ヴィタウタスが戴冠してリトアニア王になれば、従兄弟のポーランド王ヨガイラと協調して東欧に強大な連合勢力が誕生する可能性も考えられたが、それとは逆に、リトアニアがポーランドと同格の王国になることによって、両国の対立抗争が激化し、周辺諸国に漁夫の利をもたらす可能性もあった。
したがって、ヴィタウタスの戴冠問題は、ポーランドとリトアニアの問題にとどまらず、東欧世界の力のバランスを変える重要な国際問題として注目されていた。
ヴィタウタスの戴冠を支持する神聖ローマ皇帝ジギスムントが開いた1429年1月のルーツクの国際会議で(*1)、意外にもポーランド王ヨガイラはヴィタウタスの戴冠を支持したが、ポーランドの貴族たちの代表団は猛反発し(*2)、会議をボイコットして帰国してしまった。その結果、この国際会議は成果のないまま散会した。
一方、皇帝ジギスムントの指導力ばかりが目立ったこの会議に不満を募らせた教皇マルティヌス5世は(*3)、ポーランド貴族たちに与してヴィタウタスの戴冠に反対する姿勢を示したから、これを錦の御旗として勢いづいたポーランド貴族たちは、国王ヨガイラに翻意を迫った。ヨガイラがこの圧力に屈したため、ポーランド貴族代表は直ちに皇帝ジギスムントに書簡を送って、ヨガイラがヴィタウタスの戴冠に反対である旨通告した。
一方、皇帝ジギスムントの指導力ばかりが目立ったこの会議に不満を募らせた教皇マルティヌス5世は(*3)、ポーランド貴族たちに与してヴィタウタスの戴冠に反対する姿勢を示したから、これを錦の御旗として勢いづいたポーランド貴族たちは、国王ヨガイラに翻意を迫った。ヨガイラがこの圧力に屈したため、ポーランド貴族代表は直ちに皇帝ジギスムントに書簡を送って、ヨガイラがヴィタウタスの戴冠に反対である旨通告した。
これを知ったヴィタウタスは激怒し、ヨガイラに激しく抗議すると同時に、皇帝ジギスムントとヨガイラに、あらためて自分の立場を説明する書簡を送って戴冠の決意の固いことを示した(*4)。また、ヴィタウタスはポーランドの貴族たちにも、別途、書簡を送り、自分がポーランドとの友好関係維持を強く望んでいることを述べて、戴冠に対する彼らの猜疑心と拒絶反応を和らげようとした。
しかし、ポーランド王ヨガイラは、貴族たちの同意なしには、この件は如何とも為し難いと答えるのみで問題は膠着状態に陥った。これに苛立ったリトアニアの人々は、これ以上ポーランド王の意見など訊く必要はないとして、ポーランド貴族たちの意向に関係なくヴィタウタスの戴冠を強行することにした。
しかし、ポーランド王ヨガイラは、貴族たちの同意なしには、この件は如何とも為し難いと答えるのみで問題は膠着状態に陥った。これに苛立ったリトアニアの人々は、これ以上ポーランド王の意見など訊く必要はないとして、ポーランド貴族たちの意向に関係なくヴィタウタスの戴冠を強行することにした。
これによってリトアニアとポーランドの関係は極度に悪化したが、リトアニア側の決意は揺るがなかった。そこで、ポーランドの貴族たちは、1429年9月8日、サンドミエシュ(*5)に集まり、打開策を協議した。彼らは、ヨガイラを退位させ、ヴィタウタスをポーランド王として、ポーランドとリトアニアを同君連合とすることを提案した。この思いがけない提案にヴィタウタスは驚くと同時に、その欺瞞に激怒した(*6)。そして、ヴィタウタスは彼らの同意なしに、皇帝ジギスムントから王冠を受けることにした(*7)。
〔蛇足〕
(*1)「余談120:晩年のヴィタウタス大公」参照。
(*2)ポーランドの貴族たちは、リトアニアからヨガイラを国王に迎えたときから、リトアニアをポーランドとの同君連合国家とし、やがてはリトアニアを併合して植民地化することを狙っていた。したがって、ヴィタウタス大公の戴冠に猛反対するのは当然のことであったが、ヨガイラがそれを承知でヴィタウタスの戴冠を支持したことは意外だった。何故か?当時のヨガイラの胸中を推測することは興味深い問題だ。
(*3)ここで想起されるのが、1076年の「カノッサの屈辱」で象徴される叙任権闘争であろう。ローマ教皇と神聖ローマ皇帝の世俗問題に対する権限の争いは、ジギスムントの時代になると、教皇の権威が落ちて目立たなくなっていたが、問題によっては両者の対立が表面化した。
(*4)ヴィタウタスが戴冠してリトアニア王となることは、彼個人の野心だけでなく、リトアニアの人々の願望でもあった。実際、1398年に「サリーナス条約」(「余談93:クリミア遠征とサリーナス条約」参照)が締結された直後に、リトアニアの貴族たちは「ヴィタウタスをリトアニア王とする」と一方的に宣言している。また、それとは別に、1410年の「ジャルギリスの戦い」の直前に、皇帝ジギスムントが「ケジュマロクの会談」でヴィタウタスに戴冠することを提案している。これはヴィタウタスとヨガイラの仲を引き裂くための陰謀であったから、ヴィタウタスは無視したが(「余談102:権謀術数をめぐらすドイツ騎士団」参照)、とにかく、かなり以前から彼の戴冠問題は俎上に載っていた。要するに、当時のヴィタウタスが既に王にふさわしい人物として内外から評価されていたといえよう。そうした事実も踏まえてヴィタウタスは自身の戴冠の妥当性を主張していたようだ。
(*5)サンドミエシュ(Sandomierz)はクラクフの東北東約146kmに位置するヴィスワ河畔の都市である。
(*6)この提案の核心は、ヴィタウタスがポーランド王になるだけで、リトアニアは相変わらずポーランド王に従属する大公国のままにしておくということで、ポーランド貴族たちのリトアニアに対する執拗な支配願望が貫かれていることであった。さらに、ヨガイラもヴィタウタスも既に高齢であったから、ヴィタウタス没後は、ポーランド貴族たちが都合のよい人物をポーランド王に選出すれば、リトアニアはその王の下にポーランドの一部として併合できるという読みもあった。このような提案にヴィタウタスが激怒したのも当然であった。
(*7)ここで重要な点は、教皇が反対しているにもかかわらず、神聖ローマ皇帝ジギスムントがヴィタウタスの戴冠を支持していたことである。問題は、選帝侯によって選出された神聖ローマ皇帝が他の人物に王冠を授けて「国王」にすることができるか、という点に絞られたが、ポーランドのクラクフ大学の教授たちは教会法を根拠に否定的な見解を示した。これに対して、ジギスムントはこの問題をウイーン大学の法学教授たちに諮問した。ウイーン大学の教授たちはローマ法を根拠に、ジギスムントにその資格と権限があると断じた。皇帝ジギスムントはこれに力を得て、戴冠は世俗問題であって教会の祝福を必要としないとヴィタウタスに伝えた。実際、それまでも、この主張を裏付ける幾つかの事例があった。ジギスムントは念を入れて、ローマ法と教会法の両方に精通した学者をヴィタウタスのもとに派遣して、ヴィタウタスの戴冠は全く合法であることを詳しく説明させた。これによって、ヴィタウタスも納得し、皇帝ジギスムントからリトアニア王としての王冠をうける準備に取り掛かった。なお、ジギスムントは1433年5月31日に皇帝として戴冠するので、この時点では、彼は事実上の神聖ローマ皇帝であっても、戴冠していない皇帝であった。しかし、皇帝の戴冠は既に形骸化して久しく、選出された直後に戴冠した皇帝は少なくなっていたし、中には戴冠せずに終わる皇帝もいたから、これが問題となることはなかったようだ。
(2022年2月 記)
(*1)「余談120:晩年のヴィタウタス大公」参照。
(*2)ポーランドの貴族たちは、リトアニアからヨガイラを国王に迎えたときから、リトアニアをポーランドとの同君連合国家とし、やがてはリトアニアを併合して植民地化することを狙っていた。したがって、ヴィタウタス大公の戴冠に猛反対するのは当然のことであったが、ヨガイラがそれを承知でヴィタウタスの戴冠を支持したことは意外だった。何故か?当時のヨガイラの胸中を推測することは興味深い問題だ。
(*3)ここで想起されるのが、1076年の「カノッサの屈辱」で象徴される叙任権闘争であろう。ローマ教皇と神聖ローマ皇帝の世俗問題に対する権限の争いは、ジギスムントの時代になると、教皇の権威が落ちて目立たなくなっていたが、問題によっては両者の対立が表面化した。
(*4)ヴィタウタスが戴冠してリトアニア王となることは、彼個人の野心だけでなく、リトアニアの人々の願望でもあった。実際、1398年に「サリーナス条約」(「余談93:クリミア遠征とサリーナス条約」参照)が締結された直後に、リトアニアの貴族たちは「ヴィタウタスをリトアニア王とする」と一方的に宣言している。また、それとは別に、1410年の「ジャルギリスの戦い」の直前に、皇帝ジギスムントが「ケジュマロクの会談」でヴィタウタスに戴冠することを提案している。これはヴィタウタスとヨガイラの仲を引き裂くための陰謀であったから、ヴィタウタスは無視したが(「余談102:権謀術数をめぐらすドイツ騎士団」参照)、とにかく、かなり以前から彼の戴冠問題は俎上に載っていた。要するに、当時のヴィタウタスが既に王にふさわしい人物として内外から評価されていたといえよう。そうした事実も踏まえてヴィタウタスは自身の戴冠の妥当性を主張していたようだ。
(*5)サンドミエシュ(Sandomierz)はクラクフの東北東約146kmに位置するヴィスワ河畔の都市である。
(*6)この提案の核心は、ヴィタウタスがポーランド王になるだけで、リトアニアは相変わらずポーランド王に従属する大公国のままにしておくということで、ポーランド貴族たちのリトアニアに対する執拗な支配願望が貫かれていることであった。さらに、ヨガイラもヴィタウタスも既に高齢であったから、ヴィタウタス没後は、ポーランド貴族たちが都合のよい人物をポーランド王に選出すれば、リトアニアはその王の下にポーランドの一部として併合できるという読みもあった。このような提案にヴィタウタスが激怒したのも当然であった。
(*7)ここで重要な点は、教皇が反対しているにもかかわらず、神聖ローマ皇帝ジギスムントがヴィタウタスの戴冠を支持していたことである。問題は、選帝侯によって選出された神聖ローマ皇帝が他の人物に王冠を授けて「国王」にすることができるか、という点に絞られたが、ポーランドのクラクフ大学の教授たちは教会法を根拠に否定的な見解を示した。これに対して、ジギスムントはこの問題をウイーン大学の法学教授たちに諮問した。ウイーン大学の教授たちはローマ法を根拠に、ジギスムントにその資格と権限があると断じた。皇帝ジギスムントはこれに力を得て、戴冠は世俗問題であって教会の祝福を必要としないとヴィタウタスに伝えた。実際、それまでも、この主張を裏付ける幾つかの事例があった。ジギスムントは念を入れて、ローマ法と教会法の両方に精通した学者をヴィタウタスのもとに派遣して、ヴィタウタスの戴冠は全く合法であることを詳しく説明させた。これによって、ヴィタウタスも納得し、皇帝ジギスムントからリトアニア王としての王冠をうける準備に取り掛かった。なお、ジギスムントは1433年5月31日に皇帝として戴冠するので、この時点では、彼は事実上の神聖ローマ皇帝であっても、戴冠していない皇帝であった。しかし、皇帝の戴冠は既に形骸化して久しく、選出された直後に戴冠した皇帝は少なくなっていたし、中には戴冠せずに終わる皇帝もいたから、これが問題となることはなかったようだ。
(2022年2月 記)