諸兄、とくに弱電(こんな言葉はもう死語になりましたネエ)関係を卒論に選ばれた方には「さざなみ会」という名をご記憶の方も多いと思います。阪本先生を中心に岡村先生など弱電関係の先生方の研究室になっている私たちが学んだ工学部3号館4階がその拠点でした。 | |
さざなみ会 |
手許にある文集の一冊目は第40回さざなみ会(1985.4.14.)を記念したもので百人あまりの方達が投稿されています。そこに阪本先生は「高周波研究室の第一回の研究発表は昭和19年9月22日、滝保夫、安村光峯両氏による3米受信機・雑音調査です」と書かれています。また岡村先生は「戦争が終わって5年間の海軍生活に別れを告げて研究に戻ったのがついこの間のような気もします」と。
田宮さんの記録によれば第二回のさざなみ会の懇親会は1947年5月5日、戦後の二年を経てのち3号館4階の高周波研究室で、15回以降は好仁会食堂でと記録されています。その後、回を重ねて最終回の第44回は1992年4月、調布深大寺の脇にある雀のお宿で行われ、このときの皆さんのご意向で出来たのが手許にある二冊目の文集
その冒頭に宇都宮先生は「阪本先生が亡くなられて13年、研究室の主、高木さんも他界された。田宮さんにはこの会の運営に大変お世話頂いたが、この辺で56年の歴史のあるさざなみ会を解散すべく、先輩先生方にもご了解を頂いた」と書かれ、さざなみ会の終焉を宣言されたのでした。また猪瀬先生は「高周波談話会やさざなみ会での思い出が走馬灯のように駆け巡った。さざなみ会の方々と共に奥多摩の山々をはるかに見晴るかす、阪本先生のご墓所に詣でた時、相州の清冽な大気の中で、黄金時代は終わったと痛切に思った」と書かれています。
この会の構成、第一回は前述のように疎開先の方達の集まりでした。戦後は電気科の教授と研究室に残られた卒業生、若手研究者が中心ですが、そうした内輪の方々だけでなく国鉄、電電公社、他の大学、そして関連の企業からも集まった多くの方々で構成されていました。当時はまだほとんど知られていなかった医用電子の研究に大学や企業から何人もの熱心な方が集まっておられたのです。いまではビルの同じフロアに様々な企業の部屋が作られて他の分野の知恵を入れようという業際の試みが普通になってきていますが70年前にすでにその芽は出ていたのでした。
55年卒業の私たちのクラスでは大学院に進級された秋山先生、大越先生、吉村博士の俊秀がメンバーで、休学、落第生の私は社会での激しい実務に耐えることがまだ難しいからと、研究生としてこの研究室、さざなみ会の隅にはいらせていただきました。今でこそ医療の現場は電子機器の重装備。CTを撮ればすぐに輪切りの映像が診察の先生の手許に届いて診断ということになる状況ですが、当時は周波数の低いα波、β波の脳波を測定、記録するのが大変。真空管のドリフトをいかに防ぐかなんていう低次元のことが研究の対象だったのです。ほぼ同年輩の東口先生、藤崎先生は休学続きで午後の実験にもあまり出席できずに回路の設定にも不慣れだった私を懇切に指導してくださいました。
そうした研究の傍ら、月に一度の水曜日の昼食はみなさんお弁当を持って4階に集まり、食後には順に旅の様子や身の回りのことなど研究とは離れた話題を話す機会が作られて、これは研究発表の折の表現力の勉強になるのでした。氷川丸で米国留学に出発される宮川先生を横浜港にお送りしたり、国鉄からの研究生だった日下部さんと富士山麓、山中湖に近い大学寮に泊まって討論したり、私にとって大変懐かしいバラエティに富んだ4年間でした。後年私が美術大学という電気とは異質の世界で仕事ができたのも、こうした雰囲気のお陰と思っています。
同窓会から送られてきた最近のメールに「温故知新」と題して桑折先生ほか14人の先生方の回想が載っていたのをご覧になったでしょうか。各先生方の回想は大変懐かしく、さざなみ会の想い出と合わせながら拝見したのでした。電気工学科、すばらしい教室だったのですネ。