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新井レポート

苧環(をだまき)の花のこと/新井 彰

  コロナの影響で、毎日のように通っていた近くのスポーツジムがクローズになってしまったので、脚の悪い家内のリハビリを兼ねて近所を2人でウォーキングすることにしました。
  日によって経路を変えてウォーキングしていると、庭に草花を育てている家が意外に多く、丁度花の咲く季節でもあり目を楽しませてくれます。その中に、この綺麗な花はあまり見たことがないけど何という花なのだろうと思う花がありました(写真)。おだまき.png
おだまき(苧環)
  LINEの、私達家族7人だけがメンバーとなっているトークに「これは何という花でしょう?」と書き込んで写真を送ったら、間もなく次女からレスポンスがあり「お父さんの写真の花はオダマキです。形が苧環(オダマキ、糸を巻く器具)に似ているのでこの名前がついたらしいよ」とありました。

  あー これがオダマキなのか。オダマキと言えば直ぐ思い浮かぶのは、静御前が頼朝の前で舞を舞って歌ったという

  しずやしず しずのをだまきくり返し 昔を今になすよしもがな

です。それから次に私が思い出すのは、何年か前に「伊勢物語」を拾い読みして読んでいたら、伊勢物語の三十二段が しずのをだまきという表題で、

  いにしえの しずのをだまきくり返し 昔を今になすよしもがな

というそっくりな歌があるのを発見し、びっくりしたことです。

この歌の解説の最後に、

なお、この歌は「しずやしず」と初句を換えて静御前が頼朝の前で義経を偲んで白拍子の舞を舞いつつ歌った心意気を伝えて、有名である。とあり、伊勢物語の歌が元歌であることが分かります。いま伊勢物語の歌の解説を読み直してみると、

しず: 倭文。古代の織物で麻、苧(を)等の糸を青や赤に染めて横糸にし、乱れ模様に織り出したもの。「しず」が古代の織物なので「いにしえの」は「しず」の枕詞。

をだまき: 「を(苧)」は糸の材料。「たまき」は玉巻き。麻や苧を細く長く糸によりあわせて、中が空洞になるように丸く巻いたもの。糸を順々に巻き絡みつけておいて端から次第に引き出すので、糸を巻きつけ、また繰り出す意から、「くりかえし」の序詞にする。

とあって、今になってやっと歌の全体の意味が分かった次第でした。

静御前が歌った歌の方が、しず や しず しずの・・・と「しず」が「くりかえ」されてよりリズム感があるし、義経・静御前のドラマチックなエピソードともあいまって元歌より秀歌として有名になったのでしょう。

  次に私の頭に浮かんだ事は、この「オダマキの花」は髙橋郁雄大兄の「季節の花便り」に既に紹介されているのではないだろうかという事でした。そこで今までの大兄の「季節の花便り」を遡って読み直して行きました。やっぱりありました。2010616日の「5月の花便り」に:

苧環(オダマキ)(5月13日撮影、伊豆の国市・大仁瑞泉卿にて)
 苧環とは、中が空洞になった糸巻きのこと。形が似ていることから、この名前がついたという。白拍子の静御前が鎌倉八幡宮で頼朝の前で舞を舞った時に歌った歌に「しづやしづ しづのおだまき 繰り返し、昔を今に なすよしもがな」があるのが、有名のようです。
(花言葉=必ず手に入れる・愚か・断固として勝つ)、花色には紫・赤・白があるようですが、各々に花言葉があるようです。(紫の花言葉=勝利への決意・捨てられた恋)(赤の花言葉=素直)(白の花言葉=あの方が気がかり)

  10年も前に完璧な解説で紹介されています、さすがです。
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武田レポート

リトアニア史余談101:ドイツ騎士団とポーランドの短い戦い/武田 充司

 1409年5月、ドイツ騎士団の圧政と飢餓に苦しむジェマイチヤの人々がついに蜂起した。彼らは瞬く間にクリストメメル、フリーデブルク、そして、ドベシンブルクの城を襲って焼き払った(*1)。
 リトアニア大公ヴィタウタスが密かに彼らの反乱を支援していたことは確かだったが、表向きは「ラツィオンシュの講和」を遵守しているふりをしていた(*2)。これに対して、ドイツ騎士団は、この反乱にポーランドが関与してリトアニアを支援しないように、先ずポーランド貴族たちに警告を発した(*3)。

 ところが、ポーランド王ヨガイラは、ジェマイチヤの飢饉を救うためと称して、ヴィスワ河畔のトルンから食糧を満載した平底船20艘をバルト海経由でジェマイチヤに向かわせた。しかし、その船団がニェムナス川下流のドイツ騎士団の拠点ラグニット(*4)にさしかかったとき、船団はドイツ騎士団によって拿捕された。そして、ドイツ騎士団は船底から多数の武器が発見されたとしてポーランドを非難した。これに対してヴィタウタスはドイツ騎士団がニェムナス川の航行の自由を脅かしたとして(*5)彼らの略奪行為を非難し、その年の夏、数人の武将をジェマイチヤに送り込んで、公然とジェマイチヤ人の反乱を支援した。これを知ったジェマイチヤにいたドイツ騎士団関係者は一斉にプロシャに引き揚げて行った。そして、直ちに本格的な戦争の準備にとりかかってリトアニアを威嚇した。ところが、ポーランドがリトアニア支持の立場を表明してプロシャに侵攻する姿勢を見せたから、リトアニア・ポーランド連合とドイツ騎士団の敵対関係は緊張の極に達した。

   1409年8月6日、ドイツ騎士団はルクセンブルク家のハンガリー王ジギスムント(*6)の了解を取り付けてポーランドに宣戦布告した。そして、8月14日、ドブジン(*7)がドイツ騎士団の手に落ち、ポーランド北西部のノイマルク(*8)でも戦いがはじまった。しかし、ヴィタウタスはポーランド支援には動かず、じっと様子をうかがっていた。その間、ドイツ騎士団は当初想定していたような決定的勝利をおさめることができず、その年の秋、ボヘミア王ヴァーツラフ4世(*9)の調停によって休戦し、一旦矛を納めた(*10)。

 10月8日、翌年の洗礼者聖ヨハネの祝日(1410年6月24日)までと期限をつけた休戦協定が成立すると、ポーランドとリトアニアの人々は早晩ドイツ騎士団との本格的な衝突は避けられないと考え、大規模な戦争準備にとりかかった。そして、その年の12月、ブレスト・リトフスクにおいてヴィタウタスとヨガイラは密かに会談し、対ドイツ騎士団大連合の構築へ秘策を練った(*11)。その席にはキプチャク汗国の汗も招かれていたという。

〔蛇足〕
(*1)ジェマイチヤの人々の窮状と、彼らが焼き払ったこれらの城については「余談100:ドイツ騎士団のジェマイチヤ統治」参照。
(*2)前年の暮れにナウガルドゥカスで会談したヴィタウタスとヨガイラは、ドイツ騎士団を扇動して彼らの方から開戦するように仕向け、「ラツィオンシュの講和」による平和を破ったのは自分たちではないという大義名分を得ようとしたらしい。「余談100:ドイツ騎士団のジェマイチヤ統治」および「余談98:ラツィオンシュの講和」参照。
(*3)ジェマイチヤ紛争にポーランドが介入しないことは「ラツィオンシュの講和」で決められていたが、ドイツ騎士団はポーランド王が貴族たちの圧力に弱いというそれまでの経験から、念を押すように彼らに警告してヨガイラの動きを封じ、リトアニアを孤立させて戦う戦略であったようだ。
(*4)ラグニット(Ragnit)はニェムナス川下流の南岸(左岸)に位置する現在のロシア領の飛び地カリーニングラード州の都市ネマン(Neman)で、リトアニアではラガイネ(Ragainė)と呼ばれていて、ドイツ騎士団がリトアニアに進出した初期からの重要拠点であった。
(*5)当時も、ドイツ騎士団との間で、ヴッスワ川やニェムナス川などの重要河川での航行の自由を保障する取り決めがあったから、ヴィタウタスはそれを意識して抗議している。
(*6)ジギスムント(Sigismund)はルクセンブルク公(在位1378年~1388年)であったが、ハンガリー王としてはジグモンド(Zsigmond:在位1387年~1437年)と呼ばれ、晩年にはボヘミア王ジクムント(Zikmund:在位1419年~1437年)としてハンガリーとボヘミア両国に君臨した。さらに、1410年にはローマ王に選出され、1433年に皇帝として戴冠しているが、実質的に1410年から1437年まで神聖ローマ皇帝であった。
(*7)ドブジン(Dobrzyń)については「余談98:ラツィオンシュの講和」の蛇足(7)参照。
(*8)ノイマルク(Neumark)はオーデル川に東から注ぐヴァルタ川の下流地域からその北側に広がるオーデル川以東の平原地帯で、以前はブランデンブルク辺境伯領の一部であったが、1402年以来ドイツ騎士団が支配していた。なお、現在はポーランド領となっている。
(*9)ヴァーツラフ4世(Václav Ⅳ:在位1378年~1419年)は、ハンガリー王ジギスムントの異母兄で、1400年まで神聖ローマ皇帝であったルクセンブルク家のヴェンツェル(Wenzel:皇帝在位1378年~1400年)その人である。
(*10)ドイツ騎士団は、それまでの経験から、ポーランド王ヨガイラは貴族たちの意向を無視できない弱い国王であり、また、従兄弟のヴィタウタスとは不仲で協力して行動することはない、と想定していたようだ。しかし、一見与し易い印象のヨガイラは、見かけと違って忍耐強い深謀遠慮の人であった。しかも、前年の暮れのナウガルドゥカスの秘密会談で、ヴィタウタスとヨガイラはドイツ騎士団に対する厳しい見方を共有していたらしいから、ドイツ騎士団はポーランドとの戦いで誤算に気づいたのかも知れない。
(*11)これは前年(1408年)12月のナウガルドゥカスでの秘密会談に続く2度目の会談である。ブレスト・リトフスク(Brest-Litovsk)は現在のベラルーシ南西部のポーランドとの国境に位置する都市ブレスト(Brest)だが、14世紀の20年代からリトアニアの支配する都市であった。なお、ブレスト・リトフスクとは「リトアニアのブレスト」という意味である。
(番外)「余談97:ジェマイチヤの反乱」で述べた問題児のシュヴィトリガイラ(Švitrigaila)は、このときのジェマイチヤ人の蜂起でもドイツ騎士団に通じて再び謀反を企てたが、彼がドイツ騎士団に送った密書が奪われて陰謀が発覚し、捕えられてヴォリニアのクレメネツ(Kremenets)の城に監禁された。彼はそこで9年間の幽閉生活を送ったのち、脱出している。クレメネツ(Kremenets)は現在のウクライナ西部の小都市で、リヴォフの東北東約130kmに位置し、13世紀のモンゴルの襲来でも落城せず耐え抜いたことで知られている。
(2020年6月 記)
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大橋レポート

ウェンゲンと周辺の旅/大橋 康隆

 1998年7月17日午後12時11分にアルプナッハシュタット駅を出発し南西に進み、マイリンゲン(Meiringen)、ブリエンツ(Brienz)を経由して、14時にインターラーケン・オスト(Interlaken Ost)に到着した。
 途中ブリエンツ湖を車窓から堪能したが、素晴らしい景色で写真の選択に迷った。(写真1)ブリエンツからは、登山電車でロートホルンへ登り、ユングフラウ3山を眺めることが出来るが、今回はパスした。インターラーケンで列車を乗換え、14時32分に出発して北西に進み、ラウターブルンネン(Lauterbrunnen)経由でヴェンゲン(Wengen)に15時14分到着した。地図ヴェンゲン周辺.jpg
地図ウェンゲン周辺
写真1 ブリエンツ湖.jpg写真2 メンリッヘン.jpg写真3ヴェンゲンより.jpg
写真1ブリエンツ湖写真2メンリッヘン写真3ウェンゲンより
 早速予約していたSホテルにリュックを預け、近くのロープウエイに乗り込み15分でメンリッヘン(Mannlichen)に到着した。ここから眺めた左からアイガー(3970m)、メンヒ(4099m)、ユングフラウ(4158m)の3山は素晴らしい。残念ながら大き過ぎて、一つの写真に入らない。スイスの最高峰だけ掲載する。(写真2)100m位歩くとレストランがあり、深い絶壁の谷底を見下ろすことが出来る。ここで日本から訪れた2人の若い女性達と出会ったが、ここからこの時間に歩いて反対側のグルントまで6kmを下山すると聞いて驚いたが、ただ無事を祈るばかりであった。私達は同じロープウエイで下山して、(写真3)の様な美しい写真を撮りながらホテルに帰着した。この写真は帰国後「ユングフラウ遠望」としてF8号の油絵を描き、NEC OB パレット会に出展した。
写真4 ミューレン.jpg写真5シルトホルンへ.jpg写真6回転レストラン.jpg
写真4ミューレン写真5シルトホルン写真6回転レストラン
 9月18日朝早く、ホテルのベランダから、朝日で金色に輝くユングフラウとシルバーホルンを眺めることが出来た。ヴェンゲン駅を8時30分に出発し西に進み、8時55分ラウターブルンネン駅に到着した。駅前のケーブルカーに9時2分に乗り込み、グリュッツアルプ(Grutsalp)で登山電車に乗換え9時37分にミューレン(Murren)に到着した。(写真4)ここから(写真5)の様なロープウエイでシルトホルン(2970m)を訪れた。「女王陛下の007」で有名な回転レストランで昼食をしながら周囲の山々を堪能した。(写真6)午後はロープウエイでミューレンに降り、暫しミューレンの美し家並み(写真7)を訪れた。(写真7)の中央上部には、近くのアルメントフーベル(Allmendhubel)展望台に登る登山電車が見える。残念ながら乗る時間は無かった。
写真7 ミューレン.jpg写真8ラウターブルンネン.jpg写真9音楽会.jpg
写真7ミューレン写真8ラウターブルンネン写真9音楽会
 ミューレンを14時30分に出発し、ロープウエイで真下のシュテッヘルベルク(Schutehelberg)へ降りて、近くのトリュンメルバッハTrummelbach)の滝を見物した。雪氷の洞窟へ入ると、ユングフラウメンヒ、アイガーの3山を源流とした物凄い水流が滝壺に落下して壮観であった。ここからバスでラウターブルンネンに帰るのが常道だが、谷底から眺める両側の山々の景観に見とれて歩くことにしたのが失敗だった。歩けども歩けどもラウターブルンネン駅が見えない。45分位であったが、一時間を超えた気がした。漸く駅にたどり着き(写真8)を撮影した。この写真も「スイスの峡谷」としてF8号の油絵に描き、NEC OB パレット会に出展した。ラウターブルンネン駅を17時に出発して、17時14分にヴェンゲン駅に到着した。ホテルで夕食をして、近くで開催されていた音楽会に出かけた。(写真9)音楽会の後で、子供達も含め参加家族のダンスパーティーがあり、和やかな雰囲気を楽しむことが出来た。

 今回自分で地図を描いてみて、長年のモヤモヤが解消した。掲載した地図は、旅行時に現地で購入した4万分の1の鉄道地図を基本にしたが、この地図の裏には幾つかの写真を利用した詳細な案内図が掲載されている。写真を利用した案内図は相対的には判りやすいが、全て南や東を向いて撮影されており、インターラーケンが下部にあり、ブリエンツ湖が左に、トゥーン湖が右に描いてあり驚いた。
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小林レポート

半世紀前の記録から:ユングフラウ/小林 凱

 この処コロナウイルスの蔓延でStay Homeと言われる世情から、私もその趣旨で過ごす一環として古い旅の記録を思い出して居ます。

 1967年3月にスイスの名峰のユングフラウに旅したことがあります。仕事でスイスに滞在して居た時、思いがけなく3日程の空いた時間が出来ました。その頃の海外出張は取引先の訪問が主体で、用事が済むと直ぐ次の予定に行くとか帰国で旅程の先の空きが見える事は少ないのが普通でした。

 この時の出張自体はチューリッヒが拠点の一人旅でしたが偶々週末を挟み3日の自由時間が出来て、好機を逃すなかれと当地を来訪して居た知人を誘って訪れたのがユングフラウでした。

 しかし元々見物する旅の心算で出かけて居ないので、全くの準備不足で特に写真の記録が残って居ません。アルバムも半世紀の間にすっかり痛んで、勿論ネガなど紛失して皆さんにお見せするものが無く、ブログへの投稿も考えて居ませんでした。処が先日このBlogに載った大橋さんのレポートが、美しい写真を沢山入れた旅でインターラーケン迄進まれたので、次回は恐らくユングフラウと勝手に想像しました。更に大曲さんも同じ所に行かれた事に元気づけられて、そのお話に拙文も繋がって行けたらと図々しく投稿しました。

 この時の旅程は1967/3/24(金)朝チューリッヒ発、先ず湖水の美しいルツェルン(Luzern)の街を訪ねてから、ユングフラウの麓のインターラーケン(Interlaken)に宿泊、翌3/25日に登山電車でユングフラウに登り同日下山して同じ宿にもう1泊、26日には首都ベルン(Bern)を訪ねて夕方チューリッヒに帰るもので、相談に行ったチューリッヒ中央駅の案内所で3日の旅なら一押しと勧められたものです。切符も鉄道の周遊パスを購入でき約70スイスフランでした。(Fig1)
Fig1.JPG
Fig1
Fig2.JPGFig3.JPGFig4.JPG
Fig2Fig3Fig4
 旅の初日は幸い穏やかな晴天、チューリッヒ中央駅を10:44分発の電車で出発し(Fig2)、ルツェルンに着いてからは大曲兄が先日コメントに話されたのとほゞ同じスケジュールを周りました。ルツェルンを15;12に発って夕方Interlaken Ost駅に到着、先ず翌日の旅程について推奨案を教えて貰いました。その際に貰ったのが登山電車のルートマップ(Fig3)と電車の時刻表(Fig4)で、私のレポートの中核部分がこれでカバーされています。時刻表にペンで薄く矢印が在るのは、係の方が私に説明しながら書き込んだものです。

 翌日は08:15発の電車で出発する事を学んだ後は宿(Hotel du Lac Interlaken)にチェックインし、近くの気楽なレストランで旅の初日が無事進んだ事に祝杯を挙げました。

 翌3/25(土)も素晴らしい晴天でした。この日の行程は地図と時刻表を参照してください。地図には地名が入っていますが、字が小さいので説明を付加します。地図の左下にルツェルンからの電車がやって来てInterlaken Ostに停車、この後電車は地図の右下からThunを経てベルン(Bern)方向に向かいます。

 ユングフラウへの登山電車はここから始まります。(括弧の数字は駅の標高です)

 08:15Interlaken Ost(567m)を出た電車は途中のZweilutschinen(633m)まで1本で進み、ここから左右2本の路線に分かれます。どちらを経由しても頂上に着くのは同じですが、私達は案内所の助言に従い右のLauterbrunnen(清らかな泉)経由にしました。詳しく記憶しませんがどうも左側の経由点、Grindelwaldへ行くのが午後(或いは夕方)の方が景色が綺麗に見える様に言われた様に思います。この乗換駅の周辺にはホテルやコッテージが在りました。

 08:45Lauterbrunnen(796m)を発車した電車は、ぐるっと向きを変えて山を登って行き、Wengen(1274m)を経由して乗換駅Kleinescheidegg(2061m)09:29に到着します。ここで私達は登頂線の電車に乗り換え、左のGrindelwaldからの電車が09:37に着くのを待って09:50に目的地Jungfrajochへ向け発車します。

 此処からは少し走った後はずっとトンネルの中を登ります。しかし途中に2箇所ほど見物用の停車駅があって乗客は山の中腹からの景観を眺めれます。その一つにアイガー北壁の途中から眺めるところがあって、切り立つ断崖は中々迫力がありました。この様にしてトンネルを走り続けた電車は、10:41にユングフラウ頂上に近いJungfraujoch(3454m)に到着しました。

 先ず駅から外へ出て見ると、回廊の様な見晴台が在って広大な雪の山々が広がっていた。この後少し歩いた所に遮断器など高圧の電力機器が設置されて居て、掲示板からスイスのメーカBraun & Boveriの製品試験場と判りました。説明には、同社はあらゆる過酷な設置環境に対応出来る様この様な検証を続けて居るとあったが、その趣旨は良しとして、もう少し世界の絶景への視線から離れた位置に設置して貰えばより有難いのにと感じました。

 電車の駅に隣接してホテルがあり、昨日の助言に従って少し早めに昼食を済ませた。晴れで気分が良かったのでビールも注文したが特記するものでは無かったと思います。この後エレベータに乗って展望台に登りました。晴天で実に素晴らしい眺めで、ユングフラウ(4158m)と周辺の山々に広大な氷河が圧巻でした。

 帰途はJungfraujoch 13:50発の電車でトンネルを下り、乗換駅のKleine Scheidegg14:30に到着。今度は朝登って来た路線の反対方向(地図の左側)に進み、次の乗換駅であるGrindel Wald(1034m)15:30に到着した。此処では20分の乗り換え時間があったので駅前の街へ少し出て見たが、中々の人出でホテルやロッジが並んで車も多く居ました。(Fig5 )

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Fig5
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Fig6
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Fig7

 街の背後にはアイガーの山壁がまじかに迫り西日を受けて輝いて居た。此処は大曲兄が宿泊された処で、素晴らしい眺めを楽しまれた事と推察しています。

 この後15:50発の電車で、地図で見る左側の路線を走って下り、Wilderswilを経由し16:31Interlaken Ost(567m)に帰着しました。

 翌3/26(日)はInterlaken Ost駅を09:48発の電車で10:57Bernに到着した。(Fig6) ここは首都の機関と共に中世の街並みの様な雰囲気も残っていて、日曜で閉鎖している処もあったが古い街をゆっくり探索した。(Fig7 ) この日は曇りで時には時雨れたが、初めの2日間が快晴であった事を感謝して周りました。昼食はKornhauskellerという店が感じが良さそうで入ったが悪い選択では無かった。

 帰途はベルンを15:22発の電車で、チューリッヒ中央駅に17:03に到着した。チューリッヒに入る少し前に、線路に沿って大きな工場が並んで居るところを通過したが、これがBraun Boveriの工場群でした。
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季節の花便り

5月の花便り/高橋 郁雄

  今回も自宅近辺からのみです。すべて、5月14日に撮影しました。
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イモカタバミベニハナトチノキアグロステンマ
イモカタバミ:我が家の近所で撮影しました。「カタバミ(片喰)」とは、夜になると葉が折れたように閉じられる生態から、「葉が半分食べられたように見える」ため「片喰」という名が付いた。このブログで過去に4種の片喰(ハナカタバミ・フヨウカタバミ・オオキバナカタバミ・ムラサキカタバミ)を掲載済みです。
  南米原産の多年草、戦後に観賞用として日本に持ち込まれて以来、道端でよくみられる。雄しべの葯(ヤク:花粉が入る袋)は黄色です。
  花言葉=「輝く心・決してあなたを捨てません・あなたとすごしたい・物思う」。
ベニハナトチノキ:旧NECの研究所があった場所に、現在は民家がまとまって建てられていて、その一帯の北側の道路沿いに20本余りの(紅花栃の木)が植えられており、5月中旬に一斉に花が咲きましたので、撮影しました。(紅花栃の木)は「アメリカ紅花栃の木」と「西洋栃ノ木(マロニエ)」との交雑種だそうです。
  花言葉=「博愛」・贅沢・天分・天才」。5月12日の誕生花。
アグロステンマ:紅花栃の木の花を撮影しようとして、家から歩いて向かう途中の公園の中で見つけて、撮影しました。この花は以前(2012年5月20日)に熱海市アカオハーブ&ローズガーデンで撮影し、本ブログに掲載済みです。家からこんなに近くで咲いているのを見つけて吃驚しています。
  花言葉=「育ちの良さ・自然を好む・気持ちがなびく」。4月4日、7月3日の誕生花。