しかし、敵の弱みを熟知したポーランド王ヨガイラは、この虫の良い提案を一蹴し、今度は、ポーランドとリトアニアが共謀してドイツ騎士団領のエルムラント地方(*4)に攻め込んだ。エルムラントの要衝オステローデ(*5)を襲撃したリトアニア・ポーランド連合軍は、そこからドイツ騎士団の首都マリエンブルク(*6)に進撃するかと思いきや、エルムラントにとどまって各地で略奪をくり返し、収穫前の作物を焼き払った。これに対して、敵と正面から戦っても勝ち目がないと考えたドイツ騎士団は、騎士団領中央部のクルム地方(*7)を死守することに徹し、籠城戦術をとって耐えることにしたのだが、その前に焦土作戦を展開し、城周辺の家屋も食料も家畜も、何もかも焼き払って、包囲する敵軍がその地で野営しても何も利用できないようにした。こうしておけば、敵軍も包囲を長くは続けられないだろうという計算だった。
(*1)「余談112:ジェマイチヤとはどこまでか」参照。
(*2)この会談で取り決められたことの要点は2つで、ひとつは、リトアニアはポーランドと一体化するが、リトアニアの独立性はヴィタウタス没後も維持されるという点で、それ以前に合意された「ヴィルニュス・ラドム協定」における「独立したリトアニアの統治はヴィタウタスの存命中に限る」としていたことと異なっていた。具体的には、リトアニアもポーランドの貴族議会セイム(Sejm)に倣って、貴族の議会セイマス(Seimas)を置き、両国の君主はそれぞれの議会が選出し、互いに相手国の議会の了承を得ること、と決められた。もうひとつの重要な合意は、リトアニアにポーランドの行政システムを導入するという取り決めで、これによって、以後、リトアニアにもポーランドのシュラフタ(Szlachta:法的に定義された貴族身分)が導入され、ポーランドのシュラフタが使っていた特別の紋章レリヴァ(Leliwa:the coat of arms)の使用も認められた。また、地方行政区のヴォイェヴツトフォ(Województwo:県)がリトアニアにも導入された。これによってリトアニアのポーランド化は具体的な形をとって急速に促進された。会談の場所ホロドウォ(Horodło)は、現在のポーランドとウクライナの国境を流れるブーク河畔の町で、リヴィフ(L’viv)の北方約115kmに位置している。なお、この「ホロドウォの協定」に関連して、「余談91:ヴィタウタス大公時代のはじまり」および「余談95:ヴィルニュス・ラドム協定」も参照されたい。
(*3)「余談112:ジェマイチヤとはどこまでか」参照。
(*4)エルムラント(Ermland)は現在のポーランド北部のヴァルミア(Warmia)地方の当時のドイツ語名で、この地方の中心都市はオルシュティン(Olsztyn)やオストルダ(Ostróda)である。
(*5)オステローデ(Osterode)は現在のオルシュティンの当時のドイツ語名である。
(*6)マリエンブルク(Marienburg)は現在のポーランド北部の都市マルボルク(Malbork)の当時のドイツ語名である。「余談109:マリエンブルクの攻防」参照。
(*7)クルム(Culm)は、現在のポーランド中央北西部のヴィスワ河畔の都市ヘウムノ(Chełmno)の当時のドイツ語名で、トルンの北々西約40kmにあり、この地域はドイツ騎士団がポーランドに入植した当初からの騎士団領で、彼らにとっては最も重要な中核地域であった。「余談58:ポーランドに招かれたドイツ騎士団」参照。
(*8)このときは教会大分裂の時代で、教皇は3人いた。即ち、ローマのグレゴリウス12世(在位1406年~1415年)とアヴィニョンの対立教皇ベネディクトゥス13世(在位1394年~1417年)、そして、この対立する2人の教皇を退位させるために、ピサ公会議で1409年に正当な教皇としてアレクサンデル5世が選出されたが、この人がその直後に急死したため、アレクサンデル5世の後継者として1410年にヨハネス23世(在位1410年~1415年)が選出されていた。その結果、この当時、これら3人の教皇が鼎立していた。ここでいう教皇特使は、神聖ローマ皇帝であるハンガリー王ジギスムントが認めていた第3の教皇ヨハネス23世が差し向けた特使であった。
(*9)シュトラスブルク(Strassburg)は現在のポーランド中央北部の都市ブロドニツァ(Brodnica)の当時のドイツ語名で、ヘウムノの東方約65kmに位置している。
(2021年6月 記)