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クラス会をオンラインクラス会として

2021年11月始め開催で企画しております。

詳細は、個別メールにて皆さまにお知らせしております。


よろしくお願いします。


田中(幹事代表)、野口(1966IT担当、連絡係り)



以上

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小林レポート

半世紀前の記録から:アフリカ空の旅(2)/小林 凱

  前回はアフリカ空の旅のアウトラインをレポートしましたが、今回はそのフライトで起きた出来事を紹介したいと思います。
  1966年11月に私が搭乗したSA214便は南アフリカのヨハネスブルグを離陸後北に接するローデシアを目指したが、この間当時の一般的な国際線での機内サービスを受けた記憶がありません。飲み物位は要求に応じていたと思いますが、全く味気ないサービスの約1時間半の飛行でローデシアのソールスベリー空港に着陸しました。此処では私達ヨハネスブルグからの乗客は席を立たない様に指示され、ソールスベリーからの乗客が乗って来たらそそくさと出発しました。
  また乗務員は複数の女性キャビンアテンダントと一人のがっしりした中年の男性が居ました。この時の機内からのスナップに空港ビルが見えますが大きくて堂々として居ました。(Fig.1)Fig.1.JPG
Fig.1
  ここで当時のローデシアの状況について紹介します。この名前の国は今日存在しませんから、少し以前に戻って英国の植民地の歴史を振り返ります。歴史と言っても私が現実に見聞きした話でそれ程古い事ではありませんが。
  この国の名前は大英帝国の植民地政治家のCecil John Rhodes (1853-1902)から由来しています。セシル ローズはオックスフォード大学を卒業後、南アフリカへ渡り鉱山事業で巨万の富を築きました。ローズにとってこれだけでは不足の様で、南アフリカの北に隣接する地域を英国の植民地として其処に自分の名前を冠したのがこの国の由来です。1923年英国の植民地として南ローデシアの成立から、Cecil John Rhodesは南アフリカのCape Townからの鉄道が北アフリカのカイロまで繋がる事を構想し、併せて鉄道に並行して通信線も敷設される事を構想していました。
  1965年白人スミス政権によるローデシア共和国の一方的独立過程では国連による経済制裁を伴ったが、隣の南アフリカはこれを支援しました。私が始めて南アフリカを訪ねたのは1966年ですが、その前年の1965年に白人スミス政権によるローデシア共和国の一方的独立宣言が行われ、1968年国連による経済制裁が決議された頃です。その後1970年代からこの国の黒人団体による独立推進のゲリラ活動が始まり、1980年にジンバブエ共和国として英国からの独立を果たしました。
  私が南アフリカ共和国を訪ねたのは1966年からですが、丁度この地域に激動期が訪れ今日の姿に変わる直前であったわけです。その後かってのローデシアは世界地図から無くなり、そこには今日ジムバブエ(Zimbawue)という国が出来て、また首都はソールスベリーからハラレ(Harare)と変わっています。この独立過程では徹底して旧植民地の痕跡を消す事が図られ、今日残る名前にはそれが反映して居ます。

  ソールスベリー空港を離陸したSA214機は旋回しながら急角度で上昇しました。私は周囲に山がある地形によるものと思って居ましたが、他に保安上の理由があったのかも知れません。やがて定常の飛行に入った処で、乗客に対してウエルカムアナウンスが為されました。乗客の世話をする乗務員は、パーサーの何某と私達キャビンアテンダント何名がずっとご一緒するので何でも申して呉れとごく普通の話でしたが、ヨハネスブルグに滞在して居た私は、このパーサーは若しかするとセキュリティ要員では無いかと勝手に想像しました。
  この後食事が提供されましたが、これは暖かい料理が付いたフルブレックファストで、昨夜からまともな食事を取って居ない私は十分に堪能した結果、食後はぐっすり眠ってしまいました。このルートは赤道の南側でアフリカ大陸をほぼ西へ横断するので、途中の
景色に期待がありましたが目を開いて居る余裕はありません。それは運が良ければザンベジ河やビクトリアの滝などが眺めれたらと言う話ですが、本当にどこの上を越えたか眠ってしまって判りません。

  約4時間の飛行で搭乗機は大西洋に達しました。高度を保ったまま洋上に出て旋回して逆方向になってから高度を下げ、低空でルアンダ空港の滑走路に着陸しました。降りてから訊いたところ、反政府ゲリラに対してフライトの安全を確保したルートを取ったという事です。それは内陸の密林にはゲリラが潜んで居る危険があるが、洋上は全く隠れる処が無いからここで高度を下げ海から真っすぐに滑走路に入った様です。離陸するときはその逆で大西洋に向かって真っすぐ西へ向かって離陸し、高度を上げてからラスパルマスへ向かって進路を北へ取りました。
  当時のアンゴラはポルトガルの植民地支配下にあり、1961年頃から独立の動きが出て私が訪れた1966年はこの独立運動の最中の期間で、やがて宗主国から独立したのは1975年でした。この時反政府ゲリラと呼んだのは、後年独立した勢力の前身であった事と思われます。ただローデシアの場合と違うのは国名や首都の名前は植民地時代と同じものが継承されました。ルアンダでの写真が残って居ませんが、それは恐らく禁止されたものと思います。ルアンダを出発した後のルートはアフリカ大陸の西海岸に沿って洋上を北へ進みましたが、アフリカ大陸との距離は時折右舷に大陸の陸地が姿を見せる微妙な距離感でした。大西洋上の気象は穏やかで約8時間のフライト、この間に昼食が出され後はのんびり過ごしました。

  日が西へ傾くころ大西洋の遥か彼方にカナリア諸島が見えて来ました。此処はスペイン領でこれは当時も今も変わりありません。(Fig.2)
  この時の機内からの写真は逆光に島影が写るもので、余りくっきりと見えませんが、ラスパルマスでの景色は空港で求めた絵葉書に良く出ています。

  私はもっと緑濃い島を想像していましたが、実際は乾燥して空気が澄んだ気候でした。一方空港は小さな島にしては随分大きな設備に思いました。後日此処にEUの共同天体観測設備が作られた様に聞きましたが、これはその気候が関係して居るのかと思います。(Fig.3)
Fig.2.JPG
Fig.2
Fig.3.JPG
Fig.3
  暫く空港内で休んだのち、私達トランジット乗客は早めに着席するように求められ、その後からラスパルマスからの乗客が乗ってきました。その中に約20名くらいの男性の団体客が居て私達の斜め前方に纏まって着席しました。そこで彼らから聞こえて来たのはなんと日本語で、頭の上に荷物を上げる作業を協力して行って居ました。出発後夕食が出された時も同様に静かなグループでした。
  彼らはこの便ではロンドン迄行ったので後刻マドリッドで訊いた所では、その団体は多分マグロ取り船団のクルーで、交代して帰国するか或いは休暇の為にロンドンへ行く人たちであろうとの事でした。当時日本人クルーは技術レベルが高い事、色んな仕事がこなせる等大西洋のマグロ漁業に不可欠な存在であった様です。
  なおこのレポートを書いて居る時、カナリア諸島では火山噴火が発生し5000人ほど避難したとニュースが報道されました。これは同じカナリア諸島でもラパルマ島で、空港のある島とは別で、既に火山性の地震で予兆が見られた為付近の住民は避難しており死者、けが人はいないとの事でした。処で前回の噴火は1971年の50年ぶりという事で、私が以前にカナリア諸島を訪れてから後に同じ島で発生して居た事になります。
  間も無く陽は大西洋に沈んで夜の闇を搭乗機は北上しました。(Fig.4)
  機はイベリア半島の南西のコーナーをかすめた様で、黒い大陸のブロックと光の点が足下に見えて来て、やがて高度と進路の調整が為されて暗闇の彼方に見えて来た光の集団がマドリッドとその周辺を示しました。
Fig.4.JPG
Fig.4
  暫く進むうちに真っすぐに高度が下がって行くのが判り、この時パーサーが私の席の背後に近づいてそっと肩に触れました。私は始め何事か分からなかったが、パーサーは私の耳元に囁きました。
「I trust you could have enjoyed our flight !」
私も降りる乗客への挨拶と理解して、同時に上手な表現に搭乗時に10時間も待たされた事は忘れて、
「Oh, yes sure!」
と返事して居ました。パーサーはそれを確かめる様に聞いてから、
「Good ! Enjoy your stay...」と言いながら離れて行きました。
間もなく着陸に備えてフラップを出すギアの音が始まりました。パーサーの挨拶が何故私に為されたのか判りませんが、良い表現として繰り返し思い出す内に半世紀の記憶の中に定着しました。
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小林レポート

半世紀前の記録から:アフリカ空の旅(2)/小林 凱

  前回はアフリカ空の旅のアウトラインをレポートしましたが、今回はそのフライトで起きた出来事を紹介したいと思います。
  1966年11月に私が搭乗したSA214便は南アフリカのヨハネスブルグを離陸後北に接するローデシアを目指したが、この間当時の一般的な国際線での機内サービスを受けた記憶がありません。飲み物位は要求に応じていたと思いますが、全く味気ないサービスの約1時間半の飛行でローデシアのソールスベリー空港に着陸しました。此処では私達ヨハネスブルグからの乗客は席を立たない様に指示され、ソールスベリーからの乗客が乗って来たらそそくさと出発しました。
  また乗務員は複数の女性キャビンアテンダントと一人のがっしりした中年の男性が居ました。この時の機内からのスナップに空港ビルが見えますが大きくて堂々として居ました。(Fig.1)Fig.1.JPG
Fig.1
  ここで当時のローデシアの状況について紹介します。この名前の国は今日存在しませんから、少し以前に戻って英国の植民地の歴史を振り返ります。歴史と言っても私が現実に見聞きした話でそれ程古い事ではありませんが。
  この国の名前は大英帝国の植民地政治家のCecil John Rhodes (1853-1902)から由来しています。セシル ローズはオックスフォード大学を卒業後、南アフリカへ渡り鉱山事業で巨万の富を築きました。ローズにとってこれだけでは不足の様で、南アフリカの北に隣接する地域を英国の植民地として其処に自分の名前を冠したのがこの国の由来です。1923年英国の植民地として南ローデシアの成立から、Cecil John Rhodesは南アフリカのCape Townからの鉄道が北アフリカのカイロまで繋がる事を構想し、併せて鉄道に並行して通信線も敷設される事を構想していました。
  1965年白人スミス政権によるローデシア共和国の一方的独立過程では国連による経済制裁を伴ったが、隣の南アフリカはこれを支援しました。私が始めて南アフリカを訪ねたのは1966年ですが、その前年の1965年に白人スミス政権によるローデシア共和国の一方的独立宣言が行われ、1968年国連による経済制裁が決議された頃です。その後1970年代からこの国の黒人団体による独立推進のゲリラ活動が始まり、1980年にジンバブエ共和国として英国からの独立を果たしました。
  私が南アフリカ共和国を訪ねたのは1966年からですが、丁度この地域に激動期が訪れ今日の姿に変わる直前であったわけです。その後かってのローデシアは世界地図から無くなり、そこには今日ジムバブエ(Zimbawue)という国が出来て、また首都はソールスベリーからハラレ(Harare)と変わっています。この独立過程では徹底して旧植民地の痕跡を消す事が図られ、今日残る名前にはそれが反映して居ます。

  ソールスベリー空港を離陸したSA214機は旋回しながら急角度で上昇しました。私は周囲に山がある地形によるものと思って居ましたが、他に保安上の理由があったのかも知れません。やがて定常の飛行に入った処で、乗客に対してウエルカムアナウンスが為されました。乗客の世話をする乗務員は、パーサーの何某と私達キャビンアテンダント何名がずっとご一緒するので何でも申して呉れとごく普通の話でしたが、ヨハネスブルグに滞在して居た私は、このパーサーは若しかするとセキュリティ要員では無いかと勝手に想像しました。
  この後食事が提供されましたが、これは暖かい料理が付いたフルブレックファストで、昨夜からまともな食事を取って居ない私は十分に堪能した結果、食後はぐっすり眠ってしまいました。このルートは赤道の南側でアフリカ大陸をほぼ西へ横断するので、途中の
景色に期待がありましたが目を開いて居る余裕はありません。それは運が良ければザンベジ河やビクトリアの滝などが眺めれたらと言う話ですが、本当にどこの上を越えたか眠ってしまって判りません。

  約4時間の飛行で搭乗機は大西洋に達しました。高度を保ったまま洋上に出て旋回して逆方向になってから高度を下げ、低空でルアンダ空港の滑走路に着陸しました。降りてから訊いたところ、反政府ゲリラに対してフライトの安全を確保したルートを取ったという事です。それは内陸の密林にはゲリラが潜んで居る危険があるが、洋上は全く隠れる処が無いからここで高度を下げ海から真っすぐに滑走路に入った様です。離陸するときはその逆で大西洋に向かって真っすぐ西へ向かって離陸し、高度を上げてからラスパルマスへ向かって進路を北へ取りました。
  当時のアンゴラはポルトガルの植民地支配下にあり、1961年頃から独立の動きが出て私が訪れた1966年はこの独立運動の最中の期間で、やがて宗主国から独立したのは1975年でした。この時反政府ゲリラと呼んだのは、後年独立した勢力の前身であった事と思われます。ただローデシアの場合と違うのは国名や首都の名前は植民地時代と同じものが継承されました。ルアンダでの写真が残って居ませんが、それは恐らく禁止されたものと思います。ルアンダを出発した後のルートはアフリカ大陸の西海岸に沿って洋上を北へ進みましたが、アフリカ大陸との距離は時折右舷に大陸の陸地が姿を見せる微妙な距離感でした。大西洋上の気象は穏やかで約8時間のフライト、この間に昼食が出され後はのんびり過ごしました。

  日が西へ傾くころ大西洋の遥か彼方にカナリア諸島が見えて来ました。此処はスペイン領でこれは当時も今も変わりありません。(Fig.2)
  この時の機内からの写真は逆光に島影が写るもので、余りくっきりと見えませんが、ラスパルマスでの景色は空港で求めた絵葉書に良く出ています。

  私はもっと緑濃い島を想像していましたが、実際は乾燥して空気が澄んだ気候でした。一方空港は小さな島にしては随分大きな設備に思いました。後日此処にEUの共同天体観測設備が作られた様に聞きましたが、これはその気候が関係して居るのかと思います。(Fig.3)
Fig.2.JPG
Fig.2
Fig.3.JPG
Fig.3
  暫く空港内で休んだのち、私達トランジット乗客は早めに着席するように求められ、その後からラスパルマスからの乗客が乗ってきました。その中に約20名くらいの男性の団体客が居て私達の斜め前方に纏まって着席しました。そこで彼らから聞こえて来たのはなんと日本語で、頭の上に荷物を上げる作業を協力して行って居ました。出発後夕食が出された時も同様に静かなグループでした。
  彼らはこの便ではロンドン迄行ったので後刻マドリッドで訊いた所では、その団体は多分マグロ取り船団のクルーで、交代して帰国するか或いは休暇の為にロンドンへ行く人たちであろうとの事でした。当時日本人クルーは技術レベルが高い事、色んな仕事がこなせる等大西洋のマグロ漁業に不可欠な存在であった様です。
  なおこのレポートを書いて居る時、カナリア諸島では火山噴火が発生し5000人ほど避難したとニュースが報道されました。これは同じカナリア諸島でもラパルマ島で、空港のある島とは別で、既に火山性の地震で予兆が見られた為付近の住民は避難しており死者、けが人はいないとの事でした。処で前回の噴火は1971年の50年ぶりという事で、私が以前にカナリア諸島を訪れてから後に同じ島で発生して居た事になります。
  間も無く陽は大西洋に沈んで夜の闇を搭乗機は北上しました。(Fig.4)
  機はイベリア半島の南西のコーナーをかすめた様で、黒い大陸のブロックと光の点が足下に見えて来て、やがて高度と進路の調整が為されて暗闇の彼方に見えて来た光の集団がマドリッドとその周辺を示しました。
Fig.4.JPG
Fig.4
  暫く進むうちに真っすぐに高度が下がって行くのが判り、この時パーサーが私の席の背後に近づいてそっと肩に触れました。私は始め何事か分からなかったが、パーサーは私の耳元に囁きました。
「I trust you could have enjoyed our flight !」
私も降りる乗客への挨拶と理解して、同時に上手な表現に搭乗時に10時間も待たされた事は忘れて、
「Oh, yes sure!」
と返事して居ました。パーサーはそれを確かめる様に聞いてから、
「Good ! Enjoy your stay...」と言いながら離れて行きました。
間もなく着陸に備えてフラップを出すギアの音が始まりました。パーサーの挨拶が何故私に為されたのか判りませんが、良い表現として繰り返し思い出す内に半世紀の記憶の中に定着しました。
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季節の花便り

9月の花便り/高橋 郁雄

  今回も近場からの取材のみとなりました。新型コロナの感染の収束が来るのが待ち遠しいです。銀木犀とピンクッションが初登場で、金木犀は再登場です。
Kinmokusei.JPGGinmokusei.JPGPinkusyon.JPG
金木犀
銀木犀ピンクッション
金木犀:9月15日に、グリーンハイツ内で撮影しました。本ブログで、2019年(10/16撮影)、2020年(10/6撮影)では10月の花便りで掲載していましたが、今回は9月の花便りで掲載しました。今年は暑かった夏(8月)の後に、9月になって涼しい日が数日続いたせいかなと思っています。写真がピンボケですみません。
  花言葉=「謙虚・気高い人」。ふわっと匂い立つ素晴らしい香りに反して、控えめな小さな花弁を持つことから「謙虚」。雨が降った時に、その小さな花弁が潔く散ってしまうことに由来して「気高い人」。
  10月7日の誕生花。開花して、4,5日で散ってしまう、儚いお花。
  四大香木の一つと言われています。他の3大香木は「春(沈丁花:じんちょうげ):夏(梔子:くちなし):冬(蝋梅:ろうばい)」だそうです。  
銀木犀:9月15日に、グリーンハイツ内で撮影しました。写真がピンボケですみません。
  花言葉=「初恋・高潔・あなたの機を引く」。「初恋、高潔」は、真白なキレイな花が高潔に見えることが由来になったそうです。金木犀は銀木犀の変種といわれています。そのため、木犀といえば、一般には銀木犀のことを指すといわれています。
  香りは金木犀の方が強く、銀木犀は弱い。
ピンクッション:9月23日に、宮前区内の花屋の店先で撮影しました。
  原産地:南アフリカ。花言葉=「どこでも成功を・共栄・陽気・ふりそそぐ愛」。
  ピンクッション(Pin cushion)=針刺し、と名付けられています。針刺しに針をたくさん刺しているような、特徴ある姿に由来しています。針のように見える1本1本が花で、多数の花が集まり、咲く花はとても華やかです。花持ちが良くて、2週間ほど咲き続けるそうです。
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季節の花便り

9月の花便り/高橋 郁雄

  今回も近場からの取材のみとなりました。新型コロナの感染の収束が来るのが待ち遠しいです。銀木犀とピンクッションが初登場で、金木犀は再登場です。
Kinmokusei.JPGGinmokusei.JPGPinkusyon.JPG
金木犀
銀木犀ピンクッション
金木犀:9月15日に、グリーンハイツ内で撮影しました。本ブログで、2019年(10/16撮影)、2020年(10/6撮影)では10月の花便りで掲載していましたが、今回は9月の花便りで掲載しました。今年は暑かった夏(8月)の後に、9月になって涼しい日が数日続いたせいかなと思っています。写真がピンボケですみません。
  花言葉=「謙虚・気高い人」。ふわっと匂い立つ素晴らしい香りに反して、控えめな小さな花弁を持つことから「謙虚」。雨が降った時に、その小さな花弁が潔く散ってしまうことに由来して「気高い人」。
  10月7日の誕生花。開花して、4,5日で散ってしまう、儚いお花。
  四大香木の一つと言われています。他の3大香木は「春(沈丁花:じんちょうげ):夏(梔子:くちなし):冬(蝋梅:ろうばい)」だそうです。  
銀木犀:9月15日に、グリーンハイツ内で撮影しました。写真がピンボケですみません。
  花言葉=「初恋・高潔・あなたの機を引く」。「初恋、高潔」は、真白なキレイな花が高潔に見えることが由来になったそうです。金木犀は銀木犀の変種といわれています。そのため、木犀といえば、一般には銀木犀のことを指すといわれています。
  香りは金木犀の方が強く、銀木犀は弱い。
ピンクッション:9月23日に、宮前区内の花屋の店先で撮影しました。
  原産地:南アフリカ。花言葉=「どこでも成功を・共栄・陽気・ふりそそぐ愛」。
  ピンクッション(Pin cushion)=針刺し、と名付けられています。針刺しに針をたくさん刺しているような、特徴ある姿に由来しています。針のように見える1本1本が花で、多数の花が集まり、咲く花はとても華やかです。花持ちが良くて、2週間ほど咲き続けるそうです。
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小林レポート

半世紀前の記録から:アフリカの空1/小林 凱

  今回の東京オリンピック2020の開会式を見ていたら、アフリカ諸国の選手団の数に驚きました。少人数の選手団もあったがそれでもアフリカに新しい時代が到来して居る事を感じさせるに十分でした。そしてかってこの地を度々訪れた私は何か嬉しい気持ちで時代の変化を感じました。
  同時に私が訪れていたのはかっての社会構造が支配して居た時代で、それを見た私が新しい世界から来た選手団を見るのは、なんとなく長生き出来た様で妙な嬉しさを感じました。しかし長生きだけで無く、当時既に色々な動きがあったのを見落としていたかも知れないと思い、この様な気持ちを背景にずっと以前の旅の記録を辿って見ました。結果は思いがけなくアフリカ大陸の上を飛ぶことになった記録です。

  1966年11月、私は南アフリカからスペインへ向かいました。元々南アフリカからロンドン経由で帰国する予定でしたが、急にスペインへ立ち寄ってそこでのプロジェクトについて打ち合わせる様に指示されたものです。
  出来るだけ乗り換えの無い便が望ましいとして探した結果、南アフリカ航空がヨハネスブルグからマドリード経由ロンドン行きを運航して居り、このSA214便を予約しました。航空券は当時のIATAのもので以前にも書いた様に便利なもので問題なく切り替え出来ました。
  この便は南アフリカのヨハネスブルグ(South Africa, Johannesburg)を発つと北へ向かって隣接するローデシアのサリスバリー(Rodesia, Salisbury)に立ち寄ります。ここから赤道南のアフリカ大陸を約4時間西へ飛んで、大西洋岸のアンゴラの首都ルアンダ(Angola, Luanda)に着きます。
  次はアフリカ大陸の西海岸に沿う形でこのフライトで最も長い区間(約8時間)を北へ飛んで、モロッコの西の大西洋に浮かぶカナリア諸島のグランカナリア島のラスパルマス(Canaria Islands, Gran Canaria, LasPalmas)に着きます。その後は約4時間でスペインの首都マドリード(Spain, Madrid)です。このルートを地図に示します。(Fig.1)DSCN2417.JPG
Fig.1
  ここで黄線で記入したのが実際に飛んだ軌跡です。あとで説明がありますからその時の参考にして下さい。
  この便(SA214)は元々次の様なスケジュールでした。
南アフリカ ヨハネスブルグ発 19:00 (GMT+2)
ローデシア サリスバリー 着 20:30 (GMT+2)
アンゴラ  ルアンダ   着 23:20 (GMT+1)
カナリア諸島 ラスパルマス着 06:15 (GMT)
スペイン  マドリード  着 10:25 (GMT)
(なお終着ロンドンには) 着 12:00 (GMT)

  当時南アフリカ航空の便はアパルトヘイトの故に、新興アフリカ諸国での着陸、通行を拒否するところがあると聞いていたが、同時に普段余り行けない所に立ち寄る事があると聞きました。しかし夜間の飛行だから何も見えないのは仕方ないと思いました。また時刻表から見て南アフリカ航空は英国BOACと密接に連携している様に感じました。
  このマドリード経由便は週一回ですが、他の日でヨーロッパに向かう便を見ると、ローデシアに立ち寄るのが本便含め3便、南西アフリカのナミビアのWindhoekに立ち寄る便、それとヨハネスブルグからダイレクトにアンゴラのルアンダに飛ぶ便がありました。しかしアフリカ西海岸のルアンダとカナリア諸島のラスパルマスには、ヨーロッパ行きの全ての便が立ち寄って居り、またラスパルマスを飛び立った南ア航空便はロンドンへ直行するか、マドリードやパリなどに立ち寄ってからロンドンに向かって居ました。
  それで私の理解ですが、飛行時間も考えるとこのルアンダとラスパルマスの2箇所が大切な補給基地の役割を担ってると気付きました。南アフリカ航空はアフリカ大陸では色んな制約がある中でこの2箇所を確保したもので、其処に乗客が沢山いるのとはまた別の理由があった様です。

  ここで時刻表の通りに運航したら夜中の飛行だし特に記憶に残る事は少なかったと思いますが、実際はそうは行きませんでした。
  当日の午後南アフリカ航空に照会したところ、到着便が遅れたので出発は大幅に遅れると言う。ロンドンが運航の基地の様で、ヨハネスブルグには昼頃か午後の早い時間に着いて夕刻の便になるが、それが着いていないのでどうにもならないという事です。しかし間違いなく運航するから状況を注意して呉れとの話で、ヨハネスブルグのホテルは既にチェックアウトして居り、夜中の交通も考えて夜半前に空港に移動して待つ羽目になりました。

  当時のヨハネスブルグでは鉄道の中央駅は昼間でも怖かった記憶があります。空港はずっとEuropean中心の場所でしたが、夕刻からのヨーロッパ行きの便が出た後は、ひっそりとして夜半を過ごすのは余り気分の良い時間ではありません。荷物をしっかり横に置いて眠らぬ様にじっと時間が過ぎるのを待ちました。
  出国搭乗手続きが行われたのは夜明けも間近い5時過ぎで、結局10時間余り遅れてヨハネスブルグを飛び立ちました。
  この便ははBoeing 707で割に新しい機材で中は綺麗でした。これからずっとアフリカ大陸の上空と沿岸を飛びますが、離着陸時の様子も含めて次に報告したいと思います。
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武田レポート

リトアニア史余談116:フス戦争とジギスムント・コリブト/武田 充司

 ボヘミアのフス派の反乱を鎮圧するために、教皇マルティヌス5世と皇帝ジギスムントが協力して起した1420年の十字軍は失敗に終ったが(*1)、その翌年の夏、ドイツ諸侯は新たな十字軍を編成してボヘミアに侵攻した。これによってフス戦争は新たな局面を迎えた(*2)。
 ドイツの国境を越えてボヘミアの北西部に入った十字軍は、プラハの西北西約70kmに位置するジャテツ(*3)を包囲したが、フス派の援軍によって撃退されてしまった。この状況に苛立った皇帝ジギスムントは自ら軍を率いてプラハの東南東約60kmに位置するクトナー・ホラ(*4)を襲って占領した。これを知ったフス派の中の武闘派ヤン・ジズカ(*5)は、拠点としていたターボル(*6)から出撃して、1422年1月6日、「ドイチュブロトの戦い」(*7)でジギスムントの軍を撃破した(*8)。

 ところが、それから間もない3月9日、プラハにおいて独裁的権力を振っていたフス派の指導者ヤン・ジェリフスキ(*9)が、市議会によって逮捕され斬首された。そして、ウトラキスツ(*10)と呼ばれる穏健派の貴族たちが支配権を握った。一方、ターボルのヤン・ジズカは、フス派討伐十字軍との戦いを意識して、リトアニア大公ヴィタウタスの代理ジギスムント・コリブトを摂政としてボヘミアに招請した。しかし、ジギスムント・コリブトが軍を率いてプラハに到着したのは5月16日で、戦いはフス派の勝利で既に終っていた(*11)。

 それでも、首都プラハで実権を握ったフス派の穏健派ウトラキスツは、ジギスムント・コリブトをボヘミアの統治者として認めて迎え入れた。そこで、ジギスムント・コリブトは、ターボルのヤン・ジズカとプラハの穏健派の両者の支持を背景に、ボヘミアのフス派を統一してローマ教会と和解させようとした。しかし、その頃、ターボルでは、ヤン・ジズカのやり方に不満をもつ過激派が台頭し、プラハの穏健派との妥協はほぼ不可能になっていた。

   こうして、プラハに入ったジギスムント・コリブトが、ボヘミアの再統一を試みて難渋している間に、神聖ローマ皇帝でありハンガリー王であるジギスムントが、自分こそが真のボヘミア王位継承者であるとの自負から(*12)、ポーランド王ヴワディスワフ2世(ヨガイラ)とハンガリーのケジュマロク(*13)で会談し、打開策を打ち出した。即ち、彼はヨガイラに対して、ジギスムント・コリブトをボヘミアから引き揚げさせるよう要求したのだ。その一方で、教皇マルティヌス5世も、リトアニア大公ヴィタウタスに対して、ボヘミアのフス派の支援を止めなければ破門して十字軍を差し向けると脅かした。その結果、1423年3月20日、ヨガイラとヴィタウタスは皇帝の要求をうけ入れ、ジギスムント・コリブトと彼の率いる軍隊をボヘミアから引き揚げさせることにした。

〔蛇足〕
(*1)「余談115:フス戦争とヴィタウタス大公」参照。
(*2)このとき、ドイツの諸侯は、フス派の宗教改革の波がドイツに波及するのを恐れてこうした行動を起したのだ。
(*3)ジャテツ(Žatec)は、ビールに風味をつける高級品種のザーツホップの生産地として有名で、チェコのピルスナー・ビールはこのホップを使ったビールである。ザーツホップ(Saaz hops)の“Saaz”は“Žatec”のドイツ語呼称である。
(*4)クトナー・ホラ(Kutná Hora)は銀の採掘で有名で、中世ボヘミア王国の銀貨プラハ・グロッシュはここで鋳造されていた。また、ここの聖バルボラ教会とそれを含む歴史地区はユネスコの世界遺産に登録されている。
(*5)ヤン・ジズカ(Jan Žižka)については「余談115:フス戦争とヴィタウタス大公」の蛇足(4)参照。なお、「ジャルギリスの戦い」(「余談107:ジャルギリスの戦い」参照)で、彼はポーランド軍に加わり、ドイツ騎士団と戦った実績がある。
(*6)ターボル(Tábor)はプラハの南方約75kmに位置する現在のチェコ南部の都市である。
(*7)ドイチュブロト(Deutschbrod)はネメツキ・ブロト(Nemecky Brod)とも呼ばれ、プラハの南東約100kmに位置する現在のチェコ中部の都市ハヴリーチクーフ・ブロト(Havlickuv Brod)の旧称である。
(*8)なお、この年(1422年)、ジギスムントは神聖ローマ皇帝として、ニュルンベルクに帝国議会を招集し、フス派と戦うための傭兵部隊の編成を提案したが否決されている。このように、ドイツ諸侯が皇帝に非協力的であったのは、ジギスムントがドイツを留守にしていることが多かったためだと言われている。一方、選帝侯たちは、1424年に、皇帝に対する自分たちの権限を強化しようとしたが、これは阻止された。しかし、フス派の影響がドイツに及ぶのを恐れた選帝侯たちは、「ビンゲン同盟」を結成して独自の動きを強めたため、ドイツ諸侯に対する皇帝の権威は落ち、フス派と戦う勢力の最高指揮官としての皇帝の権限も空洞化した。なお、ビンゲン(Bingen)はライン川観光で有名なリューデスハイム(Rüdesheim)の対岸にあり、その昔マインツ大司教が通行税を徴収するために建てたともいわれる「鼠の塔」で知られている。とにかく、この当時のドイツは、百年後に起るルターの宗教改革の時代とは違って、中世的な考え方に従ってボヘミアのフス派の宗教改革運動を危険視していた。
(*9)ヤン・ジェリフスキ(Jan Zelivsky)は、フス派が1419年7月に市庁舎前をデモ行進したときの指導者である(「余談115:フス戦争とヴィタウタス大公」参照)。
(*10)ウトラキスツ(Utraquists)は、カリックス派(Calixtin:calix=聖杯)とも呼ばれているので、日本では「聖杯派」と訳されている。
(*11)実際、ヴィタウタスがジギスムント・コリブト(ジギマンタス・カリブタイティス:ヨガイラの甥)に軍を与えてボヘミアに向かわせたのはこの年(1422年)の春であったから(「余談115:フス戦争とヴィタウタス大公」参照)、これは全く遅すぎて戦いには間に合わなかった。
(*12)「余談115:フス戦争とヴィタウタス大公」参照。
(*13)ケジュマロク(Kežmarok)は、現在のスロヴァキア北部の都市ポプラド(Poprad)の北東約12kmに位置し、ポーランドとの国境に近い山岳地帯にある小都市だが、当時はハンガリー領であった。
(2021年9月 記)
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季節の花便り

8月の花便り/高橋 郁雄

  今回も近場からの取材のみとなりました。新型コロナの収束を願う毎日です。酔芙蓉、夾竹桃ともに本ブログでは再登場です。
Suihuyo7.JPGSuihuyo9.JPGSuihuyo16.JPG
酔芙蓉1(7:20)酔芙蓉2(9:22)酔芙蓉3(16:45)
酔芙蓉1~3は8月17日、は8月12日、は8月12日に、それぞれ括弧内の時間に、我が宮前平グリーンハイツの敷地内で、撮影しました。花色が、1日で白色からピンク色に変化する特徴がある面白い植物です。
  花言葉=「心変わり・繊細は美・しとやかな恋人・幸せの再来」。
夾竹桃:8月6日に、我が宮前平グリーンハイツの敷地内で撮影しました。
  インド原産。インド北部の河原に生え、乾燥、洪水、猛暑、寒風に鍛えられた植物。江戸時代に中国経由で渡来。
Kyotikuto.JPG
夾竹桃(きょうちくとう)
  葉が「竹」に、花が「桃」に似ていることから「夾竹桃」と呼ばれるようになりました。公害に強いという性質があり、(千葉市、尼崎市、広島市、鹿児島市)などの市町村の花に指定されています。僕は名古屋で勤務した経験があり、名古屋の東側の大通り沿いにこの夾竹桃が植えられていたことを思い出します。
  原爆が落ちたあと、広島で最初に花を咲かせた植物が(夾竹桃)だったことから、復興のシンボルとされたということです。
  根、葉、茎、花、など樹木全体に毒性を持っており、口に含むなどすると大変危険ですので要注意です。
  花言葉=「油断大敵・危険な愛・用心」。
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斎藤さんのお話

テレツーリズム/齋藤 嘉博

  過日この欄に載せて頂いたモロッコ紀行、諸兄はどのように読んでくださったでしょうか。モロッコへの興味は冒頭に書いた通り。しかしこの旅のお話し、カスバの様子などはその気持ちに誘われたfake、ヴァーチャルの旅記だったのです。現地の写真がありませんでしたので不審に思われた方もおられたと思います。コメントを頂いた小林さんゴメンナサイ。
  このトシで遠方への飛行機の旅やドライブもいつまで出来るかなと思いながら、しかし行きたいところはまだまだ沢山。そこで考えたのが地図の上でのヴァーチャルの旅。地図を拡げ旅行書を読みながら、あそこに飛んでここはドライブでと、もう十数年前にニュージランド、インド、マレーシア、アフリカなど二十に余る世界の観光地の旅スケジュールを作ったのです。モロッコもそのうちの一つ。そのときのプランに最近モロッコ大使館で頂いた観光パンフからの情報を加えて書いたのでした。

  その昔に作ったプランの中からいくつかをご紹介しましょう。

  トルコ;東西文化の接点トルコは是非行ってみたい国の一つ。この国については’12年のブログに大橋さんの二回にわたるすばらしい紀行稿が寄せられています。それによると世界遺産のアンティオコス王遺跡への山道はなかなかハードの模様。そこでここはパスして、成田12:50発のTKでイスタンブールを乗り継ぎアンカラへ飛び、車を借りてカッパドキアへ直行。ここから古都コンヤ、綿の城と呼ばれるパムッカレへとトルコの西部高原地帯を走り、イズミールからトロイの遺跡へ。地中海の夕陽を楽しんだのち車を返却して船でイスタンブールに向かおうというプラン。イスタンブールには沢山の見所がありますのでここでは4泊して帰国という16日間のプランでした。

  ニュージランド;ニュージランドは日本と経度も近く経度もほぼ同じ。島の面積も似通っていてなぜか大変親しみの湧く国です。成田から南島のクライストチャーチに飛んで、星が美しいと言われるテカポで「善き羊飼いの教会」、湖を散歩してスターウォッチング。マウントクックと氷河ミルフォオードサウンドを楽しんだら空路で北島に移り、トンガリロ国立公園やロトルアの温泉に浴してオークランドから帰国という18日間のスケジュール。諸兄の中にもこの国を楽しまれた方は多いのではないでしょうか。

  何回か訪れたドイツもクリスマスの時期に行ってみたいネと、シュツットガルトのクリスマス市場から始めてニュルンベルグなど古城街道を軸にプラハまで走り各地のクリスマスを観ようという魂胆。ここはアウトバーンがしっかりしていますので時速200Kmの快感を交えて。運がよければバイロイトでワグナーのオペラも。ベルリンのクリスマス市場を最後にという欲張り日程は19日間。これもすでに経験された方が多いでしょう。

  難しいのはインドとアフリカ。タンザニアのキリマンジャロ高原、動物の楽園、セレンゲッティ国立公園いいでしょうね。そしてインドはお釈迦様の遺跡、ルンビニ、ブッダガヤー、サールナートなどを中心にと想いながら、私がこれまでに知っている地域とは異なる風土。なかなか全体の感触がつかめないのです。この辺りなにかよいヒントがあればご教示頂けるとありがたいのですが。

  こうした頭の中の旅はコロナで不急不要の外出を控えさせられている身には格好の、しかし楽しい時間つぶしです。観光資料はその国の大使館、領事館などで手に入りますし、近頃はUチューブなどwebで検索するとけっこう楽しい現地の動画を観ることが出来るので幻の旅もかなり現実味を覚えることができるのです。いうなればテレツーリズム。諸兄もいかがでしょうか。

  といっても遺跡を目の当たりにして古代に飛ぶ想い、広い広い山野の自然を歩き眺める感動、喧噪の街の中で人々のざわめきを感じながらカフェで過ごすひと時の経験はテレ、ヴァーチャルではとても得られない感触です。ヴァーチャルはやはりそれだけのもの。このころコロナの影響でディジタル庁を作ったり、テレワークを推奨していますが、画面をとおしてできるのは仕事の骨格、それに肉付けぐらいまで。魂を入れるということには至りません。ディジタル仕事の会社には「このような不祥事は再び起こさないように」と頭を下げるトップの姿が増えることでしょう。早くコロナが治まってもう一度山野を歩きたいですネエ。間に合うかナ。

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新井レポート

偏光顕微鏡による岩石の偏光観察/新井 彰

  今から70年前の昔、私は旧制静岡高等学校理科に在学していました。
  地学の望月勝海教授は東大理学部地質学科出身の気鋭の学者で、研究上の代表作「大東亜地体構造論」1943は、25年後に地球科学に革新をもたらしたプレートテクトニクスの考えを先取りした世界に誇れる労作とされ、教育上の代表作「地質学入門1936新版1956」は教科書として広く採用され50万部以上出版されました。

  ある日の地学の時間に、偏光顕微鏡による岩石薄片の偏光観察実習がありました。地学教室に何台もの偏光顕微鏡が置かれ、接眼鏡を覗くと万華鏡のように変幻自在に色が変化する偏光現象が見られ、感動しました。

  その時の感動を最近もう一度経験してみたいと思いました。

  本格的な偏光顕微鏡はとても高価で手が出ないので、ずっと安価な実体顕微鏡(普通の顕微鏡)を購入。偏光装置の部分は部品(2枚の偏光板、プレパラート回転装置、偏光板回転装置など)をネットで取り寄せ自分で組み立てて実体顕微鏡に取り付け、偏光顕微鏡としました。(image1)

  フレキシブル三脚に取り付けたiPhoneで偏光現象をVideoに撮りました。(image0)
image1.jpeg
image1.jpg
image0.jpeg
image0.jpg

  Videoの1つは、岩石標本の上下にある偏光板の偏光方向を90°に交叉させ(直行ニコル)、プレパラートを手動で360°回転した場合のもの。(video1)

  もう一つのVideoはプレパラートは固定して、片方の偏光板を手動で360°回転して色の変化を撮ったものです。(video2)
  
video1
video2

  この岩石はかんらん岩で、Amazonで取り寄せた24種の岩石薄片プレパラートのうち、一番見栄えのする色の変化を見せました。

  こんな微細な世界でも自然は、更に大袈裟に言えば宇宙は、不思議だ、素晴らしい、美しい、壮大だ、、、と感じてしまいます。