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斎藤さんのお話

さざなみ会/齋藤 嘉博

  終活で身辺の整理をしているなか、「さざなみ会」と書いた二冊の文集が目に入りました。
  諸兄、とくに弱電(こんな言葉はもう死語になりましたネエ)関係を卒論に選ばれた方には「さざなみ会」という名をご記憶の方も多いと思います。阪本先生を中心に岡村先生など弱電関係の先生方の研究室になっている私たちが学んだ工学部3号館4階がその拠点でした。さざなみ会.jpg
さざなみ会
  阪本先生の自叙伝「厚みと含み」によれば、そのルーツは戦時中にまでさかのぼります。研究室は激しくなる空襲を避けて上諏訪に疎開。そうした荒れた日々のなかで研究を進めながらお互いに慰め親睦を図るためにこの会が作られたとあります。数メガという当時としては周波数の高い現象を取り扱っていたので「さざなみ会」なる名をつけたとありますが、現在の5Gの時代になるといささかちぐはぐ。大波もいいところでしょう。

  手許にある文集の一冊目は第40回さざなみ会(1985.4.14.)を記念したもので百人あまりの方達が投稿されています。そこに阪本先生は「高周波研究室の第一回の研究発表は昭和19年9月22日、滝保夫、安村光峯両氏による3米受信機・雑音調査です」と書かれています。また岡村先生は「戦争が終わって5年間の海軍生活に別れを告げて研究に戻ったのがついこの間のような気もします」と。

  田宮さんの記録によれば第二回のさざなみ会の懇親会は194755日、戦後の二年を経てのち3号館4階の高周波研究室で、15回以降は好仁会食堂でと記録されています。その後、回を重ねて最終回の第44回は19924月、調布深大寺の脇にある雀のお宿で行われ、このときの皆さんのご意向で出来たのが手許にある二冊目の文集

  その冒頭に宇都宮先生は「阪本先生が亡くなられて13年、研究室の主、高木さんも他界された。田宮さんにはこの会の運営に大変お世話頂いたが、この辺で56年の歴史のあるさざなみ会を解散すべく、先輩先生方にもご了解を頂いた」と書かれ、さざなみ会の終焉を宣言されたのでした。また猪瀬先生は「高周波談話会やさざなみ会での思い出が走馬灯のように駆け巡った。さざなみ会の方々と共に奥多摩の山々をはるかに見晴るかす、阪本先生のご墓所に詣でた時、相州の清冽な大気の中で、黄金時代は終わったと痛切に思った」と書かれています。

  この会の構成、第一回は前述のように疎開先の方達の集まりでした。戦後は電気科の教授と研究室に残られた卒業生、若手研究者が中心ですが、そうした内輪の方々だけでなく国鉄、電電公社、他の大学、そして関連の企業からも集まった多くの方々で構成されていました。当時はまだほとんど知られていなかった医用電子の研究に大学や企業から何人もの熱心な方が集まっておられたのです。いまではビルの同じフロアに様々な企業の部屋が作られて他の分野の知恵を入れようという業際の試みが普通になってきていますが70年前にすでにその芽は出ていたのでした。

  55年卒業の私たちのクラスでは大学院に進級された秋山先生、大越先生、吉村博士の俊秀がメンバーで、休学、落第生の私は社会での激しい実務に耐えることがまだ難しいからと、研究生としてこの研究室、さざなみ会の隅にはいらせていただきました。今でこそ医療の現場は電子機器の重装備。CTを撮ればすぐに輪切りの映像が診察の先生の手許に届いて診断ということになる状況ですが、当時は周波数の低いα波、β波の脳波を測定、記録するのが大変。真空管のドリフトをいかに防ぐかなんていう低次元のことが研究の対象だったのです。ほぼ同年輩の東口先生、藤崎先生は休学続きで午後の実験にもあまり出席できずに回路の設定にも不慣れだった私を懇切に指導してくださいました。

  そうした研究の傍ら、月に一度の水曜日の昼食はみなさんお弁当を持って4階に集まり、食後には順に旅の様子や身の回りのことなど研究とは離れた話題を話す機会が作られて、これは研究発表の折の表現力の勉強になるのでした。氷川丸で米国留学に出発される宮川先生を横浜港にお送りしたり、国鉄からの研究生だった日下部さんと富士山麓、山中湖に近い大学寮に泊まって討論したり、私にとって大変懐かしいバラエティに富んだ4年間でした。後年私が美術大学という電気とは異質の世界で仕事ができたのも、こうした雰囲気のお陰と思っています。

  同窓会から送られてきた最近のメールに「温故知新」と題して桑折先生ほか14人の先生方の回想が載っていたのをご覧になったでしょうか。各先生方の回想は大変懐かしく、さざなみ会の想い出と合わせながら拝見したのでした。電気工学科、すばらしい教室だったのですネ。

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斎藤さんのお話

さざなみ会/齋藤 嘉博

  終活で身辺の整理をしているなか、「さざなみ会」と書いた二冊の文集が目に入りました。
  諸兄、とくに弱電(こんな言葉はもう死語になりましたネエ)関係を卒論に選ばれた方には「さざなみ会」という名をご記憶の方も多いと思います。阪本先生を中心に岡村先生など弱電関係の先生方の研究室になっている私たちが学んだ工学部3号館4階がその拠点でした。さざなみ会.jpg
さざなみ会
  阪本先生の自叙伝「厚みと含み」によれば、そのルーツは戦時中にまでさかのぼります。研究室は激しくなる空襲を避けて上諏訪に疎開。そうした荒れた日々のなかで研究を進めながらお互いに慰め親睦を図るためにこの会が作られたとあります。数メガという当時としては周波数の高い現象を取り扱っていたので「さざなみ会」なる名をつけたとありますが、現在の5Gの時代になるといささかちぐはぐ。大波もいいところでしょう。

  手許にある文集の一冊目は第40回さざなみ会(1985.4.14.)を記念したもので百人あまりの方達が投稿されています。そこに阪本先生は「高周波研究室の第一回の研究発表は昭和19年9月22日、滝保夫、安村光峯両氏による3米受信機・雑音調査です」と書かれています。また岡村先生は「戦争が終わって5年間の海軍生活に別れを告げて研究に戻ったのがついこの間のような気もします」と。

  田宮さんの記録によれば第二回のさざなみ会の懇親会は194755日、戦後の二年を経てのち3号館4階の高周波研究室で、15回以降は好仁会食堂でと記録されています。その後、回を重ねて最終回の第44回は19924月、調布深大寺の脇にある雀のお宿で行われ、このときの皆さんのご意向で出来たのが手許にある二冊目の文集

  その冒頭に宇都宮先生は「阪本先生が亡くなられて13年、研究室の主、高木さんも他界された。田宮さんにはこの会の運営に大変お世話頂いたが、この辺で56年の歴史のあるさざなみ会を解散すべく、先輩先生方にもご了解を頂いた」と書かれ、さざなみ会の終焉を宣言されたのでした。また猪瀬先生は「高周波談話会やさざなみ会での思い出が走馬灯のように駆け巡った。さざなみ会の方々と共に奥多摩の山々をはるかに見晴るかす、阪本先生のご墓所に詣でた時、相州の清冽な大気の中で、黄金時代は終わったと痛切に思った」と書かれています。

  この会の構成、第一回は前述のように疎開先の方達の集まりでした。戦後は電気科の教授と研究室に残られた卒業生、若手研究者が中心ですが、そうした内輪の方々だけでなく国鉄、電電公社、他の大学、そして関連の企業からも集まった多くの方々で構成されていました。当時はまだほとんど知られていなかった医用電子の研究に大学や企業から何人もの熱心な方が集まっておられたのです。いまではビルの同じフロアに様々な企業の部屋が作られて他の分野の知恵を入れようという業際の試みが普通になってきていますが70年前にすでにその芽は出ていたのでした。

  55年卒業の私たちのクラスでは大学院に進級された秋山先生、大越先生、吉村博士の俊秀がメンバーで、休学、落第生の私は社会での激しい実務に耐えることがまだ難しいからと、研究生としてこの研究室、さざなみ会の隅にはいらせていただきました。今でこそ医療の現場は電子機器の重装備。CTを撮ればすぐに輪切りの映像が診察の先生の手許に届いて診断ということになる状況ですが、当時は周波数の低いα波、β波の脳波を測定、記録するのが大変。真空管のドリフトをいかに防ぐかなんていう低次元のことが研究の対象だったのです。ほぼ同年輩の東口先生、藤崎先生は休学続きで午後の実験にもあまり出席できずに回路の設定にも不慣れだった私を懇切に指導してくださいました。

  そうした研究の傍ら、月に一度の水曜日の昼食はみなさんお弁当を持って4階に集まり、食後には順に旅の様子や身の回りのことなど研究とは離れた話題を話す機会が作られて、これは研究発表の折の表現力の勉強になるのでした。氷川丸で米国留学に出発される宮川先生を横浜港にお送りしたり、国鉄からの研究生だった日下部さんと富士山麓、山中湖に近い大学寮に泊まって討論したり、私にとって大変懐かしいバラエティに富んだ4年間でした。後年私が美術大学という電気とは異質の世界で仕事ができたのも、こうした雰囲気のお陰と思っています。

  同窓会から送られてきた最近のメールに「温故知新」と題して桑折先生ほか14人の先生方の回想が載っていたのをご覧になったでしょうか。各先生方の回想は大変懐かしく、さざなみ会の想い出と合わせながら拝見したのでした。電気工学科、すばらしい教室だったのですネ。

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武田レポート

リトアニア史余談120:晩年のヴィタウタス大公/武田 充司

 活動的でひと所に落ち着いて居られない性分のヴィタウタスも、晩年には首都ヴィルニュスの宮廷を留守にしてトラカイの城で過ごすことが多くなった。
 トラカイを愛したヴィタウタスはトラカイの城を整備して、その内部を豪華な装飾によって飾りたてた(*1)。また、身近に女を侍らせ補佐役に使っていたとも言われている(*2)。

 ヴィタウタスは読み書きができ、ドイツ語やラテン語を理解する文化人でもあった。また、身辺警護などにタタール人(*3)を使っていたから、タタールの言葉も理解していたようだ。実際、彼はロシア南部のタタール人たちとの交渉にタタール語で書かれた文書を発信していたという。しかし、カトリックの国となって日の浅いリトアニアでは、ロシア正教の文化的影響が未だ顕著で、宮廷ではラテン語やドイツ語と並んで、西ロシア地方の古いスラヴ語が使われていた。ポーランド語はまだ広まっていなかった。

 ヴィタウタスは、后アンナが亡くなって数か月後の1418年の秋、腹心の重臣イヴァン・オルシャンスキの娘で寡婦となっていたユリアナ(*4)と再婚した。ユリアナの母アグリピナはヴィタウタスの亡き后アンナの姉妹であったから、ヴィタウタスの再婚相手は彼の義理の姪ということになる。それ故、ヴィルニュス司教(*5)は、この結婚について教皇の承認が得られるまでは、婚儀を取り仕切ることはできないと言ってヴィタウタスを困らせた。結局、ヴィタウタスはヴウォツワヴェクの司教(*6)に頼んでこの年のクリスマス前に式を挙げた。ヴィタウタスがこのように再婚を急いだのは、彼に世継ぎがいなかったからであろうが(*7)、ヴィタウタスのユリアナに対する愛情は特別なものがあったと伝えられているから、彼は亡き后アンアの姪であるユリアナにアンナの面影を見ていたのかも知れない。

 ところで、様々な困難を克服してリトアニアを北東ヨーロッパの大国にしたヴィタウタスにとって、最後の悲願はリトアニアをローマ教皇に認められた王国とし、自身も戴冠してリトアニア王となることであった。
   1428年、神聖ローマ皇帝ジギスムントは、広く東欧の問題を話し合うために、リトアニア大公ヴィタウタスとポーランド王ヨガイラを招いて、ヴォリニアのルーツクの城(*8)で会談した。このとき、ヴィタウタスは自分のリトアニア王としての戴冠問題を早急に議論してくれるよう皇帝に催促した。その結果、翌年の1月10日、ジギスムントの呼びかけでルーツクにおいて大規模な国際会議が開かれた(*9)。ローマ教皇、ビザンツ帝国皇帝、デンマーク王、ドイツ騎士団代表などのほか、ルーシの諸公など中東欧地域のほとんどの君主が集まった中で、皇帝ジギスムントはヴィタウタスのリトアニア王としての戴冠を公式に提案した。こうして、ヴィタウタスの長年の夢が実現する第一歩が踏み出されたかに見えた。

〔蛇足〕
(*1)トラカイについては、「余談8:ヴィルニュス遷都伝説と神官」の蛇足(3)で述べたように、現在のトラカイと旧トラカイがあって、現在のトラカイには「半島の城」と「島の城」があり、「半島の城」は1377年頃にヴィタウタスの父ケストゥティスによって完成されたが、「島の城」は「半島の城」との連携によって防衛力を強化するために1350年頃からケストゥティスによって段階的に建設が進められ、主要部分が完成したのはヴィタウタスの時代で、「ジャルギリスの戦い」の前年(1409年)のことである。しかし、「ジャルギリスの戦い」の勝利以後、特に1422年の「メウノの講和」以後は、トラカイの城の戦略的重要性が薄れ、平和な時代におけるヴィタウタス大公の権威の象徴としての性格が強くなった。その結果、城内の大広間には豪華な装飾が施され、外国からの賓客の接待などに使われるようになった。こうした城内の壁面を飾る豪華なタペストリはビザンチン様式の図像画に類似しているが、これはルーシの正教文化圏を経由してビザンチン文化がリトアニアに入ってきていたからであろう。因みに、ポーランド王ヨガイラは1413年頃からヴィタウタスが亡くなる1430年までの間に13回もこの城を訪れている。
(*2)15世紀のポーランドの年代記作者ヤン・ドゥウゴシュによると、この当時のリトアニアの運命は彼女らによって左右されかねない状態だったという。
(*3)「余談77:リトアニアのタタール人」参照。
(*4)ユリアナ(Juliana / Julijona)はカラチェフのイヴァン(Ivan of Karachev)と結婚したが、年代記作者ヤン・ドゥウゴシュ(前出)によると、ヴィタウタスがイヴァンを殺害させて彼女を寡婦とし、娶ったというのだが、どうだろうか。カラチェフはブリャンスク(Bryansk)の東南東約45kmに位置する小都市である。
(*5)このときのヴィルニュス司教はポーランド人のピョトル・クラコフチク(Piotr Krakowczyk)で、このときまでヴィルニュス司教はすべてポーランド人が占めていた。最初のリトアニア人ヴィルニュス司教が誕生するのは、この司教の次の(第5代)司教「トラカイのマティアス」(Matthias of Trakai:「余談115:フス戦争とヴィタウタス大公」の蛇足(7)参照)のときである。
(*6)このときの司教はヤン・クロピドゥウォ(Jan Kropidło:在位1402年~1421年3月没)である。ヴウォツワヴェク(Włocławek)は現在のポーランド中部のヴィスワ河畔の都市で、ワルシャワの西北西約140kmに位置している。
(*7)このときヴィタウタスは60歳代後半であった。なお、このあと、教皇マルティヌス5世はヴィタウタスとユリアナとの結婚に対して「教会法の特免」(dispensation)を与えて彼らの結婚を認めた。この当時、西欧カトリック世界は、バルカンに進出したオスマン勢力の脅威に対処するために、ヴィタウタスのような有能な人材を必要としていたから、教皇もヴィタウタスには寛容であったのかも知れない。
(*8)ヴォリニア(Volhynia)とは、現在のウクライナ西部のヴォルイーニ州とリウネ州を中心とした地域の歴史的地名であるが、ルーツク(Lutsk)はその中心都市のひとつで、リヴィウ(L’viv)の北東約130kmに位置している。ここにある城はゲディミナス大公の息子のひとりリュバルタス(Liubartas:「余談68:ヴォリニアとガリチアをめぐる争い」参照)が1340年代に築いた堅固な要塞で、その後、ヴィタウタスによって補強され、16世紀から17世紀にも増改築されている。現在は「ルーツク城」(Lutsk Castle)とか「ルバルトの城」(Lubart’s Castle)と呼ばれ、ルーツクを象徴する歴史遺産になっている。
(*9)この大規模な国際会議は「ルーツク会議」(the Congress of Lutsk)として知られているが、この盛大な国際会議の主議題がヴィタウタスの戴冠問題であったことは、当時、ヴィタウタスが如何に注目された重要人物であったかを物語っている。彼がリトアニア王になれば、ポーランド王ヨガイラとともに、ゲディミナス一族が支配する2つの大国が東欧に出現することになるからだ。
(2022年1月 記)
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武田レポート

リトアニア史余談120:晩年のヴィタウタス大公/武田 充司<br />

 活動的でひと所に落ち着いて居られない性分のヴィタウタスも、晩年には首都ヴィルニュスの宮廷を留守にしてトラカイの城で過ごすことが多くなった。
 トラカイを愛したヴィタウタスはトラカイの城を整備して、その内部を豪華な装飾によって飾りたてた(*1)。また、身近に女を侍らせ補佐役に使っていたとも言われている(*2)。

 ヴィタウタスは読み書きができ、ドイツ語やラテン語を理解する文化人でもあった。また、身辺警護などにタタール人(*3)を使っていたから、タタールの言葉も理解していたようだ。実際、彼はロシア南部のタタール人たちとの交渉にタタール語で書かれた文書を発信していたという。しかし、カトリックの国となって日の浅いリトアニアでは、ロシア正教の文化的影響が未だ顕著で、宮廷ではラテン語やドイツ語と並んで、西ロシア地方の古いスラヴ語が使われていた。ポーランド語はまだ広まっていなかった。

 ヴィタウタスは、后アンナが亡くなって数か月後の1418年の秋、腹心の重臣イヴァン・オルシャンスキの娘で寡婦となっていたユリアナ(*4)と再婚した。ユリアナの母アグリピナはヴィタウタスの亡き后アンナの姉妹であったから、ヴィタウタスの再婚相手は彼の義理の姪ということになる。それ故、ヴィルニュス司教(*5)は、この結婚について教皇の承認が得られるまでは、婚儀を取り仕切ることはできないと言ってヴィタウタスを困らせた。結局、ヴィタウタスはヴウォツワヴェクの司教(*6)に頼んでこの年のクリスマス前に式を挙げた。ヴィタウタスがこのように再婚を急いだのは、彼に世継ぎがいなかったからであろうが(*7)、ヴィタウタスのユリアナに対する愛情は特別なものがあったと伝えられているから、彼は亡き后アンアの姪であるユリアナにアンナの面影を見ていたのかも知れない。

 ところで、様々な困難を克服してリトアニアを北東ヨーロッパの大国にしたヴィタウタスにとって、最後の悲願はリトアニアをローマ教皇に認められた王国とし、自身も戴冠してリトアニア王となることであった。
   1428年、神聖ローマ皇帝ジギスムントは、広く東欧の問題を話し合うために、リトアニア大公ヴィタウタスとポーランド王ヨガイラを招いて、ヴォリニアのルーツクの城(*8)で会談した。このとき、ヴィタウタスは自分のリトアニア王としての戴冠問題を早急に議論してくれるよう皇帝に催促した。その結果、翌年の1月10日、ジギスムントの呼びかけでルーツクにおいて大規模な国際会議が開かれた(*9)。ローマ教皇、ビザンツ帝国皇帝、デンマーク王、ドイツ騎士団代表などのほか、ルーシの諸公など中東欧地域のほとんどの君主が集まった中で、皇帝ジギスムントはヴィタウタスのリトアニア王としての戴冠を公式に提案した。こうして、ヴィタウタスの長年の夢が実現する第一歩が踏み出されたかに見えた。

〔蛇足〕
(*1)トラカイについては、「余談8:ヴィルニュス遷都伝説と神官」の蛇足(3)で述べたように、現在のトラカイと旧トラカイがあって、現在のトラカイには「半島の城」と「島の城」があり、「半島の城」は1377年頃にヴィタウタスの父ケストゥティスによって完成されたが、「島の城」は「半島の城」との連携によって防衛力を強化するために1350年頃からケストゥティスによって段階的に建設が進められ、主要部分が完成したのはヴィタウタスの時代で、「ジャルギリスの戦い」の前年(1409年)のことである。しかし、「ジャルギリスの戦い」の勝利以後、特に1422年の「メウノの講和」以後は、トラカイの城の戦略的重要性が薄れ、平和な時代におけるヴィタウタス大公の権威の象徴としての性格が強くなった。その結果、城内の大広間には豪華な装飾が施され、外国からの賓客の接待などに使われるようになった。こうした城内の壁面を飾る豪華なタペストリはビザンチン様式の図像画に類似しているが、これはルーシの正教文化圏を経由してビザンチン文化がリトアニアに入ってきていたからであろう。因みに、ポーランド王ヨガイラは1413年頃からヴィタウタスが亡くなる1430年までの間に13回もこの城を訪れている。
(*2)15世紀のポーランドの年代記作者ヤン・ドゥウゴシュによると、この当時のリトアニアの運命は彼女らによって左右されかねない状態だったという。
(*3)「余談77:リトアニアのタタール人」参照。
(*4)ユリアナ(Juliana / Julijona)はカラチェフのイヴァン(Ivan of Karachev)と結婚したが、年代記作者ヤン・ドゥウゴシュ(前出)によると、ヴィタウタスがイヴァンを殺害させて彼女を寡婦とし、娶ったというのだが、どうだろうか。カラチェフはブリャンスク(Bryansk)の東南東約45kmに位置する小都市である。
(*5)このときのヴィルニュス司教はポーランド人のピョトル・クラコフチク(Piotr Krakowczyk)で、このときまでヴィルニュス司教はすべてポーランド人が占めていた。最初のリトアニア人ヴィルニュス司教が誕生するのは、この司教の次の(第5代)司教「トラカイのマティアス」(Matthias of Trakai:「余談115:フス戦争とヴィタウタス大公」の蛇足(7)参照)のときである。
(*6)このときの司教はヤン・クロピドゥウォ(Jan Kropidło:在位1402年~1421年3月没)である。ヴウォツワヴェク(Włocławek)は現在のポーランド中部のヴィスワ河畔の都市で、ワルシャワの西北西約140kmに位置している。
(*7)このときヴィタウタスは60歳代後半であった。なお、このあと、教皇マルティヌス5世はヴィタウタスとユリアナとの結婚に対して「教会法の特免」(dispensation)を与えて彼らの結婚を認めた。この当時、西欧カトリック世界は、バルカンに進出したオスマン勢力の脅威に対処するために、ヴィタウタスのような有能な人材を必要としていたから、教皇もヴィタウタスには寛容であったのかも知れない。
(*8)ヴォリニア(Volhynia)とは、現在のウクライナ西部のヴォルイーニ州とリウネ州を中心とした地域の歴史的地名であるが、ルーツク(Lutsk)はその中心都市のひとつで、リヴィウ(L’viv)の北東約130kmに位置している。ここにある城はゲディミナス大公の息子のひとりリュバルタス(Liubartas:「余談68:ヴォリニアとガリチアをめぐる争い」参照)が1340年代に築いた堅固な要塞で、その後、ヴィタウタスによって補強され、16世紀から17世紀にも増改築されている。現在は「ルーツク城」(Lutsk Castle)とか「ルバルトの城」(Lubart’s Castle)と呼ばれ、ルーツクを象徴する歴史遺産になっている。
(*9)この大規模な国際会議は「ルーツク会議」(the Congress of Lutsk)として知られているが、この盛大な国際会議の主議題がヴィタウタスの戴冠問題であったことは、当時、ヴィタウタスが如何に注目された重要人物であったかを物語っている。彼がリトアニア王になれば、ポーランド王ヨガイラとともに、ゲディミナス一族が支配する2つの大国が東欧に出現することになるからだ。
(2022年1月 記)
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斎藤さんのお話

今年は/齋藤 嘉博

  新年おめでとうございます。
昨年はコロナに明けコロナに暮れた一年でした。それが終わるでもなく、さらにオミクロンなんていう新顔。今年はなんとか自由に旅の出来るようになればと願いながら。
  小生今年94回目のお正月を迎えました。随分長いこと生きてきたものです。1928年、私が生まれたこの年には林芙美子が放浪記を発表し、アメリカではディズニーのスティームボートウィリーでミッキーマウスが誕生した歳でした。そして振り返るとこの間に世界は人間社会からロボット社会へとその変容がひどいことに驚くのです。

  小学校時代、ソロバンは必須でした。大正から昭和へ、五つ珠から四つ珠に代わった時。暗算、九九、高校では対数を学んで対数表と計算尺の操作。コンピューターが話題になるのが大学時代。正月1.jpg
  初期には水銀柱の記憶装置が使われて山下先生、元岡先生の研究室ではパラメトロンをお使いだったのでしょうか。私に初めての計算機はトランジスターの使用でしたが記憶容量は32キロビット。プログラムは数字言語で16が足し算、18が掛け算だったように覚えています。スミソニアン博物館には1800本の真空管を使った初期の電子計算機がいまでも飾られているでしょう。その後MIT留学時に使ったのはFORTLANで書いたIBM7090。大容量の記憶にはテープが用いられていました。大型とはいえ、たかが9999の線形計画法の計算に1時間もかかったのでした。懐かしい思い出です。

  電話は交換手のジャック差し込みによる手動からストロージャー。ダイアルからプッシュホン、そして自動車電話、モバイルへと進歩しました。子供のころ電話のあるお家は大変少なく、呼び出し電話は落語のテーマにもなったくらいです。
  3mほどのアンテナを張って聴いた鉱石ラジオ。そして二球、並四、スーパーと進化。名古屋で開局した中部日本放送のラジオを東京にいた我が家、自作の受信機で聴いた感激はいまだにわすれません。
  テレビは6インチのブラウン管を使っての自作時代からハイビジョン、そして壁に掛けられる液晶の大画面でまだ足りずに、4K8Kへと。我が家にはいまだに放送衛星初期の80cmφのアンテナが残っています。正月2.jpg

  そう。そうした経緯を経て計算機と電話とテレビが一体になったウェアラブルのスマホを今小学生が持っているのですから。と言う小生、スマホが使えなくてお蔵に入ったまま。いや大変な世界になったものですがこのブログに顔をだして頂ける諸兄。皆さん同じ経験なのですネ。そして今の若い方達にはもうけっして経験のできない過去。

  しかし進歩の裏に公害、大気汚染、洪水竜巻の災害、海洋汚染、そして多くの犯罪とマイナスの面がつきまとっていました。あっちへ行け、こっちへ曲がれと指示するカーナビのままハンドルを動かす習性はコンピューターの奴隷になって、ネットが盛んになればなるだけサイバー攻撃の楽しさが増え、SNSでの弊害、事故や不自然は大きくなるばかり。

  さてこれからの90年、いや50年は??

  空には自動車が戦後のハエのように沢山飛び交って交通渋滞。テレビはすべてヴァーチャル番組。でも地震の予知も火山噴火の予知もできていない!ましてあの世のことは皆目。いやうまくいけば冥途との交信も可能になるかもしれませんネ。そうすると「この世よりあの世の方がイイね、宇宙旅行より楽しそう」と多くの人があの世への旅を試みる。地球上には人間がいなくなって。

  今年、寅年の初夢はこんなところでしょうか。先年京都の千本閻魔堂で頂いて私の机の上にある閻魔様のお人形がニコニコと笑っておられます。

  諸兄、今年もコロナ回避でお元気にすごされますように。

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斎藤さんのお話

今年は/齋藤 嘉博

  新年おめでとうございます。
昨年はコロナに明けコロナに暮れた一年でした。それが終わるでもなく、さらにオミクロンなんていう新顔。今年はなんとか自由に旅の出来るようになればと願いながら。
  小生今年94回目のお正月を迎えました。随分長いこと生きてきたものです。1928年、私が生まれたこの年には林芙美子が放浪記を発表し、アメリカではディズニーのスティームボートウィリーでミッキーマウスが誕生した歳でした。そして振り返るとこの間に世界は人間社会からロボット社会へとその変容がひどいことに驚くのです。

  小学校時代、ソロバンは必須でした。大正から昭和へ、五つ珠から四つ珠に代わった時。暗算、九九、高校では対数を学んで対数表と計算尺の操作。コンピューターが話題になるのが大学時代。正月1.jpg
  初期には水銀柱の記憶装置が使われて山下先生、元岡先生の研究室ではパラメトロンをお使いだったのでしょうか。私に初めての計算機はトランジスターの使用でしたが記憶容量は32キロビット。プログラムは数字言語で16が足し算、18が掛け算だったように覚えています。スミソニアン博物館には1800本の真空管を使った初期の電子計算機がいまでも飾られているでしょう。その後MIT留学時に使ったのはFORTLANで書いたIBM7090。大容量の記憶にはテープが用いられていました。大型とはいえ、たかが9999の線形計画法の計算に1時間もかかったのでした。懐かしい思い出です。

  電話は交換手のジャック差し込みによる手動からストロージャー。ダイアルからプッシュホン、そして自動車電話、モバイルへと進歩しました。子供のころ電話のあるお家は大変少なく、呼び出し電話は落語のテーマにもなったくらいです。
  3mほどのアンテナを張って聴いた鉱石ラジオ。そして二球、並四、スーパーと進化。名古屋で開局した中部日本放送のラジオを東京にいた我が家、自作の受信機で聴いた感激はいまだにわすれません。
  テレビは6インチのブラウン管を使っての自作時代からハイビジョン、そして壁に掛けられる液晶の大画面でまだ足りずに、4K8Kへと。我が家にはいまだに放送衛星初期の80cmφのアンテナが残っています。正月2.jpg

  そう。そうした経緯を経て計算機と電話とテレビが一体になったウェアラブルのスマホを今小学生が持っているのですから。と言う小生、スマホが使えなくてお蔵に入ったまま。いや大変な世界になったものですがこのブログに顔をだして頂ける諸兄。皆さん同じ経験なのですネ。そして今の若い方達にはもうけっして経験のできない過去。

  しかし進歩の裏に公害、大気汚染、洪水竜巻の災害、海洋汚染、そして多くの犯罪とマイナスの面がつきまとっていました。あっちへ行け、こっちへ曲がれと指示するカーナビのままハンドルを動かす習性はコンピューターの奴隷になって、ネットが盛んになればなるだけサイバー攻撃の楽しさが増え、SNSでの弊害、事故や不自然は大きくなるばかり。

  さてこれからの90年、いや50年は??

  空には自動車が戦後のハエのように沢山飛び交って交通渋滞。テレビはすべてヴァーチャル番組。でも地震の予知も火山噴火の予知もできていない!ましてあの世のことは皆目。いやうまくいけば冥途との交信も可能になるかもしれませんネ。そうすると「この世よりあの世の方がイイね、宇宙旅行より楽しそう」と多くの人があの世への旅を試みる。地球上には人間がいなくなって。

  今年、寅年の初夢はこんなところでしょうか。先年京都の千本閻魔堂で頂いて私の机の上にある閻魔様のお人形がニコニコと笑っておられます。

  諸兄、今年もコロナ回避でお元気にすごされますように。

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武田レポート

年賀状の終活/武田 充司

   近頃は、年末恒例の「お年玉つき年賀はがき」の売れ行きもめっきり減ったと度々報道されていますが、その原因のひとつは、Eメールやスマフォでのやり取りが増えたからなのでしょうか。それとも、「新年の挨拶」を交わすという習慣そのものが廃れてきたことが原因なのでしょうか。
   しかし、それとは別に、僕の身辺では、もうだいぶ前から、「今年をもって年賀状を終りにします」という友人が増えてきました。皆さん高齢化して年賀状を書くのもだんだんしんどくなってきたので、ついに、今年あたりで止めにしようと決心したのだなあと思っていましたが、考えてみれば、今ではパソコンを使って年賀状の表も裏も簡単に印刷できるのですから、そんなに億劫がることもない、よい時代なのかも知れません。しかし、なかには、そのパソコン操作さえ不慣れな人もいますから、いまの時代は人さまざまだと思います。

   とはいえ、年賀状書きは、日頃ご無沙汰している旧知の親友などに、年に一度の連絡を取るチャンスと思えば、楽しいことでもあります。実際、暑中見舞いなど、四季折々の挨拶を交わす日本人の文化は素晴らしいと思うのですが、昔、年寄りから、年賀状には余計なことをぐだぐだ書くものではない、年始の挨拶だけにしろ、と注意されたことがありました。それでも、やっぱり、相手の顔を思い浮かべながら、賀状の余白に小さな字で、ちょこちょこと近況報告や、昔の懐かしい思い出などを書き込むのも楽しみのひとつですが、その一文を書き添えようとして、はて、と考え、悩んだりして、年賀状書きが遅々として進まず、ということにもなり、だから、年末の年賀状書きは嫌なのだ、と変なところに結論が行ってしまうのも、また、歳のせいかも知れません。

   とにかく、こうして、年賀状を終りにしますと言ってきた人に、こちらから無神経に賀状を出せば、先方の負担になるばかりだろうから、こちらも年賀状を遠慮することになり、年々、年賀状の数も減ってきました。そして、ついに、自分自身も、もういいではないか、年賀状はやめようと思うようになり、先輩諸兄にならって、数年前から年賀状の店仕舞いを始めましたが、どうやら今年あたりで閉店完了となりそうです。

   ところで、「蛇足」ですが、今年をもって、もうひとつ閉店することを決めました。それは、毎月、ブログに投降していた「リトアニア史余談」です。あの余談は2012年4月から書き始め、ほぼ毎月1本のペースで投稿してきましたので、2022年3月で、ちょうど満10年になります。したがって、余談はこの3月で120話になるはずですが、途中で少しペースを上げたことがあったので、2022年3月の余談は122番目になりますが、とにかく、満10年を良い区切りとして、3月16日の投稿を最後に「余談」は終りにします。
   すでに、1月、2月、3月分の原稿は出来上がっていますので、余談の仕事は自分の中では既に閉店完了なのです。来年は、「余談」を書くことに使っていた時間を、また、何か新しいことに振り向けられれば幸いと思っています。
(2021年末 記)
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武田レポート

年賀状の終活/武田 充司

   近頃は、年末恒例の「お年玉つき年賀はがき」の売れ行きもめっきり減ったと度々報道されていますが、その原因のひとつは、Eメールやスマフォでのやり取りが増えたからなのでしょうか。それとも、「新年の挨拶」を交わすという習慣そのものが廃れてきたことが原因なのでしょうか。
   しかし、それとは別に、僕の身辺では、もうだいぶ前から、「今年をもって年賀状を終りにします」という友人が増えてきました。皆さん高齢化して年賀状を書くのもだんだんしんどくなってきたので、ついに、今年あたりで止めにしようと決心したのだなあと思っていましたが、考えてみれば、今ではパソコンを使って年賀状の表も裏も簡単に印刷できるのですから、そんなに億劫がることもない、よい時代なのかも知れません。しかし、なかには、そのパソコン操作さえ不慣れな人もいますから、いまの時代は人さまざまだと思います。

   とはいえ、年賀状書きは、日頃ご無沙汰している旧知の親友などに、年に一度の連絡を取るチャンスと思えば、楽しいことでもあります。実際、暑中見舞いなど、四季折々の挨拶を交わす日本人の文化は素晴らしいと思うのですが、昔、年寄りから、年賀状には余計なことをぐだぐだ書くものではない、年始の挨拶だけにしろ、と注意されたことがありました。それでも、やっぱり、相手の顔を思い浮かべながら、賀状の余白に小さな字で、ちょこちょこと近況報告や、昔の懐かしい思い出などを書き込むのも楽しみのひとつですが、その一文を書き添えようとして、はて、と考え、悩んだりして、年賀状書きが遅々として進まず、ということにもなり、だから、年末の年賀状書きは嫌なのだ、と変なところに結論が行ってしまうのも、また、歳のせいかも知れません。

   とにかく、こうして、年賀状を終りにしますと言ってきた人に、こちらから無神経に賀状を出せば、先方の負担になるばかりだろうから、こちらも年賀状を遠慮することになり、年々、年賀状の数も減ってきました。そして、ついに、自分自身も、もういいではないか、年賀状はやめようと思うようになり、先輩諸兄にならって、数年前から年賀状の店仕舞いを始めましたが、どうやら今年あたりで閉店完了となりそうです。

   ところで、「蛇足」ですが、今年をもって、もうひとつ閉店することを決めました。それは、毎月、ブログに投降していた「リトアニア史余談」です。あの余談は2012年4月から書き始め、ほぼ毎月1本のペースで投稿してきましたので、2022年3月で、ちょうど満10年になります。したがって、余談はこの3月で120話になるはずですが、途中で少しペースを上げたことがあったので、2022年3月の余談は122番目になりますが、とにかく、満10年を良い区切りとして、3月16日の投稿を最後に「余談」は終りにします。
   すでに、1月、2月、3月分の原稿は出来上がっていますので、余談の仕事は自分の中では既に閉店完了なのです。来年は、「余談」を書くことに使っていた時間を、また、何か新しいことに振り向けられれば幸いと思っています。
(2021年末 記)