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沢辺レポート

近頃思うこと(その45)/沢辺 栄一

  前回のブログでオリンピック委員会(IOC)の気配りの無さを指摘したが、その後、暑さ対策の対応についても気配りの無さを露呈した。
  IOCは9月に高温と高湿度の中でのカタールのドーハで実施された陸上世界選手権の女子マラソンと競歩で、参加選手の約40%が棄権したので、あわてて東京オリンピックのマラソンと競歩を札幌に移転した。関係都市の東京、札幌に何の相談も無く、一方的に理事会の決定だとして伝達してきた。

  これまで各種の暑さ対策等に数百億円を掛けてきた東京都が怒るのは当然であり、札幌市でのマラソンの資金を都民の税金を出すことを拒否している。これまで掛けた費用の賠償を要求するとしている。また、マラソン見物に期待を掛けているコース周辺の住民やチケット購入者の不満、途惑い、突然押し付けられた札幌市のマラソンへの準備対応とその資金の捻出の課題等々色々な問題を招いている。

  オリンピック委員会はオリンピックを遣らせてやるのだと一段上の立場からトップダウン的に開催都市を軽視した発言をしている。一般に欧米人はトップダウンで決定することが多いように思うが、トップダウンは発言者に能力があり、発言を受けた立場の人が従順で、比較的能力が低い場合には効果的である。オリンピック委員会の委員はスポーツの専門家であり、スポーツ以外には比較的目が届かない狭い視野の人達で、影響を受ける人達への気配りをしない目先の決定をしたのであろう。日本人は一般的に能力がある人が多く、ものを決める場合に根回し、下相談等、事前に関係者の了解を得る行為を行い、その際、良い考えがあれば、それをピックアップすることも行なっており、その後の関係も滑らかに進めていくことができるよう配慮している。

  オリンピック委員会の今回のマラソン競技の札幌市への移転の決定は選手の暑さ対策による変更であるとは言え、もう少し遣り方があったのではないだろうか。上記のように、各種の問題を残しており、今後の成り行きを注目していきたいと思っているところである。

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武田レポート

リトアニア史余談94:ヴォルスクラ川の戦い/武田 充司

 ウクライナの首都キエフの東南東300kmほどのところにポルタヴァという都市がある。そこは18世紀初頭の大北方戦争の行方を決した大会戦「ポルタヴァの戦い」があった場所として知られているが、それより310年前の1399年、ポルタヴァの北方郊外のヴォルスクラ河畔でリトアニア大公ヴィタウタス率いる遠征軍がキプチャク汗国の汗テミュール・クトルク率いるタタール軍と対峙した。

   このとき、ヴィタウタスは、ティムールの傀儡テミュール・クトルクに汗位を奪われて国を追われたトクタミシュ(*1)の復位を支援するという口実で(*2)、大軍を率いてこの地に遠征してきたのだった。遠征軍にはドイツ騎士団の騎士たちも加わっていた(*3)。ウクライナ南部の草原地帯に潜伏していたトクタミシュも一軍を率いてリトアニア軍に合流した。

 一方、形勢不利とみたテミュール・クトルクは、軍司令官エディグ(*4)率いる援軍が到着するまで戦闘開始を引き延ばそうと、一計を案じて敵陣に使者を送った。そして、首尾よく3日間の休戦をヴィタウタスに認めさせた。このとき、テミュール・クトルクは、「これからの3日間を互いに戦闘準備に充てることにして、戦いはそのあとにしよう」と提案したというが、違う説明もあり(*5)、真相は不明だ。
 しかし、ヴィタウタスは、この3日間に多数の軍用車輛を並べて強力な防禦壁をつくった。彼はその背後に兵力を結集して、疾風のように襲いかかるタタールの騎馬兵の足を止め、防禦壁内の陣中から一斉射撃を浴びせて敵を殲滅しようという作戦を立てた。ヴィタウタス率いる遠征軍は、ドイツ騎士団の協力を得て、優れた装備と強力な弩弓や火砲をもっていたが、兵員の数は限られていたから、敵地に近い戦場ではこうした作戦が適していると判断したのだろう。

 こうして3日間が過ぎ、1399年8月12日、ヴォルスクラ川を挟んで対峙した両軍は一斉に火ぶたを切った。予想通り、タタールの騎馬兵はリトアニア陣営めがけて雲霞の如く襲いかかってきたが、リトアニア側からの一斉射撃を喰うと、あっという間に逃げ去ってしまった(*6)。これでは戦にならぬと思ったヴィタウタスは、全軍を率いて車輛で築いた防禦壁内の陣地を出ると、蜘蛛の子を散らすように逃げる敵兵を追撃した。もはや勝負あったと勇み立つヴィタウタス軍が自陣から遠く離れたそのとき、エディグ率いるタタールの精鋭軍団が突如として背後から襲ってきた。そして、リトアニア軍はあっという間に包囲されてしまった。これを見たトクタミシュは真っ先に戦線を離脱し逃走した。これがきっかけでリトアニア軍は総崩れとなり、夥しい死傷者を残して敗走した(*7)。ヴィタウタスとジギマンタスの兄弟は数人のドイツ騎士団幹部とともに辛うじて戦場から脱出し生還した(*8)。

〔蛇足〕
(*1)キプチャク汗国の汗であったトクタミシュは、1391年にキプチャク汗国の北部に侵攻したティムール朝の始祖ティムールを迎え撃ったが「コンドゥルチャ川の戦い」で敗れ、1395年にはカフカス山脈北側のテレク河畔の戦いで再度ティムールに苦杯を喫した。そして、その翌年にティムールが擁立したテミュール・クトルクに汗位を奪われたトクタミシュは、黒海北岸の草原地帯に逃れてヴィタウタスに支援を求めた。なお、トクタミシュはキプチャク汗国建国の祖バトゥの異母弟トゥカ・テムルの7代目の末裔と言われている。一方、テミュール・クトルクは、混乱していたキプチャク汗国を統一した汗ウルスの孫である。ウルス没後、彼の父(したがってウルスの息子)テミュール・マリクはトクタミシュと争って敗れ、トクタミシュに殺害されたが、トクタミシュは父を亡くしたテミュール・クトルクを引き取って面倒をみた。しかし、テミュール・クトルクは父の仇であるトクタミシュを許さず、腹心の部下エディグとともにトクタミシュの宮廷を脱出してティムールのもとに逃れ、トクタミシュに反旗を翻した。このように、トクタミシュとテミュール・クトルクは因縁浅からぬ関係にあった。
(*2)当時は教会大分裂の時代であったが、1399年5月、教皇ボニファティウス9世が、クラクフの司教らの働きかけもあって、東方の異教徒討伐十字軍を勧奨したことがこの遠征の本当の理由と言われている。
(*3)このとき既にサリーナス条約によってリトアニアとドイツ騎士団は軍事同盟を結んでいた(「余談93:クリミア遠征とサリーナス条約」参照)。
(*4)エディグは、先に述べたように、テミュール・クトルクの腹心の部下であったが、有能なエディグが実権を握っていて、テミュール・クトルクはエディグに操られていた。
(*5)ロシアの年代記には以下のような面白い説明があるという。それによると、テミュール・クトルクが「何故に貴殿は我々を攻撃するのか、我々は貴殿の領土を侵したことはないぞ」と対岸のヴィタウタスに問うと、ヴォタウタスは「神が私に全ての土地を征服せよと告げたからだ。貴殿は私の家臣にならねばならぬ」と言い放った。これに応じてテミュール・クトルクはヴィタウタスに臣従したが、ヴィタウタスがキプチャク汗国の貨幣に自分のサインを刻印することを要求したため、テミュール・クトルクは即答を避け、3日間考えさせて欲しいと言った。そのあとエディグが到着してこの話を聞き、激怒し、「我らの汗テミュール・クトルクは貴殿より年長だ。貴殿こそ我が汗に仕えるべきだ」といって戦闘開始に至ったというのだ。
(*6)この戦い方は軽装備で機動力に富むモンゴル軍がよくやる戦法であった。
(*7)ヴィタウタスに従って遠征した50人ほどの諸侯のうち約20人が戦死したという。その中にはポーランド王ヨガイラの異母兄(ヴィタウタスの従兄)のアンドレイとドミートリイもいた(彼らについては「余談79:アルギルダス大公没後の内紛」参照)。また、ヴィタウタスの異母兄ブタウタスが1365年に家臣とともにドイツ騎士団に寝返ったとき以来ドイツ騎士団に仕えていた家臣スルヴィラも、このときドイツ騎士団側の有能な通訳兼外交官として遠征に参加していたが、この戦いで戦死した。そのほかに、リトアニア軍に加わっていたモルドヴァのステファン1世も2人の兄弟とともに戦死した。
(*8)このとき、彼ら兄弟は、2人のドイツ騎士団幹部とマルクァード・フォン・ザルツバッハ(「余談87:同君連合下のリトアニア」の蛇足(6)参照)とともに脱出したという。
(番外)この戦いで勝利したタタール軍は撤退するリトアニア軍を追ってキエフに達し、さらに西進してヴォリニアのルーツクまで侵攻した。しかし、このあと間もなく、テミュール・クトルクはトクタミシュの息子に殺害され、汗位はテミュール・クトルクの弟シャディ・ベグ(在位1399年~1407年)にうけ継がれたが、実権は依然としてエディグが握っていた。一方、逃げたトクタミシュも1406年に西シベリアのチュメニにおいてエディグに殺害された。
(2019年11月 記)
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斎藤さんのお話

運転免許返納/齋藤 嘉博

  私の自動車免許証は今年の9月18日まで。この機会に免許証を返納しようと決心しました。
  真に痛ましい事故が続いています。高齢者だけが悪者ではないと思いますが、やはり高齢ゆえの事故が多くなっていることは確かでしょう。運転の誤りで自分が電信柱にぶつけてというのならまだ許せますが、他人様を巻き込んで、とくに児童を殺傷する事故は本当に胸が痛みます。私が最初にハンドルを握ったのは1944年のことでした。学徒動員で仕事をしているときに、その構内で軍用トラックを動かしたのです。構内ですから無免許でも罰にはなりません。その後何回か無免許でハンドルを握って練習。1957年に鮫洲の免許試験場で合格。当時は鮫洲も海の際。方向指示器は手動で赤い矢印が出るアポロでした。それ以来60年余り、事故もなく優良免許で過ごしました。

  いや実は一昨年暮れに事故を起こしたのです。給油所のおじさんが洗車をしていらっしゃいと大変しつこく言いましたので、それならと洗車場に入りました。“いってらっしゃい”という言葉を耳にしたのが仇。いつもなら定位置に停車しているのに、その言葉で「あすこまでゆっくり行けばイインダと錯覚。そろそろと車を前に出したのがいけませんでした。途中で洗車ブラシにからまれてフロントガラスはバリバリと割れ、車はぺしゃんこ。あとで「こんな状態でよく生きていられましたネエ」と車を見たディーラー、保険屋さんは異口同音にびっくり仰天!!小生かすり傷もなく、あとは保険屋さんの仕事と雨の降る中を帰宅したのでした。それ以来家内も娘も「車の運転絶対にいけません!!!」。キーは取り上げられてしまいましたが、免許証があればレンタカーもカーシェアもあるし、と思いながら。でも運転はしませんでした。この事故で全く怪我がなかったのは毎朝般若心経をあげる阿弥陀様のご加護のおかげとしか考えられませんし、この辺で車はやめなさいという啓示だったのでしょう。先月初めの京急衝突事故。トラックの運転手の心理は前述の洗車場事故と思い合わせて私には分かるような気がします。

  このところの事故、多くがアクセルとブレーキの踏み違いと言われ防止用の器具まで売られているようですが、私はもうずっと左足でブレーキ、右足でアクセルとしていました。脚は二本ですから二つのペダルを両足で分けて使うのが自然の摂理でしょう。昔はクラッチがありましたのでこうはいきませんでしたが今の車はすべてオート。これによって踏み間違いの事故はぐっと少なくなるし、危険の場合のブレーキも0.3秒早く踏むことができる。事故の確率は減るでしょう。しかし現在の日本の教習所はそれを忌避するのです。免許更新の実地試験では左足を使わないでくださいと注意されました。

  代々木署に返納の手続きをすますと、やはりなんとなく寂しさがこみあげて、アアこれで俺の人生も終わったナという思い。冥途へのパスポートをもらった感覚で「この証明があれば冥途での運転はできますヨネ」と言いましたら、ご婦人の警官が「エエ、出来ますヨ」とユーモアを解せる明るいご返事でした。

  60年以上の間、車にはずいぶんお世話になったことです。国内よりむしろ海外、特に米国でのドライブが大きな楽しみでした。ヨセミテ、イエロストーンなど多くの国立公園を走りましたが、最も印象に残っているのはブライスキャニオンの景観が見たくて計画した2003年の旅です。ラスベガスで車を借りてまっすぐにブライスキャニオンへ。そこに三泊してゆっくりとこのキャニオンを楽しみ、隣のザイオンNPへ。さらに黄葉の林のなかを走って、あまり人の行かないグランドキャニオンのノースリムからの眺めは、やはり南壁からの眺めとは違って荒々しさの目立つすばらしいものでした。

  パウエル湖での水面に浮かぶ夕月の姿も旅情をそそり、ここから東に走ってナバホの自治区であるモニュメントバレーへ。ブログ1.jpgブログ2.jpg
モニュメントバレー
へのドライブ
ミッチェルビュート
の落日

  夕陽に浮かぶビュートのシルエット、ジョン・ウェインが活躍した広大な砂漠はぞくぞくする気分。そしていくつかのキャニオンランドを巡って最後はグランドキャニオンへ。ベストウエスタンのモーテルを泊り走った18日間、1613マイルのドライブでした。もう車では走れないと思うと幾何の悲哀が残ります。

  これからの高齢社会、いくら自動運転が一般化しても事故はますます多く、そして大きなものになるでしょうが、なんとか子供を巻き添えにする事故はなくなってほしいものです。

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大橋レポート

コルマールからリクヴィルへ/大橋 康隆

  1998年7月に家内がフランスのストラスブール(Strasbourg)で開催された国際炭素学会(International Carbon Conference)に出席することになったので、前年に定年を迎えた私も同伴することにした。引き続き家内の夏休みを利用して、ドイツとスイスを旅行した。
  7月3日12時に成田空港を出発し、17時20分にパリのドゴール空港に到着した。国内航空便に乗換え、19時にドゴール空港を出発して、20時にストラスブール空港に到着した。ストラスブール駅に近いホテルを予約してあったので当分旅行の根拠地になった。
地図フランス東部.jpg
地図フランス東部
  7月4日は、8時30分の列車でコルマール(Colmar)へ行く予定であったが、土曜日だったので10時31分の列車しかないことが判り、事前調査が不十分であることが露呈した。貴重な時間を無駄にして、がっかりしながら駅の地下道を進んでいると、前方から緊張した顔の妙齢の日本人女性が数人現れた。只ならぬ様子なので、「何か探しておられるのですか。」と尋ねると「小銭が無くてトイレが使えない。」とのことだった。「トイレで清掃している方にお札を出して、小銭に換えていた人を見かけましたよ。少しチップを渡せば良いようです。」と答えたらホッとして笑みが浮かび、トイレの方角に急行された。予定より大幅に遅れたが、11時3分に無事コルマール駅に到着した。
写真1コルマールの運河.jpg写真2コルマールの運河.jpg写真3 コルマールの運河.jpg
写真1コルマールの運河写真2コルマールの運河写真3コルマールの運河
  コルマール駅から東方に800m位進み、先ず有名な小ヴェニス(Petete Venise)を訪れ、運河に沿った独特の建物や、その影を撮影した。
  (写真1)は運河に浮かぶレストランで、白いパラソルが印象的であった。帰国後、F-8号の油絵に描いてNEC OB パレット会展に出展した。橋の反対側の(写真2)や、運河の岸から橋を眺めた(写真3)なども撮影したが、当時はアナログカメラでデジカメの様に沢山撮影が出来ず残念であった。
写真4コルマールの市街.jpg写真5コルマールの市街.jpg写真6コルマールの市街.jpg
写真4コルマールの市街写真5コルマールの市街写真6コルマールの市街
  次に運河に沿って北方に進み(写真4)(写真5)(写真6)の様な市街を撮影した。コルマールの北端にはウンターリンデン美術館(Musee d'Unterlinden)があり、その近くにある観光案内所を訪れた。ここで、午後の郵便バスに乗ってリクヴィルまで行けることが判明し、思い切って訪れることにした。帰りのバスの停留所は行きと違うから注意して早めに引き揚げるように注意された。
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写真7ドルダーの塔写真8リクヴィルの葡萄畑写真9リクヴィルの教会
  コルマールから郵便バスで北西に進み、リクヴィルに来てみると、これはまた別世界であった。ドルダーの塔が入り口に聳え、中へ入ると両側の素晴らしい建物に美しい花が咲き乱れ、壮観であった。(写真7)の下部は、多くの観光客が写っているので、残念ながらカットした。ドルダーの塔は帰国後数年を経て、F100号の油絵に描き、新構造展に出展した。ドルダーの塔に登る時間もなく、北側に広がる葡萄畑の丘(写真8)に登ることも出来ず、近くの美しい住宅や教会(写真9)を撮影して、後ろ髪を引かれる思いで帰路のバスに乗った。

  コルマール駅を16時40分に出発し、ストラスブール駅に17時15分に到着した。今から反省すると、ストラスブールから観光バスでコルマールに行き、リクヴィル等のワイン街道の村や、古城を歴訪した方が効率が良かったと思う。しかし、ワイナリー等で時間を消費するので、写真撮影に集中する自由度を確保するには好都合だったと思っている。

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小林レポート

半世紀前の記録から:南アフリカ(4)/小林 凱

  このレポートはこの国の各所を訪れているので、再度地図を入れて置きます。(Fig. 1)

  今回(1966)の南アフリカ訪問の目的は、この奥地で計画されていたプロジェクトに参加する為の準備でした。
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Fig1

  入札に備えて調査する内に、現地に付いての色々な知識が必要になって来た。これは当然の事であって、事前見学を希望する者は申し出て許可を取り行う様に指定されていた。私たちは遠い国から来て何も知らないからこれを申し出る事にしたが、問題は現地へ行く手段で陸路は時間が掛かって実際的ではない。当地では普通に飛行機をチャーターして行く様で、その場合は着陸する飛行場も指定されていた。そこで私は代理店として仕事で組んでいる現地の商社の人と二人で出向くことになった。
  飛行機はこの代理店が手配して呉れて、小型機のオーナー兼操縦士の男とアフリカの空を旅する事になった。この操縦士は以前にも使ったことがある様で、本名は忘れたが通称チムニー(煙突)と呼んでた。訳を訊くと会えば判ると笑っていた。
  出発の朝指定されたヨハネスブルグ国際空港へ行った。私は元々町はずれの小さな飛行場辺りを想像して居たので、この指定には驚いた。操縦士に会うと彼は本当にチェンスモーカーで煙草を片時も離さない。渾名の訳は分かったが彼一人で操縦しながら煙草に火などつけて大丈夫か心配になった。飛行機は単発のセスナ機で、座席は前後各2席、前席はチムニー氏と彼のカバンや喫煙道具、後席に我々二人が乗り組んだ。
  私達は暫く誘導路で待って、指示が来てチムニー氏はさあ今だと飛行機を滑走路に移動させたと思うと、すぐに速度を上げ忽ち空中に浮かんだ。
  当日は好天であちこちに雲が浮かんで居るだけで風も穏やかで、高度は2km位かと思うが展望されるアフリカの大地はずっと先まで広大な高原が拡がり、素晴らしい眺めであった。私達は北西の方向、内陸に向かって進んだ。この辺りは搭乗前に見た地図では茶色になって居たが、それは高度を示すもので実際は木や草原の緑に覆われていた。始めは所々に町、或いは建物が見えたがあとはそれも無くなった。私は草原を駆ける動物たちの姿も期待していたが、それが見える事はなかったものの、広大な景色だけで十分に楽しめた。
  暫く飛んだところで、遥かに爆発音が聞こえ花火の様な白煙が見えた。チムニー氏は鉱山の発破の由であの上に居たら一発だが、その場所と時間は聞いているから心配するなと言われた。
  それから間もなく前方に奇妙な景色が現れて来た。それは一辺が数百mもあろうかと思われる巨大な四角形の穴で、丁度エジプトのピラミドを逆さまに掘り出した跡の様な形をしていた。その斜面には地表から底まで並行に階段の様な線が刻まれて、細く見える線上には実際は巨大な重機と思われるものが点の様に置かれていた。階段状の斜面にはコンベアーと思われる線状の設備があり、地上には四角の一辺に沿って鉄道の線路が引かれて居た。
  私達はこの逆ピラミド穴の近くの上空を通過したが、そこから離れてこの様な穴が数個在るのが見えた。私は日本で東北の小坂とか細倉などの鉱山を訪ねた事があるが、そこでは奥深い山の斜面から地中深く坑道が掘られ、トロッコで地上に運ばれた鉱石は山の斜面にある選鉱場で選別され精錬所に運ばれていた。しかし此処はそれとは全く違う鉱山の景観であった。
  この後暫くして私達は指定の飛行場に到着した。ここは雑草の生えた滑走路に吹き流しがある程度の所で、セスナ機を端に置いて迎えの車に乗り換えた。駐機したセスナ機の左に居るのがチムニー氏である。(Fig.2)Fig2.JPG
Fig2
  それからこの辺りを案内して貰ったが、ずっと平坦な草原と木々で動物に出会う事は無かった。後日この辺りに長期滞在した人の話では、数種類の動物を見かけた様だが、それは滞在した時間の幅も違う。
  見学後、私達は再び素晴らしい眺望を楽しみながらヨハネスブルグ空港へ帰った。上空で待機して管制塔の指示が来ると、チムニー氏はさあ今だと急遽滑走路の上空に移動し、まだ可成り高度がある様に見えたが降下して地表近くでぐっと機首を擡げ軽くトンと着陸した。それから滑走路を少し真っすぐに走っただけで急ぎ横の側道に退避した。後を振り返ると大型の旅客機が轟音を響かせて離陸していった。

  この旅をした後、動物が全く見れなかったと話したら動物園を見に行けと言われた。冗談かと思ったが事務所の日本人の人から一見の価値ありとの話で、次の週末に行ってきた。判った事は日本とは違って広大な敷地に動物が放たれて、人間は遊歩道の様な通路を動物に眺められる様な形で見物していた。この動物と人を視界を妨げない様に仕切るノウハウには感心した。(Fig.3)  またこの動物園では野生動物の餌やりがアトラクションの様で、入園するとそのスケジュールを呉れたが、私は時間の都合が悪かったのか何の餌やりを見たのかよく覚えていません。(Fig.4)
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Fig3
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Fig4

  今回のプロジェクトでは、私は先述の現地代理店と組んで仕事をしていたが、この商社は本店がケープタウンで、私はヨハネスブルグの支店と日頃接触していた。11月も後半に入った頃、次の打ち合わせは本店でやりたいと言って来た。これには私がヨハネスブルグしか知らずに帰るのは可哀そうだとの配慮が感じられたので、有難くこの申し出を受けた。JohannesburgとCapeTownの間は、南アフリカ航空の便が日に何便もあり2時間弱のフライトで行ける。数日後私はケープタウンに向かった。 空港から市内ターミナルへのリムジンは0.5Rand(1Rand=¥500)、海に近いこの町は何か空気が優しい感じがして、大航海時代から商業の中心として栄えた歴史が、町を歩く人たちにも残っている様に思われた。バスを降りると代理店のオフイスはすぐ判った。
  午後の打ち合わせの後、夕食会をしてくれるとの事で、その前にホテルに入るため外に出ると街には沢山の人が歩いていた。(Fig.5) 夕食会はオフイス近くのレストランで先方の幹部も出て、ずっと中華の一品料理で過ごしていた私には大変美味であった。特に当地の赤ワインが料理に良く合った様に覚えています。Fig5.JPG
Fig5
Fig6.JPGFig7.JPGFig8.JPG
Fig6Fig7Fig8
  翌日は打ち合わせは早めに済ませてケープタウンを案内してくれた。先ず訪れたのはこの街の背後に聳えるテーブルマウンテンで、高さ約1000mの岩山が街を見下ろす様に聳えている。麓まで車で行きロープウェイで山頂に登るとケープタウンの街が真下に見渡せた。(Fig.6)(Fig.7)
  この後山を下りてから少し離れた喜望峰(Cape of Good Hope)の近くに行った。(Fig.8) 岬の先へは公園を徒歩で行くので時間も掛かる由、残念だが割愛してヨハネスブルグに帰った。
  その次週、私は当地での予定を終えて南アフリカを発った。
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季節の花便り

10月の花便り/高橋 郁雄

  今回は新宿御苑からと自宅近辺からです。
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十月桜(?)ハメリア金木犀
十月桜(?):10月10日に新宿御苑で撮影しました。新宿御苑の説明地図で(ジュウガツザクラ)と明記してあるところで撮影したのに、写真をよく見ると花が一重にも見れるので、(?)を付けました。正しくは十月桜は八重で、冬桜が一重です。
  十月桜の花言葉=「神秘な心・寛容」。
  冬桜の花言葉=「冷静」。
ハメリア:10月10日に新宿御苑の温室の入口付近で撮影しました。中南米(中央アメリカ~ブラジル)原産。一年を通じて枝先に黄~朱色の花を次々に咲かせる。花期は通年だそうです。
金木犀:10月16日に我が家の近くで撮影しました。中国南部原産。江戸時代に日本に渡来。雌雄異株だが輸入された時に雄株しか入ってこなかったことから、日本にあるキンモクセイには実(種)が付かないそうです。
  花言葉=「謙虚・謙遜」:強い香りが印象的な一面とは裏腹に、咲く花は直径1cmにも満たないと小さくつつましい様子に因んで付けられた。