この国の名前は大英帝国の植民地政治家のCecil John Rhodes (1853-1902)から由来しています。セシル ローズはオックスフォード大学を卒業後、南アフリカへ渡り鉱山事業で巨万の富を築きました。ローズにとってこれだけでは不足の様で、南アフリカの北に隣接する地域を英国の植民地として其処に自分の名前を冠したのがこの国の由来です。1923年英国の植民地として南ローデシアの成立から、Cecil John Rhodesは南アフリカのCape Townからの鉄道が北アフリカのカイロまで繋がる事を構想し、併せて鉄道に並行して通信線も敷設される事を構想していました。
1965年白人スミス政権によるローデシア共和国の一方的独立過程では国連による経済制裁を伴ったが、隣の南アフリカはこれを支援しました。私が始めて南アフリカを訪ねたのは1966年ですが、その前年の1965年に白人スミス政権によるローデシア共和国の一方的独立宣言が行われ、1968年国連による経済制裁が決議された頃です。その後1970年代からこの国の黒人団体による独立推進のゲリラ活動が始まり、1980年にジンバブエ共和国として英国からの独立を果たしました。
私が南アフリカ共和国を訪ねたのは1966年からですが、丁度この地域に激動期が訪れ今日の姿に変わる直前であったわけです。その後かってのローデシアは世界地図から無くなり、そこには今日ジムバブエ(Zimbawue)という国が出来て、また首都はソールスベリーからハラレ(Harare)と変わっています。この独立過程では徹底して旧植民地の痕跡を消す事が図られ、今日残る名前にはそれが反映して居ます。
この後食事が提供されましたが、これは暖かい料理が付いたフルブレックファストで、昨夜からまともな食事を取って居ない私は十分に堪能した結果、食後はぐっすり眠ってしまいました。このルートは赤道の南側でアフリカ大陸をほぼ西へ横断するので、途中の
景色に期待がありましたが目を開いて居る余裕はありません。それは運が良ければザンベジ河やビクトリアの滝などが眺めれたらと言う話ですが、本当にどこの上を越えたか眠ってしまって判りません。
彼らはこの便ではロンドン迄行ったので後刻マドリッドで訊いた所では、その団体は多分マグロ取り船団のクルーで、交代して帰国するか或いは休暇の為にロンドンへ行く人たちであろうとの事でした。当時日本人クルーは技術レベルが高い事、色んな仕事がこなせる等大西洋のマグロ漁業に不可欠な存在であった様です。
なおこのレポートを書いて居る時、カナリア諸島では火山噴火が発生し5000人ほど避難したとニュースが報道されました。これは同じカナリア諸島でもラパルマ島で、空港のある島とは別で、既に火山性の地震で予兆が見られた為付近の住民は避難しており死者、けが人はいないとの事でした。処で前回の噴火は1971年の50年ぶりという事で、私が以前にカナリア諸島を訪れてから後に同じ島で発生して居た事になります。
間も無く陽は大西洋に沈んで夜の闇を搭乗機は北上しました。(Fig.4) 機はイベリア半島の南西のコーナーをかすめた様で、黒い大陸のブロックと光の点が足下に見えて来て、やがて高度と進路の調整が為されて暗闇の彼方に見えて来た光の集団がマドリッドとその周辺を示しました。 | |
Fig.4 |
「I trust you could have enjoyed our flight !」
私も降りる乗客への挨拶と理解して、同時に上手な表現に搭乗時に10時間も待たされた事は忘れて、
「Oh, yes sure!」
と返事して居ました。パーサーはそれを確かめる様に聞いてから、
「Good ! Enjoy your stay...」と言いながら離れて行きました。
間もなく着陸に備えてフラップを出すギアの音が始まりました。パーサーの挨拶が何故私に為されたのか判りませんが、良い表現として繰り返し思い出す内に半世紀の記憶の中に定着しました。