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斎藤さんのお話

今年は/齋藤 嘉博

  新年おめでとうございます。
昨年はコロナに明けコロナに暮れた一年でした。それが終わるでもなく、さらにオミクロンなんていう新顔。今年はなんとか自由に旅の出来るようになればと願いながら。
  小生今年94回目のお正月を迎えました。随分長いこと生きてきたものです。1928年、私が生まれたこの年には林芙美子が放浪記を発表し、アメリカではディズニーのスティームボートウィリーでミッキーマウスが誕生した歳でした。そして振り返るとこの間に世界は人間社会からロボット社会へとその変容がひどいことに驚くのです。

  小学校時代、ソロバンは必須でした。大正から昭和へ、五つ珠から四つ珠に代わった時。暗算、九九、高校では対数を学んで対数表と計算尺の操作。コンピューターが話題になるのが大学時代。正月1.jpg
  初期には水銀柱の記憶装置が使われて山下先生、元岡先生の研究室ではパラメトロンをお使いだったのでしょうか。私に初めての計算機はトランジスターの使用でしたが記憶容量は32キロビット。プログラムは数字言語で16が足し算、18が掛け算だったように覚えています。スミソニアン博物館には1800本の真空管を使った初期の電子計算機がいまでも飾られているでしょう。その後MIT留学時に使ったのはFORTLANで書いたIBM7090。大容量の記憶にはテープが用いられていました。大型とはいえ、たかが9999の線形計画法の計算に1時間もかかったのでした。懐かしい思い出です。

  電話は交換手のジャック差し込みによる手動からストロージャー。ダイアルからプッシュホン、そして自動車電話、モバイルへと進歩しました。子供のころ電話のあるお家は大変少なく、呼び出し電話は落語のテーマにもなったくらいです。
  3mほどのアンテナを張って聴いた鉱石ラジオ。そして二球、並四、スーパーと進化。名古屋で開局した中部日本放送のラジオを東京にいた我が家、自作の受信機で聴いた感激はいまだにわすれません。
  テレビは6インチのブラウン管を使っての自作時代からハイビジョン、そして壁に掛けられる液晶の大画面でまだ足りずに、4K8Kへと。我が家にはいまだに放送衛星初期の80cmφのアンテナが残っています。正月2.jpg

  そう。そうした経緯を経て計算機と電話とテレビが一体になったウェアラブルのスマホを今小学生が持っているのですから。と言う小生、スマホが使えなくてお蔵に入ったまま。いや大変な世界になったものですがこのブログに顔をだして頂ける諸兄。皆さん同じ経験なのですネ。そして今の若い方達にはもうけっして経験のできない過去。

  しかし進歩の裏に公害、大気汚染、洪水竜巻の災害、海洋汚染、そして多くの犯罪とマイナスの面がつきまとっていました。あっちへ行け、こっちへ曲がれと指示するカーナビのままハンドルを動かす習性はコンピューターの奴隷になって、ネットが盛んになればなるだけサイバー攻撃の楽しさが増え、SNSでの弊害、事故や不自然は大きくなるばかり。

  さてこれからの90年、いや50年は??

  空には自動車が戦後のハエのように沢山飛び交って交通渋滞。テレビはすべてヴァーチャル番組。でも地震の予知も火山噴火の予知もできていない!ましてあの世のことは皆目。いやうまくいけば冥途との交信も可能になるかもしれませんネ。そうすると「この世よりあの世の方がイイね、宇宙旅行より楽しそう」と多くの人があの世への旅を試みる。地球上には人間がいなくなって。

  今年、寅年の初夢はこんなところでしょうか。先年京都の千本閻魔堂で頂いて私の机の上にある閻魔様のお人形がニコニコと笑っておられます。

  諸兄、今年もコロナ回避でお元気にすごされますように。

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武田レポート

年賀状の終活/武田 充司

   近頃は、年末恒例の「お年玉つき年賀はがき」の売れ行きもめっきり減ったと度々報道されていますが、その原因のひとつは、Eメールやスマフォでのやり取りが増えたからなのでしょうか。それとも、「新年の挨拶」を交わすという習慣そのものが廃れてきたことが原因なのでしょうか。
   しかし、それとは別に、僕の身辺では、もうだいぶ前から、「今年をもって年賀状を終りにします」という友人が増えてきました。皆さん高齢化して年賀状を書くのもだんだんしんどくなってきたので、ついに、今年あたりで止めにしようと決心したのだなあと思っていましたが、考えてみれば、今ではパソコンを使って年賀状の表も裏も簡単に印刷できるのですから、そんなに億劫がることもない、よい時代なのかも知れません。しかし、なかには、そのパソコン操作さえ不慣れな人もいますから、いまの時代は人さまざまだと思います。

   とはいえ、年賀状書きは、日頃ご無沙汰している旧知の親友などに、年に一度の連絡を取るチャンスと思えば、楽しいことでもあります。実際、暑中見舞いなど、四季折々の挨拶を交わす日本人の文化は素晴らしいと思うのですが、昔、年寄りから、年賀状には余計なことをぐだぐだ書くものではない、年始の挨拶だけにしろ、と注意されたことがありました。それでも、やっぱり、相手の顔を思い浮かべながら、賀状の余白に小さな字で、ちょこちょこと近況報告や、昔の懐かしい思い出などを書き込むのも楽しみのひとつですが、その一文を書き添えようとして、はて、と考え、悩んだりして、年賀状書きが遅々として進まず、ということにもなり、だから、年末の年賀状書きは嫌なのだ、と変なところに結論が行ってしまうのも、また、歳のせいかも知れません。

   とにかく、こうして、年賀状を終りにしますと言ってきた人に、こちらから無神経に賀状を出せば、先方の負担になるばかりだろうから、こちらも年賀状を遠慮することになり、年々、年賀状の数も減ってきました。そして、ついに、自分自身も、もういいではないか、年賀状はやめようと思うようになり、先輩諸兄にならって、数年前から年賀状の店仕舞いを始めましたが、どうやら今年あたりで閉店完了となりそうです。

   ところで、「蛇足」ですが、今年をもって、もうひとつ閉店することを決めました。それは、毎月、ブログに投降していた「リトアニア史余談」です。あの余談は2012年4月から書き始め、ほぼ毎月1本のペースで投稿してきましたので、2022年3月で、ちょうど満10年になります。したがって、余談はこの3月で120話になるはずですが、途中で少しペースを上げたことがあったので、2022年3月の余談は122番目になりますが、とにかく、満10年を良い区切りとして、3月16日の投稿を最後に「余談」は終りにします。
   すでに、1月、2月、3月分の原稿は出来上がっていますので、余談の仕事は自分の中では既に閉店完了なのです。来年は、「余談」を書くことに使っていた時間を、また、何か新しいことに振り向けられれば幸いと思っています。
(2021年末 記)
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武田レポート

年賀状の終活/武田 充司

   近頃は、年末恒例の「お年玉つき年賀はがき」の売れ行きもめっきり減ったと度々報道されていますが、その原因のひとつは、Eメールやスマフォでのやり取りが増えたからなのでしょうか。それとも、「新年の挨拶」を交わすという習慣そのものが廃れてきたことが原因なのでしょうか。
   しかし、それとは別に、僕の身辺では、もうだいぶ前から、「今年をもって年賀状を終りにします」という友人が増えてきました。皆さん高齢化して年賀状を書くのもだんだんしんどくなってきたので、ついに、今年あたりで止めにしようと決心したのだなあと思っていましたが、考えてみれば、今ではパソコンを使って年賀状の表も裏も簡単に印刷できるのですから、そんなに億劫がることもない、よい時代なのかも知れません。しかし、なかには、そのパソコン操作さえ不慣れな人もいますから、いまの時代は人さまざまだと思います。

   とはいえ、年賀状書きは、日頃ご無沙汰している旧知の親友などに、年に一度の連絡を取るチャンスと思えば、楽しいことでもあります。実際、暑中見舞いなど、四季折々の挨拶を交わす日本人の文化は素晴らしいと思うのですが、昔、年寄りから、年賀状には余計なことをぐだぐだ書くものではない、年始の挨拶だけにしろ、と注意されたことがありました。それでも、やっぱり、相手の顔を思い浮かべながら、賀状の余白に小さな字で、ちょこちょこと近況報告や、昔の懐かしい思い出などを書き込むのも楽しみのひとつですが、その一文を書き添えようとして、はて、と考え、悩んだりして、年賀状書きが遅々として進まず、ということにもなり、だから、年末の年賀状書きは嫌なのだ、と変なところに結論が行ってしまうのも、また、歳のせいかも知れません。

   とにかく、こうして、年賀状を終りにしますと言ってきた人に、こちらから無神経に賀状を出せば、先方の負担になるばかりだろうから、こちらも年賀状を遠慮することになり、年々、年賀状の数も減ってきました。そして、ついに、自分自身も、もういいではないか、年賀状はやめようと思うようになり、先輩諸兄にならって、数年前から年賀状の店仕舞いを始めましたが、どうやら今年あたりで閉店完了となりそうです。

   ところで、「蛇足」ですが、今年をもって、もうひとつ閉店することを決めました。それは、毎月、ブログに投降していた「リトアニア史余談」です。あの余談は2012年4月から書き始め、ほぼ毎月1本のペースで投稿してきましたので、2022年3月で、ちょうど満10年になります。したがって、余談はこの3月で120話になるはずですが、途中で少しペースを上げたことがあったので、2022年3月の余談は122番目になりますが、とにかく、満10年を良い区切りとして、3月16日の投稿を最後に「余談」は終りにします。
   すでに、1月、2月、3月分の原稿は出来上がっていますので、余談の仕事は自分の中では既に閉店完了なのです。来年は、「余談」を書くことに使っていた時間を、また、何か新しいことに振り向けられれば幸いと思っています。
(2021年末 記)
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武田レポート

リトアニア史余談119:ヴィタウタス大公の后アンナ/武田 充司

 1418年夏、ヴィタウタス大公は長年連れ添った后アンナを亡くした。彼女は大公の良き伴侶であったばかりでなく、活動的で聡明な女性であった。政治的な表舞台にも立ち、外交団の謁見の場にも同席した。大公が留守の時は、彼女自身が外交団をもてなし、交渉も進めた。また、条約締結の場にも大公とともに列席し、交渉相手と激論することすらあった。
 たとえば、1392年にポーランドと結んだ「アストラヴァス条約」のときも、アンナは大公とともに出席して重要な役割を果していた(*1)。また、1398年の「サリーナス条約」締結時には、彼女はドイツ騎士団代表と激しく渡り合ったが、そうしたことが寧ろ彼女の名声を高め、ドイツ騎士団の信頼を得る結果となった(*2)。

 その一方で、彼女は音楽を愛し、読み書きのできる教養人でもあった。あるとき、ドイツ騎士団の使者が彼女に本を贈ったところ、彼女はとても喜んでうけ取った。そうしたことは、当時は珍しいことだったから、ドイツ騎士団の人々は驚いたという。そこで、当時まだ発明されたばかりで珍しかったピアノ(クラヴィコード)を贈ったところ、彼女はこれが大変気に入って大切にしていたという(*3)。

 アンナが敬虔なカトリックの信徒であったことは疑う余地もない。1400年に彼女がマリエンヴェルダーの「モンタウのドロテア」の墓にお参りしたことはそれを物語っている(*4)。このとき、ヴィタウタスの実弟ジギマンタスが400人の護衛を率いて彼女に同行し、「モンタウのドロティア」の墓参のあと、ドイツに行き、ブランデンブルクの聖アンナ教会とオルデンブルクの聖バルバラ教会も訪れている。彼女のこのような旅はドイツ騎士団の協力なしにはできなかったはずで、そこから見えてくるのは、ドイツ騎士団と彼女の密接な関係である。ドイツ騎士団との非公式外交チャネルとして彼女が果たした役割の重要性を無視することはできないだろう(*5)。

 しかし、ヴィタウタス大公にとって忘れがたい最大の思い出は、アンナに助けられてクレヴァの城を脱出したときのことであろう(*6)。あのとき、夫とともに監禁されていたアンナは、召使の女を説得して、その女の衣装とヴィタウタスの衣装を交換させ、看守の目を欺き、彼を城から脱出させた(*7)。あの脱出がなければヴィタウタスの運命は尽きていたかも知れない。また、彼ら夫婦にはひとり娘のソフィアがいたが、ソフィアはモスクワ大公ヴァシーリイ1世に嫁いでいた(*8)。1411年7月、ヴィタウタス大公は従兄弟のポーランド王ヨガイラとともにプスコフを訪れたが、そのとき、ソフィアはリャザニ公フョールドやスモレンスクの総督らとともに父親一行を出迎えた(*9)。このときアンアも同行していたといわれていて、彼女は夫ヴォタウタスと共に娘ソフィアと再会の喜びを分かち合ったに違いない。

〔蛇足〕
(*1)「余談91:ヴィタウタス大公時代のはじまり」の蛇足(5)参照。
(*2)「余談93:クリミア遠征とサリーナス条約」の蛇足(8)参照。
(*3)ドイツ騎士団が彼女にクラヴィコードを贈ったのは1408年で、このとき、ポータティヴ・オルガン(portative organ)も贈られている。なお、このときは、まだ、1410年の「ジャルギリスの戦い」の前であることに注目すべきであろう。その後、1416年に、ドイツ騎士団は貴重なワインを彼女に贈っている。
(*4)「余談93:クリミア遠征とサリーナス条約」の蛇足(8)参照。マリエンヴェルダー(Marienwerder)は現在のポーランド北部の都市クヴィジン(Kwidzyn)で、当時はドイツ騎士団領であった。なお、「モンタウのドロティア」とは、1347年、当時のドイツ騎士団領内のモンタウ(Montau)で生まれた女性で、16か17歳の時、40歳代の気難しい刀鍛冶の男と結婚し、9人の子を産んだが、4人は早世し、4人は疫病で死ぬという不幸に見舞われた。しかし、彼女は結婚直後から幻視を体験し、やがて、夫とともにヨーロッパ各地を巡礼するようになった。ところが、夫の許しを得て彼女がひとりでローマ巡礼の旅に出たあと、夫が亡くなった。帰国した彼女は1391年にマリエンヴェルダーに移り住み、1393年にドイツ騎士団の許可を得て、マリエンヴェルダーの大聖堂の壁に修道者独房をつくり、そこに籠って、そこから決して出ることなく、日々祈りを捧げる厳しい信仰生活を送り、1394年6月25日に亡くなった。生前、彼女は、彼女の幻視体験の噂をきいてやって来る多くの不幸な人々に、幻視による慰めと助言を与えて救済した。彼女のそうした厳しい信仰生活と救済への献身によって、彼女は生前から聖女と崇められていた。そこで、彼女の没後、彼女をドイツ騎士団国家(即ち、プロシャ)の守護聖人とすることになったのだが、その手続きが1404年に中止され、そのまま放置された。しかし、1976年になって、時の教皇パウロ6世(在位1963年~1978年)が彼女を「福者」に列し、6月25日を「ドロテアの祭日」とした。モンタウ(Montau)は、現在のポーランド北部の都市マルボルク(Malbork:ドイツ騎士団の首都マリエンブルク)の西南西約13kmに位置する町モントヴィ(Mątowy)の旧ドイツ語名である。
(*5)これを裏付ける逸話として、アンナが亡くなったときドイツ騎士団領内のすべての教会が彼女の死を悼んでミサを行なった、という話が伝えられている。
(*6)「余談81:ケストゥティスの最期」参照。
(*7)このとき夫とともに監禁されていたアンナには2人の召使の女が仕えていたが、その召使のひとりを説得してヴィタウタスのもとに行かせ、彼と衣装を交換させて身代わりとし、夫を脱出させたと言われているが、別の説では、アンナ自身が彼と衣装を交換したと言われている。
(*8)「余談89:ヴィタウタスの娘ソフィアの嫁入り」参照。
(*9)このプスコフ訪問は、1411年2月1日に「トルンの講和」が結ばれてから半年後のことで、「ジャルギリスの戦い」の勝利を記念した凱旋パレードのようなものであった。彼らは5千人もの兵士を率いてルーシの地を行進してプスコフに行った。プスコフ(Pskov)はヴィルニュスの北東約400kmに位置する現在のロシア西部の都市で(「余談18:王殺しと聖人」参照)、当時はスモレンスク(Smolensk)などとともにリトアニアの支配下にあった。また、このプスコフ訪問のあとヴィタウタスとヨガイラはドニエプル川を下ってキエフにも行っている。この当時のモスクワ公国は、未だリトアニアを脅かす存在ではなく、ヴァシーリイ1世(在位1389年~1425年)は岳父であるヴィタウタスに表向きは臣従していた。リトアニアとモスクワの力関係が逆転してモスクワがこの地域のリーダー的存在になるのはヴィタウタス没後しばらく経ってからのことである。なお、興味深いことに、ソフィアの娘アンナは1411年にビザンツ皇帝ヨハネス8世と婚約しているのだが、数年後に早世した。
(2021年12月 記)
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武田レポート

リトアニア史余談119:ヴィタウタス大公の后アンナ/武田 充司

 1418年夏、ヴィタウタス大公は長年連れ添った后アンナを亡くした。彼女は大公の良き伴侶であったばかりでなく、活動的で聡明な女性であった。政治的な表舞台にも立ち、外交団の謁見の場にも同席した。大公が留守の時は、彼女自身が外交団をもてなし、交渉も進めた。また、条約締結の場にも大公とともに列席し、交渉相手と激論することすらあった。
 たとえば、1392年にポーランドと結んだ「アストラヴァス条約」のときも、アンナは大公とともに出席して重要な役割を果していた(*1)。また、1398年の「サリーナス条約」締結時には、彼女はドイツ騎士団代表と激しく渡り合ったが、そうしたことが寧ろ彼女の名声を高め、ドイツ騎士団の信頼を得る結果となった(*2)。

 その一方で、彼女は音楽を愛し、読み書きのできる教養人でもあった。あるとき、ドイツ騎士団の使者が彼女に本を贈ったところ、彼女はとても喜んでうけ取った。そうしたことは、当時は珍しいことだったから、ドイツ騎士団の人々は驚いたという。そこで、当時まだ発明されたばかりで珍しかったピアノ(クラヴィコード)を贈ったところ、彼女はこれが大変気に入って大切にしていたという(*3)。

 アンナが敬虔なカトリックの信徒であったことは疑う余地もない。1400年に彼女がマリエンヴェルダーの「モンタウのドロテア」の墓にお参りしたことはそれを物語っている(*4)。このとき、ヴィタウタスの実弟ジギマンタスが400人の護衛を率いて彼女に同行し、「モンタウのドロティア」の墓参のあと、ドイツに行き、ブランデンブルクの聖アンナ教会とオルデンブルクの聖バルバラ教会も訪れている。彼女のこのような旅はドイツ騎士団の協力なしにはできなかったはずで、そこから見えてくるのは、ドイツ騎士団と彼女の密接な関係である。ドイツ騎士団との非公式外交チャネルとして彼女が果たした役割の重要性を無視することはできないだろう(*5)。

 しかし、ヴィタウタス大公にとって忘れがたい最大の思い出は、アンナに助けられてクレヴァの城を脱出したときのことであろう(*6)。あのとき、夫とともに監禁されていたアンナは、召使の女を説得して、その女の衣装とヴィタウタスの衣装を交換させ、看守の目を欺き、彼を城から脱出させた(*7)。あの脱出がなければヴィタウタスの運命は尽きていたかも知れない。また、彼ら夫婦にはひとり娘のソフィアがいたが、ソフィアはモスクワ大公ヴァシーリイ1世に嫁いでいた(*8)。1411年7月、ヴィタウタス大公は従兄弟のポーランド王ヨガイラとともにプスコフを訪れたが、そのとき、ソフィアはリャザニ公フョールドやスモレンスクの総督らとともに父親一行を出迎えた(*9)。このときアンアも同行していたといわれていて、彼女は夫ヴォタウタスと共に娘ソフィアと再会の喜びを分かち合ったに違いない。

〔蛇足〕
(*1)「余談91:ヴィタウタス大公時代のはじまり」の蛇足(5)参照。
(*2)「余談93:クリミア遠征とサリーナス条約」の蛇足(8)参照。
(*3)ドイツ騎士団が彼女にクラヴィコードを贈ったのは1408年で、このとき、ポータティヴ・オルガン(portative organ)も贈られている。なお、このときは、まだ、1410年の「ジャルギリスの戦い」の前であることに注目すべきであろう。その後、1416年に、ドイツ騎士団は貴重なワインを彼女に贈っている。
(*4)「余談93:クリミア遠征とサリーナス条約」の蛇足(8)参照。マリエンヴェルダー(Marienwerder)は現在のポーランド北部の都市クヴィジン(Kwidzyn)で、当時はドイツ騎士団領であった。なお、「モンタウのドロティア」とは、1347年、当時のドイツ騎士団領内のモンタウ(Montau)で生まれた女性で、16か17歳の時、40歳代の気難しい刀鍛冶の男と結婚し、9人の子を産んだが、4人は早世し、4人は疫病で死ぬという不幸に見舞われた。しかし、彼女は結婚直後から幻視を体験し、やがて、夫とともにヨーロッパ各地を巡礼するようになった。ところが、夫の許しを得て彼女がひとりでローマ巡礼の旅に出たあと、夫が亡くなった。帰国した彼女は1391年にマリエンヴェルダーに移り住み、1393年にドイツ騎士団の許可を得て、マリエンヴェルダーの大聖堂の壁に修道者独房をつくり、そこに籠って、そこから決して出ることなく、日々祈りを捧げる厳しい信仰生活を送り、1394年6月25日に亡くなった。生前、彼女は、彼女の幻視体験の噂をきいてやって来る多くの不幸な人々に、幻視による慰めと助言を与えて救済した。彼女のそうした厳しい信仰生活と救済への献身によって、彼女は生前から聖女と崇められていた。そこで、彼女の没後、彼女をドイツ騎士団国家(即ち、プロシャ)の守護聖人とすることになったのだが、その手続きが1404年に中止され、そのまま放置された。しかし、1976年になって、時の教皇パウロ6世(在位1963年~1978年)が彼女を「福者」に列し、6月25日を「ドロテアの祭日」とした。モンタウ(Montau)は、現在のポーランド北部の都市マルボルク(Malbork:ドイツ騎士団の首都マリエンブルク)の西南西約13kmに位置する町モントヴィ(Mątowy)の旧ドイツ語名である。
(*5)これを裏付ける逸話として、アンナが亡くなったときドイツ騎士団領内のすべての教会が彼女の死を悼んでミサを行なった、という話が伝えられている。
(*6)「余談81:ケストゥティスの最期」参照。
(*7)このとき夫とともに監禁されていたアンナには2人の召使の女が仕えていたが、その召使のひとりを説得してヴィタウタスのもとに行かせ、彼と衣装を交換させて身代わりとし、夫を脱出させたと言われているが、別の説では、アンナ自身が彼と衣装を交換したと言われている。
(*8)「余談89:ヴィタウタスの娘ソフィアの嫁入り」参照。
(*9)このプスコフ訪問は、1411年2月1日に「トルンの講和」が結ばれてから半年後のことで、「ジャルギリスの戦い」の勝利を記念した凱旋パレードのようなものであった。彼らは5千人もの兵士を率いてルーシの地を行進してプスコフに行った。プスコフ(Pskov)はヴィルニュスの北東約400kmに位置する現在のロシア西部の都市で(「余談18:王殺しと聖人」参照)、当時はスモレンスク(Smolensk)などとともにリトアニアの支配下にあった。また、このプスコフ訪問のあとヴィタウタスとヨガイラはドニエプル川を下ってキエフにも行っている。この当時のモスクワ公国は、未だリトアニアを脅かす存在ではなく、ヴァシーリイ1世(在位1389年~1425年)は岳父であるヴィタウタスに表向きは臣従していた。リトアニアとモスクワの力関係が逆転してモスクワがこの地域のリーダー的存在になるのはヴィタウタス没後しばらく経ってからのことである。なお、興味深いことに、ソフィアの娘アンナは1411年にビザンツ皇帝ヨハネス8世と婚約しているのだが、数年後に早世した。
(2021年12月 記)
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季節の花便り

11月の花便り/高橋 郁雄

  今回も近場からの取材のみとなりました。3点すべて再登場です。
Tuwabuki.JPGKokia.JPGAwadatiso.JPG
ツワブキ(石蕗)コキア背高泡立草
ツワブキ(石蕗):川崎市宮前区の菅生緑地西地区水沢の森で、11月6日に撮影しました。本ブログでは7度目の登場です。この7回で撮影日は、11月14日が2回、12月8日~18日が4回でした。今回が最も早かったです。
  花言葉に「困難に負けない」がありますが、日陰でも常に緑色の葉っぱを茂らせている丈夫な性質に由来します。
コキア:我が団地にはテニスコートが東と西に2面ありますが、東コートの外側で、11月7日に撮影しました。コキアが我が団地内にあるなんて今まで全然気づかなかったので、びっくりしました。他に10本ほどありましたが、赤く色づいていたのはこの1本だけでした。
  ところで、この赤いものは紅葉です。花は8月頃に小さな花が咲くそうですが、花弁は無く、雄しべ5本:雌しべ1本があり、雌しべの中に種ができるのだそうです。これは見たことがないです。
  花言葉=「恵まれた生活・夫婦円満・私はあなたに打ち明けます」。
背高泡立草:コキアと同じ場所で、11月7日に撮影しました。北アメリカ原産の外来種で、環境省が要注意外来生物リストに載せている植物。繁殖力が旺盛でススキなどの在来種と競合している植物。このように嫌われ者の雑草なのに、実はとっても使える薬草だそうです。
  (1) 体内の毒を排出してくれる作用があるため、肌にも良くてアトピー性皮膚炎を改善するといわれています。
  (2)入浴剤にすると良いそうです。9月下旬~10月上旬くらいまでの、黄色い花が咲く直前のつぼみの状態が一番効果が強い時期だとのこと。
  花言葉=「元気・生命力・唯我独尊」。
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季節の花便り

11月の花便り/高橋 郁雄

  今回も近場からの取材のみとなりました。3点すべて再登場です。
Tuwabuki.JPGKokia.JPGAwadatiso.JPG
ツワブキ(石蕗)コキア背高泡立草
ツワブキ(石蕗):川崎市宮前区の菅生緑地西地区水沢の森で、11月6日に撮影しました。本ブログでは7度目の登場です。この7回で撮影日は、11月14日が2回、12月8日~18日が4回でした。今回が最も早かったです。
  花言葉に「困難に負けない」がありますが、日陰でも常に緑色の葉っぱを茂らせている丈夫な性質に由来します。
コキア:我が団地にはテニスコートが東と西に2面ありますが、東コートの外側で、11月7日に撮影しました。コキアが我が団地内にあるなんて今まで全然気づかなかったので、びっくりしました。他に10本ほどありましたが、赤く色づいていたのはこの1本だけでした。
  ところで、この赤いものは紅葉です。花は8月頃に小さな花が咲くそうですが、花弁は無く、雄しべ5本:雌しべ1本があり、雌しべの中に種ができるのだそうです。これは見たことがないです。
  花言葉=「恵まれた生活・夫婦円満・私はあなたに打ち明けます」。
背高泡立草:コキアと同じ場所で、11月7日に撮影しました。北アメリカ原産の外来種で、環境省が要注意外来生物リストに載せている植物。繁殖力が旺盛でススキなどの在来種と競合している植物。このように嫌われ者の雑草なのに、実はとっても使える薬草だそうです。
  (1) 体内の毒を排出してくれる作用があるため、肌にも良くてアトピー性皮膚炎を改善するといわれています。
  (2)入浴剤にすると良いそうです。9月下旬~10月上旬くらいまでの、黄色い花が咲く直前のつぼみの状態が一番効果が強い時期だとのこと。
  花言葉=「元気・生命力・唯我独尊」。
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55年会

第13回S41年電気電子クラス会

55年会にあたる第13回S41年電気電子クラス会は、2021年11月9日にオンライン会として開催しました。当日は、朝から雨足つよい荒天になりましたが、図らずも影響を受けることなく開催できたのは幸運でした。そして21名の参加の皆さんのご協力も得て楽しいクラス会になりました。

会は、定刻3時を迎え、冒頭に、今年訃報がもたらされた大川君、また村木君、一条君の奥様、他ご家族様に対し弔意を表し黙祷を捧げました。続いて田中から、コロナ禍の不安が残る状況での55年会開催のためオンライン会としたこと、お蔭でタイからスポン君、ハワイから田野君も参加いただけたことなど話させていただきました。続いて、石井君発声により乾杯をし、堅苦しさんを若干和らげてスタートすることができました。

会の第1テーマとして、事前に話題提供をいただいたテーマについて4君に近況も含め話をいただきました。内容は、清水君から「ITU協会特別功労賞を受賞して」、中里君から「エレベーターの耐震性能と大地震時の運転停止の状況」、田野君から「ハワイの暮らし」、スポン君から「スポン氏の近況報告」です。それぞれ質疑も含めて興味深い話をいただきました。資料を画面共有出来たので分かり易く、特に自宅に来るハワイの美しい鳥の写真などを楽しめたのは、オンラインならではの事でした。

会の第2テーマとして、石井、許斐、野口、野村、兵藤、藤田、藤原(靖)、細谷、松下、吉岡、江藤、小野、田中、徳永、横山、福田(祐)、渡辺(貞)、各位から、限られた時間でしたが近況報告をいただきました。いずれも元気にされており、生活を楽しんでおられ、一部は、まだ現役を継続されておられます。

会の第3テーマは、アンケート企画です。2種類のテーマ、「2050年頃の科学技術予測」「来し方/行く末 」について、それぞれ10問あり、短時間で少々戸惑いながら回答。直ぐ結果統計が表示され、今後の在り方に、様々な思いがあることが渡辺君の軽妙なトークで楽しめました。

会の第4テーマは、ブレークアウトセッションとして4~5名の小グループに分かれて、オフレコで雑談会をしていただきました。それぞれ、近況報告などの深堀りしていただいたと思います。

続いて欠席者の近況報告と最近の出欠状況について情報交換をしました。なお、会を通して複数の方から、同じく齢を重ねられている伴侶につき話をされました。最後に、会は、吉岡君に締めをしていただき閉会となりました。

最後になりますが。清水君、中里君、田野君、スポン君には、話題提供、資料準備して話をいただいたことに、また、渡辺貞君と藤原靖隆君には、オンラインでの開催について多くの支援をいただいたことに感謝申し上げます。冒頭に書きました様に本当に楽しい会になりました。予想以上でした。ありがとうございました。

           (田中記)



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武田レポート

リトアニア史余談118:メウノの講和/武田 充司

 1422年9月17日、休戦協定が結ばれて「ゴルプ戦争」が終ると(*1)、ドイツ騎士団の本拠地マリエンブルクの南方70kmほどにあるメウノ湖(*2)という小さな湖の近くにあったポーランド軍の野営地において本格的な和平交渉が始まった。
 リトアニア・ポーランド連合とドイツ騎士団双方から、それぞれ8人で構成された全権代表団が交渉のテーブルについた。両者の話し合いは迅速に進み、休戦協定が結ばれてから僅か10日後の9月27日には平和条約が合意された。

 この条約はリトアニアにとって大きな歴史的意義があった。それは、ジェマイチヤが恒久的にリトアニアに帰属することが確認され(*3)、「トルンの講和」でヴィタウタスとヨガイラが存命中に限ってリトアニアに帰属するとされていた屈辱的合意(*4)が覆されたからだ。しかし、ポーランドは、ヴィスワ河畔のネッサウ(*5)を獲得したものの、ポメレリア、ヘウムノ、そして、ミハウフ地方の奪還が成らなかったから(*6)、大いに不満であった。

 ところが、このとき、両代表団ともその場に印章をもって来なかったため、条約に調印することができなかった。ドイツ騎士団総長パウル・フォン・ルスドルフは、それをよいことにして、またしても神聖ローマ皇帝ジギスムントを味方にして交渉をやり直そうとした。というのも、騎士団内部ではこの条約に対する不満が渦巻いていたからだ。しかし、ボヘミアのフス戦争の成り行きを心配していた皇帝ジギスムントは、ボヘミアにいるジギスムント・コリプトと彼の率いるリトアニア軍を引き揚げさせるために、後ろで糸を引くリトアニアとポーランドを説得しようと思っていたから、ドイツ騎士団の期待を無視した。そこで、ヴィタウタスとヨガイラは皇帝の要求をうけ入れ、翌年(1423年)の3月、ジギスムント・コリプトをボヘミアから引き揚げさせた(*7)。
 万事休したドイツ騎士団総長パウル・フォン・ルスドルフは、同年(1423年)5月、リトアニアのニェムナス河畔の要衝ヴェリュオナ(*8)においてメウノの平和条約に調印した。そして、その年の7月10日、教皇マルティヌス5世もこれを承認し、条約は正式に発効した。さらに、その翌年(1424年)、ポーランドのケジュマロク(*9)において、皇帝ジギスムントとリトアニア・ポーランド連合との間で条約が締結され、皇帝はメウノの平和条約で取り決められた事項を正式に認めると同時に、1420年にブロツワフにおいて皇帝が出した裁定(*10)も撤回した。

 一方、この条約に不満をかかえたままのポーランドとドイツ騎士団との緊張関係はこのあとも続いた。こうしたポーランドとリトアニアのドイツ騎士団に対する立場の違いが、両者の協力関係に微妙な隙間風を吹かせることになった(*11)。

〔蛇足〕
(*1)「余談117:ゴルプ戦争」参照。
(*2)メウノ湖(Jezioro Mełno)は小さな湖なので普通の地図では見つけにくいが、凡その位置は以下のようにして知ることができる。バルト海に面するポーランド最大の港湾都市グダンスク(昔はドイツ語名ダンツィヒとして知られていた)から南へ100kmほど行ったヴィスワ川右岸(東岸)に、グルジョンツ(Grudziądz)という都市がある。その東方約15kmにグルタ(Gruta)という村があるが、メウノ湖はその村の南東にある。
(*3)このときリトアニアとドイツ騎士団領の境界も画定された。即ち、ドイツ騎士団領の東縁は人口希薄なスヴァルキヤ地方を南北に貫く線とされ、そこからニェムナス川下流のスマリニンカイ(Smalininkai)を通り、北西に向ってバルト海岸のネミルセタ(Nemirseta)に至る線を境界とした。ネミルセタはクライペダ(Klaipėda)の北方約20kmに位置するバルト海岸の町で、その直ぐ北には現在のリトアニアの保養地パランガ(Palanga)がある。したがって、ドイツ騎士団は依然としてバルト海に面するニェムナス川下流地域一帯とバルト海への出口クライペダ(〔独〕メーメル)を確保した。
(*4)「余談111:トルンの講和」参照。
(*5)ネッサウ(Nessau)はトルンの対岸にある現在のヴェルカ・ニェシャフカ(Wielka Nieszawka)である。
(*6)ポメレリアはバルトア海に面する現在のポーランドの港湾都市グダンスク(旧ダンツィヒ)を中心とするポモージェ・グダンスキエ(あるいは、東ポモージェと呼ばれる地域)の英語呼称である(「余談98:ラツィオンシュの講和」の蛇足(8)参照)。ヘウムノ地方は現在のポーランド北部のヴィスワ河畔の都市ヘウムノ(Chełmno)を中心とする地域だが、ここはドイツ騎士団がポーランドに入植したとき以来の土地である(「余談57:トランシルヴァニアのドイツ騎士団」参照)。ミハウフ(Michałów)地方は現在のポーランド北部の都市ブロドニツァ(Brodnica)周辺のドルヴェンツァ川東岸の地域であるが、ドルヴェンツァ川の下流では東岸はポーランド領であったから、ここはドイツ騎士団とポーランドの係争の地であった。
(*7)「余談116:フス戦争とジギスムント・コリブト」参照。
(*8)ヴェリュオナ(Veliuona)はカウナスの西北西約45kmにあるニェムナス川右岸(北岸)の城。「余談70:ニェムナス川下流に進出したドイツ騎士団」参照。
(*9)ケジュマロク(Kežmarok)は現在のスロヴァキア北東部の都市で、コシツェ(Košice)の北西約75kmにある。
(*10)「余談117:ゴルプ戦争」参照。
(*11)ドイツ騎士団に対する両国の立場の違いが顕在化したのは1425年に起ったと伝えられている「ルビチの水車場の帰属問題」である。ルビチ(Lubicz)はドルヴェンツァ川がヴィスワ川に合流する地点近くの、ドルヴェンツァ川下流右岸(西岸)にあり、トルンからは東方に10kmほどしか離れていない。この地理的位置から、ここはドイツ騎士団領の最前線に位置する戦略上の要衝で、そこは要塞化されていた。この要塞の帰属をめぐって、「メウノの講和」が締結されたあとになって、ポーランドとドイツ騎士団が争ったのだ。「メウノの講和」において有利な立場でドイツ騎士団と和解したリトアニアのヴィタウタス大公にしてみれば、いまさら寝た子を起すようなことをしてもらっては困るということだった。もしポーランドがここを獲得することに拘れば、その代償として、リトアニアはバルト海岸のパランガまでもドイツ騎士団に譲渡せざるを得なくなると言って、ヴィタウタスはヨガイラに譲歩を迫り、結局、ここはドイツ騎士団に帰属することで決着した。しかし、この一件がヨガイラとヴィタウタスの関係を破綻させた。これ以後、ドイツ騎士団はリトアニアとの友好関係を促進し、ヴィタウタスがリトアニア王として戴冠できるよう支援するなどと言ってポーランドとリトアニアの関係分断をはかったため、両者の間に深刻な対立感情が醸成されて行った。
(2021年11月 記)
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武田レポート

リトアニア史余談118:メウノの講和/武田 充司<br />

 1422年9月17日、休戦協定が結ばれて「ゴルプ戦争」が終ると(*1)、ドイツ騎士団の本拠地マリエンブルクの南方70kmほどにあるメウノ湖(*2)という小さな湖の近くにあったポーランド軍の野営地において本格的な和平交渉が始まった。
 リトアニア・ポーランド連合とドイツ騎士団双方から、それぞれ8人で構成された全権代表団が交渉のテーブルについた。両者の話し合いは迅速に進み、休戦協定が結ばれてから僅か10日後の9月27日には平和条約が合意された。

 この条約はリトアニアにとって大きな歴史的意義があった。それは、ジェマイチヤが恒久的にリトアニアに帰属することが確認され(*3)、「トルンの講和」でヴィタウタスとヨガイラが存命中に限ってリトアニアに帰属するとされていた屈辱的合意(*4)が覆されたからだ。しかし、ポーランドは、ヴィスワ河畔のネッサウ(*5)を獲得したものの、ポメレリア、ヘウムノ、そして、ミハウフ地方の奪還が成らなかったから(*6)、大いに不満であった。

 ところが、このとき、両代表団ともその場に印章をもって来なかったため、条約に調印することができなかった。ドイツ騎士団総長パウル・フォン・ルスドルフは、それをよいことにして、またしても神聖ローマ皇帝ジギスムントを味方にして交渉をやり直そうとした。というのも、騎士団内部ではこの条約に対する不満が渦巻いていたからだ。しかし、ボヘミアのフス戦争の成り行きを心配していた皇帝ジギスムントは、ボヘミアにいるジギスムント・コリプトと彼の率いるリトアニア軍を引き揚げさせるために、後ろで糸を引くリトアニアとポーランドを説得しようと思っていたから、ドイツ騎士団の期待を無視した。そこで、ヴィタウタスとヨガイラは皇帝の要求をうけ入れ、翌年(1423年)の3月、ジギスムント・コリプトをボヘミアから引き揚げさせた(*7)。
 万事休したドイツ騎士団総長パウル・フォン・ルスドルフは、同年(1423年)5月、リトアニアのニェムナス河畔の要衝ヴェリュオナ(*8)においてメウノの平和条約に調印した。そして、その年の7月10日、教皇マルティヌス5世もこれを承認し、条約は正式に発効した。さらに、その翌年(1424年)、ポーランドのケジュマロク(*9)において、皇帝ジギスムントとリトアニア・ポーランド連合との間で条約が締結され、皇帝はメウノの平和条約で取り決められた事項を正式に認めると同時に、1420年にブロツワフにおいて皇帝が出した裁定(*10)も撤回した。

 一方、この条約に不満をかかえたままのポーランドとドイツ騎士団との緊張関係はこのあとも続いた。こうしたポーランドとリトアニアのドイツ騎士団に対する立場の違いが、両者の協力関係に微妙な隙間風を吹かせることになった(*11)。

〔蛇足〕
(*1)「余談117:ゴルプ戦争」参照。
(*2)メウノ湖(Jezioro Mełno)は小さな湖なので普通の地図では見つけにくいが、凡その位置は以下のようにして知ることができる。バルト海に面するポーランド最大の港湾都市グダンスク(昔はドイツ語名ダンツィヒとして知られていた)から南へ100kmほど行ったヴィスワ川右岸(東岸)に、グルジョンツ(Grudziądz)という都市がある。その東方約15kmにグルタ(Gruta)という村があるが、メウノ湖はその村の南東にある。
(*3)このときリトアニアとドイツ騎士団領の境界も画定された。即ち、ドイツ騎士団領の東縁は人口希薄なスヴァルキヤ地方を南北に貫く線とされ、そこからニェムナス川下流のスマリニンカイ(Smalininkai)を通り、北西に向ってバルト海岸のネミルセタ(Nemirseta)に至る線を境界とした。ネミルセタはクライペダ(Klaipėda)の北方約20kmに位置するバルト海岸の町で、その直ぐ北には現在のリトアニアの保養地パランガ(Palanga)がある。したがって、ドイツ騎士団は依然としてバルト海に面するニェムナス川下流地域一帯とバルト海への出口クライペダ(〔独〕メーメル)を確保した。
(*4)「余談111:トルンの講和」参照。
(*5)ネッサウ(Nessau)はトルンの対岸にある現在のヴェルカ・ニェシャフカ(Wielka Nieszawka)である。
(*6)ポメレリアはバルトア海に面する現在のポーランドの港湾都市グダンスク(旧ダンツィヒ)を中心とするポモージェ・グダンスキエ(あるいは、東ポモージェと呼ばれる地域)の英語呼称である(「余談98:ラツィオンシュの講和」の蛇足(8)参照)。ヘウムノ地方は現在のポーランド北部のヴィスワ河畔の都市ヘウムノ(Chełmno)を中心とする地域だが、ここはドイツ騎士団がポーランドに入植したとき以来の土地である(「余談57:トランシルヴァニアのドイツ騎士団」参照)。ミハウフ(Michałów)地方は現在のポーランド北部の都市ブロドニツァ(Brodnica)周辺のドルヴェンツァ川東岸の地域であるが、ドルヴェンツァ川の下流では東岸はポーランド領であったから、ここはドイツ騎士団とポーランドの係争の地であった。
(*7)「余談116:フス戦争とジギスムント・コリブト」参照。
(*8)ヴェリュオナ(Veliuona)はカウナスの西北西約45kmにあるニェムナス川右岸(北岸)の城。「余談70:ニェムナス川下流に進出したドイツ騎士団」参照。
(*9)ケジュマロク(Kežmarok)は現在のスロヴァキア北東部の都市で、コシツェ(Košice)の北西約75kmにある。
(*10)「余談117:ゴルプ戦争」参照。
(*11)ドイツ騎士団に対する両国の立場の違いが顕在化したのは1425年に起ったと伝えられている「ルビチの水車場の帰属問題」である。ルビチ(Lubicz)はドルヴェンツァ川がヴィスワ川に合流する地点近くの、ドルヴェンツァ川下流右岸(西岸)にあり、トルンからは東方に10kmほどしか離れていない。この地理的位置から、ここはドイツ騎士団領の最前線に位置する戦略上の要衝で、そこは要塞化されていた。この要塞の帰属をめぐって、「メウノの講和」が締結されたあとになって、ポーランドとドイツ騎士団が争ったのだ。「メウノの講和」において有利な立場でドイツ騎士団と和解したリトアニアのヴィタウタス大公にしてみれば、いまさら寝た子を起すようなことをしてもらっては困るということだった。もしポーランドがここを獲得することに拘れば、その代償として、リトアニアはバルト海岸のパランガまでもドイツ騎士団に譲渡せざるを得なくなると言って、ヴィタウタスはヨガイラに譲歩を迫り、結局、ここはドイツ騎士団に帰属することで決着した。しかし、この一件がヨガイラとヴィタウタスの関係を破綻させた。これ以後、ドイツ騎士団はリトアニアとの友好関係を促進し、ヴィタウタスがリトアニア王として戴冠できるよう支援するなどと言ってポーランドとリトアニアの関係分断をはかったため、両者の間に深刻な対立感情が醸成されて行った。
(2021年11月 記)