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大橋レポート

コルマールからリクヴィルへ/大橋 康隆

  1998年7月に家内がフランスのストラスブール(Strasbourg)で開催された国際炭素学会(International Carbon Conference)に出席することになったので、前年に定年を迎えた私も同伴することにした。引き続き家内の夏休みを利用して、ドイツとスイスを旅行した。
  7月3日12時に成田空港を出発し、17時20分にパリのドゴール空港に到着した。国内航空便に乗換え、19時にドゴール空港を出発して、20時にストラスブール空港に到着した。ストラスブール駅に近いホテルを予約してあったので当分旅行の根拠地になった。
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地図フランス東部
  7月4日は、8時30分の列車でコルマール(Colmar)へ行く予定であったが、土曜日だったので10時31分の列車しかないことが判り、事前調査が不十分であることが露呈した。貴重な時間を無駄にして、がっかりしながら駅の地下道を進んでいると、前方から緊張した顔の妙齢の日本人女性が数人現れた。只ならぬ様子なので、「何か探しておられるのですか。」と尋ねると「小銭が無くてトイレが使えない。」とのことだった。「トイレで清掃している方にお札を出して、小銭に換えていた人を見かけましたよ。少しチップを渡せば良いようです。」と答えたらホッとして笑みが浮かび、トイレの方角に急行された。予定より大幅に遅れたが、11時3分に無事コルマール駅に到着した。
写真1コルマールの運河.jpg写真2コルマールの運河.jpg写真3 コルマールの運河.jpg
写真1コルマールの運河写真2コルマールの運河写真3コルマールの運河
  コルマール駅から東方に800m位進み、先ず有名な小ヴェニス(Petete Venise)を訪れ、運河に沿った独特の建物や、その影を撮影した。
  (写真1)は運河に浮かぶレストランで、白いパラソルが印象的であった。帰国後、F-8号の油絵に描いてNEC OB パレット会展に出展した。橋の反対側の(写真2)や、運河の岸から橋を眺めた(写真3)なども撮影したが、当時はアナログカメラでデジカメの様に沢山撮影が出来ず残念であった。
写真4コルマールの市街.jpg写真5コルマールの市街.jpg写真6コルマールの市街.jpg
写真4コルマールの市街写真5コルマールの市街写真6コルマールの市街
  次に運河に沿って北方に進み(写真4)(写真5)(写真6)の様な市街を撮影した。コルマールの北端にはウンターリンデン美術館(Musee d'Unterlinden)があり、その近くにある観光案内所を訪れた。ここで、午後の郵便バスに乗ってリクヴィルまで行けることが判明し、思い切って訪れることにした。帰りのバスの停留所は行きと違うから注意して早めに引き揚げるように注意された。
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写真7ドルダーの塔写真8リクヴィルの葡萄畑写真9リクヴィルの教会
  コルマールから郵便バスで北西に進み、リクヴィルに来てみると、これはまた別世界であった。ドルダーの塔が入り口に聳え、中へ入ると両側の素晴らしい建物に美しい花が咲き乱れ、壮観であった。(写真7)の下部は、多くの観光客が写っているので、残念ながらカットした。ドルダーの塔は帰国後数年を経て、F100号の油絵に描き、新構造展に出展した。ドルダーの塔に登る時間もなく、北側に広がる葡萄畑の丘(写真8)に登ることも出来ず、近くの美しい住宅や教会(写真9)を撮影して、後ろ髪を引かれる思いで帰路のバスに乗った。

  コルマール駅を16時40分に出発し、ストラスブール駅に17時15分に到着した。今から反省すると、ストラスブールから観光バスでコルマールに行き、リクヴィル等のワイン街道の村や、古城を歴訪した方が効率が良かったと思う。しかし、ワイナリー等で時間を消費するので、写真撮影に集中する自由度を確保するには好都合だったと思っている。

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小林レポート

半世紀前の記録から:南アフリカ(4)/小林 凱

  このレポートはこの国の各所を訪れているので、再度地図を入れて置きます。(Fig. 1)

  今回(1966)の南アフリカ訪問の目的は、この奥地で計画されていたプロジェクトに参加する為の準備でした。
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Fig1

  入札に備えて調査する内に、現地に付いての色々な知識が必要になって来た。これは当然の事であって、事前見学を希望する者は申し出て許可を取り行う様に指定されていた。私たちは遠い国から来て何も知らないからこれを申し出る事にしたが、問題は現地へ行く手段で陸路は時間が掛かって実際的ではない。当地では普通に飛行機をチャーターして行く様で、その場合は着陸する飛行場も指定されていた。そこで私は代理店として仕事で組んでいる現地の商社の人と二人で出向くことになった。
  飛行機はこの代理店が手配して呉れて、小型機のオーナー兼操縦士の男とアフリカの空を旅する事になった。この操縦士は以前にも使ったことがある様で、本名は忘れたが通称チムニー(煙突)と呼んでた。訳を訊くと会えば判ると笑っていた。
  出発の朝指定されたヨハネスブルグ国際空港へ行った。私は元々町はずれの小さな飛行場辺りを想像して居たので、この指定には驚いた。操縦士に会うと彼は本当にチェンスモーカーで煙草を片時も離さない。渾名の訳は分かったが彼一人で操縦しながら煙草に火などつけて大丈夫か心配になった。飛行機は単発のセスナ機で、座席は前後各2席、前席はチムニー氏と彼のカバンや喫煙道具、後席に我々二人が乗り組んだ。
  私達は暫く誘導路で待って、指示が来てチムニー氏はさあ今だと飛行機を滑走路に移動させたと思うと、すぐに速度を上げ忽ち空中に浮かんだ。
  当日は好天であちこちに雲が浮かんで居るだけで風も穏やかで、高度は2km位かと思うが展望されるアフリカの大地はずっと先まで広大な高原が拡がり、素晴らしい眺めであった。私達は北西の方向、内陸に向かって進んだ。この辺りは搭乗前に見た地図では茶色になって居たが、それは高度を示すもので実際は木や草原の緑に覆われていた。始めは所々に町、或いは建物が見えたがあとはそれも無くなった。私は草原を駆ける動物たちの姿も期待していたが、それが見える事はなかったものの、広大な景色だけで十分に楽しめた。
  暫く飛んだところで、遥かに爆発音が聞こえ花火の様な白煙が見えた。チムニー氏は鉱山の発破の由であの上に居たら一発だが、その場所と時間は聞いているから心配するなと言われた。
  それから間もなく前方に奇妙な景色が現れて来た。それは一辺が数百mもあろうかと思われる巨大な四角形の穴で、丁度エジプトのピラミドを逆さまに掘り出した跡の様な形をしていた。その斜面には地表から底まで並行に階段の様な線が刻まれて、細く見える線上には実際は巨大な重機と思われるものが点の様に置かれていた。階段状の斜面にはコンベアーと思われる線状の設備があり、地上には四角の一辺に沿って鉄道の線路が引かれて居た。
  私達はこの逆ピラミド穴の近くの上空を通過したが、そこから離れてこの様な穴が数個在るのが見えた。私は日本で東北の小坂とか細倉などの鉱山を訪ねた事があるが、そこでは奥深い山の斜面から地中深く坑道が掘られ、トロッコで地上に運ばれた鉱石は山の斜面にある選鉱場で選別され精錬所に運ばれていた。しかし此処はそれとは全く違う鉱山の景観であった。
  この後暫くして私達は指定の飛行場に到着した。ここは雑草の生えた滑走路に吹き流しがある程度の所で、セスナ機を端に置いて迎えの車に乗り換えた。駐機したセスナ機の左に居るのがチムニー氏である。(Fig.2)Fig2.JPG
Fig2
  それからこの辺りを案内して貰ったが、ずっと平坦な草原と木々で動物に出会う事は無かった。後日この辺りに長期滞在した人の話では、数種類の動物を見かけた様だが、それは滞在した時間の幅も違う。
  見学後、私達は再び素晴らしい眺望を楽しみながらヨハネスブルグ空港へ帰った。上空で待機して管制塔の指示が来ると、チムニー氏はさあ今だと急遽滑走路の上空に移動し、まだ可成り高度がある様に見えたが降下して地表近くでぐっと機首を擡げ軽くトンと着陸した。それから滑走路を少し真っすぐに走っただけで急ぎ横の側道に退避した。後を振り返ると大型の旅客機が轟音を響かせて離陸していった。

  この旅をした後、動物が全く見れなかったと話したら動物園を見に行けと言われた。冗談かと思ったが事務所の日本人の人から一見の価値ありとの話で、次の週末に行ってきた。判った事は日本とは違って広大な敷地に動物が放たれて、人間は遊歩道の様な通路を動物に眺められる様な形で見物していた。この動物と人を視界を妨げない様に仕切るノウハウには感心した。(Fig.3)  またこの動物園では野生動物の餌やりがアトラクションの様で、入園するとそのスケジュールを呉れたが、私は時間の都合が悪かったのか何の餌やりを見たのかよく覚えていません。(Fig.4)
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Fig3
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Fig4

  今回のプロジェクトでは、私は先述の現地代理店と組んで仕事をしていたが、この商社は本店がケープタウンで、私はヨハネスブルグの支店と日頃接触していた。11月も後半に入った頃、次の打ち合わせは本店でやりたいと言って来た。これには私がヨハネスブルグしか知らずに帰るのは可哀そうだとの配慮が感じられたので、有難くこの申し出を受けた。JohannesburgとCapeTownの間は、南アフリカ航空の便が日に何便もあり2時間弱のフライトで行ける。数日後私はケープタウンに向かった。 空港から市内ターミナルへのリムジンは0.5Rand(1Rand=¥500)、海に近いこの町は何か空気が優しい感じがして、大航海時代から商業の中心として栄えた歴史が、町を歩く人たちにも残っている様に思われた。バスを降りると代理店のオフイスはすぐ判った。
  午後の打ち合わせの後、夕食会をしてくれるとの事で、その前にホテルに入るため外に出ると街には沢山の人が歩いていた。(Fig.5) 夕食会はオフイス近くのレストランで先方の幹部も出て、ずっと中華の一品料理で過ごしていた私には大変美味であった。特に当地の赤ワインが料理に良く合った様に覚えています。Fig5.JPG
Fig5
Fig6.JPGFig7.JPGFig8.JPG
Fig6Fig7Fig8
  翌日は打ち合わせは早めに済ませてケープタウンを案内してくれた。先ず訪れたのはこの街の背後に聳えるテーブルマウンテンで、高さ約1000mの岩山が街を見下ろす様に聳えている。麓まで車で行きロープウェイで山頂に登るとケープタウンの街が真下に見渡せた。(Fig.6)(Fig.7)
  この後山を下りてから少し離れた喜望峰(Cape of Good Hope)の近くに行った。(Fig.8) 岬の先へは公園を徒歩で行くので時間も掛かる由、残念だが割愛してヨハネスブルグに帰った。
  その次週、私は当地での予定を終えて南アフリカを発った。
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季節の花便り

10月の花便り/高橋 郁雄

  今回は新宿御苑からと自宅近辺からです。
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十月桜(?)ハメリア金木犀
十月桜(?):10月10日に新宿御苑で撮影しました。新宿御苑の説明地図で(ジュウガツザクラ)と明記してあるところで撮影したのに、写真をよく見ると花が一重にも見れるので、(?)を付けました。正しくは十月桜は八重で、冬桜が一重です。
  十月桜の花言葉=「神秘な心・寛容」。
  冬桜の花言葉=「冷静」。
ハメリア:10月10日に新宿御苑の温室の入口付近で撮影しました。中南米(中央アメリカ~ブラジル)原産。一年を通じて枝先に黄~朱色の花を次々に咲かせる。花期は通年だそうです。
金木犀:10月16日に我が家の近くで撮影しました。中国南部原産。江戸時代に日本に渡来。雌雄異株だが輸入された時に雄株しか入ってこなかったことから、日本にあるキンモクセイには実(種)が付かないそうです。
  花言葉=「謙虚・謙遜」:強い香りが印象的な一面とは裏腹に、咲く花は直径1cmにも満たないと小さくつつましい様子に因んで付けられた。
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クラス会

クラス会開催案内

クラス会を2019年11月23日開催で

企画しており、詳細を個別メールにて、

皆さまにお知らせしております。


よろしくお願いします。


田中(幹事代表)、野口(1966IT担当、連絡係り)



以上

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武田レポート

リトアニア史余談93:クリミア遠征とサリーナス条約/武田 充司

 1398年夏、ヴィタウタス大公は前年に続いて再びドニエプル川下流の草原地帯に遠征した。このとき、ヴィタウタス率いるリトアニアの遠征軍はクリミア北部からさらに東へ進んでドン川下流域まで達した。そして、ドニエプル川の河口付近に城を築き、「聖ヨハネの城」と命名し、多くの捕虜をつれて意気揚々と引き揚げてきた(*1)。

 ドイツ騎士団とリトアニアとの関係は1394年秋のドイツ騎士団によるヴィルニュス包囲が失敗に終ってからも険悪で、いくつかの小競り合いが断続的に続いていた。しかし、当時、両陣営とも、それぞれ対処しなければならない問題を抱えていたから、内心では互いに休戦を望んでいた(*2)。
 そこで、1398年の春、ついにドイツ騎士団とリトアニアは、ガルディナス(*3)において休戦交渉のテーブルについた。その結果、先ず仮条約が結ばれ、6ヶ月間の休戦が合意された。そして、早急に平和条約を締結することになった。そこで、ヴィタウタスは平和条約の締結を待たずに、早速、キプチャク汗国の支配するキエフ南方の草原地帯に遠征したのだった。このとき既にドイツ騎士団とリトアニアは実質的な同盟関係にあったらしく、遠征軍がドニエプル川の河口付近に「聖ヨハネの城」を築いたのも、この遠征軍の中にドイツ騎士団の工兵隊が含まれていたからだと言われている(*4)。

 6ヶ月間の休戦期間が終ろうとする1398年9月、サリーナスとよばれていたニェムナス川の川中島で、リトアニアはドイツ騎士団と平和条約を締結した(*5)。リトアニア側からはヴィタウタス大公夫妻を筆頭にリトアニアの主だった貴族たちが出席し、幾人かのポーランドの貴族たちも列席していた。

 この条約によってネヴェジス川以西のジェマイチヤとシェシュペ川以西のスードゥヴィア地方の一部がドイツ騎士団領となり、長い間争われていた国境が画定された(*6)。そして、ドイツ騎士団とリトアニアの軍事同盟が成立し、1390年以来人質として最後までドイツ騎士団側にとどまっていたヴィタウタスの弟ジギマンタスと他のすべての人質が解放されてもどってきた。
 この条約は調印された場所の名をとって「サリーナス条約」とよばれているが、これはリトアニアにとって領土的譲歩と引き換えに安定した和平を手にしたものだった(*7)。一方、ドイツ騎士団総長コンラート・フォン・ユンギンゲンはこの結果に大いに満足したが、彼もまたリトアニアとの友好関係を確かなものにしようと努めていたのだ(*8)。しかし、この条約がポーランド王ヨガイラに断りなく締結されたことを両者とも気にかけていた。ところが、事後説明をうけたヨガイラはこの条約を認め、ヴィタウタスを支持した(*9)。

〔蛇足〕
(*1)この当時、キプチャク汗国はティムール朝の始祖ティムール(Timur / Tamerlane)の侵攻によって弱体化し、ティムールの傀儡政権に統治されるという混乱状態にあった。その結果、キエフ南方の草原地帯やクリミアは無防備状態に近かった。したがって、ヴィタウタスの遠征もこうした機会をとらえたものであった。なお、「トラカイのカライム人」はこのときヴィタウタスによって連れて来られた人たちであるという(「余談76:トラカイのカライム人」参照)。
(*2)ヴィタウタスはリトアニア大公として内政の刷新や、それまでリトアニアが支配していた東方のルーシ諸侯の地に対する権益の確保などで忙しかったが、ドイツ騎士団もリヴォニアのドルパット(Dorpat:現在のエストニアのタルトゥ)における不穏な動きに対処するためにリヴォニア騎士団の強化を迫られ、また、バルト海の海賊ヴィクチュアル・ブラザーズの討伐をスウェーデンのマルグレーテから頼まれたりしていて忙しかった。
(*3)ガルディナス(Gardinas)は現在のベラルーシの都市フロドナ。
(*4)「聖ヨハネの城」はニェムナス川沿いにドイツ騎士団が築いた城に酷似していたから、これはドイツ騎士団の工兵隊が築いたものと推測されている。ドイツ騎士団との軍事同盟はこのあと締結される「サリーナス条約」で明記される。
(*5)サリーナス(Salynas)は、ネヴェジス(Nevėžis)川がニェムナス川に注ぐ河口地点(カウナスの西郊外)と、そこから少し下流にある町クラウトゥヴァ(Kulautuva)との間にあったと推定されるが、はっきりしない。なお、“salynas”というリトアニア語は英語の“archipelago”(群島)に対応する語である。
(*6)しかし、ネヴェジス川の河口地帯はリトアニアが確保した。シェシュペ川は、現在のリトアニア南西部の都市マリヤンポレ(Marijampolė)を通って、現在のロシア領の飛び地カリーニングラード州との国境の町クディルコス・ナウミエスティス(Kudirkos Naumiestis)を経て、ニェムナス川の下流に注ぐ川である。
(*7)リトアニアは国境線の画定と軍事同盟によってドイツ騎士団の脅威を取り除くことに成功したが、その代償として失った領土の問題は大きな痛手であったから、この条約はドイツ騎士団の外交的勝利といえよう。こうした時に、ミンダウガス王の昔から常に取引材料としてジェマイチヤが犠牲になっていることは興味深い現象だ。しかし、この条約が結ばれたことによって、ヴィタウタスは東方への権益拡大や国内の改革に専念できることから、ある程度は満足していたようだ。また、この条約が調印されたとき、リトアニアの貴族たちは大いに喜び、幾日もの間、祝賀の宴を張って祝ったという。こうした行動は、リトアニアの人々がヨガイラのポーランドに従属することを嫌い、実質的な独立国として振舞うことに拘った強い自尊心の表れであろう。
(*8)ドイツ騎士団総長コンラート・フォン・ユンギンゲンはこの条約に大いに満足していたが、ヴィタウタスとの友好関係維持にはそれなりの気配りをしていたようだ。実際、この頃、彼は2人の建築技師をヴィルニュスに派遣して聖アンア教会を当時の最新のゴシック様式で再建させたという。現在、観光客にも人気のある旧市街のマイロニオ通り(Maironio gatvė)の聖アンナ教会はこの教会のあとにつくられたものだ。また、1400年にヴィタウタスの后アンナ(Anna)がプロシャのマリエンヴェルダーにある「モンタウのドロテア」(Dorothea of Montau)の墓にお参りしたとき、彼はアンナを大歓迎し、沢山のお土産を持たせて帰したという。
(*9)ポーランド王ヨガイラに知らせずにこの条約を結んだことがリトアニア貴族たちの自尊心と独立心を鼓舞していたが、ヨガイラの反対を心配していたドイツ騎士団側は、ヴィタウタウに対して、ヨガイラから「この条約を認め、異を唱えない」という確約を取り付けることを求めていた。
(2019年10月 記)
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沢辺レポート

近頃思うこと(その44)/沢辺 栄一

 1964年(昭和39年)の東京オリンピックは晴天に恵まれた10月10日に開会式が挙行された。
 そのオリンピックでは私の造った長距離映像中継装置を用いて自衛隊の援助も受けて初めてマラソンの無中断中継を行なったこともあって、日本でオリンピックを開催する場合は10月であると思い込んでいた。

 数年前、次の東京オリンピックを2020年の夏に実施することがTVで発表された時直ぐに、馬鹿な決定をしたなと思った。JOC委員会はどうなっているのだろうとその判断に唖然とした。委員の中に一人も反対する委員は居なかったのだろうか、何故、東京の夏の暑さに関して選手、観客のことを配慮しなかったのであろうか。素人ながらその理由を推測すると、夏休みなのでボランティアが得られ易いとか、観客が多く来てくれるからであるとかと考えられるが、運営上の利益からの判断で決定したものであろう。

 話は飛ぶが、今年はアポロ11号により宇宙飛行士が1969721(日本時間)に月に着陸してから丁度50年になる。各要素の役割分担とそれぞれの要素を総合的にまた完全に上手くまとめ、ミスや抜け、見落としが無く、全体としての目的を達成するシステム工学により、300万個の部品、40万人の担当者を用いて成功したアポロ計画に驚嘆し、日本でもシステム工学やシステム的な考えが社会システムまでに及ぶ広い分野で採用され始めた。私自身もシステム工学の勉強をし、人間は局部的なことに目が奪われがちであるが、常に全体を最適化することを学んだ。

 システム的な考え方の発生期から50年近くも経過し、そのような考え方も衰えてきているのが現在であろう。オリンピック委員会の決定はこのシステム思考の欠如の結果であると思っている。昨年になって東京の暑さにやっと気が付き、マラソンのスタートを朝にすることにした。最近になって対策として考えられたマラソンコースの路面温度を下げるための遮熱性舗装を施工中であるが、赤外線を多く反射させる方法を取っているので、当然のことながら、表面の温度は10度下がったが、地表50cm、1mでは逆に温度が高くなった研究結果が出ているとのことである。マラソンには給水所を多く設置し、また、ポリ袋に砕いた氷を詰めた「かち割り氷」を用意するなど暑さ対策を講じている。今年8月初旬に行なわれたボート競技のテスト大会で日差しを遮るものが無いため観客が不満の声を上げた。ミストシャワー(噴霧器)が用意され、観客に冷却剤も配布されたが余り効果が無いとの報告である。大会組織委員会は屋根の無い部分に降雪機を置き、競技の合間に人工雪を降らすことを決めたとのことである。

 以上のようにちょっとしたシステム思考の不足、気配りの不足により、思わぬ対策を新たに講じなくては済まない状態になっている。いつも抜けの無いシステム思考が行なわれることを望んでいるが、それよりも今回の夏の実施決定により熱中症で死者が出なければと案じている。もし、選手、観客から一人でも死者が出たら間接的な殺人になるのでJOCの委員は全員総辞職し、他の公的職業にも就いてはならないのではないかと思っているところである。

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銀杏電友会 第30回懇親会開催される

今回は新たな試みとして、レストランでの食事会形式で開催いたしました。
着座スタイルの会食でしたので、いつにもましてご参加の皆様全員が会話を交わすことができ楽しい会となりました。
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銀杏電友会 第30回懇親会のご案内

令和元年5月吉日

  銀 杏 電 友 会(東海地区東大電気電子同窓会)

    第 30 回 懇 親 会 の ご 案 内 


 拝啓、春暖快適の候、銀杏電友会(東海地区東大電気電子同窓会)の皆様には、ますます御健勝のこととお慶び申し上げます。
 本年も下記のとおり懇親会を開催いたします。
 但し,開催形式を昨年度までのものとは変更させて頂きます。
 今年度よりレストランでの食事会形式とし、個別の開催案内はメールのみ、本部同窓会のホームページに開催案内を載せる、などで幹事の業務を簡素化させて頂きます。
 更に、幹事団が固定化していたので、長年お世話をいただいた方にはご退任頂き、名大・中電以外の方にも幹事業務にご参加いただくことにしました。

             記

日 時:令和元年年6月20日(木) 18:00~20:00
会 場:イル・ド・フランス (フランス料理)
    http://iledefrance-nagoya.com/restaurant/
所在地:〒464-0067
    愛知県名古屋市千種区池下1丁目3-3ユーロハイツ池下1F
電 話: 052-761-6655
最寄駅:池下駅
会 費:7,000円

幹事団 
 生石尚志(昭41卒)、谷本正幸(昭45卒)、
 田坂修二(昭48M)、藤﨑敬介(昭56卒)、
 平岩芳朗(昭57卒)、成塚重弥(平7卒)
 渡邉一(平9卒)、及部七郎斎(平15卒)

懇親会出欠連絡担当 
 田坂修二 Tel.(052)751-7149
      E-mail: denyukai@wh.commufa.jp
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ミャンマーの人々(50年会有志海外旅行)

旅行中に見聞した人々の暮らしや文化を、片山徹さんのカメラで切り取った写真を掲載します。


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ミャンマー 熱気球編 

2019年1月29日早朝 バガン北部のニャンウーから離陸

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