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小林レポート

半世紀前の記録から:アフリカの空1/小林 凱

  今回の東京オリンピック2020の開会式を見ていたら、アフリカ諸国の選手団の数に驚きました。少人数の選手団もあったがそれでもアフリカに新しい時代が到来して居る事を感じさせるに十分でした。そしてかってこの地を度々訪れた私は何か嬉しい気持ちで時代の変化を感じました。
  同時に私が訪れていたのはかっての社会構造が支配して居た時代で、それを見た私が新しい世界から来た選手団を見るのは、なんとなく長生き出来た様で妙な嬉しさを感じました。しかし長生きだけで無く、当時既に色々な動きがあったのを見落としていたかも知れないと思い、この様な気持ちを背景にずっと以前の旅の記録を辿って見ました。結果は思いがけなくアフリカ大陸の上を飛ぶことになった記録です。

  1966年11月、私は南アフリカからスペインへ向かいました。元々南アフリカからロンドン経由で帰国する予定でしたが、急にスペインへ立ち寄ってそこでのプロジェクトについて打ち合わせる様に指示されたものです。
  出来るだけ乗り換えの無い便が望ましいとして探した結果、南アフリカ航空がヨハネスブルグからマドリード経由ロンドン行きを運航して居り、このSA214便を予約しました。航空券は当時のIATAのもので以前にも書いた様に便利なもので問題なく切り替え出来ました。
  この便は南アフリカのヨハネスブルグ(South Africa, Johannesburg)を発つと北へ向かって隣接するローデシアのサリスバリー(Rodesia, Salisbury)に立ち寄ります。ここから赤道南のアフリカ大陸を約4時間西へ飛んで、大西洋岸のアンゴラの首都ルアンダ(Angola, Luanda)に着きます。
  次はアフリカ大陸の西海岸に沿う形でこのフライトで最も長い区間(約8時間)を北へ飛んで、モロッコの西の大西洋に浮かぶカナリア諸島のグランカナリア島のラスパルマス(Canaria Islands, Gran Canaria, LasPalmas)に着きます。その後は約4時間でスペインの首都マドリード(Spain, Madrid)です。このルートを地図に示します。(Fig.1)DSCN2417.JPG
Fig.1
  ここで黄線で記入したのが実際に飛んだ軌跡です。あとで説明がありますからその時の参考にして下さい。
  この便(SA214)は元々次の様なスケジュールでした。
南アフリカ ヨハネスブルグ発 19:00 (GMT+2)
ローデシア サリスバリー 着 20:30 (GMT+2)
アンゴラ  ルアンダ   着 23:20 (GMT+1)
カナリア諸島 ラスパルマス着 06:15 (GMT)
スペイン  マドリード  着 10:25 (GMT)
(なお終着ロンドンには) 着 12:00 (GMT)

  当時南アフリカ航空の便はアパルトヘイトの故に、新興アフリカ諸国での着陸、通行を拒否するところがあると聞いていたが、同時に普段余り行けない所に立ち寄る事があると聞きました。しかし夜間の飛行だから何も見えないのは仕方ないと思いました。また時刻表から見て南アフリカ航空は英国BOACと密接に連携している様に感じました。
  このマドリード経由便は週一回ですが、他の日でヨーロッパに向かう便を見ると、ローデシアに立ち寄るのが本便含め3便、南西アフリカのナミビアのWindhoekに立ち寄る便、それとヨハネスブルグからダイレクトにアンゴラのルアンダに飛ぶ便がありました。しかしアフリカ西海岸のルアンダとカナリア諸島のラスパルマスには、ヨーロッパ行きの全ての便が立ち寄って居り、またラスパルマスを飛び立った南ア航空便はロンドンへ直行するか、マドリードやパリなどに立ち寄ってからロンドンに向かって居ました。
  それで私の理解ですが、飛行時間も考えるとこのルアンダとラスパルマスの2箇所が大切な補給基地の役割を担ってると気付きました。南アフリカ航空はアフリカ大陸では色んな制約がある中でこの2箇所を確保したもので、其処に乗客が沢山いるのとはまた別の理由があった様です。

  ここで時刻表の通りに運航したら夜中の飛行だし特に記憶に残る事は少なかったと思いますが、実際はそうは行きませんでした。
  当日の午後南アフリカ航空に照会したところ、到着便が遅れたので出発は大幅に遅れると言う。ロンドンが運航の基地の様で、ヨハネスブルグには昼頃か午後の早い時間に着いて夕刻の便になるが、それが着いていないのでどうにもならないという事です。しかし間違いなく運航するから状況を注意して呉れとの話で、ヨハネスブルグのホテルは既にチェックアウトして居り、夜中の交通も考えて夜半前に空港に移動して待つ羽目になりました。

  当時のヨハネスブルグでは鉄道の中央駅は昼間でも怖かった記憶があります。空港はずっとEuropean中心の場所でしたが、夕刻からのヨーロッパ行きの便が出た後は、ひっそりとして夜半を過ごすのは余り気分の良い時間ではありません。荷物をしっかり横に置いて眠らぬ様にじっと時間が過ぎるのを待ちました。
  出国搭乗手続きが行われたのは夜明けも間近い5時過ぎで、結局10時間余り遅れてヨハネスブルグを飛び立ちました。
  この便ははBoeing 707で割に新しい機材で中は綺麗でした。これからずっとアフリカ大陸の上空と沿岸を飛びますが、離着陸時の様子も含めて次に報告したいと思います。
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武田レポート

リトアニア史余談116:フス戦争とジギスムント・コリブト/武田 充司

 ボヘミアのフス派の反乱を鎮圧するために、教皇マルティヌス5世と皇帝ジギスムントが協力して起した1420年の十字軍は失敗に終ったが(*1)、その翌年の夏、ドイツ諸侯は新たな十字軍を編成してボヘミアに侵攻した。これによってフス戦争は新たな局面を迎えた(*2)。
 ドイツの国境を越えてボヘミアの北西部に入った十字軍は、プラハの西北西約70kmに位置するジャテツ(*3)を包囲したが、フス派の援軍によって撃退されてしまった。この状況に苛立った皇帝ジギスムントは自ら軍を率いてプラハの東南東約60kmに位置するクトナー・ホラ(*4)を襲って占領した。これを知ったフス派の中の武闘派ヤン・ジズカ(*5)は、拠点としていたターボル(*6)から出撃して、1422年1月6日、「ドイチュブロトの戦い」(*7)でジギスムントの軍を撃破した(*8)。

 ところが、それから間もない3月9日、プラハにおいて独裁的権力を振っていたフス派の指導者ヤン・ジェリフスキ(*9)が、市議会によって逮捕され斬首された。そして、ウトラキスツ(*10)と呼ばれる穏健派の貴族たちが支配権を握った。一方、ターボルのヤン・ジズカは、フス派討伐十字軍との戦いを意識して、リトアニア大公ヴィタウタスの代理ジギスムント・コリブトを摂政としてボヘミアに招請した。しかし、ジギスムント・コリブトが軍を率いてプラハに到着したのは5月16日で、戦いはフス派の勝利で既に終っていた(*11)。

 それでも、首都プラハで実権を握ったフス派の穏健派ウトラキスツは、ジギスムント・コリブトをボヘミアの統治者として認めて迎え入れた。そこで、ジギスムント・コリブトは、ターボルのヤン・ジズカとプラハの穏健派の両者の支持を背景に、ボヘミアのフス派を統一してローマ教会と和解させようとした。しかし、その頃、ターボルでは、ヤン・ジズカのやり方に不満をもつ過激派が台頭し、プラハの穏健派との妥協はほぼ不可能になっていた。

   こうして、プラハに入ったジギスムント・コリブトが、ボヘミアの再統一を試みて難渋している間に、神聖ローマ皇帝でありハンガリー王であるジギスムントが、自分こそが真のボヘミア王位継承者であるとの自負から(*12)、ポーランド王ヴワディスワフ2世(ヨガイラ)とハンガリーのケジュマロク(*13)で会談し、打開策を打ち出した。即ち、彼はヨガイラに対して、ジギスムント・コリブトをボヘミアから引き揚げさせるよう要求したのだ。その一方で、教皇マルティヌス5世も、リトアニア大公ヴィタウタスに対して、ボヘミアのフス派の支援を止めなければ破門して十字軍を差し向けると脅かした。その結果、1423年3月20日、ヨガイラとヴィタウタスは皇帝の要求をうけ入れ、ジギスムント・コリブトと彼の率いる軍隊をボヘミアから引き揚げさせることにした。

〔蛇足〕
(*1)「余談115:フス戦争とヴィタウタス大公」参照。
(*2)このとき、ドイツの諸侯は、フス派の宗教改革の波がドイツに波及するのを恐れてこうした行動を起したのだ。
(*3)ジャテツ(Žatec)は、ビールに風味をつける高級品種のザーツホップの生産地として有名で、チェコのピルスナー・ビールはこのホップを使ったビールである。ザーツホップ(Saaz hops)の“Saaz”は“Žatec”のドイツ語呼称である。
(*4)クトナー・ホラ(Kutná Hora)は銀の採掘で有名で、中世ボヘミア王国の銀貨プラハ・グロッシュはここで鋳造されていた。また、ここの聖バルボラ教会とそれを含む歴史地区はユネスコの世界遺産に登録されている。
(*5)ヤン・ジズカ(Jan Žižka)については「余談115:フス戦争とヴィタウタス大公」の蛇足(4)参照。なお、「ジャルギリスの戦い」(「余談107:ジャルギリスの戦い」参照)で、彼はポーランド軍に加わり、ドイツ騎士団と戦った実績がある。
(*6)ターボル(Tábor)はプラハの南方約75kmに位置する現在のチェコ南部の都市である。
(*7)ドイチュブロト(Deutschbrod)はネメツキ・ブロト(Nemecky Brod)とも呼ばれ、プラハの南東約100kmに位置する現在のチェコ中部の都市ハヴリーチクーフ・ブロト(Havlickuv Brod)の旧称である。
(*8)なお、この年(1422年)、ジギスムントは神聖ローマ皇帝として、ニュルンベルクに帝国議会を招集し、フス派と戦うための傭兵部隊の編成を提案したが否決されている。このように、ドイツ諸侯が皇帝に非協力的であったのは、ジギスムントがドイツを留守にしていることが多かったためだと言われている。一方、選帝侯たちは、1424年に、皇帝に対する自分たちの権限を強化しようとしたが、これは阻止された。しかし、フス派の影響がドイツに及ぶのを恐れた選帝侯たちは、「ビンゲン同盟」を結成して独自の動きを強めたため、ドイツ諸侯に対する皇帝の権威は落ち、フス派と戦う勢力の最高指揮官としての皇帝の権限も空洞化した。なお、ビンゲン(Bingen)はライン川観光で有名なリューデスハイム(Rüdesheim)の対岸にあり、その昔マインツ大司教が通行税を徴収するために建てたともいわれる「鼠の塔」で知られている。とにかく、この当時のドイツは、百年後に起るルターの宗教改革の時代とは違って、中世的な考え方に従ってボヘミアのフス派の宗教改革運動を危険視していた。
(*9)ヤン・ジェリフスキ(Jan Zelivsky)は、フス派が1419年7月に市庁舎前をデモ行進したときの指導者である(「余談115:フス戦争とヴィタウタス大公」参照)。
(*10)ウトラキスツ(Utraquists)は、カリックス派(Calixtin:calix=聖杯)とも呼ばれているので、日本では「聖杯派」と訳されている。
(*11)実際、ヴィタウタスがジギスムント・コリブト(ジギマンタス・カリブタイティス:ヨガイラの甥)に軍を与えてボヘミアに向かわせたのはこの年(1422年)の春であったから(「余談115:フス戦争とヴィタウタス大公」参照)、これは全く遅すぎて戦いには間に合わなかった。
(*12)「余談115:フス戦争とヴィタウタス大公」参照。
(*13)ケジュマロク(Kežmarok)は、現在のスロヴァキア北部の都市ポプラド(Poprad)の北東約12kmに位置し、ポーランドとの国境に近い山岳地帯にある小都市だが、当時はハンガリー領であった。
(2021年9月 記)
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季節の花便り

8月の花便り/高橋 郁雄

  今回も近場からの取材のみとなりました。新型コロナの収束を願う毎日です。酔芙蓉、夾竹桃ともに本ブログでは再登場です。
Suihuyo7.JPGSuihuyo9.JPGSuihuyo16.JPG
酔芙蓉1(7:20)酔芙蓉2(9:22)酔芙蓉3(16:45)
酔芙蓉1~3は8月17日、は8月12日、は8月12日に、それぞれ括弧内の時間に、我が宮前平グリーンハイツの敷地内で、撮影しました。花色が、1日で白色からピンク色に変化する特徴がある面白い植物です。
  花言葉=「心変わり・繊細は美・しとやかな恋人・幸せの再来」。
夾竹桃:8月6日に、我が宮前平グリーンハイツの敷地内で撮影しました。
  インド原産。インド北部の河原に生え、乾燥、洪水、猛暑、寒風に鍛えられた植物。江戸時代に中国経由で渡来。
Kyotikuto.JPG
夾竹桃(きょうちくとう)
  葉が「竹」に、花が「桃」に似ていることから「夾竹桃」と呼ばれるようになりました。公害に強いという性質があり、(千葉市、尼崎市、広島市、鹿児島市)などの市町村の花に指定されています。僕は名古屋で勤務した経験があり、名古屋の東側の大通り沿いにこの夾竹桃が植えられていたことを思い出します。
  原爆が落ちたあと、広島で最初に花を咲かせた植物が(夾竹桃)だったことから、復興のシンボルとされたということです。
  根、葉、茎、花、など樹木全体に毒性を持っており、口に含むなどすると大変危険ですので要注意です。
  花言葉=「油断大敵・危険な愛・用心」。