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ジュネーブからパリへ/大橋 康隆

  1998年7月25日朝、登山電車でグリオン駅を出発し、モントルー駅(Montreux)に7時55分に到着した。ここで急行列車に乗り換え、モントルー駅を8時10分に出発して西に進みジュネーヴ駅(Geneve)に9時20分に到着した。
  途中でローザンヌ駅(Lausanne)を通過するとき、昔を思い出した。 C.U光デバイス開発部長から、A主任の教育のため海外出張に同行させてほしいと提案され、快諾した。アムステルダムで開催された国際学会終了後、ジュネーヴで開催されたTELECOM の展示会に説明員として出席した。ローザンヌ駅近くの小さなホテルに宿泊した。翌朝から50分早起きして列車でジュネーヴまで通勤した。
地図ジュネーヴ周辺.jpg
地図
ジュネーブ周辺
  朝日に輝くレマン湖と湖畔の斜面に連なる葡萄畑を見ながら、至福の時を数日間楽しんだ。名優チャップリンが当地で晩年を過ごした気持ちが良く分かる。スイスは安全だが、暗くなると危ない。展示会が終わると早々にローザンヌに帰り、夕食後、私の部屋で教育が始まった。持参した珍しい写真を見せながら、私自身の発展途上国出張時の苦労話や先輩達の涙ぐましい体験の一端を紹介した。
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写真:ITU
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写真2:花時計
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写真3:大噴水
  ジュネーヴでは、先ず懐かしいITUを訪れた。(写真1)次にイギリス公園を訪れ、花時計(写真2)や、レマン湖の大噴水(写真3)を撮影した。更にジュネーヴ大学を訪れ、「宗教改革記念碑」を撮影した。(写真4)ジュネーヴ駅を13時46分に出発して東方に進み、バーゼル駅(Basel)に16時38分に到着し、列車を乗り換え、16時55分に出発して北上し、ストラスブール駅に18時11分に到着した。2週間振りに駅前のホテルに戻り、預けたスーツケースの荷物を詰め替えた。
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写真4:宗教改革記念碑
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写真5:エッフェル塔
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写真6:パリ市街
  7月26日朝、ストラスブール空港を8時30分に出発して西方に飛び、パリのドゴール空港(Charles・de・Gaulle)に9時30分に到着した。凱旋門近くのホテルに荷物を預け、凱旋門の屋根に登り、エッフェル塔(写真5)や、パリ市街(写真6)を撮影した。左上にモンマルトルの丘に建つサクレクール聖堂が見える。続いてサクレクール聖堂を訪れ(写真7)を撮影した。
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写真7:サクレクール聖堂
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写真8:古本屋

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写真9
リュクサンブール公園
  さらに、映画で有名な「北ホテル」を訪れ、ルイ・ジューヴェ(Louis Jouvet)やアルレッティ(Arletty)の名演技を偲んだ。クラスブログ2013年01月11日「北ホテル」を参照して頂ければ幸いです。再びパリの中心街に戻り、ノートルダム寺院(Notre・Dame)を背景にした古本屋(写真8)を撮影した。さらに足を延ばしてリュクサンブール公園(Jardin・du・Luxembourg)を訪れた。(写真9)7月27日朝、パリのドゴール空港を13時30分に出発し、成田空港に7月28日8時10分に到着した。
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モンブランと周辺の旅/大橋 康隆

  1998年7月22日朝、ツェルマット駅を氷河特急で8時18分に出発し、北に進みヴィスプ駅(Visp)を経由して西に進み、マルティ二―駅(Martigny)に10時37分に到着した。
  ここでモンブラン特急に乗り換え10時48分に出発し、西南に進み、シャモニー・モンブラン駅(Chamonix-Mont Blanc)に13時14分に到着した。予約してあったホテルに行くと、日本人団体客で溢れ、屋根裏の部屋に案内された。屋根裏部屋の天窓を覗くとモンブランが見えた。(写真1地図モンブラン周辺.jpg
地図(モンブラン周辺)
写真1天窓.jpg写真2展望台.jpg写真3銅像.jpg
写真1(天窓)写真2(展望台)写真3(銅像)
  早速ロープウェイでエギーユ・デュ・ミディ(Aiguille du Midi)に登った。(写真2)霧が深く、イタリア領に行くゴンドラに乗るのを諦めた。急いでシャモニーに降りて市街を探索した。山岳博物館(Musee Alpin)の近くでモンブランを初登頂したバルマ(Balmat)と後援者ソシュール(Saussure)二人の銅像(写真3)を撮影した。ソシュールは近代登山の父と言われるスイス人で装備、資金などを組織的に援助した。
  夕方になってホテルに帰着すると、夕食はホテル内の食堂が満席で、庭先の屋外テーブルに案内された。ここでは私達と同様な外国人観光客達が、日本人の団体客の横暴さに憤慨していた。「私達も日本人ですが、皆さんと同じように扱われているので、全ての日本人が横暴だと思わないでください。」と穴に入りたい思いで釈明した。
写真4展望台.jpg写真5モンブラン.jpg写真6カフェ.jpg
写真4(展望台)写真5(モンブラン)写真6(カフェ)
  7月23日朝は、シャモニーの北西にあるル・ブレヴァン(Le Brevent)にロープウェイで登った。展望台から(写真4)を撮影したが、ここで77才の日本人と遭遇した。奥様は高山病らしく、麓のホテルに置いてきたとのことだが、旅慣れた登山家らしく、カクシャクとしておられた。ここでモンブランの素晴らしい(写真5)を撮影した。近くのカフェでモンブランの勇姿を眺めながら昼食を味わった。(写真6
  ロープウェイで麓に降りて、近くのロータリーで(写真7)を撮影した。この構図が気に入ったので、帰国後、F6号の油絵に描き、NEC OB パレット会に出展した。次いでサン・ミッシェル教会(写真8)とシャモニー市街(写真9)を撮影した。
写真7モンブラン遠望.jpg写真8教会.jpg写真9シャモニー市街.jpg
写真7(モンブラン遠望)写真8(教会)写真9(シャモニー市街)
  シャモニー駅を13時55分に出発して東北に進み、マルティニ―駅に15時29分に到着した。ここで乗り換えてマルティニ―駅を15時37分に出発して北に進みモントルー駅(Montreux)に16時10分に到着。ここから登山電車でグリオン駅(Glion)に17時44分に登り、眺めの良いホテルに宿泊した。
  7月24日は、午前中ロッセ・ド・ナイユ(Rochers de Naye) を訪ね、午後にはシヨン城を観光船で訪れた。クラスブログ2011年1月1日「シヨン城」を参照して頂ければ幸いである。
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ベルンからツェルマットへ/大橋 康隆

  1998年7月20日の午前はベルン(Bern)市街観光をすることにした。先ずベルン歴史博物館を訪れた。(写真1)次いでベルンを囲うようなアール川(Aar)を訪れ、ベルン市街を撮影した。(写真2)遠方に巨大なベルン大聖堂が見える。
  アール河畔に沿って歩くと(写真3)の様な美しい風景が現れた。帰国後、F8号の油絵に描き、有楽町交通会館2階ギャラリーで開催された本明会展に出展した。アール川の橋を渡って植物園を見学したが、再びベルン市街の中心地に戻り、街のシンボルであるベルン時計塔を撮影した。(写真4)仕掛時計が有名である。手前の女神の噴水は、正義の噴水と言われている。地図ツェルマット周辺.jpg
地図:ツェルマット周辺
写真1歴史博物館.jpg写真2大聖堂.jpg写真3アール河畔.jpg
写真1:歴史博物館写真2:大聖堂写真3:アール湖畔
  ベルン駅を14時26分に出発して南方に進みブリーク駅(Brig)に16時3分に到着した。これは急行列車だったが、エアコンが無く暑くて参った。昔、1970年代にジュネーブのITUの建物にCCITT(国際電信電話諮問委員会)が移るまでは、古い会議場でエアコンが無く、暑さに閉口した。「1週間のためにエアコンを設置する必要はない。」と言われたことを思い出した。ツェルマット鉄道に乗り換えて16時18分に出発して西に進み、ヴィスプ駅(Visp)を経由して南に進みツェルマット駅(Zermatt)に17時45分に到着した。
写真4時計塔.jpg写真5ゴルナーグラート.jpg写真6モンテローザ.jpg
写真4:時計塔写真5:ゴルナーグラート写真6:モンテローザ
  7月21日朝、登山電車でツェルマット駅を8時に出発してゴルナーグラート駅(Gornergrat)に8時44分に到着した。(写真5)あいにくマッターホルン(Matterhorn)は霧に隠れており、やむなく東方のモンテローザ(Monte Rosa)を撮影した。(写真6)天気が良ければここからリッフェル湖(Riffelsee)を訪れ逆さマッターホルンを撮影する予定であったが、諦めざるを得なかった。予定を変更し、ゴルナーグラートを9時55分に出発し、ツェルマット駅に10時39分に到着した。
写真7噴水.jpg写真8看板.jpg写真9幻の山.jpg
写真7:噴水写真8:看板写真9:幻の山
  引き続きスネガ駅(Snnegga)に登る予定であったが、ツェルマット市街を西方に進みマーモット(Marmot)の噴水までやってきた。(写真7)それでも諦めきれず「WELCOME TO THE MATTERHORN」の看板の写真を撮影した。(写真8)残りの時間はアルパイン博物館で過ごし、先駆的登山家達の苦難と悲劇をじっくりと味わった。
  7月22日早朝には、マッターホルンが現れるのを期待して通称「日本人橋」でしばらく粘ったが、遂に幻に終わった。(写真9)油絵仲間のR.T.さんはNEC OB パレット会で、この構図ですばらしい作品を描いていた。彼はスキーヤーでもあったので、冬期の旅行であると思う。
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ユングフラウからトゥーン湖へ/大橋 康隆

  1998年7月19日朝、ヴェンゲン駅を8時33分に出発、南進してクライネシャイデック(Kleine Scheidegg)に8時55分に到着した。
  途中、ユングフラウを撮影したが、山頂は霧に霞みシルバーホルンだけが鮮明に映っている。(写真1)登山電車に乗り換えてクライネシャイデック駅を9時2分に出発してユングフラウヨッホ駅(Jungfraujoch)に9時53分に到着した。展望台からは霧にかすみ、期待していたパノラマ風景は無残な写真になってしまった。地図トゥーン湖周辺.jpg
地図:トゥーン湖周辺
写真1ユングフラウ.jpg写真2グリンデルヴァルト.jpg写真5 トゥーン湖.jpg
写真1
ユングフラウ
写真2
グリンデルヴァルト
写真3
トゥーン湖畔
  止むなくユングフラウヨッホ駅を11時に出発してクライネシャイデック駅に11時44分に帰着した。休む間もなく12時にクライネシャイデック駅を出発してグリンデルヴァルト駅(Grindelwald)に12時50分に到着した。ここで撮影したアイガーの勇姿を(写真2)に示す。しばし休憩して再びグリンデルヴァルト駅を13時50分に出発して山路を下り、インターラーケン・オスト駅には14時7分に到着した。ここからはユングフラウ三山が美しく見えるので不思議な気持ちになった。時間的に余裕があったので、インターラーケン市街を歩いて港のあるインターラーケン・ヴェスト駅に到着した。
写真4シュピーツ城.jpg写真3 トゥーン湖観光船.jpg写真6グルント.jpg
写真4
シュピーツ城
写真5
トゥーン湖観光船
写真6
グルント
  インターラーケン港から観光船に15時55分に乗船し、北西に進み(写真3)のような美しいトゥーン湖畔(Thunersee)を眺めながらシュピーツ港(Spiez)に到着した。シュピーツ港からトゥーン湖を横断して、グルント港(Grund)に向かって出発すると、まもなくシュピーツ城が現れた。急いで船尾から(写真4)を撮影した。トゥーン湖を横断して進んでいると反対方向に進む観光船とすれ違い(写真5)を撮影した。対岸のグルントに到着すると、一部の乗客は下船した。(写真6
写真7オーバーホーヘン城.jpg写真8オーバーホーヘン城.jpg写真9 トゥーン城.jpg
写真7
オーバーホーヘン城
写真8
オーバーホーヘン城
写真9
トゥーン城
  更に北へ進むとオーバーホーヘン城が現れた。(写真7)、(写真8)更に北西に進み、トゥーン港に18時4分に到着した。トゥーン市街では(写真9)に示すように何処からでも背景にトゥーン城が現れる。トゥーン駅を18時18分に出発して北西に進み、スイスの首都にあるベルン駅(Bern)に18時38分に到着した。

  PS:2003年に(写真8)を編集してF50号の油絵に描き、上野の東京都美術館で開催された新構造展に出展して準会員に推薦された。2014年には(写真7)をF50号の油絵に描き、六本木の国立新美術館で開催された新構造東京展に出展した。
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ウェンゲンと周辺の旅/大橋 康隆

 1998年7月17日午後12時11分にアルプナッハシュタット駅を出発し南西に進み、マイリンゲン(Meiringen)、ブリエンツ(Brienz)を経由して、14時にインターラーケン・オスト(Interlaken Ost)に到着した。
 途中ブリエンツ湖を車窓から堪能したが、素晴らしい景色で写真の選択に迷った。(写真1)ブリエンツからは、登山電車でロートホルンへ登り、ユングフラウ3山を眺めることが出来るが、今回はパスした。インターラーケンで列車を乗換え、14時32分に出発して北西に進み、ラウターブルンネン(Lauterbrunnen)経由でヴェンゲン(Wengen)に15時14分到着した。地図ヴェンゲン周辺.jpg
地図ウェンゲン周辺
写真1 ブリエンツ湖.jpg写真2 メンリッヘン.jpg写真3ヴェンゲンより.jpg
写真1ブリエンツ湖写真2メンリッヘン写真3ウェンゲンより
 早速予約していたSホテルにリュックを預け、近くのロープウエイに乗り込み15分でメンリッヘン(Mannlichen)に到着した。ここから眺めた左からアイガー(3970m)、メンヒ(4099m)、ユングフラウ(4158m)の3山は素晴らしい。残念ながら大き過ぎて、一つの写真に入らない。スイスの最高峰だけ掲載する。(写真2)100m位歩くとレストランがあり、深い絶壁の谷底を見下ろすことが出来る。ここで日本から訪れた2人の若い女性達と出会ったが、ここからこの時間に歩いて反対側のグルントまで6kmを下山すると聞いて驚いたが、ただ無事を祈るばかりであった。私達は同じロープウエイで下山して、(写真3)の様な美しい写真を撮りながらホテルに帰着した。この写真は帰国後「ユングフラウ遠望」としてF8号の油絵を描き、NEC OB パレット会に出展した。
写真4 ミューレン.jpg写真5シルトホルンへ.jpg写真6回転レストラン.jpg
写真4ミューレン写真5シルトホルン写真6回転レストラン
 9月18日朝早く、ホテルのベランダから、朝日で金色に輝くユングフラウとシルバーホルンを眺めることが出来た。ヴェンゲン駅を8時30分に出発し西に進み、8時55分ラウターブルンネン駅に到着した。駅前のケーブルカーに9時2分に乗り込み、グリュッツアルプ(Grutsalp)で登山電車に乗換え9時37分にミューレン(Murren)に到着した。(写真4)ここから(写真5)の様なロープウエイでシルトホルン(2970m)を訪れた。「女王陛下の007」で有名な回転レストランで昼食をしながら周囲の山々を堪能した。(写真6)午後はロープウエイでミューレンに降り、暫しミューレンの美し家並み(写真7)を訪れた。(写真7)の中央上部には、近くのアルメントフーベル(Allmendhubel)展望台に登る登山電車が見える。残念ながら乗る時間は無かった。
写真7 ミューレン.jpg写真8ラウターブルンネン.jpg写真9音楽会.jpg
写真7ミューレン写真8ラウターブルンネン写真9音楽会
 ミューレンを14時30分に出発し、ロープウエイで真下のシュテッヘルベルク(Schutehelberg)へ降りて、近くのトリュンメルバッハTrummelbach)の滝を見物した。雪氷の洞窟へ入ると、ユングフラウメンヒ、アイガーの3山を源流とした物凄い水流が滝壺に落下して壮観であった。ここからバスでラウターブルンネンに帰るのが常道だが、谷底から眺める両側の山々の景観に見とれて歩くことにしたのが失敗だった。歩けども歩けどもラウターブルンネン駅が見えない。45分位であったが、一時間を超えた気がした。漸く駅にたどり着き(写真8)を撮影した。この写真も「スイスの峡谷」としてF8号の油絵に描き、NEC OB パレット会に出展した。ラウターブルンネン駅を17時に出発して、17時14分にヴェンゲン駅に到着した。ホテルで夕食をして、近くで開催されていた音楽会に出かけた。(写真9)音楽会の後で、子供達も含め参加家族のダンスパーティーがあり、和やかな雰囲気を楽しむことが出来た。

 今回自分で地図を描いてみて、長年のモヤモヤが解消した。掲載した地図は、旅行時に現地で購入した4万分の1の鉄道地図を基本にしたが、この地図の裏には幾つかの写真を利用した詳細な案内図が掲載されている。写真を利用した案内図は相対的には判りやすいが、全て南や東を向いて撮影されており、インターラーケンが下部にあり、ブリエンツ湖が左に、トゥーン湖が右に描いてあり驚いた。
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ルツェルンと周辺の旅/大橋 康隆

  1998年7月16日朝、シャフハウゼン駅を8時7分出発し、南下してチューリッヒ駅に8時47分に到着した。ここで列車を乗換え9時1分に出発し、南西に進みルツェルン(Luzern)駅に9時49分到着した。
  ルツェルンはルツェルン湖の北西に位置する森と湖の美しい古都で、車は入れない。湖は4つの森の国の湖フィーアヴァルトシュテッテ(Vierwaldsttter)と呼ばれている。ワグナーやバイロンが愛した町と言われている。1962年の秋の週末に、ドイツのミュンヘンから空路でチューリッヒに飛び、列車でルツェルンに到着し、人生で最初にスイスに1泊した懐かしい都市である。
地図ルツェルン周辺.jpg
地図ルツェルン周辺

写真1カペル橋出入り口.jpg写真2カペル橋内部.jpg写真3カペル橋全景.jpg
写真1カペル橋出入口写真2カペル橋内部写真3カペル橋全景
  中央駅に近いホテルにリュックを預けて、早速カペル橋(Kapellbrucke)を訪れた。(写真1)の左側には、8角形の貯水塔が見える。現在は芸術クラブの集会場として使われているが、昔は牢獄や拷問部屋に使われた歴史がある。カペル橋は、屋根付きの木造橋で、内部に入ると屋根の梁に描かれた絵画が素晴らしい。(写真2)町の歴史が描かれている。カペル橋の全景を(写真3)に示す。橋の背後にはロイス(Reuss)川の北側にある旧市街が写っている。カペル橋の見学後旧市街を見物しながら北進し、氷河公園の南端にあるライオン記念碑(Lowendenkmal)を訪れた。断崖に彫り込まれた「瀕死のライオン像」は、迫力があった。フランス革命の時、ルイ16世、マリーアントワネネットと子供達を守るため全滅した700人超のスイス傭兵達の鎮魂碑であり、町のシンボルである。
写真4 ヴィッツナウ駅.jpg写真5 リギ・クルム駅.jpg写真6 リギ・クルム頂上.jpg
写真4ヴィッツナウ駅写真5リギ・クルム駅写真6リギ・クルム頂上
  午後はリギ・クルム(Rigi Kulm)を訪れることにした。中央駅の東側に市立美術館があり、その東側は美しい港である。12時3分に定期観光船に乗船し、12時51分にヴィッツナウ(Vitznau)港に到着した。(写真4)ヴィッツナウ駅を13時に出発して、リギ・クルム駅に13時30分到着した。(写真5)運悪く霧が深くなり、途中の山の景色は楽しめたが、ルツェルン湖は霧に霞んでしまった。駅から徒歩で頂上(1789m)まで登ったが、アンテナの下で寒さに震えながら家内が(写真6)を撮影した。再びリギ・クルム駅まで下山して、14時20分に出発し、ヴィッツナウ駅に15時到着した。ヴィッツナウ港を15時50分に出発し、ルツェルン港に16時44分到着した。
写真7 ピラトゥス・クルム.jpg写真8 ピラトゥスより.jpg写真9アルプナッハシュタート駅.jpg
写真7ピラトゥス・クルム写真8ピラトゥスより写真9アルプナッハシュタット駅
  7月17日朝ルツェルン駅を8時24分に出発し、南進してアルプナッハシュタット(Alpnachstad)駅に8時40分到着した。急いでケーブルカーに乗換え、8時50分に出発して、ピラトゥス・クルム(Pilatus Kulm)駅に9時20分到着した。(写真7)このケーブルカーは世界一の急斜面である。駅から頂上エーゼル(Esel)までは、写真の背後に見えるジグザグの山道を歩いて登った。(2132m)頂上からは北方にルツェルン湖も見えたが、霧に霞んでいた。反対の登ってきた山の方を眺めると、(写真8)の景色が素晴らしく、曲がりくねった山道が印象的であった。ピラトゥス駅を10時45分に出発して、アルプナッハシュタット駅に11時25分到着した。(写真9)駅の近くに美しいホテルがあり、昼食をして普通列車に乗り、アルプナッハシュタット駅を12時11分に出発し、南西に進んで14時にインターラーケン・オスト(Interlaken Ost)駅に到着した。この日の午後は次回の予定です。
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ニュールンベルクと周辺の旅/大橋 康隆

  1998年7月13日朝、ホーエンシュヴァンガウ村のホテルに近いバス停からフュッセン駅に向かった。早朝にも拘わらず多くの観光客が乗車したので驚いた。
  フュッセン駅を8時5分に出発し、北進してアウグスブルク駅に9時44分到着した。車中では向かい席で女子大学生がスペイン語の本を熱心に勉強しており、ドイツ人の勤勉さを再認識した。
  中央駅は市街の西端にあり、先ずは東北に1km位歩いて大聖堂(Dom)を訪れた。(写真1)高窓のステンドグラスは世界最古と言われた。
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地図ドイツ南部
写真1大聖堂.jpg写真2市庁舎.jpg写真3ベルラッハの塔.jpg
写真1大聖堂写真2市庁舎写真3ベルラッハの塔
  大聖堂から南へ400m位歩くと市庁舎(Rathaus)が現れた。(写真2) 市庁舎はドイツ・ルネッサンスの最高傑作と言われている。写真の左側にベルラッハ塔の一部が見えるが、その全景を(写真3)に示す。この塔に登ると市街の全景が見えると言われたが、残念ながら時間不足で諦めた。代わりに市街の美しい家並みの写真を撮影した。アウグスブルク駅を13時24分に出発し北々西に進みニュールンベルク駅に14時31分到着した。

 ニュールンベルク駅は旧市街の南にある。駅の北側のホテルにリュックを預け、ケーニッヒ通り(Konigstrasse)を北に500m位進み、ペグニッツ川を(Pegnitz)を渡ってハウプト広場(Hauptplatz)を訪れた。広場には聖母教会(Frauenkirche)が悠然と聳えていた。(写真4)教会の仕掛け時計は、正午に鳴り動き出すが、時既に遅しであった。近くに美しの泉(Schoner Brunnen)がある筈で、近傍の道を探し回ったが見つからない。散々尋ね回って、発見したらハウプト広場にあった。なんと19mもある八角形のピラミッド状の塔であった。(写真5)泉と言うから、もっと小さい噴水だと思い込んでいた。急いで北に500m位歩いてカイザーブルク城(Kaiserburug)を訪れた。中央に建つ見張り台から市街地を一望できる。(写真6)の左側にペグニッツ川が遥かに見える。
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写真4聖母教会写真5美しの泉写真6市街全景
   7月14日朝、R.U 教授夫妻がホテルを訪れ、車でエルランゲン大学(Universitat Erlangen)までお連れ下さった。U.R 教授は、1962年秋にシュトットガルト工科大学を訪問した際、案内頂いて以来クリスマス・カードを交換していたが、今回は家内が炭素薄膜の研究をしている自然科学学部物理学科を見学したいと希望したので、快く紹介して頂いた。先ず、物理学科での炭素薄膜研究の概況を説明頂き、次いで研究室の見学をした。研究設備の規模と光学的精密測定装置の精度に家内は感嘆していた。基礎研究を重視しているドイツの姿勢が伺える。大学訪問後R.U 教授夫妻は郊外の静かなレストランに案内され、昼食を共にして歓談した。奥様が「主人は日本を学会で訪問したことがあるが、私には日本は余りにも遠いです。しかし、ニュールンベルクには、多くの日本人が住んでおられ、日本文化に触れる機会は多いです。」と話されたのが印象的であった。昼食後、近くの静かな田園を散策して、(写真7)ホテルまで車で送って頂いた。

写真7田園風景.jpg写真8聖霊院.jpg写真9巨大噴水.jpg
写真7田園風景写真8聖霊院写真9巨大噴水
  ホテルに帰着して、まだ夕方まで明るい時間があったので、ペグニッツ川の博物館橋(Museums brucke)まで行き、聖霊院(Heilig GeistSpital)を撮影した。(写真8)この眼鏡アーチは、当地の代表的景観で、写生をしている人達もいた。次いで南西に進み、町角で奇抜な巨大噴水(Ehekarusserll)を発見して、撮影した。(写真9)この場所は、インターネットで調べたら、地下鉄のヴァイザー・トゥルム駅(Weisser Turm)の出口近くの町角であることが判明した。背景のドームはエリザベス教会(Elisabethkirche)である。
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ハイデルベルクから白鳥城へ/大橋 康隆

  1998年7月10日朝ストラスブール駅を9時8分出発し東方に向かい更に東北に進んでカールスルーエ駅(Karlsruhe)で乗換え、北進してハイデルベルク駅(Heidelberg)に11時16分に到着した。
  中央駅からトラムで約10分東方に進み、大学広場で下車した。ハイデルベルク大学と旧校舎を眺めながら更に旧市街を東に進むと、マルクト広場(Marktplatz)に到着した。ここからハイデルベルク城(Schloss Heidelberg)に登り、内部を見学した。地図ドイツ南部.jpg
地図ドイツ南部
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写真1旧市街写真2城全景写真3哲学者の道
  1962年の秋に米国留学の帰途訪れたのが最初であるが、その時は霧に覆われ城を通り過ぎて山に入り込んだが、親切な老人に出会い「城はもっと下だよ。」と教えてもらい助かった。その時も城から四方を撮影したが、霧で霞んだ写真しか残っていない。今回は天気に恵まれ、城から四方を撮影した写真は上出来であった。(写真1)の左に聖霊教会(Heiliggeistkirche)、右にカール・テオドール橋(Karl-Theodor Brucke)が見える。城の見学後、ネッカー川に架かる橋を渡って対岸の坂道を登り、哲学者の道(Philosophenweg)を西に向かって進んだ。ここから撮影したハイデルベルク城とカール・テオドール橋が(写真2)である。散歩道の入り口には、花壇やベンチがある。(写真3)哲学者の道を堪能して、テオドール・ホイス橋(Theodor-Hois Brucke)を渡り旧市街からトラムで中央駅に帰った。ハイデルベルク駅を16時53分出発して北方に進み、マインツ駅(Mainz)で乗換え、リューデスハイム駅(Rudesheim)に19時43分到着、川沿いのホテルに宿泊した。
写真4ブファルツ城.jpg写真5ローレライ.jpg写真 6ライン河畔.jpg
写真4ブファルツ城写真5ローレライ写真6ライン河畔
  7月11日朝9時にリューデスハイムの船着場からライン下りの観光船に乗船した。15分後に対岸のビンゲン(Bingen)に寄港したが、私にとって懐かしい場所だ。1962年の秋、ハイデルベルク駅からベルギーに向かう途中、夜中にここで列車が行き止まりになり、止む無く下車して暗い町で唯一灯が見えた居酒屋の2階に泊めてもらったが、清潔な部屋であった。翌朝、1階で朝の食事をしていたら、近所の低学年の小学生が数人珍しそうに窓から覗いていた。手を振ると喜んで、一斉に小学校の方へ走って行った。更に約1時間後に、バッハラッハ(Bachrach)とカウブ(Kaub)の間にある中州にプファルツ城(Burg Pfalzgrafenstein)が現れた。(写真4)ここから30分位でローレライ(Lorelei)に到着した。(写真5)写真の左にトンネルが見える。昔先輩方からライン川の両岸に鉄道が走っており、間違えるとローレライはトンネルの中からは見えないぞと注意されたのを思い出した。この後も、次から次に(写真6)の様な城と葡萄畑が現れてきた。コブレンツ(Kobulenz)の船着場に12時50分に到着したが、タクシーでコブレンツ駅に急行した。13時54分にコブレンツ駅を出発し、マンハイム、アウグスブルグ、ブッハローで乗換えて、フュッセン駅(Fussen)に20時57分に到着した。夜遅く到着したので、タクシーでホーエンシュバンガウ村Hohenschwangau)のホテルに直行した。
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写真7白鳥城全景写真8白鳥城より写真9麓の城
  7月12日朝、ホテルから坂道を登り待望のノイシュヴァンシュタイン城(Schloss Neuschwanstein)を訪れた。馬車に乗って訪れる観光客もいたがここまで苦労して来たので徒歩で頑張った。城の全景は、背後の山の谷に架かった橋から撮影した。(写真7)城に入場して眺めたパノラマは素晴らしい。(写真8)の右下には、ホーエンシュヴァンガウ城が見える。先程城の全景を撮影した谷に架かる橋も撮影出来た。この様に理想的な城の建設に邁進して、権力や財政の衰退の現実を顧みなかった第4代バイエルン王ルートヴィッヒ2世は、狂気王と言われ謎の死を遂げた。しかし現在では、多くの観光客が楽しみ、、村の人達は恩恵を受けている。午後は、山を降りてホーエンシュヴァンガウ城(Schloss Hohenschwangau)を訪れた。(写真9)外観は単調だが、内部は「英雄の間」「白鳥の騎士の間」など見事であった。夕方ホテルに帰着して、久しぶりにゆっくり休息した。
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大橋レポート

ストラスブール周辺の旅/大橋 康隆

 1998年7月8日は、家内は学会へ、私はストラスブールの対岸のドイツを訪れた。朝9時34分にストラスブルク駅を出発して東方に進み、オッフェン
ブルク(Offenburg)駅で急行に乗換え南方に進み、11時4分にフライブルク(Freiburg)駅に到着した。
 駅から東に進むと旧市街に入り東端に大聖堂(Munster)がある。旧市街の中央には南北にトラムが走っていた。フライブルクで食事をして、しばし旧市街を散策した。(写真1)は市庁舎(Rathaus)である。
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地図ドイツ西南部
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写真1市庁舎写真2城写真3ドナウの泉
 フライブルク駅を13時40分に出発し、東方に進みドナウエッシンゲン(Donaueschingen)駅に15時20分に到着した。先ず、フュルステンベルク城(Furstenbergisches Schloss)を訪れた。(写真2)城の庭園には美しい薔薇が咲き乱れていた。近くのドナウ川の源泉(Donaugulle)を訪れると、若い二人が泉をのぞき込んでいた。(写真3)この町では、本格的な木骨組みの建物が印象的であった。ドナウエッシンゲン駅を16時44分に出発して北西に進み、オッフェンベルク駅で乗換え西に進んで、ストラスブール駅に19時5分に到着した。
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写真4黒い森写真5フロイデンシュタット写真6ミュンメル湖
 7月9日は、家内は学会へ、私は同伴家族の黒い森ツアーに参加した。バスは東方に進み、やがて黒い森が現れてきた。(写真4)しばし森の深さを堪能していると、バスはフロイデンシュタット(Freudenstadt)に到着した。(写真5)ここのレストランでの昼食は、一つのテーブルに6人づつ着席したが、ここで幸運なことにもう一人男性の参加者を発見した。正面の席はトルコから参加した6才の坊やだった。坊やのお母さんは、大変積極的な方で、珍しい日本人を見つけたとばかり「あなたは奥さんに働かせてこんな所で遊んでいていいのですか。」と話しかけてきた。「とんでもない!私は昨年まで通信技術者として精一杯働いてきた。若い頃は、月、月、火、水、木、金、金、で働き、通常勤務時間と残業時間+休日出勤は同じ位だった。これ位遊ぶのは当然です。」と答えた所、「日本の定年は何才ですか。」と次から次へと質問を受け、瞬く間に私の正体が明らかにされた。同じテーブルには、日本から同伴のご夫人が2人おられたので、食後の休憩時間には忽ち日本からご同伴の6人のご夫人方に私の正体が伝わってしまった。お陰でバスが停車する度に、美しい背景の前で記念写真を撮影するカメラマンになり、友好を深めることが出来た。
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写真7パン焼窯写真8麓の町写真9懇親会場
 次にバスが停車した所は、ミュンメル湖(Munmmel Zee)で 、奥深い色をした湖にはボートハウスがあった。(写真6)近くに珍しい屋根のパン焼き窯があり、出来立てのパンを販売していた。(写真7)帰路では2ヶ所の街を訪れたが、どの町だったか定かでない。(写真8)やはり自分で計画した場所は、明確に覚えていても、人任せでは印象が薄いようだ。しかし楽しい同伴家族の黒い森ツアーを企画して下さった国際炭素学会には、心から感謝しています。
 ホテルに帰着して、背広に着かえ夕方には家内と学会の懇親会に出席した。由緒ある会場で美しい庭園が印象的であった。(写真9)懇親会が終了すると、日本人では最年長のK教授夫妻が「私も来年定年です。」と挨拶に来られた。多分奥様から詳細な報告があったものと推察する。
 美しい庭園の前で、記念写真を撮影した。残念なことに、これが最初で最後の同伴家族ツアーになってしまった。その後、家内が国際炭素学会に参加する度「ご主人は同伴ではないの?」と尋ねられ「油絵の題材にならない場所は駄目なのです。」と答えていたらしい。実態は定年後の油絵と囲碁の活動が軌道に乗り、かつ各種同期会やOB会の世話役が忙しくなって、日程の調整がつかなくなったのである。

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ストラスブールの思い出/大橋 康隆

 1998年7月5日は、日曜日だったのでストラスブールの旧市街の見物をすることにした。駅に近いホテルから南東々に300m位進むと、イル川に架かるキュス橋(Pont Kuss)に到着した。
 ここを渡ると旧市街で、東方に600m位進むとクレベール広場(Pl.Kleber)、更に少し進むとグーテンベルク広場(Pl.Gutenberg)に到着した。広場の中心には、グーテンベルクの像がある。(写真1)更に東方に500m位進むと、ノートルダム大聖堂に到着した。(写真2)大聖堂の近くに観光案内所があり、旧市街を囲むイル川を一周する遊覧船に乗ることにした。
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写真1グーテンベルク像写真2大聖堂写真3川岸の建物
 出発点は、大聖堂の南300mにあるカルボー橋(Pont du Carbeau)の川岸であった。乗船すると、早速素晴らしい木骨組みの建物が現れた。(写真3)更に進むと旧市街東部にある小フランス(Petite France)に到着し、木骨組みの建物が密集して現れ、多くの観光客が川岸に溢れていた。(写真4)ここで川は4本に分かれるが、遊覧船は北西に進み、続いて西方に更に南西に進んで、旧市街の西部に到着した。ここでは、かって牢獄として使われたヴォーバン・ダム(Barrage Vauban)がある。(写真5)近くには現代美術館が見える。ここから旧市街の南部を見物して、何処を通ったのか記憶にないが、大聖堂から北西2kmにあるヨーロッパ宮を川から撮影している。(写真6)ここでは欧州議会と欧州評議会が開催されるが、壮大なガラス張りの建物であった。
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写真4小フランス写真5ヴォーバンダム写真6ヨーロッパ宮
 7月6日は、私も背広に着かえ、トラムに乗って国際炭素学会が開催されるストラスブール大学(Universite de Strasbourg)に向かった。大学は大聖堂から南東部の新市街にある。ここで家内と学会に登録し、私も同伴家族であることが認められた。学会が始まる前に、日頃家内がお世話になっている国内、海外の学会員の方々に挨拶した。一人で参加している日本人教授の方が早速私達のツーショットを撮って下さり恐縮した。学会の基調講演は私も拝聴したが、専門別の学会発表が始まると、私は判らないので、展示室を見学した。国際炭素学会は炭素の種々の形態を広範に扱っており、素人にも結構興味深かった。昼食と夕食は、家内の親しい参加者の方々と共にして、楽しんだ。学会は、同伴家族のためのプログラムを用意しており、7月7日夕方に大聖堂でパイプオルガン演奏、7月9日は貸切バスでドイツの黒い森(Schwarzwald)の見学ツアーがあり、早速参加登録をした。
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写真7教会写真8教会写真9ライン川の橋
 7月7日は、家内は学会へ、私はドイツのケールを訪れた。ドイツと言っても、ライン川を渡れば次の駅で10分で行ける。しかし、各駅停車の列車は少ないので、注意する必要がある。町には美しい教会や静かな池がある。(写真7)(写真8)一方では街角に小さな市場もある。とにかく静かな町であった。午後は早目に切り上げ、ライン川に架かる橋を歩いて渡り、トラムに乗って、ホテルに帰着した。(写真9)夕方は背広に着かえ、家内と共に大聖堂のパイプオルガン演奏を楽しんだ。大聖堂に響き渡るパイプオルガンは荘厳であった。