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武田レポート

リトアニア史余談108:戦いのあと/武田 充司

 戦いが終り、制圧されたドイツ騎士団の本陣に足を踏み入れたポーランド王ヨガイラは、先ず、神に戦勝感謝の祈りを捧げた。そこには様々な物資を積んだ夥しい数の荷馬車が残されていたが、その中にはワインの樽を満載した荷馬車もあった(*1)。
 ヨガイラは荷馬車に積まれていた物資を戦利品として兵士たちが山分けすることを認めたが(*2)、ワインの樽はすべて打ち砕かせた。膨大な量のワインが死傷した兵士の血と混じって大地に溢れた。冷静なヨガイラは、戦いに疲れ喉の渇きに喘ぐ兵士たちが先を争ってワインを呑み、泥酔してしまうことを恐れたのだった(*3)。このとき、ヨガイラは未だ自分たちの勝利がどの程度のものなのか分かっていなかった。敗走した敵が何時また反撃してくるやも知れず、敗残の敵兵の掃討作戦が続いていた(*4)。

 ようやく、この日の午後8時過ぎになって掃討作戦は中止され、続々と疲れ果てた兵士が空腹を抱えて戻ってきた(*5)。ドイツ騎士団総長を打ち取った証の品も届けられ、敵将の死が確認された。敵将ウルリヒ・フォン・ユンギンゲンは敗色濃厚となったとき、包囲網を突き崩して退路を確保したが、このとき既に胸と顔面に傷を負っていたという。それでも本陣に引き揚げようとする彼を、追撃してきたポーランド軍の一隊が取り囲み、槍で喉を一撃した。これが致命傷となって騎士団総長は壮烈な最期をとげたという(*6)。
 1410年7月15日という長い歴史的な1日も終りに近づいた頃、戦場跡では、暗闇の中を地元の農夫らが散乱している死体から目ぼしい物を剥ぎ取ったり、未だ苦しんでいる重症者に止めを刺したりしていた。

 一夜明けて7月16日の朝、ポーランド・リトアニア連合軍は、これ以上敵を追撃することはやめ、疲労困憊した兵士を一日休ませることにした。そして、ドイツ騎士団総長と幾人かの騎士団幹部の遺骸が白い布で覆われ、馬車に乗せられて戦場からさほど遠くないオステローデの城まで送られ、丁重にドイツ騎士団側に引き渡された(*7)。
 一方、戦場跡に散乱していた夥しい数の遺体は、敵味方を問わず、穴を掘って埋葬され、仮設のテントの中に造られた礼拝堂でポーランド・リトアニア両軍の騎士たちが参列してミサが執り行われ、戦死者の霊を弔った。そして、そのあと、ヨガイラとヴィタウタスによる勝利の正餐が催された(*8)。

 勝利の饗宴のあと連合軍の総大将であるポーランド王ヨガイラが捕虜の処分を言い渡したが、それは極めて寛大なものであった。ドイツ騎士団の重要人物は人質として拘束されたが、殆どの者は召喚命令にしたがって出頭することを誓約しただけで解放された(*9)。この処置は、その後、敬虔なキリスト教徒としてのヨガイラの名声を高めたと伝えられている。

〔蛇足〕
(*1)このとき、多数の手錠や足枷を積んだ荷馬車も見つかったが、それは彼らが勝利したときに捕虜を拘束するために用意してきたものだった。
(*2)当時の戦いでは、勝った側の兵士が報酬の一部として戦場から敗者の所持品などを抜き取って着服するのは普通に行われていた。これは、未だ常備軍のない時代に、その戦いのために召集された多数の兵士や傭兵に対して報いる手段として、軍の司令官や王たちが認めていたことで、現代的な感覚でこれを「火事場泥棒」のような不法行為と決めつける分けにはゆかない。
(*3)このワイン樽の件は、この説明で十分ではあるが、ヨガイラが酒を飲まない人であったことを念頭に置くべきだろう。
(*4)実際、この戦いの大勢が決したあと、先を争って自陣に逃げ込もうとする騎士団側の将兵を、軽装備で俊敏なリトアニアの兵士やタタールたちが追いかけ、捕まえて虐殺するなどしたため、あちこちで凄惨な光景が展開された。しかも、逃げられないと観念した将兵たちが、自陣で荷馬車を並べて防壁とし、円陣をつくって最後の抵抗を試みたため、たちまち包囲されて皆殺しの憂き目をみた。辛うじてこの包囲を逃れて安全な場所にたどり着いた負傷者たちも、雑役夫などとして連れて来た味方の非戦闘員に背かれ、虐殺されるという悲劇に見舞われた。むしろ、こうして敗走したのちに死んだ者の方が、戦場で死んだ者よりもずっと多かったという。
(*5)この高緯度地方の7月中旬の午後8時は、未だ明るく、やっと日暮れが近づいたという時間帯である。
(*6)騎士団総長ウルリヒ・フォン・ユンギンゲンが最期をとげた場所は、ドイツ騎士団がこの日の戦いのために弩や火砲を配備した陣地辺りであったというから、丘の上の本陣までは未だ距離があった。また、彼に止めを刺したのは、ポーランド王の本陣を守っていたクラクフの貴族ジンドラム(Zyndram z Maszkowic)麾下の部隊の誰かであったと記録されている。ジンドラムについては「余談106:1410年7月15日、決戦の朝」の蛇足(4)参照。
(*7)オステローデ(Osterode)は現在のオストルダ(Ostróda)で(「余談105:両軍の探り合いと駆け引き」の蛇足(1)参照)、この戦場の北々西約25kmに位置している。なお、ウルリヒ・フォン・ユンギンゲンの遺骸は、7月19日にはドイツ騎士団本部のあるマリエンブルク城内の聖アンナ礼拝堂に安置されたという。
(*8)この正餐には捕虜となった敵方の重要人物も出席させられたが、その中にはシュヴィドニッツァ(Świdnica)とシュチェチン(Szczecin:〔独〕Stetten)の公が含まれていた。シュヴィドニッツァはシロンスク(シレジア)の都市で、シュチェチンはオーデル川下流西岸の都市である(「余談106:1410年7月15日、決戦の朝」の蛇足(6)参照)。これらの地域の公は本来ポーランド王に従うべきだが、地理的位置からドイツ騎士団側についていた。
(*9)しかし、先に述べたシュチェチン公は許されず1年間捕囚の身となった。また、ドイツ騎士団側の通訳として重要な外交上の役割を担っていたマルクァード・フォン・ザルツバッハ(Marquard von Salzbach)も捕虜になったが、この人は、ヴィタウタスがドイツ騎士団に庇護されていた頃にヴィタウタスと知り合い、1384年7月にヴィタウタスがドイツ騎士団を離脱して戦いを挑んだとき(「余談83:カウナスのマリエンヴェルダー」参照)、捕虜となり、ヴィタウタスに仕えて信頼されていた人物であったが、のちにドイツ騎士団に戻り、通訳として重要な外交上の交渉に活躍していた。そのため、ヴィタウタスは再び捕虜となった彼を寛大な処置で許そうとしたのだが、彼はヴィタウタスに恭順の意を表すことを拒否したばかりか、終始傲慢不遜な態度を貫き、就中、亡きヴィタウタスの母ビルーテ(Birutė)を侮辱するような悪口雑言を吐いたため、ヴィタウタスの怒りを買って斬首されたという。ビルーテについては「余談20:ビルーテの生涯と伝説」参照。
(2021年1月 記)
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新年の挨拶/武田 充司

   子供の頃、正月といえば下町の狭い路地で、晴れ着姿の小さな娘を相手に、ほろ酔い機嫌の父親が羽根つきをしている光景などを目にすることもあった。
   そんな時、初詣から帰ってきた近所の人が立ち止まって、「明けましておめでとう御座います。今年もよろしく」などと、改まった調子で、深々と頭を下げながら挨拶をする。こちらも羽根つきをやめて、同じことをオウム返し言って頭を下げる。そばでポカンと立っている子供の頭を押さえて、「ご挨拶をしなさい」と小声で言って挨拶をさせる親もいる。普段は隣近所のお付き合いで、気軽に声を掛け合っている人たちも、この日ばかりは人が変わったように改まって新年の挨拶を交わしていた。

 支那事変が長引いて生活もだんだん窮屈になり、お米が配給制になった頃だったか、ある年のお正月に、普段はモダンな洋装の従姉が、日本髪を結って綺麗な着物姿で年賀の挨拶にやって来た。彼女は僕より一回りほども年上だったが、二人ともひとりっ子だったので、僕を弟のように可愛がってくれた。このときも、いつもの調子で、お年玉代わりに何か好きなものを買ってあげるからといって、近くの八幡様の初詣に連れて行ってくれた。
 五、六人で歩けば肩が触れ合うような狭い下町の通りを彼女と並んで歩いていると、道行く人が、ちょっと立ちどまったり、振り返ったりして、彼女をじっと見ているのだ。すれ違いにざまに、声をかけたりするお屠蘇気分の若い衆もいた。子供心にも、自分までじろじろ見られているようで、恥ずかしかった。
 彼女は評判の美人で、府立の高等女学校を卒業して暫く銀行に勤めていたが、その頃、銀行を辞めて松竹の専属になり、女優を目指していた。まだ1本の映画にも出ていない女優の卵だったが、それでも、彼女は目立ち過ぎたのだろう。あるいは、戦時色の濃くなったあの時代の雰囲気に相応しくない彼女の姿に、人々はそれとなく非難の目を向けていたのかも知れない。いや、きっとそうに違いないと今では思う。

 そんなことのあった数年後には、もう戦況が悪化し、「贅沢は敵だ!」、「欲しがりません、勝つまでは!」などというスローガンのもと、すべては軍国調に様変わりした。そして、敗戦。大津波に襲われたあとのように、あの当時の下町の風景は跡形もなく消え失せた。
 しかし、高度成長期に入ると、丸の内や大手町の企業に勤める若い女性たちが、新年の仕事始めの日に、見事な着物姿で出勤してくるようになった。僕の勤めていた会社でも、新年の仕事始めの日には、同好の女性たちが華やかな着物姿で、琴の合奏をして正月気分を盛り上げてくれた。
   そして、松の内があけて成人式の日がやって来ると、二十歳になった女性たちが晴れ着姿で街に繰り出してくる。それは年々派手になって行ったが、判で押したような流行の着物姿でもあった。そこにはもう昔懐かしいあの日本髪と着物姿の風情など微塵も感じられなくなってしまった。あれは新しい時代の「着物という洋装の一種」なのかも知れないが、着物は新しい伝統を作りながらしぶとく生き残っている。

   年末は何かと忙しい。といっても近頃の僕は、人並みに「暮れは忙しい」と言っているだけで、本当はたいして忙しくもないのだが ― だからこんな駄文を書いているのだが、それでも、落ち着かない年末に「明けましておめでとう御座います・・・今年もよろしく」などと、まだ「今年」になってもいないのに、白々しく年賀状に書くのは全く気持ちが乗らず、難儀する。しかし、これも元日に年賀状が配達されるためにやっていることだ。
   あの下町の路地で羽根つきをしていた親子と近所の人が交わしていた新年の挨拶こそが本当の「年賀のご挨拶」なのかもしれない、と思ったりする。子供の頃の生活を思うと、便利でよい時代にはなったが、正月のささやかな楽しみと心の温もりが失われてしまったようで寂しい。しかし、これも、よい時代に生きている人間の我儘かも知れない。コロナ禍のあと、きっと厳しい時代がやって来るに違いない。
(2020年12月末 記)
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季節の花便り

12月の花便り/高橋 郁雄

  令和3年、明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。昨年来コロナ感染拡大が続いています。今年こそ終息に向かってほしいと念じています。
  今回もコロナが怖いので遠出は避けて、自宅近辺と東高根森林公園からです。
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ダイヤモンドリリー
カンボケ(寒木瓜)つわぶき(石蕗)
ダイヤモンドリリー:(別名:ネリネ):12月13日に、我が家の近所を散歩の途中で撮影しました。彼岸花科の花。彼岸花に似たピンク色の花を咲かせるが、開花は彼岸花より2か月ほど後。
  花びらに光が当たると宝石のようにきれいに輝くことから「ダイヤモンドリリー」。
  花言葉=「華やか・また会う日を楽しみに・箱入り娘・幸せな思い出・輝き・忍耐・かわいい」。
カンボケ(寒木瓜):12月13日に、我が家の近所を散歩の途中で撮影しました。木瓜の開花時期は(11/25~翌4/15頃)、11月頃から咲きだす花は、春に開花するものと区別するために「寒木瓜」と呼ばれるそうです。
  中国原産。花言葉=「平凡・退屈・早熟・熱情」。2月9日の誕生花。
つわぶき(石蕗):12月8日に、東高根森林公園で撮影しました。本ブログでは6度目の登場です。花の少ない12月では貴重な花ですね。
  名前は、葉が蕗(ふき)の葉に似ていて、"つや"があることから(つやぶき)、それが変化して(つわぶき)になったと言われる。茎葉に薬効(やけど、胃もたれ)があるという。生薬名は「たくご」と言うらしい。
  花言葉=「謙譲・謙遜・愛よ甦れ・困難に負けない・先見の明」。