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小林レポート

半世紀前の記録から:アフリカの空1/小林 凱

  今回の東京オリンピック2020の開会式を見ていたら、アフリカ諸国の選手団の数に驚きました。少人数の選手団もあったがそれでもアフリカに新しい時代が到来して居る事を感じさせるに十分でした。そしてかってこの地を度々訪れた私は何か嬉しい気持ちで時代の変化を感じました。
  同時に私が訪れていたのはかっての社会構造が支配して居た時代で、それを見た私が新しい世界から来た選手団を見るのは、なんとなく長生き出来た様で妙な嬉しさを感じました。しかし長生きだけで無く、当時既に色々な動きがあったのを見落としていたかも知れないと思い、この様な気持ちを背景にずっと以前の旅の記録を辿って見ました。結果は思いがけなくアフリカ大陸の上を飛ぶことになった記録です。

  1966年11月、私は南アフリカからスペインへ向かいました。元々南アフリカからロンドン経由で帰国する予定でしたが、急にスペインへ立ち寄ってそこでのプロジェクトについて打ち合わせる様に指示されたものです。
  出来るだけ乗り換えの無い便が望ましいとして探した結果、南アフリカ航空がヨハネスブルグからマドリード経由ロンドン行きを運航して居り、このSA214便を予約しました。航空券は当時のIATAのもので以前にも書いた様に便利なもので問題なく切り替え出来ました。
  この便は南アフリカのヨハネスブルグ(South Africa, Johannesburg)を発つと北へ向かって隣接するローデシアのサリスバリー(Rodesia, Salisbury)に立ち寄ります。ここから赤道南のアフリカ大陸を約4時間西へ飛んで、大西洋岸のアンゴラの首都ルアンダ(Angola, Luanda)に着きます。
  次はアフリカ大陸の西海岸に沿う形でこのフライトで最も長い区間(約8時間)を北へ飛んで、モロッコの西の大西洋に浮かぶカナリア諸島のグランカナリア島のラスパルマス(Canaria Islands, Gran Canaria, LasPalmas)に着きます。その後は約4時間でスペインの首都マドリード(Spain, Madrid)です。このルートを地図に示します。(Fig.1)DSCN2417.JPG
Fig.1
  ここで黄線で記入したのが実際に飛んだ軌跡です。あとで説明がありますからその時の参考にして下さい。
  この便(SA214)は元々次の様なスケジュールでした。
南アフリカ ヨハネスブルグ発 19:00 (GMT+2)
ローデシア サリスバリー 着 20:30 (GMT+2)
アンゴラ  ルアンダ   着 23:20 (GMT+1)
カナリア諸島 ラスパルマス着 06:15 (GMT)
スペイン  マドリード  着 10:25 (GMT)
(なお終着ロンドンには) 着 12:00 (GMT)

  当時南アフリカ航空の便はアパルトヘイトの故に、新興アフリカ諸国での着陸、通行を拒否するところがあると聞いていたが、同時に普段余り行けない所に立ち寄る事があると聞きました。しかし夜間の飛行だから何も見えないのは仕方ないと思いました。また時刻表から見て南アフリカ航空は英国BOACと密接に連携している様に感じました。
  このマドリード経由便は週一回ですが、他の日でヨーロッパに向かう便を見ると、ローデシアに立ち寄るのが本便含め3便、南西アフリカのナミビアのWindhoekに立ち寄る便、それとヨハネスブルグからダイレクトにアンゴラのルアンダに飛ぶ便がありました。しかしアフリカ西海岸のルアンダとカナリア諸島のラスパルマスには、ヨーロッパ行きの全ての便が立ち寄って居り、またラスパルマスを飛び立った南ア航空便はロンドンへ直行するか、マドリードやパリなどに立ち寄ってからロンドンに向かって居ました。
  それで私の理解ですが、飛行時間も考えるとこのルアンダとラスパルマスの2箇所が大切な補給基地の役割を担ってると気付きました。南アフリカ航空はアフリカ大陸では色んな制約がある中でこの2箇所を確保したもので、其処に乗客が沢山いるのとはまた別の理由があった様です。

  ここで時刻表の通りに運航したら夜中の飛行だし特に記憶に残る事は少なかったと思いますが、実際はそうは行きませんでした。
  当日の午後南アフリカ航空に照会したところ、到着便が遅れたので出発は大幅に遅れると言う。ロンドンが運航の基地の様で、ヨハネスブルグには昼頃か午後の早い時間に着いて夕刻の便になるが、それが着いていないのでどうにもならないという事です。しかし間違いなく運航するから状況を注意して呉れとの話で、ヨハネスブルグのホテルは既にチェックアウトして居り、夜中の交通も考えて夜半前に空港に移動して待つ羽目になりました。

  当時のヨハネスブルグでは鉄道の中央駅は昼間でも怖かった記憶があります。空港はずっとEuropean中心の場所でしたが、夕刻からのヨーロッパ行きの便が出た後は、ひっそりとして夜半を過ごすのは余り気分の良い時間ではありません。荷物をしっかり横に置いて眠らぬ様にじっと時間が過ぎるのを待ちました。
  出国搭乗手続きが行われたのは夜明けも間近い5時過ぎで、結局10時間余り遅れてヨハネスブルグを飛び立ちました。
  この便ははBoeing 707で割に新しい機材で中は綺麗でした。これからずっとアフリカ大陸の上空と沿岸を飛びますが、離着陸時の様子も含めて次に報告したいと思います。
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武田レポート

リトアニア史余談116:フス戦争とジギスムント・コリブト/武田 充司

 ボヘミアのフス派の反乱を鎮圧するために、教皇マルティヌス5世と皇帝ジギスムントが協力して起した1420年の十字軍は失敗に終ったが(*1)、その翌年の夏、ドイツ諸侯は新たな十字軍を編成してボヘミアに侵攻した。これによってフス戦争は新たな局面を迎えた(*2)。
 ドイツの国境を越えてボヘミアの北西部に入った十字軍は、プラハの西北西約70kmに位置するジャテツ(*3)を包囲したが、フス派の援軍によって撃退されてしまった。この状況に苛立った皇帝ジギスムントは自ら軍を率いてプラハの東南東約60kmに位置するクトナー・ホラ(*4)を襲って占領した。これを知ったフス派の中の武闘派ヤン・ジズカ(*5)は、拠点としていたターボル(*6)から出撃して、1422年1月6日、「ドイチュブロトの戦い」(*7)でジギスムントの軍を撃破した(*8)。

 ところが、それから間もない3月9日、プラハにおいて独裁的権力を振っていたフス派の指導者ヤン・ジェリフスキ(*9)が、市議会によって逮捕され斬首された。そして、ウトラキスツ(*10)と呼ばれる穏健派の貴族たちが支配権を握った。一方、ターボルのヤン・ジズカは、フス派討伐十字軍との戦いを意識して、リトアニア大公ヴィタウタスの代理ジギスムント・コリブトを摂政としてボヘミアに招請した。しかし、ジギスムント・コリブトが軍を率いてプラハに到着したのは5月16日で、戦いはフス派の勝利で既に終っていた(*11)。

 それでも、首都プラハで実権を握ったフス派の穏健派ウトラキスツは、ジギスムント・コリブトをボヘミアの統治者として認めて迎え入れた。そこで、ジギスムント・コリブトは、ターボルのヤン・ジズカとプラハの穏健派の両者の支持を背景に、ボヘミアのフス派を統一してローマ教会と和解させようとした。しかし、その頃、ターボルでは、ヤン・ジズカのやり方に不満をもつ過激派が台頭し、プラハの穏健派との妥協はほぼ不可能になっていた。

   こうして、プラハに入ったジギスムント・コリブトが、ボヘミアの再統一を試みて難渋している間に、神聖ローマ皇帝でありハンガリー王であるジギスムントが、自分こそが真のボヘミア王位継承者であるとの自負から(*12)、ポーランド王ヴワディスワフ2世(ヨガイラ)とハンガリーのケジュマロク(*13)で会談し、打開策を打ち出した。即ち、彼はヨガイラに対して、ジギスムント・コリブトをボヘミアから引き揚げさせるよう要求したのだ。その一方で、教皇マルティヌス5世も、リトアニア大公ヴィタウタスに対して、ボヘミアのフス派の支援を止めなければ破門して十字軍を差し向けると脅かした。その結果、1423年3月20日、ヨガイラとヴィタウタスは皇帝の要求をうけ入れ、ジギスムント・コリブトと彼の率いる軍隊をボヘミアから引き揚げさせることにした。

〔蛇足〕
(*1)「余談115:フス戦争とヴィタウタス大公」参照。
(*2)このとき、ドイツの諸侯は、フス派の宗教改革の波がドイツに波及するのを恐れてこうした行動を起したのだ。
(*3)ジャテツ(Žatec)は、ビールに風味をつける高級品種のザーツホップの生産地として有名で、チェコのピルスナー・ビールはこのホップを使ったビールである。ザーツホップ(Saaz hops)の“Saaz”は“Žatec”のドイツ語呼称である。
(*4)クトナー・ホラ(Kutná Hora)は銀の採掘で有名で、中世ボヘミア王国の銀貨プラハ・グロッシュはここで鋳造されていた。また、ここの聖バルボラ教会とそれを含む歴史地区はユネスコの世界遺産に登録されている。
(*5)ヤン・ジズカ(Jan Žižka)については「余談115:フス戦争とヴィタウタス大公」の蛇足(4)参照。なお、「ジャルギリスの戦い」(「余談107:ジャルギリスの戦い」参照)で、彼はポーランド軍に加わり、ドイツ騎士団と戦った実績がある。
(*6)ターボル(Tábor)はプラハの南方約75kmに位置する現在のチェコ南部の都市である。
(*7)ドイチュブロト(Deutschbrod)はネメツキ・ブロト(Nemecky Brod)とも呼ばれ、プラハの南東約100kmに位置する現在のチェコ中部の都市ハヴリーチクーフ・ブロト(Havlickuv Brod)の旧称である。
(*8)なお、この年(1422年)、ジギスムントは神聖ローマ皇帝として、ニュルンベルクに帝国議会を招集し、フス派と戦うための傭兵部隊の編成を提案したが否決されている。このように、ドイツ諸侯が皇帝に非協力的であったのは、ジギスムントがドイツを留守にしていることが多かったためだと言われている。一方、選帝侯たちは、1424年に、皇帝に対する自分たちの権限を強化しようとしたが、これは阻止された。しかし、フス派の影響がドイツに及ぶのを恐れた選帝侯たちは、「ビンゲン同盟」を結成して独自の動きを強めたため、ドイツ諸侯に対する皇帝の権威は落ち、フス派と戦う勢力の最高指揮官としての皇帝の権限も空洞化した。なお、ビンゲン(Bingen)はライン川観光で有名なリューデスハイム(Rüdesheim)の対岸にあり、その昔マインツ大司教が通行税を徴収するために建てたともいわれる「鼠の塔」で知られている。とにかく、この当時のドイツは、百年後に起るルターの宗教改革の時代とは違って、中世的な考え方に従ってボヘミアのフス派の宗教改革運動を危険視していた。
(*9)ヤン・ジェリフスキ(Jan Zelivsky)は、フス派が1419年7月に市庁舎前をデモ行進したときの指導者である(「余談115:フス戦争とヴィタウタス大公」参照)。
(*10)ウトラキスツ(Utraquists)は、カリックス派(Calixtin:calix=聖杯)とも呼ばれているので、日本では「聖杯派」と訳されている。
(*11)実際、ヴィタウタスがジギスムント・コリブト(ジギマンタス・カリブタイティス:ヨガイラの甥)に軍を与えてボヘミアに向かわせたのはこの年(1422年)の春であったから(「余談115:フス戦争とヴィタウタス大公」参照)、これは全く遅すぎて戦いには間に合わなかった。
(*12)「余談115:フス戦争とヴィタウタス大公」参照。
(*13)ケジュマロク(Kežmarok)は、現在のスロヴァキア北部の都市ポプラド(Poprad)の北東約12kmに位置し、ポーランドとの国境に近い山岳地帯にある小都市だが、当時はハンガリー領であった。
(2021年9月 記)
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季節の花便り

8月の花便り/高橋 郁雄

  今回も近場からの取材のみとなりました。新型コロナの収束を願う毎日です。酔芙蓉、夾竹桃ともに本ブログでは再登場です。
Suihuyo7.JPGSuihuyo9.JPGSuihuyo16.JPG
酔芙蓉1(7:20)酔芙蓉2(9:22)酔芙蓉3(16:45)
酔芙蓉1~3は8月17日、は8月12日、は8月12日に、それぞれ括弧内の時間に、我が宮前平グリーンハイツの敷地内で、撮影しました。花色が、1日で白色からピンク色に変化する特徴がある面白い植物です。
  花言葉=「心変わり・繊細は美・しとやかな恋人・幸せの再来」。
夾竹桃:8月6日に、我が宮前平グリーンハイツの敷地内で撮影しました。
  インド原産。インド北部の河原に生え、乾燥、洪水、猛暑、寒風に鍛えられた植物。江戸時代に中国経由で渡来。
Kyotikuto.JPG
夾竹桃(きょうちくとう)
  葉が「竹」に、花が「桃」に似ていることから「夾竹桃」と呼ばれるようになりました。公害に強いという性質があり、(千葉市、尼崎市、広島市、鹿児島市)などの市町村の花に指定されています。僕は名古屋で勤務した経験があり、名古屋の東側の大通り沿いにこの夾竹桃が植えられていたことを思い出します。
  原爆が落ちたあと、広島で最初に花を咲かせた植物が(夾竹桃)だったことから、復興のシンボルとされたということです。
  根、葉、茎、花、など樹木全体に毒性を持っており、口に含むなどすると大変危険ですので要注意です。
  花言葉=「油断大敵・危険な愛・用心」。
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斎藤さんのお話

テレツーリズム/齋藤 嘉博

  過日この欄に載せて頂いたモロッコ紀行、諸兄はどのように読んでくださったでしょうか。モロッコへの興味は冒頭に書いた通り。しかしこの旅のお話し、カスバの様子などはその気持ちに誘われたfake、ヴァーチャルの旅記だったのです。現地の写真がありませんでしたので不審に思われた方もおられたと思います。コメントを頂いた小林さんゴメンナサイ。
  このトシで遠方への飛行機の旅やドライブもいつまで出来るかなと思いながら、しかし行きたいところはまだまだ沢山。そこで考えたのが地図の上でのヴァーチャルの旅。地図を拡げ旅行書を読みながら、あそこに飛んでここはドライブでと、もう十数年前にニュージランド、インド、マレーシア、アフリカなど二十に余る世界の観光地の旅スケジュールを作ったのです。モロッコもそのうちの一つ。そのときのプランに最近モロッコ大使館で頂いた観光パンフからの情報を加えて書いたのでした。

  その昔に作ったプランの中からいくつかをご紹介しましょう。

  トルコ;東西文化の接点トルコは是非行ってみたい国の一つ。この国については’12年のブログに大橋さんの二回にわたるすばらしい紀行稿が寄せられています。それによると世界遺産のアンティオコス王遺跡への山道はなかなかハードの模様。そこでここはパスして、成田12:50発のTKでイスタンブールを乗り継ぎアンカラへ飛び、車を借りてカッパドキアへ直行。ここから古都コンヤ、綿の城と呼ばれるパムッカレへとトルコの西部高原地帯を走り、イズミールからトロイの遺跡へ。地中海の夕陽を楽しんだのち車を返却して船でイスタンブールに向かおうというプラン。イスタンブールには沢山の見所がありますのでここでは4泊して帰国という16日間のプランでした。

  ニュージランド;ニュージランドは日本と経度も近く経度もほぼ同じ。島の面積も似通っていてなぜか大変親しみの湧く国です。成田から南島のクライストチャーチに飛んで、星が美しいと言われるテカポで「善き羊飼いの教会」、湖を散歩してスターウォッチング。マウントクックと氷河ミルフォオードサウンドを楽しんだら空路で北島に移り、トンガリロ国立公園やロトルアの温泉に浴してオークランドから帰国という18日間のスケジュール。諸兄の中にもこの国を楽しまれた方は多いのではないでしょうか。

  何回か訪れたドイツもクリスマスの時期に行ってみたいネと、シュツットガルトのクリスマス市場から始めてニュルンベルグなど古城街道を軸にプラハまで走り各地のクリスマスを観ようという魂胆。ここはアウトバーンがしっかりしていますので時速200Kmの快感を交えて。運がよければバイロイトでワグナーのオペラも。ベルリンのクリスマス市場を最後にという欲張り日程は19日間。これもすでに経験された方が多いでしょう。

  難しいのはインドとアフリカ。タンザニアのキリマンジャロ高原、動物の楽園、セレンゲッティ国立公園いいでしょうね。そしてインドはお釈迦様の遺跡、ルンビニ、ブッダガヤー、サールナートなどを中心にと想いながら、私がこれまでに知っている地域とは異なる風土。なかなか全体の感触がつかめないのです。この辺りなにかよいヒントがあればご教示頂けるとありがたいのですが。

  こうした頭の中の旅はコロナで不急不要の外出を控えさせられている身には格好の、しかし楽しい時間つぶしです。観光資料はその国の大使館、領事館などで手に入りますし、近頃はUチューブなどwebで検索するとけっこう楽しい現地の動画を観ることが出来るので幻の旅もかなり現実味を覚えることができるのです。いうなればテレツーリズム。諸兄もいかがでしょうか。

  といっても遺跡を目の当たりにして古代に飛ぶ想い、広い広い山野の自然を歩き眺める感動、喧噪の街の中で人々のざわめきを感じながらカフェで過ごすひと時の経験はテレ、ヴァーチャルではとても得られない感触です。ヴァーチャルはやはりそれだけのもの。このころコロナの影響でディジタル庁を作ったり、テレワークを推奨していますが、画面をとおしてできるのは仕事の骨格、それに肉付けぐらいまで。魂を入れるということには至りません。ディジタル仕事の会社には「このような不祥事は再び起こさないように」と頭を下げるトップの姿が増えることでしょう。早くコロナが治まってもう一度山野を歩きたいですネエ。間に合うかナ。

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新井レポート

偏光顕微鏡による岩石の偏光観察/新井 彰

  今から70年前の昔、私は旧制静岡高等学校理科に在学していました。
  地学の望月勝海教授は東大理学部地質学科出身の気鋭の学者で、研究上の代表作「大東亜地体構造論」1943は、25年後に地球科学に革新をもたらしたプレートテクトニクスの考えを先取りした世界に誇れる労作とされ、教育上の代表作「地質学入門1936新版1956」は教科書として広く採用され50万部以上出版されました。

  ある日の地学の時間に、偏光顕微鏡による岩石薄片の偏光観察実習がありました。地学教室に何台もの偏光顕微鏡が置かれ、接眼鏡を覗くと万華鏡のように変幻自在に色が変化する偏光現象が見られ、感動しました。

  その時の感動を最近もう一度経験してみたいと思いました。

  本格的な偏光顕微鏡はとても高価で手が出ないので、ずっと安価な実体顕微鏡(普通の顕微鏡)を購入。偏光装置の部分は部品(2枚の偏光板、プレパラート回転装置、偏光板回転装置など)をネットで取り寄せ自分で組み立てて実体顕微鏡に取り付け、偏光顕微鏡としました。(image1)

  フレキシブル三脚に取り付けたiPhoneで偏光現象をVideoに撮りました。(image0)
image1.jpeg
image1.jpg
image0.jpeg
image0.jpg

  Videoの1つは、岩石標本の上下にある偏光板の偏光方向を90°に交叉させ(直行ニコル)、プレパラートを手動で360°回転した場合のもの。(video1)

  もう一つのVideoはプレパラートは固定して、片方の偏光板を手動で360°回転して色の変化を撮ったものです。(video2)
  
video1
video2

  この岩石はかんらん岩で、Amazonで取り寄せた24種の岩石薄片プレパラートのうち、一番見栄えのする色の変化を見せました。

  こんな微細な世界でも自然は、更に大袈裟に言えば宇宙は、不思議だ、素晴らしい、美しい、壮大だ、、、と感じてしまいます。

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武田レポート

リトアニア史余談115:フス戦争とヴィタウタス大公/武田 充司

 1419年7月30日、プラハの市庁舎前をフス派(*1)の一団がデモ行進していた。そのとき、市庁舎の窓から突然デモ隊めがけて石が投げ込まれた。これに激高したフス派の人々が市庁舎に乱入し、市長と数人の役人を捕えて市庁舎の窓から路上に投げ落とした。
 これがきっかけとなって、いわゆる「ボヘミアのフス戦争」が始まったが、その翌月、ボヘミア王ヴァーツラフ4世が急死した(*2)。ヴァーツラフ4世は継嗣に恵まれなかったから、彼の弟で今や神聖ローマ皇帝となっていたハンガリー王ジギスムントが王位継承に名乗りを上げた。しかし、コンスタンツ公会議でヤン・フスを焚刑にしたジギスムントの不誠実(*3)に不信感を抱いていたボヘミアの貴族たちは、フス派の主張を認めることをジギスムントの王位継承の条件としたが、彼はこれを拒否した。その結果、ボヘミアでは宗教改革を求めるフス派勢力と、ローマ教皇に忠実な王権派との対立が決定的となった。

 両派の激しい争いによってプラハの市内は破壊され混乱したが、教皇マルティヌス5世が皇帝ジギスムントの要請に応えて、翌年の3月17日、ボヘミアのフス派殲滅の十字軍を起す勅書を発出した(*4)。そして、6月30日には十字軍がプラハに迫った。窮したプラハのフス派連合は、のちに「プラハの4箇条」と呼ばれる条件を出して十字軍との和睦を模索したが、皇帝ジギスムントはそれを拒否し、プラハの王宮を占領すると守備隊を残して引き揚げて行った。
 しかし、プラハ市民は彼らを兵糧攻めにした。救援に駆け付けた軍団もフス派の武力集団によって撃退され、やがて、ボヘミア全土が実質的にフス派の支配下に置かれた。そして、この年(1420年)の暮れに、ボヘミア議会はジギスムントのボヘミア王位継承を認めないと宣言し、先の「プラハの4箇条」受諾を条件に、ポーランド王ヴワディスワフ2世(即ちヨガイラ)をボヘミア王に招請した(*5)。

 翌年の1月、従兄弟同士のヨガイラとヴィタウタスは、2人揃って、リトアニアのヴァレナ(*6)でフス派の使節と会ったが、ポーランド王であるヨガイラは彼らの招請を断った。ところが、その年(1421年)の6月10日、フス派の人々は一方的にリトアニア大公ヴィタウタスをボヘミア王に選出した。そこで、ヴィタウタスは、彼らフス派がローマ教会と和解してボヘミアの分裂が解消すればという条件で、ボヘミア王位を受諾すると応じたが、その一方で、教皇マルティヌス5世には、異端者、即ち、フス派には協力しないと伝えた(*7)。

 この何とも言えぬ微妙な対応を見せたヴィタウタスは、その翌年(1422年)の春、自分の代理として、ヨガイラの甥ジギマンタス(*8)をボヘミアに派遣した。このとき、ヴィタウタスはジギマンタスに自分の軍隊を与えてボヘミアに向かわせた(*9)。

〔蛇足〕
(*1)「余談114:コンスタンツ公会議における論争」の蛇足(1)で述べたように、ヤン・フスは1415年7月に処刑されたが、その焚刑は凄惨極まりないものであったという。そして、その翌年の5月にはヤン・フスの友人ジェロームも焚刑に処せられている。こうしたことに対する反発から1419年頃にはボヘミアでのフス派は大きな勢力になっていた。なお、1999年に、当時の教皇ヨハネ・パウロ2世(この人はポーランド人で、クラクフのヨガイラ大学で神学を学んだ)はヤン・フスの処刑に対して「深い悔恨の念」を表明している。
(*2)ヴァーツラフ4世は、フス派が市長などを市庁舎の窓から投げ落としたことにショックをうけて気絶したのが原因で、その後、急死したのだとも言われている。なお、この人については「余談102:権謀術数をめぐらすドイツ騎士団」の蛇足(1)参照。
(*3)当初、ジギスムントはフス派の問題を平和的に解決しようとして、ヤン・フスに公会議の場で弁明する機会を与えることを提案した。プラハの人たちもこうした考えには賛同した。ところが、公会議では一転して異端尋問となり、フスの弁明など一切うけつけず、残忍な焚刑で処罰したため、プラハ市民は皇帝ジギスムントに裏切られたという怨念を抱くようになった。
(*4)寡婦となったヴァーツワフ4世の后ゾフィーが両派の争いの調停に尽力したが、フス派の中のヤン・ジズカ(Jan Žižka)という過激な人物がプラハを去ってボヘミア南部に拠点を築き、兵を集めて武力闘争を開始した。これが本格的な戦争を誘発した。
(*5)フス派の人々がヨガイラ(ポーランド王ヴワディスワフ2世)に目を付けたのは、おそらく、コンスタンツ公会議での論争などから、ポーランドやリトアニアの人たちなら自分たちの主張を理解してもらえると思ったからだろう。実際、ポーランドやリトアニアではフス派に共感する者が少なからずいたようだ。
(*6)ヴァレナ(Varėna)は現在のリトアニアの首都ヴィルニュスの南西約70kmに位置する古い町で、リトアニアが誇る芸術家(作曲家であり画家でもある)チュルリョーニスの生まれた町として知られている。
(*7)ヴィタウタスの立場はヨガイラより自由であったと思われるが、コンスタンツ公会議の閉会時に新教皇マルティヌス5世が、「ヨガイラとヴィタウタスは立派なキリスト教徒であり、彼らをルーシの地における教皇の総代理人に任命する」と宣言し、ヴィタウタスにジェマイチヤの人々を受洗させる権限を与えた。そして、1417年秋にはジェマイチヤ司教区が設立され、ジェマイチヤのメディニンカイに司教座が置かれ、初代司教としてトラカイのマティアス(Motiejus Trakiškis)が任命された。こうした一連の実績から、ヴィタウタスは教皇マルティヌス5世との関係を悪化させたくなかったはずで、ボヘミアのフス派との関係強化には慎重だったのだ。しかし、恐らく、ヴィタウタス大公はフス派に共感していただけでなく、ボヘミア王位にも魅力を感じていたのではなかろうか。教皇から戴冠を許された「王」を戴く王国に対して、公国は格下の準国家の扱いしかうけられない当時の西欧キリスト教世界では、「王」になることがどれほど重要かを彼はよく理解していたはずだ。そこで、ヴィタウタスはこのような曖昧な態度で両面作戦をとり、しかも、状況次第ではボヘミア王になる余地を残しておいたのだろう。
(*8)ジギマンタスは、ポーランド王ヨガイラの実弟でノヴゴロド・セヴェルスク公であったドミートリイ・コリブトと、リャザニ公オレグの娘アナスタシアとの間に生れた子である。コリブトはリトアニア語名カリブタスがロシア語化したものである。したがって、この人は「ジギマンタス・カリブタイティス」と呼ぶのが適当だが、「ジギスムント・コリブト」で通っているようだ。なお、この人はクラクフのヨガイラの宮廷で育てられたため、一時は、子宝に恵まれないヨガイラの後継者になるのではと噂された。
(*9)ヴィタウタスがジギマンタスに軍を与えてボヘミアに行かせたことが後に厄介な問題をひき起すことになる。
(2021年8月 記)
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小林レポート

半世紀前の記録から:チューリッヒ2/小林 凱

  前回はチューリッヒの一般的な紹介と旅の記録を紹介しましたが、今回は違った角度も含めての記録です。この町はチューリッヒ湖(Zurich See)の水が流れ出るリマ―ト川の両岸に開けた都市ですが、町のレイアウトは前回地図で紹介していますからご参照ください。

  私がこの町を思い出すのはいつも中央駅(ハウプトバーンホフ)から始まります。(Fig.1)  ここから湖へ向かって大通り(バーンホフシュトラッセ)が伸びる街並みは何度見ても好きで、又この町に来れたと思ったものです。写真は駅の近くの通りで沢山のビルが両側に並び、その奥の方に駅ビルが見えます。(Fig.2)  その次は絵葉書で大通りで言えば中ほどの辺りから撮ったもので、手前の尖塔は聖母教会と思います。その先にリマート川とチューリッヒ湖が拡がり、中央の橋の左手に国立劇場ほかのビルが見えます。私の泊まった宿もこの先にあります。また橋の上には路面電車が見えます。(Fig.3)

Fig1.JPG
Fig.1
Fig2.JPG
Fig.2
Fig3.JPGFig4.JPGFig5.JPG
Fig.3Fig.4Fig.5
  その次は湖の近くのバーンホフシュトラッセで、周辺は建物も低く辺りは開けています。ここでも路面電車が活躍しています。(Fig.4)

  更に歩を進めて橋の近くに行くとリマ―ト川と船着き場で、その背後にあるのが大聖堂です。(Fig.5)

  こうして見ると改めてこの街で何時も活躍して居たのが路面電車だったと気づきました。チューリッヒ市内では到る所で走っていて、私も大変重宝しました。またこれらの写真から当時のチューリッヒの電車は、日本のと余り大きな差は無かった様に思います。

  話が変わってイタリアにピエロ キアラ(Piero Chiara, 1913-1986)という作家が居ました。日本では余り知られていないが、それは日本語訳が無い事もありましょう。市井の人達の暮らしを描いて映画化された作品も多い作家です。彼は北イタリアのアルプスの麓、マッジョール湖畔で生まれ終生この湖水の地を愛しました。最初から作家では無く色んな仕事を経験したが、一旦書き出すと蓄積されたものが堰を切った様に溢れて多くの作品を出しました。また彼の奥さんはチューリッヒのお医者さんの娘でした。

  キアラは大のファッシスト嫌いでムッソリーニの支配する当時の体制に反対する活動をしていたので、第二次大戦が進むと彼の命は危険に晒されスイスに亡命します。

  後年キアロの人生と作品を描いたドキュメンタリーフイルムが作られました。その冒頭は美しい湖(マッジョール湖と思います)に彼自身の台詞(私は田舎の小さな町-Luino-で生れた)から始まります。この北イタリアの地方は私は残念ながら訪れていませんが、美しい景観で古くからヨーロッパの貴族や富豪が湖畔の館を競った処です。我々の間では、大橋兄が羨ましい旅をされこのブログで紹介されています。

  このフイルムでの彼の亡命期間の描写は、ただBGMの中バーンホフシュトラッセが映し出され、其処へ路面電車が繰り返し行き来するシーンが暫く続くというものでした。これでチューリッヒとその町での滞在が表現されたという事でしょうか。私がこのドキュメンタリーフイルムを見たのは2010年頃ですが大変懐かしく思いました。それはこのシーンで埋もれて居た数十年前の記憶が呼び起こされ、単にチューリッヒの街だけで無くそこで印象に残った路面電車も一緒に登場したからだと思っています。

  そこで話が現在の比較に移って、今日の日本では大都市は別としても、もっと人口の少ない都市でも路面電車は殆ど無くなってバスに代わり、そしてLRT(Light Rail Transit)は富山と宇都宮くらいでしょうか。しかしNetで見るとチューリッヒの街では電車が大きな顔で走っていて、この半世紀の間に大きな違いが出たようです。この辺のもっと詳しい状況をご存知の方はご教授頂ければ幸いです。

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Fig.6Fig.7Fig.8

  当時のチューリッヒ湖ではクルーズ船が就航していました。乗船場はバーンホフシュトラッセの端にあって、そこの公園には銅像(誰のか失念)がありました。(Fig.6)

  湖はここから細長い半月形に伸びて、緩やかに左にカーブしてその奥にラッパースビル(Rapperswil)と云う町があり、そこがクルーズの終点でした。(Fig.7)

  4月のある日曜日の午後、ぶらりとここのクルーズに行って見ました。片道約2時間余の旅です。(Fig.8)

  乗船を待つ列で二人連れのお婆さんに出会いました。可成り高齢だがシャキッとして元気そのもの、仲の良い二人で姉妹か友達か判りませんが、旦那衆は既に天国であろうと勝手に想像しました。ドイツ語で訊いて来たので私はドイツ語での会話は出来ないと言ったら、強い訛りの英語で”お若いの”(Young manーなお私は当時34歳です)と呼びかけて、どこから来たのとか一人で何してるのとかごく普通の身元調査でした。考えて見ると、この様な遊覧船に私の様な男が一人で乗るのは少なく、若しかするとサスペンス小説でも連想したのかも知れません。

  このクルーズ船は席が詰まっているタイプで無く、小さなテーブルが各所に在ってその周りに椅子が配され、私は婆さん達と同じ処に座りました。

  そのフロアーには小さなバーがあり出航するとすぐ開いてオーダーを受けました。婆さん達は早速迷わず注文して、運ばれて来たのがぬる燗のビールでした。これは運び手の付いた円筒型の容器にお湯が入っていて中に瓶ビールが立ててあり、お二人はそれをグラスについで飲み始めました。私の驚いた様子に、これが身体に一番良いんだよ、お前さんも試したらどうかと言われたが、私はぬるいビールなどとてもとバーで良く冷えたグラスビールを求めました。婆さん達は二人のドイツ語のおしゃべりに戻りました。

  この日は穏やかな早春の午後で、船は途中Halbinsel.Auと云う古い砦のようなものがある村に立ち寄り、時間をかけて湖の奥の終点に着きました。約一時間この古い街を散策する中で、丘に登ると古城があると聞いたので行って見たが見るべきものは在りませんでした。(Fig.9)Fig9.JPG
Fig.9

  日曜日の午後ですが、何か日が良いのかきちんとした服装の両親が、晴れ着の女の子を連れて歩いているのを幾組か見かけたが、何の儀式だったのか覚えていません。

  帰途の船は時間も遅い所為か乗客も少なく、一人窓際の席で夕暮れの湖と連なる丘の村を眺めて過ごした。やがて日が暮れると両岸の家々に灯がついてこれは美しい眺めでした。

  19時すぎ船はバーンホフシュトラッセの船着き場に帰着、さあ近くの何処かで夕食して宿に帰ろうかという一日でした。

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季節の花便り

7月の花便り/高橋 郁雄

  今回も、コロナのせいで近場からの取材のみとなりました。エキザカムのみが初登場で、夏水仙と鬼百合は再登場です。
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エキザカム夏水仙鬼百合
エキザカム:川崎市宮前区の花屋さんの店先で、7月11日に撮影しました。原産地:インド洋のソコトラ島。和名=紅姫竜胆(ベニヒメリンドウ)。英名=Persian Violet(ペルシャン・バイオレット)。開花期:6~10月。
  花言葉=「あなたの夢は美しい・あなたを愛します」。
  青い宝石をちりばめたように、株一面に花を咲かせます。花は個性的で、青い花弁と中心部の雌ずい・雄ずいの黄色とのコントラストもかわいらしく、さわやかな涼感と南国のような雰囲気をあわせもっています。しかも枝分かれして成長しながら、長い期間咲き続けるようです。
夏水仙:我が家のベランダで7月13日に撮影しました。本ブログへの登場は3度目です。ヒガンバナ科の花。別名:裸百合。
  英語名(Magic Lily):花期に葉がないことがこの名前の由来。
  花言葉=「深い思いやり・快い楽しさ・悲しい思い出」。開花している期間が2日ほどなので咲いたらすぐ写真に撮りました。
鬼百合:僕の娘の家は我が家から車で15分ほどの所にありますが、その途中でこの鬼百合の花を見つけ、7月17日に撮影しました。
  本ブログへの登場は3度目です。花弁に黒い斑点が目立ち、花の色や形から、赤鬼を連想させることから「鬼百合」の名になった。
  英名:(Tiger Lily)。8月30日の誕生花。花言葉=「賢者」。
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武田レポート

リトアニア史余談114:コンスタンツ公会議における論争/武田 充司<br />

   コンスタンツ公会議といえば教会大分裂を終らせ、宗教改革の先駆者ヤン・フスを処刑したことで知られているが(*1)、リトアニアやポーランドの人々にとっては、この公会議で行われたドイツ騎士団との論争を抜きにしては語れない、歴史的公会議であった(*2)。
 ドイツとスイスが接する国境の湖、ボーデン湖のほとりにあるコンスタンツで、1414年11月15日から開かれていた公会議に、ドイツ騎士団の代表団が11輌の4輪荷馬車を連ねて乗り込んできたのは、その年も押し迫った12月のことであった。そして、年が明けた1415年1月には、ミコワイ・トロンバ(*3)に率いられたリトアニアとポーランドの合同代表団もコンスタンツに到着した。

 この公会議で彼らの議題が初めて取り上げられたのは1415年5月11日であった。ポーランド・リトアニア連合とドイツ騎士団の双方が文書を提出し、それぞれの主張の正当性を開陳し、相手の非を激しく糾弾した。
 ドイツ騎士団の代表は、彼らが招かれてポーランド北部に入植した当時からの歴史を説き起こし(*4)、ポーランドの平和と繁栄に如何に貢献したかを語ったあと、それにもかかわらず、ポーランドの人々は悪魔の異教徒リトアニア人と結託してドイツ騎士団に歯向かい、約束を守らず、殺人、放火、略奪などをくり返したと激しく非難した(*5)。
 これに対して、ポーランドの代表は、非人道的なドイツ騎士団の行為と武力による不法な抑圧の数々を、実例をあげて非難し、キリスト教徒であれ異教徒であれ、彼らの財産権は守られるべきで、罪のない隣人の財産を奪うことは教皇の権限を超えていて自然法に反すると断じた。また、武力に訴えて異教徒を改宗させることは、「真の改宗は“自由な選択”と不可分である」とする聖書と教会法に反する行為で、決して正当化できないと論じた(*6)。

   このような激しい論争があったあとのこの年の11月28日、最近キリスト教徒に改宗したという60人ほどのジェマイチヤ人の一団がコンスタンツにやって来た。そして、翌年(1416年)の2月、公会議で陳述する機会を与えられた彼らは、「長い間ドイツ騎士団の残虐行為に苦しめられたが、我々はローマ教会の信仰に帰依することを望んでいる。しかし、ドイツ騎士団の攻撃と侵略が続いているので、多くの者が改宗することをためらっている。」と述べたあと、「我々はリトアニア大公国の一員であり、ヴィタウタス大公に我々をキリスト教徒として受洗させる権限を与えて欲しい。」と請願した。

   こうしたジェマイチヤ人の訴えは公会議に集まった聖職者たちに大きな衝撃を与えたが、これをどう処理するかは難しい問題だった(*7)。新教皇マルティヌス5世は明白な結論を出すことなく公会議の閉会を宣言したが、そこには強かな政治的配慮も示されていた。

〔蛇足〕
(*1)ローマ教会の大分裂は、アヴィニョン教皇時代を終らせたグレゴリウス11世が亡くなった翌年(1378年)に始まった。このとき、後継教皇としてウルバヌス6世が選ばれたが、この人が粗野で尊大な独裁者あったため、枢機卿たちが彼を廃位してクレメンス7世を新たに選出したことから、ローマのウルバヌス6世とアヴィニョンの対立教皇クレメンス7世が並立する時代になったが、フランス王シャルル5世がクレメンス7世を支持したのに対して、神聖ローマ皇帝カール4世と帝国諸侯がウルバヌス6世を支持したため、当時のヨーロッパを分断する政治的対立に発展した。そして、この公会議が開かれた当時は3人の教皇が鼎立するという最悪の状況であった(「余談113:ホロドウォ会談と飢餓戦争」の蛇足(8)参照)。一方、ボヘミアのプラハ大学教授で同大学の総長も務めたヤン・フスは、イングランドのジョン・ウィクリフ(1384年没)の思想に強く影響された先駆的宗教改革の主導者だったが、この公会議で異端尋問をうけたあと、1415年7月6日に有罪宣告をうけ、直ちに焚刑に処せられた。これは1517年に始まったとされるマルティン・ルターの宗教改革より百年以上も前の出来事である。そして、これがもとで、ボヘミアではフス派による反乱が起り、いわゆる「フス戦争」(1419年~1436年)が始まった。
(*2)この公会議において、ドイツ騎士団もポーランド・リトアニア連合も、どちらも、長年争ってきた問題について、ヨーロッパの良識に訴えて自分たちの主張の正当性を立証しようとした。
(*3)ミコワイ・トロンバについては「余談107:ジャルギリスの戦い」の蛇足(4)参照。
(*4)「余談58:ポーランドに招かれたドイツ騎士団」参照。
(*5)この論陣を張ったのはドイツ騎士団総長の代理人ペーター・フォン・ヴォルムディトで、彼は「トルンの平和条約」の条項も説明し、ポーランド王がこれらの条項を無視しているとも主張した。
(*6)この論陣を張ったのはクラクフ大学の総長パヴェウ・ヴウォドコヴィツ(Paweł Włodkowic)で、この人は、「ジャルギリスの戦い」直前の言論戦で当時のクラクフ大学総長スタニスワフとともに、国家間の平和共存を説いて活躍した若き論客であった(「余談103:開戦前夜の言論“正義の戦いについて”」の蛇足(9)参照)。彼の論点の中心は:教皇の命令があればキリスト教徒が合法的に異教徒の主権国家を攻撃できるのか。そして、たとえ教皇がすべての人間に対する裁判権を持っていたとしても、彼ら異教徒が知らない法律に違反した廉で彼らを罰することができるのか、などであった。彼の演説は体系的で論理的なもので、のちに論文として出版された。このあと、ドイツ騎士団は13世紀の教会法学者ホスティエンシス(セグシオのヘンリー)の思想に依拠して反論したが、パヴェウ・ヴウォドコヴィツは屈せず、ホスティエンシスの主張が間違っていることを52の論点にまとめて反論した。これものちに小冊子として刊行された。
(*7)当時はまだパヴェウ・ヴウォドコヴィツの主張に反感をもつ人たちが多かった。たとえば、ドミニコ会の修道士ヨハネス・ファルケンベルクはパヴェウ・ヴウォドコヴィツを異端と断じ、異教徒を殺害して彼らの土地を取り上げ、キリスト教徒のものにするのは合法的であると主張して、ドイツ騎士団の行為を擁護した。しかし、さすがに、こうした極論は当時も批判されたが、それでも、先に述べたホスティエンシスの思想(たとえば、教皇の世俗的事項に関する権限は非キリスト教国にも及び、彼らが教会の統治権を認めないならば、彼らの主権と土地を奪うことは正当な行為として許される等)は17世紀頃までカトリック世界に大きな影響力を保っていて、スペインの残忍なアメリカ新大陸征服を正当化する論理として使われていたという。我が国の戦国時代にやって来たポルトガルやスペインの宣教師たちの論理も同様で、彼らは「トロイの木馬」であったと言えよう。
(2021年7月 記)
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斎藤さんのお話

モロッコ紀行/齋藤 嘉博

  私がモロッコに興味をもったのは往年の名画カサブランカ。どこの映画館だったか忘れましたがハンフリーボガートとイングリットバークマンの競演がすごく印象に残っているのです。
  もう一つはずっと後になってトポロジーを勉強した時、書の一筆書きの章に「入ったら抜け出ることのできないモロッコのカスバ」と。一体どんなところ?それに私の友人でフランス語にも堪能なT君、「モロッコに行ってきました。面白いところですヨ」と話をしてくれたのが拍車になりました。陽昇る国の日本からずーッと西の果てマグレブ(陽入る国)、アフリカ大陸の北の端。諸兄の中にもモロッコに行かれた方は少ないだろうと思います。ジブラルタル海峡に面したモロッコにはパリのオルリー空港から3時間余りの飛行でカサブランカに到着します。列車でマラケシュへ。
  その夜はちょっと張りこんで昔は富裕層の邸宅だったというリヤドに泊まり、庭の奥の方にしつらえられたハマス(サウナ)でリラックス。翌朝ガイドさんを頼んで街中へ。迷路のまちと言われるこのメディナ(城壁に囲まれた旧市街)を方向感覚には自信のある小生もさすがに一人で歩く気になりません。城壁に囲まれたメディナの南にある王宮をさらっと拝見して期待していたスークへ。いやなるほどの迷路です。メインの通りは飴屋横丁?いや京都の錦市場のほうが似ているかもしれません。細い道に食べ物、お土産、絨毯など様々なお店がぎっしり。そして行き止まりの小道が多いのです。モロッコ1.jpg
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  京都の路地(ロージ)も狭い道ですが多くは通り抜けが出来ます。ここでは行き止まり、引き返しがあたりまえ。そしてロージは狭くても両側が木造建築ですのでなんとなく解放感がありますが、ここでは両側とも石の壁。全く異世界に迷い込んだ感じです。3時間の散歩を終えてとあるレストランで郷土料理、尖り帽子の土鍋に焚かれたミートボールのダジンの昼食。これはおいしかった。工芸品を集めた博物館、砂漠関連の博物館を訪ね、城壁の外にあるマジョレル庭園を散歩して宿に帰りました。

  翌日は一泊二日の砂漠ツアーに参加。マラケシュからワルザザートへ。砂漠の道と思っていましたらオト、アトラス、4,000m級を含むというアトラス山脈越えの山道。しかしちゃんとした舗装道路で、これならレンタカーでも走れたか!と。左に豪快な山脈、右の下にはダデスの谷と景色の良い道、カスバ街道を走っているのですが、いつの間にかぐっすりと寝ていました。

  砂漠の街、エルズーガに到着したのは夕方。ホテルに入ると早速キャメルトレッキング。ラクダの背に乗って砂漠の中を散歩。いやサハラ砂漠って大きいですネ。鳥取の砂丘はまア公園の砂場、アメリカのホワイトサンズでは真っ白な砂が一面に広がって感激しましたが、サハラはやはりスケールが全く違います。どこまでも続く茶色の砂。やがて夕陽が砂山の向こうに沈んでいきます。二人のナガーイ影を作ってくれたモニュメントバレーの夕陽も感激でしたが、一桁いや二桁もスケールが違います。そして陽出る国の日本でみる二見が浦の景色を思い出しながら陽沈む国の砂漠の夕陽は誠に感無量。ま二度とこんな時間を過ごすことはないでしょう。翌朝この砂漠の朝を散歩しながらもう一度この砂漠の雄大さを実感したのでした。

  マラケシュからフェズへ飛んで後半はモロッコの歴史の旅。フェズは新市街のホテルに泊まってこの日の午後はホテル周辺の散歩。新市街は欧州の街とほぼ同じ。しっかりした道にトラムが走り高級店舗が並んでいます。翌日タクシーでお目当ての旧市街メディナへ。まずフェズの西北、小高い山の上にあるマリーン朝の墓地へ。ここから一望の城壁に囲まれたフェズ(旧市街)は、なだらかな丘陵の上に波打って、この中にごちゃごちゃした迷路街があるとは思えない様子でした。マラケシュの迷路街で経験を積みましたので今回はガイドなしに歩いてみようと一人で緑の美しいタイルで装飾された入口のブー・ジュルード門をくぐりました。世界遺産にもなっている1,200年前につくられた街。1,200年まえといえば平安京の時代。そちらは朱雀大路が真ん中を貫いたすっきりした街づくりなのにとこのごちゃごちゃに呆れながら両側の店を覗きました。一番奥のサファリーン広場まで歩いて、その脇にあるカラウィンモスクを外から眺めて引き返しました。

  先の入り口の門に近いダール・バトハ博物館はこの国の歴史を示す、コーランの写本や装飾品、生活品などが並べられて想いを1200年の昔に走らすことが出来ますが、庭はこの建物の持ち主が天国の楽園をイメージして作ったものとか。これも頼道の平等院の庭と比べて宗教が違うと楽園のイメージも全く違うネとの感を深くしたものです。一日ぶらぶらとこの迷路を歩いて無事ホテルに帰着しました。

  翌日以降はメクネスに宿を移して、街とその郊外にあるヴォルビリスの遺跡を訪ね、カサブランカ経由でパリに帰着しました。これまでに訪ねた米国や欧州の国々、キリスト教国とは全く違う雰囲気、アラブとイスラム教の雰囲気。世界は、地球は広いなあと満身で感じた一週間でした。