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斎藤さんのお話

ロッキーマウンテンNP/齋藤 嘉博

  前稿でご覧に入れた米国国立公園の訪問者数が二位のグランドキャニオン、高橋兄からゴルフをしたとのコメントを頂きましたが、大峡谷を越えるナイスショットをしたら気持ちがいいでしょうネ。
  その次の三位はロッキーマウンテンNP。ここはアメリカ大陸の屋根、great divideを含む壮大な山岳公園で多くの方が訪ねるのもうなずけます。コロラド州のデンバーに近いこの公園は山脈の東にグレートレイク、西にエステスパークと二つの玄関口を持っていて、その間にある12,183feetの峠を立派なTrail Ridge Roadが結んでいます。米国内での通り抜け道路としての最高峰。嘗て小林兄がここを走破されたとコメントにあったと思います。壮大な山を見渡しながら走れば最高の魅力でしょう。西のグレートレイクに4泊して峠をドライブし、エステスパークで4泊をしながらゆっくりと山の展望と高原を楽しもうというのが私のプランでした。昼過ぎにデンバーに着き、車を借りて標高8,500feetのグレートレークに到着したのはそろそろ陽が落ちようという頃。
  予約したモーテル、ベストウエスタンの部屋に荷物を置いてさて湖を散歩と思いましたら、家内が「頭が痛いので行きたくない」と。それなら私だけでと小さな街を抜けて湖岸を散歩。ジェネラルストアで夕食を買ってモテルに帰着。買ってきたアイスクリームを食べた家内はそのまま寝てしまいました。ま、軽い高山病だろう、明日になれば高度に馴れてすっかり良くなるさと多寡をくくっていたのですが、夜中にアイガーの山中と思われる岩山道でスノーボードに男を載せて降りてくる数人のグループに出会った夢を見ました。どうしたのと尋ねると「この男、高山病で参っちゃってネ、高山病はとにかく早く低いところに下りなきゃいかんのでおりるところサ」と。そうか!とこの夢に教えられ、夜が明けるとモテルのカウンターがあくのを待ってあと三泊の予約をキャンセルし、早々に車をとばして高度ほぼ3,000feetのデンバーの街に下りました。
  デンバーに着いてホテルの部屋に入った頃には家内の頭痛もほぼ治まって、夕方には「街を歩いてみない」とまで回復。やれやれと翌朝、旅行の保険で指定されたクリニックに行き診察を受けましたら確かにHigh Altitude Sicknessと診断され簡単な薬をくれました。頂いたシートには This sickness can progress to stupor, coma and death. The most effective treatment is oxygen , rapid evacuation to a lower altitude. と書いてありました。なるほど夢の通り。
  一件落着。三泊をデンバーで過ごしたおかげで予定になかった街の博物館や名所を訪ねることが出来、次のエステスパークのモテルに行くことが出来ましたが、ここの高度は7,500feet。こちらを先にすればよかったのでしょうネ。私の計画ミス。 
  エステスパークでの4泊は順調でした。朝五時半に起きて車で付近を散歩。
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写真1:朝の散歩
写真2:朝の山稜
写真3:FC展望台
  陽が上がってくると青黒い雪山が次第に赤みを帯びてきて林の中ではミュール鹿の一行が朝食を採っています。RM4.jpgRM5.jpg
写真4:Fern Lake付近写真5:Lily Lake
  モレーンパークは昔のモレーン湖(上流からの土木石が堆積した池)でしょう。広いのんびりとした草原。高山の花が沢山咲いていました。奥の方、Fern Lakeのあたりまで入っていくと六月というのにまだ雪が大分残っています。もちろん前述のTrail Ridge Road にも上がってみました。最高峰の地点まで行くのはちょっと躊躇しましたが、このくらいなら大丈夫かとすこし手前、11,500feetのForest Canyon展望台までドライブ。ここでロッキー山脈の雄大な姿を満喫することができました。最終日にはいくつかの池と滝を散策。当初計画のTR Roadの最高点をドライブすることはできませんでしたが、夢のお告げのお陰で無事山岳自然満喫の旅を終えることが出来てシカゴに向かいました。2011年6月のことでした。
  病と火は小さいうちに始末するのがベスト、上記のハプニングではそれを実感しました。二匹のウサギを追っても得ることは少ない。go to なんとかはウィールスに餌をあたえるようなものでしょう。今日11日、東京の感染者数は621人。痛手は大きくなるばかりなのですがネ。

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武田レポート

リトアニア史余談107:ジャルギリスの戦い/武田 充司

 戦いはドイツ騎士団の陣営が放った2発の斉射によって始まった。1410年7月15日の午前9時頃であった。北緯54度に近い北国の夏の夜明けは早く、午前9時といえばもう真つ昼間で、早朝の不安定な天候もおさまり、強い夏の日差しが照りつけていた(*1)。
 戦闘開始後まもなく、意外にもドイツ騎士団軍は隊形を崩して前線から後退しはじめた(*2)。そのとき、ヴィタウタス率いるリトアニア軍は彼らの左翼に砲撃を浴びせて攻撃を仕掛けた。これに応えて騎士団軍左翼の精鋭部隊が応戦して戦闘は本格化したが、リトアニア軍は右に迂回しながら敵の左側面に激しい攻撃を加えた(*3)。
   両軍互角の戦いが1時間ほど続いたが、次第にリトアニア軍は劣勢となり、やがて総崩れとなって敗走した。算を乱して逃げる敵を追撃する騎士団軍の陣営からは、早くも勝利の歌「キリストは復活せり」の歌声が響いた。しかし、右翼のリトアニア軍と左翼のポーランド軍の間に陣取っていた中央のレングヴェニスの軍団は一歩も引かず奮戦していた。

 このとき左翼を固めていたポーランド軍の一隊が敵軍の中央部めがけて突撃した(*4)。激突した両軍の激しい戦いの最中に、突然、ドイツ騎士団軍の中からひとりの勇猛な騎士が現れ、ポーランド軍陣営に突入して軍旗を倒した。それは一瞬の出来事だった。しかし、これを見たポーランド兵が軍旗を奪い返して再び高く掲げると、これに鼓舞されたポーランド軍は襲いかかる敵軍を圧倒しはじめた。
 そのとき、騎士団総長ウルリヒ・フォン・ユンギンゲンは、今こそ勝敗を決すべき時とばかりに、自ら控えの精鋭部隊を率いてポーランド軍主力の右側面を急襲した(*5)。敵味方入り乱れての激しい戦いになったそのとき、少し離れた所から戦況をじっと見ていた総大将ヨガイラに、突然、ひとりの敵軍の騎士が突進してきた。傍らにいた秘書官ズビグニエフ・オレシニツキは、咄嗟に、戦闘で折れた槍を突き出して一撃した。それで全ては終ったが、この突然の出来事に両軍しばし息をのんで立ち尽くしたという(*6)。

 そうこうしているうちに、戦場を駆け巡って叱咤激励するヴィタウタスの怒号が聞こえたのか、初戦に敗れて散り散りになって逃げたリトアニア軍の騎馬兵や歩兵の群れがどこからともなく現れて戦闘に加わってきた(*7)。ヴィタウタスは素早く彼らを集めて組織を建て直すと、敵の背後に回り込んで攻撃した(*8)。これに応えて、ポーランド軍も後方に控えていた精鋭部隊を総動員して敵軍主力の正面を激しく攻め立てた。突然の挟撃に狼狽した騎士団軍は混乱し、戦況は一変した。

 やがて包囲網が狭められ、騎士団軍は壊滅した(*9)。夥しい犠牲者とともに、混乱した戦闘の中で騎士団総長をはじめとする騎士団幹部の殆どは壮烈な最期を遂げ、戦いは終った。

〔蛇足〕
(*1)このときの両軍の位置関係は、北東から南西に引かれた1本の架空の直線を挟んで対峙したと考えれば分り易い。この線の北西側にドイツ騎士団が、南東側にポーランド・リトアニア連合軍が布陣した。当時、この辺りは小川が流れている湿潤な低地であった。しかも、緩やかな高低差のある地形であったから、高いところからでないと戦場全体を見渡すことができなかったが、ドイツ騎士団は北西側の奥の小高い丘の上に本陣を置き、騎士団旗を奉ずる親衛隊が騎士団総長ウルリヒ・フォン・ユンギンゲンを守っていた。現在、この場所には、この戦いを記念する碑が立っている。本陣の前面と南西側には予備の騎馬隊と歩兵隊が分散配置されていた。そして敵に対峙する最前列に騎馬隊が並び、その背後に歩兵が並んでいたが、その間に挟まれるように火砲の部隊が配置されていたので、前方の敵には火砲部隊が見えないようになっていた。これに対して、ポーランド・リトアニア連合軍は、最前列、中段、最後列の3段構えで、右翼(北東側)はリトアニア軍で固めたが、その前面にはドイツ騎士団の左翼を構成する騎士団軍の精鋭部隊とヨーロッパ各地から馳せ参じた気鋭の騎士軍団が対峙していた。ポーランド軍は南西側(左翼)に展開し、その背後の少し離れた丘の上に予備軍に守られた総大将ヨガイラが本陣を構えた。左右両翼の切れ目を埋めるように、中央の左端にボヘミアの傭兵部隊が、中央にはヨガイラの弟で戦上手のレングヴェニス率いるスモレンスク軍が、中央の右端にはレングヴェニスの兄カリブタアス率いるルテニア軍が陣取っていた。
(*2)この撤退は敵を前進させて前線に掘った隠し濠にはめて混乱させようとする既定の作戦であった。
(*3)ヴィタウタスは敵の意図を読み、隠し濠を迂回して攻撃した。
(*4)このとき、右翼のリトアニア軍の敗退で中央の軍団も動揺し、ボヘミアの傭兵部隊が真っ先に撤退し始めていた。これを見たヨガイラの側近ミコワイ・トロンバ(Mikołaj Trąba)が駆けつけて彼らを押しとどめ、中央部に近いポーランド軍右翼を突撃させて士気を鼓舞した。これに助けられて、奮戦するレングヴェニスは、麾下の1旗団を失ったが、残る2旗団で敵の包囲を突破して左翼のポーランド軍に合流した。
(*5)彼は精鋭の16旗団を率いて、自分たちが掘った隠し濠を避けるようにして、崩壊したリトアニア軍の右端(北端)をまわって南下し、ポーランド軍本陣の右側(北側)に現れた。この16旗団のうち15旗団が未だ戦闘に参加していなかった精鋭部隊で、その総戦力はドイツ騎士団が通常保持している戦力の3分の1近くに相当するものだった。これほどの新戦力が防御の手薄なポーランド軍本陣の右手に現れたのだから、ポーランド軍は危機的状況に陥った。しかし、当初、彼らは、これを敵軍とは思わず、撤退したリトアニア軍が合流するために近づいて来たものと思っていたという。
(*6)このとき20歳の若者であったズビグニエフ・オレシニツキは、ヨガイラの命を救った功績が認められ、のちに枢機卿にまで出世した。
(*7)このことから、緒戦でのリトアニア軍の敗走は意図的なもので、これはヴィタウタスが1399年の「ヴォルスクラ川の戦い」の敗北から学んだものだという説もあるが(「余談94:ヴォルスクラ川の戦い」参照)、それにしては兵士の戻りがばらばらで遅いので、これはヴィタウタス贔屓の思い過ごしだろう。
(*8)リトアニア軍が敗れ、味方の右翼が崩壊したあと、ヴィタウタスが恐れていたのは、ヨガイラが戦況不利とみて早々にポーランド軍を率いて撤退してしまうのではないかということだった。しかし、ヴィタウタスは前線を左右に走りまわって各部署の兵士を鼓舞し、常に戦況の全体像と個別の戦闘の状況を把握していた。その結果、ヴィタウタスは、戦線に戻ってきた兵士を迅速に再編成し、最善の戦闘行動をとることができたのだった。
(*9)このときの戦いを象徴的に活写したのが19世紀ポーランドの画家ヤン・マテイコ(Jan Matejko)の大作「タンネンベルクの戦い」であると言われている。
(2020年12月 記)
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斎藤さんのお話

アメリカの国立公園/齋藤 嘉博

  
  コロナで家を出ることが憚られる毎日。“地球の歩き方”のうち「アメリカの国立公園」を読みながら昔の旅を想い出していました。
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  アメリカには58の国立公園がありますがそのうちの8件はアラスカ州。ここには昔アンカレッジ経由で欧米に飛んだときに飛行機から望んだマッキンレー山を擁するデナリ国立公園などすばらしいところがあるようですが、なかなかここまで行く勇気は出てきません。他の50件は広いアメリカのあちこちに作られています。
  “歩き方”によればこれらの国立公園の入場者は表のようになっているそうです。ダントツのグレートスモーキーNPはノースカロライナ州とテネシー州にまたがる公園。YNP 02.jpg
  私は行ったことがないのですが、目立ったモニュメントはないけれど森林のなかにハイキングコース、キャンピンググランドなどがよく整備されていて、ニューヨーク、フィラデルフィア、ワシントンなどの大都会からI-81を使えば比較的近い。したがってバケーションには多くの方がキャンピングカーを連ねることになるのでしょう。

  訪問者を日本人に焦点を当てるとどのようになるのでしょうか。私の推測ではやはりまずグランドキャニオンが1位。なんといってもネームバリューがありますし、交通の便もロスアンゼルス、ラスヴェガスから飛行機、バス。さらに園内まで鉄道も通じていますから。2位は?ヨセミテかナ。日本人の訪問客が多いハワイは?以前はハワイ島という一つの国立公園でしたが今はマウイ島のハレアカラとハワイ島のキラウェアに分かれています。諸兄は前述の十公園のうちいくつの公園を歩かれたでしょうか。

  米国の国立公園はどこもビジターセンターが大変整備されていてその公園の細かい情報を知ることができるのが魅力ですし、いわゆるお土産品だけでなく、かなり高度の専門書も用意されているのが素敵です。YNP 03.jpg

  レンジャーの活動もホントウニ立派。そしてのびのびとした広さとそこに生きる動物たちの姿が嬉しい。たとえば国立公園発祥の地であるイエロストーンNPはワイオミング、モンタナ、アイダホの三州にまたがり面積は220万エーカー、約9,000Km2で四国のほぼ半分、東京、神奈川、埼玉の三都県をあわせてもまだ足りません。

  この広い地域は地質学的に特徴をもつ五つの区画に分けられています。この公園でもっとも有名なオールドフェイスフル、1時間に一回、高さ100mの噴出を繰り返す間欠泉があるのはガイザーカントリー。YNP 04.jpg
ガイザー・オールドフェイスフル

  その周りには沢山の人がすばらしいショーを待っていて噴出の時にはオーと咆哮、拍手。もうお年齢のガイザーですが元気なものです。この地区にはほかにもたくさんのガイザーが。なかでもグランドガイザー、キャスルガイザーは噴煙100mには及びませんがなかなかの噴出口。しかしいずれも噴出の周期が20時間ほどですのでなかなか噴出がみられない。したがって多くの観光客はここをすっと素通りしてしまうのです。私たちは運よくそのキャスルの咆哮に出会うことができました。すばらしい光景でした。

  ここでのもう一つの私のお目当ては西北のルーズベルトカントリー。川岸の平原に遊ぶバイソンが見もの。東京科学博物館の三階にある剥製群のなかでも髭もじゃの、かっこういいバイソンはヨーロッパバイソンでした。こちらはアメリカバイソン。YNP 05.jpg
バイソン

  みかけはほとんど変わりませんがやはり剥製と本物では迫力が違います。草原のような河原でのんびりと草を食んでいる本物、しかも沢山の群れを眼じかに見ることができるなんてすばらしい光景でした。そう、今年はフロリダ州で多くの山火事が発生して被害をもたらしましたが、この公園が山火事に会って壊滅状態になったのが1988年。8年ほど昔のことでした。まだ一部には焼けただれた木々の林が残っています。しかし10年経つと自然も次第にもとに戻ってきます。公園内には “Bears Return!!”とあちこちに公園の復活を喜んだ張り紙が掲げてあったのが印象的でした。

  マンモスホットスプリング地区は別府地獄の数百倍の広さ!棚田のように広がって硫黄の匂いがたちこめる中を桟道が巡っていてその景観を楽しめる。この地区にあるホテルのバンガローに泊まって公園を楽しんでいたのですが、ある日ランチで鳥の手羽を甘辛く煮たバッファローウィングを注文。YNP 06.jpg
マンモスホットスプリング

  モンタナから来ているという可愛いウェイトレスに、「イエロストーンではバッファローに羽根が生えているの?」と問いましたら、さもおかしそうにケッケッケエと大きな高い笑い声を残してキチンに入って行きました。すごく印象に残っています。

  イエロストーン湖を含むレイクカントリーではもうすぐ岸に近い水の中から高温の温泉がわき出してそのあたりはお湯の湖。魚が温泉を楽しんでいましたっけ。その湖から流れ出すイエロストーンリバーにかかる上、下の滝も水量が豊富で滝つぼ近くのビューポイントまで降りることができて壮観な印象。

  この公園で5泊をし、その翌朝、お隣のグランドテットンNPを抜けてソルトレイクまで走り、ここからニューオリンズへ飛んでコンピュータ映像の学会SIGGRAPHに出席しました。公園内での走行870miles1996年7月のことでした。

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季節の花便り

11月の花便り/高橋 郁雄

  今回も自宅近辺からのみの取材となりました。花は総て再登場です。新型コロナの感染は拡大中です。皆さん充分に注意して生活して下さい。
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山茶花落ちた山茶花の花弁秋明菊(薄ピンク)
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ランタナ木立朝鮮朝顔ニラ
山茶花 ●落ちた山茶花の花弁:我が団地内で、11月3日に撮影しました。以前に椿は花丸ごと落下し、山茶花は花弁1枚1枚が落下すると書きましたが、まさにその様子を写真に収めました。
  山茶花は日本が原産地。長崎の出島からヨーロッパへ伝わり、和名がそのまま学名(Camellia sasanqua)になったそうです。
  山茶花全般の花言葉=「困難に打ち克つ・ひたむきさ」。赤い山茶花の花言葉=「謙譲・あなたがもっとも美しい」。
秋明菊(薄ピンク):11月8日に、我が団地の周辺を散歩している途中に撮影しました。本ブログで過去に4度登場しています。白が3回、赤が1回、薄ピンクが1回で、薄ピンクの2度目の登場です。
  原産地は中国。花言葉=「薄れゆく愛・淡い思い」。
ランタナ:11月8日に、いつもの買い物の店の傍で撮影しました。熱帯アメリカ原産、約150種が熱帯地域に広く分布しているそうです。和名(七変化)は徐々に花の色が変化する不思議さをあらわしています。初夏から秋まで半年以上も花を長く咲かせてくれます。
  花言葉=「心変わり・厳格・合意・協力」。
木立朝鮮朝顔:11月10日に、いつもの買い物の店へ行く途中で、車を降りて撮影しました。中南米、インド地方原産。江戸時代から薬用植物として利用されていた。一方毒性もあり、幻覚症状を引き起こす危険もある花でもあるそうです。
  花言葉=「愛嬌・偽りの魅力・あなたを酔わせる」。
ニラ:11月23日に、我が団地内の道端で撮影しました。原産地は中国西部。一度植えると放っておいてもどんどん増えることに由来して、(怠け者が育てる草)という意味の別名「懶人草(らいじんそう)」があるとのことです。ニラの花は星の形に似ていることから「星への願い」という花言葉があります。他に「多幸」の花言葉もあります。
  4月18日の誕生花。