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武田レポート

リトアニア史余談94:ヴォルスクラ川の戦い/武田 充司

 ウクライナの首都キエフの東南東300kmほどのところにポルタヴァという都市がある。そこは18世紀初頭の大北方戦争の行方を決した大会戦「ポルタヴァの戦い」があった場所として知られているが、それより310年前の1399年、ポルタヴァの北方郊外のヴォルスクラ河畔でリトアニア大公ヴィタウタス率いる遠征軍がキプチャク汗国の汗テミュール・クトルク率いるタタール軍と対峙した。

   このとき、ヴィタウタスは、ティムールの傀儡テミュール・クトルクに汗位を奪われて国を追われたトクタミシュ(*1)の復位を支援するという口実で(*2)、大軍を率いてこの地に遠征してきたのだった。遠征軍にはドイツ騎士団の騎士たちも加わっていた(*3)。ウクライナ南部の草原地帯に潜伏していたトクタミシュも一軍を率いてリトアニア軍に合流した。

 一方、形勢不利とみたテミュール・クトルクは、軍司令官エディグ(*4)率いる援軍が到着するまで戦闘開始を引き延ばそうと、一計を案じて敵陣に使者を送った。そして、首尾よく3日間の休戦をヴィタウタスに認めさせた。このとき、テミュール・クトルクは、「これからの3日間を互いに戦闘準備に充てることにして、戦いはそのあとにしよう」と提案したというが、違う説明もあり(*5)、真相は不明だ。
 しかし、ヴィタウタスは、この3日間に多数の軍用車輛を並べて強力な防禦壁をつくった。彼はその背後に兵力を結集して、疾風のように襲いかかるタタールの騎馬兵の足を止め、防禦壁内の陣中から一斉射撃を浴びせて敵を殲滅しようという作戦を立てた。ヴィタウタス率いる遠征軍は、ドイツ騎士団の協力を得て、優れた装備と強力な弩弓や火砲をもっていたが、兵員の数は限られていたから、敵地に近い戦場ではこうした作戦が適していると判断したのだろう。

 こうして3日間が過ぎ、1399年8月12日、ヴォルスクラ川を挟んで対峙した両軍は一斉に火ぶたを切った。予想通り、タタールの騎馬兵はリトアニア陣営めがけて雲霞の如く襲いかかってきたが、リトアニア側からの一斉射撃を喰うと、あっという間に逃げ去ってしまった(*6)。これでは戦にならぬと思ったヴィタウタスは、全軍を率いて車輛で築いた防禦壁内の陣地を出ると、蜘蛛の子を散らすように逃げる敵兵を追撃した。もはや勝負あったと勇み立つヴィタウタス軍が自陣から遠く離れたそのとき、エディグ率いるタタールの精鋭軍団が突如として背後から襲ってきた。そして、リトアニア軍はあっという間に包囲されてしまった。これを見たトクタミシュは真っ先に戦線を離脱し逃走した。これがきっかけでリトアニア軍は総崩れとなり、夥しい死傷者を残して敗走した(*7)。ヴィタウタスとジギマンタスの兄弟は数人のドイツ騎士団幹部とともに辛うじて戦場から脱出し生還した(*8)。

〔蛇足〕
(*1)キプチャク汗国の汗であったトクタミシュは、1391年にキプチャク汗国の北部に侵攻したティムール朝の始祖ティムールを迎え撃ったが「コンドゥルチャ川の戦い」で敗れ、1395年にはカフカス山脈北側のテレク河畔の戦いで再度ティムールに苦杯を喫した。そして、その翌年にティムールが擁立したテミュール・クトルクに汗位を奪われたトクタミシュは、黒海北岸の草原地帯に逃れてヴィタウタスに支援を求めた。なお、トクタミシュはキプチャク汗国建国の祖バトゥの異母弟トゥカ・テムルの7代目の末裔と言われている。一方、テミュール・クトルクは、混乱していたキプチャク汗国を統一した汗ウルスの孫である。ウルス没後、彼の父(したがってウルスの息子)テミュール・マリクはトクタミシュと争って敗れ、トクタミシュに殺害されたが、トクタミシュは父を亡くしたテミュール・クトルクを引き取って面倒をみた。しかし、テミュール・クトルクは父の仇であるトクタミシュを許さず、腹心の部下エディグとともにトクタミシュの宮廷を脱出してティムールのもとに逃れ、トクタミシュに反旗を翻した。このように、トクタミシュとテミュール・クトルクは因縁浅からぬ関係にあった。
(*2)当時は教会大分裂の時代であったが、1399年5月、教皇ボニファティウス9世が、クラクフの司教らの働きかけもあって、東方の異教徒討伐十字軍を勧奨したことがこの遠征の本当の理由と言われている。
(*3)このとき既にサリーナス条約によってリトアニアとドイツ騎士団は軍事同盟を結んでいた(「余談93:クリミア遠征とサリーナス条約」参照)。
(*4)エディグは、先に述べたように、テミュール・クトルクの腹心の部下であったが、有能なエディグが実権を握っていて、テミュール・クトルクはエディグに操られていた。
(*5)ロシアの年代記には以下のような面白い説明があるという。それによると、テミュール・クトルクが「何故に貴殿は我々を攻撃するのか、我々は貴殿の領土を侵したことはないぞ」と対岸のヴィタウタスに問うと、ヴォタウタスは「神が私に全ての土地を征服せよと告げたからだ。貴殿は私の家臣にならねばならぬ」と言い放った。これに応じてテミュール・クトルクはヴィタウタスに臣従したが、ヴィタウタスがキプチャク汗国の貨幣に自分のサインを刻印することを要求したため、テミュール・クトルクは即答を避け、3日間考えさせて欲しいと言った。そのあとエディグが到着してこの話を聞き、激怒し、「我らの汗テミュール・クトルクは貴殿より年長だ。貴殿こそ我が汗に仕えるべきだ」といって戦闘開始に至ったというのだ。
(*6)この戦い方は軽装備で機動力に富むモンゴル軍がよくやる戦法であった。
(*7)ヴィタウタスに従って遠征した50人ほどの諸侯のうち約20人が戦死したという。その中にはポーランド王ヨガイラの異母兄(ヴィタウタスの従兄)のアンドレイとドミートリイもいた(彼らについては「余談79:アルギルダス大公没後の内紛」参照)。また、ヴィタウタスの異母兄ブタウタスが1365年に家臣とともにドイツ騎士団に寝返ったとき以来ドイツ騎士団に仕えていた家臣スルヴィラも、このときドイツ騎士団側の有能な通訳兼外交官として遠征に参加していたが、この戦いで戦死した。そのほかに、リトアニア軍に加わっていたモルドヴァのステファン1世も2人の兄弟とともに戦死した。
(*8)このとき、彼ら兄弟は、2人のドイツ騎士団幹部とマルクァード・フォン・ザルツバッハ(「余談87:同君連合下のリトアニア」の蛇足(6)参照)とともに脱出したという。
(番外)この戦いで勝利したタタール軍は撤退するリトアニア軍を追ってキエフに達し、さらに西進してヴォリニアのルーツクまで侵攻した。しかし、このあと間もなく、テミュール・クトルクはトクタミシュの息子に殺害され、汗位はテミュール・クトルクの弟シャディ・ベグ(在位1399年~1407年)にうけ継がれたが、実権は依然としてエディグが握っていた。一方、逃げたトクタミシュも1406年に西シベリアのチュメニにおいてエディグに殺害された。
(2019年11月 記)
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リトアニア史余談93:クリミア遠征とサリーナス条約/武田 充司

 1398年夏、ヴィタウタス大公は前年に続いて再びドニエプル川下流の草原地帯に遠征した。このとき、ヴィタウタス率いるリトアニアの遠征軍はクリミア北部からさらに東へ進んでドン川下流域まで達した。そして、ドニエプル川の河口付近に城を築き、「聖ヨハネの城」と命名し、多くの捕虜をつれて意気揚々と引き揚げてきた(*1)。

 ドイツ騎士団とリトアニアとの関係は1394年秋のドイツ騎士団によるヴィルニュス包囲が失敗に終ってからも険悪で、いくつかの小競り合いが断続的に続いていた。しかし、当時、両陣営とも、それぞれ対処しなければならない問題を抱えていたから、内心では互いに休戦を望んでいた(*2)。
 そこで、1398年の春、ついにドイツ騎士団とリトアニアは、ガルディナス(*3)において休戦交渉のテーブルについた。その結果、先ず仮条約が結ばれ、6ヶ月間の休戦が合意された。そして、早急に平和条約を締結することになった。そこで、ヴィタウタスは平和条約の締結を待たずに、早速、キプチャク汗国の支配するキエフ南方の草原地帯に遠征したのだった。このとき既にドイツ騎士団とリトアニアは実質的な同盟関係にあったらしく、遠征軍がドニエプル川の河口付近に「聖ヨハネの城」を築いたのも、この遠征軍の中にドイツ騎士団の工兵隊が含まれていたからだと言われている(*4)。

 6ヶ月間の休戦期間が終ろうとする1398年9月、サリーナスとよばれていたニェムナス川の川中島で、リトアニアはドイツ騎士団と平和条約を締結した(*5)。リトアニア側からはヴィタウタス大公夫妻を筆頭にリトアニアの主だった貴族たちが出席し、幾人かのポーランドの貴族たちも列席していた。

 この条約によってネヴェジス川以西のジェマイチヤとシェシュペ川以西のスードゥヴィア地方の一部がドイツ騎士団領となり、長い間争われていた国境が画定された(*6)。そして、ドイツ騎士団とリトアニアの軍事同盟が成立し、1390年以来人質として最後までドイツ騎士団側にとどまっていたヴィタウタスの弟ジギマンタスと他のすべての人質が解放されてもどってきた。
 この条約は調印された場所の名をとって「サリーナス条約」とよばれているが、これはリトアニアにとって領土的譲歩と引き換えに安定した和平を手にしたものだった(*7)。一方、ドイツ騎士団総長コンラート・フォン・ユンギンゲンはこの結果に大いに満足したが、彼もまたリトアニアとの友好関係を確かなものにしようと努めていたのだ(*8)。しかし、この条約がポーランド王ヨガイラに断りなく締結されたことを両者とも気にかけていた。ところが、事後説明をうけたヨガイラはこの条約を認め、ヴィタウタスを支持した(*9)。

〔蛇足〕
(*1)この当時、キプチャク汗国はティムール朝の始祖ティムール(Timur / Tamerlane)の侵攻によって弱体化し、ティムールの傀儡政権に統治されるという混乱状態にあった。その結果、キエフ南方の草原地帯やクリミアは無防備状態に近かった。したがって、ヴィタウタスの遠征もこうした機会をとらえたものであった。なお、「トラカイのカライム人」はこのときヴィタウタスによって連れて来られた人たちであるという(「余談76:トラカイのカライム人」参照)。
(*2)ヴィタウタスはリトアニア大公として内政の刷新や、それまでリトアニアが支配していた東方のルーシ諸侯の地に対する権益の確保などで忙しかったが、ドイツ騎士団もリヴォニアのドルパット(Dorpat:現在のエストニアのタルトゥ)における不穏な動きに対処するためにリヴォニア騎士団の強化を迫られ、また、バルト海の海賊ヴィクチュアル・ブラザーズの討伐をスウェーデンのマルグレーテから頼まれたりしていて忙しかった。
(*3)ガルディナス(Gardinas)は現在のベラルーシの都市フロドナ。
(*4)「聖ヨハネの城」はニェムナス川沿いにドイツ騎士団が築いた城に酷似していたから、これはドイツ騎士団の工兵隊が築いたものと推測されている。ドイツ騎士団との軍事同盟はこのあと締結される「サリーナス条約」で明記される。
(*5)サリーナス(Salynas)は、ネヴェジス(Nevėžis)川がニェムナス川に注ぐ河口地点(カウナスの西郊外)と、そこから少し下流にある町クラウトゥヴァ(Kulautuva)との間にあったと推定されるが、はっきりしない。なお、“salynas”というリトアニア語は英語の“archipelago”(群島)に対応する語である。
(*6)しかし、ネヴェジス川の河口地帯はリトアニアが確保した。シェシュペ川は、現在のリトアニア南西部の都市マリヤンポレ(Marijampolė)を通って、現在のロシア領の飛び地カリーニングラード州との国境の町クディルコス・ナウミエスティス(Kudirkos Naumiestis)を経て、ニェムナス川の下流に注ぐ川である。
(*7)リトアニアは国境線の画定と軍事同盟によってドイツ騎士団の脅威を取り除くことに成功したが、その代償として失った領土の問題は大きな痛手であったから、この条約はドイツ騎士団の外交的勝利といえよう。こうした時に、ミンダウガス王の昔から常に取引材料としてジェマイチヤが犠牲になっていることは興味深い現象だ。しかし、この条約が結ばれたことによって、ヴィタウタスは東方への権益拡大や国内の改革に専念できることから、ある程度は満足していたようだ。また、この条約が調印されたとき、リトアニアの貴族たちは大いに喜び、幾日もの間、祝賀の宴を張って祝ったという。こうした行動は、リトアニアの人々がヨガイラのポーランドに従属することを嫌い、実質的な独立国として振舞うことに拘った強い自尊心の表れであろう。
(*8)ドイツ騎士団総長コンラート・フォン・ユンギンゲンはこの条約に大いに満足していたが、ヴィタウタスとの友好関係維持にはそれなりの気配りをしていたようだ。実際、この頃、彼は2人の建築技師をヴィルニュスに派遣して聖アンア教会を当時の最新のゴシック様式で再建させたという。現在、観光客にも人気のある旧市街のマイロニオ通り(Maironio gatvė)の聖アンナ教会はこの教会のあとにつくられたものだ。また、1400年にヴィタウタスの后アンナ(Anna)がプロシャのマリエンヴェルダーにある「モンタウのドロテア」(Dorothea of Montau)の墓にお参りしたとき、彼はアンナを大歓迎し、沢山のお土産を持たせて帰したという。
(*9)ポーランド王ヨガイラに知らせずにこの条約を結んだことがリトアニア貴族たちの自尊心と独立心を鼓舞していたが、ヨガイラの反対を心配していたドイツ騎士団側は、ヴィタウタウに対して、ヨガイラから「この条約を認め、異を唱えない」という確約を取り付けることを求めていた。
(2019年10月 記)