No | 年 | 発行回数 | 記事数 (投稿者数) | 訪問者数 | コメント数 |
1 | ~2009/7/E | 68 | 172(24) | 13810 | 289 |
2 | ~2010/7/E | 42 | 116(17) | 23124 | 134 |
3 | ~2011/7/E | 34 | 83(15) | 33269 | 67 |
4 | ~2012/7/E | 54 | 116(16) | 24196 | 221 |
5 | ~2013/7/E | 52 | 90(13) | 27875 | 82 |
6 | ~2014/7/E | 26 | 70(11) | 27287 | 28 |
7 | ~2015/7/E | 26 | 69(9) | 17378 | 35 |
8 | ~2016/7/E | 24 | 59(9) | 21783 | 33 |
9 | ~2017/7/E | 24 | 65(7) | 16088 | 32 |
10 | ~2018/7/E | 24 | 59(8) | 18800 | 66 |
11 | ~2019/7/E | 24 | 65(9) | 20942 | 46 |
12 | ~2020/7/E | 24 | 52(8) | 19737 | 40 |
13 | ~2021/7/E | 24 | 42(5) | 17219 | 38 |
14 | ~2022/1/E | 12 | 21(5) | 6206 | 24 |
オンライン不惑会報告(56年会)
★お知らせ★ 昨年(2021年)開催予定であった55年会は中止になっています。 今回の56年会行事をムービー化したものは後日公開予定です。 |
・開発の歴史と諸方式
・開発プロジェクト紹介 →ITERなど
・セキュリティ対策
・安心安全な社会を目指して
一方、皇帝ジギスムントの指導力ばかりが目立ったこの会議に不満を募らせた教皇マルティヌス5世は(*3)、ポーランド貴族たちに与してヴィタウタスの戴冠に反対する姿勢を示したから、これを錦の御旗として勢いづいたポーランド貴族たちは、国王ヨガイラに翻意を迫った。ヨガイラがこの圧力に屈したため、ポーランド貴族代表は直ちに皇帝ジギスムントに書簡を送って、ヨガイラがヴィタウタスの戴冠に反対である旨通告した。
しかし、ポーランド王ヨガイラは、貴族たちの同意なしには、この件は如何とも為し難いと答えるのみで問題は膠着状態に陥った。これに苛立ったリトアニアの人々は、これ以上ポーランド王の意見など訊く必要はないとして、ポーランド貴族たちの意向に関係なくヴィタウタスの戴冠を強行することにした。
(*1)「余談120:晩年のヴィタウタス大公」参照。
(*2)ポーランドの貴族たちは、リトアニアからヨガイラを国王に迎えたときから、リトアニアをポーランドとの同君連合国家とし、やがてはリトアニアを併合して植民地化することを狙っていた。したがって、ヴィタウタス大公の戴冠に猛反対するのは当然のことであったが、ヨガイラがそれを承知でヴィタウタスの戴冠を支持したことは意外だった。何故か?当時のヨガイラの胸中を推測することは興味深い問題だ。
(*3)ここで想起されるのが、1076年の「カノッサの屈辱」で象徴される叙任権闘争であろう。ローマ教皇と神聖ローマ皇帝の世俗問題に対する権限の争いは、ジギスムントの時代になると、教皇の権威が落ちて目立たなくなっていたが、問題によっては両者の対立が表面化した。
(*4)ヴィタウタスが戴冠してリトアニア王となることは、彼個人の野心だけでなく、リトアニアの人々の願望でもあった。実際、1398年に「サリーナス条約」(「余談93:クリミア遠征とサリーナス条約」参照)が締結された直後に、リトアニアの貴族たちは「ヴィタウタスをリトアニア王とする」と一方的に宣言している。また、それとは別に、1410年の「ジャルギリスの戦い」の直前に、皇帝ジギスムントが「ケジュマロクの会談」でヴィタウタスに戴冠することを提案している。これはヴィタウタスとヨガイラの仲を引き裂くための陰謀であったから、ヴィタウタスは無視したが(「余談102:権謀術数をめぐらすドイツ騎士団」参照)、とにかく、かなり以前から彼の戴冠問題は俎上に載っていた。要するに、当時のヴィタウタスが既に王にふさわしい人物として内外から評価されていたといえよう。そうした事実も踏まえてヴィタウタスは自身の戴冠の妥当性を主張していたようだ。
(*5)サンドミエシュ(Sandomierz)はクラクフの東北東約146kmに位置するヴィスワ河畔の都市である。
(*6)この提案の核心は、ヴィタウタスがポーランド王になるだけで、リトアニアは相変わらずポーランド王に従属する大公国のままにしておくということで、ポーランド貴族たちのリトアニアに対する執拗な支配願望が貫かれていることであった。さらに、ヨガイラもヴィタウタスも既に高齢であったから、ヴィタウタス没後は、ポーランド貴族たちが都合のよい人物をポーランド王に選出すれば、リトアニアはその王の下にポーランドの一部として併合できるという読みもあった。このような提案にヴィタウタスが激怒したのも当然であった。
(*7)ここで重要な点は、教皇が反対しているにもかかわらず、神聖ローマ皇帝ジギスムントがヴィタウタスの戴冠を支持していたことである。問題は、選帝侯によって選出された神聖ローマ皇帝が他の人物に王冠を授けて「国王」にすることができるか、という点に絞られたが、ポーランドのクラクフ大学の教授たちは教会法を根拠に否定的な見解を示した。これに対して、ジギスムントはこの問題をウイーン大学の法学教授たちに諮問した。ウイーン大学の教授たちはローマ法を根拠に、ジギスムントにその資格と権限があると断じた。皇帝ジギスムントはこれに力を得て、戴冠は世俗問題であって教会の祝福を必要としないとヴィタウタスに伝えた。実際、それまでも、この主張を裏付ける幾つかの事例があった。ジギスムントは念を入れて、ローマ法と教会法の両方に精通した学者をヴィタウタスのもとに派遣して、ヴィタウタスの戴冠は全く合法であることを詳しく説明させた。これによって、ヴィタウタスも納得し、皇帝ジギスムントからリトアニア王としての王冠をうける準備に取り掛かった。なお、ジギスムントは1433年5月31日に皇帝として戴冠するので、この時点では、彼は事実上の神聖ローマ皇帝であっても、戴冠していない皇帝であった。しかし、皇帝の戴冠は既に形骸化して久しく、選出された直後に戴冠した皇帝は少なくなっていたし、中には戴冠せずに終わる皇帝もいたから、これが問題となることはなかったようだ。
(2022年2月 記)
一方、皇帝ジギスムントの指導力ばかりが目立ったこの会議に不満を募らせた教皇マルティヌス5世は(*3)、ポーランド貴族たちに与してヴィタウタスの戴冠に反対する姿勢を示したから、これを錦の御旗として勢いづいたポーランド貴族たちは、国王ヨガイラに翻意を迫った。ヨガイラがこの圧力に屈したため、ポーランド貴族代表は直ちに皇帝ジギスムントに書簡を送って、ヨガイラがヴィタウタスの戴冠に反対である旨通告した。
しかし、ポーランド王ヨガイラは、貴族たちの同意なしには、この件は如何とも為し難いと答えるのみで問題は膠着状態に陥った。これに苛立ったリトアニアの人々は、これ以上ポーランド王の意見など訊く必要はないとして、ポーランド貴族たちの意向に関係なくヴィタウタスの戴冠を強行することにした。
(*1)「余談120:晩年のヴィタウタス大公」参照。
(*2)ポーランドの貴族たちは、リトアニアからヨガイラを国王に迎えたときから、リトアニアをポーランドとの同君連合国家とし、やがてはリトアニアを併合して植民地化することを狙っていた。したがって、ヴィタウタス大公の戴冠に猛反対するのは当然のことであったが、ヨガイラがそれを承知でヴィタウタスの戴冠を支持したことは意外だった。何故か?当時のヨガイラの胸中を推測することは興味深い問題だ。
(*3)ここで想起されるのが、1076年の「カノッサの屈辱」で象徴される叙任権闘争であろう。ローマ教皇と神聖ローマ皇帝の世俗問題に対する権限の争いは、ジギスムントの時代になると、教皇の権威が落ちて目立たなくなっていたが、問題によっては両者の対立が表面化した。
(*4)ヴィタウタスが戴冠してリトアニア王となることは、彼個人の野心だけでなく、リトアニアの人々の願望でもあった。実際、1398年に「サリーナス条約」(「余談93:クリミア遠征とサリーナス条約」参照)が締結された直後に、リトアニアの貴族たちは「ヴィタウタスをリトアニア王とする」と一方的に宣言している。また、それとは別に、1410年の「ジャルギリスの戦い」の直前に、皇帝ジギスムントが「ケジュマロクの会談」でヴィタウタスに戴冠することを提案している。これはヴィタウタスとヨガイラの仲を引き裂くための陰謀であったから、ヴィタウタスは無視したが(「余談102:権謀術数をめぐらすドイツ騎士団」参照)、とにかく、かなり以前から彼の戴冠問題は俎上に載っていた。要するに、当時のヴィタウタスが既に王にふさわしい人物として内外から評価されていたといえよう。そうした事実も踏まえてヴィタウタスは自身の戴冠の妥当性を主張していたようだ。
(*5)サンドミエシュ(Sandomierz)はクラクフの東北東約146kmに位置するヴィスワ河畔の都市である。
(*6)この提案の核心は、ヴィタウタスがポーランド王になるだけで、リトアニアは相変わらずポーランド王に従属する大公国のままにしておくということで、ポーランド貴族たちのリトアニアに対する執拗な支配願望が貫かれていることであった。さらに、ヨガイラもヴィタウタスも既に高齢であったから、ヴィタウタス没後は、ポーランド貴族たちが都合のよい人物をポーランド王に選出すれば、リトアニアはその王の下にポーランドの一部として併合できるという読みもあった。このような提案にヴィタウタスが激怒したのも当然であった。
(*7)ここで重要な点は、教皇が反対しているにもかかわらず、神聖ローマ皇帝ジギスムントがヴィタウタスの戴冠を支持していたことである。問題は、選帝侯によって選出された神聖ローマ皇帝が他の人物に王冠を授けて「国王」にすることができるか、という点に絞られたが、ポーランドのクラクフ大学の教授たちは教会法を根拠に否定的な見解を示した。これに対して、ジギスムントはこの問題をウイーン大学の法学教授たちに諮問した。ウイーン大学の教授たちはローマ法を根拠に、ジギスムントにその資格と権限があると断じた。皇帝ジギスムントはこれに力を得て、戴冠は世俗問題であって教会の祝福を必要としないとヴィタウタスに伝えた。実際、それまでも、この主張を裏付ける幾つかの事例があった。ジギスムントは念を入れて、ローマ法と教会法の両方に精通した学者をヴィタウタスのもとに派遣して、ヴィタウタスの戴冠は全く合法であることを詳しく説明させた。これによって、ヴィタウタスも納得し、皇帝ジギスムントからリトアニア王としての王冠をうける準備に取り掛かった。なお、ジギスムントは1433年5月31日に皇帝として戴冠するので、この時点では、彼は事実上の神聖ローマ皇帝であっても、戴冠していない皇帝であった。しかし、皇帝の戴冠は既に形骸化して久しく、選出された直後に戴冠した皇帝は少なくなっていたし、中には戴冠せずに終わる皇帝もいたから、これが問題となることはなかったようだ。
(2022年2月 記)
オンライン不惑会のご紹介
記事内容 | 備考 |
1 講演レジメ | 講師:桂井誠先生、田中英彦先生 |
2 オンライン会議(WEB会議)について | 初歩知識 留意事項(使用できるブラウザに制限有) |
3 接続手順例その1 | Zoomアプリをインストールしている場合 |
4 接続手順例その2 | Zoomアプリをインストールしていない場合 |
1 講演レジメ
★★下記文書の右上隅にマウスポインタをもっていくとポップアウト(四角形+矢印)が現れます。これをクリックすると、拡大して閲覧できます。印刷、ダウンロードもできます。★★
★★オンライン不惑会のご紹介
記事内容 | 備考 |
1 講演会レジメ | 講師:桂井誠先生、田中英彦先生 |
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★★記事内容 | 備考 |
1 Zoomミーティングへの招待状 | この中のURLをクリックするとすぐに参加できます |
2 講演会レジメ | 講師:桂井誠先生、田中英彦先生 |
3 オンライン会議(WEB会議)について | 初歩知識 留意事項(使用できるブラウザに制限有) |
4 接続手順例その1 | Zoomアプリをインストールしている場合 |
5 接続手順例その2 | Zoomアプリをインストールしていない場合 |
***************************************************************** Takao KATOさんがあなたを予約されたZoomミーティングに招待しています。 トピック: 不惑会事前接続練習2月12日13時から 時間: 2022年2月13日 01:00 PM 大阪、札幌、東京 Zoomミーティングに参加する ミーティングID: 986 0671 3231 パスコード: 892188 ********************************************************** |
2 講演レジメ
★下記文書の右上隅にマウスポインタをもっていくとポップアウト(四角形+矢印)が現れます。これをクリックすると、拡大して閲覧できます。印刷、ダウンロードもできます。☆彡
☆彡さざなみ会/齋藤 嘉博
諸兄、とくに弱電(こんな言葉はもう死語になりましたネエ)関係を卒論に選ばれた方には「さざなみ会」という名をご記憶の方も多いと思います。阪本先生を中心に岡村先生など弱電関係の先生方の研究室になっている私たちが学んだ工学部3号館4階がその拠点でした。 | |
さざなみ会 |
手許にある文集の一冊目は第40回さざなみ会(1985.4.14.)を記念したもので百人あまりの方達が投稿されています。そこに阪本先生は「高周波研究室の第一回の研究発表は昭和19年9月22日、滝保夫、安村光峯両氏による3米受信機・雑音調査です」と書かれています。また岡村先生は「戦争が終わって5年間の海軍生活に別れを告げて研究に戻ったのがついこの間のような気もします」と。
田宮さんの記録によれば第二回のさざなみ会の懇親会は1947年5月5日、戦後の二年を経てのち3号館4階の高周波研究室で、15回以降は好仁会食堂でと記録されています。その後、回を重ねて最終回の第44回は1992年4月、調布深大寺の脇にある雀のお宿で行われ、このときの皆さんのご意向で出来たのが手許にある二冊目の文集
その冒頭に宇都宮先生は「阪本先生が亡くなられて13年、研究室の主、高木さんも他界された。田宮さんにはこの会の運営に大変お世話頂いたが、この辺で56年の歴史のあるさざなみ会を解散すべく、先輩先生方にもご了解を頂いた」と書かれ、さざなみ会の終焉を宣言されたのでした。また猪瀬先生は「高周波談話会やさざなみ会での思い出が走馬灯のように駆け巡った。さざなみ会の方々と共に奥多摩の山々をはるかに見晴るかす、阪本先生のご墓所に詣でた時、相州の清冽な大気の中で、黄金時代は終わったと痛切に思った」と書かれています。
この会の構成、第一回は前述のように疎開先の方達の集まりでした。戦後は電気科の教授と研究室に残られた卒業生、若手研究者が中心ですが、そうした内輪の方々だけでなく国鉄、電電公社、他の大学、そして関連の企業からも集まった多くの方々で構成されていました。当時はまだほとんど知られていなかった医用電子の研究に大学や企業から何人もの熱心な方が集まっておられたのです。いまではビルの同じフロアに様々な企業の部屋が作られて他の分野の知恵を入れようという業際の試みが普通になってきていますが70年前にすでにその芽は出ていたのでした。
55年卒業の私たちのクラスでは大学院に進級された秋山先生、大越先生、吉村博士の俊秀がメンバーで、休学、落第生の私は社会での激しい実務に耐えることがまだ難しいからと、研究生としてこの研究室、さざなみ会の隅にはいらせていただきました。今でこそ医療の現場は電子機器の重装備。CTを撮ればすぐに輪切りの映像が診察の先生の手許に届いて診断ということになる状況ですが、当時は周波数の低いα波、β波の脳波を測定、記録するのが大変。真空管のドリフトをいかに防ぐかなんていう低次元のことが研究の対象だったのです。ほぼ同年輩の東口先生、藤崎先生は休学続きで午後の実験にもあまり出席できずに回路の設定にも不慣れだった私を懇切に指導してくださいました。
そうした研究の傍ら、月に一度の水曜日の昼食はみなさんお弁当を持って4階に集まり、食後には順に旅の様子や身の回りのことなど研究とは離れた話題を話す機会が作られて、これは研究発表の折の表現力の勉強になるのでした。氷川丸で米国留学に出発される宮川先生を横浜港にお送りしたり、国鉄からの研究生だった日下部さんと富士山麓、山中湖に近い大学寮に泊まって討論したり、私にとって大変懐かしいバラエティに富んだ4年間でした。後年私が美術大学という電気とは異質の世界で仕事ができたのも、こうした雰囲気のお陰と思っています。
同窓会から送られてきた最近のメールに「温故知新」と題して桑折先生ほか14人の先生方の回想が載っていたのをご覧になったでしょうか。各先生方の回想は大変懐かしく、さざなみ会の想い出と合わせながら拝見したのでした。電気工学科、すばらしい教室だったのですネ。
さざなみ会/齋藤 嘉博
諸兄、とくに弱電(こんな言葉はもう死語になりましたネエ)関係を卒論に選ばれた方には「さざなみ会」という名をご記憶の方も多いと思います。阪本先生を中心に岡村先生など弱電関係の先生方の研究室になっている私たちが学んだ工学部3号館4階がその拠点でした。 | |
さざなみ会 |
手許にある文集の一冊目は第40回さざなみ会(1985.4.14.)を記念したもので百人あまりの方達が投稿されています。そこに阪本先生は「高周波研究室の第一回の研究発表は昭和19年9月22日、滝保夫、安村光峯両氏による3米受信機・雑音調査です」と書かれています。また岡村先生は「戦争が終わって5年間の海軍生活に別れを告げて研究に戻ったのがついこの間のような気もします」と。
田宮さんの記録によれば第二回のさざなみ会の懇親会は1947年5月5日、戦後の二年を経てのち3号館4階の高周波研究室で、15回以降は好仁会食堂でと記録されています。その後、回を重ねて最終回の第44回は1992年4月、調布深大寺の脇にある雀のお宿で行われ、このときの皆さんのご意向で出来たのが手許にある二冊目の文集
その冒頭に宇都宮先生は「阪本先生が亡くなられて13年、研究室の主、高木さんも他界された。田宮さんにはこの会の運営に大変お世話頂いたが、この辺で56年の歴史のあるさざなみ会を解散すべく、先輩先生方にもご了解を頂いた」と書かれ、さざなみ会の終焉を宣言されたのでした。また猪瀬先生は「高周波談話会やさざなみ会での思い出が走馬灯のように駆け巡った。さざなみ会の方々と共に奥多摩の山々をはるかに見晴るかす、阪本先生のご墓所に詣でた時、相州の清冽な大気の中で、黄金時代は終わったと痛切に思った」と書かれています。
この会の構成、第一回は前述のように疎開先の方達の集まりでした。戦後は電気科の教授と研究室に残られた卒業生、若手研究者が中心ですが、そうした内輪の方々だけでなく国鉄、電電公社、他の大学、そして関連の企業からも集まった多くの方々で構成されていました。当時はまだほとんど知られていなかった医用電子の研究に大学や企業から何人もの熱心な方が集まっておられたのです。いまではビルの同じフロアに様々な企業の部屋が作られて他の分野の知恵を入れようという業際の試みが普通になってきていますが70年前にすでにその芽は出ていたのでした。
55年卒業の私たちのクラスでは大学院に進級された秋山先生、大越先生、吉村博士の俊秀がメンバーで、休学、落第生の私は社会での激しい実務に耐えることがまだ難しいからと、研究生としてこの研究室、さざなみ会の隅にはいらせていただきました。今でこそ医療の現場は電子機器の重装備。CTを撮ればすぐに輪切りの映像が診察の先生の手許に届いて診断ということになる状況ですが、当時は周波数の低いα波、β波の脳波を測定、記録するのが大変。真空管のドリフトをいかに防ぐかなんていう低次元のことが研究の対象だったのです。ほぼ同年輩の東口先生、藤崎先生は休学続きで午後の実験にもあまり出席できずに回路の設定にも不慣れだった私を懇切に指導してくださいました。
そうした研究の傍ら、月に一度の水曜日の昼食はみなさんお弁当を持って4階に集まり、食後には順に旅の様子や身の回りのことなど研究とは離れた話題を話す機会が作られて、これは研究発表の折の表現力の勉強になるのでした。氷川丸で米国留学に出発される宮川先生を横浜港にお送りしたり、国鉄からの研究生だった日下部さんと富士山麓、山中湖に近い大学寮に泊まって討論したり、私にとって大変懐かしいバラエティに富んだ4年間でした。後年私が美術大学という電気とは異質の世界で仕事ができたのも、こうした雰囲気のお陰と思っています。
同窓会から送られてきた最近のメールに「温故知新」と題して桑折先生ほか14人の先生方の回想が載っていたのをご覧になったでしょうか。各先生方の回想は大変懐かしく、さざなみ会の想い出と合わせながら拝見したのでした。電気工学科、すばらしい教室だったのですネ。
1428年、神聖ローマ皇帝ジギスムントは、広く東欧の問題を話し合うために、リトアニア大公ヴィタウタスとポーランド王ヨガイラを招いて、ヴォリニアのルーツクの城(*8)で会談した。このとき、ヴィタウタスは自分のリトアニア王としての戴冠問題を早急に議論してくれるよう皇帝に催促した。その結果、翌年の1月10日、ジギスムントの呼びかけでルーツクにおいて大規模な国際会議が開かれた(*9)。ローマ教皇、ビザンツ帝国皇帝、デンマーク王、ドイツ騎士団代表などのほか、ルーシの諸公など中東欧地域のほとんどの君主が集まった中で、皇帝ジギスムントはヴィタウタスのリトアニア王としての戴冠を公式に提案した。こうして、ヴィタウタスの長年の夢が実現する第一歩が踏み出されたかに見えた。
(*1)トラカイについては、「余談8:ヴィルニュス遷都伝説と神官」の蛇足(3)で述べたように、現在のトラカイと旧トラカイがあって、現在のトラカイには「半島の城」と「島の城」があり、「半島の城」は1377年頃にヴィタウタスの父ケストゥティスによって完成されたが、「島の城」は「半島の城」との連携によって防衛力を強化するために1350年頃からケストゥティスによって段階的に建設が進められ、主要部分が完成したのはヴィタウタスの時代で、「ジャルギリスの戦い」の前年(1409年)のことである。しかし、「ジャルギリスの戦い」の勝利以後、特に1422年の「メウノの講和」以後は、トラカイの城の戦略的重要性が薄れ、平和な時代におけるヴィタウタス大公の権威の象徴としての性格が強くなった。その結果、城内の大広間には豪華な装飾が施され、外国からの賓客の接待などに使われるようになった。こうした城内の壁面を飾る豪華なタペストリはビザンチン様式の図像画に類似しているが、これはルーシの正教文化圏を経由してビザンチン文化がリトアニアに入ってきていたからであろう。因みに、ポーランド王ヨガイラは1413年頃からヴィタウタスが亡くなる1430年までの間に13回もこの城を訪れている。
(*2)15世紀のポーランドの年代記作者ヤン・ドゥウゴシュによると、この当時のリトアニアの運命は彼女らによって左右されかねない状態だったという。
(*3)「余談77:リトアニアのタタール人」参照。
(*4)ユリアナ(Juliana / Julijona)はカラチェフのイヴァン(Ivan of Karachev)と結婚したが、年代記作者ヤン・ドゥウゴシュ(前出)によると、ヴィタウタスがイヴァンを殺害させて彼女を寡婦とし、娶ったというのだが、どうだろうか。カラチェフはブリャンスク(Bryansk)の東南東約45kmに位置する小都市である。
(*5)このときのヴィルニュス司教はポーランド人のピョトル・クラコフチク(Piotr Krakowczyk)で、このときまでヴィルニュス司教はすべてポーランド人が占めていた。最初のリトアニア人ヴィルニュス司教が誕生するのは、この司教の次の(第5代)司教「トラカイのマティアス」(Matthias of Trakai:「余談115:フス戦争とヴィタウタス大公」の蛇足(7)参照)のときである。
(*6)このときの司教はヤン・クロピドゥウォ(Jan Kropidło:在位1402年~1421年3月没)である。ヴウォツワヴェク(Włocławek)は現在のポーランド中部のヴィスワ河畔の都市で、ワルシャワの西北西約140kmに位置している。
(*7)このときヴィタウタスは60歳代後半であった。なお、このあと、教皇マルティヌス5世はヴィタウタスとユリアナとの結婚に対して「教会法の特免」(dispensation)を与えて彼らの結婚を認めた。この当時、西欧カトリック世界は、バルカンに進出したオスマン勢力の脅威に対処するために、ヴィタウタスのような有能な人材を必要としていたから、教皇もヴィタウタスには寛容であったのかも知れない。
(*8)ヴォリニア(Volhynia)とは、現在のウクライナ西部のヴォルイーニ州とリウネ州を中心とした地域の歴史的地名であるが、ルーツク(Lutsk)はその中心都市のひとつで、リヴィウ(L’viv)の北東約130kmに位置している。ここにある城はゲディミナス大公の息子のひとりリュバルタス(Liubartas:「余談68:ヴォリニアとガリチアをめぐる争い」参照)が1340年代に築いた堅固な要塞で、その後、ヴィタウタスによって補強され、16世紀から17世紀にも増改築されている。現在は「ルーツク城」(Lutsk Castle)とか「ルバルトの城」(Lubart’s Castle)と呼ばれ、ルーツクを象徴する歴史遺産になっている。
(*9)この大規模な国際会議は「ルーツク会議」(the Congress of Lutsk)として知られているが、この盛大な国際会議の主議題がヴィタウタスの戴冠問題であったことは、当時、ヴィタウタスが如何に注目された重要人物であったかを物語っている。彼がリトアニア王になれば、ポーランド王ヨガイラとともに、ゲディミナス一族が支配する2つの大国が東欧に出現することになるからだ。
(2022年1月 記)