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小林レポート

半世紀前の記録から:アフリカ空の旅(2)/小林 凱

  前回はアフリカ空の旅のアウトラインをレポートしましたが、今回はそのフライトで起きた出来事を紹介したいと思います。
  1966年11月に私が搭乗したSA214便は南アフリカのヨハネスブルグを離陸後北に接するローデシアを目指したが、この間当時の一般的な国際線での機内サービスを受けた記憶がありません。飲み物位は要求に応じていたと思いますが、全く味気ないサービスの約1時間半の飛行でローデシアのソールスベリー空港に着陸しました。此処では私達ヨハネスブルグからの乗客は席を立たない様に指示され、ソールスベリーからの乗客が乗って来たらそそくさと出発しました。
  また乗務員は複数の女性キャビンアテンダントと一人のがっしりした中年の男性が居ました。この時の機内からのスナップに空港ビルが見えますが大きくて堂々として居ました。(Fig.1)Fig.1.JPG
Fig.1
  ここで当時のローデシアの状況について紹介します。この名前の国は今日存在しませんから、少し以前に戻って英国の植民地の歴史を振り返ります。歴史と言っても私が現実に見聞きした話でそれ程古い事ではありませんが。
  この国の名前は大英帝国の植民地政治家のCecil John Rhodes (1853-1902)から由来しています。セシル ローズはオックスフォード大学を卒業後、南アフリカへ渡り鉱山事業で巨万の富を築きました。ローズにとってこれだけでは不足の様で、南アフリカの北に隣接する地域を英国の植民地として其処に自分の名前を冠したのがこの国の由来です。1923年英国の植民地として南ローデシアの成立から、Cecil John Rhodesは南アフリカのCape Townからの鉄道が北アフリカのカイロまで繋がる事を構想し、併せて鉄道に並行して通信線も敷設される事を構想していました。
  1965年白人スミス政権によるローデシア共和国の一方的独立過程では国連による経済制裁を伴ったが、隣の南アフリカはこれを支援しました。私が始めて南アフリカを訪ねたのは1966年ですが、その前年の1965年に白人スミス政権によるローデシア共和国の一方的独立宣言が行われ、1968年国連による経済制裁が決議された頃です。その後1970年代からこの国の黒人団体による独立推進のゲリラ活動が始まり、1980年にジンバブエ共和国として英国からの独立を果たしました。
  私が南アフリカ共和国を訪ねたのは1966年からですが、丁度この地域に激動期が訪れ今日の姿に変わる直前であったわけです。その後かってのローデシアは世界地図から無くなり、そこには今日ジムバブエ(Zimbawue)という国が出来て、また首都はソールスベリーからハラレ(Harare)と変わっています。この独立過程では徹底して旧植民地の痕跡を消す事が図られ、今日残る名前にはそれが反映して居ます。

  ソールスベリー空港を離陸したSA214機は旋回しながら急角度で上昇しました。私は周囲に山がある地形によるものと思って居ましたが、他に保安上の理由があったのかも知れません。やがて定常の飛行に入った処で、乗客に対してウエルカムアナウンスが為されました。乗客の世話をする乗務員は、パーサーの何某と私達キャビンアテンダント何名がずっとご一緒するので何でも申して呉れとごく普通の話でしたが、ヨハネスブルグに滞在して居た私は、このパーサーは若しかするとセキュリティ要員では無いかと勝手に想像しました。
  この後食事が提供されましたが、これは暖かい料理が付いたフルブレックファストで、昨夜からまともな食事を取って居ない私は十分に堪能した結果、食後はぐっすり眠ってしまいました。このルートは赤道の南側でアフリカ大陸をほぼ西へ横断するので、途中の
景色に期待がありましたが目を開いて居る余裕はありません。それは運が良ければザンベジ河やビクトリアの滝などが眺めれたらと言う話ですが、本当にどこの上を越えたか眠ってしまって判りません。

  約4時間の飛行で搭乗機は大西洋に達しました。高度を保ったまま洋上に出て旋回して逆方向になってから高度を下げ、低空でルアンダ空港の滑走路に着陸しました。降りてから訊いたところ、反政府ゲリラに対してフライトの安全を確保したルートを取ったという事です。それは内陸の密林にはゲリラが潜んで居る危険があるが、洋上は全く隠れる処が無いからここで高度を下げ海から真っすぐに滑走路に入った様です。離陸するときはその逆で大西洋に向かって真っすぐ西へ向かって離陸し、高度を上げてからラスパルマスへ向かって進路を北へ取りました。
  当時のアンゴラはポルトガルの植民地支配下にあり、1961年頃から独立の動きが出て私が訪れた1966年はこの独立運動の最中の期間で、やがて宗主国から独立したのは1975年でした。この時反政府ゲリラと呼んだのは、後年独立した勢力の前身であった事と思われます。ただローデシアの場合と違うのは国名や首都の名前は植民地時代と同じものが継承されました。ルアンダでの写真が残って居ませんが、それは恐らく禁止されたものと思います。ルアンダを出発した後のルートはアフリカ大陸の西海岸に沿って洋上を北へ進みましたが、アフリカ大陸との距離は時折右舷に大陸の陸地が姿を見せる微妙な距離感でした。大西洋上の気象は穏やかで約8時間のフライト、この間に昼食が出され後はのんびり過ごしました。

  日が西へ傾くころ大西洋の遥か彼方にカナリア諸島が見えて来ました。此処はスペイン領でこれは当時も今も変わりありません。(Fig.2)
  この時の機内からの写真は逆光に島影が写るもので、余りくっきりと見えませんが、ラスパルマスでの景色は空港で求めた絵葉書に良く出ています。

  私はもっと緑濃い島を想像していましたが、実際は乾燥して空気が澄んだ気候でした。一方空港は小さな島にしては随分大きな設備に思いました。後日此処にEUの共同天体観測設備が作られた様に聞きましたが、これはその気候が関係して居るのかと思います。(Fig.3)
Fig.2.JPG
Fig.2
Fig.3.JPG
Fig.3
  暫く空港内で休んだのち、私達トランジット乗客は早めに着席するように求められ、その後からラスパルマスからの乗客が乗ってきました。その中に約20名くらいの男性の団体客が居て私達の斜め前方に纏まって着席しました。そこで彼らから聞こえて来たのはなんと日本語で、頭の上に荷物を上げる作業を協力して行って居ました。出発後夕食が出された時も同様に静かなグループでした。
  彼らはこの便ではロンドン迄行ったので後刻マドリッドで訊いた所では、その団体は多分マグロ取り船団のクルーで、交代して帰国するか或いは休暇の為にロンドンへ行く人たちであろうとの事でした。当時日本人クルーは技術レベルが高い事、色んな仕事がこなせる等大西洋のマグロ漁業に不可欠な存在であった様です。
  なおこのレポートを書いて居る時、カナリア諸島では火山噴火が発生し5000人ほど避難したとニュースが報道されました。これは同じカナリア諸島でもラパルマ島で、空港のある島とは別で、既に火山性の地震で予兆が見られた為付近の住民は避難しており死者、けが人はいないとの事でした。処で前回の噴火は1971年の50年ぶりという事で、私が以前にカナリア諸島を訪れてから後に同じ島で発生して居た事になります。
  間も無く陽は大西洋に沈んで夜の闇を搭乗機は北上しました。(Fig.4)
  機はイベリア半島の南西のコーナーをかすめた様で、黒い大陸のブロックと光の点が足下に見えて来て、やがて高度と進路の調整が為されて暗闇の彼方に見えて来た光の集団がマドリッドとその周辺を示しました。
Fig.4.JPG
Fig.4
  暫く進むうちに真っすぐに高度が下がって行くのが判り、この時パーサーが私の席の背後に近づいてそっと肩に触れました。私は始め何事か分からなかったが、パーサーは私の耳元に囁きました。
「I trust you could have enjoyed our flight !」
私も降りる乗客への挨拶と理解して、同時に上手な表現に搭乗時に10時間も待たされた事は忘れて、
「Oh, yes sure!」
と返事して居ました。パーサーはそれを確かめる様に聞いてから、
「Good ! Enjoy your stay...」と言いながら離れて行きました。
間もなく着陸に備えてフラップを出すギアの音が始まりました。パーサーの挨拶が何故私に為されたのか判りませんが、良い表現として繰り返し思い出す内に半世紀の記憶の中に定着しました。
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半世紀前の記録から:アフリカ空の旅(2)/小林 凱

  前回はアフリカ空の旅のアウトラインをレポートしましたが、今回はそのフライトで起きた出来事を紹介したいと思います。
  1966年11月に私が搭乗したSA214便は南アフリカのヨハネスブルグを離陸後北に接するローデシアを目指したが、この間当時の一般的な国際線での機内サービスを受けた記憶がありません。飲み物位は要求に応じていたと思いますが、全く味気ないサービスの約1時間半の飛行でローデシアのソールスベリー空港に着陸しました。此処では私達ヨハネスブルグからの乗客は席を立たない様に指示され、ソールスベリーからの乗客が乗って来たらそそくさと出発しました。
  また乗務員は複数の女性キャビンアテンダントと一人のがっしりした中年の男性が居ました。この時の機内からのスナップに空港ビルが見えますが大きくて堂々として居ました。(Fig.1)Fig.1.JPG
Fig.1
  ここで当時のローデシアの状況について紹介します。この名前の国は今日存在しませんから、少し以前に戻って英国の植民地の歴史を振り返ります。歴史と言っても私が現実に見聞きした話でそれ程古い事ではありませんが。
  この国の名前は大英帝国の植民地政治家のCecil John Rhodes (1853-1902)から由来しています。セシル ローズはオックスフォード大学を卒業後、南アフリカへ渡り鉱山事業で巨万の富を築きました。ローズにとってこれだけでは不足の様で、南アフリカの北に隣接する地域を英国の植民地として其処に自分の名前を冠したのがこの国の由来です。1923年英国の植民地として南ローデシアの成立から、Cecil John Rhodesは南アフリカのCape Townからの鉄道が北アフリカのカイロまで繋がる事を構想し、併せて鉄道に並行して通信線も敷設される事を構想していました。
  1965年白人スミス政権によるローデシア共和国の一方的独立過程では国連による経済制裁を伴ったが、隣の南アフリカはこれを支援しました。私が始めて南アフリカを訪ねたのは1966年ですが、その前年の1965年に白人スミス政権によるローデシア共和国の一方的独立宣言が行われ、1968年国連による経済制裁が決議された頃です。その後1970年代からこの国の黒人団体による独立推進のゲリラ活動が始まり、1980年にジンバブエ共和国として英国からの独立を果たしました。
  私が南アフリカ共和国を訪ねたのは1966年からですが、丁度この地域に激動期が訪れ今日の姿に変わる直前であったわけです。その後かってのローデシアは世界地図から無くなり、そこには今日ジムバブエ(Zimbawue)という国が出来て、また首都はソールスベリーからハラレ(Harare)と変わっています。この独立過程では徹底して旧植民地の痕跡を消す事が図られ、今日残る名前にはそれが反映して居ます。

  ソールスベリー空港を離陸したSA214機は旋回しながら急角度で上昇しました。私は周囲に山がある地形によるものと思って居ましたが、他に保安上の理由があったのかも知れません。やがて定常の飛行に入った処で、乗客に対してウエルカムアナウンスが為されました。乗客の世話をする乗務員は、パーサーの何某と私達キャビンアテンダント何名がずっとご一緒するので何でも申して呉れとごく普通の話でしたが、ヨハネスブルグに滞在して居た私は、このパーサーは若しかするとセキュリティ要員では無いかと勝手に想像しました。
  この後食事が提供されましたが、これは暖かい料理が付いたフルブレックファストで、昨夜からまともな食事を取って居ない私は十分に堪能した結果、食後はぐっすり眠ってしまいました。このルートは赤道の南側でアフリカ大陸をほぼ西へ横断するので、途中の
景色に期待がありましたが目を開いて居る余裕はありません。それは運が良ければザンベジ河やビクトリアの滝などが眺めれたらと言う話ですが、本当にどこの上を越えたか眠ってしまって判りません。

  約4時間の飛行で搭乗機は大西洋に達しました。高度を保ったまま洋上に出て旋回して逆方向になってから高度を下げ、低空でルアンダ空港の滑走路に着陸しました。降りてから訊いたところ、反政府ゲリラに対してフライトの安全を確保したルートを取ったという事です。それは内陸の密林にはゲリラが潜んで居る危険があるが、洋上は全く隠れる処が無いからここで高度を下げ海から真っすぐに滑走路に入った様です。離陸するときはその逆で大西洋に向かって真っすぐ西へ向かって離陸し、高度を上げてからラスパルマスへ向かって進路を北へ取りました。
  当時のアンゴラはポルトガルの植民地支配下にあり、1961年頃から独立の動きが出て私が訪れた1966年はこの独立運動の最中の期間で、やがて宗主国から独立したのは1975年でした。この時反政府ゲリラと呼んだのは、後年独立した勢力の前身であった事と思われます。ただローデシアの場合と違うのは国名や首都の名前は植民地時代と同じものが継承されました。ルアンダでの写真が残って居ませんが、それは恐らく禁止されたものと思います。ルアンダを出発した後のルートはアフリカ大陸の西海岸に沿って洋上を北へ進みましたが、アフリカ大陸との距離は時折右舷に大陸の陸地が姿を見せる微妙な距離感でした。大西洋上の気象は穏やかで約8時間のフライト、この間に昼食が出され後はのんびり過ごしました。

  日が西へ傾くころ大西洋の遥か彼方にカナリア諸島が見えて来ました。此処はスペイン領でこれは当時も今も変わりありません。(Fig.2)
  この時の機内からの写真は逆光に島影が写るもので、余りくっきりと見えませんが、ラスパルマスでの景色は空港で求めた絵葉書に良く出ています。

  私はもっと緑濃い島を想像していましたが、実際は乾燥して空気が澄んだ気候でした。一方空港は小さな島にしては随分大きな設備に思いました。後日此処にEUの共同天体観測設備が作られた様に聞きましたが、これはその気候が関係して居るのかと思います。(Fig.3)
Fig.2.JPG
Fig.2
Fig.3.JPG
Fig.3
  暫く空港内で休んだのち、私達トランジット乗客は早めに着席するように求められ、その後からラスパルマスからの乗客が乗ってきました。その中に約20名くらいの男性の団体客が居て私達の斜め前方に纏まって着席しました。そこで彼らから聞こえて来たのはなんと日本語で、頭の上に荷物を上げる作業を協力して行って居ました。出発後夕食が出された時も同様に静かなグループでした。
  彼らはこの便ではロンドン迄行ったので後刻マドリッドで訊いた所では、その団体は多分マグロ取り船団のクルーで、交代して帰国するか或いは休暇の為にロンドンへ行く人たちであろうとの事でした。当時日本人クルーは技術レベルが高い事、色んな仕事がこなせる等大西洋のマグロ漁業に不可欠な存在であった様です。
  なおこのレポートを書いて居る時、カナリア諸島では火山噴火が発生し5000人ほど避難したとニュースが報道されました。これは同じカナリア諸島でもラパルマ島で、空港のある島とは別で、既に火山性の地震で予兆が見られた為付近の住民は避難しており死者、けが人はいないとの事でした。処で前回の噴火は1971年の50年ぶりという事で、私が以前にカナリア諸島を訪れてから後に同じ島で発生して居た事になります。
  間も無く陽は大西洋に沈んで夜の闇を搭乗機は北上しました。(Fig.4)
  機はイベリア半島の南西のコーナーをかすめた様で、黒い大陸のブロックと光の点が足下に見えて来て、やがて高度と進路の調整が為されて暗闇の彼方に見えて来た光の集団がマドリッドとその周辺を示しました。
Fig.4.JPG
Fig.4
  暫く進むうちに真っすぐに高度が下がって行くのが判り、この時パーサーが私の席の背後に近づいてそっと肩に触れました。私は始め何事か分からなかったが、パーサーは私の耳元に囁きました。
「I trust you could have enjoyed our flight !」
私も降りる乗客への挨拶と理解して、同時に上手な表現に搭乗時に10時間も待たされた事は忘れて、
「Oh, yes sure!」
と返事して居ました。パーサーはそれを確かめる様に聞いてから、
「Good ! Enjoy your stay...」と言いながら離れて行きました。
間もなく着陸に備えてフラップを出すギアの音が始まりました。パーサーの挨拶が何故私に為されたのか判りませんが、良い表現として繰り返し思い出す内に半世紀の記憶の中に定着しました。
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小林レポート

半世紀前の記録から:アフリカの空1/小林 凱

  今回の東京オリンピック2020の開会式を見ていたら、アフリカ諸国の選手団の数に驚きました。少人数の選手団もあったがそれでもアフリカに新しい時代が到来して居る事を感じさせるに十分でした。そしてかってこの地を度々訪れた私は何か嬉しい気持ちで時代の変化を感じました。
  同時に私が訪れていたのはかっての社会構造が支配して居た時代で、それを見た私が新しい世界から来た選手団を見るのは、なんとなく長生き出来た様で妙な嬉しさを感じました。しかし長生きだけで無く、当時既に色々な動きがあったのを見落としていたかも知れないと思い、この様な気持ちを背景にずっと以前の旅の記録を辿って見ました。結果は思いがけなくアフリカ大陸の上を飛ぶことになった記録です。

  1966年11月、私は南アフリカからスペインへ向かいました。元々南アフリカからロンドン経由で帰国する予定でしたが、急にスペインへ立ち寄ってそこでのプロジェクトについて打ち合わせる様に指示されたものです。
  出来るだけ乗り換えの無い便が望ましいとして探した結果、南アフリカ航空がヨハネスブルグからマドリード経由ロンドン行きを運航して居り、このSA214便を予約しました。航空券は当時のIATAのもので以前にも書いた様に便利なもので問題なく切り替え出来ました。
  この便は南アフリカのヨハネスブルグ(South Africa, Johannesburg)を発つと北へ向かって隣接するローデシアのサリスバリー(Rodesia, Salisbury)に立ち寄ります。ここから赤道南のアフリカ大陸を約4時間西へ飛んで、大西洋岸のアンゴラの首都ルアンダ(Angola, Luanda)に着きます。
  次はアフリカ大陸の西海岸に沿う形でこのフライトで最も長い区間(約8時間)を北へ飛んで、モロッコの西の大西洋に浮かぶカナリア諸島のグランカナリア島のラスパルマス(Canaria Islands, Gran Canaria, LasPalmas)に着きます。その後は約4時間でスペインの首都マドリード(Spain, Madrid)です。このルートを地図に示します。(Fig.1)DSCN2417.JPG
Fig.1
  ここで黄線で記入したのが実際に飛んだ軌跡です。あとで説明がありますからその時の参考にして下さい。
  この便(SA214)は元々次の様なスケジュールでした。
南アフリカ ヨハネスブルグ発 19:00 (GMT+2)
ローデシア サリスバリー 着 20:30 (GMT+2)
アンゴラ  ルアンダ   着 23:20 (GMT+1)
カナリア諸島 ラスパルマス着 06:15 (GMT)
スペイン  マドリード  着 10:25 (GMT)
(なお終着ロンドンには) 着 12:00 (GMT)

  当時南アフリカ航空の便はアパルトヘイトの故に、新興アフリカ諸国での着陸、通行を拒否するところがあると聞いていたが、同時に普段余り行けない所に立ち寄る事があると聞きました。しかし夜間の飛行だから何も見えないのは仕方ないと思いました。また時刻表から見て南アフリカ航空は英国BOACと密接に連携している様に感じました。
  このマドリード経由便は週一回ですが、他の日でヨーロッパに向かう便を見ると、ローデシアに立ち寄るのが本便含め3便、南西アフリカのナミビアのWindhoekに立ち寄る便、それとヨハネスブルグからダイレクトにアンゴラのルアンダに飛ぶ便がありました。しかしアフリカ西海岸のルアンダとカナリア諸島のラスパルマスには、ヨーロッパ行きの全ての便が立ち寄って居り、またラスパルマスを飛び立った南ア航空便はロンドンへ直行するか、マドリードやパリなどに立ち寄ってからロンドンに向かって居ました。
  それで私の理解ですが、飛行時間も考えるとこのルアンダとラスパルマスの2箇所が大切な補給基地の役割を担ってると気付きました。南アフリカ航空はアフリカ大陸では色んな制約がある中でこの2箇所を確保したもので、其処に乗客が沢山いるのとはまた別の理由があった様です。

  ここで時刻表の通りに運航したら夜中の飛行だし特に記憶に残る事は少なかったと思いますが、実際はそうは行きませんでした。
  当日の午後南アフリカ航空に照会したところ、到着便が遅れたので出発は大幅に遅れると言う。ロンドンが運航の基地の様で、ヨハネスブルグには昼頃か午後の早い時間に着いて夕刻の便になるが、それが着いていないのでどうにもならないという事です。しかし間違いなく運航するから状況を注意して呉れとの話で、ヨハネスブルグのホテルは既にチェックアウトして居り、夜中の交通も考えて夜半前に空港に移動して待つ羽目になりました。

  当時のヨハネスブルグでは鉄道の中央駅は昼間でも怖かった記憶があります。空港はずっとEuropean中心の場所でしたが、夕刻からのヨーロッパ行きの便が出た後は、ひっそりとして夜半を過ごすのは余り気分の良い時間ではありません。荷物をしっかり横に置いて眠らぬ様にじっと時間が過ぎるのを待ちました。
  出国搭乗手続きが行われたのは夜明けも間近い5時過ぎで、結局10時間余り遅れてヨハネスブルグを飛び立ちました。
  この便ははBoeing 707で割に新しい機材で中は綺麗でした。これからずっとアフリカ大陸の上空と沿岸を飛びますが、離着陸時の様子も含めて次に報告したいと思います。
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小林レポート

半世紀前の記録から:チューリッヒ2/小林 凱

  前回はチューリッヒの一般的な紹介と旅の記録を紹介しましたが、今回は違った角度も含めての記録です。この町はチューリッヒ湖(Zurich See)の水が流れ出るリマ―ト川の両岸に開けた都市ですが、町のレイアウトは前回地図で紹介していますからご参照ください。

  私がこの町を思い出すのはいつも中央駅(ハウプトバーンホフ)から始まります。(Fig.1)  ここから湖へ向かって大通り(バーンホフシュトラッセ)が伸びる街並みは何度見ても好きで、又この町に来れたと思ったものです。写真は駅の近くの通りで沢山のビルが両側に並び、その奥の方に駅ビルが見えます。(Fig.2)  その次は絵葉書で大通りで言えば中ほどの辺りから撮ったもので、手前の尖塔は聖母教会と思います。その先にリマート川とチューリッヒ湖が拡がり、中央の橋の左手に国立劇場ほかのビルが見えます。私の泊まった宿もこの先にあります。また橋の上には路面電車が見えます。(Fig.3)

Fig1.JPG
Fig.1
Fig2.JPG
Fig.2
Fig3.JPGFig4.JPGFig5.JPG
Fig.3Fig.4Fig.5
  その次は湖の近くのバーンホフシュトラッセで、周辺は建物も低く辺りは開けています。ここでも路面電車が活躍しています。(Fig.4)

  更に歩を進めて橋の近くに行くとリマ―ト川と船着き場で、その背後にあるのが大聖堂です。(Fig.5)

  こうして見ると改めてこの街で何時も活躍して居たのが路面電車だったと気づきました。チューリッヒ市内では到る所で走っていて、私も大変重宝しました。またこれらの写真から当時のチューリッヒの電車は、日本のと余り大きな差は無かった様に思います。

  話が変わってイタリアにピエロ キアラ(Piero Chiara, 1913-1986)という作家が居ました。日本では余り知られていないが、それは日本語訳が無い事もありましょう。市井の人達の暮らしを描いて映画化された作品も多い作家です。彼は北イタリアのアルプスの麓、マッジョール湖畔で生まれ終生この湖水の地を愛しました。最初から作家では無く色んな仕事を経験したが、一旦書き出すと蓄積されたものが堰を切った様に溢れて多くの作品を出しました。また彼の奥さんはチューリッヒのお医者さんの娘でした。

  キアラは大のファッシスト嫌いでムッソリーニの支配する当時の体制に反対する活動をしていたので、第二次大戦が進むと彼の命は危険に晒されスイスに亡命します。

  後年キアロの人生と作品を描いたドキュメンタリーフイルムが作られました。その冒頭は美しい湖(マッジョール湖と思います)に彼自身の台詞(私は田舎の小さな町-Luino-で生れた)から始まります。この北イタリアの地方は私は残念ながら訪れていませんが、美しい景観で古くからヨーロッパの貴族や富豪が湖畔の館を競った処です。我々の間では、大橋兄が羨ましい旅をされこのブログで紹介されています。

  このフイルムでの彼の亡命期間の描写は、ただBGMの中バーンホフシュトラッセが映し出され、其処へ路面電車が繰り返し行き来するシーンが暫く続くというものでした。これでチューリッヒとその町での滞在が表現されたという事でしょうか。私がこのドキュメンタリーフイルムを見たのは2010年頃ですが大変懐かしく思いました。それはこのシーンで埋もれて居た数十年前の記憶が呼び起こされ、単にチューリッヒの街だけで無くそこで印象に残った路面電車も一緒に登場したからだと思っています。

  そこで話が現在の比較に移って、今日の日本では大都市は別としても、もっと人口の少ない都市でも路面電車は殆ど無くなってバスに代わり、そしてLRT(Light Rail Transit)は富山と宇都宮くらいでしょうか。しかしNetで見るとチューリッヒの街では電車が大きな顔で走っていて、この半世紀の間に大きな違いが出たようです。この辺のもっと詳しい状況をご存知の方はご教授頂ければ幸いです。

Fig6.JPGFig7.JPGFig8.JPG
Fig.6Fig.7Fig.8

  当時のチューリッヒ湖ではクルーズ船が就航していました。乗船場はバーンホフシュトラッセの端にあって、そこの公園には銅像(誰のか失念)がありました。(Fig.6)

  湖はここから細長い半月形に伸びて、緩やかに左にカーブしてその奥にラッパースビル(Rapperswil)と云う町があり、そこがクルーズの終点でした。(Fig.7)

  4月のある日曜日の午後、ぶらりとここのクルーズに行って見ました。片道約2時間余の旅です。(Fig.8)

  乗船を待つ列で二人連れのお婆さんに出会いました。可成り高齢だがシャキッとして元気そのもの、仲の良い二人で姉妹か友達か判りませんが、旦那衆は既に天国であろうと勝手に想像しました。ドイツ語で訊いて来たので私はドイツ語での会話は出来ないと言ったら、強い訛りの英語で”お若いの”(Young manーなお私は当時34歳です)と呼びかけて、どこから来たのとか一人で何してるのとかごく普通の身元調査でした。考えて見ると、この様な遊覧船に私の様な男が一人で乗るのは少なく、若しかするとサスペンス小説でも連想したのかも知れません。

  このクルーズ船は席が詰まっているタイプで無く、小さなテーブルが各所に在ってその周りに椅子が配され、私は婆さん達と同じ処に座りました。

  そのフロアーには小さなバーがあり出航するとすぐ開いてオーダーを受けました。婆さん達は早速迷わず注文して、運ばれて来たのがぬる燗のビールでした。これは運び手の付いた円筒型の容器にお湯が入っていて中に瓶ビールが立ててあり、お二人はそれをグラスについで飲み始めました。私の驚いた様子に、これが身体に一番良いんだよ、お前さんも試したらどうかと言われたが、私はぬるいビールなどとてもとバーで良く冷えたグラスビールを求めました。婆さん達は二人のドイツ語のおしゃべりに戻りました。

  この日は穏やかな早春の午後で、船は途中Halbinsel.Auと云う古い砦のようなものがある村に立ち寄り、時間をかけて湖の奥の終点に着きました。約一時間この古い街を散策する中で、丘に登ると古城があると聞いたので行って見たが見るべきものは在りませんでした。(Fig.9)Fig9.JPG
Fig.9

  日曜日の午後ですが、何か日が良いのかきちんとした服装の両親が、晴れ着の女の子を連れて歩いているのを幾組か見かけたが、何の儀式だったのか覚えていません。

  帰途の船は時間も遅い所為か乗客も少なく、一人窓際の席で夕暮れの湖と連なる丘の村を眺めて過ごした。やがて日が暮れると両岸の家々に灯がついてこれは美しい眺めでした。

  19時すぎ船はバーンホフシュトラッセの船着き場に帰着、さあ近くの何処かで夕食して宿に帰ろうかという一日でした。

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半世紀前の記録から:チューリッヒ1/小林 凱

  二年ほど前にアフリカを旅した記録を、今回と同様な趣旨でレポートにして投稿したことがあります。
  この時は僅かな記録の行間を薄れた記憶を絞り出して埋める作業にエネルギーを消耗したと思いましたが、今年(2021)に入って東日本大震災に関連したブログを書いたら案外記憶が残って居ました。そこで余り固い事を考えずに、更に前の話になりますがどこまで書けるか試そうと思いました。

  題材については矢張り外地での話が楽しく、出来れば皆さんにも繋がりの有る所がそれぞれの記憶を辿って頂けるかと思います。そこで半世紀前を思い出して見たのですが、その頃良く行って居た所に西独のデユッセルドルフ(Dusseldorf)とスイスのチューリッヒ(Zurich)がありました。デユッセルドルフは最も多く行った所ですが、これは当時の東西に分割されたドイツの西側のビジネス拠点が集結していた事情から、出張時の行き先となって居たものですが、今はすっかり変わって居る事でしょう。一方二番目のチューリッヒは、このブログでも多くの級友が、目的地だけでなく経由地としても訪れている事が判りました。斎藤さんの路面電車のお話でもチューリッヒが登場していたのではと思います。そこで今回は此処をを訪れた思い出を書いて見ることにしました。

  半世紀前のチューリッヒの町を紹介します(今も基本的なところは余り変わって居ないだろうと勝手に想像しています)。全景の写真ですが、これはホテルで貰った絵葉書です(Fig.1)。当時のチューリッヒのホテルでは泊り客にポケットサイズの案内に部屋番号を記載して渡していました。Fig1.JPG
Fig.1
  そこには市内地図に宿の位置と、主要機関の連絡先や店の広告が記載され、これらの部分は各ホテルに共通でした。それと絵葉書がフロントにありました。宿泊客には家族や友人にこの町からの便りを出しなさいという事でしょう。
  1967年3月、初めてこの街を訪れた時の印象が鮮やかです。空港からのリムジンバスで中央駅(HauptBahnHof-HBF)に着くと、其処からほぼ真っすぐにチューリッヒ湖に向けて伸びる駅前大通り(Bahnhof Strasse)が素晴らしいと思いました。当時の街並みを地図と大通りの写真でご覧に入れます。(Fig.2,3)
  諸兄も滞在されたホテルの位置などチェックされると良いかと思います。実を申せば私は此処に出て来る範囲しかこの町を知りません。
Fig2.JPG
Fig.2
Fig3.JPG
Fig.3
  私が此処を訪れたのは1967年から69年の間で、残念ながら全て仕事での話です。多くの場合日本からは一人で出て、現地で欧州に駐在している方と合流して仕事をして、済むと現地の方はデユッセルドルフなどの根城へ帰るのを、HBFからの空港リムジンを見送って宿に行きました。
  当時の記録ですが67年3月中旬に行き、4月上旬にロンドン経由ニューヨークに向かっています。この時の宿が地図で国立劇場(Stadtteater)の近くにあるHotel Plaza(Map No.46-Goethe Str.)です。
  この辺は静かな区域で、劇場に行く人たちの宿と書いてありましたが、私はそうした華やかな人たちは見ていません。恐らく出歩く時間帯の違いでしょう。一人で居る時に昼間は良くバーンホフシュトラッセへ行きました。この通りには金融機関だけでなく市民が楽しむ色んなお店もありました。(Fig.4)Fig4.JPG
Fig.4
  なおこの時の週末に良い具合に都合がついてユングフラウに登ったので、その時の様子をこのブログに投稿しています。

  次は1968年3月、先ずジュネーブへ入り、あと鉄道でローザンヌ、ビエール(Biel)を経て夕刻チューリッヒに着きました。この時の宿はCity Hotel(Map No.15-Lowen Str.)、地図では駅の右下にあり駅から割合近い処です。
  その次は1969年1月でこの時の宿はButterfly Hotel,( Map.No.12- Kreuz Str.)、地図では67年の宿の少し右です。
同じく69年の4月にも行って居ますが、この時は朝早くチューリッヒに着いて鉄道でアーラウ(Aarau)という町に行き、夕刻チューリッヒに帰ってきてその日の夜の便でデユッセルドルフへ向かいました。。駅から直ぐリムジンで空港へ向かいましたから滞在と言える時間はありません。(Fig.5)Fig5.JPG
Fig.5

  この町はドイツ語圏でしたが、ほとんどの場所で英語が通じたので不便はありませんでした。なおこのブログではドイツ語のウムラート(Umlaut)マークは省いて居る点ご容赦下さい。
  通貨はスイスフラン(SFr.)で、当時の仏フランが70円位でスイスの方が強含みだった様に思うのですが、記録していません。
  食事についての記憶が少ないのは、余り良いものを食べていなかった所為でしょう。一つ覚えているのは干し肉の料理で、塩味の干し肉を薄くスライスして綺麗にカールしたものをお皿に並べて出され、各自が取ってバターを塗って食べるもので、Bundnelfreischと言った様に思いますが淡い記憶のみです。これはビールとの相性が良かったが、数人で行かないと注文しにくい料理でした。バーンホフシュトラッセで駅から湖の方を向いて右側にLowen Brau(ライオンビール)のサインの出ている店があってこの料理が出されていました。なおこのビールはピルゼン風の美味しい味でした。

  原稿を書いた後からですが、今回は何か古いガイドブックを拡げた様な話になって済みません。次回はもう少し角度を変えた話も入れてレポートしたいと思います。
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小林レポート

暦の節目で/小林 凱

  いよいよ暦も4月、春の季節を素直に喜びたい処ですが、何事にもコロナウイルス感染への配慮が付いて来るのが残念です。今回は特に変わった事ではありませんが30会諸兄へのご連絡事項です。

1,以前から3月30日と9月30日の年2回昼食会を行ってきましたが、昨年3月はご案内した後に開催を取り消しました。
 その後はご案内が出来る状況ではありません。早く状況が改善する事を願うばかりです。
2,この様な状況では私達のコミュニケーションにブログの役割が大きくなっています。これは高橋さんのご尽力にすっかりお世話になって、申し訳ない有様です。これだけは改めて高橋兄に感謝申し上げ、私達のかけがえのない絆の維持にお力を貸して頂きたいとお願い致します。
3,中林兄が逝去されてから丁度1年になります(3月3日)。先日ご遺族(奥様)からお便りを頂き、一周忌の追悼をお嬢さん共に行ったとのご連絡ありました。併せて諸兄のご厚情に感謝し、ご健勝を祈念致す旨拝承致しましたのでお伝えします。なお戸塚のご住所は変わって居ない様です。

  今回の連絡事項は以上ですが、これに加え私からのお詫びが御座います。
  先日斎藤さんのブログご投稿に、私のコメントが二重に付くという失態を致しました。これはコメントを訂正しようとした作業中、誤操作か不安定かで文章が消える事態が起き、再入力後に前のも戻って来た結果で大変失礼致しました。深くお詫び致します。
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小林レポート

大震災から10年/小林 凱

  今年も3月、東日本大震災が発生してはや10年の歳月が過ぎました。その節目に新聞やテレビなどあの大災害が私達の暮らしに遺した深い爪痕を振り返って居ます。その中で私もあそこ迄致命的では無いにしても、直接この災害を体験する機会がありました。
  2011年3月11日金曜日の午後、私は東京でこの地震に遭遇しました。
  当時私はイタリア語の学習に東京九段のイタリア文化会館に出掛けて居ました。金曜日の午後のコースが始まって、一時間ほど進んだ処で強烈な揺れが来ました。始めは皆何事か良く判らなかったが授業は中止して警戒した処へ第二波の強い揺れが来て、この時は皆テーブルの下に入って落下物を避けました。私は建物の倒壊は余り心配しませんでした。それはこのビルは数年前に建てなおしたばかりで、その際に最新の建築法規に準拠して居ると思ったからです。

  この揺れの後私達は階段で外に出て辺りを見廻しました。この後大きな揺れは無くて隣接ビルも正常の様子でしたが、通行人から近くの九段会館では会合に多数の人が集まった上に天井が崩れ落ちて多数のけが人が出た事を知りました。救急車のサイレン以外は皆停止してしまった様にしんとして状況は不明、私達はその後はそれぞれの立場で状況判断して行動する事になりました。
  暫く文化会館ビルの前に立って居たが、自然な策として東京駅に向かう人の流れに入って歩き始めました。幸い3月の穏やかな午後の日で助かりました。九段から皇居のお堀を周って東京駅に向かう人の流れが幾つもありました。道路には交通は一切無く、静まり返った東京の街はSF小説の近未来の世界に投げ込まれた様でした。
  そこを多数の人が歩いて居て職場ごとのグループと思いますが、皆整然とした行動で自分たちだけ早くといった者は居なく落ち着いた雰囲気が支配して居ました。
  この人々の行動は職場での防災訓練の結果だけで無く、自然に発生した様子も有る様に見えて、ニュースなどで見る外国での災害の様子と大きな違いを感じました。

  東京駅に着くと随分沢山の人が居たが、皆驚く程おとなしいマナーでした。改札を入って中へ進むと階段の様に見える広場があってそこには沢山の人が集まって居たが、低い声での会話が主で怒鳴る声は無かった。数台の公衆電話では皆が家に連絡しようと長い列を作って居たが、中々繋がらない様子が見て取れました。また携帯には既に交信制限がかかっている様に見えました。

  私はどうしたものかと思案して、このホールは避けて上の電車のホームへ登ってみました。売店の近くに公衆電話が在ってそこは穴場で数人しかいません。すぐに順番が廻って家に電話が繋がりました。家人には兎も角生きているから心配するな、この後電話が出来なくても安心している様に申して次の人に渡しました。

  この後駅の中に入って先ほどのホールに行きました。此処は頻繫にアナウンスが為されて、情報を得るには好適と思ったからです。人も増えて来たがその中で少し密度のまばらな処で先客に聞いたらどうぞとの事で有難く階段に座らせて貰いました。後で聞いた話ですが、この人混みの中でも人が通れるような通路が自然に形成され、それを外国紙の特派員の方が見て感銘して写真が掲載された様です。

  こうしているうちに時間は19時を廻ったと思います。新幹線のこだまが先ず動くとアナウンスされ、特急券は無くても其の儘入れて呉れました。私もホームに行くと既に満員だが何とか乗れました。随分待った後、何回も停止と徐行を重ねて先ずは新横浜まで行って私はそこで下車。行き先未定の人は横浜アリーナで休めるとのアナウンスに先ずは其処へ歩きました。此処には自販機が動いて居て、午後から始めて暖かい飲み物が入りました。観覧席の裏側の空間に避難者用のスペースがあり其処に座りました。間もなくOLらしい若い娘さんが来て隣に腰を下ろし、私の様な高齢者を不審に思ったのか、「大変でしたねお仕事ですか?」と訊いて来ました。私は仕事ならぬ70の手習いで東京に出て来てこの様な災難に出会ったと答え、ここから地下鉄が動いたら京浜急行の上大岡方面に行ける所迄行きたいと申しました。彼女はまた違う方向の交通再開を待って居ました。アリーナの中は暖房が効いていて、下はソフトなフローリングで先ずは助かりました。

  可成り夜も時間が過ぎたところで地下鉄が途中まで動き出し、私はこれに乗ろうと娘さんにお先にと別れを告げました。地下鉄は京浜急行の上大岡まで行くので、これは行ける所まで行こうとしていた私には幸でした。地下鉄の乗り場に行くと最初に入った電車には8割くらいの乗車で改札を閉め、後は途中の駅の乗客に遺して置くと説明されました。それでも私は2番目の電車に乗る事が出来ました。

  もう夜半過ぎの時間ですが上大岡の駅では人が溢れていました。私はタクシーの列についたが殆ど動かない中で区役所の方が来て、約1Km余り先の港南区民センターで帰れない人を受け入れて居るとの話が有り、私も場所を知っているので其処へ向う事にしました。同時に途中の食堂2軒に頼んで開いて貰ったのでまだの人はそこを試すと良いと教えて呉れました。

  センターへの道沿いに牛丼屋さんがあり混んでいたがすぐ入れた。メニューは牛丼1本だが昼から何も食べていない私には何でも感謝で、熱いご飯はどんどん調理している証拠と有難く頂きました。

  出ると少し先に港南区のスポーツセンターがあり、係の方が待って居られてすぐチェックインして毛布が貸与され、体育館での寝場所を紹介されました。カバンを枕に横になり高い天井を眺めると、今日(正確には昨日)の午後の地震発生から12時間、良く怪我も無しに此処まで来れた、途中の皆さんも優しかったし日本は素晴らしい国だとの実感が溢れました。しかし自分の齢(当時78)も考えてみると、いつ迄も災害時にうまく行くとは限らない、語学の勉強も考え直さないと何処かで痛い目に遭うだろうと思いました。

  この後少しうとうとする内に夜が明けて昨日同様明るい陽光が入ってきました。間もなく区役所の方が来て、京浜急行は朝から暫定ダイヤで運転開始すると知らせて下さり、私達は係の方にお礼申して駅に歩きました。私の家のある金沢文庫駅では土曜日の休日ダイヤだがバスは動いており支障無く帰宅出来ました。

  当時私は住んで居るマンション(約百戸余)の管理組合の役員が当たって居り、その午前中に理事会が予定されて居ました。顔を出すと無事でよかったと皆さん喜んで下され、流石に眠かったが皆さんに助けて頂き何とかお役目を果たせました。

  こうして震災後の初日は過ぎて行きましたが、この時点で東北での津波の凄さ、それから福島ではその後の日本を苦しめる事態が進行している状況は良く知りませんでした。何事も後になると色んな事が判って仮定も含めての批判も出ますが、このレポートでは出来るだけ当時の状態に立っての記憶を辿りました。

  余談ながらイタリア語の勉強ですが、この経験から次(4月)からのコースは好き嫌いは二の次として、早い時間のコースに変えました。更にその数年後になると聴覚の低下が始まり、先生の発音を聞き誤る様になりました。これは周波数の高い(約3Khz以上)帯域での感度低下から子音の理解が難しくなった様で、残念ですがコースへの参加を終わりました。しかし今でもCorriere della Seraとか、La Repubbulicaといった大手紙はネットでも見れるので、YouTubeなどで探して楽しんでいます。

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小林レポート

半世紀前の記録から:ユングフラウ/小林 凱

 この処コロナウイルスの蔓延でStay Homeと言われる世情から、私もその趣旨で過ごす一環として古い旅の記録を思い出して居ます。

 1967年3月にスイスの名峰のユングフラウに旅したことがあります。仕事でスイスに滞在して居た時、思いがけなく3日程の空いた時間が出来ました。その頃の海外出張は取引先の訪問が主体で、用事が済むと直ぐ次の予定に行くとか帰国で旅程の先の空きが見える事は少ないのが普通でした。

 この時の出張自体はチューリッヒが拠点の一人旅でしたが偶々週末を挟み3日の自由時間が出来て、好機を逃すなかれと当地を来訪して居た知人を誘って訪れたのがユングフラウでした。

 しかし元々見物する旅の心算で出かけて居ないので、全くの準備不足で特に写真の記録が残って居ません。アルバムも半世紀の間にすっかり痛んで、勿論ネガなど紛失して皆さんにお見せするものが無く、ブログへの投稿も考えて居ませんでした。処が先日このBlogに載った大橋さんのレポートが、美しい写真を沢山入れた旅でインターラーケン迄進まれたので、次回は恐らくユングフラウと勝手に想像しました。更に大曲さんも同じ所に行かれた事に元気づけられて、そのお話に拙文も繋がって行けたらと図々しく投稿しました。

 この時の旅程は1967/3/24(金)朝チューリッヒ発、先ず湖水の美しいルツェルン(Luzern)の街を訪ねてから、ユングフラウの麓のインターラーケン(Interlaken)に宿泊、翌3/25日に登山電車でユングフラウに登り同日下山して同じ宿にもう1泊、26日には首都ベルン(Bern)を訪ねて夕方チューリッヒに帰るもので、相談に行ったチューリッヒ中央駅の案内所で3日の旅なら一押しと勧められたものです。切符も鉄道の周遊パスを購入でき約70スイスフランでした。(Fig1)
Fig1.JPG
Fig1
Fig2.JPGFig3.JPGFig4.JPG
Fig2Fig3Fig4
 旅の初日は幸い穏やかな晴天、チューリッヒ中央駅を10:44分発の電車で出発し(Fig2)、ルツェルンに着いてからは大曲兄が先日コメントに話されたのとほゞ同じスケジュールを周りました。ルツェルンを15;12に発って夕方Interlaken Ost駅に到着、先ず翌日の旅程について推奨案を教えて貰いました。その際に貰ったのが登山電車のルートマップ(Fig3)と電車の時刻表(Fig4)で、私のレポートの中核部分がこれでカバーされています。時刻表にペンで薄く矢印が在るのは、係の方が私に説明しながら書き込んだものです。

 翌日は08:15発の電車で出発する事を学んだ後は宿(Hotel du Lac Interlaken)にチェックインし、近くの気楽なレストランで旅の初日が無事進んだ事に祝杯を挙げました。

 翌3/25(土)も素晴らしい晴天でした。この日の行程は地図と時刻表を参照してください。地図には地名が入っていますが、字が小さいので説明を付加します。地図の左下にルツェルンからの電車がやって来てInterlaken Ostに停車、この後電車は地図の右下からThunを経てベルン(Bern)方向に向かいます。

 ユングフラウへの登山電車はここから始まります。(括弧の数字は駅の標高です)

 08:15Interlaken Ost(567m)を出た電車は途中のZweilutschinen(633m)まで1本で進み、ここから左右2本の路線に分かれます。どちらを経由しても頂上に着くのは同じですが、私達は案内所の助言に従い右のLauterbrunnen(清らかな泉)経由にしました。詳しく記憶しませんがどうも左側の経由点、Grindelwaldへ行くのが午後(或いは夕方)の方が景色が綺麗に見える様に言われた様に思います。この乗換駅の周辺にはホテルやコッテージが在りました。

 08:45Lauterbrunnen(796m)を発車した電車は、ぐるっと向きを変えて山を登って行き、Wengen(1274m)を経由して乗換駅Kleinescheidegg(2061m)09:29に到着します。ここで私達は登頂線の電車に乗り換え、左のGrindelwaldからの電車が09:37に着くのを待って09:50に目的地Jungfrajochへ向け発車します。

 此処からは少し走った後はずっとトンネルの中を登ります。しかし途中に2箇所ほど見物用の停車駅があって乗客は山の中腹からの景観を眺めれます。その一つにアイガー北壁の途中から眺めるところがあって、切り立つ断崖は中々迫力がありました。この様にしてトンネルを走り続けた電車は、10:41にユングフラウ頂上に近いJungfraujoch(3454m)に到着しました。

 先ず駅から外へ出て見ると、回廊の様な見晴台が在って広大な雪の山々が広がっていた。この後少し歩いた所に遮断器など高圧の電力機器が設置されて居て、掲示板からスイスのメーカBraun & Boveriの製品試験場と判りました。説明には、同社はあらゆる過酷な設置環境に対応出来る様この様な検証を続けて居るとあったが、その趣旨は良しとして、もう少し世界の絶景への視線から離れた位置に設置して貰えばより有難いのにと感じました。

 電車の駅に隣接してホテルがあり、昨日の助言に従って少し早めに昼食を済ませた。晴れで気分が良かったのでビールも注文したが特記するものでは無かったと思います。この後エレベータに乗って展望台に登りました。晴天で実に素晴らしい眺めで、ユングフラウ(4158m)と周辺の山々に広大な氷河が圧巻でした。

 帰途はJungfraujoch 13:50発の電車でトンネルを下り、乗換駅のKleine Scheidegg14:30に到着。今度は朝登って来た路線の反対方向(地図の左側)に進み、次の乗換駅であるGrindel Wald(1034m)15:30に到着した。此処では20分の乗り換え時間があったので駅前の街へ少し出て見たが、中々の人出でホテルやロッジが並んで車も多く居ました。(Fig5 )

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Fig5
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Fig6
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Fig7

 街の背後にはアイガーの山壁がまじかに迫り西日を受けて輝いて居た。此処は大曲兄が宿泊された処で、素晴らしい眺めを楽しまれた事と推察しています。

 この後15:50発の電車で、地図で見る左側の路線を走って下り、Wilderswilを経由し16:31Interlaken Ost(567m)に帰着しました。

 翌3/26(日)はInterlaken Ost駅を09:48発の電車で10:57Bernに到着した。(Fig6) ここは首都の機関と共に中世の街並みの様な雰囲気も残っていて、日曜で閉鎖している処もあったが古い街をゆっくり探索した。(Fig7 ) この日は曇りで時には時雨れたが、初めの2日間が快晴であった事を感謝して周りました。昼食はKornhauskellerという店が感じが良さそうで入ったが悪い選択では無かった。

 帰途はベルンを15:22発の電車で、チューリッヒ中央駅に17:03に到着した。チューリッヒに入る少し前に、線路に沿って大きな工場が並んで居るところを通過したが、これがBraun Boveriの工場群でした。
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電気学会オーラルヒストリー/小林 凱

  新年明けましておめでとうございます。
  これはお知らせですが、先日発行された電気学会誌2020年1月号は特集記事として、「電気技術オーラルヒストリー~先達は語るⅡ~」を掲載しています。
  ここでインタービューを受けた8人の先達の中に太田宏次さんもあって、その話された内容の”現場に立脚し「給電工学」を確立”が載っていますから、クラスの諸兄も是非ご覧になる様お知らせ致します。
  なおこの時の記録は太田さんの方で冊子にまとめられ、2019年3月30日の30会例会の折に出席者に配られましたから、電気学会誌をお持ちで無い方もそれを再読されるのも宜しいかと思います。
  ここで電気学会誌の記事のベースになっているのは聞き取り概要の方ですが、併せて聞き取り全記録も付いて居て懐かしい話も出てきます。

  以上ですが、皆さん今年も元気にお過ごしの上Blog上でもお目に掛かりましょう。
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半世紀前の記録から:南アフリカ(4)/小林 凱

  このレポートはこの国の各所を訪れているので、再度地図を入れて置きます。(Fig. 1)

  今回(1966)の南アフリカ訪問の目的は、この奥地で計画されていたプロジェクトに参加する為の準備でした。
Fig1.JPG
Fig1

  入札に備えて調査する内に、現地に付いての色々な知識が必要になって来た。これは当然の事であって、事前見学を希望する者は申し出て許可を取り行う様に指定されていた。私たちは遠い国から来て何も知らないからこれを申し出る事にしたが、問題は現地へ行く手段で陸路は時間が掛かって実際的ではない。当地では普通に飛行機をチャーターして行く様で、その場合は着陸する飛行場も指定されていた。そこで私は代理店として仕事で組んでいる現地の商社の人と二人で出向くことになった。
  飛行機はこの代理店が手配して呉れて、小型機のオーナー兼操縦士の男とアフリカの空を旅する事になった。この操縦士は以前にも使ったことがある様で、本名は忘れたが通称チムニー(煙突)と呼んでた。訳を訊くと会えば判ると笑っていた。
  出発の朝指定されたヨハネスブルグ国際空港へ行った。私は元々町はずれの小さな飛行場辺りを想像して居たので、この指定には驚いた。操縦士に会うと彼は本当にチェンスモーカーで煙草を片時も離さない。渾名の訳は分かったが彼一人で操縦しながら煙草に火などつけて大丈夫か心配になった。飛行機は単発のセスナ機で、座席は前後各2席、前席はチムニー氏と彼のカバンや喫煙道具、後席に我々二人が乗り組んだ。
  私達は暫く誘導路で待って、指示が来てチムニー氏はさあ今だと飛行機を滑走路に移動させたと思うと、すぐに速度を上げ忽ち空中に浮かんだ。
  当日は好天であちこちに雲が浮かんで居るだけで風も穏やかで、高度は2km位かと思うが展望されるアフリカの大地はずっと先まで広大な高原が拡がり、素晴らしい眺めであった。私達は北西の方向、内陸に向かって進んだ。この辺りは搭乗前に見た地図では茶色になって居たが、それは高度を示すもので実際は木や草原の緑に覆われていた。始めは所々に町、或いは建物が見えたがあとはそれも無くなった。私は草原を駆ける動物たちの姿も期待していたが、それが見える事はなかったものの、広大な景色だけで十分に楽しめた。
  暫く飛んだところで、遥かに爆発音が聞こえ花火の様な白煙が見えた。チムニー氏は鉱山の発破の由であの上に居たら一発だが、その場所と時間は聞いているから心配するなと言われた。
  それから間もなく前方に奇妙な景色が現れて来た。それは一辺が数百mもあろうかと思われる巨大な四角形の穴で、丁度エジプトのピラミドを逆さまに掘り出した跡の様な形をしていた。その斜面には地表から底まで並行に階段の様な線が刻まれて、細く見える線上には実際は巨大な重機と思われるものが点の様に置かれていた。階段状の斜面にはコンベアーと思われる線状の設備があり、地上には四角の一辺に沿って鉄道の線路が引かれて居た。
  私達はこの逆ピラミド穴の近くの上空を通過したが、そこから離れてこの様な穴が数個在るのが見えた。私は日本で東北の小坂とか細倉などの鉱山を訪ねた事があるが、そこでは奥深い山の斜面から地中深く坑道が掘られ、トロッコで地上に運ばれた鉱石は山の斜面にある選鉱場で選別され精錬所に運ばれていた。しかし此処はそれとは全く違う鉱山の景観であった。
  この後暫くして私達は指定の飛行場に到着した。ここは雑草の生えた滑走路に吹き流しがある程度の所で、セスナ機を端に置いて迎えの車に乗り換えた。駐機したセスナ機の左に居るのがチムニー氏である。(Fig.2)Fig2.JPG
Fig2
  それからこの辺りを案内して貰ったが、ずっと平坦な草原と木々で動物に出会う事は無かった。後日この辺りに長期滞在した人の話では、数種類の動物を見かけた様だが、それは滞在した時間の幅も違う。
  見学後、私達は再び素晴らしい眺望を楽しみながらヨハネスブルグ空港へ帰った。上空で待機して管制塔の指示が来ると、チムニー氏はさあ今だと急遽滑走路の上空に移動し、まだ可成り高度がある様に見えたが降下して地表近くでぐっと機首を擡げ軽くトンと着陸した。それから滑走路を少し真っすぐに走っただけで急ぎ横の側道に退避した。後を振り返ると大型の旅客機が轟音を響かせて離陸していった。

  この旅をした後、動物が全く見れなかったと話したら動物園を見に行けと言われた。冗談かと思ったが事務所の日本人の人から一見の価値ありとの話で、次の週末に行ってきた。判った事は日本とは違って広大な敷地に動物が放たれて、人間は遊歩道の様な通路を動物に眺められる様な形で見物していた。この動物と人を視界を妨げない様に仕切るノウハウには感心した。(Fig.3)  またこの動物園では野生動物の餌やりがアトラクションの様で、入園するとそのスケジュールを呉れたが、私は時間の都合が悪かったのか何の餌やりを見たのかよく覚えていません。(Fig.4)
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Fig3
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Fig4

  今回のプロジェクトでは、私は先述の現地代理店と組んで仕事をしていたが、この商社は本店がケープタウンで、私はヨハネスブルグの支店と日頃接触していた。11月も後半に入った頃、次の打ち合わせは本店でやりたいと言って来た。これには私がヨハネスブルグしか知らずに帰るのは可哀そうだとの配慮が感じられたので、有難くこの申し出を受けた。JohannesburgとCapeTownの間は、南アフリカ航空の便が日に何便もあり2時間弱のフライトで行ける。数日後私はケープタウンに向かった。 空港から市内ターミナルへのリムジンは0.5Rand(1Rand=¥500)、海に近いこの町は何か空気が優しい感じがして、大航海時代から商業の中心として栄えた歴史が、町を歩く人たちにも残っている様に思われた。バスを降りると代理店のオフイスはすぐ判った。
  午後の打ち合わせの後、夕食会をしてくれるとの事で、その前にホテルに入るため外に出ると街には沢山の人が歩いていた。(Fig.5) 夕食会はオフイス近くのレストランで先方の幹部も出て、ずっと中華の一品料理で過ごしていた私には大変美味であった。特に当地の赤ワインが料理に良く合った様に覚えています。Fig5.JPG
Fig5
Fig6.JPGFig7.JPGFig8.JPG
Fig6Fig7Fig8
  翌日は打ち合わせは早めに済ませてケープタウンを案内してくれた。先ず訪れたのはこの街の背後に聳えるテーブルマウンテンで、高さ約1000mの岩山が街を見下ろす様に聳えている。麓まで車で行きロープウェイで山頂に登るとケープタウンの街が真下に見渡せた。(Fig.6)(Fig.7)
  この後山を下りてから少し離れた喜望峰(Cape of Good Hope)の近くに行った。(Fig.8) 岬の先へは公園を徒歩で行くので時間も掛かる由、残念だが割愛してヨハネスブルグに帰った。
  その次週、私は当地での予定を終えて南アフリカを発った。