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武田レポート

リトアニア史余談117:ゴルプ戦争/武田 充司

 1414年11月に始まり3年半近く続いた「コンスタンツ公会議」(*1)も1418年4月22日ようやく終わったが、この公会議においても「トルンの講和」(*2)に対するポーランドとリトアニアの不満は解消されず、彼らとドイツ騎士団との対立は続いた。

   公会議が終った翌年(1419年)の春、教皇マルティヌス5世はこの対立を調停するべくミラノ大司教カプラ(*3)を特使として送り出した。リトアニア・ポーランド連合とドイツ騎士団の代表はカプラの仲介で、ドイツ騎士団の拠点トルンに近いポーランドの都市グニェフコヴォ(*4)において新たな交渉に臨んだ。しかし、この調停も不調に終わった。

   すると、その年の夏、リトアニア・ポーランド連合軍がドイツ騎士団領の国境付近に結集し、軍事的緊張が高まった。この緊迫し状況を打開しようと、今度は、神聖ローマ皇帝ジギスムントが調停に乗り出した。年が明けて1420年の1月6日、皇帝はポーランドのヴロツワフ(*5)において、1411年に結ばれた「トルンの講和」(*2)は有効であり、適正なものであるとの裁定を下した(*6)。リトアニア大公ヴィタウタスは、この裁定を全く受け入れ難い不当なものだとして憤激したが、従兄弟のポーランド王ヨガイラは一応この裁定をうけ入れる態度を示しつつ、教皇マルティヌス5世に裁定の無効宣言を発出するよう請願した。そこで、教皇はこの裁定に補足説明を付けて折衷案をつくり、これによってリトアニア・ポーランド連合とドイツ騎士団を和解させようとしたが、かえって両者の反発を招いた。

   ドイツ騎士団総長ミハエル・キュヒマイスターはマリエンブルクの城壁の強化など戦争の準備を急がせたが、財政難と増税による内部の不満から、1422年3月、辞任を余儀なくされ、パウル・フォン・ルスドルフが新総長に選出されるという事態になった。一方、この年の5月、ボヘミアではジギスムント・コリブトがプラハに入城してウトラキストたちからボヘミアの統治者として認められた(*7)。この状況を憂慮した教皇マルティヌス5世はボヘミアのフス派に対して断固たる処置をとるよう命じた。これをうけて、同年7月、皇帝ジギスムントはドイツ騎士団の協力を得て、フス派殲滅の戦争準備に取り掛かった。

   ところが、これを知ったヴィタウタスとヨガイラは、プラハに居るジギスムント・コリプトを守るためと称して電撃的先制攻撃に打って出た。ドイツ騎士団領の南東部に侵攻したリトアニア・ポーランド連合軍は、迅速に移動しながら瞬く間にドルヴェンツァ川下流の要衝ゴルプを占領した(*8)。ドイツ騎士団軍の混乱した戦いぶりに失望した騎士団総長パウル・フォン・ルスドルフは、同年9月17日、休戦に同意し、戦いは僅か2か月で終った(*9)。戦いに完勝したリトアニアとポーランドは、ドイツ騎士団を新たな講和会議の席に就かせ、「トルンの講和」の修正を迫る機会をつかんだ(*10)。

〔蛇足〕
(*1)「余談114:コンスタンツ公会議における論争」参照。
(*2)「余談111:トルンの講和」参照。
(*3)Bartolomeo Capra:ミラノ大司教在位1414年~1433年。
(*4)グニェフコヴォ(Gniewkowo)はヴィスワ河畔のドイツ騎士団の拠点トルン(Toruń)の南西約20kmに位置するポーランドの歴史的都市である。
(*5)ヴロツワフ(Wrocław)は現在のポーランド西部、シロンスク(シレジア)地方の歴史的中心都市である。
(*6)神聖ローマ皇帝にしてハンガリー王であるジギスムントがこのようにドイツ騎士団に有利な裁定を下した背景には、この前年(1419年)の夏、彼の異母兄ヴェンツェル(ボヘミア王ヴァーツラフ4世)が急死し、彼がボヘミア王位を継ごうとしたところを、フス派の反乱で阻止されたことから(「余談115:フス戦争とヴィタウタス大公」参照)、彼はドイツ騎士団を味方に引き入れて、ボヘミアのフス派を掃討しようとしていた、という事情がある。
(*7)ジギスムント・コリブトに関連したこの件は「余談116:フス戦争とジギスムント・コリブト」参照。
(*8)リトアニア・ポーランド連合軍は、先ず、ドイツ騎士団領南東部の要衝オステローデ(Osterode:現在のオストルダ〔Ostróda〕)に向かった。これを知ったドイツ騎士団はオステローデを捨てて、オステローデの南西約27kmに位置するレバウ(Löbau:現在のルバヴァ〔Lubawa〕)に撤退した。これに対して、ヨガイラはレバウに向かわず、北西に進路をとってドイツ騎士団の首都マリエンブルク(Marienburg:現在のマルボルク〔Malbork〕)に向かうように見せかけた。そして、途中から進路を変え、マリエンブルクの南々東約34kmに位置するリーゼンブルク(Riesenburg:現在のプラブティ〔Prabuty〕)を占領し、周辺の村落を襲って破壊した。その後、連合軍は南下してドイツ騎士団入植初期からの土地クルム(Culm:現在のヘウムノ〔Chełmno〕)地方に侵攻し、ポーランドとドイツ騎士団領の国境をなすドルヴェンツァ川下流右岸(北岸)のドイツ騎士団の拠点ゴルプ(Gollub:現在のゴルプ・ドブジン〔Golub-Dobrzyn〕)を占領した。この事実から、この戦争は「ゴルプ戦争」と呼ばれている。リトアニア・ポーランド連合軍は、それまでの経験から、巨大な要塞と化しているドイツ騎士団の首都マリエンブルクを攻略することは無理と判断し、当初からドイツ騎士団領を広く転戦して各地を荒廃させ、マリエンブルクを孤立させる作戦をとったようだが、これが功を奏したのか、ドイツ騎士団軍は各地で混乱し、士気が低下したと言われている。
(*9)このときのドイツ騎士団軍の混乱ぶりを物語る例として、エルビング(Elbing:現在のエルブロンク〔Elbiąg〕)を守るドイツ騎士団の司令官は、この年の8月6日、「物資が底を突き補給もないので、兵士は命令に従わず脱走している」と報告している。また、シュヴェツ(Schwetz:現在のシフィエチェ〔Świecie〕)からは、「ひとりの傭兵も居らず、百人ほどの武器を持たない飢えた農民兵が集まっているだけだ」と報告されていた。
(*10)1422年9月17日の休戦から僅か10日後の9月27日には「メウノの平和条約」が結ばれたが、ここに至って、ドイツ騎士団はついに譲歩を余儀なくされ、リトアニアとポーランドは、ようやく、部分的にではあったが、ドイツ騎士団に対して優位に立っことができた。
(2021年10月 記)
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武田レポート

リトアニア史余談117:ゴルプ戦争/武田 充司<br />

 1414年11月に始まり3年半近く続いた「コンスタンツ公会議」(*1)も1418年4月22日ようやく終わったが、この公会議においても「トルンの講和」(*2)に対するポーランドとリトアニアの不満は解消されず、彼らとドイツ騎士団との対立は続いた。

   公会議が終った翌年(1419年)の春、教皇マルティヌス5世はこの対立を調停するべくミラノ大司教カプラ(*3)を特使として送り出した。リトアニア・ポーランド連合とドイツ騎士団の代表はカプラの仲介で、ドイツ騎士団の拠点トルンに近いポーランドの都市グニェフコヴォ(*4)において新たな交渉に臨んだ。しかし、この調停も不調に終わった。

   すると、その年の夏、リトアニア・ポーランド連合軍がドイツ騎士団領の国境付近に結集し、軍事的緊張が高まった。この緊迫し状況を打開しようと、今度は、神聖ローマ皇帝ジギスムントが調停に乗り出した。年が明けて1420年の1月6日、皇帝はポーランドのヴロツワフ(*5)において、1411年に結ばれた「トルンの講和」(*2)は有効であり、適正なものであるとの裁定を下した(*6)。リトアニア大公ヴィタウタスは、この裁定を全く受け入れ難い不当なものだとして憤激したが、従兄弟のポーランド王ヨガイラは一応この裁定をうけ入れる態度を示しつつ、教皇マルティヌス5世に裁定の無効宣言を発出するよう請願した。そこで、教皇はこの裁定に補足説明を付けて折衷案をつくり、これによってリトアニア・ポーランド連合とドイツ騎士団を和解させようとしたが、かえって両者の反発を招いた。

   ドイツ騎士団総長ミハエル・キュヒマイスターはマリエンブルクの城壁の強化など戦争の準備を急がせたが、財政難と増税による内部の不満から、1422年3月、辞任を余儀なくされ、パウル・フォン・ルスドルフが新総長に選出されるという事態になった。一方、この年の5月、ボヘミアではジギスムント・コリブトがプラハに入城してウトラキストたちからボヘミアの統治者として認められた(*7)。この状況を憂慮した教皇マルティヌス5世はボヘミアのフス派に対して断固たる処置をとるよう命じた。これをうけて、同年7月、皇帝ジギスムントはドイツ騎士団の協力を得て、フス派殲滅の戦争準備に取り掛かった。

   ところが、これを知ったヴィタウタスとヨガイラは、プラハに居るジギスムント・コリプトを守るためと称して電撃的先制攻撃に打って出た。ドイツ騎士団領の南東部に侵攻したリトアニア・ポーランド連合軍は、迅速に移動しながら瞬く間にドルヴェンツァ川下流の要衝ゴルプを占領した(*8)。ドイツ騎士団軍の混乱した戦いぶりに失望した騎士団総長パウル・フォン・ルスドルフは、同年9月17日、休戦に同意し、戦いは僅か2か月で終った(*9)。戦いに完勝したリトアニアとポーランドは、ドイツ騎士団を新たな講和会議の席に就かせ、「トルンの講和」の修正を迫る機会をつかんだ(*10)。

〔蛇足〕
(*1)「余談114:コンスタンツ公会議における論争」参照。
(*2)「余談111:トルンの講和」参照。
(*3)Bartolomeo Capra:ミラノ大司教在位1414年~1433年。
(*4)グニェフコヴォ(Gniewkowo)はヴィスワ河畔のドイツ騎士団の拠点トルン(Toruń)の南西約20kmに位置するポーランドの歴史的都市である。
(*5)ヴロツワフ(Wrocław)は現在のポーランド西部、シロンスク(シレジア)地方の歴史的中心都市である。
(*6)神聖ローマ皇帝にしてハンガリー王であるジギスムントがこのようにドイツ騎士団に有利な裁定を下した背景には、この前年(1419年)の夏、彼の異母兄ヴェンツェル(ボヘミア王ヴァーツラフ4世)が急死し、彼がボヘミア王位を継ごうとしたところを、フス派の反乱で阻止されたことから(「余談115:フス戦争とヴィタウタス大公」参照)、彼はドイツ騎士団を味方に引き入れて、ボヘミアのフス派を掃討しようとしていた、という事情がある。
(*7)ジギスムント・コリブトに関連したこの件は「余談116:フス戦争とジギスムント・コリブト」参照。
(*8)リトアニア・ポーランド連合軍は、先ず、ドイツ騎士団領南東部の要衝オステローデ(Osterode:現在のオストルダ〔Ostróda〕)に向かった。これを知ったドイツ騎士団はオステローデを捨てて、オステローデの南西約27kmに位置するレバウ(Löbau:現在のルバヴァ〔Lubawa〕)に撤退した。これに対して、ヨガイラはレバウに向かわず、北西に進路をとってドイツ騎士団の首都マリエンブルク(Marienburg:現在のマルボルク〔Malbork〕)に向かうように見せかけた。そして、途中から進路を変え、マリエンブルクの南々東約34kmに位置するリーゼンブルク(Riesenburg:現在のプラブティ〔Prabuty〕)を占領し、周辺の村落を襲って破壊した。その後、連合軍は南下してドイツ騎士団入植初期からの土地クルム(Culm:現在のヘウムノ〔Chełmno〕)地方に侵攻し、ポーランドとドイツ騎士団領の国境をなすドルヴェンツァ川下流右岸(北岸)のドイツ騎士団の拠点ゴルプ(Golub:現在のゴルプ・ドブジン〔Golub-Dobrzyn〕)を占領した。この事実から、この戦争は「ゴルプ戦争」と呼ばれている。リトアニア・ポーランド連合軍は、それまでの経験から、巨大な要塞と化しているドイツ騎士団の首都マリエンブルクを攻略することは無理と判断し、当初からドイツ騎士団領を広く転戦して各地を荒廃させ、マリエンブルクを孤立させる作戦をとったようだが、これが功を奏したのか、ドイツ騎士団軍は各地で混乱し、士気が低下したと言われている。
(*9)このときのドイツ騎士団軍の混乱ぶりを物語る例として、エルビング(Elbing:現在のエルブロンク〔Elbiąg〕)を守るドイツ騎士団の司令官は、この年の8月6日、「物資が底を突き補給もないので、兵士は命令に従わず脱走している」と報告している。また、シュヴェツ(Schwetz:現在のシフィエチェ〔Świecie〕)からは、「ひとりの傭兵も居らず、百人ほどの武器を持たない飢えた農民兵が集まっているだけだ」と報告されていた。
(*10)1422年9月17日の休戦から僅か10日後の9月27日には「メウノの平和条約」が結ばれたが、ここに至って、ドイツ騎士団はついに譲歩を余儀なくされ、リトアニアとポーランドは、ようやく、部分的にではあったが、ドイツ騎士団に対して優位に立っことができた。
(2021年10月 記)
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クラス会

クラス会開催案内

クラス会をオンラインクラス会として

2021年11月始め開催で企画しております。

詳細は、個別メールにて皆さまにお知らせしております。


よろしくお願いします。


田中(幹事代表)、野口(1966IT担当、連絡係り)



以上

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小林レポート

半世紀前の記録から:アフリカ空の旅(2)/小林 凱

  前回はアフリカ空の旅のアウトラインをレポートしましたが、今回はそのフライトで起きた出来事を紹介したいと思います。
  1966年11月に私が搭乗したSA214便は南アフリカのヨハネスブルグを離陸後北に接するローデシアを目指したが、この間当時の一般的な国際線での機内サービスを受けた記憶がありません。飲み物位は要求に応じていたと思いますが、全く味気ないサービスの約1時間半の飛行でローデシアのソールスベリー空港に着陸しました。此処では私達ヨハネスブルグからの乗客は席を立たない様に指示され、ソールスベリーからの乗客が乗って来たらそそくさと出発しました。
  また乗務員は複数の女性キャビンアテンダントと一人のがっしりした中年の男性が居ました。この時の機内からのスナップに空港ビルが見えますが大きくて堂々として居ました。(Fig.1)Fig.1.JPG
Fig.1
  ここで当時のローデシアの状況について紹介します。この名前の国は今日存在しませんから、少し以前に戻って英国の植民地の歴史を振り返ります。歴史と言っても私が現実に見聞きした話でそれ程古い事ではありませんが。
  この国の名前は大英帝国の植民地政治家のCecil John Rhodes (1853-1902)から由来しています。セシル ローズはオックスフォード大学を卒業後、南アフリカへ渡り鉱山事業で巨万の富を築きました。ローズにとってこれだけでは不足の様で、南アフリカの北に隣接する地域を英国の植民地として其処に自分の名前を冠したのがこの国の由来です。1923年英国の植民地として南ローデシアの成立から、Cecil John Rhodesは南アフリカのCape Townからの鉄道が北アフリカのカイロまで繋がる事を構想し、併せて鉄道に並行して通信線も敷設される事を構想していました。
  1965年白人スミス政権によるローデシア共和国の一方的独立過程では国連による経済制裁を伴ったが、隣の南アフリカはこれを支援しました。私が始めて南アフリカを訪ねたのは1966年ですが、その前年の1965年に白人スミス政権によるローデシア共和国の一方的独立宣言が行われ、1968年国連による経済制裁が決議された頃です。その後1970年代からこの国の黒人団体による独立推進のゲリラ活動が始まり、1980年にジンバブエ共和国として英国からの独立を果たしました。
  私が南アフリカ共和国を訪ねたのは1966年からですが、丁度この地域に激動期が訪れ今日の姿に変わる直前であったわけです。その後かってのローデシアは世界地図から無くなり、そこには今日ジムバブエ(Zimbawue)という国が出来て、また首都はソールスベリーからハラレ(Harare)と変わっています。この独立過程では徹底して旧植民地の痕跡を消す事が図られ、今日残る名前にはそれが反映して居ます。

  ソールスベリー空港を離陸したSA214機は旋回しながら急角度で上昇しました。私は周囲に山がある地形によるものと思って居ましたが、他に保安上の理由があったのかも知れません。やがて定常の飛行に入った処で、乗客に対してウエルカムアナウンスが為されました。乗客の世話をする乗務員は、パーサーの何某と私達キャビンアテンダント何名がずっとご一緒するので何でも申して呉れとごく普通の話でしたが、ヨハネスブルグに滞在して居た私は、このパーサーは若しかするとセキュリティ要員では無いかと勝手に想像しました。
  この後食事が提供されましたが、これは暖かい料理が付いたフルブレックファストで、昨夜からまともな食事を取って居ない私は十分に堪能した結果、食後はぐっすり眠ってしまいました。このルートは赤道の南側でアフリカ大陸をほぼ西へ横断するので、途中の
景色に期待がありましたが目を開いて居る余裕はありません。それは運が良ければザンベジ河やビクトリアの滝などが眺めれたらと言う話ですが、本当にどこの上を越えたか眠ってしまって判りません。

  約4時間の飛行で搭乗機は大西洋に達しました。高度を保ったまま洋上に出て旋回して逆方向になってから高度を下げ、低空でルアンダ空港の滑走路に着陸しました。降りてから訊いたところ、反政府ゲリラに対してフライトの安全を確保したルートを取ったという事です。それは内陸の密林にはゲリラが潜んで居る危険があるが、洋上は全く隠れる処が無いからここで高度を下げ海から真っすぐに滑走路に入った様です。離陸するときはその逆で大西洋に向かって真っすぐ西へ向かって離陸し、高度を上げてからラスパルマスへ向かって進路を北へ取りました。
  当時のアンゴラはポルトガルの植民地支配下にあり、1961年頃から独立の動きが出て私が訪れた1966年はこの独立運動の最中の期間で、やがて宗主国から独立したのは1975年でした。この時反政府ゲリラと呼んだのは、後年独立した勢力の前身であった事と思われます。ただローデシアの場合と違うのは国名や首都の名前は植民地時代と同じものが継承されました。ルアンダでの写真が残って居ませんが、それは恐らく禁止されたものと思います。ルアンダを出発した後のルートはアフリカ大陸の西海岸に沿って洋上を北へ進みましたが、アフリカ大陸との距離は時折右舷に大陸の陸地が姿を見せる微妙な距離感でした。大西洋上の気象は穏やかで約8時間のフライト、この間に昼食が出され後はのんびり過ごしました。

  日が西へ傾くころ大西洋の遥か彼方にカナリア諸島が見えて来ました。此処はスペイン領でこれは当時も今も変わりありません。(Fig.2)
  この時の機内からの写真は逆光に島影が写るもので、余りくっきりと見えませんが、ラスパルマスでの景色は空港で求めた絵葉書に良く出ています。

  私はもっと緑濃い島を想像していましたが、実際は乾燥して空気が澄んだ気候でした。一方空港は小さな島にしては随分大きな設備に思いました。後日此処にEUの共同天体観測設備が作られた様に聞きましたが、これはその気候が関係して居るのかと思います。(Fig.3)
Fig.2.JPG
Fig.2
Fig.3.JPG
Fig.3
  暫く空港内で休んだのち、私達トランジット乗客は早めに着席するように求められ、その後からラスパルマスからの乗客が乗ってきました。その中に約20名くらいの男性の団体客が居て私達の斜め前方に纏まって着席しました。そこで彼らから聞こえて来たのはなんと日本語で、頭の上に荷物を上げる作業を協力して行って居ました。出発後夕食が出された時も同様に静かなグループでした。
  彼らはこの便ではロンドン迄行ったので後刻マドリッドで訊いた所では、その団体は多分マグロ取り船団のクルーで、交代して帰国するか或いは休暇の為にロンドンへ行く人たちであろうとの事でした。当時日本人クルーは技術レベルが高い事、色んな仕事がこなせる等大西洋のマグロ漁業に不可欠な存在であった様です。
  なおこのレポートを書いて居る時、カナリア諸島では火山噴火が発生し5000人ほど避難したとニュースが報道されました。これは同じカナリア諸島でもラパルマ島で、空港のある島とは別で、既に火山性の地震で予兆が見られた為付近の住民は避難しており死者、けが人はいないとの事でした。処で前回の噴火は1971年の50年ぶりという事で、私が以前にカナリア諸島を訪れてから後に同じ島で発生して居た事になります。
  間も無く陽は大西洋に沈んで夜の闇を搭乗機は北上しました。(Fig.4)
  機はイベリア半島の南西のコーナーをかすめた様で、黒い大陸のブロックと光の点が足下に見えて来て、やがて高度と進路の調整が為されて暗闇の彼方に見えて来た光の集団がマドリッドとその周辺を示しました。
Fig.4.JPG
Fig.4
  暫く進むうちに真っすぐに高度が下がって行くのが判り、この時パーサーが私の席の背後に近づいてそっと肩に触れました。私は始め何事か分からなかったが、パーサーは私の耳元に囁きました。
「I trust you could have enjoyed our flight !」
私も降りる乗客への挨拶と理解して、同時に上手な表現に搭乗時に10時間も待たされた事は忘れて、
「Oh, yes sure!」
と返事して居ました。パーサーはそれを確かめる様に聞いてから、
「Good ! Enjoy your stay...」と言いながら離れて行きました。
間もなく着陸に備えてフラップを出すギアの音が始まりました。パーサーの挨拶が何故私に為されたのか判りませんが、良い表現として繰り返し思い出す内に半世紀の記憶の中に定着しました。
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小林レポート

半世紀前の記録から:アフリカ空の旅(2)/小林 凱

  前回はアフリカ空の旅のアウトラインをレポートしましたが、今回はそのフライトで起きた出来事を紹介したいと思います。
  1966年11月に私が搭乗したSA214便は南アフリカのヨハネスブルグを離陸後北に接するローデシアを目指したが、この間当時の一般的な国際線での機内サービスを受けた記憶がありません。飲み物位は要求に応じていたと思いますが、全く味気ないサービスの約1時間半の飛行でローデシアのソールスベリー空港に着陸しました。此処では私達ヨハネスブルグからの乗客は席を立たない様に指示され、ソールスベリーからの乗客が乗って来たらそそくさと出発しました。
  また乗務員は複数の女性キャビンアテンダントと一人のがっしりした中年の男性が居ました。この時の機内からのスナップに空港ビルが見えますが大きくて堂々として居ました。(Fig.1)Fig.1.JPG
Fig.1
  ここで当時のローデシアの状況について紹介します。この名前の国は今日存在しませんから、少し以前に戻って英国の植民地の歴史を振り返ります。歴史と言っても私が現実に見聞きした話でそれ程古い事ではありませんが。
  この国の名前は大英帝国の植民地政治家のCecil John Rhodes (1853-1902)から由来しています。セシル ローズはオックスフォード大学を卒業後、南アフリカへ渡り鉱山事業で巨万の富を築きました。ローズにとってこれだけでは不足の様で、南アフリカの北に隣接する地域を英国の植民地として其処に自分の名前を冠したのがこの国の由来です。1923年英国の植民地として南ローデシアの成立から、Cecil John Rhodesは南アフリカのCape Townからの鉄道が北アフリカのカイロまで繋がる事を構想し、併せて鉄道に並行して通信線も敷設される事を構想していました。
  1965年白人スミス政権によるローデシア共和国の一方的独立過程では国連による経済制裁を伴ったが、隣の南アフリカはこれを支援しました。私が始めて南アフリカを訪ねたのは1966年ですが、その前年の1965年に白人スミス政権によるローデシア共和国の一方的独立宣言が行われ、1968年国連による経済制裁が決議された頃です。その後1970年代からこの国の黒人団体による独立推進のゲリラ活動が始まり、1980年にジンバブエ共和国として英国からの独立を果たしました。
  私が南アフリカ共和国を訪ねたのは1966年からですが、丁度この地域に激動期が訪れ今日の姿に変わる直前であったわけです。その後かってのローデシアは世界地図から無くなり、そこには今日ジムバブエ(Zimbawue)という国が出来て、また首都はソールスベリーからハラレ(Harare)と変わっています。この独立過程では徹底して旧植民地の痕跡を消す事が図られ、今日残る名前にはそれが反映して居ます。

  ソールスベリー空港を離陸したSA214機は旋回しながら急角度で上昇しました。私は周囲に山がある地形によるものと思って居ましたが、他に保安上の理由があったのかも知れません。やがて定常の飛行に入った処で、乗客に対してウエルカムアナウンスが為されました。乗客の世話をする乗務員は、パーサーの何某と私達キャビンアテンダント何名がずっとご一緒するので何でも申して呉れとごく普通の話でしたが、ヨハネスブルグに滞在して居た私は、このパーサーは若しかするとセキュリティ要員では無いかと勝手に想像しました。
  この後食事が提供されましたが、これは暖かい料理が付いたフルブレックファストで、昨夜からまともな食事を取って居ない私は十分に堪能した結果、食後はぐっすり眠ってしまいました。このルートは赤道の南側でアフリカ大陸をほぼ西へ横断するので、途中の
景色に期待がありましたが目を開いて居る余裕はありません。それは運が良ければザンベジ河やビクトリアの滝などが眺めれたらと言う話ですが、本当にどこの上を越えたか眠ってしまって判りません。

  約4時間の飛行で搭乗機は大西洋に達しました。高度を保ったまま洋上に出て旋回して逆方向になってから高度を下げ、低空でルアンダ空港の滑走路に着陸しました。降りてから訊いたところ、反政府ゲリラに対してフライトの安全を確保したルートを取ったという事です。それは内陸の密林にはゲリラが潜んで居る危険があるが、洋上は全く隠れる処が無いからここで高度を下げ海から真っすぐに滑走路に入った様です。離陸するときはその逆で大西洋に向かって真っすぐ西へ向かって離陸し、高度を上げてからラスパルマスへ向かって進路を北へ取りました。
  当時のアンゴラはポルトガルの植民地支配下にあり、1961年頃から独立の動きが出て私が訪れた1966年はこの独立運動の最中の期間で、やがて宗主国から独立したのは1975年でした。この時反政府ゲリラと呼んだのは、後年独立した勢力の前身であった事と思われます。ただローデシアの場合と違うのは国名や首都の名前は植民地時代と同じものが継承されました。ルアンダでの写真が残って居ませんが、それは恐らく禁止されたものと思います。ルアンダを出発した後のルートはアフリカ大陸の西海岸に沿って洋上を北へ進みましたが、アフリカ大陸との距離は時折右舷に大陸の陸地が姿を見せる微妙な距離感でした。大西洋上の気象は穏やかで約8時間のフライト、この間に昼食が出され後はのんびり過ごしました。

  日が西へ傾くころ大西洋の遥か彼方にカナリア諸島が見えて来ました。此処はスペイン領でこれは当時も今も変わりありません。(Fig.2)
  この時の機内からの写真は逆光に島影が写るもので、余りくっきりと見えませんが、ラスパルマスでの景色は空港で求めた絵葉書に良く出ています。

  私はもっと緑濃い島を想像していましたが、実際は乾燥して空気が澄んだ気候でした。一方空港は小さな島にしては随分大きな設備に思いました。後日此処にEUの共同天体観測設備が作られた様に聞きましたが、これはその気候が関係して居るのかと思います。(Fig.3)
Fig.2.JPG
Fig.2
Fig.3.JPG
Fig.3
  暫く空港内で休んだのち、私達トランジット乗客は早めに着席するように求められ、その後からラスパルマスからの乗客が乗ってきました。その中に約20名くらいの男性の団体客が居て私達の斜め前方に纏まって着席しました。そこで彼らから聞こえて来たのはなんと日本語で、頭の上に荷物を上げる作業を協力して行って居ました。出発後夕食が出された時も同様に静かなグループでした。
  彼らはこの便ではロンドン迄行ったので後刻マドリッドで訊いた所では、その団体は多分マグロ取り船団のクルーで、交代して帰国するか或いは休暇の為にロンドンへ行く人たちであろうとの事でした。当時日本人クルーは技術レベルが高い事、色んな仕事がこなせる等大西洋のマグロ漁業に不可欠な存在であった様です。
  なおこのレポートを書いて居る時、カナリア諸島では火山噴火が発生し5000人ほど避難したとニュースが報道されました。これは同じカナリア諸島でもラパルマ島で、空港のある島とは別で、既に火山性の地震で予兆が見られた為付近の住民は避難しており死者、けが人はいないとの事でした。処で前回の噴火は1971年の50年ぶりという事で、私が以前にカナリア諸島を訪れてから後に同じ島で発生して居た事になります。
  間も無く陽は大西洋に沈んで夜の闇を搭乗機は北上しました。(Fig.4)
  機はイベリア半島の南西のコーナーをかすめた様で、黒い大陸のブロックと光の点が足下に見えて来て、やがて高度と進路の調整が為されて暗闇の彼方に見えて来た光の集団がマドリッドとその周辺を示しました。
Fig.4.JPG
Fig.4
  暫く進むうちに真っすぐに高度が下がって行くのが判り、この時パーサーが私の席の背後に近づいてそっと肩に触れました。私は始め何事か分からなかったが、パーサーは私の耳元に囁きました。
「I trust you could have enjoyed our flight !」
私も降りる乗客への挨拶と理解して、同時に上手な表現に搭乗時に10時間も待たされた事は忘れて、
「Oh, yes sure!」
と返事して居ました。パーサーはそれを確かめる様に聞いてから、
「Good ! Enjoy your stay...」と言いながら離れて行きました。
間もなく着陸に備えてフラップを出すギアの音が始まりました。パーサーの挨拶が何故私に為されたのか判りませんが、良い表現として繰り返し思い出す内に半世紀の記憶の中に定着しました。
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季節の花便り

9月の花便り/高橋 郁雄

  今回も近場からの取材のみとなりました。新型コロナの感染の収束が来るのが待ち遠しいです。銀木犀とピンクッションが初登場で、金木犀は再登場です。
Kinmokusei.JPGGinmokusei.JPGPinkusyon.JPG
金木犀
銀木犀ピンクッション
金木犀:9月15日に、グリーンハイツ内で撮影しました。本ブログで、2019年(10/16撮影)、2020年(10/6撮影)では10月の花便りで掲載していましたが、今回は9月の花便りで掲載しました。今年は暑かった夏(8月)の後に、9月になって涼しい日が数日続いたせいかなと思っています。写真がピンボケですみません。
  花言葉=「謙虚・気高い人」。ふわっと匂い立つ素晴らしい香りに反して、控えめな小さな花弁を持つことから「謙虚」。雨が降った時に、その小さな花弁が潔く散ってしまうことに由来して「気高い人」。
  10月7日の誕生花。開花して、4,5日で散ってしまう、儚いお花。
  四大香木の一つと言われています。他の3大香木は「春(沈丁花:じんちょうげ):夏(梔子:くちなし):冬(蝋梅:ろうばい)」だそうです。  
銀木犀:9月15日に、グリーンハイツ内で撮影しました。写真がピンボケですみません。
  花言葉=「初恋・高潔・あなたの機を引く」。「初恋、高潔」は、真白なキレイな花が高潔に見えることが由来になったそうです。金木犀は銀木犀の変種といわれています。そのため、木犀といえば、一般には銀木犀のことを指すといわれています。
  香りは金木犀の方が強く、銀木犀は弱い。
ピンクッション:9月23日に、宮前区内の花屋の店先で撮影しました。
  原産地:南アフリカ。花言葉=「どこでも成功を・共栄・陽気・ふりそそぐ愛」。
  ピンクッション(Pin cushion)=針刺し、と名付けられています。針刺しに針をたくさん刺しているような、特徴ある姿に由来しています。針のように見える1本1本が花で、多数の花が集まり、咲く花はとても華やかです。花持ちが良くて、2週間ほど咲き続けるそうです。
カテゴリー
季節の花便り

9月の花便り/高橋 郁雄

  今回も近場からの取材のみとなりました。新型コロナの感染の収束が来るのが待ち遠しいです。銀木犀とピンクッションが初登場で、金木犀は再登場です。
Kinmokusei.JPGGinmokusei.JPGPinkusyon.JPG
金木犀
銀木犀ピンクッション
金木犀:9月15日に、グリーンハイツ内で撮影しました。本ブログで、2019年(10/16撮影)、2020年(10/6撮影)では10月の花便りで掲載していましたが、今回は9月の花便りで掲載しました。今年は暑かった夏(8月)の後に、9月になって涼しい日が数日続いたせいかなと思っています。写真がピンボケですみません。
  花言葉=「謙虚・気高い人」。ふわっと匂い立つ素晴らしい香りに反して、控えめな小さな花弁を持つことから「謙虚」。雨が降った時に、その小さな花弁が潔く散ってしまうことに由来して「気高い人」。
  10月7日の誕生花。開花して、4,5日で散ってしまう、儚いお花。
  四大香木の一つと言われています。他の3大香木は「春(沈丁花:じんちょうげ):夏(梔子:くちなし):冬(蝋梅:ろうばい)」だそうです。  
銀木犀:9月15日に、グリーンハイツ内で撮影しました。写真がピンボケですみません。
  花言葉=「初恋・高潔・あなたの機を引く」。「初恋、高潔」は、真白なキレイな花が高潔に見えることが由来になったそうです。金木犀は銀木犀の変種といわれています。そのため、木犀といえば、一般には銀木犀のことを指すといわれています。
  香りは金木犀の方が強く、銀木犀は弱い。
ピンクッション:9月23日に、宮前区内の花屋の店先で撮影しました。
  原産地:南アフリカ。花言葉=「どこでも成功を・共栄・陽気・ふりそそぐ愛」。
  ピンクッション(Pin cushion)=針刺し、と名付けられています。針刺しに針をたくさん刺しているような、特徴ある姿に由来しています。針のように見える1本1本が花で、多数の花が集まり、咲く花はとても華やかです。花持ちが良くて、2週間ほど咲き続けるそうです。