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リトアニア史余談114:コンスタンツ公会議における論争/武田 充司<br />

   コンスタンツ公会議といえば教会大分裂を終らせ、宗教改革の先駆者ヤン・フスを処刑したことで知られているが(*1)、リトアニアやポーランドの人々にとっては、この公会議で行われたドイツ騎士団との論争を抜きにしては語れない、歴史的公会議であった(*2)。
 ドイツとスイスが接する国境の湖、ボーデン湖のほとりにあるコンスタンツで、1414年11月15日から開かれていた公会議に、ドイツ騎士団の代表団が11輌の4輪荷馬車を連ねて乗り込んできたのは、その年も押し迫った12月のことであった。そして、年が明けた1415年1月には、ミコワイ・トロンバ(*3)に率いられたリトアニアとポーランドの合同代表団もコンスタンツに到着した。

 この公会議で彼らの議題が初めて取り上げられたのは1415年5月11日であった。ポーランド・リトアニア連合とドイツ騎士団の双方が文書を提出し、それぞれの主張の正当性を開陳し、相手の非を激しく糾弾した。
 ドイツ騎士団の代表は、彼らが招かれてポーランド北部に入植した当時からの歴史を説き起こし(*4)、ポーランドの平和と繁栄に如何に貢献したかを語ったあと、それにもかかわらず、ポーランドの人々は悪魔の異教徒リトアニア人と結託してドイツ騎士団に歯向かい、約束を守らず、殺人、放火、略奪などをくり返したと激しく非難した(*5)。
 これに対して、ポーランドの代表は、非人道的なドイツ騎士団の行為と武力による不法な抑圧の数々を、実例をあげて非難し、キリスト教徒であれ異教徒であれ、彼らの財産権は守られるべきで、罪のない隣人の財産を奪うことは教皇の権限を超えていて自然法に反すると断じた。また、武力に訴えて異教徒を改宗させることは、「真の改宗は“自由な選択”と不可分である」とする聖書と教会法に反する行為で、決して正当化できないと論じた(*6)。

   このような激しい論争があったあとのこの年の11月28日、最近キリスト教徒に改宗したという60人ほどのジェマイチヤ人の一団がコンスタンツにやって来た。そして、翌年(1416年)の2月、公会議で陳述する機会を与えられた彼らは、「長い間ドイツ騎士団の残虐行為に苦しめられたが、我々はローマ教会の信仰に帰依することを望んでいる。しかし、ドイツ騎士団の攻撃と侵略が続いているので、多くの者が改宗することをためらっている。」と述べたあと、「我々はリトアニア大公国の一員であり、ヴィタウタス大公に我々をキリスト教徒として受洗させる権限を与えて欲しい。」と請願した。

   こうしたジェマイチヤ人の訴えは公会議に集まった聖職者たちに大きな衝撃を与えたが、これをどう処理するかは難しい問題だった(*7)。新教皇マルティヌス5世は明白な結論を出すことなく公会議の閉会を宣言したが、そこには強かな政治的配慮も示されていた。

〔蛇足〕
(*1)ローマ教会の大分裂は、アヴィニョン教皇時代を終らせたグレゴリウス11世が亡くなった翌年(1378年)に始まった。このとき、後継教皇としてウルバヌス6世が選ばれたが、この人が粗野で尊大な独裁者あったため、枢機卿たちが彼を廃位してクレメンス7世を新たに選出したことから、ローマのウルバヌス6世とアヴィニョンの対立教皇クレメンス7世が並立する時代になったが、フランス王シャルル5世がクレメンス7世を支持したのに対して、神聖ローマ皇帝カール4世と帝国諸侯がウルバヌス6世を支持したため、当時のヨーロッパを分断する政治的対立に発展した。そして、この公会議が開かれた当時は3人の教皇が鼎立するという最悪の状況であった(「余談113:ホロドウォ会談と飢餓戦争」の蛇足(8)参照)。一方、ボヘミアのプラハ大学教授で同大学の総長も務めたヤン・フスは、イングランドのジョン・ウィクリフ(1384年没)の思想に強く影響された先駆的宗教改革の主導者だったが、この公会議で異端尋問をうけたあと、1415年7月6日に有罪宣告をうけ、直ちに焚刑に処せられた。これは1517年に始まったとされるマルティン・ルターの宗教改革より百年以上も前の出来事である。そして、これがもとで、ボヘミアではフス派による反乱が起り、いわゆる「フス戦争」(1419年~1436年)が始まった。
(*2)この公会議において、ドイツ騎士団もポーランド・リトアニア連合も、どちらも、長年争ってきた問題について、ヨーロッパの良識に訴えて自分たちの主張の正当性を立証しようとした。
(*3)ミコワイ・トロンバについては「余談107:ジャルギリスの戦い」の蛇足(4)参照。
(*4)「余談58:ポーランドに招かれたドイツ騎士団」参照。
(*5)この論陣を張ったのはドイツ騎士団総長の代理人ペーター・フォン・ヴォルムディトで、彼は「トルンの平和条約」の条項も説明し、ポーランド王がこれらの条項を無視しているとも主張した。
(*6)この論陣を張ったのはクラクフ大学の総長パヴェウ・ヴウォドコヴィツ(Paweł Włodkowic)で、この人は、「ジャルギリスの戦い」直前の言論戦で当時のクラクフ大学総長スタニスワフとともに、国家間の平和共存を説いて活躍した若き論客であった(「余談103:開戦前夜の言論“正義の戦いについて”」の蛇足(9)参照)。彼の論点の中心は:教皇の命令があればキリスト教徒が合法的に異教徒の主権国家を攻撃できるのか。そして、たとえ教皇がすべての人間に対する裁判権を持っていたとしても、彼ら異教徒が知らない法律に違反した廉で彼らを罰することができるのか、などであった。彼の演説は体系的で論理的なもので、のちに論文として出版された。このあと、ドイツ騎士団は13世紀の教会法学者ホスティエンシス(セグシオのヘンリー)の思想に依拠して反論したが、パヴェウ・ヴウォドコヴィツは屈せず、ホスティエンシスの主張が間違っていることを52の論点にまとめて反論した。これものちに小冊子として刊行された。
(*7)当時はまだパヴェウ・ヴウォドコヴィツの主張に反感をもつ人たちが多かった。たとえば、ドミニコ会の修道士ヨハネス・ファルケンベルクはパヴェウ・ヴウォドコヴィツを異端と断じ、異教徒を殺害して彼らの土地を取り上げ、キリスト教徒のものにするのは合法的であると主張して、ドイツ騎士団の行為を擁護した。しかし、さすがに、こうした極論は当時も批判されたが、それでも、先に述べたホスティエンシスの思想(たとえば、教皇の世俗的事項に関する権限は非キリスト教国にも及び、彼らが教会の統治権を認めないならば、彼らの主権と土地を奪うことは正当な行為として許される等)は17世紀頃までカトリック世界に大きな影響力を保っていて、スペインの残忍なアメリカ新大陸征服を正当化する論理として使われていたという。我が国の戦国時代にやって来たポルトガルやスペインの宣教師たちの論理も同様で、彼らは「トロイの木馬」であったと言えよう。
(2021年7月 記)
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リトアニア史余談113:ホロドウォ会談と飢餓戦争/武田 充司

 ジェマイチヤの範囲を画定する問題がこじれて、ドイツ騎士団に先制攻撃を許したリトアニア大公ヴィタウタスとポーランド゙王ヨガイラは(*1)、その年(1413年)の10月、ポーランド南部のホロドウォで会談した。
 この会談で取り決められたことは、その後のリトアニアの運命を決めた歴史的な転機となったが(*2)、そのときに、ヴィタウタスとヨガイラは、油断のならないドイツ騎士団に対して協力して戦うことを再確認していた。

 一方、クーデターによって武闘派の前総長ハインリヒ・フォン・プラウエンを追放して騎士団総長になったミハエル・キュヒマイスターは(*3)、当面の間は隣国との平和共存が得策と考えたのか、前年のハインリヒ・フォン・プラウエンによる一方的な先制攻撃のときとは打って変わって、ポーランドに対して和平交渉を提案した。
   しかし、敵の弱みを熟知したポーランド王ヨガイラは、この虫の良い提案を一蹴し、今度は、ポーランドとリトアニアが共謀してドイツ騎士団領のエルムラント地方(*4)に攻め込んだ。エルムラントの要衝オステローデ(*5)を襲撃したリトアニア・ポーランド連合軍は、そこからドイツ騎士団の首都マリエンブルク(*6)に進撃するかと思いきや、エルムラントにとどまって各地で略奪をくり返し、収穫前の作物を焼き払った。これに対して、敵と正面から戦っても勝ち目がないと考えたドイツ騎士団は、騎士団領中央部のクルム地方(*7)を死守することに徹し、籠城戦術をとって耐えることにしたのだが、その前に焦土作戦を展開し、城周辺の家屋も食料も家畜も、何もかも焼き払って、包囲する敵軍がその地で野営しても何も利用できないようにした。こうしておけば、敵軍も包囲を長くは続けられないだろうという計算だった。

   ミハエル・キュヒマイスターのこの作戦が図に当たったのか、リトアニア・ポーランド連合軍は決定的な勝利をおさめることができず、籠城する騎士団軍と睨み合っている間に、教皇特使が調停にやって来た(*8)。そして、この年の10月、シュトラスブルク(*9)において2年間の休戦協定が合意され、この戦いはあっという間に終わってしまった。

   結局、戦いは僅か数か月で終り、両軍が雌雄を決するような大会戦もなかったのだが、ドイツ騎士団がとった焦土戦術と、リトアニア・ポーランド連合軍によって焼き払われたエルムラント地方の荒廃が重なって、プロシャのドイツ騎士団領は、その後、深刻な食料不足に見舞われ、飢餓によって多くの人命が失われた。それ故、1414年夏から秋にかけて戦われたこの短い戦争を「飢餓戦争」と呼んでいる。

〔蛇足〕
(*1)「余談112:ジェマイチヤとはどこまでか」参照。
(*2)この会談で取り決められたことの要点は2つで、ひとつは、リトアニアはポーランドと一体化するが、リトアニアの独立性はヴィタウタス没後も維持されるという点で、それ以前に合意された「ヴィルニュス・ラドム協定」における「独立したリトアニアの統治はヴィタウタスの存命中に限る」としていたことと異なっていた。具体的には、リトアニアもポーランドの貴族議会セイム(Sejm)に倣って、貴族の議会セイマス(Seimas)を置き、両国の君主はそれぞれの議会が選出し、互いに相手国の議会の了承を得ること、と決められた。もうひとつの重要な合意は、リトアニアにポーランドの行政システムを導入するという取り決めで、これによって、以後、リトアニアにもポーランドのシュラフタ(Szlachta:法的に定義された貴族身分)が導入され、ポーランドのシュラフタが使っていた特別の紋章レリヴァ(Leliwa:the coat of arms)の使用も認められた。また、地方行政区のヴォイェヴツトフォ(Województwo:県)がリトアニアにも導入された。これによってリトアニアのポーランド化は具体的な形をとって急速に促進された。会談の場所ホロドウォ(Horodło)は、現在のポーランドとウクライナの国境を流れるブーク河畔の町で、リヴィフ(L’viv)の北方約115kmに位置している。なお、この「ホロドウォの協定」に関連して、「余談91:ヴィタウタス大公時代のはじまり」および「余談95:ヴィルニュス・ラドム協定」も参照されたい。
(*3)「余談112:ジェマイチヤとはどこまでか」参照。
(*4)エルムラント(Ermland)は現在のポーランド北部のヴァルミア(Warmia)地方の当時のドイツ語名で、この地方の中心都市はオルシュティン(Olsztyn)やオストルダ(Ostróda)である。
(*5)オステローデ(Osterode)は現在のオルシュティンの当時のドイツ語名である。
(*6)マリエンブルク(Marienburg)は現在のポーランド北部の都市マルボルク(Malbork)の当時のドイツ語名である。「余談109:マリエンブルクの攻防」参照。
(*7)クルム(Culm)は、現在のポーランド中央北西部のヴィスワ河畔の都市ヘウムノ(Chełmno)の当時のドイツ語名で、トルンの北々西約40kmにあり、この地域はドイツ騎士団がポーランドに入植した当初からの騎士団領で、彼らにとっては最も重要な中核地域であった。「余談58:ポーランドに招かれたドイツ騎士団」参照。
(*8)このときは教会大分裂の時代で、教皇は3人いた。即ち、ローマのグレゴリウス12世(在位1406年~1415年)とアヴィニョンの対立教皇ベネディクトゥス13世(在位1394年~1417年)、そして、この対立する2人の教皇を退位させるために、ピサ公会議で1409年に正当な教皇としてアレクサンデル5世が選出されたが、この人がその直後に急死したため、アレクサンデル5世の後継者として1410年にヨハネス23世(在位1410年~1415年)が選出されていた。その結果、この当時、これら3人の教皇が鼎立していた。ここでいう教皇特使は、神聖ローマ皇帝であるハンガリー王ジギスムントが認めていた第3の教皇ヨハネス23世が差し向けた特使であった。
(*9)シュトラスブルク(Strassburg)は現在のポーランド中央北部の都市ブロドニツァ(Brodnica)の当時のドイツ語名で、ヘウムノの東方約65kmに位置している。
(2021年6月 記)
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リトアニア史余談112:ジェマイチヤとはどこまでか/武田 充司

 領土の境界を画定するということは何時の時代でも厄介な問題だ。「トルンの講和」によってジェマイチヤを手放すことになったドイツ騎士団は、それでもしぶとく土俵際に残って、ポーランド王ヨガイラとリトアニア大公ヴィタウタスが存命の間だけリトアニア領として認めるという奇手を繰り出して問題を先送りした(*1)。
   
   しかし、そのあと、ジェマイチヤとはどこまでを指すのかが問題となった。リトアニア大公ヴィタウタスは、ニェムナス川右岸(北側)はジェマイチヤだから、バルト海岸にあるドイツ騎士団のメーメルの城は当然ジェマイチヤの施設としてリトアニアが接収するのだと主張した。これは誰がみても自然な認識だが、ドイツ騎士団としては、戦略的要衝であるメーメルを手放すことなど考えられなかったから、これには猛反発した(*2)。

   神聖ローマ皇帝となったルクセンブルク家のハンガリー王ジギスムントは、ドイツ騎士団総長ハインリヒ・フォン・プラウエンの相談をうけて、早速、調停に乗り出した。1412年秋、皇帝ジギスムントが任命した調停役のベネディクト・マクライがリトアニアにやって来た(*3)。彼は先ずドイツ騎士団とリトアニアの双方から言い分をきいたが、はじめから両当事者は激しく言い争って全く話にならなかったので、直ぐに結論を出さず、翌年まで問題解決を先送りした(*4)。
   翌年の5月、ベネディクト・マクライが出した結論は「ニェムナス川右岸(北側)の地域とメーメルを含むバルト海沿岸地帯とは切り離せないひとつの地域であって、これ全体がジェマイチヤである」というものだったから、色よい調停を期待していたドイツ騎士団は驚き、激怒した。ベネディクト・マクライの調停は完全な失敗であった。

   ドイツ騎士団は直ちに反リトアニア・反ポーランドの宣伝活動をヨーロッパ各地で再開した。そして、秋になると、東ポモージェ(*5)のポーランドとの国境付近に6千の兵力を動員すると同時に、ドブジン地方(*6)からマゾフシェの国境地帯にも1万5千の兵力を展開してポーランド北部に侵攻した。
   ところが、この軍団の指揮を任されていたケーニヒスベルクの管区長ミハエル・キュヒマイスターは僅か16日間の戦闘ののち撤退してしまった。東ポモージェの軍団も攻撃命令に従わない騎士たちが続出して、殆ど戦闘は行われずに終わってしまった。

   その直後にミハエル・キュヒマイスターは騎士団総長ハインリヒ・フォン・プラウエンを襲って辞任させ、10月14日に参事会を開いて臨時の総長代行としてヘルマン・フォン・ガンスを指名した。これはまさにクーデターであった(*7)。そして、翌年(1414年)の1月、ドイツ騎士団総会が開かれ、ミハエル・キュヒマイスターが騎士団総長に選出された。

〔蛇足〕
(*1)「余談111:トルンの講和」参照。
(*2)メーメル(Memel)は現在のリトアニアの北西部バルト海に面する港湾都市クライペダ(Klaipėda)だが、この都市の位置はニェムナス川の河口の右岸(北東側)であるから、当然、このときの定義によってジェマイチヤに含まれる。ニェムナス川は一旦内海のクルシュウ・マリオス(Kuršių marios)に注ぎ、この内海がバルト海とつながるクライペダの位置でバルト海に注ぐ。メーメルはこの河口の右岸にある。メーメルはドイツ騎士団の2つの領土(プロシャとリヴォニア)を結ぶ要衝であるから、当時のドイツ騎士団にとって手放せない重要拠点であった。なお、近現代におけるクライペダの重要性を理解するために、「余談34:クライペダ問題」および「余談35:武力によるクライペダ地域の併合」も合わせて参照されたい。また、第2次世界大戦前夜の1939年3月、ドイツのリベントロップ外相がリトアニアに対してクライペダ返還要求の最後通牒を発したこと、そして、その年の5月、返還されたメーメルの国民劇場のバルコニーでヒトラーが演説したことなどを想起されたい。
(*3)ベネディクト・マクライは、先ず、ドイツ騎士団の首都マリエンブルクに立ち寄ったが、彼を迎えたドイツ騎士団の態度は冷たかったという。そのあと、リトアニアのトラカイに来たが、ヴィタウタスは豪華な饗宴を催して彼を大歓迎し、黄金の拍車と礼帯など高価な贈り物もした。調停役のベネディクト・マクライに対する両国のこうした接し方の違いには注目すべきものがあったようだ。なお、ベネディクト・マクライはハンガリーの貴族で、ハンガリーでは日本と同様「姓・名」の順に氏名を書くのでMakrai Benedekがハンガリー人としての氏名だが(Makraiが苗字)、Benedict Makraiで通っている。彼はヨーロッパのあちこちの大学で学んだ知識人で、ハンガリー王ラヨシュ1世没後の王位争いでは、アンジュー・シチリア家のナポリ王カルロ3世を支持し、ルクセンブルク家のジギスムントに反対したため、一時、投獄された。しかし、出獄後ジギスムント王の信頼を得て外交問題で活躍した。
(*4)調停はリトアニアのカウナスで行われたが、ドイツ騎士団は、ミンダウガス王の時代にジェマイチヤがドイツ騎士団(正確にはドイツ騎士団の支部的存在であった当時のリヴォニア騎士団)に譲渡されたという歴史まで持ち出したが(「余談17:ミンダウガスの戴冠」参照)、リトアニアとポーランドの代表は、そのような古い資料は法的効力のないものだと主張して激しく反論した。しかし、ドイツ騎士団の代表は、ジェマイチヤはその後も度々ドイツ騎士団に譲渡されたという証拠があるとして、1404年の「ラツィオンシュの講和」(「余談98:ラツィオンシュの講和」参照)などを持ち出してリトアニア側の主張に反論した。ところが、ヨガイラの幼い娘ヤドヴィガ(1408年生れ)の代理人と、ヴィタウタスの娘ソフィア(モスクワ大公ヴァシーリイ1世の后)の代理人が、彼女らもジェマイチヤの相続人であり、彼女らの承諾なしにジェマイチヤがドイツ騎士団に譲渡されたのは全く違法で、この譲渡は無効であると申し立てた。さらに、14人のジェマイチヤの貴族たちも、「ジェマイチヤに住む我々は、ヴィタウタスを君主と認めているが、ヴィタウタスに対してジェマイチヤの土地を勝手に処分する権利は認めていない」と主張するなど、本題のジマイチヤの境界画定などそっちのけの議論で混乱した。
(*5)「余談98:ラツィオンシュの講和」の蛇足(8)参照。
(*6)「余談58:ポーランドに招かれたドイツ騎士団」および「余談98:ラツィオンシュの講和」の蛇足(7)参照。
(*7)1410年の「ジャルギリスの戦い」の大敗北以来、荒廃した領土と疲弊したドイツ騎士団の立て直しのために、騎士団内部では近隣諸国との平和維持を望む勢力が台頭していたから、彼らが強引な武闘派の暴走に反発したのだ。また、プロシャ領内のハンザ商人などの裕福層が復興のための重税に不満をもっていたことも背景として見逃せない。
(2021年5月 記)
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リトアニア史余談111:トルンの講和/武田 充司

 1410年9月、マリエンブルク城の攻略(*1)をあきらめたポーランド・リトアニア連合軍が、占領した要所の城に守備隊を残して順次引き揚げて行くと、失地回復を目指すドイツ騎士団は撤退して行く敵を追って出撃した。
  その結果、ポーランド軍が占領していたプロシャ領内の城のほとんどは、数週間のうちにドイツ騎士団に奪還されてしまった(*2)。これに驚いたポーランド王ヨガイラは新たに軍を編成して反撃に出た。そして、10月10日、コロノヴォ(*3)で敵軍を撃破すると、勢いづいたポーランド軍はドイツ騎士団領内のあちこちで攻勢に転じ、敵を圧倒した(*4)。

 11月9日、正式にドイツ騎士団総長に選出されたハインリヒ・フォン・プラウエン(*5)は、西欧キリスト教世界に支援を要請して断固戦う決意を示したが、ドイツ騎士団評議会は総長の考えをうけいれず、むしろ交渉によって事態を収束すべきだとの結論に達した。そして、その年の12月10日から翌年の1月11日までの休戦協定に合意した。
 ハインリヒ・フォン・プラウエンはこの休戦協定にしたがってポーランド王ヨガイラとマゾフシェのラツィオンシュで会談したが、3日間に及ぶ交渉はなんの成果も得られず決裂した(*6)。そうすると、ハインリヒ・フォン・プラウエンは再び主戦論をふりかざし、休戦協定が切れるとドルヴェンツァ川を渡ってドブジン(*7)を占領した。しかし、疲弊しているドイツ騎士団にとって戦いを続けることができず、再び休戦交渉に臨んだ。交渉はトルン近郊のヴィスワ川の川中島で行われた。

 1411年2月1日、ドイツ騎士団との間で講和条約が締結された。この条約によって、ドイツ騎士団とポーランドおよびリトアニアとの国境線は「ジャルギリスの戦い」以前の状態に戻すことになったが、ジェマイチヤはポーランド王ヨガイラとリトアニア大公ヴィタウタスの生存期間中に限ってリトアニアに返還されることが決められた(*8)。その結果、この交渉に入る直前にドイツ騎士団が占領したドブジンはポーランドに返還されたが、ポーランドが奪還を目指していた東ポモージェは依然としてドイツ騎士団の手に残った(*9)。しかし、ドイツ騎士団はこの条約によって莫大な賠償金を支払うことになった。この賠償金にはポーランドに捕らえられているドイツ騎士団の身分の高い騎士や貴族たちを取り戻すための高額の身代金も含まれていた(*10)。

 この条約によって敗者であるドイツ騎士団は殆ど領土を失うことなく、すべてを賠償金の支払いによって解決した。これはドイツ騎士団の外交的勝利であった。失われた領土の回復には新たな戦争が、有能な人材の育成には時間が必要だが、金銭は西欧からの借金によって賄える。こうしてドイツ騎士団はその存立の基盤を守り、捲土重来を期したのだ。

〔蛇足〕
(*1)「余談109:マリエンブルクの攻防」参照。
(*2)マリエンブルクの南方約13kmに位置するシュトゥム(Sztum)には以前からドイツ騎士団の城があったが、撤退するポーランド軍はそれを利用して強固な要塞を築き、強力な守備隊を残してマリエンブルクの監視をしていたが、ここも3週間の包囲に屈してドイツ騎士団に奪還されてしまった。そのほか、エルブロンク(Elbląg)やオストルダ(Ostróda)などもドイツ騎士団に奪還された。このとき、リヴォニア騎士団も奪還作戦に協力している。結局、ポーランド軍が占領していた城のなかで奪還されなかったのは、トルン(Toruń)とその対岸のネッサウ(Nessau:現在のヴィェルカ・ニェシャヴァ〔Wielka Nieszawa〕)、そして、レーデン(Rehden:現在のラジン・ヘウミンスキ〔Radzyń Chełmiński〕)とシュトラスブルク(Strassburg:現在のブロドニツァ〔Brodnica〕)の僅か4つだけであったという。
(*3)コロノヴォ(Koronowo)はビドゴシュチの北方約18kmに位置するブルダ河畔の都市で、このとき、ポーランド軍はノイマルクから侵攻してきたドイツ騎士団の援軍を撃破した。
(*4)このとき、ドイツ騎士団はドイツの諸侯たちに支援を要請していたが、諸侯の反応は鈍く、おまけに、この年の5月に神聖ローマ皇帝ループレヒトが亡くなって、9月10日にハンガリー王ジギオスムントが次期皇帝に選出されたが、4人の選帝侯がこれに反対して紛糾していたため、ジギスムントはドイツ騎士団支援のことより自分のことに気を取られていた。こうしたことがポーランドに幸いし、反撃の体勢を整える時間的余裕を得たのだった。
(*5)ハインリヒ・フォン・プラウエンは「ジャルギリスの戦い」に参加せず、騎士団総長の命令でマリエンブルクの守備にまわり、マリエンブルクを救った功労者であったから、「ジャルギリスの戦い」で騎士団総長が戦死して以後は、実質的に騎士団のトップであったが、1410年11月の総会で正式に総長に選出された。
(*6)ラツィオンシュは1404年に「ラツィオンシュの講和」が結ばれた場所で、そのときはドイツ騎士団が有利な立場で交渉を妥結させたが(「余談98:ラツィオンシュの講和」参照)、今回は弱い立場のドイツ騎士団が不利で、彼らの主張は拒否され、交渉は決裂した。
(*7)ドブジン(Dobrzyń)については「余談58:ポーランドに招かれたドイツ騎士団」および「余談98:ラツィオンシュの講和」参照。
(*8)このときもジェマイチヤ確保に固執するドイツ騎士団の策が半ば功を奏したが、この後で、ジェマイチヤ問題は再び紛争のもとになる。
(*9)東ポモージェ(ポモージェ・グダンスキエ)については「余談98:ラツィオンシュの講和」の蛇足(8)参照。
(*10)賠償金の総額は当時のイングランド王の平均的年収のほぼ10倍に相当する額であったというが、支払いは4年分割払いであった。そして、最初の2回は約束通りに支払われたが、財政破綻していたドイツ騎士団はここで万策尽きたかに見えた。ところが、驚いたことに、1413年1月、ドイツ騎士団は未払い分の全額を支払い、約束を守った。その裏には神聖ローマ皇帝となったハンガリー王ジギスムントの支援があった。ジギスムントは1412年3月にポーランド王ヨガイラと「ルボヴラ条約」を結んで、「トルンの講和」を認めると同時に、東ポモージェに対するポーランドの主権を秘密裏に支持するという甘い言葉でヨガイラを宥め、ハンガリーのスピシュ地方の16の岩塩鉱山をポーランドに抵当として差し出し、ヨガイラから222万プラハ・グロッシェン(ほぼ純銀7トン相当)を借りることにした。この資金がジギスムントからドイツ騎士団に融通されたのだった。結局、ポーランドは自分の懐にあった資金がぐるりと回って戻ってきただけなのだ。これはジギスムントの側近シチボル・ゼ・シチボジツが仕組んだトリックであったが、岩塩鉱山のあるスピシュ地方はその後ずっとポーランド領になった。
(2021年4月 記)
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リトアニア史余談110:「タンネンベルクの戦い」という記憶/武田 充司

 1410年の「ジャルギリスの戦い」(*1)という呼称はリトアニアの人たちの呼び方で、ポーランドの人たちは「グルンヴァルトの戦い」といい、ドイツや広く西欧諸国では「タンネンベルクの戦い」として知られているが、これらの呼称はこの戦場近くにあった2つの村の名のどちらかに由来している(*2)。
 しかし、第1次世界大戦勃発直後の1914年8月26日から30日にかけて、東プロイセンに侵攻したロシア軍をオルシュティン近郊で撃破したドイツ軍は、その戦いを「タンネンベルクの戦い」と呼んで勝利を祝った(*3)。その結果、世界史には2つの「タンネンベルクの戦い」が登場することになった。

 ドイツ人にとっての「タンネンベルクの戦い」は、これで1勝1敗となったのだが、そのあと、第2次世界大戦の口火を切ったドイツ軍の1939年9月の電撃的ポーランド侵攻作戦は「タンネンベルク作戦」というコード名で呼ばれ、その作戦の成功はヒトラーとドイツのナショナリストたちの鬱憤を幾分か晴らしたようだ。こうした歴史を振り返ると、1410年の「タンネンベルクの戦い」の大敗北が、その後のドイツ人の心に如何に深い傷跡を残したかがわかる。

 19世紀後半から20世紀初頭にかけては、欧州でナショナリズムが高揚した時代であったが、19世紀後半に活躍したポーランドの画家ヤン・マテイコも(*4)、そうした時代の子として、歴史的事件を題材にした作品を数多く残している。なかでも、1410年の「グルンヴァルトの戦い」の勝利を題材にした大作「タンネンベルクの戦い」(横9.87m、縦4.26m)は有名で、祖国を喪失したポーランド人の心に強く訴えるものがあった。
 そこで、第2次世界大戦でポーランドを占領したドイツ軍は、ポーランド人の民族意識を高揚させる愛国的なヤン・マテイコの作品を見つけ出して破壊しようとした。特に、この「タンネンベルクの戦い」という大作には百万マルクの賞金を付けて摘発しようとした。しかし、愛国的なポーランドの人たちが、この絵をルブリン近郊の地中に埋めて隠したため摘発を免れた(*5)。

 1999年春、ヤン・マテイコのこの大作がリトアニアの首都ヴィルニュスにやって来て、下の城の博物館に暫く展示された。展示初日の4月14日には、ポーランド大統領クワシニウスキ臨席のもと、リトアニア大統領ヴァルダス・アダムクス、ランズベルギス国会議長など、リトアニアの要人多数が出席して盛大な式典が催された。このとき、この絵があまりに大きいので、展示には特別に広い場所が用意され、大勢の人が押しかけてきてもよいように、絵の前は大広間になっていたが、それでも、会場は連日混雑していた(*6)。

〔蛇足〕
(*1)「余談107:ジャルギリスの戦い」参照。
(*2)現在のポーランド北部の都市オルシュティン(Olsztyn)の南西約40kmにグルンヴァルト(Grunwald)とステンバルク(Stębark)という2つの村があるが、昔はドイツ騎士団の人たちによって、それぞれグリュンフェルデ(Grünfelde)およびタンネンベルク(Tannenberg)と呼ばれていた。これら2つの村の間に僅か数km四方の平地があるが、そこが「ジャルギリスの戦い」の戦場となった。ポーランド王ヨガイラがこの戦いをラテン語で説明したときに、Grünfelde(「緑の原野」の複数形)というドイツ語の地名を誤って“Grenenvelt”と言ったのを、のちのポーランドの年代記作者ヤン・ドゥウゴシュが更に誤って“Grunwald”と記したことから、ポーランドではこの語が定着したという。なお、リトアニア語のジャルギリス(Žalgiris:緑)はGrünfeldeの直訳である。
(*3)オルシュティンは、当時、ドイツ領内の都市であったが、先に説明したように、タンネンベルクからは40kmも離れているから、この戦いを「タンネンベルクの戦い」と呼ぶのは無理なのだが、当時のドイツ人の気持ちが無理を承知でそうさせたのだろう。なお、この命名者はマックス・ホフマン大佐で、この人こそが、この戦い勝利の真の功労者であるが、表向きには、第8軍司令官ヒンデンブルクや参謀長ルーデンドルフの功績とされている。
(*4)ヤン・マテイコ(Jan Matejko:1838年生~1893年没)の時代にはポーランドという国はなく、第1次(1772年)から第3次(1795年)に及ぶポーランド分割によって、ポーランドとリトアニアの領土は分割され、ロシア、プロイセン、オーストリアの3国に帰属していた。ヤン・マテイコの生まれたクラクフはオーストリアに帰属していたので、彼は幼い時、「1846年2月のクラクフ蜂起」や「1848年革命」の時のオーストリア軍によるクラクフ砲撃を経験している。こうしたことが彼の画業に大きな影響を与えた。なお、彼の作品は歴史的事実に忠実でない部分があるが、それは彼独特の歴史精神の象徴的表現で、敢えてそうしたのだと言うこともできよう。
(*5)1945年以降、戦火とドイツ軍の破壊を免れたヤン・マテイコの作品の大多数が見つけ出され、修復されて、主にワルシャワの国立美術館に収納されている。
(*6)この混雑の中で自分もこの大作を見た。そして、わずか10年前に、あの「人間の鎖」という奇跡の連帯を経て、独立回復を果したリトアニアの人たちの放つ明るい熱気を感じることがた。
(番外1)ポーランドのピアニストで作曲家そして政治家であり外交官でもあったイグナツイ・パデレフスキは、「グルンヴァルトの戦い」の戦勝500周年に当たる1910年に、クラクフ市民に記念碑を寄贈した。このときポーランドは未だ独立回復を果していなかったから、7月15日の除幕式に続く3日間の祝祭には、彼の愛国心に感激した人々10数万人がクラクフの街を埋め尽くしたという。この記念碑は第2次世界大戦中にドイツ軍によって破壊されたが、戦後、再建された。それが現在の記念碑である。また、この年(1910年)には、2人のポーランド人画家タデウシュ・ポピエルとジグムント・ロズヴァドフスキが協力して「グルンヴァルトの戦い」という巨大な絵画(横10m×縦5m)を制作したが、第2次世界大戦中に行方不明になり、1980年代末にウクライナのリヴィウで発見された。これは現在、ウクライナのリヴィウ市の博物館にある。
(番外2)この戦いの600周年に当たる2010年7月15日には、ポーランドで盛大な記念式典が催された。そして、リトアニア銀行は記念コインを発行したが、ベラルーシとウクライナでも記念コインが発行されている。あの時代には、ベラルーシやウクライナはリトアニアの統治下にあったから、彼らの先祖はヴィタウタス大公に従って「ジャルギリスの戦い」に参加している。従って、ベラルーシやウクライナの人たちの心にも勝者の歴史が刻まれているのだ。
(2021年3記)
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武田レポート

リトアニア史余談109:マリエンブルクの攻防/武田 充司

 1410年7月17日、「ジャルギリスの戦い」に勝利して中1日の休養をとったポーランド・リトアニア連合軍は、野営地を発ってドイツ騎士団の本拠地マリエンブルクに向って進撃を開始した(*1)。
 しかし、途中でドイツ騎士団の3つの城を攻略しながらの進撃とはいえ、彼らの足取りは重く、目的地に着いたのは7月26日であった(*2)。そのとき既にシフィエチェから無傷の兵三千を率いて引き揚げてきたハインリヒ・フォン・プラウエン(*3)が、ドイツ騎士団敗北の報に接して意気阻喪していた城内の兵を励まして守備を固めていた。しかも、敵の包囲に備えて、マリエンブルクの城壁の外にあるものは全て破壊し焼き払ってあったから、連合軍は何ひとつ残っていない焼け野原に陣を敷き、野営することになった。

 マリエンブルク(*4)はヴィスワ川の支流ノガト川の河口から35km余り上流に築かれた巨大な複合型の要塞で、ノガト川を利用してバルト海から船で出入りすることができた。下の城、中の城、上の城の3区画に分れた下の城には、穀物倉庫や厩のほかに武器製造工場まであった。中の城は居住区で騎士団総長の宮殿と大食堂のほかに病院もあり、多数の外来の十字軍騎士などを宿泊させる設備も整っていた。上の城は壮大な城郭で、大きな中庭と高い見張りの塔をもった方形の建物で、その周囲には城壁がめぐらされていた。中の城と上の城はノガト川から引いた水を湛えた堀で囲まれ、さらに、中の城と上の城の間は堀で隔てられ、跳ね橋を渡らなければ往来できないようになっていた。そして、これらの3つの城全体が高さ8m、厚さ3mほどの堅牢な煉瓦造りの城壁で囲まれていた(*5)。

 このように、マリエンブルクは難攻不落の巨大な要塞であったが、周囲はポーランドとリトアニアの連合軍によって完全に包囲され、陸の孤島と化していたから、とても長期の包囲には耐えられないと思われた。しかし、楽観的になって監視が甘くなっていた連合軍の隙をついて、城内からは西欧諸国に支援を求める多くの密使が送り出されていた(*6)。
 ハンガリー王ジギスムントは、これに応えて、援軍到着まで降伏しないよう督励していた(*7)。リヴォニア騎士団軍も北方から海路やってきてケーニヒスベルクまで来ていた(*8)。

 予想外の展開に苛立つ連合軍の足元を見透かすように、ハインリヒ・フォン・プラウエンは和平交渉をもちかけてヴィタウタスを城に招き交渉をはじめた(*9)。一方、ハンガリー王が動くという噂に動揺したポーランドの貴族たちは、国王ヨガイラに撤退を迫った(*10)。ところが、その頃、リトアニア陣営に赤痢が流行りだした。事態の悪化を知ったヴィタウタスは、9月18日、ついに撤退を決断した。ポーランド軍もその翌日撤退を開始し、ほぼ2か月に及んだマリエンブルクの包囲は終った。

〔蛇足〕
(*1)「余談107:ジャルギリスの戦い」および「余談108:戦いのあと」参照。このときの連合軍の総勢は2万6千から2万7千といわれ、その内の1万5千がポーランド軍で、残りがリトアニア軍であった。
(*2)途中、ホーエンシュタイン、オステローデ、クリストブルクの3つの城を襲撃したが、騎士団軍の敗北を知っていたこれらの城の守備隊は簡単に降伏したという。ホーエンシュタイン(Hohenstein)は現在のオルシュテネク(Olsztynek)で、ポーランド北東部の都市オルシュティン(Olsztyn)の南西約20kmに位置し、「ジャルギリスの戦い」の戦場からは北東に約15km離れている。従って、連合軍は寄り道をしてこの城を破壊したのだ。オステローデ(Osterode)については「余談108:戦いのあと」の蛇足(7)参照。クリストブルク(Christburg)は現在のジェズゴン(Dzierzgoń)で、オステローデから北西に50kmほど行ったところにあり、目的地のマリエンブルク(Marienburg:現在のマルボルク〔Malbork〕)の南東約24kmに位置している。
(*3)シフィエチェ(Świecie)については「余談104:ヴィタウタスとヨガイラの陽動作戦」の蛇足(12)参照。ハインリヒ・フォン・プラウエンは「ジャルギリスの戦い」開始直前に騎士団総長の命令でシフィエチェからマリエンブルクに戻って守備を固める役割を担った(「余談105:両軍の探り合いと駆け引き」参照)。
(*4)マリエンブルク(Marienburg)は現在のポーランド北部の都市マルボルク(Malbork)であるが、その始まりについては「余談69:ドイツ騎士団本部のマリエンブルク移転」参照。
(*5)マリエンブルクの城は騎士団総長カール・フォン・トリール(Karl von Trier:在位1312年~1324年)によって大々的な拡張工事が実施され、ここで説明したような立派な城になった。しかし、第2次世界大戦末期の1945年春にドイツ軍がこの城に立て籠ってソ連軍と戦った時に大きな損傷をうけた。その後、修復されて1997年末にユネスコの世界遺産に登録されたが、現在でも修復作業は続けられている。
(*6)ドイツ騎士団の敗北とマリエンブルクからの支援要請に西欧の諸侯は当初それを信じられず動転したという。
(*7)このとき、この支援要請に応えてジギスムントの兄でボヘミア王のヴァーツラフ4世(元神聖ローマ皇帝ヴェンツェル)も傭兵を雇う資金を提供し、同時に、ボヘミアとモラヴィアから救援部隊を聖ミカエルの日(9月29日)までに派遣すると約束した。なお、ジギスムントとドイツ騎士団およびポーランドとの関係については「余談104:ヴィタウタスとヨガイラの陽動作戦」の蛇足(11)参照。
(*8)リヴォニア騎士団がリガから海路でケーニヒスベルクに到着したのは8月末であったが、このとき、プスコフとノヴゴロドがリトアニアと謀ってリヴォニア侵攻を企てているという噂が流れ、これに驚いたリヴォニア騎士団軍は、9月8日、ヴィタウタスと10ヶ月の休戦協定を結んで撤退して行った。なお、このときのリヴォニア騎士団の立場については「余談103:開戦前夜の言論“正義の戦いについて”」参照。
(*9)このとき、ヴィタウタスは50人の親衛隊を引き連れてマリエンブルク城内に1週間ほど滞在したと言われているが、これは、援軍到着までの時間稼ぎをしたいドイツ騎士団の巧妙な接待作戦に乗せられたのかも知れないが、事実とすれば不可解なことだ。
(*10)彼らはハンガリー軍がポーランドに侵攻して来て領地を荒らされることを恐れただけでなく、秋の収穫時期が迫っていたので早く戦争を終わらせて領地に戻りたかったのだ。その一方で、ドイツ騎士団の支配からの解放を願うプロシャの人々、特に経済的に繁栄していたハンザ同盟都市のダンツィヒ(現在のグダンスク)などの都市裕福層は、ポーランド王ヨガイラに代表を送って、マリエンブルクの戦いの続行を訴えていた。ヨガイラももう少し頑張ればマリエンブルクは攻略できると思っていたようだ。
(2021年2月 記)
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リトアニア史余談108:戦いのあと/武田 充司

 戦いが終り、制圧されたドイツ騎士団の本陣に足を踏み入れたポーランド王ヨガイラは、先ず、神に戦勝感謝の祈りを捧げた。そこには様々な物資を積んだ夥しい数の荷馬車が残されていたが、その中にはワインの樽を満載した荷馬車もあった(*1)。
 ヨガイラは荷馬車に積まれていた物資を戦利品として兵士たちが山分けすることを認めたが(*2)、ワインの樽はすべて打ち砕かせた。膨大な量のワインが死傷した兵士の血と混じって大地に溢れた。冷静なヨガイラは、戦いに疲れ喉の渇きに喘ぐ兵士たちが先を争ってワインを呑み、泥酔してしまうことを恐れたのだった(*3)。このとき、ヨガイラは未だ自分たちの勝利がどの程度のものなのか分かっていなかった。敗走した敵が何時また反撃してくるやも知れず、敗残の敵兵の掃討作戦が続いていた(*4)。

 ようやく、この日の午後8時過ぎになって掃討作戦は中止され、続々と疲れ果てた兵士が空腹を抱えて戻ってきた(*5)。ドイツ騎士団総長を打ち取った証の品も届けられ、敵将の死が確認された。敵将ウルリヒ・フォン・ユンギンゲンは敗色濃厚となったとき、包囲網を突き崩して退路を確保したが、このとき既に胸と顔面に傷を負っていたという。それでも本陣に引き揚げようとする彼を、追撃してきたポーランド軍の一隊が取り囲み、槍で喉を一撃した。これが致命傷となって騎士団総長は壮烈な最期をとげたという(*6)。
 1410年7月15日という長い歴史的な1日も終りに近づいた頃、戦場跡では、暗闇の中を地元の農夫らが散乱している死体から目ぼしい物を剥ぎ取ったり、未だ苦しんでいる重症者に止めを刺したりしていた。

 一夜明けて7月16日の朝、ポーランド・リトアニア連合軍は、これ以上敵を追撃することはやめ、疲労困憊した兵士を一日休ませることにした。そして、ドイツ騎士団総長と幾人かの騎士団幹部の遺骸が白い布で覆われ、馬車に乗せられて戦場からさほど遠くないオステローデの城まで送られ、丁重にドイツ騎士団側に引き渡された(*7)。
 一方、戦場跡に散乱していた夥しい数の遺体は、敵味方を問わず、穴を掘って埋葬され、仮設のテントの中に造られた礼拝堂でポーランド・リトアニア両軍の騎士たちが参列してミサが執り行われ、戦死者の霊を弔った。そして、そのあと、ヨガイラとヴィタウタスによる勝利の正餐が催された(*8)。

 勝利の饗宴のあと連合軍の総大将であるポーランド王ヨガイラが捕虜の処分を言い渡したが、それは極めて寛大なものであった。ドイツ騎士団の重要人物は人質として拘束されたが、殆どの者は召喚命令にしたがって出頭することを誓約しただけで解放された(*9)。この処置は、その後、敬虔なキリスト教徒としてのヨガイラの名声を高めたと伝えられている。

〔蛇足〕
(*1)このとき、多数の手錠や足枷を積んだ荷馬車も見つかったが、それは彼らが勝利したときに捕虜を拘束するために用意してきたものだった。
(*2)当時の戦いでは、勝った側の兵士が報酬の一部として戦場から敗者の所持品などを抜き取って着服するのは普通に行われていた。これは、未だ常備軍のない時代に、その戦いのために召集された多数の兵士や傭兵に対して報いる手段として、軍の司令官や王たちが認めていたことで、現代的な感覚でこれを「火事場泥棒」のような不法行為と決めつける分けにはゆかない。
(*3)このワイン樽の件は、この説明で十分ではあるが、ヨガイラが酒を飲まない人であったことを念頭に置くべきだろう。
(*4)実際、この戦いの大勢が決したあと、先を争って自陣に逃げ込もうとする騎士団側の将兵を、軽装備で俊敏なリトアニアの兵士やタタールたちが追いかけ、捕まえて虐殺するなどしたため、あちこちで凄惨な光景が展開された。しかも、逃げられないと観念した将兵たちが、自陣で荷馬車を並べて防壁とし、円陣をつくって最後の抵抗を試みたため、たちまち包囲されて皆殺しの憂き目をみた。辛うじてこの包囲を逃れて安全な場所にたどり着いた負傷者たちも、雑役夫などとして連れて来た味方の非戦闘員に背かれ、虐殺されるという悲劇に見舞われた。むしろ、こうして敗走したのちに死んだ者の方が、戦場で死んだ者よりもずっと多かったという。
(*5)この高緯度地方の7月中旬の午後8時は、未だ明るく、やっと日暮れが近づいたという時間帯である。
(*6)騎士団総長ウルリヒ・フォン・ユンギンゲンが最期をとげた場所は、ドイツ騎士団がこの日の戦いのために弩や火砲を配備した陣地辺りであったというから、丘の上の本陣までは未だ距離があった。また、彼に止めを刺したのは、ポーランド王の本陣を守っていたクラクフの貴族ジンドラム(Zyndram z Maszkowic)麾下の部隊の誰かであったと記録されている。ジンドラムについては「余談106:1410年7月15日、決戦の朝」の蛇足(4)参照。
(*7)オステローデ(Osterode)は現在のオストルダ(Ostróda)で(「余談105:両軍の探り合いと駆け引き」の蛇足(1)参照)、この戦場の北々西約25kmに位置している。なお、ウルリヒ・フォン・ユンギンゲンの遺骸は、7月19日にはドイツ騎士団本部のあるマリエンブルク城内の聖アンナ礼拝堂に安置されたという。
(*8)この正餐には捕虜となった敵方の重要人物も出席させられたが、その中にはシュヴィドニッツァ(Świdnica)とシュチェチン(Szczecin:〔独〕Stetten)の公が含まれていた。シュヴィドニッツァはシロンスク(シレジア)の都市で、シュチェチンはオーデル川下流西岸の都市である(「余談106:1410年7月15日、決戦の朝」の蛇足(6)参照)。これらの地域の公は本来ポーランド王に従うべきだが、地理的位置からドイツ騎士団側についていた。
(*9)しかし、先に述べたシュチェチン公は許されず1年間捕囚の身となった。また、ドイツ騎士団側の通訳として重要な外交上の役割を担っていたマルクァード・フォン・ザルツバッハ(Marquard von Salzbach)も捕虜になったが、この人は、ヴィタウタスがドイツ騎士団に庇護されていた頃にヴィタウタスと知り合い、1384年7月にヴィタウタスがドイツ騎士団を離脱して戦いを挑んだとき(「余談83:カウナスのマリエンヴェルダー」参照)、捕虜となり、ヴィタウタスに仕えて信頼されていた人物であったが、のちにドイツ騎士団に戻り、通訳として重要な外交上の交渉に活躍していた。そのため、ヴィタウタスは再び捕虜となった彼を寛大な処置で許そうとしたのだが、彼はヴィタウタスに恭順の意を表すことを拒否したばかりか、終始傲慢不遜な態度を貫き、就中、亡きヴィタウタスの母ビルーテ(Birutė)を侮辱するような悪口雑言を吐いたため、ヴィタウタスの怒りを買って斬首されたという。ビルーテについては「余談20:ビルーテの生涯と伝説」参照。
(2021年1月 記)
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新年の挨拶/武田 充司

   子供の頃、正月といえば下町の狭い路地で、晴れ着姿の小さな娘を相手に、ほろ酔い機嫌の父親が羽根つきをしている光景などを目にすることもあった。
   そんな時、初詣から帰ってきた近所の人が立ち止まって、「明けましておめでとう御座います。今年もよろしく」などと、改まった調子で、深々と頭を下げながら挨拶をする。こちらも羽根つきをやめて、同じことをオウム返し言って頭を下げる。そばでポカンと立っている子供の頭を押さえて、「ご挨拶をしなさい」と小声で言って挨拶をさせる親もいる。普段は隣近所のお付き合いで、気軽に声を掛け合っている人たちも、この日ばかりは人が変わったように改まって新年の挨拶を交わしていた。

 支那事変が長引いて生活もだんだん窮屈になり、お米が配給制になった頃だったか、ある年のお正月に、普段はモダンな洋装の従姉が、日本髪を結って綺麗な着物姿で年賀の挨拶にやって来た。彼女は僕より一回りほども年上だったが、二人ともひとりっ子だったので、僕を弟のように可愛がってくれた。このときも、いつもの調子で、お年玉代わりに何か好きなものを買ってあげるからといって、近くの八幡様の初詣に連れて行ってくれた。
 五、六人で歩けば肩が触れ合うような狭い下町の通りを彼女と並んで歩いていると、道行く人が、ちょっと立ちどまったり、振り返ったりして、彼女をじっと見ているのだ。すれ違いにざまに、声をかけたりするお屠蘇気分の若い衆もいた。子供心にも、自分までじろじろ見られているようで、恥ずかしかった。
 彼女は評判の美人で、府立の高等女学校を卒業して暫く銀行に勤めていたが、その頃、銀行を辞めて松竹の専属になり、女優を目指していた。まだ1本の映画にも出ていない女優の卵だったが、それでも、彼女は目立ち過ぎたのだろう。あるいは、戦時色の濃くなったあの時代の雰囲気に相応しくない彼女の姿に、人々はそれとなく非難の目を向けていたのかも知れない。いや、きっとそうに違いないと今では思う。

 そんなことのあった数年後には、もう戦況が悪化し、「贅沢は敵だ!」、「欲しがりません、勝つまでは!」などというスローガンのもと、すべては軍国調に様変わりした。そして、敗戦。大津波に襲われたあとのように、あの当時の下町の風景は跡形もなく消え失せた。
 しかし、高度成長期に入ると、丸の内や大手町の企業に勤める若い女性たちが、新年の仕事始めの日に、見事な着物姿で出勤してくるようになった。僕の勤めていた会社でも、新年の仕事始めの日には、同好の女性たちが華やかな着物姿で、琴の合奏をして正月気分を盛り上げてくれた。
   そして、松の内があけて成人式の日がやって来ると、二十歳になった女性たちが晴れ着姿で街に繰り出してくる。それは年々派手になって行ったが、判で押したような流行の着物姿でもあった。そこにはもう昔懐かしいあの日本髪と着物姿の風情など微塵も感じられなくなってしまった。あれは新しい時代の「着物という洋装の一種」なのかも知れないが、着物は新しい伝統を作りながらしぶとく生き残っている。

   年末は何かと忙しい。といっても近頃の僕は、人並みに「暮れは忙しい」と言っているだけで、本当はたいして忙しくもないのだが ― だからこんな駄文を書いているのだが、それでも、落ち着かない年末に「明けましておめでとう御座います・・・今年もよろしく」などと、まだ「今年」になってもいないのに、白々しく年賀状に書くのは全く気持ちが乗らず、難儀する。しかし、これも元日に年賀状が配達されるためにやっていることだ。
   あの下町の路地で羽根つきをしていた親子と近所の人が交わしていた新年の挨拶こそが本当の「年賀のご挨拶」なのかもしれない、と思ったりする。子供の頃の生活を思うと、便利でよい時代にはなったが、正月のささやかな楽しみと心の温もりが失われてしまったようで寂しい。しかし、これも、よい時代に生きている人間の我儘かも知れない。コロナ禍のあと、きっと厳しい時代がやって来るに違いない。
(2020年12月末 記)
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リトアニア史余談107:ジャルギリスの戦い/武田 充司

 戦いはドイツ騎士団の陣営が放った2発の斉射によって始まった。1410年7月15日の午前9時頃であった。北緯54度に近い北国の夏の夜明けは早く、午前9時といえばもう真つ昼間で、早朝の不安定な天候もおさまり、強い夏の日差しが照りつけていた(*1)。
 戦闘開始後まもなく、意外にもドイツ騎士団軍は隊形を崩して前線から後退しはじめた(*2)。そのとき、ヴィタウタス率いるリトアニア軍は彼らの左翼に砲撃を浴びせて攻撃を仕掛けた。これに応えて騎士団軍左翼の精鋭部隊が応戦して戦闘は本格化したが、リトアニア軍は右に迂回しながら敵の左側面に激しい攻撃を加えた(*3)。
   両軍互角の戦いが1時間ほど続いたが、次第にリトアニア軍は劣勢となり、やがて総崩れとなって敗走した。算を乱して逃げる敵を追撃する騎士団軍の陣営からは、早くも勝利の歌「キリストは復活せり」の歌声が響いた。しかし、右翼のリトアニア軍と左翼のポーランド軍の間に陣取っていた中央のレングヴェニスの軍団は一歩も引かず奮戦していた。

 このとき左翼を固めていたポーランド軍の一隊が敵軍の中央部めがけて突撃した(*4)。激突した両軍の激しい戦いの最中に、突然、ドイツ騎士団軍の中からひとりの勇猛な騎士が現れ、ポーランド軍陣営に突入して軍旗を倒した。それは一瞬の出来事だった。しかし、これを見たポーランド兵が軍旗を奪い返して再び高く掲げると、これに鼓舞されたポーランド軍は襲いかかる敵軍を圧倒しはじめた。
 そのとき、騎士団総長ウルリヒ・フォン・ユンギンゲンは、今こそ勝敗を決すべき時とばかりに、自ら控えの精鋭部隊を率いてポーランド軍主力の右側面を急襲した(*5)。敵味方入り乱れての激しい戦いになったそのとき、少し離れた所から戦況をじっと見ていた総大将ヨガイラに、突然、ひとりの敵軍の騎士が突進してきた。傍らにいた秘書官ズビグニエフ・オレシニツキは、咄嗟に、戦闘で折れた槍を突き出して一撃した。それで全ては終ったが、この突然の出来事に両軍しばし息をのんで立ち尽くしたという(*6)。

 そうこうしているうちに、戦場を駆け巡って叱咤激励するヴィタウタスの怒号が聞こえたのか、初戦に敗れて散り散りになって逃げたリトアニア軍の騎馬兵や歩兵の群れがどこからともなく現れて戦闘に加わってきた(*7)。ヴィタウタスは素早く彼らを集めて組織を建て直すと、敵の背後に回り込んで攻撃した(*8)。これに応えて、ポーランド軍も後方に控えていた精鋭部隊を総動員して敵軍主力の正面を激しく攻め立てた。突然の挟撃に狼狽した騎士団軍は混乱し、戦況は一変した。

 やがて包囲網が狭められ、騎士団軍は壊滅した(*9)。夥しい犠牲者とともに、混乱した戦闘の中で騎士団総長をはじめとする騎士団幹部の殆どは壮烈な最期を遂げ、戦いは終った。

〔蛇足〕
(*1)このときの両軍の位置関係は、北東から南西に引かれた1本の架空の直線を挟んで対峙したと考えれば分り易い。この線の北西側にドイツ騎士団が、南東側にポーランド・リトアニア連合軍が布陣した。当時、この辺りは小川が流れている湿潤な低地であった。しかも、緩やかな高低差のある地形であったから、高いところからでないと戦場全体を見渡すことができなかったが、ドイツ騎士団は北西側の奥の小高い丘の上に本陣を置き、騎士団旗を奉ずる親衛隊が騎士団総長ウルリヒ・フォン・ユンギンゲンを守っていた。現在、この場所には、この戦いを記念する碑が立っている。本陣の前面と南西側には予備の騎馬隊と歩兵隊が分散配置されていた。そして敵に対峙する最前列に騎馬隊が並び、その背後に歩兵が並んでいたが、その間に挟まれるように火砲の部隊が配置されていたので、前方の敵には火砲部隊が見えないようになっていた。これに対して、ポーランド・リトアニア連合軍は、最前列、中段、最後列の3段構えで、右翼(北東側)はリトアニア軍で固めたが、その前面にはドイツ騎士団の左翼を構成する騎士団軍の精鋭部隊とヨーロッパ各地から馳せ参じた気鋭の騎士軍団が対峙していた。ポーランド軍は南西側(左翼)に展開し、その背後の少し離れた丘の上に予備軍に守られた総大将ヨガイラが本陣を構えた。左右両翼の切れ目を埋めるように、中央の左端にボヘミアの傭兵部隊が、中央にはヨガイラの弟で戦上手のレングヴェニス率いるスモレンスク軍が、中央の右端にはレングヴェニスの兄カリブタアス率いるルテニア軍が陣取っていた。
(*2)この撤退は敵を前進させて前線に掘った隠し濠にはめて混乱させようとする既定の作戦であった。
(*3)ヴィタウタスは敵の意図を読み、隠し濠を迂回して攻撃した。
(*4)このとき、右翼のリトアニア軍の敗退で中央の軍団も動揺し、ボヘミアの傭兵部隊が真っ先に撤退し始めていた。これを見たヨガイラの側近ミコワイ・トロンバ(Mikołaj Trąba)が駆けつけて彼らを押しとどめ、中央部に近いポーランド軍右翼を突撃させて士気を鼓舞した。これに助けられて、奮戦するレングヴェニスは、麾下の1旗団を失ったが、残る2旗団で敵の包囲を突破して左翼のポーランド軍に合流した。
(*5)彼は精鋭の16旗団を率いて、自分たちが掘った隠し濠を避けるようにして、崩壊したリトアニア軍の右端(北端)をまわって南下し、ポーランド軍本陣の右側(北側)に現れた。この16旗団のうち15旗団が未だ戦闘に参加していなかった精鋭部隊で、その総戦力はドイツ騎士団が通常保持している戦力の3分の1近くに相当するものだった。これほどの新戦力が防御の手薄なポーランド軍本陣の右手に現れたのだから、ポーランド軍は危機的状況に陥った。しかし、当初、彼らは、これを敵軍とは思わず、撤退したリトアニア軍が合流するために近づいて来たものと思っていたという。
(*6)このとき20歳の若者であったズビグニエフ・オレシニツキは、ヨガイラの命を救った功績が認められ、のちに枢機卿にまで出世した。
(*7)このことから、緒戦でのリトアニア軍の敗走は意図的なもので、これはヴィタウタスが1399年の「ヴォルスクラ川の戦い」の敗北から学んだものだという説もあるが(「余談94:ヴォルスクラ川の戦い」参照)、それにしては兵士の戻りがばらばらで遅いので、これはヴィタウタス贔屓の思い過ごしだろう。
(*8)リトアニア軍が敗れ、味方の右翼が崩壊したあと、ヴィタウタスが恐れていたのは、ヨガイラが戦況不利とみて早々にポーランド軍を率いて撤退してしまうのではないかということだった。しかし、ヴィタウタスは前線を左右に走りまわって各部署の兵士を鼓舞し、常に戦況の全体像と個別の戦闘の状況を把握していた。その結果、ヴィタウタスは、戦線に戻ってきた兵士を迅速に再編成し、最善の戦闘行動をとることができたのだった。
(*9)このときの戦いを象徴的に活写したのが19世紀ポーランドの画家ヤン・マテイコ(Jan Matejko)の大作「タンネンベルクの戦い」であると言われている。
(2020年12月 記)
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武田レポート

リトアニア史余談106:1410年7月15日、決戦の朝/武田 充司

 雨と風の7月14日が暮れ、日付が変わった真夜中、リトアニア・ポーランド連合軍は行動を起した。雨と霧の暗闇の中を移動した彼らは、ドイツ騎士団が陣取っている場所の南東にある小さな湖の畔まで来ると足を止め、その湖の南西端に陣を張った(*1)。
 夜が明けると、雨もあがり霧も晴れて爽やかな夏の朝となった(*2)。ヨガイラはいつものようにミサに出かけたが、そのとき、敵の大軍が直ぐ近くにいるという報せをうけた。敵の奇襲攻撃に対して何の備えも出来ていない自軍の状況を理解したヨガイラは、直ちにヴィタウタスに伝令をだして戦闘準備を急ぐよう要請したが、自分は何事もなかったかのようにミサにもどって行った。しかし、静かに祈っているヨガイラのもとに再び報告がとどいた。敵軍が既に兵力を展開して戦闘態勢に入っているというのだ。ヨガイラは自軍(ポーランド軍)にも戦闘準備を急ぐよう指令を出したが、またミサにもどって祈り続けた(*3)。

 一方、素早く戦闘態勢を整えたヴィタウタスは、先鋒隊のみがやっと戦闘準備を終えたというポーランド軍の状況を知って苛立ち、矢継ぎ早に伝令を出してヨガイラを督促したのだが、ヨガイラは祈り続けていた。さらにヴィタウタスを驚かせたのは、このとき未だ武器や補給品を積んだ車両の一部が前夜の野営地からこちらに向かっている途中だという情報であった。
 もう一刻の猶予もならないと感じたヴィタウタスは、総大将ヨガイラを差し置いて行動を起した。リトアニア軍を湖畔の野営地から北西に移動させ、騎士団軍の左翼前面に進出すると、そこで戦闘隊形を整えた。これに応えてポーランド国王ヨガイラの親衛隊長は、配下の部隊をヴィタウタス軍の左に移動させ、敵軍の右翼前面に展開した(*4)。こうして総大将不在のままリトアニア・ポーランド連合軍はやっと敵の大軍と対峙した。

 こうした状況の中でヨガイラのもとに急行したヴィタウタスは、「兄貴!今日は戦いの日だ!祈っている場合じゃない!」と呼びかけたという。これでようやく立ち上がったヨガイラは、鎧兜を身に着けるとテントを出て、全軍に戦闘態勢を取るよう命じた(*5)。

 ようやく戦闘態勢の整ったヨガイラの陣営にドイツ騎士団総長の使者2人がやってきた(*6)。彼らは裸の剣を手にしたままヨガイラとヴィタウタスの前に進み出ると、剣を大地に突き刺し、「いまや、戦うべき時が来た!これら2本の剣は貴殿らの戦いに役立つよう、騎士団総長からの贈り物である」と言って戦闘開始を促した。この挑発的な口上と贈り物に対して、ヨガイラは、敵から剣を贈られなければ戦えないような我らにあらずと一蹴したが、「そちらが戦いをお望みならば、うけて立とう!」と言ってその2本の剣を受け取ると、2人の使者を追い返して戦闘開始の号令を発した(*7)。

〔蛇足〕
(*1)この小さな湖はラウベン湖(Lauben /〔ポ〕Lubien)と呼ばれていた。また、彼らが布陣した辺りにはドイツ騎士団の入植地があって、ファウレン(Faulen)と呼ばれていた。現在、そこにはポーランド語でウルノヴォ(Ulnowo)と呼ばれている村があるらしい。
(*2)この日の朝の天候については全く逆の記述もある。即ち、「夜が明けても嵐はおさまらず、ヨガイラはその悪天候も厭わずミサをはじめ・・・」と説明している文献もある。これは多分、早朝の天候が未だ安定せず、降ったり照ったりしていたからで、互いに矛盾する記述とも言えない。
(*3)このときのヨガイラの振舞いから、彼が敬虔なキリスト教徒であったことが想像されるが、彼は1386年に婿入りしてポーランド王になったときに洗礼をうけてキリスト教徒(カトリック)になっている。しかし、彼の母ユリアナ(アルギルダスの2度目の妻)は、ロシアのトヴェーリ公ミハイル2世(在位1368年~1399年)の姉で正教徒であったから、ヨガイラも幼いときからキリスト教の信仰には接していたはずで、そうした環境から彼が敬虔なキリスト教徒になったのかも知れない。あるいは、生れ持った素質であったのかも知れない。
(*4)このときの親衛隊の指揮官はクラクフの貴族ジンドラム(Zyndram z Maszkowic)で、彼がこのように対応したことで騎士団軍の左右両翼に、それぞれ、リトアニア軍とポーランド軍が対峙して、やっと形だけは戦闘隊形が整った。
(*5)ところが、このときヨガイラは部下に命じて俊足の馬を陣の背後に配備させ、敗北時には自分が素早くクラクフに逃げ帰れるようにしていたというから彼の本心は読みにくい。しかし、この話はヨガイラとヴィタウタスの性格の違いを物語っていて興味深い。ヴィタウタスは、ヨガイラと違って、父母ともにバルト族のリトアニア人で、特に、母ビルーテは勇猛で頑固といわれるジェマイシア人豪族の娘で、現在でもリトアニア人に人気のある伝説的な女性である。ヴィタウタスは勇敢で行動力のある優れた武将で、多くの人を引きつける人間的魅力もあったという。一方、従兄のヨガイラは注意深く深謀遠慮の粘り強い、あるいは、執念深い性格の人であったようだ。
(*6)この2人の使者のひとりは、ハンガリー王ジギスムントの紋章をつけた盾をもち、他のひとりはシュテッティン公の紋章をつけた盾をもっていた。シュテッティン(Stetten)はオーデル川下流西岸にある現在のポーランドの都市シュチェチン(Szczecin)で、この地域はポーランドの土地であったが、ポーランド王の支配を嫌って半ば独立した公国で、地理的位置から当時はドイツ騎士団の側についていた。
(*7)この劇的な出来事は、戦いが終ったあとヨガイラ自身が后のアンナに送った手紙に書かれていた。そして、このとき大地に突き刺された2本の剣は、その後、この戦いの象徴となった。たとえば、この戦いのためにポーランド軍がヴィスワ川を渡った地点近くの都市チェルヴィンスク(「余談104:ヴィタウタスとヨガイラの陽動作戦」参照)には、それを記念する大きな2本の剣をデザインした記念碑が立っている。なお、このとき、ドイツ騎士団総長ウルリヒ・フォン・ユンギンゲンがこのような挑発をしてきたのは、先に敵に攻めさせて罠にはめ、敵軍を一網打尽に殲滅する作戦だったからだ。彼らは陣地の前に溝を掘り、背後の見えない位置に火砲や弩の部隊を配置して待ち構えていた。したがって、自分たちが陣地を出て臨機応変に先制攻撃をすることができなかった。そのうえ、この日の朝の天候が不安定で、夏の強い日差しが照りつけたと思うと、ときには雨が降るという天気だったようで、重装備の騎士たちにとっては蒸し暑くて苦しいだけでなく、用意した火薬が湿るのを防ぐために苦労するなど、待てば待つほど苦しくなり、苛立っていたのだ。一方、戦闘態勢に入るのが遅れていたリトアニア・ポーランド連合軍にとっては、これが幸いしたのだった。
(2020年11月 記)