先日11月27日に、2019年の2回目が開催されました。出席者は池田、一原、入子、桜井、杉本、正田、室谷、山崎。
いつものように12時からの昼食後、
(1)桜井君により「北海道のブラックアウトと千葉の長期停電」、
(2)正田君により「世界の食問題とDigital Gastronomy」
というテーマでの話題提供がありました。
(1)はNHK報道の録画を再生してくれました。
(2)については、配布されたレジメをご覧ください。次の下線部をクリックすると見られます。
謹んでご冥福をお祈りします。
一方、后ヤドヴィガを亡くしたヨガイラは、1402年1月、スロヴェニアのツェリェ伯ヘルマン2世(*8)の娘(養女)アンナを後妻に迎えた。アンナはポーランドのピアスト朝の中でも大王と呼ばれたカジミエシ3世の孫娘であったから(*9)、ヨガイラのポーランド王としての地位は強化された。アンナはそれから6年後の1408年に女児を出産し、世継ぎ問題にも一条の光明をもたらした。
(*1)ポーランドの貴族たちにとってヨガイラはリトアニアをポーランドに併合するための要であったから、そのことに執着していた彼らはそう簡単にはヨガイラを廃して新たなポーランド王を選出することなどできなかっただろうが、それでもヤドヴィガ没後のヨガイラの立場は微妙なものであったはずだ。ヤドヴィガについては「余談84:クレヴァの決議」参照。
(*2)ヨガイラの権力と智謀に対抗できるヴィタスタスの力の源泉は彼の軍事的才能であったから、ヴォルスクラ川の敗北は彼を窮地に追い込んだ。「余談94:ヴォルスクラ川の戦い」参照。
(*3)ガルディナス(Gardinas)はヴィルニュスの南西約150kmに位置し、現在のベラルーシの都市フロドナ(Hrodna)で、以前はグロドノ(Grodno)と呼ばれていた。
(*4)「ヴィルニュス・ラドム協定」については「余談91:ヴィタウタス大公時代のはじまり」の蛇足(6)参照。
(*5)ユーリイは最後のスモレンスク公となった人であるが、1395年にヴィタウタスによってスモレンスクを追われ、岳父であるリャザニ公オレグを頼って亡命していた。
(*6)このとき、ユーリイはモスクワのヴァシリイ1世に支援を要請したが、当時のモスクワ公国の力は未だ十分でなかったことと、ヴァシリイ1世にとってヴィタウタスは岳父であったことなどから(ヴァシリイ1世の后はヴィタウタスのひとり娘ソフィアである。「余談89:ヴィタウタスの娘ソフィアの嫁入り」参照)、ヴァシリイ1世はユーリイを助けなかった。
(*7)スモレンスクがモスクワ公国の支配下に入るのはヴァシリイ3世(在位1505年~1533年)時代の1514年である。それまでの100年以上の間、スモレンスクはリトアニアの重要拠点都市であった。
(*8)1396年のニコポリス十字軍がバヤズィト1世率いるオスマン軍に敗れたとき、ツェリェ伯ヘルマン2世は獅子奮迅の活躍で撤退するハンガリー王ジギスムント(のちの神聖ローマ皇帝)を助けた。その功績によってヘルマン2世はジギスムントの信任を得た。ジギスムントの后マリアはヨガイラの后ヤドヴィガの姉であるが(「余談84:クレヴァの決議」参照)、早世したので、ジギスムントはヘルマン2世の娘バルバラを後妻に迎えた。バルバラはヨガイラの後妻アンナとは姉妹の関係だが、アンナはヘルマン2世の養女なので実の姉妹ではない。ツェリェ(Celje)は現在のスロヴェニア北東部の都市である。当時、スロヴェニアやクロアチアはハンガリー領だった。
(*9)ヨガイラの後妻となったアンナは、ピアスト朝最後のポーランド王で世継ぎの息子に恵まれなかったカジミエシ3世(大王:在位1333年~1370年)の娘アンナがツェリェのウイリアムに嫁いで産んだ娘(母と同名のアンナ)であるが、彼女が幼いとき父ウイリアムが亡くなったため、父の従兄弟であるツェリェ伯ヘルマン2世が彼女を引き取り、養女とした。そこでバルバラと姉妹の関係になった。なお、1408年にヨガイラとアンナとの間に生れた娘は成人したが父ヨガイラより早く1431年に亡くなった。
(番外)ヨガイラ(Jogaila)はリトアニア人である彼の名であるから、ここではすべてヨガイラとしたが、ポーランド王としてはヴワディスワフ2世(Włładysław Ⅱ)、あるいは、ヴワディスワフ2世ヤギェウォ(Włładysław Ⅱ Jagiełło)である。「余談85:ポーランドに婿入りしたヨガイラ」の蛇足(6)参照。
(2019年12月 記)
近頃思うこと(その46)/沢辺 栄一
福沢諭吉の「学問のすすめ」は「実語教」を下敷きに書かれており、二宮尊徳も「実語教」「童子教」を学んでいる。日本を発展させた明治に活躍した人間は皆江戸時代の教育を受けた人間である。西洋文明の嵐に見舞われて、「実語教」「童子教」は正式な小学校、幼稚園児童の教科書として採用しなかったのは、明治時代の教育者が西洋文明に眼を奪われ、伝統の有る日本文化を軽視し、日本文化、教育の良さを評価できない人間であった結果と思う。
明治天皇が日本の歴史的な教えに基づき、仁義忠孝を明らかにし、道徳の授業は儒教によるものとすることをお示しになられたことを受けて、明治23年になって井上毅、元田永ざね等によって教育勅語が作成された。これがその後の道徳の基本となり、学校での各種の式には必ず読まれて我々の行動の指針となった。戦後は戦争に関係あるとされ、教育勅語は読まれなくなった。教育勅語を知っている人間が教育、指導している間はまだある程度道徳が守られ、教えられていたが、現在はそのような人間が高齢になり、学校で道徳を教えられない人間が多くなり、人間生活における規律が無くなり、凶悪な犯罪が多くなっているように感じている。
このような状態に対処するため、学校で道徳の授業を採用することが伝わってきているが、古来から伝えられている「実語教」「童子教」を現代の言葉、内容に改め、幼稚園、小学低学年に徹底的に暗唱、記憶させることを行ない、人間社会での行動、思考の基本を身体に埋め込ませる必要があるのではないかと考えるこの頃である。
第11回S41年電気電子クラス会
第11回S41年電気電子クラス会は、2019年11月23日、冷雨でしたが銀杏並木の美しい黄葉に出迎えられて、昨年に続き東京大学本郷構内工学系二号館内松本楼で開催し24名の参加を得ました。
開会に先立ち、前回クラス会以降に訃報を受けた安原君、吉永君、青木正君の三君に弔意を表し黙祷を捧げました。続いて黒須君発声による乾杯で会を始め、コース料理を楽しみながら、賑やかな懇談に移りました。しばしの後、途中退席する小野君に、台風19号による軽井沢での中学同窓会への被害を交えての近況報告をしてもらいました。
その後、食事が一段落した中で、渡辺貞君の卓話を拝聴しました。今回は、「スーパーコンピュータの現状と応用」という技術話題で、注目される量子コンピュータにまで説明がありました。中でスパコンでは、中国の急成長、NVIDIAの戦略性、研究開発のための必須の基盤(インフラ)となっていること、量子コンピュータについては、アルゴリズムやソフトなどの今後の課題まで説明があり、全員、消化不足ながら質疑も続き大いに議論が盛り上がりました。
引き続き、久し振りに参加された諸君から優先で、藤原俊、高山、岡田、木村の諸君、さらに今井、片岡君から近況報告を頂きました。いずれも元気にされており、生活を楽しんでおられ、一部は、まだ現役を継続されておられます。中で、チェロ(高山君)、ピアノ(木村君)の音楽、さらに料理(片岡君)など趣味を継続され、ある者は、8050問題を回避しての孫の誕生心待ち、逆に可愛い孫が息子と共に渡米しての嘆きなどが聞かれました。なお、高山君には、高校時代からの学友として青木正君につき情報提供を頂きました。
その後、黒須君からの元気な話題、石井君からも健康関連の話題などに及びましたが、今回は、卓話での盛り上がりなどから、全員の近況に及ばず定刻を迎えることとなり、会を村木君による発声で一本〆とさせて頂きました。
文末になりますが、卓話を準備し、また素晴らしいプレゼンで大いに会を盛り上げていただいた渡辺貞君には、感謝申し上げます。今回も、ご参加の皆さんの笑顔が目立つ素晴らしい一日であったと思いました。
田中(記)
ストラスブールの思い出/大橋 康隆
11月の花便り/高橋 郁雄
近頃思うこと(その45)/沢辺 栄一
これまで各種の暑さ対策等に数百億円を掛けてきた東京都が怒るのは当然であり、札幌市でのマラソンの資金を都民の税金を出すことを拒否している。これまで掛けた費用の賠償を要求するとしている。また、マラソン見物に期待を掛けているコース周辺の住民やチケット購入者の不満、途惑い、突然押し付けられた札幌市のマラソンへの準備対応とその資金の捻出の課題等々色々な問題を招いている。
オリンピック委員会はオリンピックを遣らせてやるのだと一段上の立場からトップダウン的に開催都市を軽視した発言をしている。一般に欧米人はトップダウンで決定することが多いように思うが、トップダウンは発言者に能力があり、発言を受けた立場の人が従順で、比較的能力が低い場合には効果的である。オリンピック委員会の委員はスポーツの専門家であり、スポーツ以外には比較的目が届かない狭い視野の人達で、影響を受ける人達への気配りをしない目先の決定をしたのであろう。日本人は一般的に能力がある人が多く、ものを決める場合に根回し、下相談等、事前に関係者の了解を得る行為を行い、その際、良い考えがあれば、それをピックアップすることも行なっており、その後の関係も滑らかに進めていくことができるよう配慮している。
オリンピック委員会の今回のマラソン競技の札幌市への移転の決定は選手の暑さ対策による変更であるとは言え、もう少し遣り方があったのではないだろうか。上記のように、各種の問題を残しており、今後の成り行きを注目していきたいと思っているところである。
しかし、ヴィタウタスは、この3日間に多数の軍用車輛を並べて強力な防禦壁をつくった。彼はその背後に兵力を結集して、疾風のように襲いかかるタタールの騎馬兵の足を止め、防禦壁内の陣中から一斉射撃を浴びせて敵を殲滅しようという作戦を立てた。ヴィタウタス率いる遠征軍は、ドイツ騎士団の協力を得て、優れた装備と強力な弩弓や火砲をもっていたが、兵員の数は限られていたから、敵地に近い戦場ではこうした作戦が適していると判断したのだろう。
(*1)キプチャク汗国の汗であったトクタミシュは、1391年にキプチャク汗国の北部に侵攻したティムール朝の始祖ティムールを迎え撃ったが「コンドゥルチャ川の戦い」で敗れ、1395年にはカフカス山脈北側のテレク河畔の戦いで再度ティムールに苦杯を喫した。そして、その翌年にティムールが擁立したテミュール・クトルクに汗位を奪われたトクタミシュは、黒海北岸の草原地帯に逃れてヴィタウタスに支援を求めた。なお、トクタミシュはキプチャク汗国建国の祖バトゥの異母弟トゥカ・テムルの7代目の末裔と言われている。一方、テミュール・クトルクは、混乱していたキプチャク汗国を統一した汗ウルスの孫である。ウルス没後、彼の父(したがってウルスの息子)テミュール・マリクはトクタミシュと争って敗れ、トクタミシュに殺害されたが、トクタミシュは父を亡くしたテミュール・クトルクを引き取って面倒をみた。しかし、テミュール・クトルクは父の仇であるトクタミシュを許さず、腹心の部下エディグとともにトクタミシュの宮廷を脱出してティムールのもとに逃れ、トクタミシュに反旗を翻した。このように、トクタミシュとテミュール・クトルクは因縁浅からぬ関係にあった。
(*2)当時は教会大分裂の時代であったが、1399年5月、教皇ボニファティウス9世が、クラクフの司教らの働きかけもあって、東方の異教徒討伐十字軍を勧奨したことがこの遠征の本当の理由と言われている。
(*3)このとき既にサリーナス条約によってリトアニアとドイツ騎士団は軍事同盟を結んでいた(「余談93:クリミア遠征とサリーナス条約」参照)。
(*4)エディグは、先に述べたように、テミュール・クトルクの腹心の部下であったが、有能なエディグが実権を握っていて、テミュール・クトルクはエディグに操られていた。
(*5)ロシアの年代記には以下のような面白い説明があるという。それによると、テミュール・クトルクが「何故に貴殿は我々を攻撃するのか、我々は貴殿の領土を侵したことはないぞ」と対岸のヴィタウタスに問うと、ヴォタウタスは「神が私に全ての土地を征服せよと告げたからだ。貴殿は私の家臣にならねばならぬ」と言い放った。これに応じてテミュール・クトルクはヴィタウタスに臣従したが、ヴィタウタスがキプチャク汗国の貨幣に自分のサインを刻印することを要求したため、テミュール・クトルクは即答を避け、3日間考えさせて欲しいと言った。そのあとエディグが到着してこの話を聞き、激怒し、「我らの汗テミュール・クトルクは貴殿より年長だ。貴殿こそ我が汗に仕えるべきだ」といって戦闘開始に至ったというのだ。
(*6)この戦い方は軽装備で機動力に富むモンゴル軍がよくやる戦法であった。
(*7)ヴィタウタスに従って遠征した50人ほどの諸侯のうち約20人が戦死したという。その中にはポーランド王ヨガイラの異母兄(ヴィタウタスの従兄)のアンドレイとドミートリイもいた(彼らについては「余談79:アルギルダス大公没後の内紛」参照)。また、ヴィタウタスの異母兄ブタウタスが1365年に家臣とともにドイツ騎士団に寝返ったとき以来ドイツ騎士団に仕えていた家臣スルヴィラも、このときドイツ騎士団側の有能な通訳兼外交官として遠征に参加していたが、この戦いで戦死した。そのほかに、リトアニア軍に加わっていたモルドヴァのステファン1世も2人の兄弟とともに戦死した。
(*8)このとき、彼ら兄弟は、2人のドイツ騎士団幹部とマルクァード・フォン・ザルツバッハ(「余談87:同君連合下のリトアニア」の蛇足(6)参照)とともに脱出したという。
(番外)この戦いで勝利したタタール軍は撤退するリトアニア軍を追ってキエフに達し、さらに西進してヴォリニアのルーツクまで侵攻した。しかし、このあと間もなく、テミュール・クトルクはトクタミシュの息子に殺害され、汗位はテミュール・クトルクの弟シャディ・ベグ(在位1399年~1407年)にうけ継がれたが、実権は依然としてエディグが握っていた。一方、逃げたトクタミシュも1406年に西シベリアのチュメニにおいてエディグに殺害された。
(2019年11月 記)
運転免許返納/齋藤 嘉博
いや実は一昨年暮れに事故を起こしたのです。給油所のおじさんが洗車をしていらっしゃいと大変しつこく言いましたので、それならと洗車場に入りました。“いってらっしゃい”という言葉を耳にしたのが仇。いつもなら定位置に停車しているのに、その言葉で「あすこまでゆっくり行けばイインダと錯覚。そろそろと車を前に出したのがいけませんでした。途中で洗車ブラシにからまれてフロントガラスはバリバリと割れ、車はぺしゃんこ。あとで「こんな状態でよく生きていられましたネエ」と車を見たディーラー、保険屋さんは異口同音にびっくり仰天!!小生かすり傷もなく、あとは保険屋さんの仕事と雨の降る中を帰宅したのでした。それ以来家内も娘も「車の運転絶対にいけません!!!」。キーは取り上げられてしまいましたが、免許証があればレンタカーもカーシェアもあるし、と思いながら。でも運転はしませんでした。この事故で全く怪我がなかったのは毎朝般若心経をあげる阿弥陀様のご加護のおかげとしか考えられませんし、この辺で車はやめなさいという啓示だったのでしょう。先月初めの京急衝突事故。トラックの運転手の心理は前述の洗車場事故と思い合わせて私には分かるような気がします。
このところの事故、多くがアクセルとブレーキの踏み違いと言われ防止用の器具まで売られているようですが、私はもうずっと左足でブレーキ、右足でアクセルとしていました。脚は二本ですから二つのペダルを両足で分けて使うのが自然の摂理でしょう。昔はクラッチがありましたのでこうはいきませんでしたが今の車はすべてオート。これによって踏み間違いの事故はぐっと少なくなるし、危険の場合のブレーキも0.3秒早く踏むことができる。事故の確率は減るでしょう。しかし現在の日本の教習所はそれを忌避するのです。免許更新の実地試験では左足を使わないでくださいと注意されました。
代々木署に返納の手続きをすますと、やはりなんとなく寂しさがこみあげて、アアこれで俺の人生も終わったナという思い。冥途へのパスポートをもらった感覚で「この証明があれば冥途での運転はできますヨネ」と言いましたら、ご婦人の警官が「エエ、出来ますヨ」とユーモアを解せる明るいご返事でした。
60年以上の間、車にはずいぶんお世話になったことです。国内よりむしろ海外、特に米国でのドライブが大きな楽しみでした。ヨセミテ、イエロストーンなど多くの国立公園を走りましたが、最も印象に残っているのはブライスキャニオンの景観が見たくて計画した2003年の旅です。ラスベガスで車を借りてまっすぐにブライスキャニオンへ。そこに三泊してゆっくりとこのキャニオンを楽しみ、隣のザイオンNPへ。さらに黄葉の林のなかを走って、あまり人の行かないグランドキャニオンのノースリムからの眺めは、やはり南壁からの眺めとは違って荒々しさの目立つすばらしいものでした。
パウエル湖での水面に浮かぶ夕月の姿も旅情をそそり、ここから東に走ってナバホの自治区であるモニュメントバレーへ。 | ||
モニュメントバレー へのドライブ | ミッチェルビュート の落日 |
夕陽に浮かぶビュートのシルエット、ジョン・ウェインが活躍した広大な砂漠はぞくぞくする気分。そしていくつかのキャニオンランドを巡って最後はグランドキャニオンへ。ベストウエスタンのモーテルを泊り走った18日間、1613マイルのドライブでした。もう車では走れないと思うと幾何の悲哀が残ります。
これからの高齢社会、いくら自動運転が一般化しても事故はますます多く、そして大きなものになるでしょうが、なんとか子供を巻き添えにする事故はなくなってほしいものです。