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リトアニア史余談105:両軍の探り合いと駆け引き/武田 充司

 1410年7月初旬、ドルヴェンツァ河畔のクルツェントニク(*1)を目指して北上するリトアニア・ポーランド連合軍の足取りは重かった。彼らは敵の罠にはまることを恐れて進路を慎重に探りながら進んだ。これに対してドイツ騎士団の動きは速かった。
   7月9日、リトアニア・ポーランド連合軍はドイツ騎士団のフリードリヒ・フォン・ヴァレンローデ将軍麾下の部隊が守るリズバルクの城を破壊すると、翌7月10日、ようやくクルツェントニク近郊に達した(*2)。ところが、そのとき既にドイツ騎士団は北上して来るリトアニア・ポーランド連合軍を阻む最後の天然の防衛線であるドルヴェンツァ川の水中に多数の杭を打ち、河岸には火砲を並べて待ち構えていた(*3)。野営地から送り出した偵察隊の報告をうけたヴィタウタスとヨガイラは重臣会議を開き、ここでドルヴェンツァ川を渡ることを諦め、上流に迂回して渡河地点を探すことにした(*4)。

 7月11日、クルツェントニク近くの野営地を離れたリトアニア・ポーランド連合軍はドルヴェンツァ川から離れて東に向かって森の中を進んだが、途中で進路を南東に変えてジャウドヴォ(*5)の近くまで来たところで野営した。このあたりは既にドルヴェンツァ川から東に50kmも離れていたが、まだドイツ騎士団領内で、ジャウドヴォの城にはフリードリヒ・フォン・ヴァレンローデ将軍麾下の部隊が配備されていた。リトアニア・ポーランド連合軍は彼らと戦うことを避け、翌7月12日、野営地を発った(*6)。
   この日、リトアニア・ポーランド連合軍は一転して進路を北にとり、ドルヴェンツァ川に並行して上流に向かって進んだ。しかし、彼らの進路はドルヴェンツァ川からは東に30km以上も離れていた。7月13日、ドイツ騎士団の城のあるドンブルヴノ近くに達したリトアニア・ポーランド連合軍は、そこで野営したが、その夜、リトアニアの兵士たちが密かに野営地を抜け出してドンブルヴノの街を襲って荒らしまわった(*7)。

一方、ドイツ騎士団は偵察部隊を繰り出してリトアニア・ポーランド連合軍の足取りを逐一把握していた。騎士団総長ウルリヒ・フォン・ユンギンゲンは、敵の動きを追うように、全軍を率いてクルツェントニクを離れるとドルヴェンツァ川沿いに15kmほど北上し、そこでドルヴェンツァ川を渡った。そして、ルバヴァ(*8)を経て東に移動し、ドンブルヴノの北東約8kmの地点まできたところで敵を迎え撃つのに適した地形を探して布陣した(*9)。

 7月14日、昨夜ドンブルヴノが襲われて多数の市民が犠牲になったという報せが騎士団総長のもとに届いたが、彼はこの報せに激怒しながらも、シフィエチェに残してきた3千の守備隊を首都マリエンブルクの防衛強化に向かわせる指令を出すとそのまま情勢を静観した。この日は雨で、強風が吹き荒れていた。両軍はじっと睨み合ったまま日が暮れた。

〔蛇足〕
(*1)クルツェントニク(Kurzętnik)については「余談104:ヴィタウタスとヨガイラの陽動作戦」の蛇足(10)参照。ドルヴェンツァ(Drwęca)川は、クラクフの北方約400kmに位置するポーランド北部の都市オストルダ(Ostróda:〔独〕Osterode)辺りに発し、南西に向って流れてドイツ騎士団の重要都市トルン(Toruń)の東郊外でヴィスワ川に合流している。この川の右岸(北西側)がドイツ騎士団領の心臓部で、首都(本部)マリエンブルク(Marienburg:現在のマルボルク〔Malbork〕)はこの川の上流の北西約65kmに位置し、その辺りがこの川とマリエンブルクとの距離が最短になっている。この川の下流部約70kmはポーランドとの国境になっていたが、それより上流は左岸(南東側)もドイツ騎士団領であった。クルツェントニクはオストルダ(前出)の南西約45kmに位置し、この川の中流部左岸(東側)にあった。河岸の小高い丘の上にはドイツ騎士団の城があった。また、クルツェントニクの南東約23kmにあるリズバルク(Lidzbark:〔独〕Lautenburg)と、東南東約45kmにあるジャウドヴォ(Działdowo:〔独〕Soldau)には、それぞれ、国境を守るドイツ騎士団の城があった。
(*2)「余談104:ヴィタウタスとヨガイラの陽動作戦」で述べたように、ナレフ川沿いにリトアニア軍が現れたという報せをうけたとき、ドイツ騎士団総長ウルリヒ・フォン・ユンギンゲンはシフィエチェから機動部隊を発進させているが、この機動部隊の指揮官がフリードリヒ・フォン・ヴァレンローデ将軍で、彼はジャウドヴォとリズバルクに部隊を駐留させて警戒していた。したがって、リトアニア・ポーランド連合軍は彼らが守るリズバルクを攻撃し、進路を確保してクルツェントニクに向った。こうしたことがリトアニア・ポーランンド連合軍の足取りを重くしていた。
(*3)ここに配備された守備隊は早くから敵の北上に備えて防禦柵の設置などをしていたものと思われる。
(*4)彼らはドイツ騎士団のクルツェントニクの城から少し離れたところに野営して敵情偵察を試みたのだが、城の守備隊のほかに、川の対岸には既にドイツ騎士団の大軍が到着していることを知ったため、ここで敵前渡河を強行することは危険と判断したのだ。しかし、偵察部隊は密かに渡河して敵の本陣も偵察し、帰路、茂みの中に隠してあった敵の馬を50頭ほど盗んで戻ってきたという。なお、このとき、ヨガイラはハンガリー王の使者を介してドイツ騎士団と何らかの交渉を行ったと言われている。
(*5)ジャウドヴォ(Działdowo)の位置は蛇足(1)で説明したが、リトアニア・ポーランド連合軍がこのようにドルヴェンツァ川から遠く東に離れた地域を彷徨っていたのは追尾してくる敵を惑わせるためであったのだろう。
(*6)このときも、野営地を発つ日にヨガイラはハンガリーの使者と会っているのだが、クルツェントニク近くで野営した時と同様に、この使者が執拗にドイツ騎士団との戦争回避を迫ったのではなかろうか。ハンガリー王ジギスムントはニコポリス十字軍の失敗などからオスマン勢力の進出を恐れ、キリスト教陣営の結束を乱す身内の争いを止めさせたかったのだろう。
(*7)ドンブルヴノ(Dąbrówno)はオストルダ(前出)の南々東約40kmに位置する双子の湖の間にある町だが、そこにはドイツ騎士団の城ギルゲンブルク(Gilgenburg)があった。このときまで敵を避けながらひたすら移動するだけで一向に戦いが始まらないことに苛立っていた兵士が、こうした行動に出たのであろう。
(*8)ルバヴァ(Lubawa:〔独〕Löbau)はオストルダ(前出)の南西約27kmに位置し、ドルヴェンツァ川からは東に7~8km離れている。
(*9)結局、ドイツ騎士団はリトアニア・ポーランド連合軍の行動を読んで先回りをして、敵がマリエンブルクを目指してドルヴェンツァ川の上流を渡る前に、敵の行く手を阻むような地点に布陣して待ち構えたのだ。
(2020年10月 記)
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リトアニア史余談104:ヴィタウタスとヨガイラの陽動作戦 / 武田 充司

 プロシャのドイツ騎士団本部攻略を目指すヴィタウタスとヨガイラは、その意図を隠してドイツ騎士団の兵力を分散させるために、休戦協定が切れる6月24日(*1)を待たずに陽動作戦を開始した。
 1410年6月14日、ドイツ騎士団本部にはリトアニア軍がニェムナス川下流にあるドイツ騎士団の拠点ラグニットに向って移動しているという情報がもたらされたが(*2)、同じ日に、リトアニア軍がマゾフシェのナレフ川沿いに結集しているという情報も入ってきた。しかし、それ以前に、ポーランド軍がプオツク付近のヴィスワ川に橋をかけているという情報が入っていた(*3)。そして、その後、ヴィスワ川下流の要衝ビドゴシュチ付近にポーランド軍が現れたことが確認された(*4)。

 6月3日、首都ヴィルニュスを発ったヴィタウタス率いるリトアニア軍はポーランド軍と落ち合う約束の地点チェルヴィンスクを目指したが、途中のどこかでナレフ川を渡らなければならなかった(*5)。一方、ヨガイラ率いるポーランド軍は6月26日クラクフを発って北上し、チェルヴィンスクの直前でヴィスワ川に浮橋をかけて渡河し、チェルヴィンスクに入った(*6)。そのとき、ヨガイラのもとに伝令がきて、リトアニア軍はプウトゥスク(*7)付近でナレフ川を渡るので敵の目を逸らす囮部隊の派遣を要請してきた。さっそく陽動作戦部隊が派遣され、リトアニア軍は全軍無事にナレフ川を渡ることができた。そして、7月2日、リトアニア軍はチェルヴィンスクでポーランド軍に合流したが、そのとき、マゾフシェのヤヌシュ1世とシェモヴィト4世の兄弟も手勢を率いて駆けつけた(*8)。こうして3万9千ともいわれる大軍に膨れ上がったリトアニア・ポーランド連合軍(*9)は、翌7月3日、ドルヴェンツァ河畔のクルツェントニク(*10)を目指して出発した。

 ところが、7月5日、戦争回避の最後の調停を試みようとするハンガリー王ジギスムントの密使がヨガイラの野営地にやってきた。これに対してヨガイラとヴィタウタスは和平の条件として非常に厳しい要求を突き付けて使者を帰した(*11)。

 錯綜する情報を分析していたドイツ騎士団総長ウルリヒ・フォン・ユンギンゲンは、先ず、どういう状況でも対応できるようにヴィスワ川下流西岸のシフィエチェ(*12)に主力を結集させたが、ナレフ川沿いに現れたリトアニア軍に対処するため、シフィエチェから機動部隊を発進させた。ところが、休戦協定が切れて3日後の6月27日、リトアニアの大軍がプロシャ北部に侵入したという情報がケーニヒスベルクから届いた。しかし、そのあと、ジギスムントの密使の情報に接したウルリヒ・フォン・ユンギンゲンは、敵の真の狙いに気づき、直ちに主力部隊を率いて敵が目指しているクルツェントニクに向った(*13)。

〔蛇足〕
(*1)休戦協定については「余談101:ドイツ騎士団とポーランドの短い戦い」参照。なお、ドイツ騎士団本部は現在のポーランド北部の都市マルボルク(Malbork)にあって、当時はマリエンブルク(Marienburg)と呼ばれ、難攻不落の城が築かれていた。現在、その城は世界遺産になっている。
(*2)ニェムナス川はリトアニア南部を東から西に向かって流れてバルトア海の注ぐ大河で、その下流南岸にはドイツ騎士団がリトアニア進出初期の1289年に築いた要塞ラグニット(Ragnit)があった。そこは現在のロシア領の飛び地カリーニングラード州の都市ネマン(Neman)で、リトアニアではラガイネ(Ragainė)と呼ばれている。
(*3)「余談102:権謀術数をめぐらすドイツ騎士団」の蛇足(10)参照。
(*4)ビドゴシュチ(Bydgoszcz)は、ヴィスワ川下流の大彎曲部(北西方向の流れが北東方向に転じる地点)の西側、ブルダ川がヴィスワ川に合流する地点に位置し、当時のドイツ騎士団領の南西端に接していた。
(*5)リトアニア軍は先ずヴィルニュス南西約150kmに位置するニェムナス河畔の拠点ガルディナス(Gardinas:現在のベラルーシ都市フロドナ〔Hrodna〕)に向った。そこで東方のリトアニア支配地域から召集された正教徒諸公の軍団やタタール人部隊が合流して兵力が増強されると、深い森の中をさらに南西に進んでナレフ川東岸に出た。ナレフ川は北東から流れて、途中でブーク川と合流してワルシャワの少し北でヴィスワ川に注ぐが、彼らが目指すチェルヴィンスク(Czerwińsk)は、その地点より更に25kmほどヴィスワ川を下ったヴィスワ川北岸にあったから、どこかでナレフ川を渡って西側に行かなければならなかった。本文で述べたドイツ騎士団の偵察隊が発見したナレフ川沿いのリトアニア軍は、このときナレフ川東岸沿いに渡河地点を探しなだら南下していたリトアニア軍であった。
(*6)チェルヴィンスクはクラクフの北方約265km地点のヴィスワ川北岸に位置し、下流のプオツクと上流のワルシャワとのほぼ中間にある。この辺りは完全にポーランド領内であるため安心してヴィスワ川を渡ったのであろう。全軍が浮橋を渡るのに3日を要したという。
(*7)プウトウスク(Pułtusk)はワルシャワの北方約50kmに位置するナレフ川西岸の都市である。
(*8)この兄弟については「余談103:開戦前夜の言論“正義の戦いについて”」の蛇足(2)参照。
(*9)これに対して、ドイツ騎士団側の兵力は2万7千といわれている。これらの数字には諸説あって信頼性には疑問があるが、数的にはドイツ騎士団側が劣っていたことは確かである。しかし、兵器や装備に関しては優劣が逆であったことも確かである。
(*10)クルツェントニク(Kurzętnik)は、現在のポーランド北部の都市ブロドニツァ(Brodonica)の北東約20kmに位置するドルヴェンツァ(Drwęca)河畔の町である。両軍が集合したチェルヴィンスクからは北々西に約125km、プオツクからは北方に約95km離れている。
(*11)中立の調停者を装ったジギスムントが実はドイツ騎士団の支援者であったから、この密使も敵陣偵察のスパイであったことは確かで(「余談101」と「余談102」参照)、これをどう扱うかはヨガイラとヴィタウタスにとって難しい問題であった。しかし、彼らは敢然と、「ドイツ騎士団がドブジン地方をポーランドに返還し、ジェマイチヤの領有権を放棄し、なおかつ、今回の戦争準備にかかった費用を補償してくれるならば和平に応じる」というとんでもない条件を出して、この欺瞞に満ちた調停を一蹴した。なお、ここで、1382年まではハンガリー王がポーランド王を兼ねていたことを想起するべきだろう(「余談84:クレヴァの決議」参照)。
(*12)シフィエチェ(Świecie)は先に説明したビドゴシュチの北東約45kmに位置し、ビドゴシュチより下流にあり、当時、そこはドイツ騎士団領であった。
(*13)このとき小規模の守備隊がシフィエチェに残された。
(2020年9月 記)
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リトアニア史余談103:開戦前夜の言論“正義の戦いについて”/武田 充司

 1410年春、ドイツ騎士団もリトアニアもポーランドも、それぞれ、本格的な戦いの準備に忙しかった。西欧キリスト教世界の支援を得て全面戦争を準備しているドイツ騎士団に対して、ポーランド・リトアニア連合も負けてはいなかった(*1)。
 ポーランド王ヨガイラは先ず国内の結束を図った。ワルシャワ公ヤヌシュ1世は当初よりヨガイラに協力的であったが、今回は彼の弟マゾフシェ公シェモヴィト4世も、息子のシェモヴィト5世とともにポーランド軍に加わった(*2)。さらに、ヨガイラはボヘミアとモラヴィアからも傭兵部隊を募って戦力強化に努めた(*3)。

 ヨガイラが編成したポーランド軍には軽装備で俊敏に行動する軽騎兵軍団が欠けていたが、この弱点を補ったのがヴィタウタス麾下のリトアニア軍であった。その中にはスモレンスクの軍団(*4)やルテニア人(*5)、そして、タタール人の部隊まで加わっていた(*6)。
 しかし、ヴィタウタスには北方のリヴォニア騎士団の動向が気になっていた。プロシャのドイツ騎士団との全面戦争に乗じて背後からリヴォニア騎士団に襲われることを危惧したヴィタウタスは開戦が迫る緊迫した状況の中でリヴォニア騎士団との交渉に臨み、ついに合意を勝ち取った。それは、「互いに相手を攻撃する場合には、3か月前までにその意図を通告すること」というものであった。これはリトアニアにとって大きな意味があったが、リヴォニア騎士団にとっても、このような合意をのぞむ理由があったのだ(*7)。

 一方、ドイツ騎士団総長ウルリヒ・フォン・ユンギンゲンは、前年から西欧でこの戦いのための十字軍を募っていた。これに応じて主としてドイツ語圏から多数の勇猛果敢な戦士が集まって来ていた。勇名轟くジェノヴァの弩射手隊も招聘されていた。ドイツ騎士団支配下に入っていた地域のポーランド人貴族も駆り出された。近隣諸国からの傭兵も集められたが、その中にはボヘミアの傭兵もいた。リヴォニア騎士団からの援軍もいた。ドイツ騎士団のすべての分団領から集まった修道士たちが揃いのマントを着て中核部隊を構成した(*8)。

 ところが、こうした緊迫した状況の中で、ポーランドの学者や聖職者たちは、ドイツ騎士団の武力による非人道的植民地支配を正義の立場から糾弾する言論を展開し、西欧キリスト教世界の良心に訴える努力を続けていた。その中心にいたのが当時再建されたクラクフ大学の初代学長スタニスワフであった。彼は、1410年春、論文「正義の戦いについて」(*9)を発表し、その中で「異教徒(非キリスト教徒)もまた独立の国家をもち、それを守る権利があり、キリスト教徒は正統な理由なくして異教徒の国家を攻撃することは許されない」と論じ、「キリスト教徒でない者は人間でなく、したがって抹殺してもよい」という西欧キリスト教徒の独善性に一撃を加え、自衛のための正義の戦いを擁護した。

〔蛇足〕
(*1)リトアニア大公ヴィタウタスもポーランド王ヨガイラも、前年暮れのブレスト・リトフスクの会談でドイツ騎士団との戦いを覚悟して準備を始めていたものと考えられる(「余談101:ドイツ騎士団とポーランドとの短い戦い」参照)。
(*2)シェモヴィト4世(Siemowit Ⅳ)の父シェモヴィト3世は、カジミエシ3世(大王)没後にマゾフシェを統一してポーランド王からの独立性を回復した人で、その後、彼の2人の息子ヤヌシュ1世(Janusz Ⅰ)とシェモヴィト4世にマゾフシェを分割相続させた。その結果、ワルシャワを中心とする東部を兄ヤヌシュ1世が、プオツクを中心とする西部を弟シェモヴィト4世が統治した。したがって、シェモヴィト4世はプオツク公とも呼ばれるが、この経緯からも分る様に、マゾフシェはピアスト朝の末裔が統治していながら、独立性の強い地域で、ポーランド王も彼らを臣従させることに気を配っていた(「余談85:ポーランドに婿入りしたヨガイラ」参照)。特に、マゾフシェのドイツ騎士団領との位置関係から分かるように、この戦いではマゾフシェは重要な地域であった。ヤヌシュ1世は前年の「ドイツ騎士団との短い戦い」でもヨガイラに協力して戦ったが、彼の弟シェモヴィト4世は婿入りして王になったヨガイラには反抗的であった。
(*3)ボヘミアは現在のチェコ共和国の中央部と西部地域であるが、本文後半で述べるように、ボヘミアの傭兵部隊はドイツ騎士団側にもいた。ボヘミアはヴァーツワフ4世の国だからこれは彼らの足並みの乱れを示唆していた。モラヴィア(Moravia)は現在のチェコ共和国の東部地域だが、9世紀に成立したスラヴ人国家「モラヴィア王国」がこの辺りに存在したときには、もう少し広い範囲がモラヴィアであった。その後、モラヴィアはボヘミアの支配下に入った。
(*4)このときスモレンスクの軍団を率いたのがヨガイラの弟レングヴェニス(「余談99:ウグラ川の協定」参照)であった。スモレンスクは14世紀のアルギルダス大公時代からリトアニアの影響下にあったが(たとえば、ゲディミナス大公の2番目の后はスモレンスク公の娘オルガで、アルギルダスは彼女の子である)、1404年にヴィタウタスによって完全に征服され、リトアニア領になっていた(「余談95:ヴィルニュス・ラドム協定」参照)。
(*5)ルテニア(Ruthenia)は現在のウクライナ西部地域を指すが、当時、リトアニアやポーランドの支配下にあったヴォリニア(Volhynia)とガリチア(Galicia)のスラヴ人が兵力として召集されていた。指揮官はヨガイラの弟カリブタス(Kaributas)であった。
(*6)タタール人部隊の指揮官は、1406年に西シベリアで殺害されたキプチャク汗国のトクタミシュ(「余談77:リトアニアのタタール人」参照)の遺児ヤラル・アル・ディン(Jalal-al-Din)で、このとき、ヴィタウタスを頼って亡命してきていた。
(*7)リヴィニア騎士団はドイツ騎士団の支部的存在であったが、騎士団長を自分たちで選出するなど自治権と独立性を保持していた。したがって、本文後半で述べるように、ドイツ騎士団に援軍を派遣する一方、リトアニアとはプスコフやノヴゴロドなどの北方の支配権をめぐって独自の利害関係をもって交渉していた。
(*8)当時のドイツ騎士団国家は、中心に城をもつ26の分団領から構成されていて、それらの分団領の修道士たちがそれぞれ部隊を編成していた。彼らは、家紋をつけた陣中着などは一切身に着けず、家柄や出身地に関係なく、全員が同じ黒の十字をつけた白いマントを羽織っていた。
(*9)スタニスワフ(Stanisław ze Skalbimierza)はこの論文(” De bellis justis“)によってドイツ騎士団との戦いの正当性を擁護したが、このとき、彼より10歳ほど若い気鋭の学者パヴェウ・ヴウォドコヴィツ(Paweł Włodkowic)も「異教徒といえども自らの国家を保持し平和を享受する権利があり、国家は互いに尊敬しあい、平和的に共存すべきである」と主張して論陣を張っていた。
(2020年8月 記)
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リトアニア史余談102:権謀術数をめぐらすドイツ騎士団/武田 充司

 1410年1月、前年秋に結ばれた休戦協定に基づき、ボヘミアのプラハにおいてドイツ騎士団とポーランドとの和平交渉が始まったが、仲介役のボヘミア王ヴァーツラフ4世が示した調停案は一方的にドイツ騎士団の利益を擁護する不平等なものであった。
   これは明らかにドイツ騎士団と事前に相談してつくられたものであったから、ポーランド王ヨガイラにとって到底うけ入れることができないものであった(*1)。

   ヨガイラの拒否によって面目を潰されたヴァーツラフ4世は、この案を受諾しなければ自分の名誉にかけてポーランドを攻撃すると言って憚らなかったが、そんな威嚇に屈するようなヨガイラではなかった。彼はポーランドの代表団を1か月間プラハに残してさっさとポーランドに帰って行ったが、あとに残った代表団にボヘミア王の調停案が如何に不平等なものであるかを執拗に訴えさせた。これを知って激高したヴァーツラフ4世は自ら軍を率いてポーランドに攻め込むと言い出したが、そのとき、ポーランドの代表団は黙って引き揚げて行った(*2)。

   一方、これとは別に、おなじ頃、すなわち1410年の1月、ハンガリー王ジギスムント(*3)は密かにリトアニア大公ヴィタウタスをハンガリーのケジュマロク(*4)に招き、「リトアニアがポーランドとの連合を解消すれば、リトアニアを独立の王国として認め、ヴィタウタスをリトアニア王として戴冠させてもよい」という話をもちかけていた(*5)。
   このとき、ジギスムントはドイツ騎士団から相応の金銭的見返りを受け取る条件で(*6)、この年の6月24日に休戦協定が失効したならば(*7)、直ちに南からポーランドに侵攻するという密約を交わしていた。これはリトアニアをポーランドから引き離したあと、ハンガリーとドイツ騎士団が南と北から一気にポーランドに侵攻しようという申し合わせだった。しかし、ヴィタウタスはそのような謀略を知ってか知らずか、彼はジギスムントの甘い誘惑の罠にはかからず、その提案を断って宿に引き揚げた。ところが、その夜、ケジュマロク市街は大火に見舞われ、ヴィタウタス一行は辛うじて難を免れて帰国した(*8)。

   しかし、この年の5月、ボヘミア王ヴァーツラフ4世は、1月の調停失敗にもかかわらず、再びポーランド王ヨガイラにドイツ騎士団との調停をもちかけ、ブレスラウ(*9)まで出かけて来いと言ってきた。この居丈高な出頭命令のような要請を無視したヨガイラは、ブレスラウには行かず、何を思ったか、これ見よがしに大掛かりな狩りを催した。これは、いよいよドイツ騎士団との本格的な戦争が避けられないと覚悟したヨガイラが、戦争準備の一環として、先ず、食肉を確保するため実施したものだった(*10)。

〔蛇足〕
(*1)ヴァーツラフ4世が仲介したこの和平交渉は「余談101:ドイツ騎士団とポーランドの短い戦い」で述べた休戦協定をうけて実施されたものである。調停役のヴァーツワフ4世については同余談の蛇足(9)参照。なお、このときの調停案の骨子は「互いの領土の境界は現状を維持すること」および、「将来のポーランド国王は西欧キリスト教世界の国から選出すること」であったという。
(*2)このときのヴァーツラフ4世とヨガイラの駆け引きは2人の性格の一面を描写しているようで、真偽のほどは別として、興味深いものがある。ヴァーツラフ4世、すなわち、ルクセンブルク家のヴェンツェルは、博学で教養ある人物だったが、統治者としての資質は凡庸で、酒癖が悪く、物事に無頓着で、気まぐれで短気な変人であったらしい。実際、彼は父の敷いた路線に乗って神聖ローマ皇帝となったが、戴冠することなくその地位を追われ、ボヘミア王としても人望がなく、ボヘミア王国は統治不全に陥っていた。一方、ヨガイラは粘り強く執念深い性格だったようで、ヴェンツェルの性格を呑み込んで対応していたように思える。
(*3)ジギスムントについては「余談101:ドイツ騎士団とポーランドの短い戦い」の蛇足(6)参照。
(*4)ケジュマロク(Kežmarok)はクラクフの南々東約100kmに位置する現在のスロヴァキアの都市ポプラド(Poprad)の北東約12kmにある小都市であるが、当時はハンガリーの都市であった。
(*5)当時は、教皇の認めた国王として戴冠した「王」が君臨する王国に対して、公(あるいは大公)の統治する公国(あるいは大公国)は格下で、西欧キリスト教世界では一人前の国家とはみなされなかったから、ヴィタウタスもローマ教皇の認める戴冠式を挙げて「王」となって、リトアニアをポーランド王国と対等な王国にすることが悲願であった。ジギスムントはそこにつけ入ってヨガイラとヴィタウタスの同盟関係を壊そうとした。
(*6)このときドイツ騎士団はジギスムントに30万ダカット(4万グルデンという記述もあるが)を見返りの謝礼金として送る約束をしていた。
(*7)休戦協定が失効する1410年6月24日については「余談101:ドイツ騎士団とポーランドの短い戦い」参照。
(*8)この火災はヴィタウタス一行が宿舎にもどって休んでいる深夜に発生し、市街地の大半を焼き尽くす大火となった。これをヴィタウタス一行の仕業に違いないと思った町の人たちが暴徒と化してヴィタウタス一行に襲いかかったため、ヴィタウタスも危うく殺害されるところだったという。さらに、この災難を逃れてポーランドへ戻る途中で、何の間違えか、ヴィタウタス一行は逮捕さそうになるという災難のおまけがついた。
(*9)ブレスラウ(Breslau)は現在のポーランド南西部シロンスク地方(シレジア地方)の中心都市ヴロツワフ(Wrocław)のドイツ語名で、この地域は伝統的にピアスト朝一族の土地だったが、当時はボヘミア王国の支配下にあった。
(*10)戦争の準備を始めたヨガイラは、この他にも、要所に臨時の穀物貯蔵庫を建設し、軍隊の迅速な移動に必要な道路と橋の補修や整備を実施した。特に、ヴィスワ河畔の都市プオツク(Płock)には戦略的な供給基地を築き、ヴィスワ川に浮橋を架け、ヴィスワ川を下って北方のドイツ騎士団領方面への兵員や物資の輸送を円滑に実施できるようにした。
(番外)この余談シリーズでは、一貫して「ポーランド王ヨガイラ」としているが、ヨガイラ(Jogaila)はリトアニア人としての本名で、この方が簡単で分かり易いから便宜的にこれを使っているが、ポーランド王としては「ヴワディスワフ2世ヤギェウォ」(Władysław Ⅱ Jagiełło)である。「余談85:ポーランドに婿入りしたヨガイラ」参照。
(2020年7月 記)
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リトアニア史余談101:ドイツ騎士団とポーランドの短い戦い/武田 充司

 1409年5月、ドイツ騎士団の圧政と飢餓に苦しむジェマイチヤの人々がついに蜂起した。彼らは瞬く間にクリストメメル、フリーデブルク、そして、ドベシンブルクの城を襲って焼き払った(*1)。
 リトアニア大公ヴィタウタスが密かに彼らの反乱を支援していたことは確かだったが、表向きは「ラツィオンシュの講和」を遵守しているふりをしていた(*2)。これに対して、ドイツ騎士団は、この反乱にポーランドが関与してリトアニアを支援しないように、先ずポーランド貴族たちに警告を発した(*3)。

 ところが、ポーランド王ヨガイラは、ジェマイチヤの飢饉を救うためと称して、ヴィスワ河畔のトルンから食糧を満載した平底船20艘をバルト海経由でジェマイチヤに向かわせた。しかし、その船団がニェムナス川下流のドイツ騎士団の拠点ラグニット(*4)にさしかかったとき、船団はドイツ騎士団によって拿捕された。そして、ドイツ騎士団は船底から多数の武器が発見されたとしてポーランドを非難した。これに対してヴィタウタスはドイツ騎士団がニェムナス川の航行の自由を脅かしたとして(*5)彼らの略奪行為を非難し、その年の夏、数人の武将をジェマイチヤに送り込んで、公然とジェマイチヤ人の反乱を支援した。これを知ったジェマイチヤにいたドイツ騎士団関係者は一斉にプロシャに引き揚げて行った。そして、直ちに本格的な戦争の準備にとりかかってリトアニアを威嚇した。ところが、ポーランドがリトアニア支持の立場を表明してプロシャに侵攻する姿勢を見せたから、リトアニア・ポーランド連合とドイツ騎士団の敵対関係は緊張の極に達した。

   1409年8月6日、ドイツ騎士団はルクセンブルク家のハンガリー王ジギスムント(*6)の了解を取り付けてポーランドに宣戦布告した。そして、8月14日、ドブジン(*7)がドイツ騎士団の手に落ち、ポーランド北西部のノイマルク(*8)でも戦いがはじまった。しかし、ヴィタウタスはポーランド支援には動かず、じっと様子をうかがっていた。その間、ドイツ騎士団は当初想定していたような決定的勝利をおさめることができず、その年の秋、ボヘミア王ヴァーツラフ4世(*9)の調停によって休戦し、一旦矛を納めた(*10)。

 10月8日、翌年の洗礼者聖ヨハネの祝日(1410年6月24日)までと期限をつけた休戦協定が成立すると、ポーランドとリトアニアの人々は早晩ドイツ騎士団との本格的な衝突は避けられないと考え、大規模な戦争準備にとりかかった。そして、その年の12月、ブレスト・リトフスクにおいてヴィタウタスとヨガイラは密かに会談し、対ドイツ騎士団大連合の構築へ秘策を練った(*11)。その席にはキプチャク汗国の汗も招かれていたという。

〔蛇足〕
(*1)ジェマイチヤの人々の窮状と、彼らが焼き払ったこれらの城については「余談100:ドイツ騎士団のジェマイチヤ統治」参照。
(*2)前年の暮れにナウガルドゥカスで会談したヴィタウタスとヨガイラは、ドイツ騎士団を扇動して彼らの方から開戦するように仕向け、「ラツィオンシュの講和」による平和を破ったのは自分たちではないという大義名分を得ようとしたらしい。「余談100:ドイツ騎士団のジェマイチヤ統治」および「余談98:ラツィオンシュの講和」参照。
(*3)ジェマイチヤ紛争にポーランドが介入しないことは「ラツィオンシュの講和」で決められていたが、ドイツ騎士団はポーランド王が貴族たちの圧力に弱いというそれまでの経験から、念を押すように彼らに警告してヨガイラの動きを封じ、リトアニアを孤立させて戦う戦略であったようだ。
(*4)ラグニット(Ragnit)はニェムナス川下流の南岸(左岸)に位置する現在のロシア領の飛び地カリーニングラード州の都市ネマン(Neman)で、リトアニアではラガイネ(Ragainė)と呼ばれていて、ドイツ騎士団がリトアニアに進出した初期からの重要拠点であった。
(*5)当時も、ドイツ騎士団との間で、ヴッスワ川やニェムナス川などの重要河川での航行の自由を保障する取り決めがあったから、ヴィタウタスはそれを意識して抗議している。
(*6)ジギスムント(Sigismund)はルクセンブルク公(在位1378年~1388年)であったが、ハンガリー王としてはジグモンド(Zsigmond:在位1387年~1437年)と呼ばれ、晩年にはボヘミア王ジクムント(Zikmund:在位1419年~1437年)としてハンガリーとボヘミア両国に君臨した。さらに、1410年にはローマ王に選出され、1433年に皇帝として戴冠しているが、実質的に1410年から1437年まで神聖ローマ皇帝であった。
(*7)ドブジン(Dobrzyń)については「余談98:ラツィオンシュの講和」の蛇足(7)参照。
(*8)ノイマルク(Neumark)はオーデル川に東から注ぐヴァルタ川の下流地域からその北側に広がるオーデル川以東の平原地帯で、以前はブランデンブルク辺境伯領の一部であったが、1402年以来ドイツ騎士団が支配していた。なお、現在はポーランド領となっている。
(*9)ヴァーツラフ4世(Václav Ⅳ:在位1378年~1419年)は、ハンガリー王ジギスムントの異母兄で、1400年まで神聖ローマ皇帝であったルクセンブルク家のヴェンツェル(Wenzel:皇帝在位1378年~1400年)その人である。
(*10)ドイツ騎士団は、それまでの経験から、ポーランド王ヨガイラは貴族たちの意向を無視できない弱い国王であり、また、従兄弟のヴィタウタスとは不仲で協力して行動することはない、と想定していたようだ。しかし、一見与し易い印象のヨガイラは、見かけと違って忍耐強い深謀遠慮の人であった。しかも、前年の暮れのナウガルドゥカスの秘密会談で、ヴィタウタスとヨガイラはドイツ騎士団に対する厳しい見方を共有していたらしいから、ドイツ騎士団はポーランドとの戦いで誤算に気づいたのかも知れない。
(*11)これは前年(1408年)12月のナウガルドゥカスでの秘密会談に続く2度目の会談である。ブレスト・リトフスク(Brest-Litovsk)は現在のベラルーシ南西部のポーランドとの国境に位置する都市ブレスト(Brest)だが、14世紀の20年代からリトアニアの支配する都市であった。なお、ブレスト・リトフスクとは「リトアニアのブレスト」という意味である。
(番外)「余談97:ジェマイチヤの反乱」で述べた問題児のシュヴィトリガイラ(Švitrigaila)は、このときのジェマイチヤ人の蜂起でもドイツ騎士団に通じて再び謀反を企てたが、彼がドイツ騎士団に送った密書が奪われて陰謀が発覚し、捕えられてヴォリニアのクレメネツ(Kremenets)の城に監禁された。彼はそこで9年間の幽閉生活を送ったのち、脱出している。クレメネツ(Kremenets)は現在のウクライナ西部の小都市で、リヴォフの東北東約130kmに位置し、13世紀のモンゴルの襲来でも落城せず耐え抜いたことで知られている。
(2020年6月 記)
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武田レポート

リトアニア史余談100:ドイツ騎士団のジェマイチヤ統治/武田 充司<br />

 1404年に「ラツィオンシュの講和」が結ばれると(*1)、ドイツ騎士団はジェマイチヤの主要な河川に沿って点在する城の修理を進めると同時に、要所に新たな城を築いた(*2)。
   1407年にはジェマエチヤ統治の拠点となるドベシンブルクの城が完成し(*3)、各地に役人が配置され、徴税に必要な土地の測量と人口調査が実施された。そして、ドイツ農民の入植と三圃農法の導入による農地の生産性向上が推進された。しかし、これらの政策はジェマイチヤの人々の生活向上のためではなく、彼らから少しでも多く税や農産物を取り立てるためであったから、彼らは農奴となり、酷税に苦しめられた。それに輪をかけるように15世紀初頭にヨーロッパを襲った気候不順(*4)が彼らを飢餓に追いやった。
   しかし、ヴィタウタスは「ラツィオンシュの講和」で約束したことを守り、ドイツ騎士団の築城に作業員や食糧などを供給し、周辺を警護する守備隊までも配備したから、ジェマイチヤの人々は反乱を起すこともできなかった。

   このような統治システムの整備がなされると、ドイツ騎士団に忠誠を誓って従順に行動した人々には然るべき報酬が与えられ優遇されたが、反抗する住民は容赦なく罰せられ、処刑された。そして、何百人というジェマイチヤ人が人質としてプロシャに連れ去られた。しかし、その一方で、ジェマイチヤにおけるキリスト教(カトリック)の布教活動は遅々として進まなかった。これは、頑固なジェマイチヤ人の性格を知っていた騎士団総長コンラート・フォン・ユンギンゲンの老獪で思慮深い統治手法のあらわれであったが、騎士団内部には彼のこうした迂遠なやり方に不満を持つ強硬派もいた(*5)。彼らはドイツ騎士団に協力しているヴィタウタスを信用せず、ジェマイチヤ人に対するヴィタウタスの隠然たる影響力を恐れていた(*6)。

   ところが、1407年3月30日、コンラート・フォン・ユンギンゲンが亡くなり、翌年に漸くコンラートの弟ウルリヒ・フォン・ユンギンゲンがドイツ騎士団総長に選出されたが(*7)、その間に、圧政と飢餓に苦しむジェマイチヤの人々は西欧キリスト教世界に自分たちの窮状を訴える運動を起していた。これに対して、兄のあとを継いで騎士団総長となったウルリヒは武人肌の人物で、兄のような思慮深い老練な政治家ではなかったから、以前からジェマイチヤ政策に不満をもっていた騎士団内部の強硬派が勢いづいた。

   「ラツィオンシュの講和」による一見平穏な時間の流れの中にこうした緊張感が漂いはじめた1408年の暮れ、リトアニア大公ヴィタウタスとポーランド王ヨガイラの従兄弟は、密かにナウガルドゥカスに会した(*8)。ポモージェ・グダンスキエとジェマイシヤを支配下に置いたドイツ騎士団に対する彼ら2人の問題意識には共通するものがあった(*9)。

〔蛇足〕
(*1)「余談98:ラツィオンシュの講和」参照。
(*2)たとえば、現在のヨスヴァイニャイ(Josvainai)近くのシュシヴェ川(Šušivė)河畔にケーニヒスブルク(Königsburg)という城が新たに築かれた。シュシヴェ川はヨスヴァイニャイの南方約8km地点でネヴェジス川に合流する支流で、ネヴェジス川はニェムナス川の支流である。また、ヨスヴァイニャイはカウナス(Kaunas)の北々西約40kmにある。また、クリストメメル(Christmemel)にも新しい城が造られたというが、ここにはカール・フォン・トリールがドイツ騎士団総長だった時代の1313年に最初の砦が築かれたが、その正確な位置は不明である。ただ名前からしてニェムナス河畔にあった城で、現在のユルバルカス(Jurbarkas)からヴェリュオナ(Veliuona)の間のどこかにあったようだ。
(*3)ドベシンブルク(Dobesinburg)はドゥビサ川(Dubysa)がニェムナス川に注ぐ河口付近に建設された。以前この辺りには「サリーナス条約」成立後にジェマイチヤ統治の拠点としてフリーデブルク(Friedeburg)の城が築かれていたが、1401年3月のジェマイチヤ人の反乱で焼き払われ、放置されていた(「余談97:ジェマイチヤの反乱」参照)。しかし、この城もこのとき再建されたようだ。
(*4)このとき、ヨーロッパでは「百年戦争」の最中であったが、飢餓や疫病で農村人口は激減し、フランスだけでも3000もの村が廃村となり、広大な農地が耕作されずに放置されたという(ブライアン・フェイガン著、東郷えりか・桃井緑美子 共訳「歴史を変えた気候大変動」p.160~p.161参照)。
(*5)ドイツ騎士団総長コンラート・フォン・ユンギンゲンの慎重なジェマイチヤ統治については「余談96:最後の異教徒の地ジェマイチヤ」の蛇足(7)参照。しかし、騎士団内部の聖職者は布教を急いでいたはずで、武力による改宗強要が当然と考えられていた時代であったから、一部の騎士たちには総長コンラートの深謀遠慮は理解され難かったようだ。
(*6)「余談98:ラツィオンシュの講和」で述べたように、この講和はドイツ騎士団に有利なものであったから、騎士団側としてはこれを盾に平和を維持することが少なくとも短期的には得策であったが、ヴィタウタスにとっても、この平和維持は東方への支配地域拡大の時間を与えてくれるメリットがあった。実際、当時の彼の行動からもそれがうかがえる。そして、ヴィタウタスの軍事力の源泉は広大な東方の正教徒の地を支配下に置いていることにあった。したがって、ヴィタウタスに時間を与え過ぎるのは危険と考える騎士団内部の勢力がいたことは当然で、総長コンラートもおそらくヴィタウタスを信用せず、彼に対する監視を怠らなかったはずだ。
(*7)ドイツ騎士団は地位の世襲を認めず、所属の騎士は妻帯せず世継ぎを残さないことによって規律を保っていたから、騎士団総長は総会の選挙によって選ばれていた。したがって、総長が亡くなると、総会の招集などで時間がかかり、その間は総長不在になる。なお、総長ウルリヒ・フォン・ユンギンゲンの在位期間は1408年から1410年7月15日(没)までである。
(*8)ナウガルドゥカス(Naugardukas)は現在のベラルーシの都市ナヴァフルダクで、ヴィルニュスの南々東約125kmに位置し、当時はリトアニアの重要拠点のひとつであった。この会談は「余談99:ウグラ川の協定」で述べた1408年秋のヴィタウタスとヴァシーリイ1世の最初の対峙の直ぐあとというタイミングである。
(*9)ジェマイチヤを支配したドイツ騎士団はプロシャの本部と北方の支部リヴォニア騎士団との間をバルト海岸沿いの陸路で結ぶことができたから、リトアニアはバルト海への出口を失った。また、ポモージェ・グダンスキエを奪還できなかったポーランドも似たような状況に置かれていた(「余談98:ラツィオンシュの講和」参照)。一方、ドイツ騎士団はこれによって軍事的にも経済的にも強化され、益々、両国は不利な立場に追い込まれていた。
(2020年5月 記)
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武田レポート

リトアニア史余談98:ラツィオンシュの講和/武田 充司

 15世紀初頭のドイツ騎士団との戦いは武力衝突ばかりではなかった。互いに自陣営の聖職者や学者など、当時の知的エリートたちを総動員して、自分たちの行為の正当性を西欧キリスト教世界に訴え、理解と共感を得ようとする激しい政治的宣伝合戦でもあった。
 ドイツ騎士団は、リトアニアのヴィタウタス大公がキリスト教(カトリック)に帰依したといってもそれは形ばかりの偽装で、度々平和条約やその他の約束を破って攻撃をしかけきた異教徒であるから、武力によって征服されるべきだと主張した。これに対して、リトアニアやポーランドの聖職者たちは、西欧キリスト教世界の一員となって真摯に新しい国家建設に励んでいる我らを妨害し領土を侵しているドイツ騎士団こそ、同胞である我らキリスト教徒を攻撃する背信の徒として断罪されるべきだと応戦した(*1)。

 こうした外交的宣伝合戦を見ていた教皇ボニファティウス9世(*2)はドイツ騎士団に対してリトアニアを攻撃することを禁じたが(*3)、ドイツ騎士団総長コンラート・フォン・ユンギンゲンはこれを不服として、1403年、この禁令を撤回するよう教皇に迫った。こうして険悪な状況になったその年の夏、ヴィタウタウはドイツ騎士団に和平を提案して休戦交渉をもちかけた(*4)。ドイツ騎士団もこれを無視できず、この年の12月、両者の間で暫定的な休戦協定が結ばれ、翌年(1404年)の5月22日、ポーランドのラツィオンシュ(*5)において、リトアニア大公ヴィタウタスとポーランド王ヨガイラの同席のもとにドイツ騎士団との間で平和条約が調印された。

 この講和によって、先ず「サリーナス条約」(*6)が再確認され、ジェマイチヤをめぐってリトアニアとドイツ騎士団との間で紛争が起ったとき、ポーランドは介入しないことが決められた。そして、ポーランドはドブジン地方をドイツ騎士団から取り戻す代償として相応の金銭を支払うことになった(*7)。しかし、ダンツィヒについての合意は得られなかった(*8)。一方、ヴィタウタスが得たものといえば、ゲディミナス一族の者がヴィタイタスに反抗して内訌となった場合ドイツ騎士団は彼らを支援しないこと、そして、ヴィタウタスのルーシ諸公との戦いに対してドイツ騎士団は軍事的支援をするという約束であった。そして、ジェマイチヤを「サリーナス条約」に従ってドイツ騎士団領と認めることを再確認させられたばかりか、ジェマイチヤの反乱をドイツ騎士団が鎮圧するときにはドイツ騎士団に協力すること、リトアニアに逃亡するジェマイチヤ人をうけ入れないことまで約束させられた。

 この講和は老獪なドイツ騎士団総長コンラート・フォン・ユンギンゲンの外交的勝利であり、ヴィタウタスとヨガイラにとっては得るところの少ない敗北的合意であった。しかし、これがヴィタウタスとヨガイラの結束を強め、彼らを新たな挑戦へと駆り立てたのだった。

〔蛇足〕
(*1)この当時、リトアニアやポーランドから、こうした主張やそれを裏付けるドイツ騎士団の数々の悪行を記した文書が頻繁に西欧キリスト教世界の聖職者や王侯貴族に送られていた。
(*2)当時は教会大分裂(大シスマ:1378年~1417年)の時代で、ボニファティウス9世(在位1389年~1404年)はローマの教皇である。
(*3)これに先立つ1395年、ルクセンブルク家のボヘミア王ヴァーツラフ4世(在位1373年~1419年)にして神聖ローマ皇帝でもあったヴェンツェル(在位1378年~1400年)がドイツ騎士団に対してリトアニアを攻撃することを禁じている。
(*4)この年(1403年)、ヴィタウタスはスモレンスクを再度包囲して奪還しているが(「余談95:ヴィルニュス・ラドム協定」参照)、腹背同時の戦いを避けるためにもドイツ騎士団との争いをひとまず中断したかったのであろう。
(*5)ラツィオンシュ(Raciąż)はワルシャワの北西約85kmに位置するマゾフシェの都市である。
(*6)「余談93:クリミア遠征とサリーナス条約」参照。
(*7)ドブジン(Dobrzyń)はドイツ騎士団領とポーランドとの境界線上に位置するマゾフシェの土地で、これまでも度々両者の間で支配権をめぐる争いがあったが、1343年の「カリシュ条約」でポーランド領として認められた。しかし、その後、借金の抵当としてドイツ騎士団の手に渡っていた。したがって、ポーランドがこれを取り戻すには相応の金銭を支払う必要があった。
(*8)バルト海に面する港湾都市ダンツィヒ(Danzig:現在のグダンスク)はハンザ同盟の拠点として繁栄していたから、ドイツ騎士団にとってもポーランドにとっても重要な都市であった。しかし、ここで問題になっているのはこの都市を中心とする「ポモージェ・グダンスキエ」(Pomorze Gdańskie)と呼ばれる地域全体の支配権であった。オーデル川東岸からヴィスワ川西岸に至るバルト海沿岸地域はポモージェ(英語でポメラニア〔Pomerania〕)と呼ばれ、昔からポーランド人と同じ西スラヴ族の一派カシュープ人の居住地域であった。この地域はオーデル川寄りの西ポモージェとヴィッスワ川寄りの東ポモージェに分けられ、西ポモージェは北ドイツに接しているため早くからドイツ化が進み、ポーランドよりもデンマークとの関係が深かった。一方、東ポモージェ(英語でポメレリア〔Pomerellia〕)は、ポモージェ・グダンスキエとも呼ばれ、ピアスト朝のポーランドが成立したあとも、この地域は土着の豪族によって支配されていて半ば独立していた。しかし、ドイツ騎士団領とポーランドとブランデンブルク辺境伯領に囲まれた形のこの地域は早くからドイツ人移民が入り込み、ポーランドとドイツ騎士団の勢力争いに場になっていた。ドイツ騎士団は本国との往来を確保する上からもこの回廊地帯の支配に固執したが、ポーランドもこの地域を固有の領土と看做して併合することに拘った。一方、この地域を支配する土着の豪族は強力な2つの勢力の間に立って狡猾なバランス外交を旨として生き延びてきた。しかし、13世紀末にヴィェルコポルスカ出身のポーランド王プシェミスウ2世がこの地域の公と同盟したため、この地域はポーランドの支配下に入った。しかし、1296年冬、ブランデンブルク辺境伯の放った刺客によってプシェミスウ2世が暗殺されると、この地域はポーランドの支配から脱した。そして、1308年9月、ドイツ騎士団はダンツィヒを占領してポモージェ・グダンスキエ全域を支配下に置いた。こうしてこの地域は実質的にドイツ騎士団領になったのだが、1343年、ポーランド王カジミエシ3世(大王)がドイツ騎士団と「カリシュ条約」を結んでこの地域がドイツ騎士団領であることを認めてしまった。それ以来ポーランドは幾度かこの地域の奪還を試みるが成功しなかった。ところが、「カリシュ条約」から602年経った1945年、第2次世界大戦が終ると、東ポモージェだけでなく西ポモージェもポーランド領として認められた。
(2020年3月 記)
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リトアニア史余談97:ジェマイチヤの反乱/武田 充司

 1401年3月、ドイツ騎士団の支配を嫌うジェマイチヤの人々が決起し、多くのドイツ人を人質にとってフリーデブルクの城を焼き払った(*1)。すでにジェマイチヤの長老や有力者の多くがドイツ騎士団によってプロシャに連れ去られていたから(*2)、彼らは人質にとったドイツ人と交換にその人たちを取り戻そうとした。

 1398年のサリーナス条約(*3)によってドイツ騎士団領となったジェマイチヤは1400年夏からドイツ騎士団による本格的な統治が始まっていたが、多くのジェマイチヤ農民がドイツ人の支配を嫌ってリトアニア領内に逃げ込んできた。その数4000人ともいわれているが、ドイツ騎士団はそれら逃亡民の送還をヴィタウタスに要求していた。しかし、彼ら農民の自由を尊重するという口実でヴィタウタスはドイツ騎士団の要求に応じなかった。ジェマイチヤの反乱の背後には当然ヴィタウタスがいると考えたドイツ騎士団は1401年秋、リトアニアのカウナスとガルディナス(*4)を急襲してヴィタウタスを牽制したが、彼らも本格的な戦争を望まなかったからそれ以上の事態には発展しなかった。事実、ジェマイチヤの反乱は自発的なもので、ヴィタウタスが扇動したという形跡はなかった(*5)。

 ところが、またしてもポーランド王ヨガイラの末弟シュヴィトリガイラ(*6)がこの不穏な状況に便乗してリトアニア大公の座を狙ってヴィタウタス追い落としに動き出した。1402年1月末にヨガイラはスロヴェニアから後妻を迎えて結婚式を挙げたが、この婚礼の儀に出席すると偽って、商人に変装したシュヴィトリガイラはドイツ騎士団のもとに赴き、ヴィタウタス追放の同盟を結んだ。そして、同年3月2日、彼らは共謀してリトアニアに侵攻してきた。これに対してヴィタウタスも、ニェムナス河畔のドイツ騎士団の拠点ゴッテスヴェルダー(*7)を急襲し、3日間の包囲ののち制圧した。こうしてサリーナス条約による偽りの平和は僅か3年余りで崩壊した。

 ヴィタウタスが立ち上がったことで士気を鼓舞されたジェマイチヤの人々は、1402年5月、バルト海に面するドイツ騎士団の重要拠点メメル(*8)を襲って焼き払った。しかし、その年の7月、ドイツ騎士団に支援されたシュヴィトリガイラがヴィルニュス南方に現れ、シャイチニンカイとメディニンカイを襲ったあとアシュメナに迫った(*9)。しかし、激しい攻防のあとドイツ騎士団軍は敗れ、撤退して行った。このとき、シュヴィトリガイラに与するヴィルニュスの一部貴族たちの陰謀が暴露した。ヴィタウタスは直ちに彼らを捕えて処刑した。そして、その翌年(1403年)の春、ヴィタウタスはジェマイチヤの人々の協力を得てダウガワ川中流のリヴォニア騎士団の拠点デュナブルク(*10)を襲ったが、ジェマイチヤをめぐるドイツ騎士団との戦いは決着せず、両陣営の対立は続いた。

〔蛇足〕
(*1)「余談96:最後の異教徒の地ジェマイチヤ」参照。フリーデブルクの城については同余談の蛇足(8)参照。
(*2)同じく「余談96」参照。
(*3)「余談93:クリミア遠征とサリーナス条約」参照。
(*4)ガルディナス(Gardinas)はカウナス(Kaunas)の南方約140kmに位置する現在のベラルーシの都市フロドナ(Hrodna)で、昔はグロドノ(Grodno)と呼ばれた。ここはドイツ騎士団が支配する現在のポーランド北東部の湖水地方(マズーリ〔Mazury〕)に近く、リトアニアとポーランドを結ぶ道筋に位置していたから度々ドイツ騎士団の攻撃目標になった。
(*5)このとき(1401年の秋)、ヴィタウタスはスモレンスクを包囲していた。しかし、スモレンスク公ユーリイを屈服させることができず撤退している(「余談95:ヴィルニュス・ラドム協定」参照)。この撤退はここで述べたドイツ騎士団によるカウナスとガルディナス攻撃に対処するための作戦変更であったと推測される。
(*6)シュヴィトリガイラ(Švitrigaila)は活動的な野心家であったようで、ときには長兄ヨガイラさえ持て余す行動に出ることもあった。特に、従兄弟のヴィタウタスがリトアニア大公となったことに不満だった。事実、1400年末に「ヴィルニュス・ラドム協定」が結ばれた直後に、シュヴィトリガイラはマゾフシェのシェモヴィト4世を説得して反ヴィタウタス同盟を結成しようとしたがシェモヴィト4世は動かなかった。そこで次の策としてドイツ騎士団に働きかけたのだった。シェモヴィト4世については「余談84:クレヴァの決議」および「余談85:ポーランドに婿入りしたヨガイラ」参照。1430年にヴィタウタスが亡くなったときにも、シュヴィトリガイラはリトアニア大公位をめぐってヴィタウタスの弟ジギマンタスと争い、短い間ではあったがリトアニア大公(在位1430年~1432年)になっている。
(*7)ゴッテスヴェルダー(Gotteswerder)は、1369年にドイツ騎士団総長ヴィンリヒ・フォン・クニプローデによって、カウナス西方の、ネヴェジス川が北方からニェムナス川に合流する地点か、その少し下流の、ニェムナス川の川中島に築かれ城が起源であるが、その後、その城は荒廃していたので、サリーナス条約締結を機にドイツ騎士団がそこに新たな城を再建し、リトアニアとの国境を守る拠点とした(「余談96:最後の異教徒の地ジェマイチヤ」の蛇足(8)参照)。したがって、ヴィタウタスは先ずこの国境の拠点を攻撃したのだ。
(*8)メメル(Memel)は現在のリトアニア北西端の港湾都市クライペダ(Klaipėda)のドイツ語名である。当時、ここはプロシャのドイツ騎士団本部と北方の支部であるリヴォニア騎士団(現在のラトヴィアを基盤としていた騎士団)を結ぶ重要な中継基地であった。
(*9)シャイチニンカイ(Šaičininkai)とメディニンカイ(Medininkai)は、それぞれ、ヴィルニュスの南方約40kmとヴィルニュスの南東約30kmに位置するリトアニアの都市である。アシュメナ(Ašmena)はヴィルニュスの南東約50kmに位置する現在のベラルーシの都市アシュミャニ(Ashmjany)で、ヴィルニュスからメディニンカイとクレヴァ(Krėva)を経て、現在のベラルーシの首都ミンスクに至る街道の中間(メディニンカイとクレヴァの間)に位置している重要都市であったから、ここの攻防は特に激しかった。
(*10)デュナブルク(Dünaburg)は現在のラトヴィア南東端のダウガワ河畔の都市ダウガウピルス(Daugavpils)のドイツ語名である。
(番外)14世紀末から15世紀初頭にかけてのドイツ騎士団は、北東ヨーロッパの内陸部からバルト海への物資輸送の大動脈である三大河川、ラトヴィアのダウガワ川、リトアニアのニェムナス川、ポーランドのヴィスワ川の中下流地域を支配下に置き、ハンザ同盟とのバルト海交易を独占して大きな経済的利益を手にしていた。その結果、当時のドイツ騎士団は軍事的にも経済的にも強力な国家となってポーランドとリトアニアを脅かしていた。15世紀初頭はこの緊張関係が沸点に達した時代であった。
(2020年2月 記)
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リトアニア史余談96:最後の異教徒の地ジェマイチヤ/武田 充司

 1399年2月、北方からリヴォニア騎士団が突然ジェマイチヤに侵攻してきた。驚いたジェマイチヤの人々が防戦に気を取られている隙に、ヴェルナー将軍率いるプロシャのドイツ騎士団軍が背後からジェマイチヤに襲いかかってきた。ジェマイチヤ全土はあっという間に両騎士団軍による略奪と破壊の惨禍に飲み込まれてしまった。
   現在のリトアニア西部の地域はジェマイチヤと呼ばれているが、1398年秋に締結された「サリーナス条約」によってジェマイチヤはドイツ騎士団領となった(*1)。これをうけて、その翌年、プロシャのドイツ騎士団は彼らの支部である北方のリヴォニア騎士団(*2)と連携してジェマイチヤの併合に乗り出したのだ。

   そして、その年の夏、ドイツ騎士団総長コンラート・フォン・ユンギンゲンが大軍を率いてジェマイチヤに進駐してきた。彼らはその夏の1か月間各地を襲って収穫直前の畑を焼き払ったが、その蛮行はドイツ騎士団が連れてきたプロシャの原住民、すなわち、西バルト族のプロシャ人兵士によって為されたのだった。彼らを現場で指揮していたのもドイツ騎士団に征服されたプロシャ人部族の有力者の中から抜擢されて騎士の爵位を与えられたプロシャ人エリートであった(*3)。窮したジェマイチヤの人々はヴィタウタスに助けを求めたが何の支援も得られなかった。このとき、ヴィタウタスはキプチャク汗国のタタール軍と戦うためにキエフの彼方にいたのだ(*4)。

   1400年の冬、ヴィタウタスはヴェルナー将軍率いるドイツ騎士団軍とともにジェマイチヤに現れた。その中にはラインラント北部のゲルデルン(*5)やロレーヌの諸侯も軍を率いて加わっていた。彼らは凍結した河川や湿地地帯を通ってジェマイチヤの中心部に進駐した。ドイツ騎士団の大軍の中にヴィタウタスを見つけたジェマイチヤの人々は戦うのをやめ、ヴィタウタスに臣従を誓って和平を申し入れたがヴィタウタスはそれを聞き入れず、事のすべてをドイツ騎士団軍の総司令官ヴェルナーに取り次いだ(*6)。
   ヴィタウタスに見捨てられたジェマイチヤの人々は一斉にドイツ騎士団軍に投降した。そして、それまで決して屈服することのなかった誇り高きジェマイチヤ人貴族たちの多くは人質としてプロシャに送られ、ジェマイチヤは統率者を失った。

   こうして、14世紀が終って新しい世紀が始まろうとするとき、ジェマイチヤのキリスト教化とドイツ化が始まった。それは西欧世界最後の異教徒の地ジェマイチヤに対する十字軍活動の終りでもあった。1400年夏、ドイツ騎士団総長コンラート・フォン・ユンギンゲンは騎士でもなく聖職者でもない俗人を起用してジェマイチヤの統治を任せた(*7)。そして、ニェムナス河畔に築かれた城フリーデブルク(*8)がジェマイチヤ統治の拠点となった。

〔蛇足〕
(*1)「余談93:クリミア遠征とサリーナス条約」参照。
(*2)「余談51:サウレの戦い」の蛇足(8)参照。
(*3)ドイツ騎士団は服従したバルト族の有力者の中から有望な若者をキリスト教徒にして教育し、布教活動の先兵とした。また、新たなバルト族平定作戦の戦力にもしていた。その結果、ドイツ騎士団と戦っているバルト族は、彼らを同胞の裏切り者として憎悪し、悲惨な同士討ちになることも多かった。たとえば、「余談45:キリスト教徒となったリーヴ人カウポ」参照。
(*4)「余談94:ヴォルスクラ川の戦い」参照。
(*5)ゲルデルン(Geldern)はエッセン(Essen)の西北西約50kmに位置するオランダとの国境に近いドイツの小都市である。
(*6)ヴィタウタスのこの時の行動は、この軍団の最高責任者はヴェルナー将軍であって自分ではないことを示し、「サリーナス条約」の取り決めを守ってドイツ騎士団に忠実に従っていることをアピールしたのだと言われている。しかし、それだけではなかったようだ。ジェマイチヤをドイツ騎士団に譲渡した代わりに、リヴォニア騎士団を抑えてノヴゴロドを支配下に置くことを認めさせ、それによって得られる交易上の利益を狙ったヴィタウタスは、リヴォニア騎士団、すなわち、ドイツ騎士団との関係悪化を避けたかったのだ。しかし、その一方で、ヴィタウタスは密かにジェマイチヤの人々に暫く耐え忍ぶよう諭していたという。彼は機を見てジェマイチヤを取り戻す魂胆だったのだろう。
(*7)表面上はドイツ騎士団に服従していた誇り高き頑固なジェマイチヤ人たちが、そのまま静かにその運命をうけ入れことなど考えられなかったから、ドイツ騎士団総長コンラート・フォン・ユンギンゲンはそれを考慮して、性急に洗礼を強制する宣教師や強面の徴税人をジェマイチヤに送り込むことをせず、敢えて俗人に統治を任せて先ず経済を発展させ、それによって一般人の中から新たな商人や小貴族階級が育成されれば、そうした新興階級が自らキリスト教徒となって社会の安定勢力になるだろうと考えた。この点に関してはヴィタウタスも同様の考えであったようだ。即ち、既にキリスト教徒(カトリック)となっていたヴィタウタスは、ジェマイチヤ人をカトリックに改宗させることに異存はなかったが、ジェマイチヤがドイツ騎士団によって統治されることは容認できなかったのだ。
(*8)フリーデブルク(Fiedeburg)は、文字通り「平和の城」として、ジェマイチヤ統治の政治的拠点(役所)としての機能だけでなく、交易センターとして地域の経済的発展を促す重要な役割を担っていた。この城は「サリーナス条約」が結ばれたあと、ドイツ騎士団がカウナス西方のニェムナス河畔に築いた2つの城のひとつで、ドゥビサ川がニェムナス川に合流する河口付近、すなわち、カウナスの北西約37km付近に築かれていた。一方、もうひとつの城はネヴェジス川がニェムナス川に注ぐ河口付近かその少し下流にあった川中島の城ゴッテスヴェルダー(Gotteswerder)を再建したものと思われる。ネヴェジス川は「サリーナス条約」によってドイツ騎士団領とされたジェマイチヤ地域の境界をなしていて、この川の河口地域はリトアニア領になっていたから(「余談93:クリミア遠征とサリーナス条約」参照)、この城はドイツ騎士団にとって国境を守る最前線の基地となった。
(番外)ドイツ騎士団総長コンラート・フォン・ユンギンゲン(Konrad von Jungingen:在位1393年~1407年)は前任者の急死によって選出された総長(Hochmeister)で、経験の浅い未知数の指導者として登場するのだが、深謀遠慮の人物であった(「余談92:ドイツ騎士団のヴィルニュス包囲」の蛇足(5)参照)。それは、ここで見た彼のジェマイチヤ統治の方針からも納得できるのだが、彼のジェマイチヤ政策は、積極的な布教とジェマイチヤ人の早期改宗を望む身内の聖職者たちからは理解されず、不評であったという。
(2020年1月 記)
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武田レポート

リトアニア史余談95:ヴィルニュス・ラドム協定/武田 充司

 ポーランド王ヨガイラの后ヤドヴィガは、1399年6月22日、長女エルジビエタ・ボニファチャを出産したが、不幸にも、その子は生れて3日後に亡くなった。そして、ヤドヴィガ自身もそれから1か月も経たない7月17日に亡くなった。
 ヨガイラはポーランド王位継承者であるヤドヴィガの婿としてポーランド王室に迎えられ、ポーランド王となったのだから、この不幸の連鎖はポーランド王としてのヨガイラの地位を不安定なものにした(*1)。一方、リトアニア大公ヴィタウタスは、それから間もない8月12日、クラクフから東へ1000kmも離れたヴォルスクラ河畔の戦いでタタール軍に大敗して面目を失い、政治的危機に直面した(*2)。

 戦場から帰還したヴィタウタスは直ちにクラクフに赴きヨガイラと会った。この時の2人の対面がどのようなものであったのか知る由もないが、不運にも苦しい立場に追い込まれた2人が、以前のように不信感を募らせて争うのではなく、互いにこの場は何とか取り繕って、今後のことを考えようとしたのではなかろうか。

 翌年(1400年)の12月、2人はガルディナス(*3)に会し、過去に2人の間で合意されていた事項を再確認したが、これが「ヴィルニュス・ラドム協定」である(*4)。この協定によって確認された要点は、ヴィタウタスをリトアニア大公としてリトアニアの統治を委ねるが、ヨガイラはヴィタウタスを監督する諸権利を保持する「最高君主」であり、ヴィタウタス没後は、ポーランド王ヨガイラ、あるいは、ヨガイラの合法的な後継者によってリトアニアは統治されるものとする。また、リトアニアとポーランドの貴族は互いに相談することなくポ-ランド王を選出しない、というものであった。

 1401年8月、リャザニに亡命していたスモレンスク公ユーリイ(*5)が、威信失墜のヴィタウタスの隙を突いてスモレンスクを奪還し、ヴィタウタスに臣従していたブリャンスクの貴族たちを処刑してブリャンスクも支配下においた。ヴィタウタスは急遽スモレンスクを包囲したが勝利することができず、ユーリイと休戦して撤退した。しかし、1403年、再度、スモレンスクを包囲したヴィタウタスは、その翌年、スモレンスクを奪還した(*6)。スモレンスクはこの時から1世紀以上にわたってリトアニアの支配下に置かれた(*7)。
 一方、后ヤドヴィガを亡くしたヨガイラは、1402年1月、スロヴェニアのツェリェ伯ヘルマン2世(*8)の娘(養女)アンナを後妻に迎えた。アンナはポーランドのピアスト朝の中でも大王と呼ばれたカジミエシ3世の孫娘であったから(*9)、ヨガイラのポーランド王としての地位は強化された。アンナはそれから6年後の1408年に女児を出産し、世継ぎ問題にも一条の光明をもたらした。

〔蛇足〕
(*1)ポーランドの貴族たちにとってヨガイラはリトアニアをポーランドに併合するための要であったから、そのことに執着していた彼らはそう簡単にはヨガイラを廃して新たなポーランド王を選出することなどできなかっただろうが、それでもヤドヴィガ没後のヨガイラの立場は微妙なものであったはずだ。ヤドヴィガについては「余談84:クレヴァの決議」参照。
(*2)ヨガイラの権力と智謀に対抗できるヴィタスタスの力の源泉は彼の軍事的才能であったから、ヴォルスクラ川の敗北は彼を窮地に追い込んだ。「余談94:ヴォルスクラ川の戦い」参照。
(*3)ガルディナス(Gardinas)はヴィルニュスの南西約150kmに位置し、現在のベラルーシの都市フロドナ(Hrodna)で、以前はグロドノ(Grodno)と呼ばれていた。
(*4)「ヴィルニュス・ラドム協定」については「余談91:ヴィタウタス大公時代のはじまり」の蛇足(6)参照。
(*5)ユーリイは最後のスモレンスク公となった人であるが、1395年にヴィタウタスによってスモレンスクを追われ、岳父であるリャザニ公オレグを頼って亡命していた。
(*6)このとき、ユーリイはモスクワのヴァシリイ1世に支援を要請したが、当時のモスクワ公国の力は未だ十分でなかったことと、ヴァシリイ1世にとってヴィタウタスは岳父であったことなどから(ヴァシリイ1世の后はヴィタウタスのひとり娘ソフィアである。「余談89:ヴィタウタスの娘ソフィアの嫁入り」参照)、ヴァシリイ1世はユーリイを助けなかった。
(*7)スモレンスクがモスクワ公国の支配下に入るのはヴァシリイ3世(在位1505年~1533年)時代の1514年である。それまでの100年以上の間、スモレンスクはリトアニアの重要拠点都市であった。
(*8)1396年のニコポリス十字軍がバヤズィト1世率いるオスマン軍に敗れたとき、ツェリェ伯ヘルマン2世は獅子奮迅の活躍で撤退するハンガリー王ジギスムント(のちの神聖ローマ皇帝)を助けた。その功績によってヘルマン2世はジギスムントの信任を得た。ジギスムントの后マリアはヨガイラの后ヤドヴィガの姉であるが(「余談84:クレヴァの決議」参照)、早世したので、ジギスムントはヘルマン2世の娘バルバラを後妻に迎えた。バルバラはヨガイラの後妻アンナとは姉妹の関係だが、アンナはヘルマン2世の養女なので実の姉妹ではない。ツェリェ(Celje)は現在のスロヴェニア北東部の都市である。当時、スロヴェニアやクロアチアはハンガリー領だった。
(*9)ヨガイラの後妻となったアンナは、ピアスト朝最後のポーランド王で世継ぎの息子に恵まれなかったカジミエシ3世(大王:在位1333年~1370年)の娘アンナがツェリェのウイリアムに嫁いで産んだ娘(母と同名のアンナ)であるが、彼女が幼いとき父ウイリアムが亡くなったため、父の従兄弟であるツェリェ伯ヘルマン2世が彼女を引き取り、養女とした。そこでバルバラと姉妹の関係になった。なお、1408年にヨガイラとアンナとの間に生れた娘は成人したが父ヨガイラより早く1431年に亡くなった。
(番外)ヨガイラ(Jogaila)はリトアニア人である彼の名であるから、ここではすべてヨガイラとしたが、ポーランド王としてはヴワディスワフ2世(Włładysław Ⅱ)、あるいは、ヴワディスワフ2世ヤギェウォ(Włładysław Ⅱ Jagiełło)である。「余談85:ポーランドに婿入りしたヨガイラ」の蛇足(6)参照。
(2019年12月 記)