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斎藤さんのお話

ライン下り/齋藤 嘉博

  大橋兄が書かれた南ドイツへの旅を拝見して、もう20年も昔のことを想い出しました。ライン下りは多くの諸兄が経験をされていると思います。ボーデン湖に発したラインの流れをマインツからケルンまで185Km、両側に古城や古い街並みそれに有名なローレライの岸を眺めながらの船旅。  
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ライン下りの観光地図グーテンベルグ博物館博物館解説書
  小生フランクフルトから電車でマインツへ。しかしこの街にはライン下りの前にすることがあったのです。それはグーテンベルク博物館を訪れること。印刷術の父として知られているグーテンベルグはこの街で最初の印刷物、四十二行聖書を印刷しているのです。10時の開館を待つ間にお隣の大聖堂を拝観してから正面にグーテンベルグの像が建つ博物館に入りました。その様子を書いた拙著「メディアの技術史」(電機大学出版)の一節を転載しましょう。

  ライン川とマイン川が合流するところにマインツという街がある。当時城壁に囲まれていたこの小さな町に印刷術の父とされるグーテンベルグが生まれたのは1397年であった。この街にあるグーテンベルグ博物館には六層になった各階に印刷に関する様々な品と機械が展示されている。その中での圧巻はやはり彼が最初に印刷したと言われる二冊の四十二行聖書であろう。花文字でぴっしりと書かれた1282ページに及ぶ厚いラテン語の聖書がそれ以前の貴重な写本と一緒に照明を制限したくらい部屋に展示されている。(中略) 博物館の下層にはがっちりとした高さ三メートルほどの木柱に支えられた、ぶどう絞りの機械にヒントを得て作られた印刷機が置かれて、そこで当時の様子が再現されるデモンストレーションが行われている。錫と創鉛の合金で活字を作り、これを組み上げた版にインクを塗る。インキは革製のタンポンでむらなく広げられ、部分的に赤いインキが塗られる。台の上に置かれた版の上にホルダーに挟んだ紙を置き、その上から葡萄を絞る要領でレバーを強く回すと二色刷りの印刷が完了する。その実演を見ていた見学者たちから期せずして拍手が沸いた。

  この拍手はいまでも耳に残っています。グーテンベルグは上記の四十二行聖書を180部印刷し、そのうちの48セットが現存しているそうで、日本にも慶應義塾大学に一冊が保管されているよし。私は以前パサディナの図書館でこれを見たことがありますが、やはりグーテンベルグの古式印刷機での刷り上がりを見た眼での心象はまた格別。そして博物館の最上層には現存する世界最古の印刷物、わが国で推古天皇の時代に作られた百万塔陀羅尼のレプリカが展示されていたのは嬉しいことでした。

  グーテンベルグの時代から600年以上の歳月を経ました。私がまだ中学生の折、家から坂を下ったところにあった共同印刷の工場ではその昔と同じように、植字工が沢山の活字箱からひとつひとつ活字を拾って版を組上げ、本が作られていました。NHKの研究所では初期の頃ガリ版刷りのレポートを書いて青焼きの報告書を作ったのを覚えていますし、また留学の前には英会話だけでなくタイプライターの使用をずいぶん練習したものでした。

  私の手元には当時のタイプライターが保存されています。文字の配列はこれとパソコンではおなじですので、その経験は大変役にたったものでした。今ではほとんどがコンピュータによる作成。字ばかりでなく絵や写真なども簡単に文の中に取り込んでプリントできるという世の中になりましたが隔世の感があります。ラインr3.jpg
懐かしいタイプライター

  この見学のために午前中発のライン下り観光船には乗ることができず、といって午後の観光船では帰りが遅くなりすぎる。というわけで12時半発ケルン行きの急行便に乗船。これはビジネス用の百五十人ほどが定員のボートでしたから、しぶきをあげて早いスピードで走ります。寄港の港が少ないのはけっこうですが、山の上にある古城も、両岸の街々も、そしてローレライの岬もあっというまに後方に飛んで。ゆっくりと川下りを楽しむなんていう雰囲気ではありませんでした。家内と「もう一度来ないとネ」と笑ったものです。というわけで川下りの船からの写真は大橋兄の稿を参照してください。

  コブレンツからの帰りは川の右岸を走る列車でゆっくりとラインを堪能。リューデスハイムで下車をしてリフトで山に上がり、ニーダーバルト記念碑(ドイツ帝国発足記念の像)の下にある展望台からラインの流れを眺めました。この辺りぶどうの産地で、山にあがるリフトからの足元は一面のブドウ畑。グーテンベルグがぶどう絞りの機械を使って印刷を始めたという事が実感されるのでした。駅までの途中の“つぐみ横丁”には沢山のワインガーデンがならんでいます。アルコールに弱い私ですが、とある一軒に入って提灯が吊るされている野外のテーブルでゆっくりとリースリングを頂きました。フランクフルトのホテルに帰着したのはもう夜更けでしたっけ。

  大橋さん、ありがとうございました。お大事に。
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武田レポート

リトアニア史余談97:ジェマイチヤの反乱/武田 充司

 1401年3月、ドイツ騎士団の支配を嫌うジェマイチヤの人々が決起し、多くのドイツ人を人質にとってフリーデブルクの城を焼き払った(*1)。すでにジェマイチヤの長老や有力者の多くがドイツ騎士団によってプロシャに連れ去られていたから(*2)、彼らは人質にとったドイツ人と交換にその人たちを取り戻そうとした。

 1398年のサリーナス条約(*3)によってドイツ騎士団領となったジェマイチヤは1400年夏からドイツ騎士団による本格的な統治が始まっていたが、多くのジェマイチヤ農民がドイツ人の支配を嫌ってリトアニア領内に逃げ込んできた。その数4000人ともいわれているが、ドイツ騎士団はそれら逃亡民の送還をヴィタウタスに要求していた。しかし、彼ら農民の自由を尊重するという口実でヴィタウタスはドイツ騎士団の要求に応じなかった。ジェマイチヤの反乱の背後には当然ヴィタウタスがいると考えたドイツ騎士団は1401年秋、リトアニアのカウナスとガルディナス(*4)を急襲してヴィタウタスを牽制したが、彼らも本格的な戦争を望まなかったからそれ以上の事態には発展しなかった。事実、ジェマイチヤの反乱は自発的なもので、ヴィタウタスが扇動したという形跡はなかった(*5)。

 ところが、またしてもポーランド王ヨガイラの末弟シュヴィトリガイラ(*6)がこの不穏な状況に便乗してリトアニア大公の座を狙ってヴィタウタス追い落としに動き出した。1402年1月末にヨガイラはスロヴェニアから後妻を迎えて結婚式を挙げたが、この婚礼の儀に出席すると偽って、商人に変装したシュヴィトリガイラはドイツ騎士団のもとに赴き、ヴィタウタス追放の同盟を結んだ。そして、同年3月2日、彼らは共謀してリトアニアに侵攻してきた。これに対してヴィタウタスも、ニェムナス河畔のドイツ騎士団の拠点ゴッテスヴェルダー(*7)を急襲し、3日間の包囲ののち制圧した。こうしてサリーナス条約による偽りの平和は僅か3年余りで崩壊した。

 ヴィタウタスが立ち上がったことで士気を鼓舞されたジェマイチヤの人々は、1402年5月、バルト海に面するドイツ騎士団の重要拠点メメル(*8)を襲って焼き払った。しかし、その年の7月、ドイツ騎士団に支援されたシュヴィトリガイラがヴィルニュス南方に現れ、シャイチニンカイとメディニンカイを襲ったあとアシュメナに迫った(*9)。しかし、激しい攻防のあとドイツ騎士団軍は敗れ、撤退して行った。このとき、シュヴィトリガイラに与するヴィルニュスの一部貴族たちの陰謀が暴露した。ヴィタウタスは直ちに彼らを捕えて処刑した。そして、その翌年(1403年)の春、ヴィタウタスはジェマイチヤの人々の協力を得てダウガワ川中流のリヴォニア騎士団の拠点デュナブルク(*10)を襲ったが、ジェマイチヤをめぐるドイツ騎士団との戦いは決着せず、両陣営の対立は続いた。

〔蛇足〕
(*1)「余談96:最後の異教徒の地ジェマイチヤ」参照。フリーデブルクの城については同余談の蛇足(8)参照。
(*2)同じく「余談96」参照。
(*3)「余談93:クリミア遠征とサリーナス条約」参照。
(*4)ガルディナス(Gardinas)はカウナス(Kaunas)の南方約140kmに位置する現在のベラルーシの都市フロドナ(Hrodna)で、昔はグロドノ(Grodno)と呼ばれた。ここはドイツ騎士団が支配する現在のポーランド北東部の湖水地方(マズーリ〔Mazury〕)に近く、リトアニアとポーランドを結ぶ道筋に位置していたから度々ドイツ騎士団の攻撃目標になった。
(*5)このとき(1401年の秋)、ヴィタウタスはスモレンスクを包囲していた。しかし、スモレンスク公ユーリイを屈服させることができず撤退している(「余談95:ヴィルニュス・ラドム協定」参照)。この撤退はここで述べたドイツ騎士団によるカウナスとガルディナス攻撃に対処するための作戦変更であったと推測される。
(*6)シュヴィトリガイラ(Švitrigaila)は活動的な野心家であったようで、ときには長兄ヨガイラさえ持て余す行動に出ることもあった。特に、従兄弟のヴィタウタスがリトアニア大公となったことに不満だった。事実、1400年末に「ヴィルニュス・ラドム協定」が結ばれた直後に、シュヴィトリガイラはマゾフシェのシェモヴィト4世を説得して反ヴィタウタス同盟を結成しようとしたがシェモヴィト4世は動かなかった。そこで次の策としてドイツ騎士団に働きかけたのだった。シェモヴィト4世については「余談84:クレヴァの決議」および「余談85:ポーランドに婿入りしたヨガイラ」参照。1430年にヴィタウタスが亡くなったときにも、シュヴィトリガイラはリトアニア大公位をめぐってヴィタウタスの弟ジギマンタスと争い、短い間ではあったがリトアニア大公(在位1430年~1432年)になっている。
(*7)ゴッテスヴェルダー(Gotteswerder)は、1369年にドイツ騎士団総長ヴィンリヒ・フォン・クニプローデによって、カウナス西方の、ネヴェジス川が北方からニェムナス川に合流する地点か、その少し下流の、ニェムナス川の川中島に築かれ城が起源であるが、その後、その城は荒廃していたので、サリーナス条約締結を機にドイツ騎士団がそこに新たな城を再建し、リトアニアとの国境を守る拠点とした(「余談96:最後の異教徒の地ジェマイチヤ」の蛇足(8)参照)。したがって、ヴィタウタスは先ずこの国境の拠点を攻撃したのだ。
(*8)メメル(Memel)は現在のリトアニア北西端の港湾都市クライペダ(Klaipėda)のドイツ語名である。当時、ここはプロシャのドイツ騎士団本部と北方の支部であるリヴォニア騎士団(現在のラトヴィアを基盤としていた騎士団)を結ぶ重要な中継基地であった。
(*9)シャイチニンカイ(Šaičininkai)とメディニンカイ(Medininkai)は、それぞれ、ヴィルニュスの南方約40kmとヴィルニュスの南東約30kmに位置するリトアニアの都市である。アシュメナ(Ašmena)はヴィルニュスの南東約50kmに位置する現在のベラルーシの都市アシュミャニ(Ashmjany)で、ヴィルニュスからメディニンカイとクレヴァ(Krėva)を経て、現在のベラルーシの首都ミンスクに至る街道の中間(メディニンカイとクレヴァの間)に位置している重要都市であったから、ここの攻防は特に激しかった。
(*10)デュナブルク(Dünaburg)は現在のラトヴィア南東端のダウガワ河畔の都市ダウガウピルス(Daugavpils)のドイツ語名である。
(番外)14世紀末から15世紀初頭にかけてのドイツ騎士団は、北東ヨーロッパの内陸部からバルト海への物資輸送の大動脈である三大河川、ラトヴィアのダウガワ川、リトアニアのニェムナス川、ポーランドのヴィスワ川の中下流地域を支配下に置き、ハンザ同盟とのバルト海交易を独占して大きな経済的利益を手にしていた。その結果、当時のドイツ騎士団は軍事的にも経済的にも強力な国家となってポーランドとリトアニアを脅かしていた。15世紀初頭はこの緊張関係が沸点に達した時代であった。
(2020年2月 記)
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大橋レポート

ハイデルベルクから白鳥城へ/大橋 康隆

  1998年7月10日朝ストラスブール駅を9時8分出発し東方に向かい更に東北に進んでカールスルーエ駅(Karlsruhe)で乗換え、北進してハイデルベルク駅(Heidelberg)に11時16分に到着した。
  中央駅からトラムで約10分東方に進み、大学広場で下車した。ハイデルベルク大学と旧校舎を眺めながら更に旧市街を東に進むと、マルクト広場(Marktplatz)に到着した。ここからハイデルベルク城(Schloss Heidelberg)に登り、内部を見学した。地図ドイツ南部.jpg
地図ドイツ南部
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写真1旧市街写真2城全景写真3哲学者の道
  1962年の秋に米国留学の帰途訪れたのが最初であるが、その時は霧に覆われ城を通り過ぎて山に入り込んだが、親切な老人に出会い「城はもっと下だよ。」と教えてもらい助かった。その時も城から四方を撮影したが、霧で霞んだ写真しか残っていない。今回は天気に恵まれ、城から四方を撮影した写真は上出来であった。(写真1)の左に聖霊教会(Heiliggeistkirche)、右にカール・テオドール橋(Karl-Theodor Brucke)が見える。城の見学後、ネッカー川に架かる橋を渡って対岸の坂道を登り、哲学者の道(Philosophenweg)を西に向かって進んだ。ここから撮影したハイデルベルク城とカール・テオドール橋が(写真2)である。散歩道の入り口には、花壇やベンチがある。(写真3)哲学者の道を堪能して、テオドール・ホイス橋(Theodor-Hois Brucke)を渡り旧市街からトラムで中央駅に帰った。ハイデルベルク駅を16時53分出発して北方に進み、マインツ駅(Mainz)で乗換え、リューデスハイム駅(Rudesheim)に19時43分到着、川沿いのホテルに宿泊した。
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写真4ブファルツ城写真5ローレライ写真6ライン河畔
  7月11日朝9時にリューデスハイムの船着場からライン下りの観光船に乗船した。15分後に対岸のビンゲン(Bingen)に寄港したが、私にとって懐かしい場所だ。1962年の秋、ハイデルベルク駅からベルギーに向かう途中、夜中にここで列車が行き止まりになり、止む無く下車して暗い町で唯一灯が見えた居酒屋の2階に泊めてもらったが、清潔な部屋であった。翌朝、1階で朝の食事をしていたら、近所の低学年の小学生が数人珍しそうに窓から覗いていた。手を振ると喜んで、一斉に小学校の方へ走って行った。更に約1時間後に、バッハラッハ(Bachrach)とカウブ(Kaub)の間にある中州にプファルツ城(Burg Pfalzgrafenstein)が現れた。(写真4)ここから30分位でローレライ(Lorelei)に到着した。(写真5)写真の左にトンネルが見える。昔先輩方からライン川の両岸に鉄道が走っており、間違えるとローレライはトンネルの中からは見えないぞと注意されたのを思い出した。この後も、次から次に(写真6)の様な城と葡萄畑が現れてきた。コブレンツ(Kobulenz)の船着場に12時50分に到着したが、タクシーでコブレンツ駅に急行した。13時54分にコブレンツ駅を出発し、マンハイム、アウグスブルグ、ブッハローで乗換えて、フュッセン駅(Fussen)に20時57分に到着した。夜遅く到着したので、タクシーでホーエンシュバンガウ村Hohenschwangau)のホテルに直行した。
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写真7白鳥城全景写真8白鳥城より写真9麓の城
  7月12日朝、ホテルから坂道を登り待望のノイシュヴァンシュタイン城(Schloss Neuschwanstein)を訪れた。馬車に乗って訪れる観光客もいたがここまで苦労して来たので徒歩で頑張った。城の全景は、背後の山の谷に架かった橋から撮影した。(写真7)城に入場して眺めたパノラマは素晴らしい。(写真8)の右下には、ホーエンシュヴァンガウ城が見える。先程城の全景を撮影した谷に架かる橋も撮影出来た。この様に理想的な城の建設に邁進して、権力や財政の衰退の現実を顧みなかった第4代バイエルン王ルートヴィッヒ2世は、狂気王と言われ謎の死を遂げた。しかし現在では、多くの観光客が楽しみ、、村の人達は恩恵を受けている。午後は、山を降りてホーエンシュヴァンガウ城(Schloss Hohenschwangau)を訪れた。(写真9)外観は単調だが、内部は「英雄の間」「白鳥の騎士の間」など見事であった。夕方ホテルに帰着して、久しぶりにゆっくり休息した。
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季節の花便り

1月の花便り/高橋 郁雄

  今回は向島百花園からです。1月17日に撮影しました。今回の花はすべて再登場です。
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冬牡丹1冬牡丹2冬牡丹3
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白梅紅梅蝋梅
  冬牡丹は温度管理をした上で、春が既に来たかのように感じさせて、1月に咲かせています。2016年~2019年に毎年1月の花便りで冬牡丹を紹介してきましたが、すべて1種だけでした。今回の向島百花園では、3種が展示されていましたので、3種すべてを掲載しました。
  白梅、紅梅も少し早く咲かせるように管理されているのではないでしょうか。そのように感じました。蝋梅は2009年、2010年、2012年、2013年、2015年に登場しています。
  いずれにしても、早い春を感じて頂ければ幸いです。