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リトアニア史余談:閉店のご挨拶/武田 充司

   今春、このブログを長年管理されてきた高橋さんが、もう90歳になったのだから引退しますと宣言されたので、僕も今年8月には90歳になりましたから、高橋さんの宣言に便乗して、「リトアニア史余談」も切りのよいところで終りとし、店じまいすることにしました。

   この4月に余談の最終回〈第122話〉を投稿したときに、閉店のご挨拶を書くべきでしたが、つい横着をしてしまいました。大変遅くなりましたが、改めて閉店のご挨拶をします。

   長い間、素人の下手な歴史談義を読んで下さった方には(そのような方はめったにいないと確信していますが!)、もしいらっしゃいましたら、心より感謝し、御礼申し上げます。

   ついでに、と言ってはなんですが、僕も、もうとっくにレフリーの笛がなってもおかしくない年齢ですから、元気なうちに、前もって、人生の閉店廃業のご挨拶もしておきたいと思います。
   有難うございました。皆さんのご厚情は忘れずにあの世まで持ってゆきます。では、さようなら・・・Viso gero!・・・そのうちに、あちらで、Iki pasimatymo!

(2022年9月 記)
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リトアニア史余談122(最終回):無冠の王ヴィタウタスの死 / 武田 充司

 ヴィタウタスの戴冠式は1430年の聖母マリア生誕祭の日(9月8日)にトラカイの城で行われることになり、その準備が進められた。ニュルンベルク(*1)では金細工師によってヴィタウタスと后ユリアナの王冠が作られた。そして、戴冠式への招待状が各地の王侯貴族たちに発送されたが(*2)、招待状が届く前にトラカイに向かって出立した人もいた。
 しかし、ヴィタウタスの戴冠を阻止したいポーランドの貴族たちはイェドルニャ(*3)に集まって策を練り、皇帝の使節団が通過するポーランドの街道を封鎖することにした。その結果、皇帝の第1の使節団はオーデル河畔に到着したところで捕えられ、第2のグループもプロシャとの国境で足止めされた。そして、彼らが運んでいた夥しい宝石類とともに、王冠と戴冠式の式次第を記した文書一式がポーランドの貴族たちによって没収された。

 首都ヴィルニュスには既に多数の来賓が集まってきていたが、戴冠式に必要なものがいつまで待っても届かないので、とりあえず、戴冠式を聖ミカエル祭の日(9月29日)に延期することにした。そして、ヴィタウタスは戴冠式に必要なもの一式を早く届けるよう皇帝に催促したのだが、ヴルニュス駐在の神聖ローマ帝国大使は、それなら王冠をリトアニアで製作してしまえばよいと呑気な提案をしてきた。しかし、そんなお手盛りの戴冠式などできないと、ヴィタウタスは皇帝から贈られる王冠に拘っていた。
 ところが、この混乱を煽るかのように、教皇マルティヌス5世は、聖職者に対して、ヴィタウタスの戴冠式を執り行うことを禁じる、という布告を出した。そればかりか、教皇はリトアニアやドイツ騎士団の人々に対して、ヴィタウタスの戴冠式への出席を禁じた(*4)。

 一方、ポーランドの貴族たちの暴挙に驚いたポーランド王ヨガイラは、急遽、ヴィタウタスのもとにやって来て、改めて、ヴィタウタスの戴冠を支持すると伝え、皇帝の使節がポーランド領内を通過するときの安全を保障した。また、皇帝ジギスムントもポーランド貴族たちの暴挙に激怒し、軍を派遣して彼らから王冠などを返還させたという。

 こうして、改めて戴冠式の準備が再開され、10月15日には皇帝の使節団がオーデル河畔のシュチェチン(*5)に到着したが、その翌日、ヴィタウタスは病に倒れ、10月27日、トラカイで亡くなった。一説によると、ヴィタウタスは客人とともにヴィリュニュスからトラカイに向かっているときに落馬し、騎乗できなくなって后の馬車でトラカイに運ばれ、しばらく床に伏したのち、息をひきとったと言われているが、このとき、80歳前後であったヴィタウタスは、戴冠式に集まった来賓の接待に疲れていたのであろう(*6)。歴史にイフ(if)はないというが、このときヴィタウタスが戴冠していたならば、その後のリトアニアとポーランドの歴史は変っていたかも知れない。

〔蛇足〕
(*1)中世のニュルンベルクは武具鍛冶屋や金属手工業などで栄えた都市で、神聖ローマ帝国の首都ともいわれ、多くの皇帝が好んでここに住んだ。また、皇帝カール4世が1356年に発した金印勅書によって、皇帝は即位後の第1回帝国議会をここで開くことになっていた。さらに、1423年に皇帝ジギスムントが神聖ローマ皇帝の正当性の証とされる宝物をここに委譲したことから、帝国都市としてのニュルンベルクの地位はいっそう高まった。こうしたことからも分かるように、ニュルンベルクはヴィタウタスの王冠の製作場所にふさわしい場所であった。
(*2)招待状の多くはドイツ騎士団の要人に発送されたというから、当時のリトアニアとドイツ騎士団の良好な関係が想像されるが、ポーランドにとっては不愉快なことであったと思われる。
(*3)イェドルニャ(Jedlnia)はラドム(Radom)の北東約15kmに位置する村である。また、ラドムはワルシャワの南方約90kmに位置している。なお、この年(1430年)の3月、イェドルニャにおいて、ヨガイラはポーランド貴族たちに諸特権を認める「イェドルニャの特権」に合意しているが、これは、当時、未だ世継ぎに恵まれなかったヨガイラが、その弱みにつけ込まれて、貴族たちに多くの特権を認めたものである。こうしたことからも、当時のヨガイラがポーランドの貴族たちの意向を無視してヴィタウタスの戴冠を支持することができなかったのだ。「余談121:こじれる戴冠問題」で述べたように、ヨガイラは彼らの反発に屈して戴冠支持を撤回したのだ。
(*4)教皇マルティヌス5世の反対については「余談121:こじれる戴冠問題」参照。
(*5)シュチェチン(Szczecin)はオーデル川下流左岸(西岸)の都市で、現在はポーランド領である。
(*6)戴冠式に招かれた客の中には、ヴィタウタスの孫のモスクワ大公ヴァシーリイ2世(ヴィタウタスの娘ソフィアとヴァシーリイ1世の間に生れた子)や、リトアニアの影響下にあったトヴェーリやリャザニの公など、ルーシの正教圏の君主もいた。また、成吉思汗の孫バトゥによって13世紀半ばにカスピ海の北側に建国されたキプチャク汗国(ジョチ・ウルス)の汗ウルク・ムハンマド(第2期在位1427年~1433年)の使節も来ていた。ウルク・ムハンマドは政敵のバラクに汗位を奪われ、一時、リトアニアに亡命していたが、ヴィタウタスの支援で1427年に復位した人物で、この人の父はヤラル・アル・ディン(在位1411年~1412年)であると言われている。そして、ヤラル・アル・ディンも一時リトアニアに亡命していて、1410年の「ジャルギリスの戦い」ではヴィタウタスの配下で活躍し、その翌年にヴィタウタスの支援でキプチャク汗国の汗になっている。このように、ヴィタウタスの威光は遠く東方世界にも及んでいたことから、彼の戴冠式がカトリック世界の行事であるにもかかわらず、正教徒やムスリムの賓客もヴィルニュスに集まってきていた。おそらくヴィタウタスは、その人柄からも、こうした客人をもてなすことを楽しんでいたのだろうが、ポーランド貴族の妨害によって戴冠式の予定が乱されたことが大きな痛手となり、疲労が蓄積したのであろう。彼の落馬事故の話が本当だとすれば、それは、こうした心労と宴会疲れが重なった結果であろう。
(番外)以前はドイツ騎士団を支援してヴィタウタスを苦しめていた皇帝ジギスムントが、この戴冠問題では一貫してヴィタウタスを支援したのは何故か。直接的には、ヴィタウタスがドイツ騎士団と和解したことであろうが、ボヘミアのフス派の問題も見逃せない。ヴィタウタスは宗教的情熱からフス派を支援していたのではなく、ドイツ騎士団とその背後にいるハンガリー王でありボヘミア王でもある皇帝ジギスムントを牽制するためにフス派を利用していたようだから、皇帝とドイツ騎士団がリトアニアに友好的になればフス派支援を止めることも吝かではなかったはずだ。また、一般論として、この当時のヴィタウタスの軍事力と東方世界への影響力に対して、西欧世界が一目置いていたことも無視できないだろう。
(2022年3月 記)
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リトアニア史余談122(最終回):無冠の王ヴィタウタスの死 / 武田 充司

 ヴィタウタスの戴冠式は1430年の聖母マリア生誕祭の日(9月8日)にトラカイの城で行われることになり、その準備が進められた。ニュルンベルク(*1)では金細工師によってヴィタウタスと后ユリアナの王冠が作られた。そして、戴冠式への招待状が各地の王侯貴族たちに発送されたが(*2)、招待状が届く前にトラカイに向かって出立した人もいた。
 しかし、ヴィタウタスの戴冠を阻止したいポーランドの貴族たちはイェドルニャ(*3)に集まって策を練り、皇帝の使節団が通過するポーランドの街道を封鎖することにした。その結果、皇帝の第1の使節団はオーデル河畔に到着したところで捕えられ、第2のグループもプロシャとの国境で足止めされた。そして、彼らが運んでいた夥しい宝石類とともに、王冠と戴冠式の式次第を記した文書一式がポーランドの貴族たちによって没収された。

 首都ヴィルニュスには既に多数の来賓が集まってきていたが、戴冠式に必要なものがいつまで待っても届かないので、とりあえず、戴冠式を聖ミカエル祭の日(9月29日)に延期することにした。そして、ヴィタウタスは戴冠式に必要なもの一式を早く届けるよう皇帝に催促したのだが、ヴルニュス駐在の神聖ローマ帝国大使は、それなら王冠をリトアニアで製作してしまえばよいと呑気な提案をしてきた。しかし、そんなお手盛りの戴冠式などできないと、ヴィタウタスは皇帝から贈られる王冠に拘っていた。
 ところが、この混乱を煽るかのように、教皇マルティヌス5世は、聖職者に対して、ヴィタウタスの戴冠式を執り行うことを禁じる、という布告を出した。そればかりか、教皇はリトアニアやドイツ騎士団の人々に対して、ヴィタウタスの戴冠式への出席を禁じた(*4)。

 一方、ポーランドの貴族たちの暴挙に驚いたポーランド王ヨガイラは、急遽、ヴィタウタスのもとにやって来て、改めて、ヴィタウタスの戴冠を支持すると伝え、皇帝の使節がポーランド領内を通過するときの安全を保障した。また、皇帝ジギスムントもポーランド貴族たちの暴挙に激怒し、軍を派遣して彼らから王冠などを返還させたという。

 こうして、改めて戴冠式の準備が再開され、10月15日には皇帝の使節団がオーデル河畔のシュチェチン(*5)に到着したが、その翌日、ヴィタウタスは病に倒れ、10月27日、トラカイで亡くなった。一説によると、ヴィタウタスは客人とともにヴィリュニュスからトラカイに向かっているときに落馬し、騎乗できなくなって后の馬車でトラカイに運ばれ、しばらく床に伏したのち、息をひきとったと言われているが、このとき、80歳前後であったヴィタウタスは、戴冠式に集まった来賓の接待に疲れていたのであろう(*6)。歴史にイフ(if)はないというが、このときヴィタウタスが戴冠していたならば、その後のリトアニアとポーランドの歴史は変っていたかも知れない。

〔蛇足〕
(*1)中世のニュルンベルクは武具鍛冶屋や金属手工業などで栄えた都市で、神聖ローマ帝国の首都ともいわれ、多くの皇帝が好んでここに住んだ。また、皇帝カール4世が1356年に発した金印勅書によって、皇帝は即位後の第1回帝国議会をここで開くことになっていた。さらに、1423年に皇帝ジギスムントが神聖ローマ皇帝の正当性の証とされる宝物をここに委譲したことから、帝国都市としてのニュルンベルクの地位はいっそう高まった。こうしたことからも分かるように、ニュルンベルクはヴィタウタスの王冠の製作場所にふさわしい場所であった。
(*2)招待状の多くはドイツ騎士団の要人に発送されたというから、当時のリトアニアとドイツ騎士団の良好な関係が想像されるが、ポーランドにとっては不愉快なことであったと思われる。
(*3)イェドルニャ(Jedlnia)はラドム(Radom)の北東約15kmに位置する村である。また、ラドムはワルシャワの南方約90kmに位置している。なお、この年(1430年)の3月、イェドルニャにおいて、ヨガイラはポーランド貴族たちに諸特権を認める「イェドルニャの特権」に合意しているが、これは、当時、未だ世継ぎに恵まれなかったヨガイラが、その弱みにつけ込まれて、貴族たちに多くの特権を認めたものである。こうしたことからも、当時のヨガイラがポーランドの貴族たちの意向を無視してヴィタウタスの戴冠を支持することができなかったのだ。「余談121:こじれる戴冠問題」で述べたように、ヨガイラは彼らの反発に屈して戴冠支持を撤回したのだ。
(*4)教皇マルティヌス5世の反対については「余談121:こじれる戴冠問題」参照。
(*5)シュチェチン(Szczecin)はオーデル川下流左岸(西岸)の都市で、現在はポーランド領である。
(*6)戴冠式に招かれた客の中には、ヴィタウタスの孫のモスクワ大公ヴァシーリイ2世(ヴィタウタスの娘ソフィアとヴァシーリイ1世の間に生れた子)や、リトアニアの影響下にあったトヴェーリやリャザニの公など、ルーシの正教圏の君主もいた。また、成吉思汗の孫バトゥによって13世紀半ばにカスピ海の北側に建国されたキプチャク汗国(ジョチ・ウルス)の汗ウルク・ムハンマド(第2期在位1427年~1433年)の使節も来ていた。ウルク・ムハンマドは政敵のバラクに汗位を奪われ、一時、リトアニアに亡命していたが、ヴィタウタスの支援で1427年に復位した人物で、この人の父はヤラル・アル・ディン(在位1411年~1412年)であると言われている。そして、ヤラル・アル・ディンも一時リトアニアに亡命していて、1410年の「ジャルギリスの戦い」ではヴィタウタスの配下で活躍し、その翌年にヴィタウタスの支援でキプチャク汗国の汗になっている。このように、ヴィタウタスの威光は遠く東方世界にも及んでいたことから、彼の戴冠式がカトリック世界の行事であるにもかかわらず、正教徒やムスリムの賓客もヴィルニュスに集まってきていた。おそらくヴィタウタスは、その人柄からも、こうした客人をもてなすことを楽しんでいたのだろうが、ポーランド貴族の妨害によって戴冠式の予定が乱されたことが大きな痛手となり、疲労が蓄積したのであろう。彼の落馬事故の話が本当だとすれば、それは、こうした心労と宴会疲れが重なった結果であろう。
(番外)以前はドイツ騎士団を支援してヴィタウタスを苦しめていた皇帝ジギスムントが、この戴冠問題では一貫してヴィタウタスを支援したのは何故か。直接的には、ヴィタウタスがドイツ騎士団と和解したことであろうが、ボヘミアのフス派の問題も見逃せない。ヴィタウタスは宗教的情熱からフス派を支援していたのではなく、ドイツ騎士団とその背後にいるハンガリー王でありボヘミア王でもある皇帝ジギスムントを牽制するためにフス派を利用していたようだから、皇帝とドイツ騎士団がリトアニアに友好的になればフス派支援を止めることも吝かではなかったはずだ。また、一般論として、この当時のヴィタウタスの軍事力と東方世界への影響力に対して、西欧世界が一目置いていたことも無視できないだろう。
(2022年3月 記)
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リトアニア史余談122(最終回):無冠の王ヴィタウタスの死/武田 充司

 ヴィタウタスの戴冠式は1430年の聖母マリア生誕祭の日(9月8日)にトラカイの城で行われることになり、その準備が進められた。ニュルンベルク(*1)では金細工師によってヴィタウタスと后ユリアナの王冠が作られた。そして、戴冠式への招待状が各地の王侯貴族たちに発送されたが(*2)、招待状が届く前にトラカイに向かって出立した人もいた。
 しかし、ヴィタウタスの戴冠を阻止したいポーランドの貴族たちはイェドルニャ(*3)に集まって策を練り、皇帝の使節団が通過するポーランドの街道を封鎖することにした。その結果、皇帝の第1の使節団はオーデル河畔に到着したところで捕えられ、第2のグループもプロシャとの国境で足止めされた。そして、彼らが運んでいた夥しい宝石類とともに、王冠と戴冠式の式次第を記した文書一式がポーランドの貴族たちによって没収された。

 首都ヴィルニュスには既に多数の来賓が集まってきていたが、戴冠式に必要なものがいつまで待っても届かないので、とりあえず、戴冠式を聖ミカエル祭の日(9月29日)に延期することにした。そして、ヴィタウタスは戴冠式に必要なもの一式を早く届けるよう皇帝に催促したのだが、ヴルニュス駐在の神聖ローマ帝国大使は、それなら王冠をリトアニアで製作してしまえばよいと呑気な提案をしてきた。しかし、そんなお手盛りの戴冠式などできないと、ヴィタウタスは皇帝から贈られる王冠に拘っていた。
 ところが、この混乱を煽るかのように、教皇マルティヌス5世は、聖職者に対して、ヴィタウタスの戴冠式を執り行うことを禁じる、という布告を出した。そればかりか、教皇はリトアニアやドイツ騎士団の人々に対して、ヴィタウタスの戴冠式への出席を禁じた(*4)。

 一方、ポーランドの貴族たちの暴挙に驚いたポーランド王ヨガイラは、急遽、ヴィタウタスのもとにやって来て、改めて、ヴィタウタスの戴冠を支持すると伝え、皇帝の使節がポーランド領内を通過するときの安全を保障した。また、皇帝ジギスムントもポーランド貴族たちの暴挙に激怒し、軍を派遣して彼らから王冠などを返還させたという。

 こうして、改めて戴冠式の準備が再開され、10月15日には皇帝の使節団がオーデル河畔のシュチェチン(*5)に到着したが、その翌日、ヴィタウタスは病に倒れ、10月27日、トラカイで亡くなった。一説によると、ヴィタウタスは客人とともにヴィリュニュスからトラカイに向かっているときに落馬し、騎乗できなくなって后の馬車でトラカイに運ばれ、しばらく床に伏したのち、息をひきとったと言われているが、このとき、80歳前後であったヴィタウタスは、戴冠式に集まった来賓の接待に疲れていたのであろう(*6)。歴史にイフ(if)はないというが、このときヴィタウタスが戴冠していたならば、その後のリトアニアとポーランドの歴史は変っていたかも知れない。

〔蛇足〕
(*1)中世のニュルンベルクは武具鍛冶屋や金属手工業などで栄えた都市で、神聖ローマ帝国の首都ともいわれ、多くの皇帝が好んでここに住んだ。また、皇帝カール4世が1356年に発した金印勅書によって、皇帝は即位後の第1回帝国議会をここで開くことになっていた。さらに、1423年に皇帝ジギスムントが神聖ローマ皇帝の正当性の証とされる宝物をここに委譲したことから、帝国都市としてのニュルンベルクの地位はいっそう高まった。こうしたことからも分かるように、ニュルンベルクはヴィタウタスの王冠の製作場所にふさわしい場所であった。
(*2)招待状の多くはドイツ騎士団の要人に発送されたというから、当時のリトアニアとドイツ騎士団の良好な関係が想像されるが、ポーランドにとっては不愉快なことであったと思われる。
(*3)イェドルニャ(Jedlnia)はラドム(Radom)の北東約15kmに位置する村である。また、ラドムはワルシャワの南方約90kmに位置している。なお、この年(1430年)の3月、イェドルニャにおいて、ヨガイラはポーランド貴族たちに諸特権を認める「イェドルニャの特権」に合意しているが、これは、当時、未だ世継ぎに恵まれなかったヨガイラが、その弱みにつけ込まれて、貴族たちに多くの特権を認めたものである。こうしたことからも、当時のヨガイラがポーランドの貴族たちの意向を無視してヴィタウタスの戴冠を支持することができなかったのだ。「余談121:こじれる戴冠問題」で述べたように、ヨガイラは彼らの反発に屈して戴冠支持を撤回したのだ。
(*4)教皇マルティヌス5世の反対については「余談121:こじれる戴冠問題」参照。
(*5)シュチェチン(Szczecin)はオーデル川下流左岸(西岸)の都市で、現在はポーランド領である。
(*6)戴冠式に招かれた客の中には、ヴィタウタスの孫のモスクワ大公ヴァシーリイ2世(ヴィタウタスの娘ソフィアとヴァシーリイ1世の間に生れた子)や、リトアニアの影響下にあったトヴェーリやリャザニの公など、ルーシの正教圏の君主もいた。また、成吉思汗の孫バトゥによって13世紀半ばにカスピ海の北側に建国されたキプチャク汗国(ジョチ・ウルス)の汗ウルク・ムハンマド(第2期在位1427年~1433年)の使節も来ていた。ウルク・ムハンマドは政敵のバラクに汗位を奪われ、一時、リトアニアに亡命していたが、ヴィタウタスの支援で1427年に復位した人物で、この人の父はヤラル・アル・ディン(在位1411年~1412年)であると言われている。そして、ヤラル・アル・ディンも一時リトアニアに亡命していて、1410年の「ジャルギリスの戦い」ではヴィタウタスの配下で活躍し、その翌年にヴィタウタスの支援でキプチャク汗国の汗になっている。このように、ヴィタウタスの威光は遠く東方世界にも及んでいたことから、彼の戴冠式がカトリック世界の行事であるにもかかわらず、正教徒やムスリムの賓客もヴィルニュスに集まってきていた。おそらくヴィタウタスは、その人柄からも、こうした客人をもてなすことを楽しんでいたのだろうが、ポーランド貴族の妨害によって戴冠式の予定が乱されたことが大きな痛手となり、疲労が蓄積したのであろう。彼の落馬事故の話が本当だとすれば、それは、こうした心労と宴会疲れが重なった結果であろう。
(番外)以前はドイツ騎士団を支援してヴィタウタスを苦しめていた皇帝ジギスムントが、この戴冠問題では一貫してヴィタウタスを支援したのは何故か。直接的には、ヴィタウタスがドイツ騎士団と和解したことであろうが、ボヘミアのフス派の問題も見逃せない。ヴィタウタスは宗教的情熱からフス派を支援していたのではなく、ドイツ騎士団とその背後にいるハンガリー王でありボヘミア王でもある皇帝ジギスムントを牽制するためにフス派を利用していたようだから、皇帝とドイツ騎士団がリトアニアに友好的になればフス派支援を止めることも吝かではなかったはずだ。また、一般論として、この当時のヴィタウタスの軍事力と東方世界への影響力に対して、西欧世界が一目置いていたことも無視できないだろう。
(2022年3月 記)
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リトアニア史余談122(最終回):無冠の王ヴィタウタスの死/武田 充司

 ヴィタウタスの戴冠式は1430年の聖母マリア生誕祭の日(9月8日)にトラカイの城で行われることになり、その準備が進められた。ニュルンベルク(*1)では金細工師によってヴィタウタスと后ユリアナの王冠が作られた。そして、戴冠式への招待状が各地の王侯貴族たちに発送されたが(*2)、招待状が届く前にトラカイに向かって出立した人もいた。
 しかし、ヴィタウタスの戴冠を阻止したいポーランドの貴族たちはイェドルニャ(*3)に集まって策を練り、皇帝の使節団が通過するポーランドの街道を封鎖することにした。その結果、皇帝の第1の使節団はオーデル河畔に到着したところで捕えられ、第2のグループもプロシャとの国境で足止めされた。そして、彼らが運んでいた夥しい宝石類とともに、王冠と戴冠式の式次第を記した文書一式がポーランドの貴族たちによって没収された。

 首都ヴィルニュスには既に多数の来賓が集まってきていたが、戴冠式に必要なものがいつまで待っても届かないので、とりあえず、戴冠式を聖ミカエル祭の日(9月29日)に延期することにした。そして、ヴィタウタスは戴冠式に必要なもの一式を早く届けるよう皇帝に催促したのだが、ヴルニュス駐在の神聖ローマ帝国大使は、それなら王冠をリトアニアで製作してしまえばよいと呑気な提案をしてきた。しかし、そんなお手盛りの戴冠式などできないと、ヴィタウタスは皇帝から贈られる王冠に拘っていた。
 ところが、この混乱を煽るかのように、教皇マルティヌス5世は、聖職者に対して、ヴィタウタスの戴冠式を執り行うことを禁じる、という布告を出した。そればかりか、教皇はリトアニアやドイツ騎士団の人々に対して、ヴィタウタスの戴冠式への出席を禁じた(*4)。

 一方、ポーランドの貴族たちの暴挙に驚いたポーランド王ヨガイラは、急遽、ヴィタウタスのもとにやって来て、改めて、ヴィタウタスの戴冠を支持すると伝え、皇帝の使節がポーランド領内を通過するときの安全を保障した。また、皇帝ジギスムントもポーランド貴族たちの暴挙に激怒し、軍を派遣して彼らから王冠などを返還させたという。

 こうして、改めて戴冠式の準備が再開され、10月15日には皇帝の使節団がオーデル河畔のシュチェチン(*5)に到着したが、その翌日、ヴィタウタスは病に倒れ、10月27日、トラカイで亡くなった。一説によると、ヴィタウタスは客人とともにヴィリュニュスからトラカイに向かっているときに落馬し、騎乗できなくなって后の馬車でトラカイに運ばれ、しばらく床に伏したのち、息をひきとったと言われているが、このとき、80歳前後であったヴィタウタスは、戴冠式に集まった来賓の接待に疲れていたのであろう(*6)。歴史にイフ(if)はないというが、このときヴィタウタスが戴冠していたならば、その後のリトアニアとポーランドの歴史は変っていたかも知れない。

〔蛇足〕
(*1)中世のニュルンベルクは武具鍛冶屋や金属手工業などで栄えた都市で、神聖ローマ帝国の首都ともいわれ、多くの皇帝が好んでここに住んだ。また、皇帝カール4世が1356年に発した金印勅書によって、皇帝は即位後の第1回帝国議会をここで開くことになっていた。さらに、1423年に皇帝ジギスムントが神聖ローマ皇帝の正当性の証とされる宝物をここに委譲したことから、帝国都市としてのニュルンベルクの地位はいっそう高まった。こうしたことからも分かるように、ニュルンベルクはヴィタウタスの王冠の製作場所にふさわしい場所であった。
(*2)招待状の多くはドイツ騎士団の要人に発送されたというから、当時のリトアニアとドイツ騎士団の良好な関係が想像されるが、ポーランドにとっては不愉快なことであったと思われる。
(*3)イェドルニャ(Jedlnia)はラドム(Radom)の北東約15kmに位置する村である。また、ラドムはワルシャワの南方約90kmに位置している。なお、この年(1430年)の3月、イェドルニャにおいて、ヨガイラはポーランド貴族たちに諸特権を認める「イェドルニャの特権」に合意しているが、これは、当時、未だ世継ぎに恵まれなかったヨガイラが、その弱みにつけ込まれて、貴族たちに多くの特権を認めたものである。こうしたことからも、当時のヨガイラがポーランドの貴族たちの意向を無視してヴィタウタスの戴冠を支持することができなかったのだ。「余談121:こじれる戴冠問題」で述べたように、ヨガイラは彼らの反発に屈して戴冠支持を撤回したのだ。
(*4)教皇マルティヌス5世の反対については「余談121:こじれる戴冠問題」参照。
(*5)シュチェチン(Szczecin)はオーデル川下流左岸(西岸)の都市で、現在はポーランド領である。
(*6)戴冠式に招かれた客の中には、ヴィタウタスの孫のモスクワ大公ヴァシーリイ2世(ヴィタウタスの娘ソフィアとヴァシーリイ1世の間に生れた子)や、リトアニアの影響下にあったトヴェーリやリャザニの公など、ルーシの正教圏の君主もいた。また、成吉思汗の孫バトゥによって13世紀半ばにカスピ海の北側に建国されたキプチャク汗国(ジョチ・ウルス)の汗ウルク・ムハンマド(第2期在位1427年~1433年)の使節も来ていた。ウルク・ムハンマドは政敵のバラクに汗位を奪われ、一時、リトアニアに亡命していたが、ヴィタウタスの支援で1427年に復位した人物で、この人の父はヤラル・アル・ディン(在位1411年~1412年)であると言われている。そして、ヤラル・アル・ディンも一時リトアニアに亡命していて、1410年の「ジャルギリスの戦い」ではヴィタウタスの配下で活躍し、その翌年にヴィタウタスの支援でキプチャク汗国の汗になっている。このように、ヴィタウタスの威光は遠く東方世界にも及んでいたことから、彼の戴冠式がカトリック世界の行事であるにもかかわらず、正教徒やムスリムの賓客もヴィルニュスに集まってきていた。おそらくヴィタウタスは、その人柄からも、こうした客人をもてなすことを楽しんでいたのだろうが、ポーランド貴族の妨害によって戴冠式の予定が乱されたことが大きな痛手となり、疲労が蓄積したのであろう。彼の落馬事故の話が本当だとすれば、それは、こうした心労と宴会疲れが重なった結果であろう。
(番外)以前はドイツ騎士団を支援してヴィタウタスを苦しめていた皇帝ジギスムントが、この戴冠問題では一貫してヴィタウタスを支援したのは何故か。直接的には、ヴィタウタスがドイツ騎士団と和解したことであろうが、ボヘミアのフス派の問題も見逃せない。ヴィタウタスは宗教的情熱からフス派を支援していたのではなく、ドイツ騎士団とその背後にいるハンガリー王でありボヘミア王でもある皇帝ジギスムントを牽制するためにフス派を利用していたようだから、皇帝とドイツ騎士団がリトアニアに友好的になればフス派支援を止めることも吝かではなかったはずだ。また、一般論として、この当時のヴィタウタスの軍事力と東方世界への影響力に対して、西欧世界が一目置いていたことも無視できないだろう。
(2022年3月 記)
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リトアニア史余談122(最終回):無冠の王ヴィタウタスの死/武田 充司

 ヴィタウタスの戴冠式は1430年の聖母マリア生誕祭の日(9月8日)にトラカイの城で行われることになり、その準備が進められた。ニュルンベルク(*1)では金細工師によってヴィタウタスと后ユリアナの王冠が作られた。そして、戴冠式への招待状が各地の王侯貴族たちに発送されたが(*2)、招待状が届く前にトラカイに向かって出立した人もいた。
 しかし、ヴィタウタスの戴冠を阻止したいポーランドの貴族たちはイェドルニャ(*3)に集まって策を練り、皇帝の使節団が通過するポーランドの街道を封鎖することにした。その結果、皇帝の第1の使節団はオーデル河畔に到着したところで捕えられ、第2のグループもプロシャとの国境で足止めされた。そして、彼らが運んでいた夥しい宝石類とともに、王冠と戴冠式の式次第を記した文書一式がポーランドの貴族たちによって没収された。

 首都ヴィルニュスには既に多数の来賓が集まってきていたが、戴冠式に必要なものがいつまで待っても届かないので、とりあえず、戴冠式を聖ミカエル祭の日(9月29日)に延期することにした。そして、ヴィタウタスは戴冠式に必要なもの一式を早く届けるよう皇帝に催促したのだが、ヴルニュス駐在の神聖ローマ帝国大使は、それなら王冠をリトアニアで製作してしまえばよいと呑気な提案をしてきた。しかし、そんなお手盛りの戴冠式などできないと、ヴィタウタスは皇帝から贈られる王冠に拘っていた。
 ところが、この混乱を煽るかのように、教皇マルティヌス5世は、聖職者に対して、ヴィタウタスの戴冠式を執り行うことを禁じる、という布告を出した。そればかりか、教皇はリトアニアやドイツ騎士団の人々に対して、ヴィタウタスの戴冠式への出席を禁じた(*4)。

 一方、ポーランドの貴族たちの暴挙に驚いたポーランド王ヨガイラは、急遽、ヴィタウタスのもとにやって来て、改めて、ヴィタウタスの戴冠を支持すると伝え、皇帝の使節がポーランド領内を通過するときの安全を保障した。また、皇帝ジギスムントもポーランド貴族たちの暴挙に激怒し、軍を派遣して彼らから王冠などを返還させたという。

 こうして、改めて戴冠式の準備が再開され、10月15日には皇帝の使節団がオーデル河畔のシュチェチン(*5)に到着したが、その翌日、ヴィタウタスは病に倒れ、10月27日、トラカイで亡くなった。一説によると、ヴィタウタスは客人とともにヴィリュニュスからトラカイに向かっているときに落馬し、騎乗できなくなって后の馬車でトラカイに運ばれ、しばらく床に伏したのち、息をひきとったと言われているが、このとき、80歳前後であったヴィタウタスは、戴冠式に集まった来賓の接待に疲れていたのであろう(*6)。歴史にイフ(if)はないというが、このときヴィタウタスが戴冠していたならば、その後のリトアニアとポーランドの歴史は変っていたかも知れない。

〔蛇足〕
(*1)中世のニュルンベルクは武具鍛冶屋や金属手工業などで栄えた都市で、神聖ローマ帝国の首都ともいわれ、多くの皇帝が好んでここに住んだ。また、皇帝カール4世が1356年に発した金印勅書によって、皇帝は即位後の第1回帝国議会をここで開くことになっていた。さらに、1423年に皇帝ジギスムントが神聖ローマ皇帝の正当性の証とされる宝物をここに委譲したことから、帝国都市としてのニュルンベルクの地位はいっそう高まった。こうしたことからも分かるように、ニュルンベルクはヴィタウタスの王冠の製作場所にふさわしい場所であった。
(*2)招待状の多くはドイツ騎士団の要人に発送されたというから、当時のリトアニアとドイツ騎士団の良好な関係が想像されるが、ポーランドにとっては不愉快なことであったと思われる。
(*3)イェドルニャ(Jedlnia)はラドム(Radom)の北東約15kmに位置する村である。また、ラドムはワルシャワの南方約90kmに位置している。なお、この年(1430年)の3月、イェドルニャにおいて、ヨガイラはポーランド貴族たちに諸特権を認める「イェドルニャの特権」に合意しているが、これは、当時、未だ世継ぎに恵まれなかったヨガイラが、その弱みにつけ込まれて、貴族たちに多くの特権を認めたものである。こうしたことからも、当時のヨガイラがポーランドの貴族たちの意向を無視してヴィタウタスの戴冠を支持することができなかったのだ。「余談121:こじれる戴冠問題」で述べたように、ヨガイラは彼らの反発に屈して戴冠支持を撤回したのだ。
(*4)教皇マルティヌス5世の反対については「余談121:こじれる戴冠問題」参照。
(*5)シュチェチン(Szczecin)はオーデル川下流左岸(西岸)の都市で、現在はポーランド領である。
(*6)戴冠式に招かれた客の中には、ヴィタウタスの孫のモスクワ大公ヴァシーリイ2世(ヴィタウタスの娘ソフィアとヴァシーリイ1世の間に生れた子)や、リトアニアの影響下にあったトヴェーリやリャザニの公など、ルーシの正教圏の君主もいた。また、成吉思汗の孫バトゥによって13世紀半ばにカスピ海の北側に建国されたキプチャク汗国(ジョチ・ウルス)の汗ウルク・ムハンマド(第2期在位1427年~1433年)の使節も来ていた。ウルク・ムハンマドは政敵のバラクに汗位を奪われ、一時、リトアニアに亡命していたが、ヴィタウタスの支援で1427年に復位した人物で、この人の父はヤラル・アル・ディン(在位1411年~1412年)であると言われている。そして、ヤラル・アル・ディンも一時リトアニアに亡命していて、1410年の「ジャルギリスの戦い」ではヴィタウタスの配下で活躍し、その翌年にヴィタウタスの支援でキプチャク汗国の汗になっている。このように、ヴィタウタスの威光は遠く東方世界にも及んでいたことから、彼の戴冠式がカトリック世界の行事であるにもかかわらず、正教徒やムスリムの賓客もヴィルニュスに集まってきていた。おそらくヴィタウタスは、その人柄からも、こうした客人をもてなすことを楽しんでいたのだろうが、ポーランド貴族の妨害によって戴冠式の予定が乱されたことが大きな痛手となり、疲労が蓄積したのであろう。彼の落馬事故の話が本当だとすれば、それは、こうした心労と宴会疲れが重なった結果であろう。
(番外)以前はドイツ騎士団を支援してヴィタウタスを苦しめていた皇帝ジギスムントが、この戴冠問題では一貫してヴィタウタスを支援したのは何故か。直接的には、ヴィタウタスがドイツ騎士団と和解したことであろうが、ボヘミアのフス派の問題も見逃せない。ヴィタウタスは宗教的情熱からフス派を支援していたのではなく、ドイツ騎士団とその背後にいるハンガリー王でありボヘミア王でもある皇帝ジギスムントを牽制するためにフス派を利用していたようだから、皇帝とドイツ騎士団がリトアニアに友好的になればフス派支援を止めることも吝かではなかったはずだ。また、一般論として、この当時のヴィタウタスの軍事力と東方世界への影響力に対して、西欧世界が一目置いていたことも無視できないだろう。
(2022年3月 記)
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リトアニア史余談121:こじれる戴冠問題/武田 充司

 ヴィタウタスが戴冠してリトアニア王になれば、従兄弟のポーランド王ヨガイラと協調して東欧に強大な連合勢力が誕生する可能性も考えられたが、それとは逆に、リトアニアがポーランドと同格の王国になることによって、両国の対立抗争が激化し、周辺諸国に漁夫の利をもたらす可能性もあった。
   したがって、ヴィタウタスの戴冠問題は、ポーランドとリトアニアの問題にとどまらず、東欧世界の力のバランスを変える重要な国際問題として注目されていた。

 ヴィタウタスの戴冠を支持する神聖ローマ皇帝ジギスムントが開いた1429年1月のルーツクの国際会議で(*1)、意外にもポーランド王ヨガイラはヴィタウタスの戴冠を支持したが、ポーランドの貴族たちの代表団は猛反発し(*2)、会議をボイコットして帰国してしまった。その結果、この国際会議は成果のないまま散会した。
   一方、皇帝ジギスムントの指導力ばかりが目立ったこの会議に不満を募らせた教皇マルティヌス5世は(*3)、ポーランド貴族たちに与してヴィタウタスの戴冠に反対する姿勢を示したから、これを錦の御旗として勢いづいたポーランド貴族たちは、国王ヨガイラに翻意を迫った。ヨガイラがこの圧力に屈したため、ポーランド貴族代表は直ちに皇帝ジギスムントに書簡を送って、ヨガイラがヴィタウタスの戴冠に反対である旨通告した。

   これを知ったヴィタウタスは激怒し、ヨガイラに激しく抗議すると同時に、皇帝ジギスムントとヨガイラに、あらためて自分の立場を説明する書簡を送って戴冠の決意の固いことを示した(*4)。また、ヴィタウタスはポーランドの貴族たちにも、別途、書簡を送り、自分がポーランドとの友好関係維持を強く望んでいることを述べて、戴冠に対する彼らの猜疑心と拒絶反応を和らげようとした。
   しかし、ポーランド王ヨガイラは、貴族たちの同意なしには、この件は如何とも為し難いと答えるのみで問題は膠着状態に陥った。これに苛立ったリトアニアの人々は、これ以上ポーランド王の意見など訊く必要はないとして、ポーランド貴族たちの意向に関係なくヴィタウタスの戴冠を強行することにした。

   これによってリトアニアとポーランドの関係は極度に悪化したが、リトアニア側の決意は揺るがなかった。そこで、ポーランドの貴族たちは、1429年9月8日、サンドミエシュ(*5)に集まり、打開策を協議した。彼らは、ヨガイラを退位させ、ヴィタウタスをポーランド王として、ポーランドとリトアニアを同君連合とすることを提案した。この思いがけない提案にヴィタウタスは驚くと同時に、その欺瞞に激怒した(*6)。そして、ヴィタウタスは彼らの同意なしに、皇帝ジギスムントから王冠を受けることにした(*7)。

〔蛇足〕
(*1)「余談120:晩年のヴィタウタス大公」参照。
(*2)ポーランドの貴族たちは、リトアニアからヨガイラを国王に迎えたときから、リトアニアをポーランドとの同君連合国家とし、やがてはリトアニアを併合して植民地化することを狙っていた。したがって、ヴィタウタス大公の戴冠に猛反対するのは当然のことであったが、ヨガイラがそれを承知でヴィタウタスの戴冠を支持したことは意外だった。何故か?当時のヨガイラの胸中を推測することは興味深い問題だ。
(*3)ここで想起されるのが、1076年の「カノッサの屈辱」で象徴される叙任権闘争であろう。ローマ教皇と神聖ローマ皇帝の世俗問題に対する権限の争いは、ジギスムントの時代になると、教皇の権威が落ちて目立たなくなっていたが、問題によっては両者の対立が表面化した。
(*4)ヴィタウタスが戴冠してリトアニア王となることは、彼個人の野心だけでなく、リトアニアの人々の願望でもあった。実際、1398年に「サリーナス条約」(「余談93:クリミア遠征とサリーナス条約」参照)が締結された直後に、リトアニアの貴族たちは「ヴィタウタスをリトアニア王とする」と一方的に宣言している。また、それとは別に、1410年の「ジャルギリスの戦い」の直前に、皇帝ジギスムントが「ケジュマロクの会談」でヴィタウタスに戴冠することを提案している。これはヴィタウタスとヨガイラの仲を引き裂くための陰謀であったから、ヴィタウタスは無視したが(「余談102:権謀術数をめぐらすドイツ騎士団」参照)、とにかく、かなり以前から彼の戴冠問題は俎上に載っていた。要するに、当時のヴィタウタスが既に王にふさわしい人物として内外から評価されていたといえよう。そうした事実も踏まえてヴィタウタスは自身の戴冠の妥当性を主張していたようだ。
(*5)サンドミエシュ(Sandomierz)はクラクフの東北東約146kmに位置するヴィスワ河畔の都市である。
(*6)この提案の核心は、ヴィタウタスがポーランド王になるだけで、リトアニアは相変わらずポーランド王に従属する大公国のままにしておくということで、ポーランド貴族たちのリトアニアに対する執拗な支配願望が貫かれていることであった。さらに、ヨガイラもヴィタウタスも既に高齢であったから、ヴィタウタス没後は、ポーランド貴族たちが都合のよい人物をポーランド王に選出すれば、リトアニアはその王の下にポーランドの一部として併合できるという読みもあった。このような提案にヴィタウタスが激怒したのも当然であった。
(*7)ここで重要な点は、教皇が反対しているにもかかわらず、神聖ローマ皇帝ジギスムントがヴィタウタスの戴冠を支持していたことである。問題は、選帝侯によって選出された神聖ローマ皇帝が他の人物に王冠を授けて「国王」にすることができるか、という点に絞られたが、ポーランドのクラクフ大学の教授たちは教会法を根拠に否定的な見解を示した。これに対して、ジギスムントはこの問題をウイーン大学の法学教授たちに諮問した。ウイーン大学の教授たちはローマ法を根拠に、ジギスムントにその資格と権限があると断じた。皇帝ジギスムントはこれに力を得て、戴冠は世俗問題であって教会の祝福を必要としないとヴィタウタスに伝えた。実際、それまでも、この主張を裏付ける幾つかの事例があった。ジギスムントは念を入れて、ローマ法と教会法の両方に精通した学者をヴィタウタスのもとに派遣して、ヴィタウタスの戴冠は全く合法であることを詳しく説明させた。これによって、ヴィタウタスも納得し、皇帝ジギスムントからリトアニア王としての王冠をうける準備に取り掛かった。なお、ジギスムントは1433年5月31日に皇帝として戴冠するので、この時点では、彼は事実上の神聖ローマ皇帝であっても、戴冠していない皇帝であった。しかし、皇帝の戴冠は既に形骸化して久しく、選出された直後に戴冠した皇帝は少なくなっていたし、中には戴冠せずに終わる皇帝もいたから、これが問題となることはなかったようだ。
(2022年2月 記)
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リトアニア史余談121:こじれる戴冠問題/武田 充司

 ヴィタウタスが戴冠してリトアニア王になれば、従兄弟のポーランド王ヨガイラと協調して東欧に強大な連合勢力が誕生する可能性も考えられたが、それとは逆に、リトアニアがポーランドと同格の王国になることによって、両国の対立抗争が激化し、周辺諸国に漁夫の利をもたらす可能性もあった。
   したがって、ヴィタウタスの戴冠問題は、ポーランドとリトアニアの問題にとどまらず、東欧世界の力のバランスを変える重要な国際問題として注目されていた。

 ヴィタウタスの戴冠を支持する神聖ローマ皇帝ジギスムントが開いた1429年1月のルーツクの国際会議で(*1)、意外にもポーランド王ヨガイラはヴィタウタスの戴冠を支持したが、ポーランドの貴族たちの代表団は猛反発し(*2)、会議をボイコットして帰国してしまった。その結果、この国際会議は成果のないまま散会した。
   一方、皇帝ジギスムントの指導力ばかりが目立ったこの会議に不満を募らせた教皇マルティヌス5世は(*3)、ポーランド貴族たちに与してヴィタウタスの戴冠に反対する姿勢を示したから、これを錦の御旗として勢いづいたポーランド貴族たちは、国王ヨガイラに翻意を迫った。ヨガイラがこの圧力に屈したため、ポーランド貴族代表は直ちに皇帝ジギスムントに書簡を送って、ヨガイラがヴィタウタスの戴冠に反対である旨通告した。

   これを知ったヴィタウタスは激怒し、ヨガイラに激しく抗議すると同時に、皇帝ジギスムントとヨガイラに、あらためて自分の立場を説明する書簡を送って戴冠の決意の固いことを示した(*4)。また、ヴィタウタスはポーランドの貴族たちにも、別途、書簡を送り、自分がポーランドとの友好関係維持を強く望んでいることを述べて、戴冠に対する彼らの猜疑心と拒絶反応を和らげようとした。
   しかし、ポーランド王ヨガイラは、貴族たちの同意なしには、この件は如何とも為し難いと答えるのみで問題は膠着状態に陥った。これに苛立ったリトアニアの人々は、これ以上ポーランド王の意見など訊く必要はないとして、ポーランド貴族たちの意向に関係なくヴィタウタスの戴冠を強行することにした。

   これによってリトアニアとポーランドの関係は極度に悪化したが、リトアニア側の決意は揺るがなかった。そこで、ポーランドの貴族たちは、1429年9月8日、サンドミエシュ(*5)に集まり、打開策を協議した。彼らは、ヨガイラを退位させ、ヴィタウタスをポーランド王として、ポーランドとリトアニアを同君連合とすることを提案した。この思いがけない提案にヴィタウタスは驚くと同時に、その欺瞞に激怒した(*6)。そして、ヴィタウタスは彼らの同意なしに、皇帝ジギスムントから王冠を受けることにした(*7)。

〔蛇足〕
(*1)「余談120:晩年のヴィタウタス大公」参照。
(*2)ポーランドの貴族たちは、リトアニアからヨガイラを国王に迎えたときから、リトアニアをポーランドとの同君連合国家とし、やがてはリトアニアを併合して植民地化することを狙っていた。したがって、ヴィタウタス大公の戴冠に猛反対するのは当然のことであったが、ヨガイラがそれを承知でヴィタウタスの戴冠を支持したことは意外だった。何故か?当時のヨガイラの胸中を推測することは興味深い問題だ。
(*3)ここで想起されるのが、1076年の「カノッサの屈辱」で象徴される叙任権闘争であろう。ローマ教皇と神聖ローマ皇帝の世俗問題に対する権限の争いは、ジギスムントの時代になると、教皇の権威が落ちて目立たなくなっていたが、問題によっては両者の対立が表面化した。
(*4)ヴィタウタスが戴冠してリトアニア王となることは、彼個人の野心だけでなく、リトアニアの人々の願望でもあった。実際、1398年に「サリーナス条約」(「余談93:クリミア遠征とサリーナス条約」参照)が締結された直後に、リトアニアの貴族たちは「ヴィタウタスをリトアニア王とする」と一方的に宣言している。また、それとは別に、1410年の「ジャルギリスの戦い」の直前に、皇帝ジギスムントが「ケジュマロクの会談」でヴィタウタスに戴冠することを提案している。これはヴィタウタスとヨガイラの仲を引き裂くための陰謀であったから、ヴィタウタスは無視したが(「余談102:権謀術数をめぐらすドイツ騎士団」参照)、とにかく、かなり以前から彼の戴冠問題は俎上に載っていた。要するに、当時のヴィタウタスが既に王にふさわしい人物として内外から評価されていたといえよう。そうした事実も踏まえてヴィタウタスは自身の戴冠の妥当性を主張していたようだ。
(*5)サンドミエシュ(Sandomierz)はクラクフの東北東約146kmに位置するヴィスワ河畔の都市である。
(*6)この提案の核心は、ヴィタウタスがポーランド王になるだけで、リトアニアは相変わらずポーランド王に従属する大公国のままにしておくということで、ポーランド貴族たちのリトアニアに対する執拗な支配願望が貫かれていることであった。さらに、ヨガイラもヴィタウタスも既に高齢であったから、ヴィタウタス没後は、ポーランド貴族たちが都合のよい人物をポーランド王に選出すれば、リトアニアはその王の下にポーランドの一部として併合できるという読みもあった。このような提案にヴィタウタスが激怒したのも当然であった。
(*7)ここで重要な点は、教皇が反対しているにもかかわらず、神聖ローマ皇帝ジギスムントがヴィタウタスの戴冠を支持していたことである。問題は、選帝侯によって選出された神聖ローマ皇帝が他の人物に王冠を授けて「国王」にすることができるか、という点に絞られたが、ポーランドのクラクフ大学の教授たちは教会法を根拠に否定的な見解を示した。これに対して、ジギスムントはこの問題をウイーン大学の法学教授たちに諮問した。ウイーン大学の教授たちはローマ法を根拠に、ジギスムントにその資格と権限があると断じた。皇帝ジギスムントはこれに力を得て、戴冠は世俗問題であって教会の祝福を必要としないとヴィタウタスに伝えた。実際、それまでも、この主張を裏付ける幾つかの事例があった。ジギスムントは念を入れて、ローマ法と教会法の両方に精通した学者をヴィタウタスのもとに派遣して、ヴィタウタスの戴冠は全く合法であることを詳しく説明させた。これによって、ヴィタウタスも納得し、皇帝ジギスムントからリトアニア王としての王冠をうける準備に取り掛かった。なお、ジギスムントは1433年5月31日に皇帝として戴冠するので、この時点では、彼は事実上の神聖ローマ皇帝であっても、戴冠していない皇帝であった。しかし、皇帝の戴冠は既に形骸化して久しく、選出された直後に戴冠した皇帝は少なくなっていたし、中には戴冠せずに終わる皇帝もいたから、これが問題となることはなかったようだ。
(2022年2月 記)
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リトアニア史余談120:晩年のヴィタウタス大公/武田 充司<br />

 活動的でひと所に落ち着いて居られない性分のヴィタウタスも、晩年には首都ヴィルニュスの宮廷を留守にしてトラカイの城で過ごすことが多くなった。
 トラカイを愛したヴィタウタスはトラカイの城を整備して、その内部を豪華な装飾によって飾りたてた(*1)。また、身近に女を侍らせ補佐役に使っていたとも言われている(*2)。

 ヴィタウタスは読み書きができ、ドイツ語やラテン語を理解する文化人でもあった。また、身辺警護などにタタール人(*3)を使っていたから、タタールの言葉も理解していたようだ。実際、彼はロシア南部のタタール人たちとの交渉にタタール語で書かれた文書を発信していたという。しかし、カトリックの国となって日の浅いリトアニアでは、ロシア正教の文化的影響が未だ顕著で、宮廷ではラテン語やドイツ語と並んで、西ロシア地方の古いスラヴ語が使われていた。ポーランド語はまだ広まっていなかった。

 ヴィタウタスは、后アンナが亡くなって数か月後の1418年の秋、腹心の重臣イヴァン・オルシャンスキの娘で寡婦となっていたユリアナ(*4)と再婚した。ユリアナの母アグリピナはヴィタウタスの亡き后アンナの姉妹であったから、ヴィタウタスの再婚相手は彼の義理の姪ということになる。それ故、ヴィルニュス司教(*5)は、この結婚について教皇の承認が得られるまでは、婚儀を取り仕切ることはできないと言ってヴィタウタスを困らせた。結局、ヴィタウタスはヴウォツワヴェクの司教(*6)に頼んでこの年のクリスマス前に式を挙げた。ヴィタウタスがこのように再婚を急いだのは、彼に世継ぎがいなかったからであろうが(*7)、ヴィタウタスのユリアナに対する愛情は特別なものがあったと伝えられているから、彼は亡き后アンアの姪であるユリアナにアンナの面影を見ていたのかも知れない。

 ところで、様々な困難を克服してリトアニアを北東ヨーロッパの大国にしたヴィタウタスにとって、最後の悲願はリトアニアをローマ教皇に認められた王国とし、自身も戴冠してリトアニア王となることであった。
   1428年、神聖ローマ皇帝ジギスムントは、広く東欧の問題を話し合うために、リトアニア大公ヴィタウタスとポーランド王ヨガイラを招いて、ヴォリニアのルーツクの城(*8)で会談した。このとき、ヴィタウタスは自分のリトアニア王としての戴冠問題を早急に議論してくれるよう皇帝に催促した。その結果、翌年の1月10日、ジギスムントの呼びかけでルーツクにおいて大規模な国際会議が開かれた(*9)。ローマ教皇、ビザンツ帝国皇帝、デンマーク王、ドイツ騎士団代表などのほか、ルーシの諸公など中東欧地域のほとんどの君主が集まった中で、皇帝ジギスムントはヴィタウタスのリトアニア王としての戴冠を公式に提案した。こうして、ヴィタウタスの長年の夢が実現する第一歩が踏み出されたかに見えた。

〔蛇足〕
(*1)トラカイについては、「余談8:ヴィルニュス遷都伝説と神官」の蛇足(3)で述べたように、現在のトラカイと旧トラカイがあって、現在のトラカイには「半島の城」と「島の城」があり、「半島の城」は1377年頃にヴィタウタスの父ケストゥティスによって完成されたが、「島の城」は「半島の城」との連携によって防衛力を強化するために1350年頃からケストゥティスによって段階的に建設が進められ、主要部分が完成したのはヴィタウタスの時代で、「ジャルギリスの戦い」の前年(1409年)のことである。しかし、「ジャルギリスの戦い」の勝利以後、特に1422年の「メウノの講和」以後は、トラカイの城の戦略的重要性が薄れ、平和な時代におけるヴィタウタス大公の権威の象徴としての性格が強くなった。その結果、城内の大広間には豪華な装飾が施され、外国からの賓客の接待などに使われるようになった。こうした城内の壁面を飾る豪華なタペストリはビザンチン様式の図像画に類似しているが、これはルーシの正教文化圏を経由してビザンチン文化がリトアニアに入ってきていたからであろう。因みに、ポーランド王ヨガイラは1413年頃からヴィタウタスが亡くなる1430年までの間に13回もこの城を訪れている。
(*2)15世紀のポーランドの年代記作者ヤン・ドゥウゴシュによると、この当時のリトアニアの運命は彼女らによって左右されかねない状態だったという。
(*3)「余談77:リトアニアのタタール人」参照。
(*4)ユリアナ(Juliana / Julijona)はカラチェフのイヴァン(Ivan of Karachev)と結婚したが、年代記作者ヤン・ドゥウゴシュ(前出)によると、ヴィタウタスがイヴァンを殺害させて彼女を寡婦とし、娶ったというのだが、どうだろうか。カラチェフはブリャンスク(Bryansk)の東南東約45kmに位置する小都市である。
(*5)このときのヴィルニュス司教はポーランド人のピョトル・クラコフチク(Piotr Krakowczyk)で、このときまでヴィルニュス司教はすべてポーランド人が占めていた。最初のリトアニア人ヴィルニュス司教が誕生するのは、この司教の次の(第5代)司教「トラカイのマティアス」(Matthias of Trakai:「余談115:フス戦争とヴィタウタス大公」の蛇足(7)参照)のときである。
(*6)このときの司教はヤン・クロピドゥウォ(Jan Kropidło:在位1402年~1421年3月没)である。ヴウォツワヴェク(Włocławek)は現在のポーランド中部のヴィスワ河畔の都市で、ワルシャワの西北西約140kmに位置している。
(*7)このときヴィタウタスは60歳代後半であった。なお、このあと、教皇マルティヌス5世はヴィタウタスとユリアナとの結婚に対して「教会法の特免」(dispensation)を与えて彼らの結婚を認めた。この当時、西欧カトリック世界は、バルカンに進出したオスマン勢力の脅威に対処するために、ヴィタウタスのような有能な人材を必要としていたから、教皇もヴィタウタスには寛容であったのかも知れない。
(*8)ヴォリニア(Volhynia)とは、現在のウクライナ西部のヴォルイーニ州とリウネ州を中心とした地域の歴史的地名であるが、ルーツク(Lutsk)はその中心都市のひとつで、リヴィウ(L’viv)の北東約130kmに位置している。ここにある城はゲディミナス大公の息子のひとりリュバルタス(Liubartas:「余談68:ヴォリニアとガリチアをめぐる争い」参照)が1340年代に築いた堅固な要塞で、その後、ヴィタウタスによって補強され、16世紀から17世紀にも増改築されている。現在は「ルーツク城」(Lutsk Castle)とか「ルバルトの城」(Lubart’s Castle)と呼ばれ、ルーツクを象徴する歴史遺産になっている。
(*9)この大規模な国際会議は「ルーツク会議」(the Congress of Lutsk)として知られているが、この盛大な国際会議の主議題がヴィタウタスの戴冠問題であったことは、当時、ヴィタウタスが如何に注目された重要人物であったかを物語っている。彼がリトアニア王になれば、ポーランド王ヨガイラとともに、ゲディミナス一族が支配する2つの大国が東欧に出現することになるからだ。
(2022年1月 記)
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リトアニア史余談120:晩年のヴィタウタス大公/武田 充司

 活動的でひと所に落ち着いて居られない性分のヴィタウタスも、晩年には首都ヴィルニュスの宮廷を留守にしてトラカイの城で過ごすことが多くなった。
 トラカイを愛したヴィタウタスはトラカイの城を整備して、その内部を豪華な装飾によって飾りたてた(*1)。また、身近に女を侍らせ補佐役に使っていたとも言われている(*2)。

 ヴィタウタスは読み書きができ、ドイツ語やラテン語を理解する文化人でもあった。また、身辺警護などにタタール人(*3)を使っていたから、タタールの言葉も理解していたようだ。実際、彼はロシア南部のタタール人たちとの交渉にタタール語で書かれた文書を発信していたという。しかし、カトリックの国となって日の浅いリトアニアでは、ロシア正教の文化的影響が未だ顕著で、宮廷ではラテン語やドイツ語と並んで、西ロシア地方の古いスラヴ語が使われていた。ポーランド語はまだ広まっていなかった。

 ヴィタウタスは、后アンナが亡くなって数か月後の1418年の秋、腹心の重臣イヴァン・オルシャンスキの娘で寡婦となっていたユリアナ(*4)と再婚した。ユリアナの母アグリピナはヴィタウタスの亡き后アンナの姉妹であったから、ヴィタウタスの再婚相手は彼の義理の姪ということになる。それ故、ヴィルニュス司教(*5)は、この結婚について教皇の承認が得られるまでは、婚儀を取り仕切ることはできないと言ってヴィタウタスを困らせた。結局、ヴィタウタスはヴウォツワヴェクの司教(*6)に頼んでこの年のクリスマス前に式を挙げた。ヴィタウタスがこのように再婚を急いだのは、彼に世継ぎがいなかったからであろうが(*7)、ヴィタウタスのユリアナに対する愛情は特別なものがあったと伝えられているから、彼は亡き后アンアの姪であるユリアナにアンナの面影を見ていたのかも知れない。

 ところで、様々な困難を克服してリトアニアを北東ヨーロッパの大国にしたヴィタウタスにとって、最後の悲願はリトアニアをローマ教皇に認められた王国とし、自身も戴冠してリトアニア王となることであった。
   1428年、神聖ローマ皇帝ジギスムントは、広く東欧の問題を話し合うために、リトアニア大公ヴィタウタスとポーランド王ヨガイラを招いて、ヴォリニアのルーツクの城(*8)で会談した。このとき、ヴィタウタスは自分のリトアニア王としての戴冠問題を早急に議論してくれるよう皇帝に催促した。その結果、翌年の1月10日、ジギスムントの呼びかけでルーツクにおいて大規模な国際会議が開かれた(*9)。ローマ教皇、ビザンツ帝国皇帝、デンマーク王、ドイツ騎士団代表などのほか、ルーシの諸公など中東欧地域のほとんどの君主が集まった中で、皇帝ジギスムントはヴィタウタスのリトアニア王としての戴冠を公式に提案した。こうして、ヴィタウタスの長年の夢が実現する第一歩が踏み出されたかに見えた。

〔蛇足〕
(*1)トラカイについては、「余談8:ヴィルニュス遷都伝説と神官」の蛇足(3)で述べたように、現在のトラカイと旧トラカイがあって、現在のトラカイには「半島の城」と「島の城」があり、「半島の城」は1377年頃にヴィタウタスの父ケストゥティスによって完成されたが、「島の城」は「半島の城」との連携によって防衛力を強化するために1350年頃からケストゥティスによって段階的に建設が進められ、主要部分が完成したのはヴィタウタスの時代で、「ジャルギリスの戦い」の前年(1409年)のことである。しかし、「ジャルギリスの戦い」の勝利以後、特に1422年の「メウノの講和」以後は、トラカイの城の戦略的重要性が薄れ、平和な時代におけるヴィタウタス大公の権威の象徴としての性格が強くなった。その結果、城内の大広間には豪華な装飾が施され、外国からの賓客の接待などに使われるようになった。こうした城内の壁面を飾る豪華なタペストリはビザンチン様式の図像画に類似しているが、これはルーシの正教文化圏を経由してビザンチン文化がリトアニアに入ってきていたからであろう。因みに、ポーランド王ヨガイラは1413年頃からヴィタウタスが亡くなる1430年までの間に13回もこの城を訪れている。
(*2)15世紀のポーランドの年代記作者ヤン・ドゥウゴシュによると、この当時のリトアニアの運命は彼女らによって左右されかねない状態だったという。
(*3)「余談77:リトアニアのタタール人」参照。
(*4)ユリアナ(Juliana / Julijona)はカラチェフのイヴァン(Ivan of Karachev)と結婚したが、年代記作者ヤン・ドゥウゴシュ(前出)によると、ヴィタウタスがイヴァンを殺害させて彼女を寡婦とし、娶ったというのだが、どうだろうか。カラチェフはブリャンスク(Bryansk)の東南東約45kmに位置する小都市である。
(*5)このときのヴィルニュス司教はポーランド人のピョトル・クラコフチク(Piotr Krakowczyk)で、このときまでヴィルニュス司教はすべてポーランド人が占めていた。最初のリトアニア人ヴィルニュス司教が誕生するのは、この司教の次の(第5代)司教「トラカイのマティアス」(Matthias of Trakai:「余談115:フス戦争とヴィタウタス大公」の蛇足(7)参照)のときである。
(*6)このときの司教はヤン・クロピドゥウォ(Jan Kropidło:在位1402年~1421年3月没)である。ヴウォツワヴェク(Włocławek)は現在のポーランド中部のヴィスワ河畔の都市で、ワルシャワの西北西約140kmに位置している。
(*7)このときヴィタウタスは60歳代後半であった。なお、このあと、教皇マルティヌス5世はヴィタウタスとユリアナとの結婚に対して「教会法の特免」(dispensation)を与えて彼らの結婚を認めた。この当時、西欧カトリック世界は、バルカンに進出したオスマン勢力の脅威に対処するために、ヴィタウタスのような有能な人材を必要としていたから、教皇もヴィタウタスには寛容であったのかも知れない。
(*8)ヴォリニア(Volhynia)とは、現在のウクライナ西部のヴォルイーニ州とリウネ州を中心とした地域の歴史的地名であるが、ルーツク(Lutsk)はその中心都市のひとつで、リヴィウ(L’viv)の北東約130kmに位置している。ここにある城はゲディミナス大公の息子のひとりリュバルタス(Liubartas:「余談68:ヴォリニアとガリチアをめぐる争い」参照)が1340年代に築いた堅固な要塞で、その後、ヴィタウタスによって補強され、16世紀から17世紀にも増改築されている。現在は「ルーツク城」(Lutsk Castle)とか「ルバルトの城」(Lubart’s Castle)と呼ばれ、ルーツクを象徴する歴史遺産になっている。
(*9)この大規模な国際会議は「ルーツク会議」(the Congress of Lutsk)として知られているが、この盛大な国際会議の主議題がヴィタウタスの戴冠問題であったことは、当時、ヴィタウタスが如何に注目された重要人物であったかを物語っている。彼がリトアニア王になれば、ポーランド王ヨガイラとともに、ゲディミナス一族が支配する2つの大国が東欧に出現することになるからだ。
(2022年1月 記)