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季節の花便り

12月の花便り/高橋 郁雄

  令和2年あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。小生今年の誕生日で88歳となります。お互いに健康に留意して日々を過ごしましょう。
  さて、今回は川崎市の東高根森林公園(12月12日)、野川公園自然観察園(12月13日)と大船植物園フラワーセンター(12月20日)からです。
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ツワブキシロバナアブラギク皇帝ダリア
ツワブキ(石蕗):東高根森林公園で撮影しました。本ブログでは5度目の登場です。花の少ない時期に頑張って咲いていました。
  花言葉=「困難に負けない」。日陰でもよく育ち寒さが厳しくなっていく時期に花を咲かせることに因んだ花言葉です。
  冬~春にかけて若葉を摘み取って塩ゆでにするとおいしいらしいです。
シロバナアブラギク(白花油菊):野川公園内の自然観察園で撮影しました。アワコガネギクとリュウノウギクの自然交雑種だそうです。雑種ということで両方の特徴を混ざって受け継いでいるそうです。関東地方~長野県、紀伊半島に分布しているそうです。
皇帝ダリア(八重咲):大船植物園フラワーセンターで撮影しました。本ブログで過去に3度登場している皇帝ダリアはすべて一重でしたが、今回は八重咲です。
  花言葉=「乙女の真心・乙女の純潔」。
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ヒナソウゴクラクチョウカウナズキヒメフヨウ
ヒナソウ(雛草):大船植物園フラワーセンターで撮影しました。原産地:北米大陸東部。開花期(3月~5月)とWebにはありましたが、この写真は12月20日に撮影しました。
  花言葉=「甘い思い出・寛大な愛・会える幸せ・おとぎの国の夢」。
ゴクラクチョウカ(極楽鳥花):大船植物園フラワーセンターの温室内で撮影しました。本ブログで2度目の登場です。花の姿が、ニューギニア島に生息している風鳥に似ていることに由来して名付けられた。英名は「Bird of paradise」(天国の鳥)。
  花言葉=「輝かしい未来・寛容・恋する伊達者・気取った恋」。
ウナズキヒメフヨウ:大船植物園フラワーセンターの温室内で撮影しました。本ブログの(2014/3/1)号で、新宿御苑の温室のものを紹介していますが、花色が赤でした。今回の花色は薄ピンクです。花が蕾の時は上向きだが、だんだん下向きになることから、ウナヅキ(頷き)の名前が付いた。熱帯アメリカ原産で、日本では九州南部~沖縄に分布。
  花言葉=「繊細な美・やさしい感受性」。
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トピックス

閑談会紹介など

昭和35年電気工学科卒業生有志による閑談会のご紹介です。一原君が会の運営を担当し、年に2回開催しています。話題は、参加メンバーの中から話したい人が提供します。病気、家族のことはなるべく避けることになっています。

先日11月27日に、2019年の2回目が開催されました。出席者は池田、一原、入子、桜井、杉本、正田、室谷、山崎。

いつものように12時からの昼食後、
(1)桜井君により「北海道のブラックアウトと千葉の長期停電」、
(2)正田君により「世界の食問題とDigital Gastronomy」
というテーマでの話題提供がありました。

(1)はNHK報道の録画を再生してくれました。
(2)については、配布されたレジメをご覧ください。次の下線部をクリックすると見られます。
それぞれの話題提供の後、意見交換をしました。

閑談会については、このブログのトピックスの中に2008年11月、一原君が紹介している記事があります。参加希望者は、一原君に連絡してください。

なお、閑談会にも参加された枡屋君が、10月7日に昇天されました。
謹んでご冥福をお祈りします。

(文責山崎)
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武田レポート

リトアニア史余談95:ヴィルニュス・ラドム協定/武田 充司

 ポーランド王ヨガイラの后ヤドヴィガは、1399年6月22日、長女エルジビエタ・ボニファチャを出産したが、不幸にも、その子は生れて3日後に亡くなった。そして、ヤドヴィガ自身もそれから1か月も経たない7月17日に亡くなった。
 ヨガイラはポーランド王位継承者であるヤドヴィガの婿としてポーランド王室に迎えられ、ポーランド王となったのだから、この不幸の連鎖はポーランド王としてのヨガイラの地位を不安定なものにした(*1)。一方、リトアニア大公ヴィタウタスは、それから間もない8月12日、クラクフから東へ1000kmも離れたヴォルスクラ河畔の戦いでタタール軍に大敗して面目を失い、政治的危機に直面した(*2)。

 戦場から帰還したヴィタウタスは直ちにクラクフに赴きヨガイラと会った。この時の2人の対面がどのようなものであったのか知る由もないが、不運にも苦しい立場に追い込まれた2人が、以前のように不信感を募らせて争うのではなく、互いにこの場は何とか取り繕って、今後のことを考えようとしたのではなかろうか。

 翌年(1400年)の12月、2人はガルディナス(*3)に会し、過去に2人の間で合意されていた事項を再確認したが、これが「ヴィルニュス・ラドム協定」である(*4)。この協定によって確認された要点は、ヴィタウタスをリトアニア大公としてリトアニアの統治を委ねるが、ヨガイラはヴィタウタスを監督する諸権利を保持する「最高君主」であり、ヴィタウタス没後は、ポーランド王ヨガイラ、あるいは、ヨガイラの合法的な後継者によってリトアニアは統治されるものとする。また、リトアニアとポーランドの貴族は互いに相談することなくポ-ランド王を選出しない、というものであった。

 1401年8月、リャザニに亡命していたスモレンスク公ユーリイ(*5)が、威信失墜のヴィタウタスの隙を突いてスモレンスクを奪還し、ヴィタウタスに臣従していたブリャンスクの貴族たちを処刑してブリャンスクも支配下においた。ヴィタウタスは急遽スモレンスクを包囲したが勝利することができず、ユーリイと休戦して撤退した。しかし、1403年、再度、スモレンスクを包囲したヴィタウタスは、その翌年、スモレンスクを奪還した(*6)。スモレンスクはこの時から1世紀以上にわたってリトアニアの支配下に置かれた(*7)。
 一方、后ヤドヴィガを亡くしたヨガイラは、1402年1月、スロヴェニアのツェリェ伯ヘルマン2世(*8)の娘(養女)アンナを後妻に迎えた。アンナはポーランドのピアスト朝の中でも大王と呼ばれたカジミエシ3世の孫娘であったから(*9)、ヨガイラのポーランド王としての地位は強化された。アンナはそれから6年後の1408年に女児を出産し、世継ぎ問題にも一条の光明をもたらした。

〔蛇足〕
(*1)ポーランドの貴族たちにとってヨガイラはリトアニアをポーランドに併合するための要であったから、そのことに執着していた彼らはそう簡単にはヨガイラを廃して新たなポーランド王を選出することなどできなかっただろうが、それでもヤドヴィガ没後のヨガイラの立場は微妙なものであったはずだ。ヤドヴィガについては「余談84:クレヴァの決議」参照。
(*2)ヨガイラの権力と智謀に対抗できるヴィタスタスの力の源泉は彼の軍事的才能であったから、ヴォルスクラ川の敗北は彼を窮地に追い込んだ。「余談94:ヴォルスクラ川の戦い」参照。
(*3)ガルディナス(Gardinas)はヴィルニュスの南西約150kmに位置し、現在のベラルーシの都市フロドナ(Hrodna)で、以前はグロドノ(Grodno)と呼ばれていた。
(*4)「ヴィルニュス・ラドム協定」については「余談91:ヴィタウタス大公時代のはじまり」の蛇足(6)参照。
(*5)ユーリイは最後のスモレンスク公となった人であるが、1395年にヴィタウタスによってスモレンスクを追われ、岳父であるリャザニ公オレグを頼って亡命していた。
(*6)このとき、ユーリイはモスクワのヴァシリイ1世に支援を要請したが、当時のモスクワ公国の力は未だ十分でなかったことと、ヴァシリイ1世にとってヴィタウタスは岳父であったことなどから(ヴァシリイ1世の后はヴィタウタスのひとり娘ソフィアである。「余談89:ヴィタウタスの娘ソフィアの嫁入り」参照)、ヴァシリイ1世はユーリイを助けなかった。
(*7)スモレンスクがモスクワ公国の支配下に入るのはヴァシリイ3世(在位1505年~1533年)時代の1514年である。それまでの100年以上の間、スモレンスクはリトアニアの重要拠点都市であった。
(*8)1396年のニコポリス十字軍がバヤズィト1世率いるオスマン軍に敗れたとき、ツェリェ伯ヘルマン2世は獅子奮迅の活躍で撤退するハンガリー王ジギスムント(のちの神聖ローマ皇帝)を助けた。その功績によってヘルマン2世はジギスムントの信任を得た。ジギスムントの后マリアはヨガイラの后ヤドヴィガの姉であるが(「余談84:クレヴァの決議」参照)、早世したので、ジギスムントはヘルマン2世の娘バルバラを後妻に迎えた。バルバラはヨガイラの後妻アンナとは姉妹の関係だが、アンナはヘルマン2世の養女なので実の姉妹ではない。ツェリェ(Celje)は現在のスロヴェニア北東部の都市である。当時、スロヴェニアやクロアチアはハンガリー領だった。
(*9)ヨガイラの後妻となったアンナは、ピアスト朝最後のポーランド王で世継ぎの息子に恵まれなかったカジミエシ3世(大王:在位1333年~1370年)の娘アンナがツェリェのウイリアムに嫁いで産んだ娘(母と同名のアンナ)であるが、彼女が幼いとき父ウイリアムが亡くなったため、父の従兄弟であるツェリェ伯ヘルマン2世が彼女を引き取り、養女とした。そこでバルバラと姉妹の関係になった。なお、1408年にヨガイラとアンナとの間に生れた娘は成人したが父ヨガイラより早く1431年に亡くなった。
(番外)ヨガイラ(Jogaila)はリトアニア人である彼の名であるから、ここではすべてヨガイラとしたが、ポーランド王としてはヴワディスワフ2世(Włładysław Ⅱ)、あるいは、ヴワディスワフ2世ヤギェウォ(Włładysław Ⅱ Jagiełło)である。「余談85:ポーランドに婿入りしたヨガイラ」の蛇足(6)参照。
(2019年12月 記)
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沢辺レポート

近頃思うこと(その46)/沢辺 栄一

   「山高きが故に貴からず。樹有るを以って貴しとす。」「人肥たるが故に貴からず。智有るを以って貴しとす。」という言葉を知り、書いてある「実語教」とそれと関連の有る「童子教」に興味を持ち読んでみた。
  このタイトルからは「実語教」のほうが高学年向きと思っていたが、「実語教」が低学年向けで「童子教」の方が高学年向きの内容になっている。「実語教」は平安時代の末期に、「童子教」は鎌倉末期にそれぞれ出来、両者とも作者不明で、その時代から江戸時代まで約千年の子供の教科書として読み続けられてきた。特に江戸時代には広く寺子屋でみっちりと読され、頭にたたきこまれた。人間社会における礼儀、道徳等の基本、勉学を進める智の重要性を教えており、江戸時代の平和な時代を作り上げるのに著しく貢献したと考えられる。西洋では聖書の中で人の道を教えているが、「実語教」「童子教」のような児童用の道徳の教科書は無いように思い、日本の名も無き先人の素晴らしさに感心している。
  福沢諭吉の「学問のすすめ」は「実語教」を下敷きに書かれており、二宮尊徳も「実語教」「童子教」を学んでいる。日本を発展させた明治に活躍した人間は皆江戸時代の教育を受けた人間である。西洋文明の嵐に見舞われて、「実語教」「童子教」は正式な小学校、幼稚園児童の教科書として採用しなかったのは、明治時代の教育者が西洋文明に眼を奪われ、伝統の有る日本文化を軽視し、日本文化、教育の良さを評価できない人間であった結果と思う。
  明治天皇が日本の歴史的な教えに基づき、仁義忠孝を明らかにし、道徳の授業は儒教によるものとすることをお示しになられたことを受けて、明治23年になって井上毅、元田永ざね等によって教育勅語が作成された。これがその後の道徳の基本となり、学校での各種の式には必ず読まれて我々の行動の指針となった。戦後は戦争に関係あるとされ、教育勅語は読まれなくなった。教育勅語を知っている人間が教育、指導している間はまだある程度道徳が守られ、教えられていたが、現在はそのような人間が高齢になり、学校で道徳を教えられない人間が多くなり、人間生活における規律が無くなり、凶悪な犯罪が多くなっているように感じている。
  このような状態に対処するため、学校で道徳の授業を採用することが伝わってきているが、古来から伝えられている「実語教」「童子教」を現代の言葉、内容に改め、幼稚園、小学低学年に徹底的に暗唱、記憶させることを行ない、人間社会での行動、思考の基本を身体に埋め込ませる必要があるのではないかと考えるこの頃である。
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トピックス

第11回S41年電気電子クラス会

第11回S41年電気電子クラス会は、2019年11月23日、冷雨でしたが銀杏並木の美しい黄葉に出迎えられて、昨年に続き東京大学本郷構内工学系二号館内松本楼で開催し24名の参加を得ました。

開会に先立ち、前回クラス会以降に訃報を受けた安原君、吉永君、青木正君の三君に弔意を表し黙祷を捧げました。続いて黒須君発声による乾杯で会を始め、コース料理を楽しみながら、賑やかな懇談に移りました。しばしの後、途中退席する小野君に、台風19号による軽井沢での中学同窓会への被害を交えての近況報告をしてもらいました。

その後、食事が一段落した中で、渡辺貞君の卓話を拝聴しました。今回は、「スーパーコンピュータの現状と応用」という技術話題で、注目される量子コンピュータにまで説明がありました。中でスパコンでは、中国の急成長、NVIDIAの戦略性、研究開発のための必須の基盤(インフラ)となっていること、量子コンピュータについては、アルゴリズムやソフトなどの今後の課題まで説明があり、全員、消化不足ながら質疑も続き大いに議論が盛り上がりました。

引き続き、久し振りに参加された諸君から優先で、藤原俊、高山、岡田、木村の諸君、さらに今井、片岡君から近況報告を頂きました。いずれも元気にされており、生活を楽しんでおられ、一部は、まだ現役を継続されておられます。中で、チェロ(高山君)、ピアノ(木村君)の音楽、さらに料理(片岡君)など趣味を継続され、ある者は、8050問題を回避しての孫の誕生心待ち、逆に可愛い孫が息子と共に渡米しての嘆きなどが聞かれました。なお、高山君には、高校時代からの学友として青木正君につき情報提供を頂きました。

その後、黒須君からの元気な話題、石井君からも健康関連の話題などに及びましたが、今回は、卓話での盛り上がりなどから、全員の近況に及ばず定刻を迎えることとなり、会を村木君による発声で一本〆とさせて頂きました。

 文末になりますが、卓話を準備し、また素晴らしいプレゼンで大いに会を盛り上げていただいた渡辺貞君には、感謝申し上げます。今回も、ご参加の皆さんの笑顔が目立つ素晴らしい一日であったと思いました。

                                    田中(記)


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大橋レポート

ストラスブールの思い出/大橋 康隆

 1998年7月5日は、日曜日だったのでストラスブールの旧市街の見物をすることにした。駅に近いホテルから南東々に300m位進むと、イル川に架かるキュス橋(Pont Kuss)に到着した。
 ここを渡ると旧市街で、東方に600m位進むとクレベール広場(Pl.Kleber)、更に少し進むとグーテンベルク広場(Pl.Gutenberg)に到着した。広場の中心には、グーテンベルクの像がある。(写真1)更に東方に500m位進むと、ノートルダム大聖堂に到着した。(写真2)大聖堂の近くに観光案内所があり、旧市街を囲むイル川を一周する遊覧船に乗ることにした。
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写真1グーテンベルク像写真2大聖堂写真3川岸の建物
 出発点は、大聖堂の南300mにあるカルボー橋(Pont du Carbeau)の川岸であった。乗船すると、早速素晴らしい木骨組みの建物が現れた。(写真3)更に進むと旧市街東部にある小フランス(Petite France)に到着し、木骨組みの建物が密集して現れ、多くの観光客が川岸に溢れていた。(写真4)ここで川は4本に分かれるが、遊覧船は北西に進み、続いて西方に更に南西に進んで、旧市街の西部に到着した。ここでは、かって牢獄として使われたヴォーバン・ダム(Barrage Vauban)がある。(写真5)近くには現代美術館が見える。ここから旧市街の南部を見物して、何処を通ったのか記憶にないが、大聖堂から北西2kmにあるヨーロッパ宮を川から撮影している。(写真6)ここでは欧州議会と欧州評議会が開催されるが、壮大なガラス張りの建物であった。
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写真4小フランス写真5ヴォーバンダム写真6ヨーロッパ宮
 7月6日は、私も背広に着かえ、トラムに乗って国際炭素学会が開催されるストラスブール大学(Universite de Strasbourg)に向かった。大学は大聖堂から南東部の新市街にある。ここで家内と学会に登録し、私も同伴家族であることが認められた。学会が始まる前に、日頃家内がお世話になっている国内、海外の学会員の方々に挨拶した。一人で参加している日本人教授の方が早速私達のツーショットを撮って下さり恐縮した。学会の基調講演は私も拝聴したが、専門別の学会発表が始まると、私は判らないので、展示室を見学した。国際炭素学会は炭素の種々の形態を広範に扱っており、素人にも結構興味深かった。昼食と夕食は、家内の親しい参加者の方々と共にして、楽しんだ。学会は、同伴家族のためのプログラムを用意しており、7月7日夕方に大聖堂でパイプオルガン演奏、7月9日は貸切バスでドイツの黒い森(Schwarzwald)の見学ツアーがあり、早速参加登録をした。
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写真7教会写真8教会写真9ライン川の橋
 7月7日は、家内は学会へ、私はドイツのケールを訪れた。ドイツと言っても、ライン川を渡れば次の駅で10分で行ける。しかし、各駅停車の列車は少ないので、注意する必要がある。町には美しい教会や静かな池がある。(写真7)(写真8)一方では街角に小さな市場もある。とにかく静かな町であった。午後は早目に切り上げ、ライン川に架かる橋を歩いて渡り、トラムに乗って、ホテルに帰着した。(写真9)夕方は背広に着かえ、家内と共に大聖堂のパイプオルガン演奏を楽しんだ。大聖堂に響き渡るパイプオルガンは荘厳であった。
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季節の花便り

11月の花便り/高橋 郁雄

  今回も大船植物園フラワーセンターからです。10月29日~11月17日まで菊花大会が開かれていました。6枚すべて11月12日に撮影しました。
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一文字菊フォックスフェイスの実フォックスフェイスの花
一文字菊:和名(ヒロノシ)、別名「ゴモンショウギク(御紋章菊)」「ヒラダイ(平台)」。花びらの数が16枚前後の一重咲きの大輪菊です。
  花言葉=「貞節・貞淑」。11月12日の誕生花。
フォックスフェイスの実と花:南アメリカ原産のナス属の植物。まるで、狐(キツネ)の顔のような黄色い実をブラブラと付ける「ナス」属の仲間です。花はナス属なので、茄子の花に似ていますね。
  花言葉=「偽りの言葉・私の思い」。
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デンマークカクタスイトラッキョウハナカタバミ
デンマークカクタス:原産地はブラジル。サボテン科の多肉植物。別名:シャコバサボテン、クリスマスカクタス。花色は(赤、ピンク、橙、紅紫、桃、黄、白)など多種があるようです。
  花言葉=「美しい眺め・ひとときの美・冒険心・つむじ曲がり・熱意」。
イトラッキョウ:(糸辣韮)ユリ科アリウム属(ネギ属)の多年草。この花は優しさが匂うような可憐な色合いの花です。長崎の平戸島のみに自生する固有種です。
ハナカタバミ:(花片喰)、葉の先端が食べられたように欠けていることに由来して名付けられたそうです。
  花言葉=「あなたと過ごしたい・決してあなたを捨てない・輝く心・母親の優しさ・喜び」。1月15日の誕生花。

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沢辺レポート

近頃思うこと(その45)/沢辺 栄一

  前回のブログでオリンピック委員会(IOC)の気配りの無さを指摘したが、その後、暑さ対策の対応についても気配りの無さを露呈した。
  IOCは9月に高温と高湿度の中でのカタールのドーハで実施された陸上世界選手権の女子マラソンと競歩で、参加選手の約40%が棄権したので、あわてて東京オリンピックのマラソンと競歩を札幌に移転した。関係都市の東京、札幌に何の相談も無く、一方的に理事会の決定だとして伝達してきた。

  これまで各種の暑さ対策等に数百億円を掛けてきた東京都が怒るのは当然であり、札幌市でのマラソンの資金を都民の税金を出すことを拒否している。これまで掛けた費用の賠償を要求するとしている。また、マラソン見物に期待を掛けているコース周辺の住民やチケット購入者の不満、途惑い、突然押し付けられた札幌市のマラソンへの準備対応とその資金の捻出の課題等々色々な問題を招いている。

  オリンピック委員会はオリンピックを遣らせてやるのだと一段上の立場からトップダウン的に開催都市を軽視した発言をしている。一般に欧米人はトップダウンで決定することが多いように思うが、トップダウンは発言者に能力があり、発言を受けた立場の人が従順で、比較的能力が低い場合には効果的である。オリンピック委員会の委員はスポーツの専門家であり、スポーツ以外には比較的目が届かない狭い視野の人達で、影響を受ける人達への気配りをしない目先の決定をしたのであろう。日本人は一般的に能力がある人が多く、ものを決める場合に根回し、下相談等、事前に関係者の了解を得る行為を行い、その際、良い考えがあれば、それをピックアップすることも行なっており、その後の関係も滑らかに進めていくことができるよう配慮している。

  オリンピック委員会の今回のマラソン競技の札幌市への移転の決定は選手の暑さ対策による変更であるとは言え、もう少し遣り方があったのではないだろうか。上記のように、各種の問題を残しており、今後の成り行きを注目していきたいと思っているところである。

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武田レポート

リトアニア史余談94:ヴォルスクラ川の戦い/武田 充司

 ウクライナの首都キエフの東南東300kmほどのところにポルタヴァという都市がある。そこは18世紀初頭の大北方戦争の行方を決した大会戦「ポルタヴァの戦い」があった場所として知られているが、それより310年前の1399年、ポルタヴァの北方郊外のヴォルスクラ河畔でリトアニア大公ヴィタウタス率いる遠征軍がキプチャク汗国の汗テミュール・クトルク率いるタタール軍と対峙した。

   このとき、ヴィタウタスは、ティムールの傀儡テミュール・クトルクに汗位を奪われて国を追われたトクタミシュ(*1)の復位を支援するという口実で(*2)、大軍を率いてこの地に遠征してきたのだった。遠征軍にはドイツ騎士団の騎士たちも加わっていた(*3)。ウクライナ南部の草原地帯に潜伏していたトクタミシュも一軍を率いてリトアニア軍に合流した。

 一方、形勢不利とみたテミュール・クトルクは、軍司令官エディグ(*4)率いる援軍が到着するまで戦闘開始を引き延ばそうと、一計を案じて敵陣に使者を送った。そして、首尾よく3日間の休戦をヴィタウタスに認めさせた。このとき、テミュール・クトルクは、「これからの3日間を互いに戦闘準備に充てることにして、戦いはそのあとにしよう」と提案したというが、違う説明もあり(*5)、真相は不明だ。
 しかし、ヴィタウタスは、この3日間に多数の軍用車輛を並べて強力な防禦壁をつくった。彼はその背後に兵力を結集して、疾風のように襲いかかるタタールの騎馬兵の足を止め、防禦壁内の陣中から一斉射撃を浴びせて敵を殲滅しようという作戦を立てた。ヴィタウタス率いる遠征軍は、ドイツ騎士団の協力を得て、優れた装備と強力な弩弓や火砲をもっていたが、兵員の数は限られていたから、敵地に近い戦場ではこうした作戦が適していると判断したのだろう。

 こうして3日間が過ぎ、1399年8月12日、ヴォルスクラ川を挟んで対峙した両軍は一斉に火ぶたを切った。予想通り、タタールの騎馬兵はリトアニア陣営めがけて雲霞の如く襲いかかってきたが、リトアニア側からの一斉射撃を喰うと、あっという間に逃げ去ってしまった(*6)。これでは戦にならぬと思ったヴィタウタスは、全軍を率いて車輛で築いた防禦壁内の陣地を出ると、蜘蛛の子を散らすように逃げる敵兵を追撃した。もはや勝負あったと勇み立つヴィタウタス軍が自陣から遠く離れたそのとき、エディグ率いるタタールの精鋭軍団が突如として背後から襲ってきた。そして、リトアニア軍はあっという間に包囲されてしまった。これを見たトクタミシュは真っ先に戦線を離脱し逃走した。これがきっかけでリトアニア軍は総崩れとなり、夥しい死傷者を残して敗走した(*7)。ヴィタウタスとジギマンタスの兄弟は数人のドイツ騎士団幹部とともに辛うじて戦場から脱出し生還した(*8)。

〔蛇足〕
(*1)キプチャク汗国の汗であったトクタミシュは、1391年にキプチャク汗国の北部に侵攻したティムール朝の始祖ティムールを迎え撃ったが「コンドゥルチャ川の戦い」で敗れ、1395年にはカフカス山脈北側のテレク河畔の戦いで再度ティムールに苦杯を喫した。そして、その翌年にティムールが擁立したテミュール・クトルクに汗位を奪われたトクタミシュは、黒海北岸の草原地帯に逃れてヴィタウタスに支援を求めた。なお、トクタミシュはキプチャク汗国建国の祖バトゥの異母弟トゥカ・テムルの7代目の末裔と言われている。一方、テミュール・クトルクは、混乱していたキプチャク汗国を統一した汗ウルスの孫である。ウルス没後、彼の父(したがってウルスの息子)テミュール・マリクはトクタミシュと争って敗れ、トクタミシュに殺害されたが、トクタミシュは父を亡くしたテミュール・クトルクを引き取って面倒をみた。しかし、テミュール・クトルクは父の仇であるトクタミシュを許さず、腹心の部下エディグとともにトクタミシュの宮廷を脱出してティムールのもとに逃れ、トクタミシュに反旗を翻した。このように、トクタミシュとテミュール・クトルクは因縁浅からぬ関係にあった。
(*2)当時は教会大分裂の時代であったが、1399年5月、教皇ボニファティウス9世が、クラクフの司教らの働きかけもあって、東方の異教徒討伐十字軍を勧奨したことがこの遠征の本当の理由と言われている。
(*3)このとき既にサリーナス条約によってリトアニアとドイツ騎士団は軍事同盟を結んでいた(「余談93:クリミア遠征とサリーナス条約」参照)。
(*4)エディグは、先に述べたように、テミュール・クトルクの腹心の部下であったが、有能なエディグが実権を握っていて、テミュール・クトルクはエディグに操られていた。
(*5)ロシアの年代記には以下のような面白い説明があるという。それによると、テミュール・クトルクが「何故に貴殿は我々を攻撃するのか、我々は貴殿の領土を侵したことはないぞ」と対岸のヴィタウタスに問うと、ヴォタウタスは「神が私に全ての土地を征服せよと告げたからだ。貴殿は私の家臣にならねばならぬ」と言い放った。これに応じてテミュール・クトルクはヴィタウタスに臣従したが、ヴィタウタスがキプチャク汗国の貨幣に自分のサインを刻印することを要求したため、テミュール・クトルクは即答を避け、3日間考えさせて欲しいと言った。そのあとエディグが到着してこの話を聞き、激怒し、「我らの汗テミュール・クトルクは貴殿より年長だ。貴殿こそ我が汗に仕えるべきだ」といって戦闘開始に至ったというのだ。
(*6)この戦い方は軽装備で機動力に富むモンゴル軍がよくやる戦法であった。
(*7)ヴィタウタスに従って遠征した50人ほどの諸侯のうち約20人が戦死したという。その中にはポーランド王ヨガイラの異母兄(ヴィタウタスの従兄)のアンドレイとドミートリイもいた(彼らについては「余談79:アルギルダス大公没後の内紛」参照)。また、ヴィタウタスの異母兄ブタウタスが1365年に家臣とともにドイツ騎士団に寝返ったとき以来ドイツ騎士団に仕えていた家臣スルヴィラも、このときドイツ騎士団側の有能な通訳兼外交官として遠征に参加していたが、この戦いで戦死した。そのほかに、リトアニア軍に加わっていたモルドヴァのステファン1世も2人の兄弟とともに戦死した。
(*8)このとき、彼ら兄弟は、2人のドイツ騎士団幹部とマルクァード・フォン・ザルツバッハ(「余談87:同君連合下のリトアニア」の蛇足(6)参照)とともに脱出したという。
(番外)この戦いで勝利したタタール軍は撤退するリトアニア軍を追ってキエフに達し、さらに西進してヴォリニアのルーツクまで侵攻した。しかし、このあと間もなく、テミュール・クトルクはトクタミシュの息子に殺害され、汗位はテミュール・クトルクの弟シャディ・ベグ(在位1399年~1407年)にうけ継がれたが、実権は依然としてエディグが握っていた。一方、逃げたトクタミシュも1406年に西シベリアのチュメニにおいてエディグに殺害された。
(2019年11月 記)
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斎藤さんのお話

運転免許返納/齋藤 嘉博

  私の自動車免許証は今年の9月18日まで。この機会に免許証を返納しようと決心しました。
  真に痛ましい事故が続いています。高齢者だけが悪者ではないと思いますが、やはり高齢ゆえの事故が多くなっていることは確かでしょう。運転の誤りで自分が電信柱にぶつけてというのならまだ許せますが、他人様を巻き込んで、とくに児童を殺傷する事故は本当に胸が痛みます。私が最初にハンドルを握ったのは1944年のことでした。学徒動員で仕事をしているときに、その構内で軍用トラックを動かしたのです。構内ですから無免許でも罰にはなりません。その後何回か無免許でハンドルを握って練習。1957年に鮫洲の免許試験場で合格。当時は鮫洲も海の際。方向指示器は手動で赤い矢印が出るアポロでした。それ以来60年余り、事故もなく優良免許で過ごしました。

  いや実は一昨年暮れに事故を起こしたのです。給油所のおじさんが洗車をしていらっしゃいと大変しつこく言いましたので、それならと洗車場に入りました。“いってらっしゃい”という言葉を耳にしたのが仇。いつもなら定位置に停車しているのに、その言葉で「あすこまでゆっくり行けばイインダと錯覚。そろそろと車を前に出したのがいけませんでした。途中で洗車ブラシにからまれてフロントガラスはバリバリと割れ、車はぺしゃんこ。あとで「こんな状態でよく生きていられましたネエ」と車を見たディーラー、保険屋さんは異口同音にびっくり仰天!!小生かすり傷もなく、あとは保険屋さんの仕事と雨の降る中を帰宅したのでした。それ以来家内も娘も「車の運転絶対にいけません!!!」。キーは取り上げられてしまいましたが、免許証があればレンタカーもカーシェアもあるし、と思いながら。でも運転はしませんでした。この事故で全く怪我がなかったのは毎朝般若心経をあげる阿弥陀様のご加護のおかげとしか考えられませんし、この辺で車はやめなさいという啓示だったのでしょう。先月初めの京急衝突事故。トラックの運転手の心理は前述の洗車場事故と思い合わせて私には分かるような気がします。

  このところの事故、多くがアクセルとブレーキの踏み違いと言われ防止用の器具まで売られているようですが、私はもうずっと左足でブレーキ、右足でアクセルとしていました。脚は二本ですから二つのペダルを両足で分けて使うのが自然の摂理でしょう。昔はクラッチがありましたのでこうはいきませんでしたが今の車はすべてオート。これによって踏み間違いの事故はぐっと少なくなるし、危険の場合のブレーキも0.3秒早く踏むことができる。事故の確率は減るでしょう。しかし現在の日本の教習所はそれを忌避するのです。免許更新の実地試験では左足を使わないでくださいと注意されました。

  代々木署に返納の手続きをすますと、やはりなんとなく寂しさがこみあげて、アアこれで俺の人生も終わったナという思い。冥途へのパスポートをもらった感覚で「この証明があれば冥途での運転はできますヨネ」と言いましたら、ご婦人の警官が「エエ、出来ますヨ」とユーモアを解せる明るいご返事でした。

  60年以上の間、車にはずいぶんお世話になったことです。国内よりむしろ海外、特に米国でのドライブが大きな楽しみでした。ヨセミテ、イエロストーンなど多くの国立公園を走りましたが、最も印象に残っているのはブライスキャニオンの景観が見たくて計画した2003年の旅です。ラスベガスで車を借りてまっすぐにブライスキャニオンへ。そこに三泊してゆっくりとこのキャニオンを楽しみ、隣のザイオンNPへ。さらに黄葉の林のなかを走って、あまり人の行かないグランドキャニオンのノースリムからの眺めは、やはり南壁からの眺めとは違って荒々しさの目立つすばらしいものでした。

  パウエル湖での水面に浮かぶ夕月の姿も旅情をそそり、ここから東に走ってナバホの自治区であるモニュメントバレーへ。ブログ1.jpgブログ2.jpg
モニュメントバレー
へのドライブ
ミッチェルビュート
の落日

  夕陽に浮かぶビュートのシルエット、ジョン・ウェインが活躍した広大な砂漠はぞくぞくする気分。そしていくつかのキャニオンランドを巡って最後はグランドキャニオンへ。ベストウエスタンのモーテルを泊り走った18日間、1613マイルのドライブでした。もう車では走れないと思うと幾何の悲哀が残ります。

  これからの高齢社会、いくら自動運転が一般化しても事故はますます多く、そして大きなものになるでしょうが、なんとか子供を巻き添えにする事故はなくなってほしいものです。