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60年会

60年記念クラス会/錦織孜 写真:八鍬和夫

resize0075rs.jpg 私たちが東大を卒業したのは昭和28年(1953年 癸巳 ミズノト・ミ)であった。それから干支(エト)が一回りした今年、卒業60年記念クラス会を持った。
 卒業年次の昭和28年にこだわって日付は5月28日、場所は巣立った東大構内である。赤門を入ってすぐ右の学士会分館跡に建てられた伊藤国際学術研究センター2階のFaculty Club に集まった。定刻30分前にはほとんどの顔ぶれがそろい話が弾んでいた。
 正午にクラス会が開催となり、中西幹事から、「初めは1泊旅行を考えていたが、昨年暮れに幹事および在京有志が集まり協議した結果、なるべく多くの方が参加できるようにという趣旨で、泊りはやめにして本郷キャンパス内のレストランでのプランとしました。会員16名、ご夫人6名計22名(注1)と、多数の参加を頂き喜ばしい限りです。食事を楽しみながら歓談をし、解散後は校内を散策しましょう」との挨拶があり、皆の健康を祝して乾杯。
 (注1)出席者 乾、片岡、工藤夫妻、倉持、佐々木夫妻、高砂、垂井夫妻、塚本、
           中西夫妻、錦織、野沢、濱崎夫妻、三谷、物井夫妻、森島、八鍬
     過去7年間のクラス会出席者数(同窓会ブログ参照)
          平成年度 19 20 21 22 23 24 25
           出席数  21 26 19 16 19 21 22
          内夫人     3  5  3   2   2   4   6

 従来、5年目ごとの節目のクラス会では恩師の姿を拝しお話を頂戴していましたが、今年はご高齢のこともあり、お招きしませんでした。恩師に会えない寂しさはあったが、心の中では未だにご健在であり、授業中でのちょっと変わったやりとり、就職についての良いアドバイス、外国論文で助けてもらった話など、先生の前では遠慮して話すことができなかったことなど、意外な新しい師弟関係の発見もあった。

     今回は、それぞれ好きなテーブルに座ってお互いに話し合って旧交を温め、楽しい時間を過ごした。歓談風景を写真で紹介いたします。二時に工藤幹事の閉会の挨拶があり、来年5月28日に再会を約し解散となった。
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 ゆったり座って
 思い出話など

それぞれ写真をクリック
すれば拡大できます
 
有志で校内散策にでかけた。伊藤国際学術研究センターの伊藤さんとはだれだろうと話していたが入口の表示板でイトーヨーカ堂創始者の伊藤雅俊夫妻であることが分かった。鬱蒼とした林の中の石段道を下って三四郎池へでる。また上がって濱尾新総長像を見て安田講堂前にいく。工学部2号館まえで右折し元3号館へ向かう。なんと3号館がまだあるのではないか。一瞬そう見えたが、少し明るい色で昔の雰囲気を残しつつ新しい建物が建設中であったのだ。理学部1号館で小柴先生のノーベル賞受賞を心に刻み、ここで皆と別れ家路に向かった。
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60年会

60年記念クラス会の打ち合わせ<br /><br />  1泊旅行は取りやめ本郷で実施 / 錦織 孜<br />

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 中西幹事から60年記念クラス会の相談をしたいからとメールがあったのは11月23日であった。打ち合わせ予定日は12月16日午後1時から3時まで。幹事会を開くので有志も参加して相談をしようというものであった。
 当日は総選挙の日であったが、全員が期日前投票または早朝投票を終えて9人のメンバーが集まった。全国平均投票率59%の低さに比べて、全員が投票を終えており、歳はとっても国民の権利はきちんと行使してきた。

 定刻前には全員が代々木クラブに集まり、昼食を取りながらの会議となった。中西幹事が事前に用意した3つの案(伊香保温泉宿泊、箱根温泉宿泊、都内食事)を参考に検討に入った。 
参加者(*印は幹事) 工藤、*中西、*八鍬、高砂、塚本、野沢、三谷、物井、錦織 
  
 

 1泊旅行は6月の定例クラス会で提案され雰囲気としては伊香保温泉あたりが大勢を示していた。
しかし過去の宿泊付クラス会の実績では、50年会(豪華客船ぱしふぃっくびいなす号で東京湾回遊 2003年9月29-30日 岡村、宇都宮両先生ご夫妻招待)では 24名+夫人9名であったが、52年会(仙台秋保温泉宿泊ー平泉見学 2005年10月27-28日)では 13名+夫人4名と激減した。年と共に健康上の問題もあって宿泊旅行では不参加者が増えることを考えると、20名の参加の見込みが少なく、都内で実施する方が良いのではないかとの意見に傾いた。さらに東大構内にあった学士会館分館跡に新しい施設ができているという情報から、別の日に調査し、東大周辺散策も考えて、本郷で5月28日実施することになった。
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戦時中・思い出

故郷 / 中川 和雄

  昨年度の冬学期末、近くの大学で受講していた「自然資源経済論」の最終講義は「福島原発被災からの復興・再生を考える」と題する市民公開シンポジウムでした。参加者は大教室をほぼ満たしました。シンポジウムが終わるころ、主催の教授から「被災地の復興を祈って、『故郷』を合唱したい」と提案されました。参加者は全員賛同し、懐かしい小学唱歌『故郷』の歌詞が正面スクリーンに投影されました。
教室を満たした二百数十名の合唱が進むにつれて、故郷(三重県 津市)にも厳しかった戦中・戦後が、想い出となって重なってくるのでした。


「兎追いし かの山   小鮒釣りし かの川」

  長兄が中学生だった昭和10年頃までは兎狩りは県立中学の学校行事でした。近くの里山の麓を低学年生が取り囲み、草むらにひそむ兎を上へ上へと追いあげます。頂上近くには上級生が網を用意して待ち構えています。逃げあがってくる兎を追いかける様子などを兄は楽しく話してくれました。私らの時代は戦争で、兎狩りは既になくなっていましたが、戦後、山越え7 kmの通学の帰途、春には少し道を外せば陽だまりの斜面には、わらびがびっしりと芽を出していました。夏にかけて水を張った田んぼでは無数の田螺が拾えました。これらを採り集めて帰ると、母が煮付けや木の芽和えに美味しく料理してくれました。
 

「如何にいます 父母   恙なしや 友がき」
敗戦の日、父は50代半ば まだ若く元気でした。けれど戦災によって家と家財と蓄えのほとんどを失った父には、戦後の日々はあまりにも苛酷でした。間借り生活が続く昭和21年2月17日 突然、金融緊急措置令が施行されました。いわゆる新円切替えです。翌月2日限りで、それまで流通していた紙幣は効力を失います。手持ち現金はすべて銀行に預金するほかありません。そして預金は封鎖です。一ヶ月に戸主300円、家族は一人につき100円しか引出せません。わが家は八人家族。一ヶ月 1000円に過ぎません。さらに加わったのがいわゆる復金インフレ、すなわち 政府全額出資の復興金融公庫貸出しに基因するハイパー インフレーションはわが国近代経済史上 最も激しいインフレーションでした。貨幣価値は日に日に下落していきます。家業は戦時下に公布された企業整備令により心ならずも廃業していて、所得はありません。八人家族が生きるため、父はその再開に努めました。もとより焦土の街に店舗を構えることは望めません。行商です。復員した兄たちも暮らしをたてることに懸命でした。それまで重いものを持ったことのない母も重い風呂敷包みを背負って村々を回りました。社会の激変に生活は苛酷でした。父の傷心は深く 体力も気力も みるみる衰えました。そして・・・・・ 敗戦の日から僅か一年八ヶ月。昭和22年5月3日、新憲法施行の夕べ、父は失意のうちに世を去りました。共に苦労を重ねた母も既に亡くなりました。
生活に事欠く戦災家族に、親切にしてくださった村の人々にも、失礼したまま長い々々年月が流れ去りました。鰻取りを教えてくれた子供たちはその後どうしたのだろう。彼らの鰻取りは実に巧みだった。教えてもらっても私は、彼らに はるかに およばなかった。

和20年11月、政府の議会への終戦報告によれば、市街地を狙った米空軍の無差別爆撃による罹災者数は8,054,094といわれます。夥しい人々は焦土と崩れさった国土に、この国の復興と生活の再建を切に希いました。「必ず元に戻す!」と焦土に誓った人々は多かったと信じます。被爆の翌日。まだ火照っている街の舗装を踏んで、我が家の焼け跡に立った中学3年の私もその一人でした。疲れきった人々は懸命に働きました。そして以前に優る豊かさを戻しました。長く苛烈だった復興の日々、戦い敗れた人々を内に抱いて めぐる里山の起伏も、清らかに流れる河川も、故郷の山河は、こよなく優しく美しかった。
「山はあおき 故郷   水は清き 故郷」
合唱は終わりました。

敗戦の惨禍にすべてを失いながら懸命に生きた日々も、今は懐かしい思い出となり、余韻は淡い感傷さえ伴って胸に沁みてきます。隣席の学生さんたちに話しかけてみました。
「あなたたち山に兎を追ったことありますか?」
「うさぎ? 山に兎がいるんですか?」
話はかみ合わないようです。
「川で鮒を釣ったことはありますか?」
「・・・・・」
彼はなにか怪訝な顔付き。私は両手の人差し指を十糎くらいに開いて
「ホラ。これくらいの小さな鮒。釣ったでしょう」
彼は納得しました。スクリーンに映し出されている歌詞を指さして、
「あの漢字(鮒)、フナと読むのですか?」
「・・・・・」
時代は遠く流れ去りました。

里山に 昭和は遠く なりにけり。
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論説・提言等

ネオ重商主義の勧め / 工藤 康 

 「五輪のニュース」で沸き立っている裏で、日本の「大変さ」は引き続き深刻さを深めている。1000兆円を超えさらに留まることを知らない政府長期債務は、10%はおろか25%の消費税ですら焼石に水であるのに、政治家は矮小化した議論にうつつを抜かしている。気が遠くなるような話で、誰も本題に入ろうとしない。尖閣や竹島に仕掛けられる小競り合いに目を奪われて、大局的な備えが疎かになっては一大事である。日銀が、日銀法第2条を墨守して「調整インフレ」型の量的緩和策に終始するのは、やむを得ないが、さりとて無為無策の今の状態が続けば、我が国は備えのないまま財政破綻に突入する。我々の世代は、見通しもなく対米戦争を始めた昭和10年代の指導者と同様、後世の人々から指弾されることになるであろう。景気回復は掛け声だけで、もはや景気回復のために打つ手はないとの無力感が広がりつつあるが、果たしてそうであろうか。
 このテーマは、電気系のブログには馴染まないかも知れぬが、本学の関係者は多士済々であり、どなたかのお目に留まって日の目を見る機会もあろうかと思い、敢て一石を投ずる次第である。


提案内容梗概
 ケインズ政策としての財政出動による有効需要の創出は、資本主義にとって依然として有効な武器である。問題は、結果として起こる政府累積債務の増大であるが、これを避けるため徒に緊縮財政に走るのは本末転倒である。ここに提案するネオ重商主義は、債務に対するカウンタバランスとして、国家が積極的に利殖資産を保有するもので、さらには、ケインズ政策では考慮されていない適正インフレ率制御を通して投資景気水準の持続的維持を支援し、ケインズ政策の補完的強化を図るものである。また、我が国にとって近い将来憂慮される世界的食糧・資源争奪危機に対する一つの対策にもなる。

 

構造化する財政危機
 ギリシャの財政破綻に端を発する信用不安の懸念は世界を覆いつつあり、日本にとっても対岸の火事ではない。この問題は、昨今に限ったことではなく、日米両国を始めとして各国政府債務の増大は、永年に亘り財政を蝕んで居り、単なる財政規律弛緩問題の範疇を超えて構造化の様相を呈しつつある。世人の関心は決して疎かではないものの、これといった未来展望は提出されていない。
 構造化の背景には、過去半世紀の間、民主主義の負の側面であるポピュリズムが蔓延し、ケインズ政策としての財政出動を続けた結果、大恐慌を回避して経済成長の恩恵を享受した反面、長期債務の累積が増大したことが指摘されよう。これに対する緊急避難的対策として、緊縮財政を含む財政再建が模索されているが、これはケインズ以前への回帰を意味しており、再び大恐慌を含む景気変動の波に曝されることを覚悟せねばならない。長期債務の抑制は、単なる増税だけでは不十分で、経済再生による税収増に頼らねばならないが、そのための財政出動は、長期債務をさらに増大させるというディレンマに陥っている。
 ケインズの有効需要の理論は死んだわけではなく、経済再生のための財政出動が依然として強力な武器であることに変りはないから、我々が当面する命題は、財政出動を可能にするために、必然的に生じる政府債務の増大に対する有効な対策を発見することに尽きよう。
 ここで、我々は、有効需要とは、消費性向と呼ばれる社会の心理的特性に依存して社会が消費支出に充てると期待される額(D1)と新規投資に振り向けると期待される額(D2)との合計(D)であるというケインズの指摘を改めて想起すべきである。20世紀は、財政出動が直接Dの増大に結びつく環境に恵まれたが、21世紀に入ると、新たに参入した後進国に対する先進国の競争力の喪失が、増大した債務の解消を著しく困難にするという予測から、Dの増大に結びつく期待心理が生じ難くなっている。これが、現在の経済の根底に潜む病根の一つである。
 緊縮策が財政の先行きへの信頼を高め、消費を増やすという「非ケインズ効果」も知られており、デンマークやアイルランドの経験が挙げられているが、常に起きるわけではない。必ずしも緊縮策に頼ることなく、積極的に国民の不安を取り除く方策が求められる。
 さらに、我々は、貨幣価値が下落するという期待は投資を刺激し、それゆえ一般には雇用をも促進するというケインズの主張をも改めて想起すべきである。20世紀を通じて、我々は財政出動による有効需要の創出に注力してきたが、今や適正なインフレ率の定常的な維持を積極的な経済政策の一つとして取り上げる必要がある。この観点の欠如が経済の根底に潜むもう一つの病根である。
 ここまでの分析で明らかな如く、望まれる処方箋は、先進国の競争力喪失に伴う税収低下の下においても長期債務の軛から解放される策を提供すると同時に、適正なインフレ率を保証するものでなくてはならない。円安に誘導して輸出を刺激するといった政策は、後進国との賃金格差の真っただ中へ飛び込む自殺行為である。資源に乏しい我が国は、円高による輸入価格の低減効果を享受しつつ、賃金格差の影響を受けない先端技術の差別化に活路を見出すと同時に、数量輸出に頼らぬ外貨獲得を目指すべきである。


ネオ重商主義
 税収低下を容認しながら長期債務の軛から脱却し、数量輸出に頼らぬ外貨獲得を目指すという一見不可能な方策を実現するには、一つの方法がある。それは、国家が運用目的のSWF(Sovereign Wealth Fund)資産を保有し、そこから得られる利潤を国庫収入とする方法である。
 例えば、日銀にSWF専用の政府当座預金口座を開設し、特例として預金残高および当座貸越残高のいずれをも無利子とする。当座貸越として300兆円を引き出し、その金で超優良な外貨建て資産を購入し、年利回り5%で運用することはそれほど困難ではあるまい。複利で運用すれば20年後には元利合計800兆円になる。その中、300兆円で当座貸越残高を解消しても、500兆円の純資産が残る。さらに20年間複利運用すれば、40年後には1300兆円になり、現在の国債残高を帳消しにして尚余りがある。事程左様にうまく行くとは限らないものの、例え何年かかろうとも将来過酷な増税に頼らずに政府債務を帳消しにする道筋が示されれば、国民は安心して生活でき、この国に本当の活力が戻って来る。借金の影に怯えずに毎日を過ごせる最低限の手立ては絶対に必要である。
 当座貸越をしても、それを費消するわけではなく、それに見合う資産を購入し保持し複利運用で殖やして行くのであるから、円の信認は揺るがない。しかも、一定期間後には、貸越残高を解消するのであるから、将来に禍根を残すこともない。
 国家が運用目的の資産を保有するのは、従来の常識にはない発想ではあるが、老境に入った人が金融資産で生計を立てることを思えば、それ程おかしな話ではない。我が国の過去の蓄積が300兆円の当座貸越に対する一種の担保となり、これを側面から間接的に支えることも見逃せない。蓄積のない新興国がこれを真似ても、自国通貨安・インフレに陥る怖れなしとしない。円高・デフレの状況にある我が国のみがこのような施策をとれる資格があるとも言えるのである。
 この政策は、かつて重金主義から貿易差額主義への道を歩んだ重商主義を、さらに資産運用主義へと変貌させるもので、これをネオ重商主義と呼ぶことができる。
 このネオ重商主義は、一旦緩急ある時の債務デフォルトに備えて資産を保有するものであり、この資産は「デフォルト保険準備基金」という性格を持つ。平常時にこれを取り崩して国債を償還するのではないから、必ずしも国債発行残高に正確にリンクしなければならないものではない。あくまで不測の事態に対する国民の安心を担保するものであればよい。
 以上に述べたところは、構想の概略を示すための粗描であり、実際の運用に当たっては、より精緻な検討に基づく実施可能な政策にまとめ上げる必要がある。

具体的な政策立案
 当座貸越をしても、資産購入に充てる限り、理論的には円の信認は揺るがないが、大量の円が市場に放出されるので、円の需給関係が軟化し、インフレ傾向が生ずる。しかしながら、現在日銀は大量の国債を保有し、かつ超低金利政策をとっているので、保有国債を全量市場に放出すると同時に、公定歩合を上げ市中銀行への貸付金回収政策に転ずれば、合計で約100兆円の日銀券を回収することができる。これは、100兆円までなら、円の需給関係に影響を及ぼさずにSWFによる資産購入を進めることが可能であることを意味する。ついでながら、保有国債の全量放出と公定歩合上げにより、日銀の抱える異常状態(国債の保有、超低金利)は完全に解消される。
 それ以上に資産購入を進めるに当たっては、インフレ率が政策指標となろう。ここで、期せずしてこの施策は、我々の掲げた第二の政策目的すなわち適正なインフレ率の定常的な維持と密接な関係を持つに至る。すなわち、例えば、目標インフレ率を年率2%に設定し、市場の動向を注視しつつ、機動的に資産購入を進めて行くことが考えられる。悪性インフレに陥らぬためには、景気の回復を直接の目的とすべきではない。現在の我が国には、強いデフレ傾向があるので、インフレ率を2%に抑えても、相当量の追加資産購入が可能であろう。但し、資産購入に相当する円が市中に出回ることは否めない。日銀による回収はこれ以上望めぬので、現預金の形で保有されることになり、過剰流動性が生まれる余地はある。警戒すべきはバブルの発生であり、適正な規制措置が必要である。結果として、長期債務返済のための増税懸念が後退し、インフレ率が定着した局面では、過剰流動性の行き先は先ず株式となり、株式市場が活性化し、富裕層の消費意欲が刺激され、景気上向きのトリガとなり、引き続き高級住宅、高級自動車、高級家電などが景気牽引力を発揮することが期待できる。さらに、再生エネルギの開発・農業改革などの将来課題に資金が流入するような誘導政策が望まれる。景気を浮揚させるために、国家が資産を購入して金融緩和を図るという手法は従来も検討されて来たが、目的を景気浮揚に置く限り、悪性インフレへの暴走懸念が常に付きまとって来た。しかしながら、ここで検討する施策は、寧ろ適正なインフレ率を目標として資金の供給量を制御するものであり、景気浮揚を目的とするものではない。景気浮揚はあくまで副産物と認識し、運用指針を従来とは全く異なった方向に定めることにより、新たな可能性が生まれて来る。
 インフレ傾向と共に予測される影響は為替相場である。常識的には円安の可能性が高いが、為替相場には思惑の入り込む余地が大きいので、円安と円高の両方について検討して置く必要がある。
 円安に振れた場合には、輸出産業が恩恵を被るので、公定歩合を下げ、輸出ドライブをかけて経済の活性化を図ればよい。その間は、資産の購入は鈍ってもよい。円高に振れた場合には、外国資産の割安な購入を加速することができる。公定歩合を上げ、円高を支えると共に、市場からの円回収を図る。円高・円安のいずれに振れても、それに見合った公定歩合の調整と資産の購入を組み合わせることにより、国富の増大を図ることができる。円安の時は資産購入が減り、円高の時は資産購入が増すので、保有資産の平均取得原価は漸次低下する。
 資産保有に伴う懸念は、保有資産価格そのものの低下である。従って、先ず第一に求められるのは、敏腕トレーダの確保である。運用資産の大きさから言って、政府の力による第一級の人材の大量雇用は容易であろう。仮にプロ野球選手並みの報酬を与えても充分採算がとれる。
 「デフォルト保険準備基金」としての性格を貫くためには、年度予算からの独立性を確保すると同時に、運用に関する高い透明性を保持する仕組みが欠かせない。日銀とSWFとは原則として互いに独立性を与えられる。従来は、日銀が金利政策のみで、物価と景気の両方を制御するために、超低金利とデフレの両方を同時に解決することが困難であったが、新しい仕組みにより、互いに反する政策を独立に制御することが可能になり、硬直的な経済金融政策から脱却することができるようになる。


 尚、粗描で示した当座貸越額300兆円という数字は、一つの例示に過ぎず、実際の政策遂行に当たっては、状況に応じて随時補正して然るべきである。経済が活性化して実物的要因による需要インフレが起こる状態になれば、インフレ率を2%に抑えるためにSWFによる資産購入は鈍化し、時には資産売却による円の回収場面も生ずるであろう。かかる場面でも、資産自身が生む収益によって資産残高は複利的に漸増する。

 SWF導入の発想の発端は、外貨資産の保有による国家収入の確保にあったのであるが、上記の検討過程から導かれる結論としては、寧ろ適正なインフレ率保持に重点を置いて運用するのが望ましく、副次的に経済活性化を齎し、副産物として長期債務の増大に対するカウンタバランスを得るというスタンスに立つべきであろう。これは、米国のQE(Quantitative Easing program)が、主目的を景気回復に置いているのに対して、適正インフレ率の保持を目的に置くことで、一線を画すものであり、景気回復のオブリゲーションから解放することで、悪性インフレの発生は確実に阻止できる。景気対策はあくまで財政が責任を負うべきであり、日銀およびSWFはその責任から解放すべきである。

世界経済再生のシナリオ
 前述したように、この施策をとれる国は、現下のところ、円高とデフレの日本以外にはない。日本が世界に先駆けてこの施策を実施し、自国内景気を好転させ、後進国からの輸入を増やして後進国経済の活性化を助成し、やがては先進国全体にも経済再生の影響を及ぼすことが、謂わば日本に与えられた世界的責務であろう。やがては、世界各国がすべてこの施策をとれば、ケインズ政策の弱点が克服されよう。グローバル化の資本主義の下では、富が企業と富裕層に集中し、格差の発生が避けられない。この富を徴税という手段のみで再分配するのは、資本主義の制約の下では容易ではない。この施策は、国家がSWFによる市場参加を通じ、利潤という形で資本主義のルールに則しながら、富を企業と富裕層以外に国家そのものに還流させる機能を持つ。自由競争を堅持し、資本主義活力を枯渇させることなく、国家はSWFを間接的な担保として積極財政政策を進め、税収にSWFの担保力を組み合わせて、富の再分配機能を果たすことができる。

 SWFの運用は、常に目標インフレ率の達成を指針とすることにすれば、自ずから国力に見合わぬ恣意的な運用を防止することができる。財政出動による有効需要の創出とSWF拡大による適正インフレ率の維持により、持続可能な経済成長と財政再建が同時進行する。
 近い将来我が国の経済に予測される危機は、世界的な食糧・資源不足によるスタグフレーションの発生である。これに対しては、財政出動により農業改革・農業の工業化を進めると共に、SWFを通じて海外農業生産・資源開発企業を支配下に置くことが肝要である。この面においても、SWF施策の早期拡充が望まれる。

まとめ
 SWFの運用というネオ重商主義の採用により、適正なインフレ率を持続的に実現すると同時に、目に見える国富の増殖を図り、国民の期待心理の好転を梃に、投資活動を活発化させ、持続的な経済成長と財政再建を進めることができる。
 景気浮揚は日銀による金融緩和をもって実現すればよいとの論には、大きな見落としがある。日銀は、銀行である以上、限界がある。資産の購入は、安定確実な国債などに限られる。適正なインフレ率の維持および利殖による国富の増強には力が及ばない。景気浮揚の責任を日銀に押し付けるのは筋違いである。下手をすれば、財政規律の弛緩と悪性インフレを招きかねない。景気浮揚はあくまで財政の責任である。中央銀行は、プレイヤとしての市場参加には馴染まない。SWFによってのみ、市場参加を通じての政策実行が可能になる。

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論説・提言等

福島第一原発事故の拡大(その一)/ 濱崎 襄二

- (1) はじめに -

2011年 3月11日の大津波による東日本太平洋沿岸一帯の激甚災害は、凄惨そのものでした。1945年の無差別爆撃後の焼け野が原を見る思いでした。大津波警報の第1報では高さ 3メートル超程度の大津波と予報されましたが、実際にはその 5倍も、場所によっては 10倍も大きいものでした。余りにも過小な予報の故に逃げ場を失った大勢の人々が命を落としました。スマトラ島西岸沖の大地震後の喧伝に反して、「地震と津波」に関する日本の科学技術に基づいた気象庁予報は殆んど無力、場所によっては有害でした。

東北地方太平洋沿岸地帯在住の方々は、百年を超える過去の経験に学んで、大津波に備えて巨大堤防を整え、毎年の訓練を積んでおられたと見受けます。しかし、予報を遥かに上回る、千年に一度という大津波が襲来し、沿岸部の一切を攫い流してしまいました。百年にも満たない命に頼る人々が、果して千年に一度の災害に備える事ができるのでしょうか?メキシコ大地震、トルコ大地震も五百年に一度と云う災害でした。大災害の址に立って、生き残った人々は天を仰いで悲しみに慟哭し、地に祈って立ち上る勇気と力とを偏に希うのみです。

本文では、2011年 3月11日の大津波による激甚災害を引き金として起こった所の、福島第一原発事故拡大について、テレビと新聞の報道が余りに不可解・不条理であると思いますので、クラスの方々、同窓の方々のご意見を伺いたいと希望して、私見を述べたいと思います。尚、この問題については、一年余り前に投稿した下記文書もご参考頂ければ幸いと思います。

 濱崎襄二;「25年を迎えた三次元映像のフォーラムと福島第一原発事故」
  “3D映像”, Vol.25, No.2 (2011. 6), pp.49-52 
   -

- (2) 科学の信仰 (Belief in Science) -

日本に住む人々は今後千年の間、核技術や、遺伝子操作を含む細菌・生物や、或いは、化学性毒物を用いた恐るべきホロコーストに巻き込まれないで生き延びる事ができるのでしょうか?

「科学」 は有史以前の農業・冶金の発明以来、人間社会と深く関りながらも自律的と思われる進展をしていると見えます。1930年頃に原子核人工崩壊実験が成功し、直ちに原爆開発が着手されました。文明、取り分け 「科学」 分野と、科学発展に伴った社会構造変革において、遅れを取っていた南北アメリカ大陸の原住民は、到るところでホロコースト的な殺戮に遭遇し、辛うじて少数の人々が生き延びています。「科学」 の破滅性に早く気付いてその進展を抑圧したチベットの人々は、今や自由を奪われた奴隷の境遇にいると云えるでしょう。過去の歴史を辿ると、「科学」 の進展は民族存亡の鍵でした。

宇宙飛行士ガガーリンは、ソ連科学者と最優秀ソ連軍人の夥しい数の(犠牲の)屍を乗り越えた最初の生還者でした。米国 NASA のスペース・シャトル、チャレンジャー号が大統領の目前で砕け散り、搭乗者が無惨に全滅した時、米国民を代表した大統領の第一声は、犠牲者に手向ける深い哀悼の旗印として、事故を克服して次なる挑戦を誓う声明でした。それらは、形あるものの中で唯一頼れるのは「科学」であり、「科学」の消長に国家、民族の存亡が懸っている事、に関する信念の顕れでした。過去において絶大な犠牲を強いて今日まで成長した「科学技術」によって、更なる大きな犠牲(「試練」)を強いられようとも、この犠牲は次なる発展によって克服されなければならないのです。この心情態度は、「信仰」と呼ばれるものでしょう。現代の人間は、洋の東西を問わず(一元的であるか否かは別として)、「科学」 を信仰して (Peoples believe in Science.) 生きています。

「科学」の成果を取り入れて文明が発展する過程では、何時でも、その前の時代の文明を滅ぼすのではないか?と云う脅威に曝されました。今の時代も、「科学」 の進展が内蔵する破滅性を、克服できるか否かと云う難問が人類に突きつけられ、「人智」が試されています。しかし、その解決の扉は見出されていません。

日本の国では、「科学」、「科学技術」は有史以前より、移入、輸入で始まり、今に到っています。輸入された「科学技術」は、日本の国の中で、それなりの進展を遂げるのですが、次の時代を拓く(次の世界を動かす)「創造」には至っていません。そのためでしょうか、「科学技術」の礎を築いた経験を持つ国々の人々と較べて、過去の事実を貴びその分析を徹底して真実を知った上で次に進もうとする基本姿勢が薄い(陰の声になってしまう)ように思われます。第二次世界大戦と云う血塗れの経験を経ても、日本では尚、過去の事実の徹底した分析が妨げられています。福島第一原発の事故拡大における報道を見る時、この思いは痛切です。  

(3) 福島第一原発事故拡大の人災 -

福島第一原発の事故拡大については、焦燥と憤懣に明け暮れて一年余が経過しました。それは、この事故拡大は人災であるにも拘わらず、事実と責任とが曖昧にされて揉み消されようとしているからです。

原発の炉心は元来、核爆発が起きないように作られています。しかし、外部からの冷却が止まると、約 5時間で炉心損傷が起こり、それを放置すると炉心熔融が起こり、爆発的な放射能物質の漏洩・拡散が起こります。それ故、炉心冷却確保のために外部送電線からの受電、デイーゼル発電機、更に、電池電源、対流のよる短期間冷却機能が(何重にも防護を固めて、但し、輸入技術として、即ち、経験の礎を持たぬまま)備えられていました。

しかし、「原子力村」 という名称で象徴されている所の、日本の原子力関係者の社会は極めて閉鎖的、独善的なものでした。予備の電源車も予備のポンプも、更には、放射能環境下で観察、計測、作業を受け持つべきロボットさえも備えられていませんでした。(過去における原子力船「むつ」の建造・放射線漏洩・廃棄に関わる無責任さは、当時の「原子力村」の実態を物語るものでした。)

大津波によって福島第一原発の全電源が喪失(3月 11日午後 3時30分頃)されてから、最も貴重な約 5時間は政府、原子力安全委員会、原子力安全・保安院、東京電力、揃って無為無策で浪費してしまいました。この時間内に数台でも電源車とポンプ車を集結して炉心冷却を開始できたならば、原発事故による損害規模は 1/4 以下に留める事ができた筈と思っています。3月 12日未明になってから、政府は70 台といわれる電源車とポンプ車を集結しました。その時には 1号炉では炉心損傷が進み、放射能物質の漏洩が起こり、容易に作業できない状態でした。それでもまだ、放射線防護態勢を整えて作業すれば、2号炉、3号炉、4号炉は作業可能であった(即ち、大事故を防ぐ事ができた)と考えています。

しかし実際には、そのような冷却作業は行われませんでした。現場要員の退避は各自判断に任され一斉逃散が起こったため、現場の人手は決定的に不足しました。原発を襲った大津波の唯一の映像は、近くの高台に退避した現場作業員の一人が記録したものでした。地震直後の原子炉建屋内の情況を伝える第一報は、新潟まで逃避した現場作業員から得られたものでした。

大津波襲来後の、観測も計測も極めて不十分なまま不用意に(首相命令で)ベントを行い、建屋の水素爆発を誘発して放射能物質を爆発的に拡散させました。原発事故の引き金は大津波という天災でしたが、その拡大は人災です。原発事故の拡大を食い止めるために、貴重な 5時間と、それに続く数時間の間に、何をすべきであったか?何が実行可能であったのか?詳細な検証が必要とされています。勿論、現状の事故拡大の全体は初動の無策だけで起こったものではありません。しかし、初動の大失策は事故拡大の重大な要因です。その人災の実態と責任とを明らかにする事なしに、今回の原発事故の真実の姿を明らかにする事はできません。原発事故の真実を隠蔽したままでは、次のステップに進めません。

大津波が襲った時、及び、直後の原子炉の状態を示すデーターは、何故、残されていないのでしょうか?私の推測では、大津波が襲った時、最も危険度が高かった原子炉は、無人、無監視、無計測の状態で放置されていたのではないか?このような非常時無責任体制は、「原子力村」 に属する原子力安全委員会、原子力安全・保安院も認めていたのではないか? と疑っています。問題が重大である程、無責任になっています。この「非常時無責任体制」の撲滅・排除こそが今回の原発事故克服の第一歩であると思っています。

- (4) 「原発安全神話」とは? -

「原発安全神話(原発安全を謳う作り話)」 と云う言葉は、「想定外であった」と云う言葉以上に、責任を隠蔽・転嫁するための妄言としか聞こえません。想定とは人の予測ですから、経験・知識が乏しければ、容易にその人の想定外になります。しかし、原発安全は願望であって、真実でも事実でもありません。原発の炉心に隕石が命中する事もあり得るのです。原発がミサイル攻撃の標的になる事もあり得るのです。

実際に、1986年にチェルノブイリで原発事故が起こりました。「原発は、時に、極めて危険である」事は実証済みでした。この事故の実態と責任とを究明する過程で、人為的なミスがあった事、黒鉛減速型のチェルノブイリ原子炉には、フェイルセイフ上の欠陥があった事が解明されました。人為的ミスがあったとは云え、チェルノブイリ原子炉運転員はそれなりに力を尽くし、多くの勇敢な兵士と共に、破損原子炉の終息・収拾のために殉じました。チェルノブイリ原発事故を「明日は我が身」と考えて教訓として学ばすに、「対岸の火事」と見て勝手な論評対象とした所に、「原子力村」、政府機関、電力会社の全ての責任者の無責任さと傲慢さとがあったのです。原発事故そのものは「想定内であった」事象でした。

「原発安全神話」 を信じて来たと称する人々の中には、中央政府、地方政府の首長級の人々も含まれています!原発安全を求めて絶え間なく努力を重ねる必要はあるのですが、努力を重ねているから安全である訳ではありません。万一の時に起こり得る原発の重大事故に備えるための設備・機器の開発では、巨額の研究開発費を消費して各種の試作品が制作されていました。しかし、万一の時の原発事故に備える事自体が、政府・業界唱導の「原発安全」と矛盾し、「人心の動揺」を招くと云う(詭弁的、欺瞞に満ちた)理由で、それらの設備・機器は、実用化のための継続的な改良研究が廃絶され、試作品は廃棄されたと疑われます。「原発安全神話」 は、2011年 3月 11日の原発事故以後の作り話です。「原発安全神話が崩れた」 と云う言葉は責任隠滅を図る瞞着・妄言です。

2011年 3月 11日の大津波に端を発した原発事故以前には、「原発は安全である」 と仄めかす宣伝が、電力確保と僻地の資金助成・雇用確保のために日本中で叫ばれました。「原発安全」 は、原発増設を進めた政府・業界と、原発誘致による資金獲得を目指した僻地の地方自治体首脳が、住民説得のために用いた言葉でした。原子力施設を受け入れた僻地の町村は資金が潤沢である故に町村統合の外に置かれました。原発は始めから大きな危険を含んでいるのです。原発の安全性向上にとって、僻地の資金助成・雇用確保は、微々たるものである事は明らかでした。原発の安全性向上には、抜本的な手段が必要でした。  
 (文責:濱崎襄二)