでここはパスして、成田12:50発のTKでイスタンブールを乗り継ぎアンカラへ飛び、車を借りてカッパドキアへ直行。ここから古都コンヤ、綿の城と呼ばれるパムッカレへとトルコの西部高原地帯を走り、イズミールからトロイの遺跡へ。地中海の夕陽を楽しんだのち車を返却して船でイスタンブールに向かおうというプラン。イスタンブールには沢山の見所がありますのでここでは4泊して帰国という16日間のプランでした。

  ニュージランド;ニュージランドは日本と経度も近く経度もほぼ同じ。島の面積も似通っていてなぜか大変親しみの湧く国です。成田から南島のクライストチャーチに飛んで、星が美しいと言われるテカポで「善き羊飼いの教会」、湖を散歩してスターウォッチング。マウントクックと氷河ミルフォオードサウンドを楽しんだら空路で北島に移り、トンガリロ国立公園やロトルアの温泉に浴してオークランドから帰国という18日間のスケジュール。諸兄の中にもこの国を楽しまれた方は多いのではないでしょうか。

  何回か訪れたドイツもクリスマスの時期に行ってみたいネと、シュツットガルトのクリスマス市場から始めてニュルンベルグなど古城街道を軸にプラハまで走り各地のクリスマスを観ようという魂胆。ここはアウトバーンがしっかりしていますので時速200Kmの快感を交えて。運がよければバイロイトでワグナーのオペラも。ベルリンのクリスマス市場を最後にという欲張り日程は19日間。これもすでに経験された方が多いでしょう。

  難しいのはインドとアフリカ。タンザニアのキリマンジャロ高原、動物の楽園、セレンゲッティ国立公園いいでしょうね。そしてインドはお釈迦様の遺跡、ルンビニ、ブッダガヤー、サールナートなどを中心にと想いながら、私がこれまでに知っている地域とは異なる風土。なかなか全体の感触がつかめないのです。この辺りなにかよいヒントがあればご教示頂けるとありがたいのですが。

  こうした頭の中の旅はコロナで不急不要の外出を控えさせられている身には格好の、しかし楽しい時間つぶしです。観光資料はその国の大使館、領事館などで手に入りますし、近頃はUチューブなどwebで検索するとけっこう楽しい現地の動画を観ることが出来るので幻の旅もかなり現実味を覚えることができるのです。いうなればテレツーリズム。諸兄もいかがでしょうか。

  といっても遺跡を目の当たりにして古代に飛ぶ想い、広い広い山野の自然を歩き眺める感動、喧噪の街の中で人々のざわめきを感じながらカフェで過ごすひと時の経験はテレ、ヴァーチャルではとても得られない感触です。ヴァーチャルはやはりそれだけのもの。このころコロナの影響でディジタル庁を作ったり、テレワークを推奨していますが、画面をとおしてできるのは仕事の骨格、それに肉付けぐらいまで。魂を入れるということには至りません。ディジタル仕事の会社には「このような不祥事は再び起こさないように」と頭を下げるトップの姿が増えることでしょう。早くコロナが治まってもう一度山野を歩きたいですネエ。間に合うかナ。

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新井レポート

偏光顕微鏡による岩石の偏光観察/新井 彰

  今から70年前の昔、私は旧制静岡高等学校理科に在学していました。
  地学の望月勝海教授は東大理学部地質学科出身の気鋭の学者で、研究上の代表作「大東亜地体構造論」1943は、25年後に地球科学に革新をもたらしたプレートテクトニクスの考えを先取りした世界に誇れる労作とされ、教育上の代表作「地質学入門1936新版1956」は教科書として広く採用され50万部以上出版されました。

  ある日の地学の時間に、偏光顕微鏡による岩石薄片の偏光観察実習がありました。地学教室に何台もの偏光顕微鏡が置かれ、接眼鏡を覗くと万華鏡のように変幻自在に色が変化する偏光現象が見られ、感動しました。

  その時の感動を最近もう一度経験してみたいと思いました。

  本格的な偏光顕微鏡はとても高価で手が出ないので、ずっと安価な実体顕微鏡(普通の顕微鏡)を購入。偏光装置の部分は部品(2枚の偏光板、プレパラート回転装置、偏光板回転装置など)をネットで取り寄せ自分で組み立てて実体顕微鏡に取り付け、偏光顕微鏡としました。(image1)

  フレキシブル三脚に取り付けたiPhoneで偏光現象をVideoに撮りました。(image0)
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  Videoの1つは、岩石標本の上下にある偏光板の偏光方向を90°に交叉させ(直行ニコル)、プレパラートを手動で360°回転した場合のもの。(video1)

  もう一つのVideoはプレパラートは固定して、片方の偏光板を手動で360°回転して色の変化を撮ったものです。(video2)
  
video1
video2

  この岩石はかんらん岩で、Amazonで取り寄せた24種の岩石薄片プレパラートのうち、一番見栄えのする色の変化を見せました。

  こんな微細な世界でも自然は、更に大袈裟に言えば宇宙は、不思議だ、素晴らしい、美しい、壮大だ、、、と感じてしまいます。

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武田レポート

リトアニア史余談115:フス戦争とヴィタウタス大公/武田 充司

 1419年7月30日、プラハの市庁舎前をフス派(*1)の一団がデモ行進していた。そのとき、市庁舎の窓から突然デモ隊めがけて石が投げ込まれた。これに激高したフス派の人々が市庁舎に乱入し、市長と数人の役人を捕えて市庁舎の窓から路上に投げ落とした。
 これがきっかけとなって、いわゆる「ボヘミアのフス戦争」が始まったが、その翌月、ボヘミア王ヴァーツラフ4世が急死した(*2)。ヴァーツラフ4世は継嗣に恵まれなかったから、彼の弟で今や神聖ローマ皇帝となっていたハンガリー王ジギスムントが王位継承に名乗りを上げた。しかし、コンスタンツ公会議でヤン・フスを焚刑にしたジギスムントの不誠実(*3)に不信感を抱いていたボヘミアの貴族たちは、フス派の主張を認めることをジギスムントの王位継承の条件としたが、彼はこれを拒否した。その結果、ボヘミアでは宗教改革を求めるフス派勢力と、ローマ教皇に忠実な王権派との対立が決定的となった。

 両派の激しい争いによってプラハの市内は破壊され混乱したが、教皇マルティヌス5世が皇帝ジギスムントの要請に応えて、翌年の3月17日、ボヘミアのフス派殲滅の十字軍を起す勅書を発出した(*4)。そして、6月30日には十字軍がプラハに迫った。窮したプラハのフス派連合は、のちに「プラハの4箇条」と呼ばれる条件を出して十字軍との和睦を模索したが、皇帝ジギスムントはそれを拒否し、プラハの王宮を占領すると守備隊を残して引き揚げて行った。
 しかし、プラハ市民は彼らを兵糧攻めにした。救援に駆け付けた軍団もフス派の武力集団によって撃退され、やがて、ボヘミア全土が実質的にフス派の支配下に置かれた。そして、この年(1420年)の暮れに、ボヘミア議会はジギスムントのボヘミア王位継承を認めないと宣言し、先の「プラハの4箇条」受諾を条件に、ポーランド王ヴワディスワフ2世(即ちヨガイラ)をボヘミア王に招請した(*5)。

 翌年の1月、従兄弟同士のヨガイラとヴィタウタスは、2人揃って、リトアニアのヴァレナ(*6)でフス派の使節と会ったが、ポーランド王であるヨガイラは彼らの招請を断った。ところが、その年(1421年)の6月10日、フス派の人々は一方的にリトアニア大公ヴィタウタスをボヘミア王に選出した。そこで、ヴィタウタスは、彼らフス派がローマ教会と和解してボヘミアの分裂が解消すればという条件で、ボヘミア王位を受諾すると応じたが、その一方で、教皇マルティヌス5世には、異端者、即ち、フス派には協力しないと伝えた(*7)。

 この何とも言えぬ微妙な対応を見せたヴィタウタスは、その翌年(1422年)の春、自分の代理として、ヨガイラの甥ジギマンタス(*8)をボヘミアに派遣した。このとき、ヴィタウタスはジギマンタスに自分の軍隊を与えてボヘミアに向かわせた(*9)。

〔蛇足〕
(*1)「余談114:コンスタンツ公会議における論争」の蛇足(1)で述べたように、ヤン・フスは1415年7月に処刑されたが、その焚刑は凄惨極まりないものであったという。そして、その翌年の5月にはヤン・フスの友人ジェロームも焚刑に処せられている。こうしたことに対する反発から1419年頃にはボヘミアでのフス派は大きな勢力になっていた。なお、1999年に、当時の教皇ヨハネ・パウロ2世(この人はポーランド人で、クラクフのヨガイラ大学で神学を学んだ)はヤン・フスの処刑に対して「深い悔恨の念」を表明している。
(*2)ヴァーツラフ4世は、フス派が市長などを市庁舎の窓から投げ落としたことにショックをうけて気絶したのが原因で、その後、急死したのだとも言われている。なお、この人については「余談102:権謀術数をめぐらすドイツ騎士団」の蛇足(1)参照。
(*3)当初、ジギスムントはフス派の問題を平和的に解決しようとして、ヤン・フスに公会議の場で弁明する機会を与えることを提案した。プラハの人たちもこうした考えには賛同した。ところが、公会議では一転して異端尋問となり、フスの弁明など一切うけつけず、残忍な焚刑で処罰したため、プラハ市民は皇帝ジギスムントに裏切られたという怨念を抱くようになった。
(*4)寡婦となったヴァーツワフ4世の后ゾフィーが両派の争いの調停に尽力したが、フス派の中のヤン・ジズカ(Jan Žižka)という過激な人物がプラハを去ってボヘミア南部に拠点を築き、兵を集めて武力闘争を開始した。これが本格的な戦争を誘発した。
(*5)フス派の人々がヨガイラ(ポーランド王ヴワディスワフ2世)に目を付けたのは、おそらく、コンスタンツ公会議での論争などから、ポーランドやリトアニアの人たちなら自分たちの主張を理解してもらえると思ったからだろう。実際、ポーランドやリトアニアではフス派に共感する者が少なからずいたようだ。
(*6)ヴァレナ(Varėna)は現在のリトアニアの首都ヴィルニュスの南西約70kmに位置する古い町で、リトアニアが誇る芸術家(作曲家であり画家でもある)チュルリョーニスの生まれた町として知られている。
(*7)ヴィタウタスの立場はヨガイラより自由であったと思われるが、コンスタンツ公会議の閉会時に新教皇マルティヌス5世が、「ヨガイラとヴィタウタスは立派なキリスト教徒であり、彼らをルーシの地における教皇の総代理人に任命する」と宣言し、ヴィタウタスにジェマイチヤの人々を受洗させる権限を与えた。そして、1417年秋にはジェマイチヤ司教区が設立され、ジェマイチヤのメディニンカイに司教座が置かれ、初代司教としてトラカイのマティアス(Motiejus Trakiškis)が任命された。こうした一連の実績から、ヴィタウタスは教皇マルティヌス5世との関係を悪化させたくなかったはずで、ボヘミアのフス派との関係強化には慎重だったのだ。しかし、恐らく、ヴィタウタス大公はフス派に共感していただけでなく、ボヘミア王位にも魅力を感じていたのではなかろうか。教皇から戴冠を許された「王」を戴く王国に対して、公国は格下の準国家の扱いしかうけられない当時の西欧キリスト教世界では、「王」になることがどれほど重要かを彼はよく理解していたはずだ。そこで、ヴィタウタスはこのような曖昧な態度で両面作戦をとり、しかも、状況次第ではボヘミア王になる余地を残しておいたのだろう。
(*8)ジギマンタスは、ポーランド王ヨガイラの実弟でノヴゴロド・セヴェルスク公であったドミートリイ・コリブトと、リャザニ公オレグの娘アナスタシアとの間に生れた子である。コリブトはリトアニア語名カリブタスがロシア語化したものである。したがって、この人は「ジギマンタス・カリブタイティス」と呼ぶのが適当だが、「ジギスムント・コリブト」で通っているようだ。なお、この人はクラクフのヨガイラの宮廷で育てられたため、一時は、子宝に恵まれないヨガイラの後継者になるのではと噂された。
(*9)ヴィタウタスがジギマンタスに軍を与えてボヘミアに行かせたことが後に厄介な問題をひき起すことになる。
(2021年8月 記)
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小林レポート

半世紀前の記録から:チューリッヒ2/小林 凱

  前回はチューリッヒの一般的な紹介と旅の記録を紹介しましたが、今回は違った角度も含めての記録です。この町はチューリッヒ湖(Zurich See)の水が流れ出るリマ―ト川の両岸に開けた都市ですが、町のレイアウトは前回地図で紹介していますからご参照ください。

  私がこの町を思い出すのはいつも中央駅(ハウプトバーンホフ)から始まります。(Fig.1)  ここから湖へ向かって大通り(バーンホフシュトラッセ)が伸びる街並みは何度見ても好きで、又この町に来れたと思ったものです。写真は駅の近くの通りで沢山のビルが両側に並び、その奥の方に駅ビルが見えます。(Fig.2)  その次は絵葉書で大通りで言えば中ほどの辺りから撮ったもので、手前の尖塔は聖母教会と思います。その先にリマート川とチューリッヒ湖が拡がり、中央の橋の左手に国立劇場ほかのビルが見えます。私の泊まった宿もこの先にあります。また橋の上には路面電車が見えます。(Fig.3)

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Fig.1
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Fig.2
Fig3.JPGFig4.JPGFig5.JPG
Fig.3Fig.4Fig.5
  その次は湖の近くのバーンホフシュトラッセで、周辺は建物も低く辺りは開けています。ここでも路面電車が活躍しています。(Fig.4)

  更に歩を進めて橋の近くに行くとリマ―ト川と船着き場で、その背後にあるのが大聖堂です。(Fig.5)

  こうして見ると改めてこの街で何時も活躍して居たのが路面電車だったと気づきました。チューリッヒ市内では到る所で走っていて、私も大変重宝しました。またこれらの写真から当時のチューリッヒの電車は、日本のと余り大きな差は無かった様に思います。

  話が変わってイタリアにピエロ キアラ(Piero Chiara, 1913-1986)という作家が居ました。日本では余り知られていないが、それは日本語訳が無い事もありましょう。市井の人達の暮らしを描いて映画化された作品も多い作家です。彼は北イタリアのアルプスの麓、マッジョール湖畔で生まれ終生この湖水の地を愛しました。最初から作家では無く色んな仕事を経験したが、一旦書き出すと蓄積されたものが堰を切った様に溢れて多くの作品を出しました。また彼の奥さんはチューリッヒのお医者さんの娘でした。

  キアラは大のファッシスト嫌いでムッソリーニの支配する当時の体制に反対する活動をしていたので、第二次大戦が進むと彼の命は危険に晒されスイスに亡命します。

  後年キアロの人生と作品を描いたドキュメンタリーフイルムが作られました。その冒頭は美しい湖(マッジョール湖と思います)に彼自身の台詞(私は田舎の小さな町-Luino-で生れた)から始まります。この北イタリアの地方は私は残念ながら訪れていませんが、美しい景観で古くからヨーロッパの貴族や富豪が湖畔の館を競った処です。我々の間では、大橋兄が羨ましい旅をされこのブログで紹介されています。

  このフイルムでの彼の亡命期間の描写は、ただBGMの中バーンホフシュトラッセが映し出され、其処へ路面電車が繰り返し行き来するシーンが暫く続くというものでした。これでチューリッヒとその町での滞在が表現されたという事でしょうか。私がこのドキュメンタリーフイルムを見たのは2010年頃ですが大変懐かしく思いました。それはこのシーンで埋もれて居た数十年前の記憶が呼び起こされ、単にチューリッヒの街だけで無くそこで印象に残った路面電車も一緒に登場したからだと思っています。

  そこで話が現在の比較に移って、今日の日本では大都市は別としても、もっと人口の少ない都市でも路面電車は殆ど無くなってバスに代わり、そしてLRT(Light Rail Transit)は富山と宇都宮くらいでしょうか。しかしNetで見るとチューリッヒの街では電車が大きな顔で走っていて、この半世紀の間に大きな違いが出たようです。この辺のもっと詳しい状況をご存知の方はご教授頂ければ幸いです。

Fig6.JPGFig7.JPGFig8.JPG
Fig.6Fig.7Fig.8

  当時のチューリッヒ湖ではクルーズ船が就航していました。乗船場はバーンホフシュトラッセの端にあって、そこの公園には銅像(誰のか失念)がありました。(Fig.6)

  湖はここから細長い半月形に伸びて、緩やかに左にカーブしてその奥にラッパースビル(Rapperswil)と云う町があり、そこがクルーズの終点でした。(Fig.7)

  4月のある日曜日の午後、ぶらりとここのクルーズに行って見ました。片道約2時間余の旅です。(Fig.8)

  乗船を待つ列で二人連れのお婆さんに出会いました。可成り高齢だがシャキッとして元気そのもの、仲の良い二人で姉妹か友達か判りませんが、旦那衆は既に天国であろうと勝手に想像しました。ドイツ語で訊いて来たので私はドイツ語での会話は出来ないと言ったら、強い訛りの英語で”お若いの”(Young manーなお私は当時34歳です)と呼びかけて、どこから来たのとか一人で何してるのとかごく普通の身元調査でした。考えて見ると、この様な遊覧船に私の様な男が一人で乗るのは少なく、若しかするとサスペンス小説でも連想したのかも知れません。

  このクルーズ船は席が詰まっているタイプで無く、小さなテーブルが各所に在ってその周りに椅子が配され、私は婆さん達と同じ処に座りました。

  そのフロアーには小さなバーがあり出航するとすぐ開いてオーダーを受けました。婆さん達は早速迷わず注文して、運ばれて来たのがぬる燗のビールでした。これは運び手の付いた円筒型の容器にお湯が入っていて中に瓶ビールが立ててあり、お二人はそれをグラスについで飲み始めました。私の驚いた様子に、これが身体に一番良いんだよ、お前さんも試したらどうかと言われたが、私はぬるいビールなどとてもとバーで良く冷えたグラスビールを求めました。婆さん達は二人のドイツ語のおしゃべりに戻りました。

  この日は穏やかな早春の午後で、船は途中Halbinsel.Auと云う古い砦のようなものがある村に立ち寄り、時間をかけて湖の奥の終点に着きました。約一時間この古い街を散策する中で、丘に登ると古城があると聞いたので行って見たが見るべきものは在りませんでした。(Fig.9)Fig9.JPG
Fig.9

  日曜日の午後ですが、何か日が良いのかきちんとした服装の両親が、晴れ着の女の子を連れて歩いているのを幾組か見かけたが、何の儀式だったのか覚えていません。

  帰途の船は時間も遅い所為か乗客も少なく、一人窓際の席で夕暮れの湖と連なる丘の村を眺めて過ごした。やがて日が暮れると両岸の家々に灯がついてこれは美しい眺めでした。

  19時すぎ船はバーンホフシュトラッセの船着き場に帰着、さあ近くの何処かで夕食して宿に帰ろうかという一日でした。

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季節の花便り

7月の花便り/高橋 郁雄

  今回も、コロナのせいで近場からの取材のみとなりました。エキザカムのみが初登場で、夏水仙と鬼百合は再登場です。
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エキザカム夏水仙鬼百合
エキザカム:川崎市宮前区の花屋さんの店先で、7月11日に撮影しました。原産地:インド洋のソコトラ島。和名=紅姫竜胆(ベニヒメリンドウ)。英名=Persian Violet(ペルシャン・バイオレット)。開花期:6~10月。
  花言葉=「あなたの夢は美しい・あなたを愛します」。
  青い宝石をちりばめたように、株一面に花を咲かせます。花は個性的で、青い花弁と中心部の雌ずい・雄ずいの黄色とのコントラストもかわいらしく、さわやかな涼感と南国のような雰囲気をあわせもっています。しかも枝分かれして成長しながら、長い期間咲き続けるようです。
夏水仙:我が家のベランダで7月13日に撮影しました。本ブログへの登場は3度目です。ヒガンバナ科の花。別名:裸百合。
  英語名(Magic Lily):花期に葉がないことがこの名前の由来。
  花言葉=「深い思いやり・快い楽しさ・悲しい思い出」。開花している期間が2日ほどなので咲いたらすぐ写真に撮りました。
鬼百合:僕の娘の家は我が家から車で15分ほどの所にありますが、その途中でこの鬼百合の花を見つけ、7月17日に撮影しました。
  本ブログへの登場は3度目です。花弁に黒い斑点が目立ち、花の色や形から、赤鬼を連想させることから「鬼百合」の名になった。
  英名:(Tiger Lily)。8月30日の誕生花。花言葉=「賢者」。