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武田レポート

年賀状の終活/武田 充司

   近頃は、年末恒例の「お年玉つき年賀はがき」の売れ行きもめっきり減ったと度々報道されていますが、その原因のひとつは、Eメールやスマフォでのやり取りが増えたからなのでしょうか。それとも、「新年の挨拶」を交わすという習慣そのものが廃れてきたことが原因なのでしょうか。
   しかし、それとは別に、僕の身辺では、もうだいぶ前から、「今年をもって年賀状を終りにします」という友人が増えてきました。皆さん高齢化して年賀状を書くのもだんだんしんどくなってきたので、ついに、今年あたりで止めにしようと決心したのだなあと思っていましたが、考えてみれば、今ではパソコンを使って年賀状の表も裏も簡単に印刷できるのですから、そんなに億劫がることもない、よい時代なのかも知れません。しかし、なかには、そのパソコン操作さえ不慣れな人もいますから、いまの時代は人さまざまだと思います。

   とはいえ、年賀状書きは、日頃ご無沙汰している旧知の親友などに、年に一度の連絡を取るチャンスと思えば、楽しいことでもあります。実際、暑中見舞いなど、四季折々の挨拶を交わす日本人の文化は素晴らしいと思うのですが、昔、年寄りから、年賀状には余計なことをぐだぐだ書くものではない、年始の挨拶だけにしろ、と注意されたことがありました。それでも、やっぱり、相手の顔を思い浮かべながら、賀状の余白に小さな字で、ちょこちょこと近況報告や、昔の懐かしい思い出などを書き込むのも楽しみのひとつですが、その一文を書き添えようとして、はて、と考え、悩んだりして、年賀状書きが遅々として進まず、ということにもなり、だから、年末の年賀状書きは嫌なのだ、と変なところに結論が行ってしまうのも、また、歳のせいかも知れません。

   とにかく、こうして、年賀状を終りにしますと言ってきた人に、こちらから無神経に賀状を出せば、先方の負担になるばかりだろうから、こちらも年賀状を遠慮することになり、年々、年賀状の数も減ってきました。そして、ついに、自分自身も、もういいではないか、年賀状はやめようと思うようになり、先輩諸兄にならって、数年前から年賀状の店仕舞いを始めましたが、どうやら今年あたりで閉店完了となりそうです。

   ところで、「蛇足」ですが、今年をもって、もうひとつ閉店することを決めました。それは、毎月、ブログに投降していた「リトアニア史余談」です。あの余談は2012年4月から書き始め、ほぼ毎月1本のペースで投稿してきましたので、2022年3月で、ちょうど満10年になります。したがって、余談はこの3月で120話になるはずですが、途中で少しペースを上げたことがあったので、2022年3月の余談は122番目になりますが、とにかく、満10年を良い区切りとして、3月16日の投稿を最後に「余談」は終りにします。
   すでに、1月、2月、3月分の原稿は出来上がっていますので、余談の仕事は自分の中では既に閉店完了なのです。来年は、「余談」を書くことに使っていた時間を、また、何か新しいことに振り向けられれば幸いと思っています。
(2021年末 記)
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年賀状の終活/武田 充司

   近頃は、年末恒例の「お年玉つき年賀はがき」の売れ行きもめっきり減ったと度々報道されていますが、その原因のひとつは、Eメールやスマフォでのやり取りが増えたからなのでしょうか。それとも、「新年の挨拶」を交わすという習慣そのものが廃れてきたことが原因なのでしょうか。
   しかし、それとは別に、僕の身辺では、もうだいぶ前から、「今年をもって年賀状を終りにします」という友人が増えてきました。皆さん高齢化して年賀状を書くのもだんだんしんどくなってきたので、ついに、今年あたりで止めにしようと決心したのだなあと思っていましたが、考えてみれば、今ではパソコンを使って年賀状の表も裏も簡単に印刷できるのですから、そんなに億劫がることもない、よい時代なのかも知れません。しかし、なかには、そのパソコン操作さえ不慣れな人もいますから、いまの時代は人さまざまだと思います。

   とはいえ、年賀状書きは、日頃ご無沙汰している旧知の親友などに、年に一度の連絡を取るチャンスと思えば、楽しいことでもあります。実際、暑中見舞いなど、四季折々の挨拶を交わす日本人の文化は素晴らしいと思うのですが、昔、年寄りから、年賀状には余計なことをぐだぐだ書くものではない、年始の挨拶だけにしろ、と注意されたことがありました。それでも、やっぱり、相手の顔を思い浮かべながら、賀状の余白に小さな字で、ちょこちょこと近況報告や、昔の懐かしい思い出などを書き込むのも楽しみのひとつですが、その一文を書き添えようとして、はて、と考え、悩んだりして、年賀状書きが遅々として進まず、ということにもなり、だから、年末の年賀状書きは嫌なのだ、と変なところに結論が行ってしまうのも、また、歳のせいかも知れません。

   とにかく、こうして、年賀状を終りにしますと言ってきた人に、こちらから無神経に賀状を出せば、先方の負担になるばかりだろうから、こちらも年賀状を遠慮することになり、年々、年賀状の数も減ってきました。そして、ついに、自分自身も、もういいではないか、年賀状はやめようと思うようになり、先輩諸兄にならって、数年前から年賀状の店仕舞いを始めましたが、どうやら今年あたりで閉店完了となりそうです。

   ところで、「蛇足」ですが、今年をもって、もうひとつ閉店することを決めました。それは、毎月、ブログに投降していた「リトアニア史余談」です。あの余談は2012年4月から書き始め、ほぼ毎月1本のペースで投稿してきましたので、2022年3月で、ちょうど満10年になります。したがって、余談はこの3月で120話になるはずですが、途中で少しペースを上げたことがあったので、2022年3月の余談は122番目になりますが、とにかく、満10年を良い区切りとして、3月16日の投稿を最後に「余談」は終りにします。
   すでに、1月、2月、3月分の原稿は出来上がっていますので、余談の仕事は自分の中では既に閉店完了なのです。来年は、「余談」を書くことに使っていた時間を、また、何か新しいことに振り向けられれば幸いと思っています。
(2021年末 記)
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武田レポート

リトアニア史余談119:ヴィタウタス大公の后アンナ/武田 充司

 1418年夏、ヴィタウタス大公は長年連れ添った后アンナを亡くした。彼女は大公の良き伴侶であったばかりでなく、活動的で聡明な女性であった。政治的な表舞台にも立ち、外交団の謁見の場にも同席した。大公が留守の時は、彼女自身が外交団をもてなし、交渉も進めた。また、条約締結の場にも大公とともに列席し、交渉相手と激論することすらあった。
 たとえば、1392年にポーランドと結んだ「アストラヴァス条約」のときも、アンナは大公とともに出席して重要な役割を果していた(*1)。また、1398年の「サリーナス条約」締結時には、彼女はドイツ騎士団代表と激しく渡り合ったが、そうしたことが寧ろ彼女の名声を高め、ドイツ騎士団の信頼を得る結果となった(*2)。

 その一方で、彼女は音楽を愛し、読み書きのできる教養人でもあった。あるとき、ドイツ騎士団の使者が彼女に本を贈ったところ、彼女はとても喜んでうけ取った。そうしたことは、当時は珍しいことだったから、ドイツ騎士団の人々は驚いたという。そこで、当時まだ発明されたばかりで珍しかったピアノ(クラヴィコード)を贈ったところ、彼女はこれが大変気に入って大切にしていたという(*3)。

 アンナが敬虔なカトリックの信徒であったことは疑う余地もない。1400年に彼女がマリエンヴェルダーの「モンタウのドロテア」の墓にお参りしたことはそれを物語っている(*4)。このとき、ヴィタウタスの実弟ジギマンタスが400人の護衛を率いて彼女に同行し、「モンタウのドロティア」の墓参のあと、ドイツに行き、ブランデンブルクの聖アンナ教会とオルデンブルクの聖バルバラ教会も訪れている。彼女のこのような旅はドイツ騎士団の協力なしにはできなかったはずで、そこから見えてくるのは、ドイツ騎士団と彼女の密接な関係である。ドイツ騎士団との非公式外交チャネルとして彼女が果たした役割の重要性を無視することはできないだろう(*5)。

 しかし、ヴィタウタス大公にとって忘れがたい最大の思い出は、アンナに助けられてクレヴァの城を脱出したときのことであろう(*6)。あのとき、夫とともに監禁されていたアンナは、召使の女を説得して、その女の衣装とヴィタウタスの衣装を交換させ、看守の目を欺き、彼を城から脱出させた(*7)。あの脱出がなければヴィタウタスの運命は尽きていたかも知れない。また、彼ら夫婦にはひとり娘のソフィアがいたが、ソフィアはモスクワ大公ヴァシーリイ1世に嫁いでいた(*8)。1411年7月、ヴィタウタス大公は従兄弟のポーランド王ヨガイラとともにプスコフを訪れたが、そのとき、ソフィアはリャザニ公フョールドやスモレンスクの総督らとともに父親一行を出迎えた(*9)。このときアンアも同行していたといわれていて、彼女は夫ヴォタウタスと共に娘ソフィアと再会の喜びを分かち合ったに違いない。

〔蛇足〕
(*1)「余談91:ヴィタウタス大公時代のはじまり」の蛇足(5)参照。
(*2)「余談93:クリミア遠征とサリーナス条約」の蛇足(8)参照。
(*3)ドイツ騎士団が彼女にクラヴィコードを贈ったのは1408年で、このとき、ポータティヴ・オルガン(portative organ)も贈られている。なお、このときは、まだ、1410年の「ジャルギリスの戦い」の前であることに注目すべきであろう。その後、1416年に、ドイツ騎士団は貴重なワインを彼女に贈っている。
(*4)「余談93:クリミア遠征とサリーナス条約」の蛇足(8)参照。マリエンヴェルダー(Marienwerder)は現在のポーランド北部の都市クヴィジン(Kwidzyn)で、当時はドイツ騎士団領であった。なお、「モンタウのドロティア」とは、1347年、当時のドイツ騎士団領内のモンタウ(Montau)で生まれた女性で、16か17歳の時、40歳代の気難しい刀鍛冶の男と結婚し、9人の子を産んだが、4人は早世し、4人は疫病で死ぬという不幸に見舞われた。しかし、彼女は結婚直後から幻視を体験し、やがて、夫とともにヨーロッパ各地を巡礼するようになった。ところが、夫の許しを得て彼女がひとりでローマ巡礼の旅に出たあと、夫が亡くなった。帰国した彼女は1391年にマリエンヴェルダーに移り住み、1393年にドイツ騎士団の許可を得て、マリエンヴェルダーの大聖堂の壁に修道者独房をつくり、そこに籠って、そこから決して出ることなく、日々祈りを捧げる厳しい信仰生活を送り、1394年6月25日に亡くなった。生前、彼女は、彼女の幻視体験の噂をきいてやって来る多くの不幸な人々に、幻視による慰めと助言を与えて救済した。彼女のそうした厳しい信仰生活と救済への献身によって、彼女は生前から聖女と崇められていた。そこで、彼女の没後、彼女をドイツ騎士団国家(即ち、プロシャ)の守護聖人とすることになったのだが、その手続きが1404年に中止され、そのまま放置された。しかし、1976年になって、時の教皇パウロ6世(在位1963年~1978年)が彼女を「福者」に列し、6月25日を「ドロテアの祭日」とした。モンタウ(Montau)は、現在のポーランド北部の都市マルボルク(Malbork:ドイツ騎士団の首都マリエンブルク)の西南西約13kmに位置する町モントヴィ(Mątowy)の旧ドイツ語名である。
(*5)これを裏付ける逸話として、アンナが亡くなったときドイツ騎士団領内のすべての教会が彼女の死を悼んでミサを行なった、という話が伝えられている。
(*6)「余談81:ケストゥティスの最期」参照。
(*7)このとき夫とともに監禁されていたアンナには2人の召使の女が仕えていたが、その召使のひとりを説得してヴィタウタスのもとに行かせ、彼と衣装を交換させて身代わりとし、夫を脱出させたと言われているが、別の説では、アンナ自身が彼と衣装を交換したと言われている。
(*8)「余談89:ヴィタウタスの娘ソフィアの嫁入り」参照。
(*9)このプスコフ訪問は、1411年2月1日に「トルンの講和」が結ばれてから半年後のことで、「ジャルギリスの戦い」の勝利を記念した凱旋パレードのようなものであった。彼らは5千人もの兵士を率いてルーシの地を行進してプスコフに行った。プスコフ(Pskov)はヴィルニュスの北東約400kmに位置する現在のロシア西部の都市で(「余談18:王殺しと聖人」参照)、当時はスモレンスク(Smolensk)などとともにリトアニアの支配下にあった。また、このプスコフ訪問のあとヴィタウタスとヨガイラはドニエプル川を下ってキエフにも行っている。この当時のモスクワ公国は、未だリトアニアを脅かす存在ではなく、ヴァシーリイ1世(在位1389年~1425年)は岳父であるヴィタウタスに表向きは臣従していた。リトアニアとモスクワの力関係が逆転してモスクワがこの地域のリーダー的存在になるのはヴィタウタス没後しばらく経ってからのことである。なお、興味深いことに、ソフィアの娘アンナは1411年にビザンツ皇帝ヨハネス8世と婚約しているのだが、数年後に早世した。
(2021年12月 記)
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リトアニア史余談119:ヴィタウタス大公の后アンナ/武田 充司

 1418年夏、ヴィタウタス大公は長年連れ添った后アンナを亡くした。彼女は大公の良き伴侶であったばかりでなく、活動的で聡明な女性であった。政治的な表舞台にも立ち、外交団の謁見の場にも同席した。大公が留守の時は、彼女自身が外交団をもてなし、交渉も進めた。また、条約締結の場にも大公とともに列席し、交渉相手と激論することすらあった。
 たとえば、1392年にポーランドと結んだ「アストラヴァス条約」のときも、アンナは大公とともに出席して重要な役割を果していた(*1)。また、1398年の「サリーナス条約」締結時には、彼女はドイツ騎士団代表と激しく渡り合ったが、そうしたことが寧ろ彼女の名声を高め、ドイツ騎士団の信頼を得る結果となった(*2)。

 その一方で、彼女は音楽を愛し、読み書きのできる教養人でもあった。あるとき、ドイツ騎士団の使者が彼女に本を贈ったところ、彼女はとても喜んでうけ取った。そうしたことは、当時は珍しいことだったから、ドイツ騎士団の人々は驚いたという。そこで、当時まだ発明されたばかりで珍しかったピアノ(クラヴィコード)を贈ったところ、彼女はこれが大変気に入って大切にしていたという(*3)。

 アンナが敬虔なカトリックの信徒であったことは疑う余地もない。1400年に彼女がマリエンヴェルダーの「モンタウのドロテア」の墓にお参りしたことはそれを物語っている(*4)。このとき、ヴィタウタスの実弟ジギマンタスが400人の護衛を率いて彼女に同行し、「モンタウのドロティア」の墓参のあと、ドイツに行き、ブランデンブルクの聖アンナ教会とオルデンブルクの聖バルバラ教会も訪れている。彼女のこのような旅はドイツ騎士団の協力なしにはできなかったはずで、そこから見えてくるのは、ドイツ騎士団と彼女の密接な関係である。ドイツ騎士団との非公式外交チャネルとして彼女が果たした役割の重要性を無視することはできないだろう(*5)。

 しかし、ヴィタウタス大公にとって忘れがたい最大の思い出は、アンナに助けられてクレヴァの城を脱出したときのことであろう(*6)。あのとき、夫とともに監禁されていたアンナは、召使の女を説得して、その女の衣装とヴィタウタスの衣装を交換させ、看守の目を欺き、彼を城から脱出させた(*7)。あの脱出がなければヴィタウタスの運命は尽きていたかも知れない。また、彼ら夫婦にはひとり娘のソフィアがいたが、ソフィアはモスクワ大公ヴァシーリイ1世に嫁いでいた(*8)。1411年7月、ヴィタウタス大公は従兄弟のポーランド王ヨガイラとともにプスコフを訪れたが、そのとき、ソフィアはリャザニ公フョールドやスモレンスクの総督らとともに父親一行を出迎えた(*9)。このときアンアも同行していたといわれていて、彼女は夫ヴォタウタスと共に娘ソフィアと再会の喜びを分かち合ったに違いない。

〔蛇足〕
(*1)「余談91:ヴィタウタス大公時代のはじまり」の蛇足(5)参照。
(*2)「余談93:クリミア遠征とサリーナス条約」の蛇足(8)参照。
(*3)ドイツ騎士団が彼女にクラヴィコードを贈ったのは1408年で、このとき、ポータティヴ・オルガン(portative organ)も贈られている。なお、このときは、まだ、1410年の「ジャルギリスの戦い」の前であることに注目すべきであろう。その後、1416年に、ドイツ騎士団は貴重なワインを彼女に贈っている。
(*4)「余談93:クリミア遠征とサリーナス条約」の蛇足(8)参照。マリエンヴェルダー(Marienwerder)は現在のポーランド北部の都市クヴィジン(Kwidzyn)で、当時はドイツ騎士団領であった。なお、「モンタウのドロティア」とは、1347年、当時のドイツ騎士団領内のモンタウ(Montau)で生まれた女性で、16か17歳の時、40歳代の気難しい刀鍛冶の男と結婚し、9人の子を産んだが、4人は早世し、4人は疫病で死ぬという不幸に見舞われた。しかし、彼女は結婚直後から幻視を体験し、やがて、夫とともにヨーロッパ各地を巡礼するようになった。ところが、夫の許しを得て彼女がひとりでローマ巡礼の旅に出たあと、夫が亡くなった。帰国した彼女は1391年にマリエンヴェルダーに移り住み、1393年にドイツ騎士団の許可を得て、マリエンヴェルダーの大聖堂の壁に修道者独房をつくり、そこに籠って、そこから決して出ることなく、日々祈りを捧げる厳しい信仰生活を送り、1394年6月25日に亡くなった。生前、彼女は、彼女の幻視体験の噂をきいてやって来る多くの不幸な人々に、幻視による慰めと助言を与えて救済した。彼女のそうした厳しい信仰生活と救済への献身によって、彼女は生前から聖女と崇められていた。そこで、彼女の没後、彼女をドイツ騎士団国家(即ち、プロシャ)の守護聖人とすることになったのだが、その手続きが1404年に中止され、そのまま放置された。しかし、1976年になって、時の教皇パウロ6世(在位1963年~1978年)が彼女を「福者」に列し、6月25日を「ドロテアの祭日」とした。モンタウ(Montau)は、現在のポーランド北部の都市マルボルク(Malbork:ドイツ騎士団の首都マリエンブルク)の西南西約13kmに位置する町モントヴィ(Mątowy)の旧ドイツ語名である。
(*5)これを裏付ける逸話として、アンナが亡くなったときドイツ騎士団領内のすべての教会が彼女の死を悼んでミサを行なった、という話が伝えられている。
(*6)「余談81:ケストゥティスの最期」参照。
(*7)このとき夫とともに監禁されていたアンナには2人の召使の女が仕えていたが、その召使のひとりを説得してヴィタウタスのもとに行かせ、彼と衣装を交換させて身代わりとし、夫を脱出させたと言われているが、別の説では、アンナ自身が彼と衣装を交換したと言われている。
(*8)「余談89:ヴィタウタスの娘ソフィアの嫁入り」参照。
(*9)このプスコフ訪問は、1411年2月1日に「トルンの講和」が結ばれてから半年後のことで、「ジャルギリスの戦い」の勝利を記念した凱旋パレードのようなものであった。彼らは5千人もの兵士を率いてルーシの地を行進してプスコフに行った。プスコフ(Pskov)はヴィルニュスの北東約400kmに位置する現在のロシア西部の都市で(「余談18:王殺しと聖人」参照)、当時はスモレンスク(Smolensk)などとともにリトアニアの支配下にあった。また、このプスコフ訪問のあとヴィタウタスとヨガイラはドニエプル川を下ってキエフにも行っている。この当時のモスクワ公国は、未だリトアニアを脅かす存在ではなく、ヴァシーリイ1世(在位1389年~1425年)は岳父であるヴィタウタスに表向きは臣従していた。リトアニアとモスクワの力関係が逆転してモスクワがこの地域のリーダー的存在になるのはヴィタウタス没後しばらく経ってからのことである。なお、興味深いことに、ソフィアの娘アンナは1411年にビザンツ皇帝ヨハネス8世と婚約しているのだが、数年後に早世した。
(2021年12月 記)
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リトアニア史余談118:メウノの講和/武田 充司

 1422年9月17日、休戦協定が結ばれて「ゴルプ戦争」が終ると(*1)、ドイツ騎士団の本拠地マリエンブルクの南方70kmほどにあるメウノ湖(*2)という小さな湖の近くにあったポーランド軍の野営地において本格的な和平交渉が始まった。
 リトアニア・ポーランド連合とドイツ騎士団双方から、それぞれ8人で構成された全権代表団が交渉のテーブルについた。両者の話し合いは迅速に進み、休戦協定が結ばれてから僅か10日後の9月27日には平和条約が合意された。

 この条約はリトアニアにとって大きな歴史的意義があった。それは、ジェマイチヤが恒久的にリトアニアに帰属することが確認され(*3)、「トルンの講和」でヴィタウタスとヨガイラが存命中に限ってリトアニアに帰属するとされていた屈辱的合意(*4)が覆されたからだ。しかし、ポーランドは、ヴィスワ河畔のネッサウ(*5)を獲得したものの、ポメレリア、ヘウムノ、そして、ミハウフ地方の奪還が成らなかったから(*6)、大いに不満であった。

 ところが、このとき、両代表団ともその場に印章をもって来なかったため、条約に調印することができなかった。ドイツ騎士団総長パウル・フォン・ルスドルフは、それをよいことにして、またしても神聖ローマ皇帝ジギスムントを味方にして交渉をやり直そうとした。というのも、騎士団内部ではこの条約に対する不満が渦巻いていたからだ。しかし、ボヘミアのフス戦争の成り行きを心配していた皇帝ジギスムントは、ボヘミアにいるジギスムント・コリプトと彼の率いるリトアニア軍を引き揚げさせるために、後ろで糸を引くリトアニアとポーランドを説得しようと思っていたから、ドイツ騎士団の期待を無視した。そこで、ヴィタウタスとヨガイラは皇帝の要求をうけ入れ、翌年(1423年)の3月、ジギスムント・コリプトをボヘミアから引き揚げさせた(*7)。
 万事休したドイツ騎士団総長パウル・フォン・ルスドルフは、同年(1423年)5月、リトアニアのニェムナス河畔の要衝ヴェリュオナ(*8)においてメウノの平和条約に調印した。そして、その年の7月10日、教皇マルティヌス5世もこれを承認し、条約は正式に発効した。さらに、その翌年(1424年)、ポーランドのケジュマロク(*9)において、皇帝ジギスムントとリトアニア・ポーランド連合との間で条約が締結され、皇帝はメウノの平和条約で取り決められた事項を正式に認めると同時に、1420年にブロツワフにおいて皇帝が出した裁定(*10)も撤回した。

 一方、この条約に不満をかかえたままのポーランドとドイツ騎士団との緊張関係はこのあとも続いた。こうしたポーランドとリトアニアのドイツ騎士団に対する立場の違いが、両者の協力関係に微妙な隙間風を吹かせることになった(*11)。

〔蛇足〕
(*1)「余談117:ゴルプ戦争」参照。
(*2)メウノ湖(Jezioro Mełno)は小さな湖なので普通の地図では見つけにくいが、凡その位置は以下のようにして知ることができる。バルト海に面するポーランド最大の港湾都市グダンスク(昔はドイツ語名ダンツィヒとして知られていた)から南へ100kmほど行ったヴィスワ川右岸(東岸)に、グルジョンツ(Grudziądz)という都市がある。その東方約15kmにグルタ(Gruta)という村があるが、メウノ湖はその村の南東にある。
(*3)このときリトアニアとドイツ騎士団領の境界も画定された。即ち、ドイツ騎士団領の東縁は人口希薄なスヴァルキヤ地方を南北に貫く線とされ、そこからニェムナス川下流のスマリニンカイ(Smalininkai)を通り、北西に向ってバルト海岸のネミルセタ(Nemirseta)に至る線を境界とした。ネミルセタはクライペダ(Klaipėda)の北方約20kmに位置するバルト海岸の町で、その直ぐ北には現在のリトアニアの保養地パランガ(Palanga)がある。したがって、ドイツ騎士団は依然としてバルト海に面するニェムナス川下流地域一帯とバルト海への出口クライペダ(〔独〕メーメル)を確保した。
(*4)「余談111:トルンの講和」参照。
(*5)ネッサウ(Nessau)はトルンの対岸にある現在のヴェルカ・ニェシャフカ(Wielka Nieszawka)である。
(*6)ポメレリアはバルトア海に面する現在のポーランドの港湾都市グダンスク(旧ダンツィヒ)を中心とするポモージェ・グダンスキエ(あるいは、東ポモージェと呼ばれる地域)の英語呼称である(「余談98:ラツィオンシュの講和」の蛇足(8)参照)。ヘウムノ地方は現在のポーランド北部のヴィスワ河畔の都市ヘウムノ(Chełmno)を中心とする地域だが、ここはドイツ騎士団がポーランドに入植したとき以来の土地である(「余談57:トランシルヴァニアのドイツ騎士団」参照)。ミハウフ(Michałów)地方は現在のポーランド北部の都市ブロドニツァ(Brodnica)周辺のドルヴェンツァ川東岸の地域であるが、ドルヴェンツァ川の下流では東岸はポーランド領であったから、ここはドイツ騎士団とポーランドの係争の地であった。
(*7)「余談116:フス戦争とジギスムント・コリブト」参照。
(*8)ヴェリュオナ(Veliuona)はカウナスの西北西約45kmにあるニェムナス川右岸(北岸)の城。「余談70:ニェムナス川下流に進出したドイツ騎士団」参照。
(*9)ケジュマロク(Kežmarok)は現在のスロヴァキア北東部の都市で、コシツェ(Košice)の北西約75kmにある。
(*10)「余談117:ゴルプ戦争」参照。
(*11)ドイツ騎士団に対する両国の立場の違いが顕在化したのは1425年に起ったと伝えられている「ルビチの水車場の帰属問題」である。ルビチ(Lubicz)はドルヴェンツァ川がヴィスワ川に合流する地点近くの、ドルヴェンツァ川下流右岸(西岸)にあり、トルンからは東方に10kmほどしか離れていない。この地理的位置から、ここはドイツ騎士団領の最前線に位置する戦略上の要衝で、そこは要塞化されていた。この要塞の帰属をめぐって、「メウノの講和」が締結されたあとになって、ポーランドとドイツ騎士団が争ったのだ。「メウノの講和」において有利な立場でドイツ騎士団と和解したリトアニアのヴィタウタス大公にしてみれば、いまさら寝た子を起すようなことをしてもらっては困るということだった。もしポーランドがここを獲得することに拘れば、その代償として、リトアニアはバルト海岸のパランガまでもドイツ騎士団に譲渡せざるを得なくなると言って、ヴィタウタスはヨガイラに譲歩を迫り、結局、ここはドイツ騎士団に帰属することで決着した。しかし、この一件がヨガイラとヴィタウタスの関係を破綻させた。これ以後、ドイツ騎士団はリトアニアとの友好関係を促進し、ヴィタウタスがリトアニア王として戴冠できるよう支援するなどと言ってポーランドとリトアニアの関係分断をはかったため、両者の間に深刻な対立感情が醸成されて行った。
(2021年11月 記)
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リトアニア史余談118:メウノの講和/武田 充司<br />

 1422年9月17日、休戦協定が結ばれて「ゴルプ戦争」が終ると(*1)、ドイツ騎士団の本拠地マリエンブルクの南方70kmほどにあるメウノ湖(*2)という小さな湖の近くにあったポーランド軍の野営地において本格的な和平交渉が始まった。
 リトアニア・ポーランド連合とドイツ騎士団双方から、それぞれ8人で構成された全権代表団が交渉のテーブルについた。両者の話し合いは迅速に進み、休戦協定が結ばれてから僅か10日後の9月27日には平和条約が合意された。

 この条約はリトアニアにとって大きな歴史的意義があった。それは、ジェマイチヤが恒久的にリトアニアに帰属することが確認され(*3)、「トルンの講和」でヴィタウタスとヨガイラが存命中に限ってリトアニアに帰属するとされていた屈辱的合意(*4)が覆されたからだ。しかし、ポーランドは、ヴィスワ河畔のネッサウ(*5)を獲得したものの、ポメレリア、ヘウムノ、そして、ミハウフ地方の奪還が成らなかったから(*6)、大いに不満であった。

 ところが、このとき、両代表団ともその場に印章をもって来なかったため、条約に調印することができなかった。ドイツ騎士団総長パウル・フォン・ルスドルフは、それをよいことにして、またしても神聖ローマ皇帝ジギスムントを味方にして交渉をやり直そうとした。というのも、騎士団内部ではこの条約に対する不満が渦巻いていたからだ。しかし、ボヘミアのフス戦争の成り行きを心配していた皇帝ジギスムントは、ボヘミアにいるジギスムント・コリプトと彼の率いるリトアニア軍を引き揚げさせるために、後ろで糸を引くリトアニアとポーランドを説得しようと思っていたから、ドイツ騎士団の期待を無視した。そこで、ヴィタウタスとヨガイラは皇帝の要求をうけ入れ、翌年(1423年)の3月、ジギスムント・コリプトをボヘミアから引き揚げさせた(*7)。
 万事休したドイツ騎士団総長パウル・フォン・ルスドルフは、同年(1423年)5月、リトアニアのニェムナス河畔の要衝ヴェリュオナ(*8)においてメウノの平和条約に調印した。そして、その年の7月10日、教皇マルティヌス5世もこれを承認し、条約は正式に発効した。さらに、その翌年(1424年)、ポーランドのケジュマロク(*9)において、皇帝ジギスムントとリトアニア・ポーランド連合との間で条約が締結され、皇帝はメウノの平和条約で取り決められた事項を正式に認めると同時に、1420年にブロツワフにおいて皇帝が出した裁定(*10)も撤回した。

 一方、この条約に不満をかかえたままのポーランドとドイツ騎士団との緊張関係はこのあとも続いた。こうしたポーランドとリトアニアのドイツ騎士団に対する立場の違いが、両者の協力関係に微妙な隙間風を吹かせることになった(*11)。

〔蛇足〕
(*1)「余談117:ゴルプ戦争」参照。
(*2)メウノ湖(Jezioro Mełno)は小さな湖なので普通の地図では見つけにくいが、凡その位置は以下のようにして知ることができる。バルト海に面するポーランド最大の港湾都市グダンスク(昔はドイツ語名ダンツィヒとして知られていた)から南へ100kmほど行ったヴィスワ川右岸(東岸)に、グルジョンツ(Grudziądz)という都市がある。その東方約15kmにグルタ(Gruta)という村があるが、メウノ湖はその村の南東にある。
(*3)このときリトアニアとドイツ騎士団領の境界も画定された。即ち、ドイツ騎士団領の東縁は人口希薄なスヴァルキヤ地方を南北に貫く線とされ、そこからニェムナス川下流のスマリニンカイ(Smalininkai)を通り、北西に向ってバルト海岸のネミルセタ(Nemirseta)に至る線を境界とした。ネミルセタはクライペダ(Klaipėda)の北方約20kmに位置するバルト海岸の町で、その直ぐ北には現在のリトアニアの保養地パランガ(Palanga)がある。したがって、ドイツ騎士団は依然としてバルト海に面するニェムナス川下流地域一帯とバルト海への出口クライペダ(〔独〕メーメル)を確保した。
(*4)「余談111:トルンの講和」参照。
(*5)ネッサウ(Nessau)はトルンの対岸にある現在のヴェルカ・ニェシャフカ(Wielka Nieszawka)である。
(*6)ポメレリアはバルトア海に面する現在のポーランドの港湾都市グダンスク(旧ダンツィヒ)を中心とするポモージェ・グダンスキエ(あるいは、東ポモージェと呼ばれる地域)の英語呼称である(「余談98:ラツィオンシュの講和」の蛇足(8)参照)。ヘウムノ地方は現在のポーランド北部のヴィスワ河畔の都市ヘウムノ(Chełmno)を中心とする地域だが、ここはドイツ騎士団がポーランドに入植したとき以来の土地である(「余談57:トランシルヴァニアのドイツ騎士団」参照)。ミハウフ(Michałów)地方は現在のポーランド北部の都市ブロドニツァ(Brodnica)周辺のドルヴェンツァ川東岸の地域であるが、ドルヴェンツァ川の下流では東岸はポーランド領であったから、ここはドイツ騎士団とポーランドの係争の地であった。
(*7)「余談116:フス戦争とジギスムント・コリブト」参照。
(*8)ヴェリュオナ(Veliuona)はカウナスの西北西約45kmにあるニェムナス川右岸(北岸)の城。「余談70:ニェムナス川下流に進出したドイツ騎士団」参照。
(*9)ケジュマロク(Kežmarok)は現在のスロヴァキア北東部の都市で、コシツェ(Košice)の北西約75kmにある。
(*10)「余談117:ゴルプ戦争」参照。
(*11)ドイツ騎士団に対する両国の立場の違いが顕在化したのは1425年に起ったと伝えられている「ルビチの水車場の帰属問題」である。ルビチ(Lubicz)はドルヴェンツァ川がヴィスワ川に合流する地点近くの、ドルヴェンツァ川下流右岸(西岸)にあり、トルンからは東方に10kmほどしか離れていない。この地理的位置から、ここはドイツ騎士団領の最前線に位置する戦略上の要衝で、そこは要塞化されていた。この要塞の帰属をめぐって、「メウノの講和」が締結されたあとになって、ポーランドとドイツ騎士団が争ったのだ。「メウノの講和」において有利な立場でドイツ騎士団と和解したリトアニアのヴィタウタス大公にしてみれば、いまさら寝た子を起すようなことをしてもらっては困るということだった。もしポーランドがここを獲得することに拘れば、その代償として、リトアニアはバルト海岸のパランガまでもドイツ騎士団に譲渡せざるを得なくなると言って、ヴィタウタスはヨガイラに譲歩を迫り、結局、ここはドイツ騎士団に帰属することで決着した。しかし、この一件がヨガイラとヴィタウタスの関係を破綻させた。これ以後、ドイツ騎士団はリトアニアとの友好関係を促進し、ヴィタウタスがリトアニア王として戴冠できるよう支援するなどと言ってポーランドとリトアニアの関係分断をはかったため、両者の間に深刻な対立感情が醸成されて行った。
(2021年11月 記)
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リトアニア史余談117:ゴルプ戦争/武田 充司<br />

 1414年11月に始まり3年半近く続いた「コンスタンツ公会議」(*1)も1418年4月22日ようやく終わったが、この公会議においても「トルンの講和」(*2)に対するポーランドとリトアニアの不満は解消されず、彼らとドイツ騎士団との対立は続いた。

   公会議が終った翌年(1419年)の春、教皇マルティヌス5世はこの対立を調停するべくミラノ大司教カプラ(*3)を特使として送り出した。リトアニア・ポーランド連合とドイツ騎士団の代表はカプラの仲介で、ドイツ騎士団の拠点トルンに近いポーランドの都市グニェフコヴォ(*4)において新たな交渉に臨んだ。しかし、この調停も不調に終わった。

   すると、その年の夏、リトアニア・ポーランド連合軍がドイツ騎士団領の国境付近に結集し、軍事的緊張が高まった。この緊迫し状況を打開しようと、今度は、神聖ローマ皇帝ジギスムントが調停に乗り出した。年が明けて1420年の1月6日、皇帝はポーランドのヴロツワフ(*5)において、1411年に結ばれた「トルンの講和」(*2)は有効であり、適正なものであるとの裁定を下した(*6)。リトアニア大公ヴィタウタスは、この裁定を全く受け入れ難い不当なものだとして憤激したが、従兄弟のポーランド王ヨガイラは一応この裁定をうけ入れる態度を示しつつ、教皇マルティヌス5世に裁定の無効宣言を発出するよう請願した。そこで、教皇はこの裁定に補足説明を付けて折衷案をつくり、これによってリトアニア・ポーランド連合とドイツ騎士団を和解させようとしたが、かえって両者の反発を招いた。

   ドイツ騎士団総長ミハエル・キュヒマイスターはマリエンブルクの城壁の強化など戦争の準備を急がせたが、財政難と増税による内部の不満から、1422年3月、辞任を余儀なくされ、パウル・フォン・ルスドルフが新総長に選出されるという事態になった。一方、この年の5月、ボヘミアではジギスムント・コリブトがプラハに入城してウトラキストたちからボヘミアの統治者として認められた(*7)。この状況を憂慮した教皇マルティヌス5世はボヘミアのフス派に対して断固たる処置をとるよう命じた。これをうけて、同年7月、皇帝ジギスムントはドイツ騎士団の協力を得て、フス派殲滅の戦争準備に取り掛かった。

   ところが、これを知ったヴィタウタスとヨガイラは、プラハに居るジギスムント・コリプトを守るためと称して電撃的先制攻撃に打って出た。ドイツ騎士団領の南東部に侵攻したリトアニア・ポーランド連合軍は、迅速に移動しながら瞬く間にドルヴェンツァ川下流の要衝ゴルプを占領した(*8)。ドイツ騎士団軍の混乱した戦いぶりに失望した騎士団総長パウル・フォン・ルスドルフは、同年9月17日、休戦に同意し、戦いは僅か2か月で終った(*9)。戦いに完勝したリトアニアとポーランドは、ドイツ騎士団を新たな講和会議の席に就かせ、「トルンの講和」の修正を迫る機会をつかんだ(*10)。

〔蛇足〕
(*1)「余談114:コンスタンツ公会議における論争」参照。
(*2)「余談111:トルンの講和」参照。
(*3)Bartolomeo Capra:ミラノ大司教在位1414年~1433年。
(*4)グニェフコヴォ(Gniewkowo)はヴィスワ河畔のドイツ騎士団の拠点トルン(Toruń)の南西約20kmに位置するポーランドの歴史的都市である。
(*5)ヴロツワフ(Wrocław)は現在のポーランド西部、シロンスク(シレジア)地方の歴史的中心都市である。
(*6)神聖ローマ皇帝にしてハンガリー王であるジギスムントがこのようにドイツ騎士団に有利な裁定を下した背景には、この前年(1419年)の夏、彼の異母兄ヴェンツェル(ボヘミア王ヴァーツラフ4世)が急死し、彼がボヘミア王位を継ごうとしたところを、フス派の反乱で阻止されたことから(「余談115:フス戦争とヴィタウタス大公」参照)、彼はドイツ騎士団を味方に引き入れて、ボヘミアのフス派を掃討しようとしていた、という事情がある。
(*7)ジギスムント・コリブトに関連したこの件は「余談116:フス戦争とジギスムント・コリブト」参照。
(*8)リトアニア・ポーランド連合軍は、先ず、ドイツ騎士団領南東部の要衝オステローデ(Osterode:現在のオストルダ〔Ostróda〕)に向かった。これを知ったドイツ騎士団はオステローデを捨てて、オステローデの南西約27kmに位置するレバウ(Löbau:現在のルバヴァ〔Lubawa〕)に撤退した。これに対して、ヨガイラはレバウに向かわず、北西に進路をとってドイツ騎士団の首都マリエンブルク(Marienburg:現在のマルボルク〔Malbork〕)に向かうように見せかけた。そして、途中から進路を変え、マリエンブルクの南々東約34kmに位置するリーゼンブルク(Riesenburg:現在のプラブティ〔Prabuty〕)を占領し、周辺の村落を襲って破壊した。その後、連合軍は南下してドイツ騎士団入植初期からの土地クルム(Culm:現在のヘウムノ〔Chełmno〕)地方に侵攻し、ポーランドとドイツ騎士団領の国境をなすドルヴェンツァ川下流右岸(北岸)のドイツ騎士団の拠点ゴルプ(Golub:現在のゴルプ・ドブジン〔Golub-Dobrzyn〕)を占領した。この事実から、この戦争は「ゴルプ戦争」と呼ばれている。リトアニア・ポーランド連合軍は、それまでの経験から、巨大な要塞と化しているドイツ騎士団の首都マリエンブルクを攻略することは無理と判断し、当初からドイツ騎士団領を広く転戦して各地を荒廃させ、マリエンブルクを孤立させる作戦をとったようだが、これが功を奏したのか、ドイツ騎士団軍は各地で混乱し、士気が低下したと言われている。
(*9)このときのドイツ騎士団軍の混乱ぶりを物語る例として、エルビング(Elbing:現在のエルブロンク〔Elbiąg〕)を守るドイツ騎士団の司令官は、この年の8月6日、「物資が底を突き補給もないので、兵士は命令に従わず脱走している」と報告している。また、シュヴェツ(Schwetz:現在のシフィエチェ〔Świecie〕)からは、「ひとりの傭兵も居らず、百人ほどの武器を持たない飢えた農民兵が集まっているだけだ」と報告されていた。
(*10)1422年9月17日の休戦から僅か10日後の9月27日には「メウノの平和条約」が結ばれたが、ここに至って、ドイツ騎士団はついに譲歩を余儀なくされ、リトアニアとポーランドは、ようやく、部分的にではあったが、ドイツ騎士団に対して優位に立っことができた。
(2021年10月 記)
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リトアニア史余談117:ゴルプ戦争/武田 充司

 1414年11月に始まり3年半近く続いた「コンスタンツ公会議」(*1)も1418年4月22日ようやく終わったが、この公会議においても「トルンの講和」(*2)に対するポーランドとリトアニアの不満は解消されず、彼らとドイツ騎士団との対立は続いた。

   公会議が終った翌年(1419年)の春、教皇マルティヌス5世はこの対立を調停するべくミラノ大司教カプラ(*3)を特使として送り出した。リトアニア・ポーランド連合とドイツ騎士団の代表はカプラの仲介で、ドイツ騎士団の拠点トルンに近いポーランドの都市グニェフコヴォ(*4)において新たな交渉に臨んだ。しかし、この調停も不調に終わった。

   すると、その年の夏、リトアニア・ポーランド連合軍がドイツ騎士団領の国境付近に結集し、軍事的緊張が高まった。この緊迫し状況を打開しようと、今度は、神聖ローマ皇帝ジギスムントが調停に乗り出した。年が明けて1420年の1月6日、皇帝はポーランドのヴロツワフ(*5)において、1411年に結ばれた「トルンの講和」(*2)は有効であり、適正なものであるとの裁定を下した(*6)。リトアニア大公ヴィタウタスは、この裁定を全く受け入れ難い不当なものだとして憤激したが、従兄弟のポーランド王ヨガイラは一応この裁定をうけ入れる態度を示しつつ、教皇マルティヌス5世に裁定の無効宣言を発出するよう請願した。そこで、教皇はこの裁定に補足説明を付けて折衷案をつくり、これによってリトアニア・ポーランド連合とドイツ騎士団を和解させようとしたが、かえって両者の反発を招いた。

   ドイツ騎士団総長ミハエル・キュヒマイスターはマリエンブルクの城壁の強化など戦争の準備を急がせたが、財政難と増税による内部の不満から、1422年3月、辞任を余儀なくされ、パウル・フォン・ルスドルフが新総長に選出されるという事態になった。一方、この年の5月、ボヘミアではジギスムント・コリブトがプラハに入城してウトラキストたちからボヘミアの統治者として認められた(*7)。この状況を憂慮した教皇マルティヌス5世はボヘミアのフス派に対して断固たる処置をとるよう命じた。これをうけて、同年7月、皇帝ジギスムントはドイツ騎士団の協力を得て、フス派殲滅の戦争準備に取り掛かった。

   ところが、これを知ったヴィタウタスとヨガイラは、プラハに居るジギスムント・コリプトを守るためと称して電撃的先制攻撃に打って出た。ドイツ騎士団領の南東部に侵攻したリトアニア・ポーランド連合軍は、迅速に移動しながら瞬く間にドルヴェンツァ川下流の要衝ゴルプを占領した(*8)。ドイツ騎士団軍の混乱した戦いぶりに失望した騎士団総長パウル・フォン・ルスドルフは、同年9月17日、休戦に同意し、戦いは僅か2か月で終った(*9)。戦いに完勝したリトアニアとポーランドは、ドイツ騎士団を新たな講和会議の席に就かせ、「トルンの講和」の修正を迫る機会をつかんだ(*10)。

〔蛇足〕
(*1)「余談114:コンスタンツ公会議における論争」参照。
(*2)「余談111:トルンの講和」参照。
(*3)Bartolomeo Capra:ミラノ大司教在位1414年~1433年。
(*4)グニェフコヴォ(Gniewkowo)はヴィスワ河畔のドイツ騎士団の拠点トルン(Toruń)の南西約20kmに位置するポーランドの歴史的都市である。
(*5)ヴロツワフ(Wrocław)は現在のポーランド西部、シロンスク(シレジア)地方の歴史的中心都市である。
(*6)神聖ローマ皇帝にしてハンガリー王であるジギスムントがこのようにドイツ騎士団に有利な裁定を下した背景には、この前年(1419年)の夏、彼の異母兄ヴェンツェル(ボヘミア王ヴァーツラフ4世)が急死し、彼がボヘミア王位を継ごうとしたところを、フス派の反乱で阻止されたことから(「余談115:フス戦争とヴィタウタス大公」参照)、彼はドイツ騎士団を味方に引き入れて、ボヘミアのフス派を掃討しようとしていた、という事情がある。
(*7)ジギスムント・コリブトに関連したこの件は「余談116:フス戦争とジギスムント・コリブト」参照。
(*8)リトアニア・ポーランド連合軍は、先ず、ドイツ騎士団領南東部の要衝オステローデ(Osterode:現在のオストルダ〔Ostróda〕)に向かった。これを知ったドイツ騎士団はオステローデを捨てて、オステローデの南西約27kmに位置するレバウ(Löbau:現在のルバヴァ〔Lubawa〕)に撤退した。これに対して、ヨガイラはレバウに向かわず、北西に進路をとってドイツ騎士団の首都マリエンブルク(Marienburg:現在のマルボルク〔Malbork〕)に向かうように見せかけた。そして、途中から進路を変え、マリエンブルクの南々東約34kmに位置するリーゼンブルク(Riesenburg:現在のプラブティ〔Prabuty〕)を占領し、周辺の村落を襲って破壊した。その後、連合軍は南下してドイツ騎士団入植初期からの土地クルム(Culm:現在のヘウムノ〔Chełmno〕)地方に侵攻し、ポーランドとドイツ騎士団領の国境をなすドルヴェンツァ川下流右岸(北岸)のドイツ騎士団の拠点ゴルプ(Gollub:現在のゴルプ・ドブジン〔Golub-Dobrzyn〕)を占領した。この事実から、この戦争は「ゴルプ戦争」と呼ばれている。リトアニア・ポーランド連合軍は、それまでの経験から、巨大な要塞と化しているドイツ騎士団の首都マリエンブルクを攻略することは無理と判断し、当初からドイツ騎士団領を広く転戦して各地を荒廃させ、マリエンブルクを孤立させる作戦をとったようだが、これが功を奏したのか、ドイツ騎士団軍は各地で混乱し、士気が低下したと言われている。
(*9)このときのドイツ騎士団軍の混乱ぶりを物語る例として、エルビング(Elbing:現在のエルブロンク〔Elbiąg〕)を守るドイツ騎士団の司令官は、この年の8月6日、「物資が底を突き補給もないので、兵士は命令に従わず脱走している」と報告している。また、シュヴェツ(Schwetz:現在のシフィエチェ〔Świecie〕)からは、「ひとりの傭兵も居らず、百人ほどの武器を持たない飢えた農民兵が集まっているだけだ」と報告されていた。
(*10)1422年9月17日の休戦から僅か10日後の9月27日には「メウノの平和条約」が結ばれたが、ここに至って、ドイツ騎士団はついに譲歩を余儀なくされ、リトアニアとポーランドは、ようやく、部分的にではあったが、ドイツ騎士団に対して優位に立っことができた。
(2021年10月 記)
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リトアニア史余談116:フス戦争とジギスムント・コリブト/武田 充司

 ボヘミアのフス派の反乱を鎮圧するために、教皇マルティヌス5世と皇帝ジギスムントが協力して起した1420年の十字軍は失敗に終ったが(*1)、その翌年の夏、ドイツ諸侯は新たな十字軍を編成してボヘミアに侵攻した。これによってフス戦争は新たな局面を迎えた(*2)。
 ドイツの国境を越えてボヘミアの北西部に入った十字軍は、プラハの西北西約70kmに位置するジャテツ(*3)を包囲したが、フス派の援軍によって撃退されてしまった。この状況に苛立った皇帝ジギスムントは自ら軍を率いてプラハの東南東約60kmに位置するクトナー・ホラ(*4)を襲って占領した。これを知ったフス派の中の武闘派ヤン・ジズカ(*5)は、拠点としていたターボル(*6)から出撃して、1422年1月6日、「ドイチュブロトの戦い」(*7)でジギスムントの軍を撃破した(*8)。

 ところが、それから間もない3月9日、プラハにおいて独裁的権力を振っていたフス派の指導者ヤン・ジェリフスキ(*9)が、市議会によって逮捕され斬首された。そして、ウトラキスツ(*10)と呼ばれる穏健派の貴族たちが支配権を握った。一方、ターボルのヤン・ジズカは、フス派討伐十字軍との戦いを意識して、リトアニア大公ヴィタウタスの代理ジギスムント・コリブトを摂政としてボヘミアに招請した。しかし、ジギスムント・コリブトが軍を率いてプラハに到着したのは5月16日で、戦いはフス派の勝利で既に終っていた(*11)。

 それでも、首都プラハで実権を握ったフス派の穏健派ウトラキスツは、ジギスムント・コリブトをボヘミアの統治者として認めて迎え入れた。そこで、ジギスムント・コリブトは、ターボルのヤン・ジズカとプラハの穏健派の両者の支持を背景に、ボヘミアのフス派を統一してローマ教会と和解させようとした。しかし、その頃、ターボルでは、ヤン・ジズカのやり方に不満をもつ過激派が台頭し、プラハの穏健派との妥協はほぼ不可能になっていた。

   こうして、プラハに入ったジギスムント・コリブトが、ボヘミアの再統一を試みて難渋している間に、神聖ローマ皇帝でありハンガリー王であるジギスムントが、自分こそが真のボヘミア王位継承者であるとの自負から(*12)、ポーランド王ヴワディスワフ2世(ヨガイラ)とハンガリーのケジュマロク(*13)で会談し、打開策を打ち出した。即ち、彼はヨガイラに対して、ジギスムント・コリブトをボヘミアから引き揚げさせるよう要求したのだ。その一方で、教皇マルティヌス5世も、リトアニア大公ヴィタウタスに対して、ボヘミアのフス派の支援を止めなければ破門して十字軍を差し向けると脅かした。その結果、1423年3月20日、ヨガイラとヴィタウタスは皇帝の要求をうけ入れ、ジギスムント・コリブトと彼の率いる軍隊をボヘミアから引き揚げさせることにした。

〔蛇足〕
(*1)「余談115:フス戦争とヴィタウタス大公」参照。
(*2)このとき、ドイツの諸侯は、フス派の宗教改革の波がドイツに波及するのを恐れてこうした行動を起したのだ。
(*3)ジャテツ(Žatec)は、ビールに風味をつける高級品種のザーツホップの生産地として有名で、チェコのピルスナー・ビールはこのホップを使ったビールである。ザーツホップ(Saaz hops)の“Saaz”は“Žatec”のドイツ語呼称である。
(*4)クトナー・ホラ(Kutná Hora)は銀の採掘で有名で、中世ボヘミア王国の銀貨プラハ・グロッシュはここで鋳造されていた。また、ここの聖バルボラ教会とそれを含む歴史地区はユネスコの世界遺産に登録されている。
(*5)ヤン・ジズカ(Jan Žižka)については「余談115:フス戦争とヴィタウタス大公」の蛇足(4)参照。なお、「ジャルギリスの戦い」(「余談107:ジャルギリスの戦い」参照)で、彼はポーランド軍に加わり、ドイツ騎士団と戦った実績がある。
(*6)ターボル(Tábor)はプラハの南方約75kmに位置する現在のチェコ南部の都市である。
(*7)ドイチュブロト(Deutschbrod)はネメツキ・ブロト(Nemecky Brod)とも呼ばれ、プラハの南東約100kmに位置する現在のチェコ中部の都市ハヴリーチクーフ・ブロト(Havlickuv Brod)の旧称である。
(*8)なお、この年(1422年)、ジギスムントは神聖ローマ皇帝として、ニュルンベルクに帝国議会を招集し、フス派と戦うための傭兵部隊の編成を提案したが否決されている。このように、ドイツ諸侯が皇帝に非協力的であったのは、ジギスムントがドイツを留守にしていることが多かったためだと言われている。一方、選帝侯たちは、1424年に、皇帝に対する自分たちの権限を強化しようとしたが、これは阻止された。しかし、フス派の影響がドイツに及ぶのを恐れた選帝侯たちは、「ビンゲン同盟」を結成して独自の動きを強めたため、ドイツ諸侯に対する皇帝の権威は落ち、フス派と戦う勢力の最高指揮官としての皇帝の権限も空洞化した。なお、ビンゲン(Bingen)はライン川観光で有名なリューデスハイム(Rüdesheim)の対岸にあり、その昔マインツ大司教が通行税を徴収するために建てたともいわれる「鼠の塔」で知られている。とにかく、この当時のドイツは、百年後に起るルターの宗教改革の時代とは違って、中世的な考え方に従ってボヘミアのフス派の宗教改革運動を危険視していた。
(*9)ヤン・ジェリフスキ(Jan Zelivsky)は、フス派が1419年7月に市庁舎前をデモ行進したときの指導者である(「余談115:フス戦争とヴィタウタス大公」参照)。
(*10)ウトラキスツ(Utraquists)は、カリックス派(Calixtin:calix=聖杯)とも呼ばれているので、日本では「聖杯派」と訳されている。
(*11)実際、ヴィタウタスがジギスムント・コリブト(ジギマンタス・カリブタイティス:ヨガイラの甥)に軍を与えてボヘミアに向かわせたのはこの年(1422年)の春であったから(「余談115:フス戦争とヴィタウタス大公」参照)、これは全く遅すぎて戦いには間に合わなかった。
(*12)「余談115:フス戦争とヴィタウタス大公」参照。
(*13)ケジュマロク(Kežmarok)は、現在のスロヴァキア北部の都市ポプラド(Poprad)の北東約12kmに位置し、ポーランドとの国境に近い山岳地帯にある小都市だが、当時はハンガリー領であった。
(2021年9月 記)
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リトアニア史余談115:フス戦争とヴィタウタス大公/武田 充司

 1419年7月30日、プラハの市庁舎前をフス派(*1)の一団がデモ行進していた。そのとき、市庁舎の窓から突然デモ隊めがけて石が投げ込まれた。これに激高したフス派の人々が市庁舎に乱入し、市長と数人の役人を捕えて市庁舎の窓から路上に投げ落とした。
 これがきっかけとなって、いわゆる「ボヘミアのフス戦争」が始まったが、その翌月、ボヘミア王ヴァーツラフ4世が急死した(*2)。ヴァーツラフ4世は継嗣に恵まれなかったから、彼の弟で今や神聖ローマ皇帝となっていたハンガリー王ジギスムントが王位継承に名乗りを上げた。しかし、コンスタンツ公会議でヤン・フスを焚刑にしたジギスムントの不誠実(*3)に不信感を抱いていたボヘミアの貴族たちは、フス派の主張を認めることをジギスムントの王位継承の条件としたが、彼はこれを拒否した。その結果、ボヘミアでは宗教改革を求めるフス派勢力と、ローマ教皇に忠実な王権派との対立が決定的となった。

 両派の激しい争いによってプラハの市内は破壊され混乱したが、教皇マルティヌス5世が皇帝ジギスムントの要請に応えて、翌年の3月17日、ボヘミアのフス派殲滅の十字軍を起す勅書を発出した(*4)。そして、6月30日には十字軍がプラハに迫った。窮したプラハのフス派連合は、のちに「プラハの4箇条」と呼ばれる条件を出して十字軍との和睦を模索したが、皇帝ジギスムントはそれを拒否し、プラハの王宮を占領すると守備隊を残して引き揚げて行った。
 しかし、プラハ市民は彼らを兵糧攻めにした。救援に駆け付けた軍団もフス派の武力集団によって撃退され、やがて、ボヘミア全土が実質的にフス派の支配下に置かれた。そして、この年(1420年)の暮れに、ボヘミア議会はジギスムントのボヘミア王位継承を認めないと宣言し、先の「プラハの4箇条」受諾を条件に、ポーランド王ヴワディスワフ2世(即ちヨガイラ)をボヘミア王に招請した(*5)。

 翌年の1月、従兄弟同士のヨガイラとヴィタウタスは、2人揃って、リトアニアのヴァレナ(*6)でフス派の使節と会ったが、ポーランド王であるヨガイラは彼らの招請を断った。ところが、その年(1421年)の6月10日、フス派の人々は一方的にリトアニア大公ヴィタウタスをボヘミア王に選出した。そこで、ヴィタウタスは、彼らフス派がローマ教会と和解してボヘミアの分裂が解消すればという条件で、ボヘミア王位を受諾すると応じたが、その一方で、教皇マルティヌス5世には、異端者、即ち、フス派には協力しないと伝えた(*7)。

 この何とも言えぬ微妙な対応を見せたヴィタウタスは、その翌年(1422年)の春、自分の代理として、ヨガイラの甥ジギマンタス(*8)をボヘミアに派遣した。このとき、ヴィタウタスはジギマンタスに自分の軍隊を与えてボヘミアに向かわせた(*9)。

〔蛇足〕
(*1)「余談114:コンスタンツ公会議における論争」の蛇足(1)で述べたように、ヤン・フスは1415年7月に処刑されたが、その焚刑は凄惨極まりないものであったという。そして、その翌年の5月にはヤン・フスの友人ジェロームも焚刑に処せられている。こうしたことに対する反発から1419年頃にはボヘミアでのフス派は大きな勢力になっていた。なお、1999年に、当時の教皇ヨハネ・パウロ2世(この人はポーランド人で、クラクフのヨガイラ大学で神学を学んだ)はヤン・フスの処刑に対して「深い悔恨の念」を表明している。
(*2)ヴァーツラフ4世は、フス派が市長などを市庁舎の窓から投げ落としたことにショックをうけて気絶したのが原因で、その後、急死したのだとも言われている。なお、この人については「余談102:権謀術数をめぐらすドイツ騎士団」の蛇足(1)参照。
(*3)当初、ジギスムントはフス派の問題を平和的に解決しようとして、ヤン・フスに公会議の場で弁明する機会を与えることを提案した。プラハの人たちもこうした考えには賛同した。ところが、公会議では一転して異端尋問となり、フスの弁明など一切うけつけず、残忍な焚刑で処罰したため、プラハ市民は皇帝ジギスムントに裏切られたという怨念を抱くようになった。
(*4)寡婦となったヴァーツワフ4世の后ゾフィーが両派の争いの調停に尽力したが、フス派の中のヤン・ジズカ(Jan Žižka)という過激な人物がプラハを去ってボヘミア南部に拠点を築き、兵を集めて武力闘争を開始した。これが本格的な戦争を誘発した。
(*5)フス派の人々がヨガイラ(ポーランド王ヴワディスワフ2世)に目を付けたのは、おそらく、コンスタンツ公会議での論争などから、ポーランドやリトアニアの人たちなら自分たちの主張を理解してもらえると思ったからだろう。実際、ポーランドやリトアニアではフス派に共感する者が少なからずいたようだ。
(*6)ヴァレナ(Varėna)は現在のリトアニアの首都ヴィルニュスの南西約70kmに位置する古い町で、リトアニアが誇る芸術家(作曲家であり画家でもある)チュルリョーニスの生まれた町として知られている。
(*7)ヴィタウタスの立場はヨガイラより自由であったと思われるが、コンスタンツ公会議の閉会時に新教皇マルティヌス5世が、「ヨガイラとヴィタウタスは立派なキリスト教徒であり、彼らをルーシの地における教皇の総代理人に任命する」と宣言し、ヴィタウタスにジェマイチヤの人々を受洗させる権限を与えた。そして、1417年秋にはジェマイチヤ司教区が設立され、ジェマイチヤのメディニンカイに司教座が置かれ、初代司教としてトラカイのマティアス(Motiejus Trakiškis)が任命された。こうした一連の実績から、ヴィタウタスは教皇マルティヌス5世との関係を悪化させたくなかったはずで、ボヘミアのフス派との関係強化には慎重だったのだ。しかし、恐らく、ヴィタウタス大公はフス派に共感していただけでなく、ボヘミア王位にも魅力を感じていたのではなかろうか。教皇から戴冠を許された「王」を戴く王国に対して、公国は格下の準国家の扱いしかうけられない当時の西欧キリスト教世界では、「王」になることがどれほど重要かを彼はよく理解していたはずだ。そこで、ヴィタウタスはこのような曖昧な態度で両面作戦をとり、しかも、状況次第ではボヘミア王になる余地を残しておいたのだろう。
(*8)ジギマンタスは、ポーランド王ヨガイラの実弟でノヴゴロド・セヴェルスク公であったドミートリイ・コリブトと、リャザニ公オレグの娘アナスタシアとの間に生れた子である。コリブトはリトアニア語名カリブタスがロシア語化したものである。したがって、この人は「ジギマンタス・カリブタイティス」と呼ぶのが適当だが、「ジギスムント・コリブト」で通っているようだ。なお、この人はクラクフのヨガイラの宮廷で育てられたため、一時は、子宝に恵まれないヨガイラの後継者になるのではと噂された。
(*9)ヴィタウタスがジギマンタスに軍を与えてボヘミアに行かせたことが後に厄介な問題をひき起すことになる。
(2021年8月 記)