今年も3月、東日本大震災が発生してはや10年の歳月が過ぎました。その節目に新聞やテレビなどあの大災害が私達の暮らしに遺した深い爪痕を振り返って居ます。その中で私もあそこ迄致命的では無いにしても、直接この災害を体験する機会がありました。
2011年3月11日金曜日の午後、私は東京でこの地震に遭遇しました。
当時私はイタリア語の学習に東京九段のイタリア文化会館に出掛けて居ました。金曜日の午後のコースが始まって、一時間ほど進んだ処で強烈な揺れが来ました。始めは皆何事か良く判らなかったが授業は中止して警戒した処へ第二波の強い揺れが来て、この時は皆テーブルの下に入って落下物を避けました。私は建物の倒壊は余り心配しませんでした。それはこのビルは数年前に建てなおしたばかりで、その際に最新の建築法規に準拠して居ると思ったからです。
この揺れの後私達は階段で外に出て辺りを見廻しました。この後大きな揺れは無くて隣接ビルも正常の様子でしたが、通行人から近くの九段会館では会合に多数の人が集まった上に天井が崩れ落ちて多数のけが人が出た事を知りました。救急車のサイレン以外は皆停止してしまった様にしんとして状況は不明、私達はその後はそれぞれの立場で状況判断して行動する事になりました。
暫く文化会館ビルの前に立って居たが、自然な策として東京駅に向かう人の流れに入って歩き始めました。幸い3月の穏やかな午後の日で助かりました。九段から皇居のお堀を周って東京駅に向かう人の流れが幾つもありました。道路には交通は一切無く、静まり返った東京の街はSF小説の近未来の世界に投げ込まれた様でした。
そこを多数の人が歩いて居て職場ごとのグループと思いますが、皆整然とした行動で自分たちだけ早くといった者は居なく落ち着いた雰囲気が支配して居ました。
この人々の行動は職場での防災訓練の結果だけで無く、自然に発生した様子も有る様に見えて、ニュースなどで見る外国での災害の様子と大きな違いを感じました。
東京駅に着くと随分沢山の人が居たが、皆驚く程おとなしいマナーでした。改札を入って中へ進むと階段の様に見える広場があってそこには沢山の人が集まって居たが、低い声での会話が主で怒鳴る声は無かった。数台の公衆電話では皆が家に連絡しようと長い列を作って居たが、中々繋がらない様子が見て取れました。また携帯には既に交信制限がかかっている様に見えました。
私はどうしたものかと思案して、このホールは避けて上の電車のホームへ登ってみました。売店の近くに公衆電話が在ってそこは穴場で数人しかいません。すぐに順番が廻って家に電話が繋がりました。家人には兎も角生きているから心配するな、この後電話が出来なくても安心している様に申して次の人に渡しました。
この後駅の中に入って先ほどのホールに行きました。此処は頻繫にアナウンスが為されて、情報を得るには好適と思ったからです。人も増えて来たがその中で少し密度のまばらな処で先客に聞いたらどうぞとの事で有難く階段に座らせて貰いました。後で聞いた話ですが、この人混みの中でも人が通れるような通路が自然に形成され、それを外国紙の特派員の方が見て感銘して写真が掲載された様です。
こうしているうちに時間は19時を廻ったと思います。新幹線のこだまが先ず動くとアナウンスされ、特急券は無くても其の儘入れて呉れました。私もホームに行くと既に満員だが何とか乗れました。随分待った後、何回も停止と徐行を重ねて先ずは新横浜まで行って私はそこで下車。行き先未定の人は横浜アリーナで休めるとのアナウンスに先ずは其処へ歩きました。此処には自販機が動いて居て、午後から始めて暖かい飲み物が入りました。観覧席の裏側の空間に避難者用のスペースがあり其処に座りました。間もなくOLらしい若い娘さんが来て隣に腰を下ろし、私の様な高齢者を不審に思ったのか、「大変でしたねお仕事ですか?」と訊いて来ました。私は仕事ならぬ70の手習いで東京に出て来てこの様な災難に出会ったと答え、ここから地下鉄が動いたら京浜急行の上大岡方面に行ける所迄行きたいと申しました。彼女はまた違う方向の交通再開を待って居ました。アリーナの中は暖房が効いていて、下はソフトなフローリングで先ずは助かりました。
可成り夜も時間が過ぎたところで地下鉄が途中まで動き出し、私はこれに乗ろうと娘さんにお先にと別れを告げました。地下鉄は京浜急行の上大岡まで行くので、これは行ける所まで行こうとしていた私には幸でした。地下鉄の乗り場に行くと最初に入った電車には8割くらいの乗車で改札を閉め、後は途中の駅の乗客に遺して置くと説明されました。それでも私は2番目の電車に乗る事が出来ました。
もう夜半過ぎの時間ですが上大岡の駅では人が溢れていました。私はタクシーの列についたが殆ど動かない中で区役所の方が来て、約1Km余り先の港南区民センターで帰れない人を受け入れて居るとの話が有り、私も場所を知っているので其処へ向う事にしました。同時に途中の食堂2軒に頼んで開いて貰ったのでまだの人はそこを試すと良いと教えて呉れました。
センターへの道沿いに牛丼屋さんがあり混んでいたがすぐ入れた。メニューは牛丼1本だが昼から何も食べていない私には何でも感謝で、熱いご飯はどんどん調理している証拠と有難く頂きました。
出ると少し先に港南区のスポーツセンターがあり、係の方が待って居られてすぐチェックインして毛布が貸与され、体育館での寝場所を紹介されました。カバンを枕に横になり高い天井を眺めると、今日(正確には昨日)の午後の地震発生から12時間、良く怪我も無しに此処まで来れた、途中の皆さんも優しかったし日本は素晴らしい国だとの実感が溢れました。しかし自分の齢(当時78)も考えてみると、いつ迄も災害時にうまく行くとは限らない、語学の勉強も考え直さないと何処かで痛い目に遭うだろうと思いました。
この後少しうとうとする内に夜が明けて昨日同様明るい陽光が入ってきました。間もなく区役所の方が来て、京浜急行は朝から暫定ダイヤで運転開始すると知らせて下さり、私達は係の方にお礼申して駅に歩きました。私の家のある金沢文庫駅では土曜日の休日ダイヤだがバスは動いており支障無く帰宅出来ました。
当時私は住んで居るマンション(約百戸余)の管理組合の役員が当たって居り、その午前中に理事会が予定されて居ました。顔を出すと無事でよかったと皆さん喜んで下され、流石に眠かったが皆さんに助けて頂き何とかお役目を果たせました。
こうして震災後の初日は過ぎて行きましたが、この時点で東北での津波の凄さ、それから福島ではその後の日本を苦しめる事態が進行している状況は良く知りませんでした。何事も後になると色んな事が判って仮定も含めての批判も出ますが、このレポートでは出来るだけ当時の状態に立っての記憶を辿りました。
余談ながらイタリア語の勉強ですが、この経験から次(4月)からのコースは好き嫌いは二の次として、早い時間のコースに変えました。更にその数年後になると聴覚の低下が始まり、先生の発音を聞き誤る様になりました。これは周波数の高い(約3Khz以上)帯域での感度低下から子音の理解が難しくなった様で、残念ですがコースへの参加を終わりました。しかし今でもCorriere della Seraとか、La Repubbulicaといった大手紙はネットでも見れるので、YouTubeなどで探して楽しんでいます。