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武田レポート

リトアニア史余談112:ジェマイチヤとはどこまでか/武田 充司

 領土の境界を画定するということは何時の時代でも厄介な問題だ。「トルンの講和」によってジェマイチヤを手放すことになったドイツ騎士団は、それでもしぶとく土俵際に残って、ポーランド王ヨガイラとリトアニア大公ヴィタウタスが存命の間だけリトアニア領として認めるという奇手を繰り出して問題を先送りした(*1)。
   
   しかし、そのあと、ジェマイチヤとはどこまでを指すのかが問題となった。リトアニア大公ヴィタウタスは、ニェムナス川右岸(北側)はジェマイチヤだから、バルト海岸にあるドイツ騎士団のメーメルの城は当然ジェマイチヤの施設としてリトアニアが接収するのだと主張した。これは誰がみても自然な認識だが、ドイツ騎士団としては、戦略的要衝であるメーメルを手放すことなど考えられなかったから、これには猛反発した(*2)。

   神聖ローマ皇帝となったルクセンブルク家のハンガリー王ジギスムントは、ドイツ騎士団総長ハインリヒ・フォン・プラウエンの相談をうけて、早速、調停に乗り出した。1412年秋、皇帝ジギスムントが任命した調停役のベネディクト・マクライがリトアニアにやって来た(*3)。彼は先ずドイツ騎士団とリトアニアの双方から言い分をきいたが、はじめから両当事者は激しく言い争って全く話にならなかったので、直ぐに結論を出さず、翌年まで問題解決を先送りした(*4)。
   翌年の5月、ベネディクト・マクライが出した結論は「ニェムナス川右岸(北側)の地域とメーメルを含むバルト海沿岸地帯とは切り離せないひとつの地域であって、これ全体がジェマイチヤである」というものだったから、色よい調停を期待していたドイツ騎士団は驚き、激怒した。ベネディクト・マクライの調停は完全な失敗であった。

   ドイツ騎士団は直ちに反リトアニア・反ポーランドの宣伝活動をヨーロッパ各地で再開した。そして、秋になると、東ポモージェ(*5)のポーランドとの国境付近に6千の兵力を動員すると同時に、ドブジン地方(*6)からマゾフシェの国境地帯にも1万5千の兵力を展開してポーランド北部に侵攻した。
   ところが、この軍団の指揮を任されていたケーニヒスベルクの管区長ミハエル・キュヒマイスターは僅か16日間の戦闘ののち撤退してしまった。東ポモージェの軍団も攻撃命令に従わない騎士たちが続出して、殆ど戦闘は行われずに終わってしまった。

   その直後にミハエル・キュヒマイスターは騎士団総長ハインリヒ・フォン・プラウエンを襲って辞任させ、10月14日に参事会を開いて臨時の総長代行としてヘルマン・フォン・ガンスを指名した。これはまさにクーデターであった(*7)。そして、翌年(1414年)の1月、ドイツ騎士団総会が開かれ、ミハエル・キュヒマイスターが騎士団総長に選出された。

〔蛇足〕
(*1)「余談111:トルンの講和」参照。
(*2)メーメル(Memel)は現在のリトアニアの北西部バルト海に面する港湾都市クライペダ(Klaipėda)だが、この都市の位置はニェムナス川の河口の右岸(北東側)であるから、当然、このときの定義によってジェマイチヤに含まれる。ニェムナス川は一旦内海のクルシュウ・マリオス(Kuršių marios)に注ぎ、この内海がバルト海とつながるクライペダの位置でバルト海に注ぐ。メーメルはこの河口の右岸にある。メーメルはドイツ騎士団の2つの領土(プロシャとリヴォニア)を結ぶ要衝であるから、当時のドイツ騎士団にとって手放せない重要拠点であった。なお、近現代におけるクライペダの重要性を理解するために、「余談34:クライペダ問題」および「余談35:武力によるクライペダ地域の併合」も合わせて参照されたい。また、第2次世界大戦前夜の1939年3月、ドイツのリベントロップ外相がリトアニアに対してクライペダ返還要求の最後通牒を発したこと、そして、その年の5月、返還されたメーメルの国民劇場のバルコニーでヒトラーが演説したことなどを想起されたい。
(*3)ベネディクト・マクライは、先ず、ドイツ騎士団の首都マリエンブルクに立ち寄ったが、彼を迎えたドイツ騎士団の態度は冷たかったという。そのあと、リトアニアのトラカイに来たが、ヴィタウタスは豪華な饗宴を催して彼を大歓迎し、黄金の拍車と礼帯など高価な贈り物もした。調停役のベネディクト・マクライに対する両国のこうした接し方の違いには注目すべきものがあったようだ。なお、ベネディクト・マクライはハンガリーの貴族で、ハンガリーでは日本と同様「姓・名」の順に氏名を書くのでMakrai Benedekがハンガリー人としての氏名だが(Makraiが苗字)、Benedict Makraiで通っている。彼はヨーロッパのあちこちの大学で学んだ知識人で、ハンガリー王ラヨシュ1世没後の王位争いでは、アンジュー・シチリア家のナポリ王カルロ3世を支持し、ルクセンブルク家のジギスムントに反対したため、一時、投獄された。しかし、出獄後ジギスムント王の信頼を得て外交問題で活躍した。
(*4)調停はリトアニアのカウナスで行われたが、ドイツ騎士団は、ミンダウガス王の時代にジェマイチヤがドイツ騎士団(正確にはドイツ騎士団の支部的存在であった当時のリヴォニア騎士団)に譲渡されたという歴史まで持ち出したが(「余談17:ミンダウガスの戴冠」参照)、リトアニアとポーランドの代表は、そのような古い資料は法的効力のないものだと主張して激しく反論した。しかし、ドイツ騎士団の代表は、ジェマイチヤはその後も度々ドイツ騎士団に譲渡されたという証拠があるとして、1404年の「ラツィオンシュの講和」(「余談98:ラツィオンシュの講和」参照)などを持ち出してリトアニア側の主張に反論した。ところが、ヨガイラの幼い娘ヤドヴィガ(1408年生れ)の代理人と、ヴィタウタスの娘ソフィア(モスクワ大公ヴァシーリイ1世の后)の代理人が、彼女らもジェマイチヤの相続人であり、彼女らの承諾なしにジェマイチヤがドイツ騎士団に譲渡されたのは全く違法で、この譲渡は無効であると申し立てた。さらに、14人のジェマイチヤの貴族たちも、「ジェマイチヤに住む我々は、ヴィタウタスを君主と認めているが、ヴィタウタスに対してジェマイチヤの土地を勝手に処分する権利は認めていない」と主張するなど、本題のジマイチヤの境界画定などそっちのけの議論で混乱した。
(*5)「余談98:ラツィオンシュの講和」の蛇足(8)参照。
(*6)「余談58:ポーランドに招かれたドイツ騎士団」および「余談98:ラツィオンシュの講和」の蛇足(7)参照。
(*7)1410年の「ジャルギリスの戦い」の大敗北以来、荒廃した領土と疲弊したドイツ騎士団の立て直しのために、騎士団内部では近隣諸国との平和維持を望む勢力が台頭していたから、彼らが強引な武闘派の暴走に反発したのだ。また、プロシャ領内のハンザ商人などの裕福層が復興のための重税に不満をもっていたことも背景として見逃せない。
(2021年5月 記)
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斎藤さんのお話

高尾山/齋藤 嘉博

  眼に眩しい新緑、爽やかな風、青い空。日本では最高の季節の今、コロナが止まりません。敵は技術革新を進めてつぎつぎと新しい武器を作って変身している様子。一方防戦の側はワクチンもままならないなかで不要不急は避けて、どこにも出ないで家にいて、お酒はやめての灯火管制。と言っても働き盛りの方達が家に籠るのは無理というものでしょう。すべて一年前のgo to政策のむくいです。しかし老い先短い身体、ぼんやりと過ごしてばかりはいられません。コロナを避けて不急不要の散策を考えるのもボケ防止への一計。
  なるべく電車の混雑を避け、時刻を選んでとの思案。昨年から高尾山のハイキングに興味を持っています。高尾山は国定公園、山頂から何本ものしっかりしたハイキングコースが用意されていて年寄りでも歩くことのできるのが嬉しい。歩かれた諸兄も多いと思います。

  我が家からは京王電車を使って1時間余で高尾山口に。通勤時間帯、逆コースの電車は空いています。標高200mの清滝駅からケーブルカーで470mの山上駅まで上がって猿山の公園を左に見ながら舗装された薬王院への参道を。浄心門をくぐるとその先に男坂と女坂への分岐。男坂は108段の石段でこれはきつい。右にぐるっとまわるのが女坂。これもかなり急な坂道ですが休み休みあがれば同じところに出ます。

  薬王院の下にある小さな広場では二体の天狗様の像がお出迎へ。お参りをしてここから山頂まであと20分。標高599.3m、の山頂には下から歩いて登ってきた何人かの若い方達が。西に富士山を望むことが出来ます。
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  山頂からは1号路から6号路、それに稲荷山コース、いろはの森コースと8本のハイキングコースが用意されています。これを歩いてケーブルの下駅まで降りるのに若者の脚でいずれもほぼ100分。わたしの脚で二時間弱。コースは急な下り道、木桟道など整備はされていますので安心して歩くことが出来ます。

  昨年はまずいろはの森コースを。この道だけは山の北側に下りる筋で、山頂に近い降り口から木の階段がしばらく続く非常にきつい急坂。それ以降も杖が必要な急な坂道が続きます。日影キャンプ場を過ぎればもう坂道も終り。JRの高尾駅と相模湖駅を小仏峠を越えて結ぶ旧甲州街道の日影バス停に出ることが出来ます。

  1号路、薬王院への表参道は都道。舗装されていて車が通ることができますが、かなり急な坂道で、下りはかえって歩きにくい。景色もあまりないし、つまらん道です。しかし途中、ちょっと本道からそれたところに金比羅神社のお社があって、八王子方面の展望台になっています。ここでランチをという次第。

  3号路はカツラ林コースで山頂から表参道途中の浄心門まで。下には降りません。それだけに急な坂道は山頂に近いごく短い区間だけであとは軽いアップダウン。林の中の歩きやすい散策道。この道を歩いたとき、後から来た老ご婦人が話しかけてきました。「おいくつですか?私お会いした方々のお年を伺うのが楽しみなんです」と。お元気そうな方で私は八十七才なんですがと言われる。「さてずいぶん長く生きているのでもう齢は忘れましたが昭和三年生まれなんです」と返事をしましたら、「あら!もう90歳以上!お声をかけた方で90歳以上の方は初めてです」って。すぐ計算ができるなんて、このご婦人はずいぶん達者です。しばらくお話をしたあと軽い足取りで先に歩いて行かれました。いつまでもお元気に歩かれますように。

  6号路のびわ滝コースはむかし子供と一緒に何回か歩いた記憶がありますが、今年はじめは道の補修中で歩くことが出来ませんでした。たくさんあるコースのなかでは一番人気のあるコースで、修復も終ったようですので近いうちに歩いてみようと思っています。その道にほぼ平行して尾根を歩くのが稲荷山コース。それほどきつくはない下り道に折々軽い上がりがあって快適なハイキングコースです。途中稲荷山の展望台では南に開けた展望を楽しむことが出来ます。

  4号路は山頂付近から一旦北側の谷に降りて吊り橋を渡り、ここから山道を上がってケーブルの山頂駅付近に出る道ですが、その上りを嫌ってまだ歩いていません。しかし距離は短いのでゆっくりと時間を採って歩けばいけるだろうと、吊り橋の感触をこれからの楽しみにとってあります。

  帰りは再び高尾山口から京王電車で。2時ごろの電車はガラガラですのでコロナの心配もなく気分よく一日を終えることが出きるという次第。行きたいところ、歩きたいところは沢山あるのですが、とにかく早くコロナが終息してくれないと動きが取れませんネエ。諸兄お元気にお過ごしくださいますように。

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季節の花便り

4月の花便り/高橋 郁雄

  今月も自宅周辺からの便りです。新しい花はありません。白山吹は3度目、スノーフレークは2度目。小手鞠(こでまり)は2度目です。

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白山吹スノーフレーク小手鞠
白山吹(しろやまぶき):2013年(4/15撮影)と2020年(4/22撮影)に、登場していますが、今回の撮影日は(4/8)です。撮影場所は自宅の直ぐそばです。今年は暑くなるのが早かったですね。何だか地球の温暖化が進んでいるのかななどと考えています。
  花言葉=「細心の注意・気品・薄情」。5月20日の誕生花。
スノーフレーク:自宅の直ぐそばで、4月7日に撮影しました。似ている花に(スノードロップ)がありますが、見分け方はスノーフレークには花弁の先に緑色の斑点があるので見分けができます。別名=「スズランズイセン」。
  学名「Leucojum」はギリシャ語で「白いスミレ」を意味し、スミレのような芳香を放つことに因みます。
  花言葉=「希望・慰め」。
小手鞠(こでまり):我が団地は55号棟まであるのですが、1号棟近くで4月13日に撮影しました。原産国=中国。別名:鈴掛(スズカケ)、団子花(ダンゴバナ)。
  花言葉=「優雅・上品・友情」。4月24日の誕生花。