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武田レポート

リトアニア史余談100:ドイツ騎士団のジェマイチヤ統治/武田 充司<br />

 1404年に「ラツィオンシュの講和」が結ばれると(*1)、ドイツ騎士団はジェマイチヤの主要な河川に沿って点在する城の修理を進めると同時に、要所に新たな城を築いた(*2)。
   1407年にはジェマエチヤ統治の拠点となるドベシンブルクの城が完成し(*3)、各地に役人が配置され、徴税に必要な土地の測量と人口調査が実施された。そして、ドイツ農民の入植と三圃農法の導入による農地の生産性向上が推進された。しかし、これらの政策はジェマイチヤの人々の生活向上のためではなく、彼らから少しでも多く税や農産物を取り立てるためであったから、彼らは農奴となり、酷税に苦しめられた。それに輪をかけるように15世紀初頭にヨーロッパを襲った気候不順(*4)が彼らを飢餓に追いやった。
   しかし、ヴィタウタスは「ラツィオンシュの講和」で約束したことを守り、ドイツ騎士団の築城に作業員や食糧などを供給し、周辺を警護する守備隊までも配備したから、ジェマイチヤの人々は反乱を起すこともできなかった。

   このような統治システムの整備がなされると、ドイツ騎士団に忠誠を誓って従順に行動した人々には然るべき報酬が与えられ優遇されたが、反抗する住民は容赦なく罰せられ、処刑された。そして、何百人というジェマイチヤ人が人質としてプロシャに連れ去られた。しかし、その一方で、ジェマイチヤにおけるキリスト教(カトリック)の布教活動は遅々として進まなかった。これは、頑固なジェマイチヤ人の性格を知っていた騎士団総長コンラート・フォン・ユンギンゲンの老獪で思慮深い統治手法のあらわれであったが、騎士団内部には彼のこうした迂遠なやり方に不満を持つ強硬派もいた(*5)。彼らはドイツ騎士団に協力しているヴィタウタスを信用せず、ジェマイチヤ人に対するヴィタウタスの隠然たる影響力を恐れていた(*6)。

   ところが、1407年3月30日、コンラート・フォン・ユンギンゲンが亡くなり、翌年に漸くコンラートの弟ウルリヒ・フォン・ユンギンゲンがドイツ騎士団総長に選出されたが(*7)、その間に、圧政と飢餓に苦しむジェマイチヤの人々は西欧キリスト教世界に自分たちの窮状を訴える運動を起していた。これに対して、兄のあとを継いで騎士団総長となったウルリヒは武人肌の人物で、兄のような思慮深い老練な政治家ではなかったから、以前からジェマイチヤ政策に不満をもっていた騎士団内部の強硬派が勢いづいた。

   「ラツィオンシュの講和」による一見平穏な時間の流れの中にこうした緊張感が漂いはじめた1408年の暮れ、リトアニア大公ヴィタウタスとポーランド王ヨガイラの従兄弟は、密かにナウガルドゥカスに会した(*8)。ポモージェ・グダンスキエとジェマイシヤを支配下に置いたドイツ騎士団に対する彼ら2人の問題意識には共通するものがあった(*9)。

〔蛇足〕
(*1)「余談98:ラツィオンシュの講和」参照。
(*2)たとえば、現在のヨスヴァイニャイ(Josvainai)近くのシュシヴェ川(Šušivė)河畔にケーニヒスブルク(Königsburg)という城が新たに築かれた。シュシヴェ川はヨスヴァイニャイの南方約8km地点でネヴェジス川に合流する支流で、ネヴェジス川はニェムナス川の支流である。また、ヨスヴァイニャイはカウナス(Kaunas)の北々西約40kmにある。また、クリストメメル(Christmemel)にも新しい城が造られたというが、ここにはカール・フォン・トリールがドイツ騎士団総長だった時代の1313年に最初の砦が築かれたが、その正確な位置は不明である。ただ名前からしてニェムナス河畔にあった城で、現在のユルバルカス(Jurbarkas)からヴェリュオナ(Veliuona)の間のどこかにあったようだ。
(*3)ドベシンブルク(Dobesinburg)はドゥビサ川(Dubysa)がニェムナス川に注ぐ河口付近に建設された。以前この辺りには「サリーナス条約」成立後にジェマイチヤ統治の拠点としてフリーデブルク(Friedeburg)の城が築かれていたが、1401年3月のジェマイチヤ人の反乱で焼き払われ、放置されていた(「余談97:ジェマイチヤの反乱」参照)。しかし、この城もこのとき再建されたようだ。
(*4)このとき、ヨーロッパでは「百年戦争」の最中であったが、飢餓や疫病で農村人口は激減し、フランスだけでも3000もの村が廃村となり、広大な農地が耕作されずに放置されたという(ブライアン・フェイガン著、東郷えりか・桃井緑美子 共訳「歴史を変えた気候大変動」p.160~p.161参照)。
(*5)ドイツ騎士団総長コンラート・フォン・ユンギンゲンの慎重なジェマイチヤ統治については「余談96:最後の異教徒の地ジェマイチヤ」の蛇足(7)参照。しかし、騎士団内部の聖職者は布教を急いでいたはずで、武力による改宗強要が当然と考えられていた時代であったから、一部の騎士たちには総長コンラートの深謀遠慮は理解され難かったようだ。
(*6)「余談98:ラツィオンシュの講和」で述べたように、この講和はドイツ騎士団に有利なものであったから、騎士団側としてはこれを盾に平和を維持することが少なくとも短期的には得策であったが、ヴィタウタスにとっても、この平和維持は東方への支配地域拡大の時間を与えてくれるメリットがあった。実際、当時の彼の行動からもそれがうかがえる。そして、ヴィタウタスの軍事力の源泉は広大な東方の正教徒の地を支配下に置いていることにあった。したがって、ヴィタウタスに時間を与え過ぎるのは危険と考える騎士団内部の勢力がいたことは当然で、総長コンラートもおそらくヴィタウタスを信用せず、彼に対する監視を怠らなかったはずだ。
(*7)ドイツ騎士団は地位の世襲を認めず、所属の騎士は妻帯せず世継ぎを残さないことによって規律を保っていたから、騎士団総長は総会の選挙によって選ばれていた。したがって、総長が亡くなると、総会の招集などで時間がかかり、その間は総長不在になる。なお、総長ウルリヒ・フォン・ユンギンゲンの在位期間は1408年から1410年7月15日(没)までである。
(*8)ナウガルドゥカス(Naugardukas)は現在のベラルーシの都市ナヴァフルダクで、ヴィルニュスの南々東約125kmに位置し、当時はリトアニアの重要拠点のひとつであった。この会談は「余談99:ウグラ川の協定」で述べた1408年秋のヴィタウタスとヴァシーリイ1世の最初の対峙の直ぐあとというタイミングである。
(*9)ジェマイチヤを支配したドイツ騎士団はプロシャの本部と北方の支部リヴォニア騎士団との間をバルト海岸沿いの陸路で結ぶことができたから、リトアニアはバルト海への出口を失った。また、ポモージェ・グダンスキエを奪還できなかったポーランドも似たような状況に置かれていた(「余談98:ラツィオンシュの講和」参照)。一方、ドイツ騎士団はこれによって軍事的にも経済的にも強化され、益々、両国は不利な立場に追い込まれていた。
(2020年5月 記)
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大橋レポート

ルツェルンと周辺の旅/大橋 康隆

  1998年7月16日朝、シャフハウゼン駅を8時7分出発し、南下してチューリッヒ駅に8時47分に到着した。ここで列車を乗換え9時1分に出発し、南西に進みルツェルン(Luzern)駅に9時49分到着した。
  ルツェルンはルツェルン湖の北西に位置する森と湖の美しい古都で、車は入れない。湖は4つの森の国の湖フィーアヴァルトシュテッテ(Vierwaldsttter)と呼ばれている。ワグナーやバイロンが愛した町と言われている。1962年の秋の週末に、ドイツのミュンヘンから空路でチューリッヒに飛び、列車でルツェルンに到着し、人生で最初にスイスに1泊した懐かしい都市である。
地図ルツェルン周辺.jpg
地図ルツェルン周辺

写真1カペル橋出入り口.jpg写真2カペル橋内部.jpg写真3カペル橋全景.jpg
写真1カペル橋出入口写真2カペル橋内部写真3カペル橋全景
  中央駅に近いホテルにリュックを預けて、早速カペル橋(Kapellbrucke)を訪れた。(写真1)の左側には、8角形の貯水塔が見える。現在は芸術クラブの集会場として使われているが、昔は牢獄や拷問部屋に使われた歴史がある。カペル橋は、屋根付きの木造橋で、内部に入ると屋根の梁に描かれた絵画が素晴らしい。(写真2)町の歴史が描かれている。カペル橋の全景を(写真3)に示す。橋の背後にはロイス(Reuss)川の北側にある旧市街が写っている。カペル橋の見学後旧市街を見物しながら北進し、氷河公園の南端にあるライオン記念碑(Lowendenkmal)を訪れた。断崖に彫り込まれた「瀕死のライオン像」は、迫力があった。フランス革命の時、ルイ16世、マリーアントワネネットと子供達を守るため全滅した700人超のスイス傭兵達の鎮魂碑であり、町のシンボルである。
写真4 ヴィッツナウ駅.jpg写真5 リギ・クルム駅.jpg写真6 リギ・クルム頂上.jpg
写真4ヴィッツナウ駅写真5リギ・クルム駅写真6リギ・クルム頂上
  午後はリギ・クルム(Rigi Kulm)を訪れることにした。中央駅の東側に市立美術館があり、その東側は美しい港である。12時3分に定期観光船に乗船し、12時51分にヴィッツナウ(Vitznau)港に到着した。(写真4)ヴィッツナウ駅を13時に出発して、リギ・クルム駅に13時30分到着した。(写真5)運悪く霧が深くなり、途中の山の景色は楽しめたが、ルツェルン湖は霧に霞んでしまった。駅から徒歩で頂上(1789m)まで登ったが、アンテナの下で寒さに震えながら家内が(写真6)を撮影した。再びリギ・クルム駅まで下山して、14時20分に出発し、ヴィッツナウ駅に15時到着した。ヴィッツナウ港を15時50分に出発し、ルツェルン港に16時44分到着した。
写真7 ピラトゥス・クルム.jpg写真8 ピラトゥスより.jpg写真9アルプナッハシュタート駅.jpg
写真7ピラトゥス・クルム写真8ピラトゥスより写真9アルプナッハシュタット駅
  7月17日朝ルツェルン駅を8時24分に出発し、南進してアルプナッハシュタット(Alpnachstad)駅に8時40分到着した。急いでケーブルカーに乗換え、8時50分に出発して、ピラトゥス・クルム(Pilatus Kulm)駅に9時20分到着した。(写真7)このケーブルカーは世界一の急斜面である。駅から頂上エーゼル(Esel)までは、写真の背後に見えるジグザグの山道を歩いて登った。(2132m)頂上からは北方にルツェルン湖も見えたが、霧に霞んでいた。反対の登ってきた山の方を眺めると、(写真8)の景色が素晴らしく、曲がりくねった山道が印象的であった。ピラトゥス駅を10時45分に出発して、アルプナッハシュタット駅に11時25分到着した。(写真9)駅の近くに美しいホテルがあり、昼食をして普通列車に乗り、アルプナッハシュタット駅を12時11分に出発し、南西に進んで14時にインターラーケン・オスト(Interlaken Ost)駅に到着した。この日の午後は次回の予定です。
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季節の花便り

4月の花便り/高橋 郁雄

  今回は、世の中のコロナ問題のため、遠出の取材は止めて自宅近辺からの報告となりました。
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なのはなベニバナトキワマンサク白山吹
なのはな(菜の花):我がグリーンハイツに隣接する農家の畑で、4月7日に撮影しました。「野菜(菜っ葉)の花」という意味から「菜の花」になった。別名:花菜(はなな)・菜花(なばな)・菜種(なたね)とも言われる。アブラナ科アブラナ属の花の総称を(なのはな)というので、この花の写真の野菜が何であるかは、定かではありません。
  花言葉=「快活な愛・豊かさ・財産・小さな幸せ・元気いっぱい」。3月7日の誕生花。千葉県の県花だそうです。
ベニバナトキワマンサク(紅花常盤満作):宮前区役所の隣に出来たマンションの生垣で咲いていたのを、4月11日に撮影しました。
原産地:(日本から中国、インド)。日本での自生地は静岡県、三重県、熊本県だそうです。
  花言葉=「霊感・私から愛したい・おまじない」。2月12日の誕生花。
白山吹:我がグリーンハイツ28号棟の脇に咲いたのを、4月22日に撮影しました。(バラ科シロヤマブキ属落葉広葉/低木)。ヤマブキにも白い花が咲く品種「シロバナヤマブキ」があるが、「シロヤマブキ」とは属が異なる別種だそうです。両者の違いは以下のようです。
 花弁
白花山吹5枚互生褐色
白山吹4枚対生黒色
  花言葉=「細心の注意」。5月20日の誕生花。