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武田レポート

リトアニア史余談114:コンスタンツ公会議における論争/武田 充司<br />

   コンスタンツ公会議といえば教会大分裂を終らせ、宗教改革の先駆者ヤン・フスを処刑したことで知られているが(*1)、リトアニアやポーランドの人々にとっては、この公会議で行われたドイツ騎士団との論争を抜きにしては語れない、歴史的公会議であった(*2)。
 ドイツとスイスが接する国境の湖、ボーデン湖のほとりにあるコンスタンツで、1414年11月15日から開かれていた公会議に、ドイツ騎士団の代表団が11輌の4輪荷馬車を連ねて乗り込んできたのは、その年も押し迫った12月のことであった。そして、年が明けた1415年1月には、ミコワイ・トロンバ(*3)に率いられたリトアニアとポーランドの合同代表団もコンスタンツに到着した。

 この公会議で彼らの議題が初めて取り上げられたのは1415年5月11日であった。ポーランド・リトアニア連合とドイツ騎士団の双方が文書を提出し、それぞれの主張の正当性を開陳し、相手の非を激しく糾弾した。
 ドイツ騎士団の代表は、彼らが招かれてポーランド北部に入植した当時からの歴史を説き起こし(*4)、ポーランドの平和と繁栄に如何に貢献したかを語ったあと、それにもかかわらず、ポーランドの人々は悪魔の異教徒リトアニア人と結託してドイツ騎士団に歯向かい、約束を守らず、殺人、放火、略奪などをくり返したと激しく非難した(*5)。
 これに対して、ポーランドの代表は、非人道的なドイツ騎士団の行為と武力による不法な抑圧の数々を、実例をあげて非難し、キリスト教徒であれ異教徒であれ、彼らの財産権は守られるべきで、罪のない隣人の財産を奪うことは教皇の権限を超えていて自然法に反すると断じた。また、武力に訴えて異教徒を改宗させることは、「真の改宗は“自由な選択”と不可分である」とする聖書と教会法に反する行為で、決して正当化できないと論じた(*6)。

   このような激しい論争があったあとのこの年の11月28日、最近キリスト教徒に改宗したという60人ほどのジェマイチヤ人の一団がコンスタンツにやって来た。そして、翌年(1416年)の2月、公会議で陳述する機会を与えられた彼らは、「長い間ドイツ騎士団の残虐行為に苦しめられたが、我々はローマ教会の信仰に帰依することを望んでいる。しかし、ドイツ騎士団の攻撃と侵略が続いているので、多くの者が改宗することをためらっている。」と述べたあと、「我々はリトアニア大公国の一員であり、ヴィタウタス大公に我々をキリスト教徒として受洗させる権限を与えて欲しい。」と請願した。

   こうしたジェマイチヤ人の訴えは公会議に集まった聖職者たちに大きな衝撃を与えたが、これをどう処理するかは難しい問題だった(*7)。新教皇マルティヌス5世は明白な結論を出すことなく公会議の閉会を宣言したが、そこには強かな政治的配慮も示されていた。

〔蛇足〕
(*1)ローマ教会の大分裂は、アヴィニョン教皇時代を終らせたグレゴリウス11世が亡くなった翌年(1378年)に始まった。このとき、後継教皇としてウルバヌス6世が選ばれたが、この人が粗野で尊大な独裁者あったため、枢機卿たちが彼を廃位してクレメンス7世を新たに選出したことから、ローマのウルバヌス6世とアヴィニョンの対立教皇クレメンス7世が並立する時代になったが、フランス王シャルル5世がクレメンス7世を支持したのに対して、神聖ローマ皇帝カール4世と帝国諸侯がウルバヌス6世を支持したため、当時のヨーロッパを分断する政治的対立に発展した。そして、この公会議が開かれた当時は3人の教皇が鼎立するという最悪の状況であった(「余談113:ホロドウォ会談と飢餓戦争」の蛇足(8)参照)。一方、ボヘミアのプラハ大学教授で同大学の総長も務めたヤン・フスは、イングランドのジョン・ウィクリフ(1384年没)の思想に強く影響された先駆的宗教改革の主導者だったが、この公会議で異端尋問をうけたあと、1415年7月6日に有罪宣告をうけ、直ちに焚刑に処せられた。これは1517年に始まったとされるマルティン・ルターの宗教改革より百年以上も前の出来事である。そして、これがもとで、ボヘミアではフス派による反乱が起り、いわゆる「フス戦争」(1419年~1436年)が始まった。
(*2)この公会議において、ドイツ騎士団もポーランド・リトアニア連合も、どちらも、長年争ってきた問題について、ヨーロッパの良識に訴えて自分たちの主張の正当性を立証しようとした。
(*3)ミコワイ・トロンバについては「余談107:ジャルギリスの戦い」の蛇足(4)参照。
(*4)「余談58:ポーランドに招かれたドイツ騎士団」参照。
(*5)この論陣を張ったのはドイツ騎士団総長の代理人ペーター・フォン・ヴォルムディトで、彼は「トルンの平和条約」の条項も説明し、ポーランド王がこれらの条項を無視しているとも主張した。
(*6)この論陣を張ったのはクラクフ大学の総長パヴェウ・ヴウォドコヴィツ(Paweł Włodkowic)で、この人は、「ジャルギリスの戦い」直前の言論戦で当時のクラクフ大学総長スタニスワフとともに、国家間の平和共存を説いて活躍した若き論客であった(「余談103:開戦前夜の言論“正義の戦いについて”」の蛇足(9)参照)。彼の論点の中心は:教皇の命令があればキリスト教徒が合法的に異教徒の主権国家を攻撃できるのか。そして、たとえ教皇がすべての人間に対する裁判権を持っていたとしても、彼ら異教徒が知らない法律に違反した廉で彼らを罰することができるのか、などであった。彼の演説は体系的で論理的なもので、のちに論文として出版された。このあと、ドイツ騎士団は13世紀の教会法学者ホスティエンシス(セグシオのヘンリー)の思想に依拠して反論したが、パヴェウ・ヴウォドコヴィツは屈せず、ホスティエンシスの主張が間違っていることを52の論点にまとめて反論した。これものちに小冊子として刊行された。
(*7)当時はまだパヴェウ・ヴウォドコヴィツの主張に反感をもつ人たちが多かった。たとえば、ドミニコ会の修道士ヨハネス・ファルケンベルクはパヴェウ・ヴウォドコヴィツを異端と断じ、異教徒を殺害して彼らの土地を取り上げ、キリスト教徒のものにするのは合法的であると主張して、ドイツ騎士団の行為を擁護した。しかし、さすがに、こうした極論は当時も批判されたが、それでも、先に述べたホスティエンシスの思想(たとえば、教皇の世俗的事項に関する権限は非キリスト教国にも及び、彼らが教会の統治権を認めないならば、彼らの主権と土地を奪うことは正当な行為として許される等)は17世紀頃までカトリック世界に大きな影響力を保っていて、スペインの残忍なアメリカ新大陸征服を正当化する論理として使われていたという。我が国の戦国時代にやって来たポルトガルやスペインの宣教師たちの論理も同様で、彼らは「トロイの木馬」であったと言えよう。
(2021年7月 記)
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斎藤さんのお話

モロッコ紀行/齋藤 嘉博

  私がモロッコに興味をもったのは往年の名画カサブランカ。どこの映画館だったか忘れましたがハンフリーボガートとイングリットバークマンの競演がすごく印象に残っているのです。
  もう一つはずっと後になってトポロジーを勉強した時、書の一筆書きの章に「入ったら抜け出ることのできないモロッコのカスバ」と。一体どんなところ?それに私の友人でフランス語にも堪能なT君、「モロッコに行ってきました。面白いところですヨ」と話をしてくれたのが拍車になりました。陽昇る国の日本からずーッと西の果てマグレブ(陽入る国)、アフリカ大陸の北の端。諸兄の中にもモロッコに行かれた方は少ないだろうと思います。ジブラルタル海峡に面したモロッコにはパリのオルリー空港から3時間余りの飛行でカサブランカに到着します。列車でマラケシュへ。
  その夜はちょっと張りこんで昔は富裕層の邸宅だったというリヤドに泊まり、庭の奥の方にしつらえられたハマス(サウナ)でリラックス。翌朝ガイドさんを頼んで街中へ。迷路のまちと言われるこのメディナ(城壁に囲まれた旧市街)を方向感覚には自信のある小生もさすがに一人で歩く気になりません。城壁に囲まれたメディナの南にある王宮をさらっと拝見して期待していたスークへ。いやなるほどの迷路です。メインの通りは飴屋横丁?いや京都の錦市場のほうが似ているかもしれません。細い道に食べ物、お土産、絨毯など様々なお店がぎっしり。そして行き止まりの小道が多いのです。モロッコ1.jpg
モロッコ2.jpg

  京都の路地(ロージ)も狭い道ですが多くは通り抜けが出来ます。ここでは行き止まり、引き返しがあたりまえ。そしてロージは狭くても両側が木造建築ですのでなんとなく解放感がありますが、ここでは両側とも石の壁。全く異世界に迷い込んだ感じです。3時間の散歩を終えてとあるレストランで郷土料理、尖り帽子の土鍋に焚かれたミートボールのダジンの昼食。これはおいしかった。工芸品を集めた博物館、砂漠関連の博物館を訪ね、城壁の外にあるマジョレル庭園を散歩して宿に帰りました。

  翌日は一泊二日の砂漠ツアーに参加。マラケシュからワルザザートへ。砂漠の道と思っていましたらオト、アトラス、4,000m級を含むというアトラス山脈越えの山道。しかしちゃんとした舗装道路で、これならレンタカーでも走れたか!と。左に豪快な山脈、右の下にはダデスの谷と景色の良い道、カスバ街道を走っているのですが、いつの間にかぐっすりと寝ていました。

  砂漠の街、エルズーガに到着したのは夕方。ホテルに入ると早速キャメルトレッキング。ラクダの背に乗って砂漠の中を散歩。いやサハラ砂漠って大きいですネ。鳥取の砂丘はまア公園の砂場、アメリカのホワイトサンズでは真っ白な砂が一面に広がって感激しましたが、サハラはやはりスケールが全く違います。どこまでも続く茶色の砂。やがて夕陽が砂山の向こうに沈んでいきます。二人のナガーイ影を作ってくれたモニュメントバレーの夕陽も感激でしたが、一桁いや二桁もスケールが違います。そして陽出る国の日本でみる二見が浦の景色を思い出しながら陽沈む国の砂漠の夕陽は誠に感無量。ま二度とこんな時間を過ごすことはないでしょう。翌朝この砂漠の朝を散歩しながらもう一度この砂漠の雄大さを実感したのでした。

  マラケシュからフェズへ飛んで後半はモロッコの歴史の旅。フェズは新市街のホテルに泊まってこの日の午後はホテル周辺の散歩。新市街は欧州の街とほぼ同じ。しっかりした道にトラムが走り高級店舗が並んでいます。翌日タクシーでお目当ての旧市街メディナへ。まずフェズの西北、小高い山の上にあるマリーン朝の墓地へ。ここから一望の城壁に囲まれたフェズ(旧市街)は、なだらかな丘陵の上に波打って、この中にごちゃごちゃした迷路街があるとは思えない様子でした。マラケシュの迷路街で経験を積みましたので今回はガイドなしに歩いてみようと一人で緑の美しいタイルで装飾された入口のブー・ジュルード門をくぐりました。世界遺産にもなっている1,200年前につくられた街。1,200年まえといえば平安京の時代。そちらは朱雀大路が真ん中を貫いたすっきりした街づくりなのにとこのごちゃごちゃに呆れながら両側の店を覗きました。一番奥のサファリーン広場まで歩いて、その脇にあるカラウィンモスクを外から眺めて引き返しました。

  先の入り口の門に近いダール・バトハ博物館はこの国の歴史を示す、コーランの写本や装飾品、生活品などが並べられて想いを1200年の昔に走らすことが出来ますが、庭はこの建物の持ち主が天国の楽園をイメージして作ったものとか。これも頼道の平等院の庭と比べて宗教が違うと楽園のイメージも全く違うネとの感を深くしたものです。一日ぶらぶらとこの迷路を歩いて無事ホテルに帰着しました。

  翌日以降はメクネスに宿を移して、街とその郊外にあるヴォルビリスの遺跡を訪ね、カサブランカ経由でパリに帰着しました。これまでに訪ねた米国や欧州の国々、キリスト教国とは全く違う雰囲気、アラブとイスラム教の雰囲気。世界は、地球は広いなあと満身で感じた一週間でした。
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小林レポート

半世紀前の記録から:チューリッヒ1/小林 凱

  二年ほど前にアフリカを旅した記録を、今回と同様な趣旨でレポートにして投稿したことがあります。
  この時は僅かな記録の行間を薄れた記憶を絞り出して埋める作業にエネルギーを消耗したと思いましたが、今年(2021)に入って東日本大震災に関連したブログを書いたら案外記憶が残って居ました。そこで余り固い事を考えずに、更に前の話になりますがどこまで書けるか試そうと思いました。

  題材については矢張り外地での話が楽しく、出来れば皆さんにも繋がりの有る所がそれぞれの記憶を辿って頂けるかと思います。そこで半世紀前を思い出して見たのですが、その頃良く行って居た所に西独のデユッセルドルフ(Dusseldorf)とスイスのチューリッヒ(Zurich)がありました。デユッセルドルフは最も多く行った所ですが、これは当時の東西に分割されたドイツの西側のビジネス拠点が集結していた事情から、出張時の行き先となって居たものですが、今はすっかり変わって居る事でしょう。一方二番目のチューリッヒは、このブログでも多くの級友が、目的地だけでなく経由地としても訪れている事が判りました。斎藤さんの路面電車のお話でもチューリッヒが登場していたのではと思います。そこで今回は此処をを訪れた思い出を書いて見ることにしました。

  半世紀前のチューリッヒの町を紹介します(今も基本的なところは余り変わって居ないだろうと勝手に想像しています)。全景の写真ですが、これはホテルで貰った絵葉書です(Fig.1)。当時のチューリッヒのホテルでは泊り客にポケットサイズの案内に部屋番号を記載して渡していました。Fig1.JPG
Fig.1
  そこには市内地図に宿の位置と、主要機関の連絡先や店の広告が記載され、これらの部分は各ホテルに共通でした。それと絵葉書がフロントにありました。宿泊客には家族や友人にこの町からの便りを出しなさいという事でしょう。
  1967年3月、初めてこの街を訪れた時の印象が鮮やかです。空港からのリムジンバスで中央駅(HauptBahnHof-HBF)に着くと、其処からほぼ真っすぐにチューリッヒ湖に向けて伸びる駅前大通り(Bahnhof Strasse)が素晴らしいと思いました。当時の街並みを地図と大通りの写真でご覧に入れます。(Fig.2,3)
  諸兄も滞在されたホテルの位置などチェックされると良いかと思います。実を申せば私は此処に出て来る範囲しかこの町を知りません。
Fig2.JPG
Fig.2
Fig3.JPG
Fig.3
  私が此処を訪れたのは1967年から69年の間で、残念ながら全て仕事での話です。多くの場合日本からは一人で出て、現地で欧州に駐在している方と合流して仕事をして、済むと現地の方はデユッセルドルフなどの根城へ帰るのを、HBFからの空港リムジンを見送って宿に行きました。
  当時の記録ですが67年3月中旬に行き、4月上旬にロンドン経由ニューヨークに向かっています。この時の宿が地図で国立劇場(Stadtteater)の近くにあるHotel Plaza(Map No.46-Goethe Str.)です。
  この辺は静かな区域で、劇場に行く人たちの宿と書いてありましたが、私はそうした華やかな人たちは見ていません。恐らく出歩く時間帯の違いでしょう。一人で居る時に昼間は良くバーンホフシュトラッセへ行きました。この通りには金融機関だけでなく市民が楽しむ色んなお店もありました。(Fig.4)Fig4.JPG
Fig.4
  なおこの時の週末に良い具合に都合がついてユングフラウに登ったので、その時の様子をこのブログに投稿しています。

  次は1968年3月、先ずジュネーブへ入り、あと鉄道でローザンヌ、ビエール(Biel)を経て夕刻チューリッヒに着きました。この時の宿はCity Hotel(Map No.15-Lowen Str.)、地図では駅の右下にあり駅から割合近い処です。
  その次は1969年1月でこの時の宿はButterfly Hotel,( Map.No.12- Kreuz Str.)、地図では67年の宿の少し右です。
同じく69年の4月にも行って居ますが、この時は朝早くチューリッヒに着いて鉄道でアーラウ(Aarau)という町に行き、夕刻チューリッヒに帰ってきてその日の夜の便でデユッセルドルフへ向かいました。。駅から直ぐリムジンで空港へ向かいましたから滞在と言える時間はありません。(Fig.5)Fig5.JPG
Fig.5

  この町はドイツ語圏でしたが、ほとんどの場所で英語が通じたので不便はありませんでした。なおこのブログではドイツ語のウムラート(Umlaut)マークは省いて居る点ご容赦下さい。
  通貨はスイスフラン(SFr.)で、当時の仏フランが70円位でスイスの方が強含みだった様に思うのですが、記録していません。
  食事についての記憶が少ないのは、余り良いものを食べていなかった所為でしょう。一つ覚えているのは干し肉の料理で、塩味の干し肉を薄くスライスして綺麗にカールしたものをお皿に並べて出され、各自が取ってバターを塗って食べるもので、Bundnelfreischと言った様に思いますが淡い記憶のみです。これはビールとの相性が良かったが、数人で行かないと注文しにくい料理でした。バーンホフシュトラッセで駅から湖の方を向いて右側にLowen Brau(ライオンビール)のサインの出ている店があってこの料理が出されていました。なおこのビールはピルゼン風の美味しい味でした。

  原稿を書いた後からですが、今回は何か古いガイドブックを拡げた様な話になって済みません。次回はもう少し角度を変えた話も入れてレポートしたいと思います。
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季節の花便り

6月の花便り/高橋 郁雄

  今回も近場からの取材のみとなりました。サフィニアが初登場で、桔梗(キキョウ)と姫女菀(ヒメジョオン)は再登場です。
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サフィニアキキョウ(桔梗)ヒメジョオン(姫女菀)
サフィニア:川崎市宮前区の花屋さんの店先で、6月3日に撮影しました。ナス科ツクバネアサガオ属。原産地:日本。開花期(4~10月)。花の色は多種(紫・黄・白・ピンク・赤)ある。
  1989年に開発された比較的歴史の浅いペチュニアの園芸品種。(サントリー)と(京成バラ園芸)が共同で開発した品種で、サントリーの駐在員がブラジルを原産とするペチュニアを数系統持ち帰ったことが品種改良の始まりだったとか。
  名前の由来:枝が波打つように広がる様子から、「Surfing(サーフィン)」と「Petunia(ペチュニア)」を合わせて「サフィニア」と名付けられました。花言葉=「咲きたての笑顔」。
キキョウ(桔梗):我が家の近所で、6月14日に撮影しました。英名(Balloon Flower):写真の右上に開花する前の蕾が見えますが、膨らんだ風船のように見えることから、この英名が付けられました。
  花言葉=「清楚・気品」。
ヒメジョオン(姫女菀):我が家の近所で、6月24日に撮影しました。この花に似た花に「ハルジオン」がありますが、よく似た花なので見分けが付きにくいのです。以前にも書きましたが、ハルジオンは「4~6月」、ヒメジョオンは「5~8月」に咲く。ハルジオンは茎の中が空洞、ヒメジョオンは茎の中が詰まっている。ハルジオンは葉が茎を抱くように付く。ヒメジョオンの葉は茎を抱くようには付かない。そこで、今回は写真で葉の付き方が判るように撮影してみました。判りますか?。
  花言葉=「素朴で清楚」。
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武田レポート

リトアニア史余談113:ホロドウォ会談と飢餓戦争/武田 充司

 ジェマイチヤの範囲を画定する問題がこじれて、ドイツ騎士団に先制攻撃を許したリトアニア大公ヴィタウタスとポーランド゙王ヨガイラは(*1)、その年(1413年)の10月、ポーランド南部のホロドウォで会談した。
 この会談で取り決められたことは、その後のリトアニアの運命を決めた歴史的な転機となったが(*2)、そのときに、ヴィタウタスとヨガイラは、油断のならないドイツ騎士団に対して協力して戦うことを再確認していた。

 一方、クーデターによって武闘派の前総長ハインリヒ・フォン・プラウエンを追放して騎士団総長になったミハエル・キュヒマイスターは(*3)、当面の間は隣国との平和共存が得策と考えたのか、前年のハインリヒ・フォン・プラウエンによる一方的な先制攻撃のときとは打って変わって、ポーランドに対して和平交渉を提案した。
   しかし、敵の弱みを熟知したポーランド王ヨガイラは、この虫の良い提案を一蹴し、今度は、ポーランドとリトアニアが共謀してドイツ騎士団領のエルムラント地方(*4)に攻め込んだ。エルムラントの要衝オステローデ(*5)を襲撃したリトアニア・ポーランド連合軍は、そこからドイツ騎士団の首都マリエンブルク(*6)に進撃するかと思いきや、エルムラントにとどまって各地で略奪をくり返し、収穫前の作物を焼き払った。これに対して、敵と正面から戦っても勝ち目がないと考えたドイツ騎士団は、騎士団領中央部のクルム地方(*7)を死守することに徹し、籠城戦術をとって耐えることにしたのだが、その前に焦土作戦を展開し、城周辺の家屋も食料も家畜も、何もかも焼き払って、包囲する敵軍がその地で野営しても何も利用できないようにした。こうしておけば、敵軍も包囲を長くは続けられないだろうという計算だった。

   ミハエル・キュヒマイスターのこの作戦が図に当たったのか、リトアニア・ポーランド連合軍は決定的な勝利をおさめることができず、籠城する騎士団軍と睨み合っている間に、教皇特使が調停にやって来た(*8)。そして、この年の10月、シュトラスブルク(*9)において2年間の休戦協定が合意され、この戦いはあっという間に終わってしまった。

   結局、戦いは僅か数か月で終り、両軍が雌雄を決するような大会戦もなかったのだが、ドイツ騎士団がとった焦土戦術と、リトアニア・ポーランド連合軍によって焼き払われたエルムラント地方の荒廃が重なって、プロシャのドイツ騎士団領は、その後、深刻な食料不足に見舞われ、飢餓によって多くの人命が失われた。それ故、1414年夏から秋にかけて戦われたこの短い戦争を「飢餓戦争」と呼んでいる。

〔蛇足〕
(*1)「余談112:ジェマイチヤとはどこまでか」参照。
(*2)この会談で取り決められたことの要点は2つで、ひとつは、リトアニアはポーランドと一体化するが、リトアニアの独立性はヴィタウタス没後も維持されるという点で、それ以前に合意された「ヴィルニュス・ラドム協定」における「独立したリトアニアの統治はヴィタウタスの存命中に限る」としていたことと異なっていた。具体的には、リトアニアもポーランドの貴族議会セイム(Sejm)に倣って、貴族の議会セイマス(Seimas)を置き、両国の君主はそれぞれの議会が選出し、互いに相手国の議会の了承を得ること、と決められた。もうひとつの重要な合意は、リトアニアにポーランドの行政システムを導入するという取り決めで、これによって、以後、リトアニアにもポーランドのシュラフタ(Szlachta:法的に定義された貴族身分)が導入され、ポーランドのシュラフタが使っていた特別の紋章レリヴァ(Leliwa:the coat of arms)の使用も認められた。また、地方行政区のヴォイェヴツトフォ(Województwo:県)がリトアニアにも導入された。これによってリトアニアのポーランド化は具体的な形をとって急速に促進された。会談の場所ホロドウォ(Horodło)は、現在のポーランドとウクライナの国境を流れるブーク河畔の町で、リヴィフ(L’viv)の北方約115kmに位置している。なお、この「ホロドウォの協定」に関連して、「余談91:ヴィタウタス大公時代のはじまり」および「余談95:ヴィルニュス・ラドム協定」も参照されたい。
(*3)「余談112:ジェマイチヤとはどこまでか」参照。
(*4)エルムラント(Ermland)は現在のポーランド北部のヴァルミア(Warmia)地方の当時のドイツ語名で、この地方の中心都市はオルシュティン(Olsztyn)やオストルダ(Ostróda)である。
(*5)オステローデ(Osterode)は現在のオルシュティンの当時のドイツ語名である。
(*6)マリエンブルク(Marienburg)は現在のポーランド北部の都市マルボルク(Malbork)の当時のドイツ語名である。「余談109:マリエンブルクの攻防」参照。
(*7)クルム(Culm)は、現在のポーランド中央北西部のヴィスワ河畔の都市ヘウムノ(Chełmno)の当時のドイツ語名で、トルンの北々西約40kmにあり、この地域はドイツ騎士団がポーランドに入植した当初からの騎士団領で、彼らにとっては最も重要な中核地域であった。「余談58:ポーランドに招かれたドイツ騎士団」参照。
(*8)このときは教会大分裂の時代で、教皇は3人いた。即ち、ローマのグレゴリウス12世(在位1406年~1415年)とアヴィニョンの対立教皇ベネディクトゥス13世(在位1394年~1417年)、そして、この対立する2人の教皇を退位させるために、ピサ公会議で1409年に正当な教皇としてアレクサンデル5世が選出されたが、この人がその直後に急死したため、アレクサンデル5世の後継者として1410年にヨハネス23世(在位1410年~1415年)が選出されていた。その結果、この当時、これら3人の教皇が鼎立していた。ここでいう教皇特使は、神聖ローマ皇帝であるハンガリー王ジギスムントが認めていた第3の教皇ヨハネス23世が差し向けた特使であった。
(*9)シュトラスブルク(Strassburg)は現在のポーランド中央北部の都市ブロドニツァ(Brodnica)の当時のドイツ語名で、ヘウムノの東方約65kmに位置している。
(2021年6月 記)
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斎藤さんのお話

COVID-19考/齋藤 嘉博

  コロナが止まりません。天城峠を散歩したのは一昨年。昨年は四ヶ所の散歩を計画していました。
  その一は谷川岳。天神平までリフトで上がり、保登野沢コースを谷川温泉へ下ろうと言う魂胆。次は妙高高原。小学校の折、クラスは夏休みにこの高原で合宿をしたのですが、病弱の私は欠席。その想いが残って赤倉高原と苗名の滝を訪ねたい。さらに八丈島と知床半島。どちらも素敵な海の景観。しかしコロナでまだいずれも果たされていません。京都にも行きたいし、日々計画を練り直しながら一体いつになったら旅に出られるんだアとぼやいています。

  小生の前回(‘20.8.01)のコロナ考について、小林兄は海外のコロナ事情を紹介していただきながら日本の報道が過小評価になっていることを懸念され、“この恐れが杞憂に終わればよいが”とコメントしてくださいました。お説の通りに杞憂ではなく現実となりました。その後年末からの感染拡大は諸兄ご承知の通り。

  今日からやっとワクチンの接種がはじまってすこし終焉への明かりが見えてきたように思いますが、そのなかでのオリンピック!!健康と命が大切と準備され、アスリートたちの気持ちもわかりますのでお祭りはしてみたいところ。特にパラはあの身体でよくと尊敬の気持ちを禁じえません。命と健康を守るために準備は万全と言います。万全は結構ですが原発の事故も津波には万全のはずでした。水際対策も果たして。日産のゴーンさんが何の苦も無く抜け出る検疫です。ウィールスがすり抜けるなんていとも簡単。イギリス株、インド株、ブラジル株などのオリンピックなんていうことにならなければいいがと。これも杞憂に終わればいいのですが。

  コロナの蔓延で見えたことはこの社会が「遊び」で満たされていることへの驚きです。経済的に損失を被ったのはディズニーランドも旅行業者も、飲み屋もすべて遊びの話。旅の世界と食の世界なのです。経済の回復はK字形だそうで自動車、電機、製造業はあまり被害を受けずに上昇気流、しかし旅とレジャーの世界は急降下。

  この“遊び”について前回のコロナ稿にミミクリ、イリンクスなど異様な言葉でご紹介したロジェ・カイヨワの本、遊びと人間(Les Jeux et les Hommes)を読み直してみると今の社会を見通したかのようななかなか味のある言葉が並んでいるのです。

 ・遊びは何も生産しない。

 ・遊びとは容易に構成しがたい諸力をうまく組み合わせる術である。

 ・遊びは特定の職業の訓練をするのではなく障害を克服し困難に立ち向かう能力を高めることによって人生全体への案内役をはたしているのだ

 ・遊びが満ち足りた想いになるのは周囲の人たちを巻き込む反響をうんだ時だけである。

 ・競馬場やカジノが人であふれているように、人波でおしあいへしあいするのが楽しみなのだ。

  そういえば昨今のライブステージはみんなグループでおどっていますネ。ウィールスも“密”がお好き。そして歯車の遊びに言及して

 ・ある機械装置をうまく機能させるのはさまざまの部品の間に存在するこの遊びなのだ、

  近頃のテレ社会ではあまり見なくなった歯車ですが、古い技術者の私たちにとってはよく理解できる言葉です。この本が書かれたのは1958年(初版)。日本ではまだ遊びとは遠い日々が続いていた頃でした。皆がはやく再び遊びに浸ることのできる日々になってほしいものです。

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季節の花便り

5月の花便り/高橋 郁雄

  今回も近場からの取材です。ペラルゴニウムのみ初登場で、「銭葵(ゼニアオイ)」と「メキシコ万年草」は再登場です。
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ペラルゴニウムゼニアオイ(銭葵)メキシコ万年草
ペラルゴニウム:近所の方から頂いた切り花を花瓶に挿して、5月2日に撮影しました。春から初夏にかけて咲く一季咲の多年草です。和名「夏咲天竺葵(なつざきてんじくあおい)」。上2枚あるいは5枚すべての花弁の中心に黒や赤色のブロッチ(斑紋)やストライプの模様(条斑)が入るのが特徴の花です。「ぺラルゴニウム」でWEB検索すると多種の花が出てくるのでビックリします。
  花言葉=「愛情・尊敬・決心・切ない望み・君ありて幸福・篤い信仰・あでやかな装い・真の友情・育ちの良さ・愚かさ・上流気取り」。
ゼニアオイ(銭葵):我が家の近所で、5月9日に撮影しました。原産国:南ヨーロッパ。別名:モルチアナ、コモンマロウ、ツリーマロウ。名前の由来:丸みのある花や葉の形が銭のようだから「ゼニアオイ」となったという説、中国の古代のお金「五銖銭(ごしゅせん)」の大きさとゼニアオイの花の大きさが同じぐらいだから「ゼニアオイ」となったという説、などがあります。
  花言葉=「説得・信念・母の愛・初恋・恩恵・温和・古風な美人」。
メキシコ万年草:我が家の近所で、5月14日に撮影しました。
 花の特徴:花径12ミリくらいの小さな黄色の花がギッシリ咲く。花弁は5枚で平開する。雄しべは10本である。
 葉の特徴:円柱状の細い葉が密につき、こんもりとした姿になる。
 花言葉=「記憶・私を想って」。
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武田レポート

リトアニア史余談112:ジェマイチヤとはどこまでか/武田 充司

 領土の境界を画定するということは何時の時代でも厄介な問題だ。「トルンの講和」によってジェマイチヤを手放すことになったドイツ騎士団は、それでもしぶとく土俵際に残って、ポーランド王ヨガイラとリトアニア大公ヴィタウタスが存命の間だけリトアニア領として認めるという奇手を繰り出して問題を先送りした(*1)。
   
   しかし、そのあと、ジェマイチヤとはどこまでを指すのかが問題となった。リトアニア大公ヴィタウタスは、ニェムナス川右岸(北側)はジェマイチヤだから、バルト海岸にあるドイツ騎士団のメーメルの城は当然ジェマイチヤの施設としてリトアニアが接収するのだと主張した。これは誰がみても自然な認識だが、ドイツ騎士団としては、戦略的要衝であるメーメルを手放すことなど考えられなかったから、これには猛反発した(*2)。

   神聖ローマ皇帝となったルクセンブルク家のハンガリー王ジギスムントは、ドイツ騎士団総長ハインリヒ・フォン・プラウエンの相談をうけて、早速、調停に乗り出した。1412年秋、皇帝ジギスムントが任命した調停役のベネディクト・マクライがリトアニアにやって来た(*3)。彼は先ずドイツ騎士団とリトアニアの双方から言い分をきいたが、はじめから両当事者は激しく言い争って全く話にならなかったので、直ぐに結論を出さず、翌年まで問題解決を先送りした(*4)。
   翌年の5月、ベネディクト・マクライが出した結論は「ニェムナス川右岸(北側)の地域とメーメルを含むバルト海沿岸地帯とは切り離せないひとつの地域であって、これ全体がジェマイチヤである」というものだったから、色よい調停を期待していたドイツ騎士団は驚き、激怒した。ベネディクト・マクライの調停は完全な失敗であった。

   ドイツ騎士団は直ちに反リトアニア・反ポーランドの宣伝活動をヨーロッパ各地で再開した。そして、秋になると、東ポモージェ(*5)のポーランドとの国境付近に6千の兵力を動員すると同時に、ドブジン地方(*6)からマゾフシェの国境地帯にも1万5千の兵力を展開してポーランド北部に侵攻した。
   ところが、この軍団の指揮を任されていたケーニヒスベルクの管区長ミハエル・キュヒマイスターは僅か16日間の戦闘ののち撤退してしまった。東ポモージェの軍団も攻撃命令に従わない騎士たちが続出して、殆ど戦闘は行われずに終わってしまった。

   その直後にミハエル・キュヒマイスターは騎士団総長ハインリヒ・フォン・プラウエンを襲って辞任させ、10月14日に参事会を開いて臨時の総長代行としてヘルマン・フォン・ガンスを指名した。これはまさにクーデターであった(*7)。そして、翌年(1414年)の1月、ドイツ騎士団総会が開かれ、ミハエル・キュヒマイスターが騎士団総長に選出された。

〔蛇足〕
(*1)「余談111:トルンの講和」参照。
(*2)メーメル(Memel)は現在のリトアニアの北西部バルト海に面する港湾都市クライペダ(Klaipėda)だが、この都市の位置はニェムナス川の河口の右岸(北東側)であるから、当然、このときの定義によってジェマイチヤに含まれる。ニェムナス川は一旦内海のクルシュウ・マリオス(Kuršių marios)に注ぎ、この内海がバルト海とつながるクライペダの位置でバルト海に注ぐ。メーメルはこの河口の右岸にある。メーメルはドイツ騎士団の2つの領土(プロシャとリヴォニア)を結ぶ要衝であるから、当時のドイツ騎士団にとって手放せない重要拠点であった。なお、近現代におけるクライペダの重要性を理解するために、「余談34:クライペダ問題」および「余談35:武力によるクライペダ地域の併合」も合わせて参照されたい。また、第2次世界大戦前夜の1939年3月、ドイツのリベントロップ外相がリトアニアに対してクライペダ返還要求の最後通牒を発したこと、そして、その年の5月、返還されたメーメルの国民劇場のバルコニーでヒトラーが演説したことなどを想起されたい。
(*3)ベネディクト・マクライは、先ず、ドイツ騎士団の首都マリエンブルクに立ち寄ったが、彼を迎えたドイツ騎士団の態度は冷たかったという。そのあと、リトアニアのトラカイに来たが、ヴィタウタスは豪華な饗宴を催して彼を大歓迎し、黄金の拍車と礼帯など高価な贈り物もした。調停役のベネディクト・マクライに対する両国のこうした接し方の違いには注目すべきものがあったようだ。なお、ベネディクト・マクライはハンガリーの貴族で、ハンガリーでは日本と同様「姓・名」の順に氏名を書くのでMakrai Benedekがハンガリー人としての氏名だが(Makraiが苗字)、Benedict Makraiで通っている。彼はヨーロッパのあちこちの大学で学んだ知識人で、ハンガリー王ラヨシュ1世没後の王位争いでは、アンジュー・シチリア家のナポリ王カルロ3世を支持し、ルクセンブルク家のジギスムントに反対したため、一時、投獄された。しかし、出獄後ジギスムント王の信頼を得て外交問題で活躍した。
(*4)調停はリトアニアのカウナスで行われたが、ドイツ騎士団は、ミンダウガス王の時代にジェマイチヤがドイツ騎士団(正確にはドイツ騎士団の支部的存在であった当時のリヴォニア騎士団)に譲渡されたという歴史まで持ち出したが(「余談17:ミンダウガスの戴冠」参照)、リトアニアとポーランドの代表は、そのような古い資料は法的効力のないものだと主張して激しく反論した。しかし、ドイツ騎士団の代表は、ジェマイチヤはその後も度々ドイツ騎士団に譲渡されたという証拠があるとして、1404年の「ラツィオンシュの講和」(「余談98:ラツィオンシュの講和」参照)などを持ち出してリトアニア側の主張に反論した。ところが、ヨガイラの幼い娘ヤドヴィガ(1408年生れ)の代理人と、ヴィタウタスの娘ソフィア(モスクワ大公ヴァシーリイ1世の后)の代理人が、彼女らもジェマイチヤの相続人であり、彼女らの承諾なしにジェマイチヤがドイツ騎士団に譲渡されたのは全く違法で、この譲渡は無効であると申し立てた。さらに、14人のジェマイチヤの貴族たちも、「ジェマイチヤに住む我々は、ヴィタウタスを君主と認めているが、ヴィタウタスに対してジェマイチヤの土地を勝手に処分する権利は認めていない」と主張するなど、本題のジマイチヤの境界画定などそっちのけの議論で混乱した。
(*5)「余談98:ラツィオンシュの講和」の蛇足(8)参照。
(*6)「余談58:ポーランドに招かれたドイツ騎士団」および「余談98:ラツィオンシュの講和」の蛇足(7)参照。
(*7)1410年の「ジャルギリスの戦い」の大敗北以来、荒廃した領土と疲弊したドイツ騎士団の立て直しのために、騎士団内部では近隣諸国との平和維持を望む勢力が台頭していたから、彼らが強引な武闘派の暴走に反発したのだ。また、プロシャ領内のハンザ商人などの裕福層が復興のための重税に不満をもっていたことも背景として見逃せない。
(2021年5月 記)
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斎藤さんのお話

高尾山/齋藤 嘉博

  眼に眩しい新緑、爽やかな風、青い空。日本では最高の季節の今、コロナが止まりません。敵は技術革新を進めてつぎつぎと新しい武器を作って変身している様子。一方防戦の側はワクチンもままならないなかで不要不急は避けて、どこにも出ないで家にいて、お酒はやめての灯火管制。と言っても働き盛りの方達が家に籠るのは無理というものでしょう。すべて一年前のgo to政策のむくいです。しかし老い先短い身体、ぼんやりと過ごしてばかりはいられません。コロナを避けて不急不要の散策を考えるのもボケ防止への一計。
  なるべく電車の混雑を避け、時刻を選んでとの思案。昨年から高尾山のハイキングに興味を持っています。高尾山は国定公園、山頂から何本ものしっかりしたハイキングコースが用意されていて年寄りでも歩くことのできるのが嬉しい。歩かれた諸兄も多いと思います。

  我が家からは京王電車を使って1時間余で高尾山口に。通勤時間帯、逆コースの電車は空いています。標高200mの清滝駅からケーブルカーで470mの山上駅まで上がって猿山の公園を左に見ながら舗装された薬王院への参道を。浄心門をくぐるとその先に男坂と女坂への分岐。男坂は108段の石段でこれはきつい。右にぐるっとまわるのが女坂。これもかなり急な坂道ですが休み休みあがれば同じところに出ます。

  薬王院の下にある小さな広場では二体の天狗様の像がお出迎へ。お参りをしてここから山頂まであと20分。標高599.3m、の山頂には下から歩いて登ってきた何人かの若い方達が。西に富士山を望むことが出来ます。
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  山頂からは1号路から6号路、それに稲荷山コース、いろはの森コースと8本のハイキングコースが用意されています。これを歩いてケーブルの下駅まで降りるのに若者の脚でいずれもほぼ100分。わたしの脚で二時間弱。コースは急な下り道、木桟道など整備はされていますので安心して歩くことが出来ます。

  昨年はまずいろはの森コースを。この道だけは山の北側に下りる筋で、山頂に近い降り口から木の階段がしばらく続く非常にきつい急坂。それ以降も杖が必要な急な坂道が続きます。日影キャンプ場を過ぎればもう坂道も終り。JRの高尾駅と相模湖駅を小仏峠を越えて結ぶ旧甲州街道の日影バス停に出ることが出来ます。

  1号路、薬王院への表参道は都道。舗装されていて車が通ることができますが、かなり急な坂道で、下りはかえって歩きにくい。景色もあまりないし、つまらん道です。しかし途中、ちょっと本道からそれたところに金比羅神社のお社があって、八王子方面の展望台になっています。ここでランチをという次第。

  3号路はカツラ林コースで山頂から表参道途中の浄心門まで。下には降りません。それだけに急な坂道は山頂に近いごく短い区間だけであとは軽いアップダウン。林の中の歩きやすい散策道。この道を歩いたとき、後から来た老ご婦人が話しかけてきました。「おいくつですか?私お会いした方々のお年を伺うのが楽しみなんです」と。お元気そうな方で私は八十七才なんですがと言われる。「さてずいぶん長く生きているのでもう齢は忘れましたが昭和三年生まれなんです」と返事をしましたら、「あら!もう90歳以上!お声をかけた方で90歳以上の方は初めてです」って。すぐ計算ができるなんて、このご婦人はずいぶん達者です。しばらくお話をしたあと軽い足取りで先に歩いて行かれました。いつまでもお元気に歩かれますように。

  6号路のびわ滝コースはむかし子供と一緒に何回か歩いた記憶がありますが、今年はじめは道の補修中で歩くことが出来ませんでした。たくさんあるコースのなかでは一番人気のあるコースで、修復も終ったようですので近いうちに歩いてみようと思っています。その道にほぼ平行して尾根を歩くのが稲荷山コース。それほどきつくはない下り道に折々軽い上がりがあって快適なハイキングコースです。途中稲荷山の展望台では南に開けた展望を楽しむことが出来ます。

  4号路は山頂付近から一旦北側の谷に降りて吊り橋を渡り、ここから山道を上がってケーブルの山頂駅付近に出る道ですが、その上りを嫌ってまだ歩いていません。しかし距離は短いのでゆっくりと時間を採って歩けばいけるだろうと、吊り橋の感触をこれからの楽しみにとってあります。

  帰りは再び高尾山口から京王電車で。2時ごろの電車はガラガラですのでコロナの心配もなく気分よく一日を終えることが出きるという次第。行きたいところ、歩きたいところは沢山あるのですが、とにかく早くコロナが終息してくれないと動きが取れませんネエ。諸兄お元気にお過ごしくださいますように。

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季節の花便り

4月の花便り/高橋 郁雄

  今月も自宅周辺からの便りです。新しい花はありません。白山吹は3度目、スノーフレークは2度目。小手鞠(こでまり)は2度目です。

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白山吹スノーフレーク小手鞠
白山吹(しろやまぶき):2013年(4/15撮影)と2020年(4/22撮影)に、登場していますが、今回の撮影日は(4/8)です。撮影場所は自宅の直ぐそばです。今年は暑くなるのが早かったですね。何だか地球の温暖化が進んでいるのかななどと考えています。
  花言葉=「細心の注意・気品・薄情」。5月20日の誕生花。
スノーフレーク:自宅の直ぐそばで、4月7日に撮影しました。似ている花に(スノードロップ)がありますが、見分け方はスノーフレークには花弁の先に緑色の斑点があるので見分けができます。別名=「スズランズイセン」。
  学名「Leucojum」はギリシャ語で「白いスミレ」を意味し、スミレのような芳香を放つことに因みます。
  花言葉=「希望・慰め」。
小手鞠(こでまり):我が団地は55号棟まであるのですが、1号棟近くで4月13日に撮影しました。原産国=中国。別名:鈴掛(スズカケ)、団子花(ダンゴバナ)。
  花言葉=「優雅・上品・友情」。4月24日の誕生花。