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武田レポート

リトアニア史余談118:メウノの講和/武田 充司

 1422年9月17日、休戦協定が結ばれて「ゴルプ戦争」が終ると(*1)、ドイツ騎士団の本拠地マリエンブルクの南方70kmほどにあるメウノ湖(*2)という小さな湖の近くにあったポーランド軍の野営地において本格的な和平交渉が始まった。
 リトアニア・ポーランド連合とドイツ騎士団双方から、それぞれ8人で構成された全権代表団が交渉のテーブルについた。両者の話し合いは迅速に進み、休戦協定が結ばれてから僅か10日後の9月27日には平和条約が合意された。

 この条約はリトアニアにとって大きな歴史的意義があった。それは、ジェマイチヤが恒久的にリトアニアに帰属することが確認され(*3)、「トルンの講和」でヴィタウタスとヨガイラが存命中に限ってリトアニアに帰属するとされていた屈辱的合意(*4)が覆されたからだ。しかし、ポーランドは、ヴィスワ河畔のネッサウ(*5)を獲得したものの、ポメレリア、ヘウムノ、そして、ミハウフ地方の奪還が成らなかったから(*6)、大いに不満であった。

 ところが、このとき、両代表団ともその場に印章をもって来なかったため、条約に調印することができなかった。ドイツ騎士団総長パウル・フォン・ルスドルフは、それをよいことにして、またしても神聖ローマ皇帝ジギスムントを味方にして交渉をやり直そうとした。というのも、騎士団内部ではこの条約に対する不満が渦巻いていたからだ。しかし、ボヘミアのフス戦争の成り行きを心配していた皇帝ジギスムントは、ボヘミアにいるジギスムント・コリプトと彼の率いるリトアニア軍を引き揚げさせるために、後ろで糸を引くリトアニアとポーランドを説得しようと思っていたから、ドイツ騎士団の期待を無視した。そこで、ヴィタウタスとヨガイラは皇帝の要求をうけ入れ、翌年(1423年)の3月、ジギスムント・コリプトをボヘミアから引き揚げさせた(*7)。
 万事休したドイツ騎士団総長パウル・フォン・ルスドルフは、同年(1423年)5月、リトアニアのニェムナス河畔の要衝ヴェリュオナ(*8)においてメウノの平和条約に調印した。そして、その年の7月10日、教皇マルティヌス5世もこれを承認し、条約は正式に発効した。さらに、その翌年(1424年)、ポーランドのケジュマロク(*9)において、皇帝ジギスムントとリトアニア・ポーランド連合との間で条約が締結され、皇帝はメウノの平和条約で取り決められた事項を正式に認めると同時に、1420年にブロツワフにおいて皇帝が出した裁定(*10)も撤回した。

 一方、この条約に不満をかかえたままのポーランドとドイツ騎士団との緊張関係はこのあとも続いた。こうしたポーランドとリトアニアのドイツ騎士団に対する立場の違いが、両者の協力関係に微妙な隙間風を吹かせることになった(*11)。

〔蛇足〕
(*1)「余談117:ゴルプ戦争」参照。
(*2)メウノ湖(Jezioro Mełno)は小さな湖なので普通の地図では見つけにくいが、凡その位置は以下のようにして知ることができる。バルト海に面するポーランド最大の港湾都市グダンスク(昔はドイツ語名ダンツィヒとして知られていた)から南へ100kmほど行ったヴィスワ川右岸(東岸)に、グルジョンツ(Grudziądz)という都市がある。その東方約15kmにグルタ(Gruta)という村があるが、メウノ湖はその村の南東にある。
(*3)このときリトアニアとドイツ騎士団領の境界も画定された。即ち、ドイツ騎士団領の東縁は人口希薄なスヴァルキヤ地方を南北に貫く線とされ、そこからニェムナス川下流のスマリニンカイ(Smalininkai)を通り、北西に向ってバルト海岸のネミルセタ(Nemirseta)に至る線を境界とした。ネミルセタはクライペダ(Klaipėda)の北方約20kmに位置するバルト海岸の町で、その直ぐ北には現在のリトアニアの保養地パランガ(Palanga)がある。したがって、ドイツ騎士団は依然としてバルト海に面するニェムナス川下流地域一帯とバルト海への出口クライペダ(〔独〕メーメル)を確保した。
(*4)「余談111:トルンの講和」参照。
(*5)ネッサウ(Nessau)はトルンの対岸にある現在のヴェルカ・ニェシャフカ(Wielka Nieszawka)である。
(*6)ポメレリアはバルトア海に面する現在のポーランドの港湾都市グダンスク(旧ダンツィヒ)を中心とするポモージェ・グダンスキエ(あるいは、東ポモージェと呼ばれる地域)の英語呼称である(「余談98:ラツィオンシュの講和」の蛇足(8)参照)。ヘウムノ地方は現在のポーランド北部のヴィスワ河畔の都市ヘウムノ(Chełmno)を中心とする地域だが、ここはドイツ騎士団がポーランドに入植したとき以来の土地である(「余談57:トランシルヴァニアのドイツ騎士団」参照)。ミハウフ(Michałów)地方は現在のポーランド北部の都市ブロドニツァ(Brodnica)周辺のドルヴェンツァ川東岸の地域であるが、ドルヴェンツァ川の下流では東岸はポーランド領であったから、ここはドイツ騎士団とポーランドの係争の地であった。
(*7)「余談116:フス戦争とジギスムント・コリブト」参照。
(*8)ヴェリュオナ(Veliuona)はカウナスの西北西約45kmにあるニェムナス川右岸(北岸)の城。「余談70:ニェムナス川下流に進出したドイツ騎士団」参照。
(*9)ケジュマロク(Kežmarok)は現在のスロヴァキア北東部の都市で、コシツェ(Košice)の北西約75kmにある。
(*10)「余談117:ゴルプ戦争」参照。
(*11)ドイツ騎士団に対する両国の立場の違いが顕在化したのは1425年に起ったと伝えられている「ルビチの水車場の帰属問題」である。ルビチ(Lubicz)はドルヴェンツァ川がヴィスワ川に合流する地点近くの、ドルヴェンツァ川下流右岸(西岸)にあり、トルンからは東方に10kmほどしか離れていない。この地理的位置から、ここはドイツ騎士団領の最前線に位置する戦略上の要衝で、そこは要塞化されていた。この要塞の帰属をめぐって、「メウノの講和」が締結されたあとになって、ポーランドとドイツ騎士団が争ったのだ。「メウノの講和」において有利な立場でドイツ騎士団と和解したリトアニアのヴィタウタス大公にしてみれば、いまさら寝た子を起すようなことをしてもらっては困るということだった。もしポーランドがここを獲得することに拘れば、その代償として、リトアニアはバルト海岸のパランガまでもドイツ騎士団に譲渡せざるを得なくなると言って、ヴィタウタスはヨガイラに譲歩を迫り、結局、ここはドイツ騎士団に帰属することで決着した。しかし、この一件がヨガイラとヴィタウタスの関係を破綻させた。これ以後、ドイツ騎士団はリトアニアとの友好関係を促進し、ヴィタウタスがリトアニア王として戴冠できるよう支援するなどと言ってポーランドとリトアニアの関係分断をはかったため、両者の間に深刻な対立感情が醸成されて行った。
(2021年11月 記)
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武田レポート

リトアニア史余談118:メウノの講和/武田 充司<br />

 1422年9月17日、休戦協定が結ばれて「ゴルプ戦争」が終ると(*1)、ドイツ騎士団の本拠地マリエンブルクの南方70kmほどにあるメウノ湖(*2)という小さな湖の近くにあったポーランド軍の野営地において本格的な和平交渉が始まった。
 リトアニア・ポーランド連合とドイツ騎士団双方から、それぞれ8人で構成された全権代表団が交渉のテーブルについた。両者の話し合いは迅速に進み、休戦協定が結ばれてから僅か10日後の9月27日には平和条約が合意された。

 この条約はリトアニアにとって大きな歴史的意義があった。それは、ジェマイチヤが恒久的にリトアニアに帰属することが確認され(*3)、「トルンの講和」でヴィタウタスとヨガイラが存命中に限ってリトアニアに帰属するとされていた屈辱的合意(*4)が覆されたからだ。しかし、ポーランドは、ヴィスワ河畔のネッサウ(*5)を獲得したものの、ポメレリア、ヘウムノ、そして、ミハウフ地方の奪還が成らなかったから(*6)、大いに不満であった。

 ところが、このとき、両代表団ともその場に印章をもって来なかったため、条約に調印することができなかった。ドイツ騎士団総長パウル・フォン・ルスドルフは、それをよいことにして、またしても神聖ローマ皇帝ジギスムントを味方にして交渉をやり直そうとした。というのも、騎士団内部ではこの条約に対する不満が渦巻いていたからだ。しかし、ボヘミアのフス戦争の成り行きを心配していた皇帝ジギスムントは、ボヘミアにいるジギスムント・コリプトと彼の率いるリトアニア軍を引き揚げさせるために、後ろで糸を引くリトアニアとポーランドを説得しようと思っていたから、ドイツ騎士団の期待を無視した。そこで、ヴィタウタスとヨガイラは皇帝の要求をうけ入れ、翌年(1423年)の3月、ジギスムント・コリプトをボヘミアから引き揚げさせた(*7)。
 万事休したドイツ騎士団総長パウル・フォン・ルスドルフは、同年(1423年)5月、リトアニアのニェムナス河畔の要衝ヴェリュオナ(*8)においてメウノの平和条約に調印した。そして、その年の7月10日、教皇マルティヌス5世もこれを承認し、条約は正式に発効した。さらに、その翌年(1424年)、ポーランドのケジュマロク(*9)において、皇帝ジギスムントとリトアニア・ポーランド連合との間で条約が締結され、皇帝はメウノの平和条約で取り決められた事項を正式に認めると同時に、1420年にブロツワフにおいて皇帝が出した裁定(*10)も撤回した。

 一方、この条約に不満をかかえたままのポーランドとドイツ騎士団との緊張関係はこのあとも続いた。こうしたポーランドとリトアニアのドイツ騎士団に対する立場の違いが、両者の協力関係に微妙な隙間風を吹かせることになった(*11)。

〔蛇足〕
(*1)「余談117:ゴルプ戦争」参照。
(*2)メウノ湖(Jezioro Mełno)は小さな湖なので普通の地図では見つけにくいが、凡その位置は以下のようにして知ることができる。バルト海に面するポーランド最大の港湾都市グダンスク(昔はドイツ語名ダンツィヒとして知られていた)から南へ100kmほど行ったヴィスワ川右岸(東岸)に、グルジョンツ(Grudziądz)という都市がある。その東方約15kmにグルタ(Gruta)という村があるが、メウノ湖はその村の南東にある。
(*3)このときリトアニアとドイツ騎士団領の境界も画定された。即ち、ドイツ騎士団領の東縁は人口希薄なスヴァルキヤ地方を南北に貫く線とされ、そこからニェムナス川下流のスマリニンカイ(Smalininkai)を通り、北西に向ってバルト海岸のネミルセタ(Nemirseta)に至る線を境界とした。ネミルセタはクライペダ(Klaipėda)の北方約20kmに位置するバルト海岸の町で、その直ぐ北には現在のリトアニアの保養地パランガ(Palanga)がある。したがって、ドイツ騎士団は依然としてバルト海に面するニェムナス川下流地域一帯とバルト海への出口クライペダ(〔独〕メーメル)を確保した。
(*4)「余談111:トルンの講和」参照。
(*5)ネッサウ(Nessau)はトルンの対岸にある現在のヴェルカ・ニェシャフカ(Wielka Nieszawka)である。
(*6)ポメレリアはバルトア海に面する現在のポーランドの港湾都市グダンスク(旧ダンツィヒ)を中心とするポモージェ・グダンスキエ(あるいは、東ポモージェと呼ばれる地域)の英語呼称である(「余談98:ラツィオンシュの講和」の蛇足(8)参照)。ヘウムノ地方は現在のポーランド北部のヴィスワ河畔の都市ヘウムノ(Chełmno)を中心とする地域だが、ここはドイツ騎士団がポーランドに入植したとき以来の土地である(「余談57:トランシルヴァニアのドイツ騎士団」参照)。ミハウフ(Michałów)地方は現在のポーランド北部の都市ブロドニツァ(Brodnica)周辺のドルヴェンツァ川東岸の地域であるが、ドルヴェンツァ川の下流では東岸はポーランド領であったから、ここはドイツ騎士団とポーランドの係争の地であった。
(*7)「余談116:フス戦争とジギスムント・コリブト」参照。
(*8)ヴェリュオナ(Veliuona)はカウナスの西北西約45kmにあるニェムナス川右岸(北岸)の城。「余談70:ニェムナス川下流に進出したドイツ騎士団」参照。
(*9)ケジュマロク(Kežmarok)は現在のスロヴァキア北東部の都市で、コシツェ(Košice)の北西約75kmにある。
(*10)「余談117:ゴルプ戦争」参照。
(*11)ドイツ騎士団に対する両国の立場の違いが顕在化したのは1425年に起ったと伝えられている「ルビチの水車場の帰属問題」である。ルビチ(Lubicz)はドルヴェンツァ川がヴィスワ川に合流する地点近くの、ドルヴェンツァ川下流右岸(西岸)にあり、トルンからは東方に10kmほどしか離れていない。この地理的位置から、ここはドイツ騎士団領の最前線に位置する戦略上の要衝で、そこは要塞化されていた。この要塞の帰属をめぐって、「メウノの講和」が締結されたあとになって、ポーランドとドイツ騎士団が争ったのだ。「メウノの講和」において有利な立場でドイツ騎士団と和解したリトアニアのヴィタウタス大公にしてみれば、いまさら寝た子を起すようなことをしてもらっては困るということだった。もしポーランドがここを獲得することに拘れば、その代償として、リトアニアはバルト海岸のパランガまでもドイツ騎士団に譲渡せざるを得なくなると言って、ヴィタウタスはヨガイラに譲歩を迫り、結局、ここはドイツ騎士団に帰属することで決着した。しかし、この一件がヨガイラとヴィタウタスの関係を破綻させた。これ以後、ドイツ騎士団はリトアニアとの友好関係を促進し、ヴィタウタスがリトアニア王として戴冠できるよう支援するなどと言ってポーランドとリトアニアの関係分断をはかったため、両者の間に深刻な対立感情が醸成されて行った。
(2021年11月 記)
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斎藤さんのお話

榛名山への散歩/齋藤 嘉博

  今年の秋も次第に深まってコロナも漸く下火の勢い。となると私の歩き虫が疼きだして昨日(29日)は兼ねてからの想いだった上毛三山のうち榛名山への散歩にでかけました。
  高崎駅から90分のバスはやや退屈です。それでも榛名神社を過ぎるころからは立派な杉木立に囲まれたハイウェイ。榛名湖畔駅のあたりは閑散とした冬景色でしたが、ここから30分ほど湖畔を歩いたロープウェイ駅の駐車場にはかなりの数の車が。そうここまで来るのは車ですネ。免許返納がくやしい。
榛名1.jpg榛名3.jpg榛名4.jpg
  二連のキャビン、300mほど上がるロープウエイで山頂駅から見ると、雲一つない青空の下、東に筑波山、西に浅間山。眼の下には榛名山の側火山である天目山、氷室山の姿と関東平野が広がって。バカと鶏は高いところが好きと教えられていましたが、やはり見晴らしのいい高さは気分のいいこと。ここからさらに坂道を上がって1,391mの山頂にある榛名富士神社にお参り。数人の若い人たちが社殿で手を合わせていました。

  高尾山の例にならって下りはゆうすげ温泉への山道を歩いて下ろうと思っていたのですが、入口に「この道は風致保安林で十分な整備が出来ていないので歩かないで」との警告書。仕方なく再びロープウエイで湖畔に降り立ちました。初夏には高橋兄に喜んで頂けそうな黄色いユウスゲ、紫のホタルブクロがあたりを彩り、冬には氷結した湖面に穴をあけてのワカサギ釣りが有名なこの湖ですが今の季節は冷たい風のなかに紅葉と黄葉が真っ盛り。船宿に人もなく岸につながれたスワンボートもさびしそう。遊覧船も動いていないようでした。

  帰途榛名神社にお参りしました。祭神は火と土の神様。赤い大鳥居をくぐって社への入り口、隋神門に「本堂はここから15分」とありました。杉木立の中、神橋をわたり眼の下を流れる渓谷と滝を眺めながら坂道と石段を上がること十分あまり。神門をくぐったところであと100段ほどの石段を見上げてこれはちょっとネと辟易。残念ながらそこで遥拝をして、傍らの社務所でお守りを頂き下山しました。トシですネエ。

  暗くなった6時過ぎに無事帰宅。行程15,000歩。ひさしぶりにすっきりとした一日を過ごすことができました。帰途新幹線から見た富士山のシルエットが印象的でしたネ。この次はと奥多摩、八ヶ岳などへのハイキングを目論んでいます。
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斎藤さんのお話

榛名山への散歩/齋藤 嘉博

  今年の秋も次第に深まってコロナも漸く下火の勢い。となると私の歩き虫が疼きだして昨日(29日)は兼ねてからの想いだった上毛三山のうち榛名山への散歩にでかけました。
  高崎駅から90分のバスはやや退屈です。それでも榛名神社を過ぎるころからは立派な杉木立に囲まれたハイウェイ。榛名湖畔駅のあたりは閑散とした冬景色でしたが、ここから30分ほど湖畔を歩いたロープウェイ駅の駐車場にはかなりの数の車が。そうここまで来るのは車ですネ。免許返納がくやしい。
榛名1.jpg榛名3.jpg榛名4.jpg
  二連のキャビン、300mほど上がるロープウエイで山頂駅から見ると、雲一つない青空の下、東に筑波山、西に浅間山。眼の下には榛名山の側火山である天目山、氷室山の姿と関東平野が広がって。バカと鶏は高いところが好きと教えられていましたが、やはり見晴らしのいい高さは気分のいいこと。ここからさらに坂道を上がって1,391mの山頂にある榛名富士神社にお参り。数人の若い人たちが社殿で手を合わせていました。

  高尾山の例にならって下りはゆうすげ温泉への山道を歩いて下ろうと思っていたのですが、入口に「この道は風致保安林で十分な整備が出来ていないので歩かないで」との警告書。仕方なく再びロープウエイで湖畔に降り立ちました。初夏には高橋兄に喜んで頂けそうな黄色いユウスゲ、紫のホタルブクロがあたりを彩り、冬には氷結した湖面に穴をあけてのワカサギ釣りが有名なこの湖ですが今の季節は冷たい風のなかに紅葉と黄葉が真っ盛り。船宿に人もなく岸につながれたスワンボートもさびしそう。遊覧船も動いていないようでした。

  帰途榛名神社にお参りしました。祭神は火と土の神様。赤い大鳥居をくぐって社への入り口、隋神門に「本堂はここから15分」とありました。杉木立の中、神橋をわたり眼の下を流れる渓谷と滝を眺めながら坂道と石段を上がること十分あまり。神門をくぐったところであと100段ほどの石段を見上げてこれはちょっとネと辟易。残念ながらそこで遥拝をして、傍らの社務所でお守りを頂き下山しました。トシですネエ。

  暗くなった6時過ぎに無事帰宅。行程15,000歩。ひさしぶりにすっきりとした一日を過ごすことができました。帰途新幹線から見た富士山のシルエットが印象的でしたネ。この次はと奥多摩、八ヶ岳などへのハイキングを目論んでいます。
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斎藤さんのお話

榛名山への散歩/齋藤 嘉博

  今年の秋も次第に深まってコロナも漸く下火の勢い。となると私の歩き虫が疼きだして昨日(29日)は兼ねてからの想いだった上毛三山のうち榛名山への散歩にでかけました。
  高崎駅から90分のバスはやや退屈です。それでも榛名神社を過ぎるころからは立派な杉木立に囲まれたハイウェイ。榛名湖畔駅のあたりは閑散とした冬景色でしたが、ここから30分ほど湖畔を歩いたロープウェイ駅の駐車場にはかなりの数の車が。そうここまで来るのは車ですネ。免許返納がくやしい。
榛名1.jpg榛名3.jpg榛名4.jpg
  二連のキャビン、300mほど上がるロープウエイで山頂駅から見ると、雲一つない青空の下、東に筑波山、西に浅間山。眼の下には榛名山の側火山である天目山、氷室山の姿と関東平野が広がって。バカと鶏は高いところが好きと教えられていましたが、やはり見晴らしのいい高さは気分のいいこと。ここからさらに坂道を上がって1,391mの山頂にある榛名富士神社にお参り。数人の若い人たちが社殿で手を合わせていました。

  高尾山の例にならって下りはゆうすげ温泉への山道を歩いて下ろうと思っていたのですが、入口に「この道は風致保安林で十分な整備が出来ていないので歩かないで」との警告書。仕方なく再びロープウエイで湖畔に降り立ちました。初夏には高橋兄に喜んで頂けそうな黄色いユウスゲ、紫のホタルブクロがあたりを彩り、冬には氷結した湖面に穴をあけてのワカサギ釣りが有名なこの湖ですが今の季節は冷たい風のなかに紅葉と黄葉が真っ盛り。船宿に人もなく岸につながれたスワンボートもさびしそう。遊覧船も動いていないようでした。

  帰途榛名神社にお参りしました。祭神は火と土の神様。赤い大鳥居をくぐって社への入り口、隋神門に「本堂はここから15分」とありました。杉木立の中、神橋をわたり眼の下を流れる渓谷と滝を眺めながら坂道と石段を上がること十分あまり。神門をくぐったところであと100段ほどの石段を見上げてこれはちょっとネと辟易。残念ながらそこで遥拝をして、傍らの社務所でお守りを頂き下山しました。トシですネエ。

  暗くなった6時過ぎに無事帰宅。行程15,000歩。ひさしぶりにすっきりとした一日を過ごすことができました。帰途新幹線から見た富士山のシルエットが印象的でしたネ。この次はと奥多摩、八ヶ岳などへのハイキングを目論んでいます。
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季節の花便り

10月の花便り/高橋 郁雄

  今回も近場からの報告になります。コロナの感染者数が減少していますので、もうしばらくの我慢かなと思っています。今回の花:3点すべて本ブログでは、再登場です。
Kinmokusei.JPGHototogis.JPGSyumeigiku.JPG
金木犀(きんもくせい)ホトトギス(杜鵑)秋明菊
金木犀(きんもくせい):自宅の近くで10月5日に撮影しました。
  9月の花便りで、9月15日に撮影した金木犀を掲載しましたが、その花は4~5日後に完全に散ってしまい、もう終わりかと思っていましたら、10月に入って再度咲き始めたのです。銀木犀は2度目の開花はありませんでした。Webで調べたら、金木犀には(2度咲き)や(四季咲き)の品種があることが書かれていました。毎年家の近くで見ていたのですが、年に2度咲くなんて初めて知りました。
ホトトギス(杜鵑):自宅の近くで10月7日に撮影しました。
  学名「Tricyrtis(ホトトギス属) hirta(短い剛毛のある)」。開花時期(8/25~11/15頃)。若葉や花にある斑点模様が、鳥のホトトギスの胸にある模様と似ていることからこの名になった。ただし、葉にある斑点は花が咲く頃には消えるとのこと。
  9/12の誕生花。花言葉=「秘めた意志」。
秋明菊:自宅の近くで10月7日に撮影しました。
  秋に菊に似た花を咲かせるところからこの名前になった。中国原産。かなり昔に日本に渡来。漢名は「秋牡丹」。9/14の誕生花。花言葉=「忍耐」。
  このブログでは、過去に5回登場しています。花色が各種あって、白、赤、薄ピンクが登場しています。
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季節の花便り

10月の花便り/高橋 郁雄

  今回も近場からの報告になります。コロナの感染者数が減少していますので、もうしばらくの我慢かなと思っています。今回の花:3点すべて本ブログでは、再登場です。
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金木犀(きんもくせい)ホトトギス(杜鵑)秋明菊
金木犀(きんもくせい):自宅の近くで10月5日に撮影しました。
  9月の花便りで、9月15日に撮影した金木犀を掲載しましたが、その花は4~5日後に完全に散ってしまい、もう終わりかと思っていましたら、10月に入って再度咲き始めたのです。銀木犀は2度目の開花はありませんでした。Webで調べたら、金木犀には(2度咲き)や(四季咲き)の品種があることが書かれていました。毎年家の近くで見ていたのですが、年に2度咲くなんて初めて知りました。
ホトトギス(杜鵑):自宅の近くで10月7日に撮影しました。
  学名「Tricyrtis(ホトトギス属) hirta(短い剛毛のある)」。開花時期(8/25~11/15頃)。若葉や花にある斑点模様が、鳥のホトトギスの胸にある模様と似ていることからこの名になった。ただし、葉にある斑点は花が咲く頃には消えるとのこと。
  9/12の誕生花。花言葉=「秘めた意志」。
秋明菊:自宅の近くで10月7日に撮影しました。
  秋に菊に似た花を咲かせるところからこの名前になった。中国原産。かなり昔に日本に渡来。漢名は「秋牡丹」。9/14の誕生花。花言葉=「忍耐」。
  このブログでは、過去に5回登場しています。花色が各種あって、白、赤、薄ピンクが登場しています。
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10月の花便り/高橋 郁雄

  今回も近場からの報告になります。コロナの感染者数が減少していますので、もうしばらくの我慢かなと思っています。今回の花:3点すべて本ブログでは、再登場です。
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金木犀(きんもくせい)ホトトギス(杜鵑)秋明菊
金木犀(きんもくせい):自宅の近くで10月5日に撮影しました。
  9月の花便りで、9月15日に撮影した金木犀を掲載しましたが、その花は4~5日後に完全に散ってしまい、もう終わりかと思っていましたら、10月に入って再度咲き始めたのです。銀木犀は2度目の開花はありませんでした。Webで調べたら、金木犀には(2度咲き)や(四季咲き)の品種があることが書かれていました。毎年家の近くで見ていたのですが、年に2度咲くなんて初めて知りました。
ホトトギス(杜鵑):自宅の近くで10月7日に撮影しました。
  学名「Tricyrtis(ホトトギス属) hirta(短い剛毛のある)」。開花時期(8/25~11/15頃)。若葉や花にある斑点模様が、鳥のホトトギスの胸にある模様と似ていることからこの名になった。ただし、葉にある斑点は花が咲く頃には消えるとのこと。
  9/12の誕生花。花言葉=「秘めた意志」。
秋明菊:自宅の近くで10月7日に撮影しました。
  秋に菊に似た花を咲かせるところからこの名前になった。中国原産。かなり昔に日本に渡来。漢名は「秋牡丹」。9/14の誕生花。花言葉=「忍耐」。
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リトアニア史余談117:ゴルプ戦争/武田 充司

 1414年11月に始まり3年半近く続いた「コンスタンツ公会議」(*1)も1418年4月22日ようやく終わったが、この公会議においても「トルンの講和」(*2)に対するポーランドとリトアニアの不満は解消されず、彼らとドイツ騎士団との対立は続いた。

   公会議が終った翌年(1419年)の春、教皇マルティヌス5世はこの対立を調停するべくミラノ大司教カプラ(*3)を特使として送り出した。リトアニア・ポーランド連合とドイツ騎士団の代表はカプラの仲介で、ドイツ騎士団の拠点トルンに近いポーランドの都市グニェフコヴォ(*4)において新たな交渉に臨んだ。しかし、この調停も不調に終わった。

   すると、その年の夏、リトアニア・ポーランド連合軍がドイツ騎士団領の国境付近に結集し、軍事的緊張が高まった。この緊迫し状況を打開しようと、今度は、神聖ローマ皇帝ジギスムントが調停に乗り出した。年が明けて1420年の1月6日、皇帝はポーランドのヴロツワフ(*5)において、1411年に結ばれた「トルンの講和」(*2)は有効であり、適正なものであるとの裁定を下した(*6)。リトアニア大公ヴィタウタスは、この裁定を全く受け入れ難い不当なものだとして憤激したが、従兄弟のポーランド王ヨガイラは一応この裁定をうけ入れる態度を示しつつ、教皇マルティヌス5世に裁定の無効宣言を発出するよう請願した。そこで、教皇はこの裁定に補足説明を付けて折衷案をつくり、これによってリトアニア・ポーランド連合とドイツ騎士団を和解させようとしたが、かえって両者の反発を招いた。

   ドイツ騎士団総長ミハエル・キュヒマイスターはマリエンブルクの城壁の強化など戦争の準備を急がせたが、財政難と増税による内部の不満から、1422年3月、辞任を余儀なくされ、パウル・フォン・ルスドルフが新総長に選出されるという事態になった。一方、この年の5月、ボヘミアではジギスムント・コリブトがプラハに入城してウトラキストたちからボヘミアの統治者として認められた(*7)。この状況を憂慮した教皇マルティヌス5世はボヘミアのフス派に対して断固たる処置をとるよう命じた。これをうけて、同年7月、皇帝ジギスムントはドイツ騎士団の協力を得て、フス派殲滅の戦争準備に取り掛かった。

   ところが、これを知ったヴィタウタスとヨガイラは、プラハに居るジギスムント・コリプトを守るためと称して電撃的先制攻撃に打って出た。ドイツ騎士団領の南東部に侵攻したリトアニア・ポーランド連合軍は、迅速に移動しながら瞬く間にドルヴェンツァ川下流の要衝ゴルプを占領した(*8)。ドイツ騎士団軍の混乱した戦いぶりに失望した騎士団総長パウル・フォン・ルスドルフは、同年9月17日、休戦に同意し、戦いは僅か2か月で終った(*9)。戦いに完勝したリトアニアとポーランドは、ドイツ騎士団を新たな講和会議の席に就かせ、「トルンの講和」の修正を迫る機会をつかんだ(*10)。

〔蛇足〕
(*1)「余談114:コンスタンツ公会議における論争」参照。
(*2)「余談111:トルンの講和」参照。
(*3)Bartolomeo Capra:ミラノ大司教在位1414年~1433年。
(*4)グニェフコヴォ(Gniewkowo)はヴィスワ河畔のドイツ騎士団の拠点トルン(Toruń)の南西約20kmに位置するポーランドの歴史的都市である。
(*5)ヴロツワフ(Wrocław)は現在のポーランド西部、シロンスク(シレジア)地方の歴史的中心都市である。
(*6)神聖ローマ皇帝にしてハンガリー王であるジギスムントがこのようにドイツ騎士団に有利な裁定を下した背景には、この前年(1419年)の夏、彼の異母兄ヴェンツェル(ボヘミア王ヴァーツラフ4世)が急死し、彼がボヘミア王位を継ごうとしたところを、フス派の反乱で阻止されたことから(「余談115:フス戦争とヴィタウタス大公」参照)、彼はドイツ騎士団を味方に引き入れて、ボヘミアのフス派を掃討しようとしていた、という事情がある。
(*7)ジギスムント・コリブトに関連したこの件は「余談116:フス戦争とジギスムント・コリブト」参照。
(*8)リトアニア・ポーランド連合軍は、先ず、ドイツ騎士団領南東部の要衝オステローデ(Osterode:現在のオストルダ〔Ostróda〕)に向かった。これを知ったドイツ騎士団はオステローデを捨てて、オステローデの南西約27kmに位置するレバウ(Löbau:現在のルバヴァ〔Lubawa〕)に撤退した。これに対して、ヨガイラはレバウに向かわず、北西に進路をとってドイツ騎士団の首都マリエンブルク(Marienburg:現在のマルボルク〔Malbork〕)に向かうように見せかけた。そして、途中から進路を変え、マリエンブルクの南々東約34kmに位置するリーゼンブルク(Riesenburg:現在のプラブティ〔Prabuty〕)を占領し、周辺の村落を襲って破壊した。その後、連合軍は南下してドイツ騎士団入植初期からの土地クルム(Culm:現在のヘウムノ〔Chełmno〕)地方に侵攻し、ポーランドとドイツ騎士団領の国境をなすドルヴェンツァ川下流右岸(北岸)のドイツ騎士団の拠点ゴルプ(Gollub:現在のゴルプ・ドブジン〔Golub-Dobrzyn〕)を占領した。この事実から、この戦争は「ゴルプ戦争」と呼ばれている。リトアニア・ポーランド連合軍は、それまでの経験から、巨大な要塞と化しているドイツ騎士団の首都マリエンブルクを攻略することは無理と判断し、当初からドイツ騎士団領を広く転戦して各地を荒廃させ、マリエンブルクを孤立させる作戦をとったようだが、これが功を奏したのか、ドイツ騎士団軍は各地で混乱し、士気が低下したと言われている。
(*9)このときのドイツ騎士団軍の混乱ぶりを物語る例として、エルビング(Elbing:現在のエルブロンク〔Elbiąg〕)を守るドイツ騎士団の司令官は、この年の8月6日、「物資が底を突き補給もないので、兵士は命令に従わず脱走している」と報告している。また、シュヴェツ(Schwetz:現在のシフィエチェ〔Świecie〕)からは、「ひとりの傭兵も居らず、百人ほどの武器を持たない飢えた農民兵が集まっているだけだ」と報告されていた。
(*10)1422年9月17日の休戦から僅か10日後の9月27日には「メウノの平和条約」が結ばれたが、ここに至って、ドイツ騎士団はついに譲歩を余儀なくされ、リトアニアとポーランドは、ようやく、部分的にではあったが、ドイツ騎士団に対して優位に立っことができた。
(2021年10月 記)
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武田レポート

リトアニア史余談117:ゴルプ戦争/武田 充司<br />

 1414年11月に始まり3年半近く続いた「コンスタンツ公会議」(*1)も1418年4月22日ようやく終わったが、この公会議においても「トルンの講和」(*2)に対するポーランドとリトアニアの不満は解消されず、彼らとドイツ騎士団との対立は続いた。

   公会議が終った翌年(1419年)の春、教皇マルティヌス5世はこの対立を調停するべくミラノ大司教カプラ(*3)を特使として送り出した。リトアニア・ポーランド連合とドイツ騎士団の代表はカプラの仲介で、ドイツ騎士団の拠点トルンに近いポーランドの都市グニェフコヴォ(*4)において新たな交渉に臨んだ。しかし、この調停も不調に終わった。

   すると、その年の夏、リトアニア・ポーランド連合軍がドイツ騎士団領の国境付近に結集し、軍事的緊張が高まった。この緊迫し状況を打開しようと、今度は、神聖ローマ皇帝ジギスムントが調停に乗り出した。年が明けて1420年の1月6日、皇帝はポーランドのヴロツワフ(*5)において、1411年に結ばれた「トルンの講和」(*2)は有効であり、適正なものであるとの裁定を下した(*6)。リトアニア大公ヴィタウタスは、この裁定を全く受け入れ難い不当なものだとして憤激したが、従兄弟のポーランド王ヨガイラは一応この裁定をうけ入れる態度を示しつつ、教皇マルティヌス5世に裁定の無効宣言を発出するよう請願した。そこで、教皇はこの裁定に補足説明を付けて折衷案をつくり、これによってリトアニア・ポーランド連合とドイツ騎士団を和解させようとしたが、かえって両者の反発を招いた。

   ドイツ騎士団総長ミハエル・キュヒマイスターはマリエンブルクの城壁の強化など戦争の準備を急がせたが、財政難と増税による内部の不満から、1422年3月、辞任を余儀なくされ、パウル・フォン・ルスドルフが新総長に選出されるという事態になった。一方、この年の5月、ボヘミアではジギスムント・コリブトがプラハに入城してウトラキストたちからボヘミアの統治者として認められた(*7)。この状況を憂慮した教皇マルティヌス5世はボヘミアのフス派に対して断固たる処置をとるよう命じた。これをうけて、同年7月、皇帝ジギスムントはドイツ騎士団の協力を得て、フス派殲滅の戦争準備に取り掛かった。

   ところが、これを知ったヴィタウタスとヨガイラは、プラハに居るジギスムント・コリプトを守るためと称して電撃的先制攻撃に打って出た。ドイツ騎士団領の南東部に侵攻したリトアニア・ポーランド連合軍は、迅速に移動しながら瞬く間にドルヴェンツァ川下流の要衝ゴルプを占領した(*8)。ドイツ騎士団軍の混乱した戦いぶりに失望した騎士団総長パウル・フォン・ルスドルフは、同年9月17日、休戦に同意し、戦いは僅か2か月で終った(*9)。戦いに完勝したリトアニアとポーランドは、ドイツ騎士団を新たな講和会議の席に就かせ、「トルンの講和」の修正を迫る機会をつかんだ(*10)。

〔蛇足〕
(*1)「余談114:コンスタンツ公会議における論争」参照。
(*2)「余談111:トルンの講和」参照。
(*3)Bartolomeo Capra:ミラノ大司教在位1414年~1433年。
(*4)グニェフコヴォ(Gniewkowo)はヴィスワ河畔のドイツ騎士団の拠点トルン(Toruń)の南西約20kmに位置するポーランドの歴史的都市である。
(*5)ヴロツワフ(Wrocław)は現在のポーランド西部、シロンスク(シレジア)地方の歴史的中心都市である。
(*6)神聖ローマ皇帝にしてハンガリー王であるジギスムントがこのようにドイツ騎士団に有利な裁定を下した背景には、この前年(1419年)の夏、彼の異母兄ヴェンツェル(ボヘミア王ヴァーツラフ4世)が急死し、彼がボヘミア王位を継ごうとしたところを、フス派の反乱で阻止されたことから(「余談115:フス戦争とヴィタウタス大公」参照)、彼はドイツ騎士団を味方に引き入れて、ボヘミアのフス派を掃討しようとしていた、という事情がある。
(*7)ジギスムント・コリブトに関連したこの件は「余談116:フス戦争とジギスムント・コリブト」参照。
(*8)リトアニア・ポーランド連合軍は、先ず、ドイツ騎士団領南東部の要衝オステローデ(Osterode:現在のオストルダ〔Ostróda〕)に向かった。これを知ったドイツ騎士団はオステローデを捨てて、オステローデの南西約27kmに位置するレバウ(Löbau:現在のルバヴァ〔Lubawa〕)に撤退した。これに対して、ヨガイラはレバウに向かわず、北西に進路をとってドイツ騎士団の首都マリエンブルク(Marienburg:現在のマルボルク〔Malbork〕)に向かうように見せかけた。そして、途中から進路を変え、マリエンブルクの南々東約34kmに位置するリーゼンブルク(Riesenburg:現在のプラブティ〔Prabuty〕)を占領し、周辺の村落を襲って破壊した。その後、連合軍は南下してドイツ騎士団入植初期からの土地クルム(Culm:現在のヘウムノ〔Chełmno〕)地方に侵攻し、ポーランドとドイツ騎士団領の国境をなすドルヴェンツァ川下流右岸(北岸)のドイツ騎士団の拠点ゴルプ(Golub:現在のゴルプ・ドブジン〔Golub-Dobrzyn〕)を占領した。この事実から、この戦争は「ゴルプ戦争」と呼ばれている。リトアニア・ポーランド連合軍は、それまでの経験から、巨大な要塞と化しているドイツ騎士団の首都マリエンブルクを攻略することは無理と判断し、当初からドイツ騎士団領を広く転戦して各地を荒廃させ、マリエンブルクを孤立させる作戦をとったようだが、これが功を奏したのか、ドイツ騎士団軍は各地で混乱し、士気が低下したと言われている。
(*9)このときのドイツ騎士団軍の混乱ぶりを物語る例として、エルビング(Elbing:現在のエルブロンク〔Elbiąg〕)を守るドイツ騎士団の司令官は、この年の8月6日、「物資が底を突き補給もないので、兵士は命令に従わず脱走している」と報告している。また、シュヴェツ(Schwetz:現在のシフィエチェ〔Świecie〕)からは、「ひとりの傭兵も居らず、百人ほどの武器を持たない飢えた農民兵が集まっているだけだ」と報告されていた。
(*10)1422年9月17日の休戦から僅か10日後の9月27日には「メウノの平和条約」が結ばれたが、ここに至って、ドイツ騎士団はついに譲歩を余儀なくされ、リトアニアとポーランドは、ようやく、部分的にではあったが、ドイツ騎士団に対して優位に立っことができた。
(2021年10月 記)