翌年の5月、ベネディクト・マクライが出した結論は「ニェムナス川右岸(北側)の地域とメーメルを含むバルト海沿岸地帯とは切り離せないひとつの地域であって、これ全体がジェマイチヤである」というものだったから、色よい調停を期待していたドイツ騎士団は驚き、激怒した。ベネディクト・マクライの調停は完全な失敗であった。
ところが、この軍団の指揮を任されていたケーニヒスベルクの管区長ミハエル・キュヒマイスターは僅か16日間の戦闘ののち撤退してしまった。東ポモージェの軍団も攻撃命令に従わない騎士たちが続出して、殆ど戦闘は行われずに終わってしまった。
(*1)「余談111:トルンの講和」参照。
(*2)メーメル(Memel)は現在のリトアニアの北西部バルト海に面する港湾都市クライペダ(Klaipėda)だが、この都市の位置はニェムナス川の河口の右岸(北東側)であるから、当然、このときの定義によってジェマイチヤに含まれる。ニェムナス川は一旦内海のクルシュウ・マリオス(Kuršių marios)に注ぎ、この内海がバルト海とつながるクライペダの位置でバルト海に注ぐ。メーメルはこの河口の右岸にある。メーメルはドイツ騎士団の2つの領土(プロシャとリヴォニア)を結ぶ要衝であるから、当時のドイツ騎士団にとって手放せない重要拠点であった。なお、近現代におけるクライペダの重要性を理解するために、「余談34:クライペダ問題」および「余談35:武力によるクライペダ地域の併合」も合わせて参照されたい。また、第2次世界大戦前夜の1939年3月、ドイツのリベントロップ外相がリトアニアに対してクライペダ返還要求の最後通牒を発したこと、そして、その年の5月、返還されたメーメルの国民劇場のバルコニーでヒトラーが演説したことなどを想起されたい。
(*3)ベネディクト・マクライは、先ず、ドイツ騎士団の首都マリエンブルクに立ち寄ったが、彼を迎えたドイツ騎士団の態度は冷たかったという。そのあと、リトアニアのトラカイに来たが、ヴィタウタスは豪華な饗宴を催して彼を大歓迎し、黄金の拍車と礼帯など高価な贈り物もした。調停役のベネディクト・マクライに対する両国のこうした接し方の違いには注目すべきものがあったようだ。なお、ベネディクト・マクライはハンガリーの貴族で、ハンガリーでは日本と同様「姓・名」の順に氏名を書くのでMakrai Benedekがハンガリー人としての氏名だが(Makraiが苗字)、Benedict Makraiで通っている。彼はヨーロッパのあちこちの大学で学んだ知識人で、ハンガリー王ラヨシュ1世没後の王位争いでは、アンジュー・シチリア家のナポリ王カルロ3世を支持し、ルクセンブルク家のジギスムントに反対したため、一時、投獄された。しかし、出獄後ジギスムント王の信頼を得て外交問題で活躍した。
(*4)調停はリトアニアのカウナスで行われたが、ドイツ騎士団は、ミンダウガス王の時代にジェマイチヤがドイツ騎士団(正確にはドイツ騎士団の支部的存在であった当時のリヴォニア騎士団)に譲渡されたという歴史まで持ち出したが(「余談17:ミンダウガスの戴冠」参照)、リトアニアとポーランドの代表は、そのような古い資料は法的効力のないものだと主張して激しく反論した。しかし、ドイツ騎士団の代表は、ジェマイチヤはその後も度々ドイツ騎士団に譲渡されたという証拠があるとして、1404年の「ラツィオンシュの講和」(「余談98:ラツィオンシュの講和」参照)などを持ち出してリトアニア側の主張に反論した。ところが、ヨガイラの幼い娘ヤドヴィガ(1408年生れ)の代理人と、ヴィタウタスの娘ソフィア(モスクワ大公ヴァシーリイ1世の后)の代理人が、彼女らもジェマイチヤの相続人であり、彼女らの承諾なしにジェマイチヤがドイツ騎士団に譲渡されたのは全く違法で、この譲渡は無効であると申し立てた。さらに、14人のジェマイチヤの貴族たちも、「ジェマイチヤに住む我々は、ヴィタウタスを君主と認めているが、ヴィタウタスに対してジェマイチヤの土地を勝手に処分する権利は認めていない」と主張するなど、本題のジマイチヤの境界画定などそっちのけの議論で混乱した。
(*5)「余談98:ラツィオンシュの講和」の蛇足(8)参照。
(*6)「余談58:ポーランドに招かれたドイツ騎士団」および「余談98:ラツィオンシュの講和」の蛇足(7)参照。
(*7)1410年の「ジャルギリスの戦い」の大敗北以来、荒廃した領土と疲弊したドイツ騎士団の立て直しのために、騎士団内部では近隣諸国との平和維持を望む勢力が台頭していたから、彼らが強引な武闘派の暴走に反発したのだ。また、プロシャ領内のハンザ商人などの裕福層が復興のための重税に不満をもっていたことも背景として見逃せない。
(2021年5月 記)