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斎藤さんのお話

ザイオン国立公園/齋藤 嘉博

  ブライスキャニオン国立公園のゲートから50マイルほど走って、トンネルをくぐり急な坂道を下りたところがザイオン国立公園の入り口。昨年の稿(12/01)にご紹介したアメリカの国立公園訪問者数では5番目の国立公園です。私にはこの“地味な国立公園が5位?”とちょっと意外。諸兄のなかでもここを訪れた方は少ないのではないでしょうか。
  公園のオフィシアルロッジはどこも半年以上も前に満員になるのが常で、私共も一晩の宿しか取れず、あと二日はゲート直近のモーテルに。ロッジの前を流れるバージン川の前も後もそそりたつ何百メートルもあろうかという高さの崖の下。しかし山の中の澄み切った空気がすっかりと胸の中まできれいにしてくれました。
  公園内はドライブ禁止。その代わりに二両連結のバスが頻繁に走って主な観光地点へと運んでくれます。この公園の眼玉はエンジェルスランディングへの登山と水の中をジャブジャブと歩いて行くナローズ。
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ザイオン渓谷
エンジェルスランディング
への鎖場
ナローズへの川歩き
  一晩を暖炉の前で過ごして翌朝、バスに乗ってエンジェルスランディングへ。かなりの山道を歩いて到達したランディングへの入り口からは鎖にすがって上がる岩場。上までと張り切ってしばらく上ったのですが、行きはヨイヨイ帰りはコワイ。これは装備も体力も十分でない我々にはちょっとヤバイと頂上を見上げながらあきらめて引き返し、別のハイキング道を歩くことにしました。片側は切り立つ崖、反対の側はバージン川の流れる切り開かれた谷の景色。道端には沢山の野草やサボテン、そしてミュール鹿。崖の上の方、どこからか水が落ちてきています。ウィーピングロックという名前が気に入りました。カナダのロッキーにも同じ名前のものがありましたっけ。オブザーベイションポイントからは先ほどのバスが蟻のように。なかなか気分のいいハイキングでした。

  ロッジに帰って崖を見上げながら、なんだかグランドキャニオンをコロラド川まで下りた感じだネと家内と話をしていたのですが、それはあたっている感覚でした。その夜、ビジターセンターで買った本を読みましたら、この辺りは太古に隆起したコロラド平原。
  それをコロラド川の流れと雨風が削ってグランドキャニオンができ始めたのは古生代、ほぼ3億年も昔のこと。そしてこのザイオン国立公園は時代が下がって中生代、1,5億年前の地質の話でスケールは大分違いますが、やはり平原をバージン川と風雨が削って出来たのだそうです。ザイオン1.jpg

  お隣のブライスキャニオン国立公園の生成はさらに下って新生代、三千年ほどまえに浸食がはじまったという。いずれも気の遠くなるようなお話しですがこうしたことをはじめに学んでいれば、先ほどのハイキングの景色に中世ジュラシック期の感触を味わうことが出来たのかもしれません。やはりちゃんと予習をしておくものですネ。

  翌日はもう一つのポイント、ナローズへ。バスの終点、テンプルオブシナワバから10分ほど川沿いに歩いて川床へ。そこにちょっとした人だかりが。「アレ、大きな蜘蛛!」と私が口にしたとたんに隣のおじさんが「いや、これは蜘蛛ではなくてタランチュラだよ」と。そうですよネ。蜘蛛なんていう大きな分類ではなく次の科の名前での知識。小さいときからの教育でしょうか。しばらくタランチュラのダンスを見ながら子供のころからの教育の大切さを考えていました。

  さて目的はナローズの探検。ここから川のなかを30分ほど歩くと両腕を延ばせばとどくほど高い両岸の岩が狭く迫っているところ。若い人たちが次々と水の中を歩いて行くのですが、ジャブと入ってみるとけっこう冷たい。それに水濡れの後始末も考えると、昨日のエンジェルスと同じようにこれはとても装備と体力が十分ではない我々素人の歩く川ではなさそう。行ってみたいという気持ちとやめた方がという気持ちが交錯してしばらく川面を眺めていましたが、やはりヤメタ!ダメですネエ。オトシですネ。でもしかたがないでしょう。若い方達が楽しそうに水の中を歩いて行くのを見ながら、なるほどこれなら訪問客の数が多いのも頷けると納得したのでした。

  この旅、実はブライスキャニオンを訪ねることが目的で、せっかくの機会だからお隣のこのザイオンを訪ねてみようと思い立ったもので、予習不足、準備不足。それでも大変楽しい、勉強になった200310月の3日間でした。ブライスキャニオンについてはまたいずれ稿をあらためて。ザイオン7.jpg
ザイオンの印象

  写真はビデオからの再撮像ですのでよくありません。ネットで「ザイオン国立公園」とインプットするとなかなかよい動画をUチューブで見ることが出来ますので是非覗いてみてください。

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小林レポート

大震災から10年/小林 凱

  今年も3月、東日本大震災が発生してはや10年の歳月が過ぎました。その節目に新聞やテレビなどあの大災害が私達の暮らしに遺した深い爪痕を振り返って居ます。その中で私もあそこ迄致命的では無いにしても、直接この災害を体験する機会がありました。
  2011年3月11日金曜日の午後、私は東京でこの地震に遭遇しました。
  当時私はイタリア語の学習に東京九段のイタリア文化会館に出掛けて居ました。金曜日の午後のコースが始まって、一時間ほど進んだ処で強烈な揺れが来ました。始めは皆何事か良く判らなかったが授業は中止して警戒した処へ第二波の強い揺れが来て、この時は皆テーブルの下に入って落下物を避けました。私は建物の倒壊は余り心配しませんでした。それはこのビルは数年前に建てなおしたばかりで、その際に最新の建築法規に準拠して居ると思ったからです。

  この揺れの後私達は階段で外に出て辺りを見廻しました。この後大きな揺れは無くて隣接ビルも正常の様子でしたが、通行人から近くの九段会館では会合に多数の人が集まった上に天井が崩れ落ちて多数のけが人が出た事を知りました。救急車のサイレン以外は皆停止してしまった様にしんとして状況は不明、私達はその後はそれぞれの立場で状況判断して行動する事になりました。
  暫く文化会館ビルの前に立って居たが、自然な策として東京駅に向かう人の流れに入って歩き始めました。幸い3月の穏やかな午後の日で助かりました。九段から皇居のお堀を周って東京駅に向かう人の流れが幾つもありました。道路には交通は一切無く、静まり返った東京の街はSF小説の近未来の世界に投げ込まれた様でした。
  そこを多数の人が歩いて居て職場ごとのグループと思いますが、皆整然とした行動で自分たちだけ早くといった者は居なく落ち着いた雰囲気が支配して居ました。
  この人々の行動は職場での防災訓練の結果だけで無く、自然に発生した様子も有る様に見えて、ニュースなどで見る外国での災害の様子と大きな違いを感じました。

  東京駅に着くと随分沢山の人が居たが、皆驚く程おとなしいマナーでした。改札を入って中へ進むと階段の様に見える広場があってそこには沢山の人が集まって居たが、低い声での会話が主で怒鳴る声は無かった。数台の公衆電話では皆が家に連絡しようと長い列を作って居たが、中々繋がらない様子が見て取れました。また携帯には既に交信制限がかかっている様に見えました。

  私はどうしたものかと思案して、このホールは避けて上の電車のホームへ登ってみました。売店の近くに公衆電話が在ってそこは穴場で数人しかいません。すぐに順番が廻って家に電話が繋がりました。家人には兎も角生きているから心配するな、この後電話が出来なくても安心している様に申して次の人に渡しました。

  この後駅の中に入って先ほどのホールに行きました。此処は頻繫にアナウンスが為されて、情報を得るには好適と思ったからです。人も増えて来たがその中で少し密度のまばらな処で先客に聞いたらどうぞとの事で有難く階段に座らせて貰いました。後で聞いた話ですが、この人混みの中でも人が通れるような通路が自然に形成され、それを外国紙の特派員の方が見て感銘して写真が掲載された様です。

  こうしているうちに時間は19時を廻ったと思います。新幹線のこだまが先ず動くとアナウンスされ、特急券は無くても其の儘入れて呉れました。私もホームに行くと既に満員だが何とか乗れました。随分待った後、何回も停止と徐行を重ねて先ずは新横浜まで行って私はそこで下車。行き先未定の人は横浜アリーナで休めるとのアナウンスに先ずは其処へ歩きました。此処には自販機が動いて居て、午後から始めて暖かい飲み物が入りました。観覧席の裏側の空間に避難者用のスペースがあり其処に座りました。間もなくOLらしい若い娘さんが来て隣に腰を下ろし、私の様な高齢者を不審に思ったのか、「大変でしたねお仕事ですか?」と訊いて来ました。私は仕事ならぬ70の手習いで東京に出て来てこの様な災難に出会ったと答え、ここから地下鉄が動いたら京浜急行の上大岡方面に行ける所迄行きたいと申しました。彼女はまた違う方向の交通再開を待って居ました。アリーナの中は暖房が効いていて、下はソフトなフローリングで先ずは助かりました。

  可成り夜も時間が過ぎたところで地下鉄が途中まで動き出し、私はこれに乗ろうと娘さんにお先にと別れを告げました。地下鉄は京浜急行の上大岡まで行くので、これは行ける所まで行こうとしていた私には幸でした。地下鉄の乗り場に行くと最初に入った電車には8割くらいの乗車で改札を閉め、後は途中の駅の乗客に遺して置くと説明されました。それでも私は2番目の電車に乗る事が出来ました。

  もう夜半過ぎの時間ですが上大岡の駅では人が溢れていました。私はタクシーの列についたが殆ど動かない中で区役所の方が来て、約1Km余り先の港南区民センターで帰れない人を受け入れて居るとの話が有り、私も場所を知っているので其処へ向う事にしました。同時に途中の食堂2軒に頼んで開いて貰ったのでまだの人はそこを試すと良いと教えて呉れました。

  センターへの道沿いに牛丼屋さんがあり混んでいたがすぐ入れた。メニューは牛丼1本だが昼から何も食べていない私には何でも感謝で、熱いご飯はどんどん調理している証拠と有難く頂きました。

  出ると少し先に港南区のスポーツセンターがあり、係の方が待って居られてすぐチェックインして毛布が貸与され、体育館での寝場所を紹介されました。カバンを枕に横になり高い天井を眺めると、今日(正確には昨日)の午後の地震発生から12時間、良く怪我も無しに此処まで来れた、途中の皆さんも優しかったし日本は素晴らしい国だとの実感が溢れました。しかし自分の齢(当時78)も考えてみると、いつ迄も災害時にうまく行くとは限らない、語学の勉強も考え直さないと何処かで痛い目に遭うだろうと思いました。

  この後少しうとうとする内に夜が明けて昨日同様明るい陽光が入ってきました。間もなく区役所の方が来て、京浜急行は朝から暫定ダイヤで運転開始すると知らせて下さり、私達は係の方にお礼申して駅に歩きました。私の家のある金沢文庫駅では土曜日の休日ダイヤだがバスは動いており支障無く帰宅出来ました。

  当時私は住んで居るマンション(約百戸余)の管理組合の役員が当たって居り、その午前中に理事会が予定されて居ました。顔を出すと無事でよかったと皆さん喜んで下され、流石に眠かったが皆さんに助けて頂き何とかお役目を果たせました。

  こうして震災後の初日は過ぎて行きましたが、この時点で東北での津波の凄さ、それから福島ではその後の日本を苦しめる事態が進行している状況は良く知りませんでした。何事も後になると色んな事が判って仮定も含めての批判も出ますが、このレポートでは出来るだけ当時の状態に立っての記憶を辿りました。

  余談ながらイタリア語の勉強ですが、この経験から次(4月)からのコースは好き嫌いは二の次として、早い時間のコースに変えました。更にその数年後になると聴覚の低下が始まり、先生の発音を聞き誤る様になりました。これは周波数の高い(約3Khz以上)帯域での感度低下から子音の理解が難しくなった様で、残念ですがコースへの参加を終わりました。しかし今でもCorriere della Seraとか、La Repubbulicaといった大手紙はネットでも見れるので、YouTubeなどで探して楽しんでいます。

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武田レポート

リトアニア史余談110:「タンネンベルクの戦い」という記憶/武田 充司

 1410年の「ジャルギリスの戦い」(*1)という呼称はリトアニアの人たちの呼び方で、ポーランドの人たちは「グルンヴァルトの戦い」といい、ドイツや広く西欧諸国では「タンネンベルクの戦い」として知られているが、これらの呼称はこの戦場近くにあった2つの村の名のどちらかに由来している(*2)。
 しかし、第1次世界大戦勃発直後の1914年8月26日から30日にかけて、東プロイセンに侵攻したロシア軍をオルシュティン近郊で撃破したドイツ軍は、その戦いを「タンネンベルクの戦い」と呼んで勝利を祝った(*3)。その結果、世界史には2つの「タンネンベルクの戦い」が登場することになった。

 ドイツ人にとっての「タンネンベルクの戦い」は、これで1勝1敗となったのだが、そのあと、第2次世界大戦の口火を切ったドイツ軍の1939年9月の電撃的ポーランド侵攻作戦は「タンネンベルク作戦」というコード名で呼ばれ、その作戦の成功はヒトラーとドイツのナショナリストたちの鬱憤を幾分か晴らしたようだ。こうした歴史を振り返ると、1410年の「タンネンベルクの戦い」の大敗北が、その後のドイツ人の心に如何に深い傷跡を残したかがわかる。

 19世紀後半から20世紀初頭にかけては、欧州でナショナリズムが高揚した時代であったが、19世紀後半に活躍したポーランドの画家ヤン・マテイコも(*4)、そうした時代の子として、歴史的事件を題材にした作品を数多く残している。なかでも、1410年の「グルンヴァルトの戦い」の勝利を題材にした大作「タンネンベルクの戦い」(横9.87m、縦4.26m)は有名で、祖国を喪失したポーランド人の心に強く訴えるものがあった。
 そこで、第2次世界大戦でポーランドを占領したドイツ軍は、ポーランド人の民族意識を高揚させる愛国的なヤン・マテイコの作品を見つけ出して破壊しようとした。特に、この「タンネンベルクの戦い」という大作には百万マルクの賞金を付けて摘発しようとした。しかし、愛国的なポーランドの人たちが、この絵をルブリン近郊の地中に埋めて隠したため摘発を免れた(*5)。

 1999年春、ヤン・マテイコのこの大作がリトアニアの首都ヴィルニュスにやって来て、下の城の博物館に暫く展示された。展示初日の4月14日には、ポーランド大統領クワシニウスキ臨席のもと、リトアニア大統領ヴァルダス・アダムクス、ランズベルギス国会議長など、リトアニアの要人多数が出席して盛大な式典が催された。このとき、この絵があまりに大きいので、展示には特別に広い場所が用意され、大勢の人が押しかけてきてもよいように、絵の前は大広間になっていたが、それでも、会場は連日混雑していた(*6)。

〔蛇足〕
(*1)「余談107:ジャルギリスの戦い」参照。
(*2)現在のポーランド北部の都市オルシュティン(Olsztyn)の南西約40kmにグルンヴァルト(Grunwald)とステンバルク(Stębark)という2つの村があるが、昔はドイツ騎士団の人たちによって、それぞれグリュンフェルデ(Grünfelde)およびタンネンベルク(Tannenberg)と呼ばれていた。これら2つの村の間に僅か数km四方の平地があるが、そこが「ジャルギリスの戦い」の戦場となった。ポーランド王ヨガイラがこの戦いをラテン語で説明したときに、Grünfelde(「緑の原野」の複数形)というドイツ語の地名を誤って“Grenenvelt”と言ったのを、のちのポーランドの年代記作者ヤン・ドゥウゴシュが更に誤って“Grunwald”と記したことから、ポーランドではこの語が定着したという。なお、リトアニア語のジャルギリス(Žalgiris:緑)はGrünfeldeの直訳である。
(*3)オルシュティンは、当時、ドイツ領内の都市であったが、先に説明したように、タンネンベルクからは40kmも離れているから、この戦いを「タンネンベルクの戦い」と呼ぶのは無理なのだが、当時のドイツ人の気持ちが無理を承知でそうさせたのだろう。なお、この命名者はマックス・ホフマン大佐で、この人こそが、この戦い勝利の真の功労者であるが、表向きには、第8軍司令官ヒンデンブルクや参謀長ルーデンドルフの功績とされている。
(*4)ヤン・マテイコ(Jan Matejko:1838年生~1893年没)の時代にはポーランドという国はなく、第1次(1772年)から第3次(1795年)に及ぶポーランド分割によって、ポーランドとリトアニアの領土は分割され、ロシア、プロイセン、オーストリアの3国に帰属していた。ヤン・マテイコの生まれたクラクフはオーストリアに帰属していたので、彼は幼い時、「1846年2月のクラクフ蜂起」や「1848年革命」の時のオーストリア軍によるクラクフ砲撃を経験している。こうしたことが彼の画業に大きな影響を与えた。なお、彼の作品は歴史的事実に忠実でない部分があるが、それは彼独特の歴史精神の象徴的表現で、敢えてそうしたのだと言うこともできよう。
(*5)1945年以降、戦火とドイツ軍の破壊を免れたヤン・マテイコの作品の大多数が見つけ出され、修復されて、主にワルシャワの国立美術館に収納されている。
(*6)この混雑の中で自分もこの大作を見た。そして、わずか10年前に、あの「人間の鎖」という奇跡の連帯を経て、独立回復を果したリトアニアの人たちの放つ明るい熱気を感じることがた。
(番外1)ポーランドのピアニストで作曲家そして政治家であり外交官でもあったイグナツイ・パデレフスキは、「グルンヴァルトの戦い」の戦勝500周年に当たる1910年に、クラクフ市民に記念碑を寄贈した。このときポーランドは未だ独立回復を果していなかったから、7月15日の除幕式に続く3日間の祝祭には、彼の愛国心に感激した人々10数万人がクラクフの街を埋め尽くしたという。この記念碑は第2次世界大戦中にドイツ軍によって破壊されたが、戦後、再建された。それが現在の記念碑である。また、この年(1910年)には、2人のポーランド人画家タデウシュ・ポピエルとジグムント・ロズヴァドフスキが協力して「グルンヴァルトの戦い」という巨大な絵画(横10m×縦5m)を制作したが、第2次世界大戦中に行方不明になり、1980年代末にウクライナのリヴィウで発見された。これは現在、ウクライナのリヴィウ市の博物館にある。
(番外2)この戦いの600周年に当たる2010年7月15日には、ポーランドで盛大な記念式典が催された。そして、リトアニア銀行は記念コインを発行したが、ベラルーシとウクライナでも記念コインが発行されている。あの時代には、ベラルーシやウクライナはリトアニアの統治下にあったから、彼らの先祖はヴィタウタス大公に従って「ジャルギリスの戦い」に参加している。従って、ベラルーシやウクライナの人たちの心にも勝者の歴史が刻まれているのだ。
(2021年3記)
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季節の花便り

2月の花便り/高橋 郁雄

  今回もコロナのために、遠方への取材は出来ずに近場からの報告です。一刻も早くコロナが収まることを願っています。
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素心蝋梅紅梅冬至梅
素心蝋梅(ソシンロウバイ):2月5日に、宮前区の菅生緑地西地区の水沢の森で撮影しました。原産地は中国で、渡来時期は唐の時代(617~907年)説が強いが、1600年代(江戸時代)始め説もあるそうです。名前の由来=半透明で鈍い艶のある花弁が蝋細工のようであることから。
  効能:花の香りは高貴で、香水や化粧品に利用されるそうです。また、花や蕾から抽出した「蝋梅油」は、火傷・解熱・咳止めに有効と言われています。但し、種子にはアルカロイドが含まれ有毒だそうです。要注意。
紅梅:2月9日に、我が団地の周辺で撮影しました。このブログで今までに12回も出場しており、品種名も5点ほど挙げていますが、この紅梅の品種名は判りません。参考までにこのブログに登場した紅梅の品種名は、「思いの儘・紅千鳥・未開紅・唐梅・真黒鹿児島」の5点です。
  梅全般の花言葉=「高潔・忠実・忍耐」。
冬至梅:2月13日に、宮前区下有馬の不動尊近辺の梅林で撮影しました。2月12日の(タウンニュース:宮前区版)に下有馬不動尊の冬至梅が満開だという記事を見て、翌日撮影したというわけです。
  野梅性の早咲き品種で白花の花梅の代表格で、花は白の中輪花で一重咲きです。開花期は(12月中旬~2月中旬)と早く、冬至の頃に咲くのが名前の由来だそうです。