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武田レポート

リトアニア史余談105:両軍の探り合いと駆け引き/武田 充司

 1410年7月初旬、ドルヴェンツァ河畔のクルツェントニク(*1)を目指して北上するリトアニア・ポーランド連合軍の足取りは重かった。彼らは敵の罠にはまることを恐れて進路を慎重に探りながら進んだ。これに対してドイツ騎士団の動きは速かった。
   7月9日、リトアニア・ポーランド連合軍はドイツ騎士団のフリードリヒ・フォン・ヴァレンローデ将軍麾下の部隊が守るリズバルクの城を破壊すると、翌7月10日、ようやくクルツェントニク近郊に達した(*2)。ところが、そのとき既にドイツ騎士団は北上して来るリトアニア・ポーランド連合軍を阻む最後の天然の防衛線であるドルヴェンツァ川の水中に多数の杭を打ち、河岸には火砲を並べて待ち構えていた(*3)。野営地から送り出した偵察隊の報告をうけたヴィタウタスとヨガイラは重臣会議を開き、ここでドルヴェンツァ川を渡ることを諦め、上流に迂回して渡河地点を探すことにした(*4)。

 7月11日、クルツェントニク近くの野営地を離れたリトアニア・ポーランド連合軍はドルヴェンツァ川から離れて東に向かって森の中を進んだが、途中で進路を南東に変えてジャウドヴォ(*5)の近くまで来たところで野営した。このあたりは既にドルヴェンツァ川から東に50kmも離れていたが、まだドイツ騎士団領内で、ジャウドヴォの城にはフリードリヒ・フォン・ヴァレンローデ将軍麾下の部隊が配備されていた。リトアニア・ポーランド連合軍は彼らと戦うことを避け、翌7月12日、野営地を発った(*6)。
   この日、リトアニア・ポーランド連合軍は一転して進路を北にとり、ドルヴェンツァ川に並行して上流に向かって進んだ。しかし、彼らの進路はドルヴェンツァ川からは東に30km以上も離れていた。7月13日、ドイツ騎士団の城のあるドンブルヴノ近くに達したリトアニア・ポーランド連合軍は、そこで野営したが、その夜、リトアニアの兵士たちが密かに野営地を抜け出してドンブルヴノの街を襲って荒らしまわった(*7)。

一方、ドイツ騎士団は偵察部隊を繰り出してリトアニア・ポーランド連合軍の足取りを逐一把握していた。騎士団総長ウルリヒ・フォン・ユンギンゲンは、敵の動きを追うように、全軍を率いてクルツェントニクを離れるとドルヴェンツァ川沿いに15kmほど北上し、そこでドルヴェンツァ川を渡った。そして、ルバヴァ(*8)を経て東に移動し、ドンブルヴノの北東約8kmの地点まできたところで敵を迎え撃つのに適した地形を探して布陣した(*9)。

 7月14日、昨夜ドンブルヴノが襲われて多数の市民が犠牲になったという報せが騎士団総長のもとに届いたが、彼はこの報せに激怒しながらも、シフィエチェに残してきた3千の守備隊を首都マリエンブルクの防衛強化に向かわせる指令を出すとそのまま情勢を静観した。この日は雨で、強風が吹き荒れていた。両軍はじっと睨み合ったまま日が暮れた。

〔蛇足〕
(*1)クルツェントニク(Kurzętnik)については「余談104:ヴィタウタスとヨガイラの陽動作戦」の蛇足(10)参照。ドルヴェンツァ(Drwęca)川は、クラクフの北方約400kmに位置するポーランド北部の都市オストルダ(Ostróda:〔独〕Osterode)辺りに発し、南西に向って流れてドイツ騎士団の重要都市トルン(Toruń)の東郊外でヴィスワ川に合流している。この川の右岸(北西側)がドイツ騎士団領の心臓部で、首都(本部)マリエンブルク(Marienburg:現在のマルボルク〔Malbork〕)はこの川の上流の北西約65kmに位置し、その辺りがこの川とマリエンブルクとの距離が最短になっている。この川の下流部約70kmはポーランドとの国境になっていたが、それより上流は左岸(南東側)もドイツ騎士団領であった。クルツェントニクはオストルダ(前出)の南西約45kmに位置し、この川の中流部左岸(東側)にあった。河岸の小高い丘の上にはドイツ騎士団の城があった。また、クルツェントニクの南東約23kmにあるリズバルク(Lidzbark:〔独〕Lautenburg)と、東南東約45kmにあるジャウドヴォ(Działdowo:〔独〕Soldau)には、それぞれ、国境を守るドイツ騎士団の城があった。
(*2)「余談104:ヴィタウタスとヨガイラの陽動作戦」で述べたように、ナレフ川沿いにリトアニア軍が現れたという報せをうけたとき、ドイツ騎士団総長ウルリヒ・フォン・ユンギンゲンはシフィエチェから機動部隊を発進させているが、この機動部隊の指揮官がフリードリヒ・フォン・ヴァレンローデ将軍で、彼はジャウドヴォとリズバルクに部隊を駐留させて警戒していた。したがって、リトアニア・ポーランド連合軍は彼らが守るリズバルクを攻撃し、進路を確保してクルツェントニクに向った。こうしたことがリトアニア・ポーランンド連合軍の足取りを重くしていた。
(*3)ここに配備された守備隊は早くから敵の北上に備えて防禦柵の設置などをしていたものと思われる。
(*4)彼らはドイツ騎士団のクルツェントニクの城から少し離れたところに野営して敵情偵察を試みたのだが、城の守備隊のほかに、川の対岸には既にドイツ騎士団の大軍が到着していることを知ったため、ここで敵前渡河を強行することは危険と判断したのだ。しかし、偵察部隊は密かに渡河して敵の本陣も偵察し、帰路、茂みの中に隠してあった敵の馬を50頭ほど盗んで戻ってきたという。なお、このとき、ヨガイラはハンガリー王の使者を介してドイツ騎士団と何らかの交渉を行ったと言われている。
(*5)ジャウドヴォ(Działdowo)の位置は蛇足(1)で説明したが、リトアニア・ポーランド連合軍がこのようにドルヴェンツァ川から遠く東に離れた地域を彷徨っていたのは追尾してくる敵を惑わせるためであったのだろう。
(*6)このときも、野営地を発つ日にヨガイラはハンガリーの使者と会っているのだが、クルツェントニク近くで野営した時と同様に、この使者が執拗にドイツ騎士団との戦争回避を迫ったのではなかろうか。ハンガリー王ジギスムントはニコポリス十字軍の失敗などからオスマン勢力の進出を恐れ、キリスト教陣営の結束を乱す身内の争いを止めさせたかったのだろう。
(*7)ドンブルヴノ(Dąbrówno)はオストルダ(前出)の南々東約40kmに位置する双子の湖の間にある町だが、そこにはドイツ騎士団の城ギルゲンブルク(Gilgenburg)があった。このときまで敵を避けながらひたすら移動するだけで一向に戦いが始まらないことに苛立っていた兵士が、こうした行動に出たのであろう。
(*8)ルバヴァ(Lubawa:〔独〕Löbau)はオストルダ(前出)の南西約27kmに位置し、ドルヴェンツァ川からは東に7~8km離れている。
(*9)結局、ドイツ騎士団はリトアニア・ポーランド連合軍の行動を読んで先回りをして、敵がマリエンブルクを目指してドルヴェンツァ川の上流を渡る前に、敵の行く手を阻むような地点に布陣して待ち構えたのだ。
(2020年10月 記)
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お知らせ

銀杏電友会 令和2年度懇親会中止のお知らせ および 新たに東海地区に赴任された同窓の方へのお願い

東京大学電気系同窓会の皆様


 拝啓,清秋の候,東京大学電気系同窓会の皆様にはますますご健勝のこととお慶び申し上げます。

 本年度はコロナ禍のため,銀杏電友会(東海地区東大電気電子同窓会)懇親会の開催が可能かどうか状況を見ておりました。
 しかし,高齢者を含む20名規模の食事会を安心して開催できる状況にはまだなっていないように思えます。
 そこで幹事団で相談し,本年度の懇親会は,中止した方がよいという結論になりました。
 誠に残念ながら,皆様にお知らせ申し上げます。

 また、新しく東海地区に赴任した同窓の方がいらっしゃいましたら、下記懇親会連絡担当(田坂)までご連絡いただけますでしょうか。ご連絡いただいた方には銀杏電友会開催のご案内を差し上げたいと思っております。

 来年度にはコロナ問題が収束し,銀杏電友会が開催できることを期待しています。
 皆様も感染にはご注意され,お元気でお過ごしください。
                           敬具

 懇親会連絡担当 田坂修二 E-mail: denyukai@wh.commufa.jp
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お知らせ

銀杏電友会 令和2年度懇親会中止のお知らせ

銀杏電友会(東海地区東大電気電子同窓会)各位


 拝啓,清秋の候,銀杏電友会の皆様にはますますご健勝のこととお慶び申し上げます。

 本年度はコロナ禍のため,懇親会の開催が可能かどうか状況を見ておりました。
 しかし,高齢者を含む20名規模の食事会を安心して開催できる状況にはまだなっていないように思えます。
 そこで幹事団で相談し,本年度の銀杏電友会は,中止した方がよいという結論になりました。
 誠に残念ながら,皆様にお知らせ申し上げます。

 来年度にはコロナ問題が収束し,銀杏電友会が開催できることを期待しています。
 皆様も感染にはご注意され,お元気でお過ごしください。
                           敬具

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トピックス

第12回S41電気電子クラス会にかえて

2020年のS41電気電子クラス会は、例年通り11月開催予定でおりましたが、新型コロナ感染拡大による影響で休会せざるを得ない状況となりました。このため、会の開催にかえて、近況を投稿いただき、配信することにいたしました。9月末締め切りで40名という多数の方々から返信・投稿をいただきました。返信・投稿をいただいた方々は、ほぼ、どの方も元気にされておられる様子です。返信をいただけなかった方々もご無事であると幸いです。なお、この1年間、新たな訃報は受けておりません。また、嬉しいことに、田野君の連絡先が分かり、今後、情報交換をさせていただくことになりました。

                         田中(記)

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大橋レポート

モンブランと周辺の旅/大橋 康隆

  1998年7月22日朝、ツェルマット駅を氷河特急で8時18分に出発し、北に進みヴィスプ駅(Visp)を経由して西に進み、マルティ二―駅(Martigny)に10時37分に到着した。
  ここでモンブラン特急に乗り換え10時48分に出発し、西南に進み、シャモニー・モンブラン駅(Chamonix-Mont Blanc)に13時14分に到着した。予約してあったホテルに行くと、日本人団体客で溢れ、屋根裏の部屋に案内された。屋根裏部屋の天窓を覗くとモンブランが見えた。(写真1地図モンブラン周辺.jpg
地図(モンブラン周辺)
写真1天窓.jpg写真2展望台.jpg写真3銅像.jpg
写真1(天窓)写真2(展望台)写真3(銅像)
  早速ロープウェイでエギーユ・デュ・ミディ(Aiguille du Midi)に登った。(写真2)霧が深く、イタリア領に行くゴンドラに乗るのを諦めた。急いでシャモニーに降りて市街を探索した。山岳博物館(Musee Alpin)の近くでモンブランを初登頂したバルマ(Balmat)と後援者ソシュール(Saussure)二人の銅像(写真3)を撮影した。ソシュールは近代登山の父と言われるスイス人で装備、資金などを組織的に援助した。
  夕方になってホテルに帰着すると、夕食はホテル内の食堂が満席で、庭先の屋外テーブルに案内された。ここでは私達と同様な外国人観光客達が、日本人の団体客の横暴さに憤慨していた。「私達も日本人ですが、皆さんと同じように扱われているので、全ての日本人が横暴だと思わないでください。」と穴に入りたい思いで釈明した。
写真4展望台.jpg写真5モンブラン.jpg写真6カフェ.jpg
写真4(展望台)写真5(モンブラン)写真6(カフェ)
  7月23日朝は、シャモニーの北西にあるル・ブレヴァン(Le Brevent)にロープウェイで登った。展望台から(写真4)を撮影したが、ここで77才の日本人と遭遇した。奥様は高山病らしく、麓のホテルに置いてきたとのことだが、旅慣れた登山家らしく、カクシャクとしておられた。ここでモンブランの素晴らしい(写真5)を撮影した。近くのカフェでモンブランの勇姿を眺めながら昼食を味わった。(写真6
  ロープウェイで麓に降りて、近くのロータリーで(写真7)を撮影した。この構図が気に入ったので、帰国後、F6号の油絵に描き、NEC OB パレット会に出展した。次いでサン・ミッシェル教会(写真8)とシャモニー市街(写真9)を撮影した。
写真7モンブラン遠望.jpg写真8教会.jpg写真9シャモニー市街.jpg
写真7(モンブラン遠望)写真8(教会)写真9(シャモニー市街)
  シャモニー駅を13時55分に出発して東北に進み、マルティニ―駅に15時29分に到着した。ここで乗り換えてマルティニ―駅を15時37分に出発して北に進みモントルー駅(Montreux)に16時10分に到着。ここから登山電車でグリオン駅(Glion)に17時44分に登り、眺めの良いホテルに宿泊した。
  7月24日は、午前中ロッセ・ド・ナイユ(Rochers de Naye) を訪ね、午後にはシヨン城を観光船で訪れた。クラスブログ2011年1月1日「シヨン城」を参照して頂ければ幸いである。
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季節の花便り

9月の花便り/高橋 郁雄

  今回もコロナの関係で遠出はせずに、我が団地内での取材となりました。初雪草だけが初登場で、他の二つは2度目の登場です。
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初雪草黄花コスモス玉すだれ
初雪草:9月10日に我がグリーンハイツ内を散歩の途中に撮影しました。親切に脇に花名を書いてあったので、花名が判りました。
  北アメリカ原産。和名「初雪草」や英名「スノーオンザマウンテン」は、葉に入った白い斑(ふ)を、積もった雪に例えたのが由来。夏から秋にかけて葉の中心に、白い小さな花が集まってひっそりと咲きます。葉や茎から出る乳液は、皮膚の炎症を起こす場合があるので、取り扱いには要注意。
  花言葉=「祝福・穏やかな生活・好奇心」。8月31日の誕生花。
黄花コスモス:9月9日に我が団地内で撮影しました。2009年に本ブログに1度登場しています。
  メキシコ原産。7~10月頃開花。コスモスの仲間で、かつ黄色っぽい花が咲くのでこの名前になった。葉はコスモスより太くギザギザ(コスモスの葉は“線状”)。
  花言葉=「野生美」
●玉すだれ(玉簾):9月9日に我が団地内で撮影しました。2009年に本ブログに1度登場しています。
  西インド諸島原産。開花時期は(8/5~10/10)頃。白く美しい花を「玉」に、葉が集まっている様子を「簾」にたとえた。
  雨の後で一斉に咲き始めるところから、「レインリリー」とも言う。
  花言葉=「汚れなき愛・潔白な愛・期待」。

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斎藤さんのお話

おじいちゃん/齋藤 嘉博

  過日従弟のS君から「こんな記事を見つけました」とメールがありました。私のおじいちゃんが理事をしていた帝國飛行協会の会報の大正十一年正月号に寄稿した「夢に見る空中旅行」という記事です。まず概要を旧仮名遣いのままご紹介しましょう。

  【今年の新年は此頃開通された東京小田原間の飛行旅行を試みる為め、元日の屠蘇を祝ふや否や芝浦の日本航空輸送会社の東京発着所に駆け着けた。余は此会社のパッスを有って居るから満員なるにも拘らず直ちに乗込むことができた。賃金は東京小田原間片道が五圓、往復が八圓、汽車賃の二等に較べて約二倍であるが、時間に於いては約四倍の利益があるから急ぐ人には嬉しい。(中略)この輸送会社、客も漸次増加してこの頃は二梃宛午前、午後の二回の往復にも拘わらず常に満員の盛況なのは航空機の価値が一般に普及した徴候で誠に喜ばしい次第である。
  艇内は二列に籐椅子が五脚宛配列されて操縦士を含めて十三人が乗り込んでいる。後尾には喫煙室や便所があり、其上無線電信の装置があるから飛行中自在に通信が出来る。陸上の無線電信所は高大で而も煩雑な装置を要するが、飛行機では之が意外に簡単である。中径二十珊位の巻枠から垂鉛を附した長さ百米突許りの針金をくるくると垂下せば、これで受信が出来、中径同じく二十珊位の砲弾形の電気モーターの頭部に小さなプロペラを装着すれば強力な電気が起こって之を利用して発信できる。(中略)窓から外界を望めば彩色地図を観る如く、盆景を観る如く愉絶快絶真に羽化登仙して蓬莱に遊ぶの感がある。東海道の宿駅は次から次と活動写真の様に矢継ぎ早に展開する(中略)。小田原着水場が向ふに見える。富士は白扇を倒まにして雄姿を誇り、汽車は黒煙を棚引いて後方に疾走する。餘りの勝景に心を奪われ艇掌から窓外に頭部を出す事を差し止められて居るのも忘れて、うかと窓から頭を出した……と思う間もなく首から上が寒風に吹き飛ばされそうになって思わず…アッ—…と大聲を発した……此の一刹那に目が覚めた。(後略)】

  注;水上飛行機の絵は文に添付のものではなく私のイメージです。おじいちゃんは多分もう一回り大きい、双発の飛行機を考えていたのではないかと思います。

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水上飛行機の絵
  私は最初タイトルも見ずに読み始め、すっかりこの文に引き込まれて、そうかこの時代に芝浦と小田原の間に飛行便かアと以前バンクーバーで飛んでいたゲタバキの水上遊覧飛行機を思い浮かべながら読んでいました。が最後に夢!なるほどと私も夢が覚めた想い。

  このお爺ちゃんは1871年、明治4年の生まれで陸軍の軍人。日露戦争に乃木将軍のもとで二○三高地の戦いに加わり金鵄勲章をもらっているのです。折々母に連れられてその実家を訪れているのですが、みんながするような膝に上がって甘えるなんていう記憶は全くありません。いつも奥の部屋で怖い顔で何かをしていると言った印象。それでも退役後の仕事の一つとしていた印刷会社では講談社の仕事をしていた関係で少年倶楽部が数日早く手に入る。それをもらうのが大変な楽しみでした。私が中学一年生の折、お爺ちゃんは丁度七十の古希で、お祝いがあったのを覚えています。だいたい私がお酒を飲めないのも、左利きであるのもこのおじいちゃんの遺伝なんです。

  先の文、夢物語に託しながら飛行機による交通の未来論を述べているのですが、私が気にとめたのは空中アンテナのくだり。大正11年、1922年と言えばまだラジオ放送もはじまっていない時代に、軍人で専門でもない事柄をこれだけ書くのはよほど無線交信に興味があったのに違いありません。そしてハタと私が電気工学科に入ったのもこのお爺ちゃんのDNAがしからしめるところだ!と思い当たったのです。私の父は経済の畑で仕事をしているのになぜ私が電気工学を目指したのかというのは昔からの疑問でしたが、この文を読んで長年の難問が解けた!

  左利きの件などフィジカルな遺伝がDNAの組み合わせで出来上がっているというのはこのところの定説になっていますし、DNAを読めば顔形を非常に正確に再現できるのだそうですが、メンタルな部分にまでDNAの制御が行届いている?のかと思ってびっくりしたのです。昔は親の職業を継承するのは当たり前。歌舞伎にしても舞踊にしても家元がつないでいますし、鎌倉時代の三代の名仏師、康慶、運慶、湛慶なんて見様見真似で職を継いでいると思っていたのです。蛙の子は蛙と言う故事がありましたっけ。 “蛙は孫も蛙”と言ってもいいでしょう。あらためて祖先の大切さを思い知ったのでした。ただもう一歩考えてみると、戦時中に友人が陸士、海兵と言っているときに私は一度も軍人になろうとは思っていませんでした。このDNAは? 人間て全く不可解です。でも今年のお彼岸には久しぶりにお爺ちゃんのお墓参りをしようと思っています。

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武田レポート

リトアニア史余談104:ヴィタウタスとヨガイラの陽動作戦 / 武田 充司

 プロシャのドイツ騎士団本部攻略を目指すヴィタウタスとヨガイラは、その意図を隠してドイツ騎士団の兵力を分散させるために、休戦協定が切れる6月24日(*1)を待たずに陽動作戦を開始した。
 1410年6月14日、ドイツ騎士団本部にはリトアニア軍がニェムナス川下流にあるドイツ騎士団の拠点ラグニットに向って移動しているという情報がもたらされたが(*2)、同じ日に、リトアニア軍がマゾフシェのナレフ川沿いに結集しているという情報も入ってきた。しかし、それ以前に、ポーランド軍がプオツク付近のヴィスワ川に橋をかけているという情報が入っていた(*3)。そして、その後、ヴィスワ川下流の要衝ビドゴシュチ付近にポーランド軍が現れたことが確認された(*4)。

 6月3日、首都ヴィルニュスを発ったヴィタウタス率いるリトアニア軍はポーランド軍と落ち合う約束の地点チェルヴィンスクを目指したが、途中のどこかでナレフ川を渡らなければならなかった(*5)。一方、ヨガイラ率いるポーランド軍は6月26日クラクフを発って北上し、チェルヴィンスクの直前でヴィスワ川に浮橋をかけて渡河し、チェルヴィンスクに入った(*6)。そのとき、ヨガイラのもとに伝令がきて、リトアニア軍はプウトゥスク(*7)付近でナレフ川を渡るので敵の目を逸らす囮部隊の派遣を要請してきた。さっそく陽動作戦部隊が派遣され、リトアニア軍は全軍無事にナレフ川を渡ることができた。そして、7月2日、リトアニア軍はチェルヴィンスクでポーランド軍に合流したが、そのとき、マゾフシェのヤヌシュ1世とシェモヴィト4世の兄弟も手勢を率いて駆けつけた(*8)。こうして3万9千ともいわれる大軍に膨れ上がったリトアニア・ポーランド連合軍(*9)は、翌7月3日、ドルヴェンツァ河畔のクルツェントニク(*10)を目指して出発した。

 ところが、7月5日、戦争回避の最後の調停を試みようとするハンガリー王ジギスムントの密使がヨガイラの野営地にやってきた。これに対してヨガイラとヴィタウタスは和平の条件として非常に厳しい要求を突き付けて使者を帰した(*11)。

 錯綜する情報を分析していたドイツ騎士団総長ウルリヒ・フォン・ユンギンゲンは、先ず、どういう状況でも対応できるようにヴィスワ川下流西岸のシフィエチェ(*12)に主力を結集させたが、ナレフ川沿いに現れたリトアニア軍に対処するため、シフィエチェから機動部隊を発進させた。ところが、休戦協定が切れて3日後の6月27日、リトアニアの大軍がプロシャ北部に侵入したという情報がケーニヒスベルクから届いた。しかし、そのあと、ジギスムントの密使の情報に接したウルリヒ・フォン・ユンギンゲンは、敵の真の狙いに気づき、直ちに主力部隊を率いて敵が目指しているクルツェントニクに向った(*13)。

〔蛇足〕
(*1)休戦協定については「余談101:ドイツ騎士団とポーランドの短い戦い」参照。なお、ドイツ騎士団本部は現在のポーランド北部の都市マルボルク(Malbork)にあって、当時はマリエンブルク(Marienburg)と呼ばれ、難攻不落の城が築かれていた。現在、その城は世界遺産になっている。
(*2)ニェムナス川はリトアニア南部を東から西に向かって流れてバルトア海の注ぐ大河で、その下流南岸にはドイツ騎士団がリトアニア進出初期の1289年に築いた要塞ラグニット(Ragnit)があった。そこは現在のロシア領の飛び地カリーニングラード州の都市ネマン(Neman)で、リトアニアではラガイネ(Ragainė)と呼ばれている。
(*3)「余談102:権謀術数をめぐらすドイツ騎士団」の蛇足(10)参照。
(*4)ビドゴシュチ(Bydgoszcz)は、ヴィスワ川下流の大彎曲部(北西方向の流れが北東方向に転じる地点)の西側、ブルダ川がヴィスワ川に合流する地点に位置し、当時のドイツ騎士団領の南西端に接していた。
(*5)リトアニア軍は先ずヴィルニュス南西約150kmに位置するニェムナス河畔の拠点ガルディナス(Gardinas:現在のベラルーシ都市フロドナ〔Hrodna〕)に向った。そこで東方のリトアニア支配地域から召集された正教徒諸公の軍団やタタール人部隊が合流して兵力が増強されると、深い森の中をさらに南西に進んでナレフ川東岸に出た。ナレフ川は北東から流れて、途中でブーク川と合流してワルシャワの少し北でヴィスワ川に注ぐが、彼らが目指すチェルヴィンスク(Czerwińsk)は、その地点より更に25kmほどヴィスワ川を下ったヴィスワ川北岸にあったから、どこかでナレフ川を渡って西側に行かなければならなかった。本文で述べたドイツ騎士団の偵察隊が発見したナレフ川沿いのリトアニア軍は、このときナレフ川東岸沿いに渡河地点を探しなだら南下していたリトアニア軍であった。
(*6)チェルヴィンスクはクラクフの北方約265km地点のヴィスワ川北岸に位置し、下流のプオツクと上流のワルシャワとのほぼ中間にある。この辺りは完全にポーランド領内であるため安心してヴィスワ川を渡ったのであろう。全軍が浮橋を渡るのに3日を要したという。
(*7)プウトウスク(Pułtusk)はワルシャワの北方約50kmに位置するナレフ川西岸の都市である。
(*8)この兄弟については「余談103:開戦前夜の言論“正義の戦いについて”」の蛇足(2)参照。
(*9)これに対して、ドイツ騎士団側の兵力は2万7千といわれている。これらの数字には諸説あって信頼性には疑問があるが、数的にはドイツ騎士団側が劣っていたことは確かである。しかし、兵器や装備に関しては優劣が逆であったことも確かである。
(*10)クルツェントニク(Kurzętnik)は、現在のポーランド北部の都市ブロドニツァ(Brodonica)の北東約20kmに位置するドルヴェンツァ(Drwęca)河畔の町である。両軍が集合したチェルヴィンスクからは北々西に約125km、プオツクからは北方に約95km離れている。
(*11)中立の調停者を装ったジギスムントが実はドイツ騎士団の支援者であったから、この密使も敵陣偵察のスパイであったことは確かで(「余談101」と「余談102」参照)、これをどう扱うかはヨガイラとヴィタウタスにとって難しい問題であった。しかし、彼らは敢然と、「ドイツ騎士団がドブジン地方をポーランドに返還し、ジェマイチヤの領有権を放棄し、なおかつ、今回の戦争準備にかかった費用を補償してくれるならば和平に応じる」というとんでもない条件を出して、この欺瞞に満ちた調停を一蹴した。なお、ここで、1382年まではハンガリー王がポーランド王を兼ねていたことを想起するべきだろう(「余談84:クレヴァの決議」参照)。
(*12)シフィエチェ(Świecie)は先に説明したビドゴシュチの北東約45kmに位置し、ビドゴシュチより下流にあり、当時、そこはドイツ騎士団領であった。
(*13)このとき小規模の守備隊がシフィエチェに残された。
(2020年9月 記)
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斎藤さんのお話

観光時代/齋藤 嘉博

  前稿に小林兄から頂いたコメント、「大本営、大政翼賛会」と、なるほど言いえて妙ですネ。そして「東部軍管区情報、B29百機が大子上空を西南に飛行中」のラジオを聴きながら灯火管制の暗い部屋のなかでじっと耐えた頃を思い出しました。
  今の「マスク」はさしずめその時代の防空壕といったところでしょうか。そして焼夷弾ならぬコロナ菌の雨。でもこうした比喩を理解できる人も少なくなりました。
  コロナを恐れての灯火管制、外出自粛で一番大きな痛手を受けたのは観光業界のようです。広い駐車場にお客のないバスが並び、空港に飛行機が並んでいるのを見るとこのパンデミックの脅威についての実感がわいてきます。
  イリンクス、遊びの中でも旅は身体にも頭脳にも心にも大切なひと時。日常の生活から離れての時間。このブログ欄にもたびたび諸兄の海外旅行のお話を読ませて頂きました。大橋兄が大きな荷物をもってあれだけの旅をするのは大変。あらかじめの計画もトーマスクックやミシュランと格闘をして組まれたものと思います。私のアメリカドライブにしてもランドマクナリーの地図とAAA、ハーツの地図での計画策定でした。そして実行、記録(反省)と三度の楽しみと学びを得ることが出来る機会なのですから。子供たちが夏休みも短く、修学旅行もできずに旅の経験をコロナのために逃したとき、その明確な関連を見つけ出すことは難しいでしょうが、将来の発育に大きな障害が出るのではないかと心配です。
  このところ観光はブーム。バブルといってよい状況でした。観光白書(令和元年版)によれば日本人の海外への出国数は2018年に1900万人。一人当たりの回数にすると0.14回で、世界で18位とランクは下のようですが、ランクの上位は地続きの欧州の国々ですから地の利が違います。一方外国人の訪日人数は同じ年に3,000万人をこえているのです。この数値は2014年に比べて2.4倍。そのうちの27%が中国人、24%が韓国人。日本の美を楽しむよりは買い物に血眼。瀑買いなんていう言葉ができる時代ですから、バブルと言っていいでしょう。それにともなって様々な弊害も出てきています。春、お花見の頃の上野公園には大声で騒ぐ沢山の中国人。墨堤のお花見なんていう風流はどこへやら。一昨年の春、金閣寺を訪れた折にはあの鏡湖池の周辺がラッシュ時の新宿駅のホームのような混雑でした。観光収支は大幅に2.3兆円の黒字で、お国は稼いでいるつもりでしょうが私たちにとっては迷惑至極。迷惑よりもお客さん方ご自身も十分な観光の楽しみを感じていないのではないかと思います。京都の神社、仏閣は静かな佇まいの回遊式庭園が売り物。いや感じてほしいことなのでしょう。それがラッシュアワーなのですから。
  昨年この欄でご紹介したカチカチ山の山頂にしても富士山の展望がよい場所は新宿駅なみ。しかし一歩離れて三つ峠へのハイキングコースに入るともう人気はまばら。出会ったのは日本人が数人と外国はスウェーデンから来られた若い方一人でした。観光1.jpg
カチカチ山頂の混雑
  スイス、あるいはフランス、ドイツ、チロルなどアルプス地方をハイキングしているとそのあたりの観光施設が大変充実しているのに気付きます。グリンデルヴァルトから少し下ったグルントでロープウェイに乗り、メンリッヒェンに上がってここからクライネシャイデックまでのほぼ1時間半のハイキングは初心者のためのコース。観光2.jpg
メンリッヒェンから
クライネシャイデック
  何度か歩きましたが、正面にユングフラウとメンヒの頂、左下に広がる森を見ながらアップダウンもほとんどない、ゆったりとした歩きは素晴らしい感触でした。モンブランの裾野に位置するシャモニーからも縦横に登山電車、ロープウェイが用意されていて、モンブランの優しい山姿やグランドジョラスの威容を心行くまで楽しむことが出来るのです。チューリッヒには山岳交通の様子を上手に紹介した博物館があってロープウェイやアプト式鉄道の様子を楽しく勉強することができました。
  こうしたコースを歩きながら感じるのは日本の山々を歩くのとの違いです。それは森。日本の山を歩く道のほとんどがアップダウンンのきつい森の中であるのに気付きます。アルプスにはヴァルトと名付けるところは沢山あるのですが、多くのコースは木々のない展望のよい道。したがってどこもユングフラウやマッターホルンの山容を眺めながら歩くことが出来ます。わが国でのハイキング道では展望台として作られたところ以外での見晴らしはほとんどない。その代わりに木々と落葉、豊かなフィトンチッドの香り、谷合を流れる清冽な水と滝を思う存分に楽しむことができる。
  昨年このブログでご紹介した天城街道では私の歩いた道のすべてが太郎杉の森のなかでした。観光3.jpg観光4.jpg
踊子街道杉の道踊子街道七滝
  秋田の白神山地のブナ林を歩くなんていいでしょうネ。関東近郊の軽井沢、那須、日光などには白樺を含め、木曽路には檜、サワラなど。アルプスのような寒冷地、南アジアのようなジャングルとは違った温帯地域の恵みをもっているのです。ただわが国のハイキングコース、よく出来ているのにメンテが悪い。完成したときには大変に快適なコースなのですが、しばらくすると道は落葉に埋もれてわからなくなり、道標は朽ち、橋は錆びて歩く快適さが失われてしまっているのです。ということで観光立国を目指すのでればお土産屋さんの振興も大切ですが、ハイキングコースの充実と森全体を健康に保つためのメンテナンスに力を注ぐことが必要でしょう。

  しかしとにかくコロナが納まらないと何処にも出かけることが出来ません。と家で文句を言っているこの頃です。
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大橋レポート

ベルンからツェルマットへ/大橋 康隆

  1998年7月20日の午前はベルン(Bern)市街観光をすることにした。先ずベルン歴史博物館を訪れた。(写真1)次いでベルンを囲うようなアール川(Aar)を訪れ、ベルン市街を撮影した。(写真2)遠方に巨大なベルン大聖堂が見える。
  アール河畔に沿って歩くと(写真3)の様な美しい風景が現れた。帰国後、F8号の油絵に描き、有楽町交通会館2階ギャラリーで開催された本明会展に出展した。アール川の橋を渡って植物園を見学したが、再びベルン市街の中心地に戻り、街のシンボルであるベルン時計塔を撮影した。(写真4)仕掛時計が有名である。手前の女神の噴水は、正義の噴水と言われている。地図ツェルマット周辺.jpg
地図:ツェルマット周辺
写真1歴史博物館.jpg写真2大聖堂.jpg写真3アール河畔.jpg
写真1:歴史博物館写真2:大聖堂写真3:アール湖畔
  ベルン駅を14時26分に出発して南方に進みブリーク駅(Brig)に16時3分に到着した。これは急行列車だったが、エアコンが無く暑くて参った。昔、1970年代にジュネーブのITUの建物にCCITT(国際電信電話諮問委員会)が移るまでは、古い会議場でエアコンが無く、暑さに閉口した。「1週間のためにエアコンを設置する必要はない。」と言われたことを思い出した。ツェルマット鉄道に乗り換えて16時18分に出発して西に進み、ヴィスプ駅(Visp)を経由して南に進みツェルマット駅(Zermatt)に17時45分に到着した。
写真4時計塔.jpg写真5ゴルナーグラート.jpg写真6モンテローザ.jpg
写真4:時計塔写真5:ゴルナーグラート写真6:モンテローザ
  7月21日朝、登山電車でツェルマット駅を8時に出発してゴルナーグラート駅(Gornergrat)に8時44分に到着した。(写真5)あいにくマッターホルン(Matterhorn)は霧に隠れており、やむなく東方のモンテローザ(Monte Rosa)を撮影した。(写真6)天気が良ければここからリッフェル湖(Riffelsee)を訪れ逆さマッターホルンを撮影する予定であったが、諦めざるを得なかった。予定を変更し、ゴルナーグラートを9時55分に出発し、ツェルマット駅に10時39分に到着した。
写真7噴水.jpg写真8看板.jpg写真9幻の山.jpg
写真7:噴水写真8:看板写真9:幻の山
  引き続きスネガ駅(Snnegga)に登る予定であったが、ツェルマット市街を西方に進みマーモット(Marmot)の噴水までやってきた。(写真7)それでも諦めきれず「WELCOME TO THE MATTERHORN」の看板の写真を撮影した。(写真8)残りの時間はアルパイン博物館で過ごし、先駆的登山家達の苦難と悲劇をじっくりと味わった。
  7月22日早朝には、マッターホルンが現れるのを期待して通称「日本人橋」でしばらく粘ったが、遂に幻に終わった。(写真9)油絵仲間のR.T.さんはNEC OB パレット会で、この構図ですばらしい作品を描いていた。彼はスキーヤーでもあったので、冬期の旅行であると思う。