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小林レポート

電気学会オーラルヒストリー/小林 凱

  新年明けましておめでとうございます。
  これはお知らせですが、先日発行された電気学会誌2020年1月号は特集記事として、「電気技術オーラルヒストリー~先達は語るⅡ~」を掲載しています。
  ここでインタービューを受けた8人の先達の中に太田宏次さんもあって、その話された内容の”現場に立脚し「給電工学」を確立”が載っていますから、クラスの諸兄も是非ご覧になる様お知らせ致します。
  なおこの時の記録は太田さんの方で冊子にまとめられ、2019年3月30日の30会例会の折に出席者に配られましたから、電気学会誌をお持ちで無い方もそれを再読されるのも宜しいかと思います。
  ここで電気学会誌の記事のベースになっているのは聞き取り概要の方ですが、併せて聞き取り全記録も付いて居て懐かしい話も出てきます。

  以上ですが、皆さん今年も元気にお過ごしの上Blog上でもお目に掛かりましょう。
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武田レポート

リトアニア史余談96:最後の異教徒の地ジェマイチヤ/武田 充司

 1399年2月、北方からリヴォニア騎士団が突然ジェマイチヤに侵攻してきた。驚いたジェマイチヤの人々が防戦に気を取られている隙に、ヴェルナー将軍率いるプロシャのドイツ騎士団軍が背後からジェマイチヤに襲いかかってきた。ジェマイチヤ全土はあっという間に両騎士団軍による略奪と破壊の惨禍に飲み込まれてしまった。
   現在のリトアニア西部の地域はジェマイチヤと呼ばれているが、1398年秋に締結された「サリーナス条約」によってジェマイチヤはドイツ騎士団領となった(*1)。これをうけて、その翌年、プロシャのドイツ騎士団は彼らの支部である北方のリヴォニア騎士団(*2)と連携してジェマイチヤの併合に乗り出したのだ。

   そして、その年の夏、ドイツ騎士団総長コンラート・フォン・ユンギンゲンが大軍を率いてジェマイチヤに進駐してきた。彼らはその夏の1か月間各地を襲って収穫直前の畑を焼き払ったが、その蛮行はドイツ騎士団が連れてきたプロシャの原住民、すなわち、西バルト族のプロシャ人兵士によって為されたのだった。彼らを現場で指揮していたのもドイツ騎士団に征服されたプロシャ人部族の有力者の中から抜擢されて騎士の爵位を与えられたプロシャ人エリートであった(*3)。窮したジェマイチヤの人々はヴィタウタスに助けを求めたが何の支援も得られなかった。このとき、ヴィタウタスはキプチャク汗国のタタール軍と戦うためにキエフの彼方にいたのだ(*4)。

   1400年の冬、ヴィタウタスはヴェルナー将軍率いるドイツ騎士団軍とともにジェマイチヤに現れた。その中にはラインラント北部のゲルデルン(*5)やロレーヌの諸侯も軍を率いて加わっていた。彼らは凍結した河川や湿地地帯を通ってジェマイチヤの中心部に進駐した。ドイツ騎士団の大軍の中にヴィタウタスを見つけたジェマイチヤの人々は戦うのをやめ、ヴィタウタスに臣従を誓って和平を申し入れたがヴィタウタスはそれを聞き入れず、事のすべてをドイツ騎士団軍の総司令官ヴェルナーに取り次いだ(*6)。
   ヴィタウタスに見捨てられたジェマイチヤの人々は一斉にドイツ騎士団軍に投降した。そして、それまで決して屈服することのなかった誇り高きジェマイチヤ人貴族たちの多くは人質としてプロシャに送られ、ジェマイチヤは統率者を失った。

   こうして、14世紀が終って新しい世紀が始まろうとするとき、ジェマイチヤのキリスト教化とドイツ化が始まった。それは西欧世界最後の異教徒の地ジェマイチヤに対する十字軍活動の終りでもあった。1400年夏、ドイツ騎士団総長コンラート・フォン・ユンギンゲンは騎士でもなく聖職者でもない俗人を起用してジェマイチヤの統治を任せた(*7)。そして、ニェムナス河畔に築かれた城フリーデブルク(*8)がジェマイチヤ統治の拠点となった。

〔蛇足〕
(*1)「余談93:クリミア遠征とサリーナス条約」参照。
(*2)「余談51:サウレの戦い」の蛇足(8)参照。
(*3)ドイツ騎士団は服従したバルト族の有力者の中から有望な若者をキリスト教徒にして教育し、布教活動の先兵とした。また、新たなバルト族平定作戦の戦力にもしていた。その結果、ドイツ騎士団と戦っているバルト族は、彼らを同胞の裏切り者として憎悪し、悲惨な同士討ちになることも多かった。たとえば、「余談45:キリスト教徒となったリーヴ人カウポ」参照。
(*4)「余談94:ヴォルスクラ川の戦い」参照。
(*5)ゲルデルン(Geldern)はエッセン(Essen)の西北西約50kmに位置するオランダとの国境に近いドイツの小都市である。
(*6)ヴィタウタスのこの時の行動は、この軍団の最高責任者はヴェルナー将軍であって自分ではないことを示し、「サリーナス条約」の取り決めを守ってドイツ騎士団に忠実に従っていることをアピールしたのだと言われている。しかし、それだけではなかったようだ。ジェマイチヤをドイツ騎士団に譲渡した代わりに、リヴォニア騎士団を抑えてノヴゴロドを支配下に置くことを認めさせ、それによって得られる交易上の利益を狙ったヴィタウタスは、リヴォニア騎士団、すなわち、ドイツ騎士団との関係悪化を避けたかったのだ。しかし、その一方で、ヴィタウタスは密かにジェマイチヤの人々に暫く耐え忍ぶよう諭していたという。彼は機を見てジェマイチヤを取り戻す魂胆だったのだろう。
(*7)表面上はドイツ騎士団に服従していた誇り高き頑固なジェマイチヤ人たちが、そのまま静かにその運命をうけ入れことなど考えられなかったから、ドイツ騎士団総長コンラート・フォン・ユンギンゲンはそれを考慮して、性急に洗礼を強制する宣教師や強面の徴税人をジェマイチヤに送り込むことをせず、敢えて俗人に統治を任せて先ず経済を発展させ、それによって一般人の中から新たな商人や小貴族階級が育成されれば、そうした新興階級が自らキリスト教徒となって社会の安定勢力になるだろうと考えた。この点に関してはヴィタウタスも同様の考えであったようだ。即ち、既にキリスト教徒(カトリック)となっていたヴィタウタスは、ジェマイチヤ人をカトリックに改宗させることに異存はなかったが、ジェマイチヤがドイツ騎士団によって統治されることは容認できなかったのだ。
(*8)フリーデブルク(Fiedeburg)は、文字通り「平和の城」として、ジェマイチヤ統治の政治的拠点(役所)としての機能だけでなく、交易センターとして地域の経済的発展を促す重要な役割を担っていた。この城は「サリーナス条約」が結ばれたあと、ドイツ騎士団がカウナス西方のニェムナス河畔に築いた2つの城のひとつで、ドゥビサ川がニェムナス川に合流する河口付近、すなわち、カウナスの北西約37km付近に築かれていた。一方、もうひとつの城はネヴェジス川がニェムナス川に注ぐ河口付近かその少し下流にあった川中島の城ゴッテスヴェルダー(Gotteswerder)を再建したものと思われる。ネヴェジス川は「サリーナス条約」によってドイツ騎士団領とされたジェマイチヤ地域の境界をなしていて、この川の河口地域はリトアニア領になっていたから(「余談93:クリミア遠征とサリーナス条約」参照)、この城はドイツ騎士団にとって国境を守る最前線の基地となった。
(番外)ドイツ騎士団総長コンラート・フォン・ユンギンゲン(Konrad von Jungingen:在位1393年~1407年)は前任者の急死によって選出された総長(Hochmeister)で、経験の浅い未知数の指導者として登場するのだが、深謀遠慮の人物であった(「余談92:ドイツ騎士団のヴィルニュス包囲」の蛇足(5)参照)。それは、ここで見た彼のジェマイチヤ統治の方針からも納得できるのだが、彼のジェマイチヤ政策は、積極的な布教とジェマイチヤ人の早期改宗を望む身内の聖職者たちからは理解されず、不評であったという。
(2020年1月 記)
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斎藤さんのお話

九十二回目のお正月/齋藤 嘉博

  明けましておめでとうございます。今年も皆様と一緒にこの欄でお話ができるのを楽しみにしております。
  昨年の暮れは終活でこれまでにたまった生活垢の整理に追われました。NHK時代の様々な資料、ムサビ時代の講義関連資料、そして退職後の海外旅行の資料、地図やパンフなどなど。沢山のものが書棚、押し入れ、物置に一杯。ほっておいても私が死んだら後の者たちが捨てるのでしょうが、まあ折角と整理を始めたのですが。一番悩んだのがアルバムとCD、DVDでした。アルバムは年ごとの一冊のほかに海外旅行の折、一イベントごとに1,2冊を作り上げてきたものが50冊ほど。これは想い出の記録ではありますが場所ばかりとってと。そこで時間をかけて帯域圧縮しほぼ三分の一にまとめました。最近のディジタル時代のものはパワーポイントを使ってペーパーレス。これはいいですネ。昔は名詞版、手札版、いまはL版。しかしここでは大きさも形も自由に貼ることができるし、コメントも十分に書き入れることができます。チップに入れば場所はとらないしスライドショーを使うと一年の過ごし方がよくわかります。
  近頃はLPレコードが静かなブームになっているよし。これも大部分は捨て、一部は売ろうと思いながら整理中にちょっと聴いてみると懐かしいものばかり。ラックのほとんどがクラシックなのですが、ナットキングコール、ベラフォンテなど昔の名曲。江利チエミさんがよく歌っていましたがバナナボート、いいですネエ。それにイヴ・モンタンの枯れ葉。今の音楽とは違って深味があります。それも郷愁でしょうか。クラシックでもバックハウスやグレングールドを聴くともう捨てられません。昨夜の紅白の歌なんて児戯に類するもの。結局半分以上はもとの棚へ。というわけで多くの長年の垢は思ったほどには洗い流さずに終わってしまいました。
  週刊文春に「真夜中のなわとび」という小欄があります。林真理子さんがもうずいぶん長い間書いておられるエッセイです。小生週刊誌はほとんど読まないのですが、この欄だけは時折覗いてなるほどと楽しんでいます。昨年の最終、12月26日号は年をとったときのボケ。「こども叱るな嘗て来た道、年より嗤うないつか行く道」というお話しから始まって彼女のお母さまが過日百一才で亡くなられた折の想いを述べています。金さん銀さんの時代にはまだ少なかったのですが、これからは百才時代。寿命は閻魔様がお決めになることですから変えようがありませんが、それまでは何とか楽しく健康でいたいものです。私は子供時代病弱で学校も休みが多く、いまでも小学校の友人からは「サイトウ君はいつも喉に包帯を巻いていたネ」と言われるほど。大学の折には結核で長い休学をしましたし、胃癌の手術もありました。なのにこれほど長く、あまりボケもせずに生きていようとは夢にも思いませんでした。
  都市の生活に一番欠かせないのが上下水道。パリの下水道や平安京の水害などに想いをいたさずとも、過日の大雨、大地震の際の報道をみるとその思いを深くします。人間の身体も同じです。巷間沢山の健康法が流布されていますが、いずれも本質は血のめぐりをよくするかどうかということだと思います。昔からの針灸も、風邪の時には暖かくして湯気を立てという言い伝えも、すべて血流をよくするための方策に過ぎません。血の巡りをよくするためには動かすこと、温めること。それは一日一万歩と足のことばかりでなく、手の指から顎から、いや内臓の肺や胃も含めて活発に動かすことが大切です。もちろん頭いや脳を動かす、使うことも。この欄に投稿させていただくのは脳を動かすのに大切な行動の一つと思っているのですが。
  さて今年はどうなりますか。皆様も体中を活発に動かして楽しく過ごされますように。ボーッとしているとチコちゃんに叱られますョ。
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大橋レポート

ストラスブール周辺の旅/大橋 康隆

 1998年7月8日は、家内は学会へ、私はストラスブールの対岸のドイツを訪れた。朝9時34分にストラスブルク駅を出発して東方に進み、オッフェン
ブルク(Offenburg)駅で急行に乗換え南方に進み、11時4分にフライブルク(Freiburg)駅に到着した。
 駅から東に進むと旧市街に入り東端に大聖堂(Munster)がある。旧市街の中央には南北にトラムが走っていた。フライブルクで食事をして、しばし旧市街を散策した。(写真1)は市庁舎(Rathaus)である。
地図ドイツ西南部.jpg
地図ドイツ西南部
写真1市庁舎.jpg写真2城.jpg写真3ドナウの泉.jpg
写真1市庁舎写真2城写真3ドナウの泉
 フライブルク駅を13時40分に出発し、東方に進みドナウエッシンゲン(Donaueschingen)駅に15時20分に到着した。先ず、フュルステンベルク城(Furstenbergisches Schloss)を訪れた。(写真2)城の庭園には美しい薔薇が咲き乱れていた。近くのドナウ川の源泉(Donaugulle)を訪れると、若い二人が泉をのぞき込んでいた。(写真3)この町では、本格的な木骨組みの建物が印象的であった。ドナウエッシンゲン駅を16時44分に出発して北西に進み、オッフェンベルク駅で乗換え西に進んで、ストラスブール駅に19時5分に到着した。
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写真4黒い森写真5フロイデンシュタット写真6ミュンメル湖
 7月9日は、家内は学会へ、私は同伴家族の黒い森ツアーに参加した。バスは東方に進み、やがて黒い森が現れてきた。(写真4)しばし森の深さを堪能していると、バスはフロイデンシュタット(Freudenstadt)に到着した。(写真5)ここのレストランでの昼食は、一つのテーブルに6人づつ着席したが、ここで幸運なことにもう一人男性の参加者を発見した。正面の席はトルコから参加した6才の坊やだった。坊やのお母さんは、大変積極的な方で、珍しい日本人を見つけたとばかり「あなたは奥さんに働かせてこんな所で遊んでいていいのですか。」と話しかけてきた。「とんでもない!私は昨年まで通信技術者として精一杯働いてきた。若い頃は、月、月、火、水、木、金、金、で働き、通常勤務時間と残業時間+休日出勤は同じ位だった。これ位遊ぶのは当然です。」と答えた所、「日本の定年は何才ですか。」と次から次へと質問を受け、瞬く間に私の正体が明らかにされた。同じテーブルには、日本から同伴のご夫人が2人おられたので、食後の休憩時間には忽ち日本からご同伴の6人のご夫人方に私の正体が伝わってしまった。お陰でバスが停車する度に、美しい背景の前で記念写真を撮影するカメラマンになり、友好を深めることが出来た。
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写真7パン焼窯写真8麓の町写真9懇親会場
 次にバスが停車した所は、ミュンメル湖(Munmmel Zee)で 、奥深い色をした湖にはボートハウスがあった。(写真6)近くに珍しい屋根のパン焼き窯があり、出来立てのパンを販売していた。(写真7)帰路では2ヶ所の街を訪れたが、どの町だったか定かでない。(写真8)やはり自分で計画した場所は、明確に覚えていても、人任せでは印象が薄いようだ。しかし楽しい同伴家族の黒い森ツアーを企画して下さった国際炭素学会には、心から感謝しています。
 ホテルに帰着して、背広に着かえ夕方には家内と学会の懇親会に出席した。由緒ある会場で美しい庭園が印象的であった。(写真9)懇親会が終了すると、日本人では最年長のK教授夫妻が「私も来年定年です。」と挨拶に来られた。多分奥様から詳細な報告があったものと推察する。
 美しい庭園の前で、記念写真を撮影した。残念なことに、これが最初で最後の同伴家族ツアーになってしまった。その後、家内が国際炭素学会に参加する度「ご主人は同伴ではないの?」と尋ねられ「油絵の題材にならない場所は駄目なのです。」と答えていたらしい。実態は定年後の油絵と囲碁の活動が軌道に乗り、かつ各種同期会やOB会の世話役が忙しくなって、日程の調整がつかなくなったのである。

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季節の花便り

12月の花便り/高橋 郁雄

  令和2年あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。小生今年の誕生日で88歳となります。お互いに健康に留意して日々を過ごしましょう。
  さて、今回は川崎市の東高根森林公園(12月12日)、野川公園自然観察園(12月13日)と大船植物園フラワーセンター(12月20日)からです。
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ツワブキシロバナアブラギク皇帝ダリア
ツワブキ(石蕗):東高根森林公園で撮影しました。本ブログでは5度目の登場です。花の少ない時期に頑張って咲いていました。
  花言葉=「困難に負けない」。日陰でもよく育ち寒さが厳しくなっていく時期に花を咲かせることに因んだ花言葉です。
  冬~春にかけて若葉を摘み取って塩ゆでにするとおいしいらしいです。
シロバナアブラギク(白花油菊):野川公園内の自然観察園で撮影しました。アワコガネギクとリュウノウギクの自然交雑種だそうです。雑種ということで両方の特徴を混ざって受け継いでいるそうです。関東地方~長野県、紀伊半島に分布しているそうです。
皇帝ダリア(八重咲):大船植物園フラワーセンターで撮影しました。本ブログで過去に3度登場している皇帝ダリアはすべて一重でしたが、今回は八重咲です。
  花言葉=「乙女の真心・乙女の純潔」。
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ヒナソウゴクラクチョウカウナズキヒメフヨウ
ヒナソウ(雛草):大船植物園フラワーセンターで撮影しました。原産地:北米大陸東部。開花期(3月~5月)とWebにはありましたが、この写真は12月20日に撮影しました。
  花言葉=「甘い思い出・寛大な愛・会える幸せ・おとぎの国の夢」。
ゴクラクチョウカ(極楽鳥花):大船植物園フラワーセンターの温室内で撮影しました。本ブログで2度目の登場です。花の姿が、ニューギニア島に生息している風鳥に似ていることに由来して名付けられた。英名は「Bird of paradise」(天国の鳥)。
  花言葉=「輝かしい未来・寛容・恋する伊達者・気取った恋」。
ウナズキヒメフヨウ:大船植物園フラワーセンターの温室内で撮影しました。本ブログの(2014/3/1)号で、新宿御苑の温室のものを紹介していますが、花色が赤でした。今回の花色は薄ピンクです。花が蕾の時は上向きだが、だんだん下向きになることから、ウナヅキ(頷き)の名前が付いた。熱帯アメリカ原産で、日本では九州南部~沖縄に分布。
  花言葉=「繊細な美・やさしい感受性」。
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トピックス

閑談会紹介など

昭和35年電気工学科卒業生有志による閑談会のご紹介です。一原君が会の運営を担当し、年に2回開催しています。話題は、参加メンバーの中から話したい人が提供します。病気、家族のことはなるべく避けることになっています。

先日11月27日に、2019年の2回目が開催されました。出席者は池田、一原、入子、桜井、杉本、正田、室谷、山崎。

いつものように12時からの昼食後、
(1)桜井君により「北海道のブラックアウトと千葉の長期停電」、
(2)正田君により「世界の食問題とDigital Gastronomy」
というテーマでの話題提供がありました。

(1)はNHK報道の録画を再生してくれました。
(2)については、配布されたレジメをご覧ください。次の下線部をクリックすると見られます。
それぞれの話題提供の後、意見交換をしました。

閑談会については、このブログのトピックスの中に2008年11月、一原君が紹介している記事があります。参加希望者は、一原君に連絡してください。

なお、閑談会にも参加された枡屋君が、10月7日に昇天されました。
謹んでご冥福をお祈りします。

(文責山崎)
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武田レポート

リトアニア史余談95:ヴィルニュス・ラドム協定/武田 充司

 ポーランド王ヨガイラの后ヤドヴィガは、1399年6月22日、長女エルジビエタ・ボニファチャを出産したが、不幸にも、その子は生れて3日後に亡くなった。そして、ヤドヴィガ自身もそれから1か月も経たない7月17日に亡くなった。
 ヨガイラはポーランド王位継承者であるヤドヴィガの婿としてポーランド王室に迎えられ、ポーランド王となったのだから、この不幸の連鎖はポーランド王としてのヨガイラの地位を不安定なものにした(*1)。一方、リトアニア大公ヴィタウタスは、それから間もない8月12日、クラクフから東へ1000kmも離れたヴォルスクラ河畔の戦いでタタール軍に大敗して面目を失い、政治的危機に直面した(*2)。

 戦場から帰還したヴィタウタスは直ちにクラクフに赴きヨガイラと会った。この時の2人の対面がどのようなものであったのか知る由もないが、不運にも苦しい立場に追い込まれた2人が、以前のように不信感を募らせて争うのではなく、互いにこの場は何とか取り繕って、今後のことを考えようとしたのではなかろうか。

 翌年(1400年)の12月、2人はガルディナス(*3)に会し、過去に2人の間で合意されていた事項を再確認したが、これが「ヴィルニュス・ラドム協定」である(*4)。この協定によって確認された要点は、ヴィタウタスをリトアニア大公としてリトアニアの統治を委ねるが、ヨガイラはヴィタウタスを監督する諸権利を保持する「最高君主」であり、ヴィタウタス没後は、ポーランド王ヨガイラ、あるいは、ヨガイラの合法的な後継者によってリトアニアは統治されるものとする。また、リトアニアとポーランドの貴族は互いに相談することなくポ-ランド王を選出しない、というものであった。

 1401年8月、リャザニに亡命していたスモレンスク公ユーリイ(*5)が、威信失墜のヴィタウタスの隙を突いてスモレンスクを奪還し、ヴィタウタスに臣従していたブリャンスクの貴族たちを処刑してブリャンスクも支配下においた。ヴィタウタスは急遽スモレンスクを包囲したが勝利することができず、ユーリイと休戦して撤退した。しかし、1403年、再度、スモレンスクを包囲したヴィタウタスは、その翌年、スモレンスクを奪還した(*6)。スモレンスクはこの時から1世紀以上にわたってリトアニアの支配下に置かれた(*7)。
 一方、后ヤドヴィガを亡くしたヨガイラは、1402年1月、スロヴェニアのツェリェ伯ヘルマン2世(*8)の娘(養女)アンナを後妻に迎えた。アンナはポーランドのピアスト朝の中でも大王と呼ばれたカジミエシ3世の孫娘であったから(*9)、ヨガイラのポーランド王としての地位は強化された。アンナはそれから6年後の1408年に女児を出産し、世継ぎ問題にも一条の光明をもたらした。

〔蛇足〕
(*1)ポーランドの貴族たちにとってヨガイラはリトアニアをポーランドに併合するための要であったから、そのことに執着していた彼らはそう簡単にはヨガイラを廃して新たなポーランド王を選出することなどできなかっただろうが、それでもヤドヴィガ没後のヨガイラの立場は微妙なものであったはずだ。ヤドヴィガについては「余談84:クレヴァの決議」参照。
(*2)ヨガイラの権力と智謀に対抗できるヴィタスタスの力の源泉は彼の軍事的才能であったから、ヴォルスクラ川の敗北は彼を窮地に追い込んだ。「余談94:ヴォルスクラ川の戦い」参照。
(*3)ガルディナス(Gardinas)はヴィルニュスの南西約150kmに位置し、現在のベラルーシの都市フロドナ(Hrodna)で、以前はグロドノ(Grodno)と呼ばれていた。
(*4)「ヴィルニュス・ラドム協定」については「余談91:ヴィタウタス大公時代のはじまり」の蛇足(6)参照。
(*5)ユーリイは最後のスモレンスク公となった人であるが、1395年にヴィタウタスによってスモレンスクを追われ、岳父であるリャザニ公オレグを頼って亡命していた。
(*6)このとき、ユーリイはモスクワのヴァシリイ1世に支援を要請したが、当時のモスクワ公国の力は未だ十分でなかったことと、ヴァシリイ1世にとってヴィタウタスは岳父であったことなどから(ヴァシリイ1世の后はヴィタウタスのひとり娘ソフィアである。「余談89:ヴィタウタスの娘ソフィアの嫁入り」参照)、ヴァシリイ1世はユーリイを助けなかった。
(*7)スモレンスクがモスクワ公国の支配下に入るのはヴァシリイ3世(在位1505年~1533年)時代の1514年である。それまでの100年以上の間、スモレンスクはリトアニアの重要拠点都市であった。
(*8)1396年のニコポリス十字軍がバヤズィト1世率いるオスマン軍に敗れたとき、ツェリェ伯ヘルマン2世は獅子奮迅の活躍で撤退するハンガリー王ジギスムント(のちの神聖ローマ皇帝)を助けた。その功績によってヘルマン2世はジギスムントの信任を得た。ジギスムントの后マリアはヨガイラの后ヤドヴィガの姉であるが(「余談84:クレヴァの決議」参照)、早世したので、ジギスムントはヘルマン2世の娘バルバラを後妻に迎えた。バルバラはヨガイラの後妻アンナとは姉妹の関係だが、アンナはヘルマン2世の養女なので実の姉妹ではない。ツェリェ(Celje)は現在のスロヴェニア北東部の都市である。当時、スロヴェニアやクロアチアはハンガリー領だった。
(*9)ヨガイラの後妻となったアンナは、ピアスト朝最後のポーランド王で世継ぎの息子に恵まれなかったカジミエシ3世(大王:在位1333年~1370年)の娘アンナがツェリェのウイリアムに嫁いで産んだ娘(母と同名のアンナ)であるが、彼女が幼いとき父ウイリアムが亡くなったため、父の従兄弟であるツェリェ伯ヘルマン2世が彼女を引き取り、養女とした。そこでバルバラと姉妹の関係になった。なお、1408年にヨガイラとアンナとの間に生れた娘は成人したが父ヨガイラより早く1431年に亡くなった。
(番外)ヨガイラ(Jogaila)はリトアニア人である彼の名であるから、ここではすべてヨガイラとしたが、ポーランド王としてはヴワディスワフ2世(Włładysław Ⅱ)、あるいは、ヴワディスワフ2世ヤギェウォ(Włładysław Ⅱ Jagiełło)である。「余談85:ポーランドに婿入りしたヨガイラ」の蛇足(6)参照。
(2019年12月 記)
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沢辺レポート

近頃思うこと(その46)/沢辺 栄一

   「山高きが故に貴からず。樹有るを以って貴しとす。」「人肥たるが故に貴からず。智有るを以って貴しとす。」という言葉を知り、書いてある「実語教」とそれと関連の有る「童子教」に興味を持ち読んでみた。
  このタイトルからは「実語教」のほうが高学年向きと思っていたが、「実語教」が低学年向けで「童子教」の方が高学年向きの内容になっている。「実語教」は平安時代の末期に、「童子教」は鎌倉末期にそれぞれ出来、両者とも作者不明で、その時代から江戸時代まで約千年の子供の教科書として読み続けられてきた。特に江戸時代には広く寺子屋でみっちりと読され、頭にたたきこまれた。人間社会における礼儀、道徳等の基本、勉学を進める智の重要性を教えており、江戸時代の平和な時代を作り上げるのに著しく貢献したと考えられる。西洋では聖書の中で人の道を教えているが、「実語教」「童子教」のような児童用の道徳の教科書は無いように思い、日本の名も無き先人の素晴らしさに感心している。
  福沢諭吉の「学問のすすめ」は「実語教」を下敷きに書かれており、二宮尊徳も「実語教」「童子教」を学んでいる。日本を発展させた明治に活躍した人間は皆江戸時代の教育を受けた人間である。西洋文明の嵐に見舞われて、「実語教」「童子教」は正式な小学校、幼稚園児童の教科書として採用しなかったのは、明治時代の教育者が西洋文明に眼を奪われ、伝統の有る日本文化を軽視し、日本文化、教育の良さを評価できない人間であった結果と思う。
  明治天皇が日本の歴史的な教えに基づき、仁義忠孝を明らかにし、道徳の授業は儒教によるものとすることをお示しになられたことを受けて、明治23年になって井上毅、元田永ざね等によって教育勅語が作成された。これがその後の道徳の基本となり、学校での各種の式には必ず読まれて我々の行動の指針となった。戦後は戦争に関係あるとされ、教育勅語は読まれなくなった。教育勅語を知っている人間が教育、指導している間はまだある程度道徳が守られ、教えられていたが、現在はそのような人間が高齢になり、学校で道徳を教えられない人間が多くなり、人間生活における規律が無くなり、凶悪な犯罪が多くなっているように感じている。
  このような状態に対処するため、学校で道徳の授業を採用することが伝わってきているが、古来から伝えられている「実語教」「童子教」を現代の言葉、内容に改め、幼稚園、小学低学年に徹底的に暗唱、記憶させることを行ない、人間社会での行動、思考の基本を身体に埋め込ませる必要があるのではないかと考えるこの頃である。
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トピックス

第11回S41年電気電子クラス会

第11回S41年電気電子クラス会は、2019年11月23日、冷雨でしたが銀杏並木の美しい黄葉に出迎えられて、昨年に続き東京大学本郷構内工学系二号館内松本楼で開催し24名の参加を得ました。

開会に先立ち、前回クラス会以降に訃報を受けた安原君、吉永君、青木正君の三君に弔意を表し黙祷を捧げました。続いて黒須君発声による乾杯で会を始め、コース料理を楽しみながら、賑やかな懇談に移りました。しばしの後、途中退席する小野君に、台風19号による軽井沢での中学同窓会への被害を交えての近況報告をしてもらいました。

その後、食事が一段落した中で、渡辺貞君の卓話を拝聴しました。今回は、「スーパーコンピュータの現状と応用」という技術話題で、注目される量子コンピュータにまで説明がありました。中でスパコンでは、中国の急成長、NVIDIAの戦略性、研究開発のための必須の基盤(インフラ)となっていること、量子コンピュータについては、アルゴリズムやソフトなどの今後の課題まで説明があり、全員、消化不足ながら質疑も続き大いに議論が盛り上がりました。

引き続き、久し振りに参加された諸君から優先で、藤原俊、高山、岡田、木村の諸君、さらに今井、片岡君から近況報告を頂きました。いずれも元気にされており、生活を楽しんでおられ、一部は、まだ現役を継続されておられます。中で、チェロ(高山君)、ピアノ(木村君)の音楽、さらに料理(片岡君)など趣味を継続され、ある者は、8050問題を回避しての孫の誕生心待ち、逆に可愛い孫が息子と共に渡米しての嘆きなどが聞かれました。なお、高山君には、高校時代からの学友として青木正君につき情報提供を頂きました。

その後、黒須君からの元気な話題、石井君からも健康関連の話題などに及びましたが、今回は、卓話での盛り上がりなどから、全員の近況に及ばず定刻を迎えることとなり、会を村木君による発声で一本〆とさせて頂きました。

 文末になりますが、卓話を準備し、また素晴らしいプレゼンで大いに会を盛り上げていただいた渡辺貞君には、感謝申し上げます。今回も、ご参加の皆さんの笑顔が目立つ素晴らしい一日であったと思いました。

                                    田中(記)


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大橋レポート

ストラスブールの思い出/大橋 康隆

 1998年7月5日は、日曜日だったのでストラスブールの旧市街の見物をすることにした。駅に近いホテルから南東々に300m位進むと、イル川に架かるキュス橋(Pont Kuss)に到着した。
 ここを渡ると旧市街で、東方に600m位進むとクレベール広場(Pl.Kleber)、更に少し進むとグーテンベルク広場(Pl.Gutenberg)に到着した。広場の中心には、グーテンベルクの像がある。(写真1)更に東方に500m位進むと、ノートルダム大聖堂に到着した。(写真2)大聖堂の近くに観光案内所があり、旧市街を囲むイル川を一周する遊覧船に乗ることにした。
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写真1グーテンベルク像写真2大聖堂写真3川岸の建物
 出発点は、大聖堂の南300mにあるカルボー橋(Pont du Carbeau)の川岸であった。乗船すると、早速素晴らしい木骨組みの建物が現れた。(写真3)更に進むと旧市街東部にある小フランス(Petite France)に到着し、木骨組みの建物が密集して現れ、多くの観光客が川岸に溢れていた。(写真4)ここで川は4本に分かれるが、遊覧船は北西に進み、続いて西方に更に南西に進んで、旧市街の西部に到着した。ここでは、かって牢獄として使われたヴォーバン・ダム(Barrage Vauban)がある。(写真5)近くには現代美術館が見える。ここから旧市街の南部を見物して、何処を通ったのか記憶にないが、大聖堂から北西2kmにあるヨーロッパ宮を川から撮影している。(写真6)ここでは欧州議会と欧州評議会が開催されるが、壮大なガラス張りの建物であった。
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写真4小フランス写真5ヴォーバンダム写真6ヨーロッパ宮
 7月6日は、私も背広に着かえ、トラムに乗って国際炭素学会が開催されるストラスブール大学(Universite de Strasbourg)に向かった。大学は大聖堂から南東部の新市街にある。ここで家内と学会に登録し、私も同伴家族であることが認められた。学会が始まる前に、日頃家内がお世話になっている国内、海外の学会員の方々に挨拶した。一人で参加している日本人教授の方が早速私達のツーショットを撮って下さり恐縮した。学会の基調講演は私も拝聴したが、専門別の学会発表が始まると、私は判らないので、展示室を見学した。国際炭素学会は炭素の種々の形態を広範に扱っており、素人にも結構興味深かった。昼食と夕食は、家内の親しい参加者の方々と共にして、楽しんだ。学会は、同伴家族のためのプログラムを用意しており、7月7日夕方に大聖堂でパイプオルガン演奏、7月9日は貸切バスでドイツの黒い森(Schwarzwald)の見学ツアーがあり、早速参加登録をした。
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写真7教会写真8教会写真9ライン川の橋
 7月7日は、家内は学会へ、私はドイツのケールを訪れた。ドイツと言っても、ライン川を渡れば次の駅で10分で行ける。しかし、各駅停車の列車は少ないので、注意する必要がある。町には美しい教会や静かな池がある。(写真7)(写真8)一方では街角に小さな市場もある。とにかく静かな町であった。午後は早目に切り上げ、ライン川に架かる橋を歩いて渡り、トラムに乗って、ホテルに帰着した。(写真9)夕方は背広に着かえ、家内と共に大聖堂のパイプオルガン演奏を楽しんだ。大聖堂に響き渡るパイプオルガンは荘厳であった。