雨と風の7月14日が暮れ、日付が変わった真夜中、リトアニア・ポーランド連合軍は行動を起した。雨と霧の暗闇の中を移動した彼らは、ドイツ騎士団が陣取っている場所の南東にある小さな湖の畔まで来ると足を止め、その湖の南西端に陣を張った(*1)。
夜が明けると、雨もあがり霧も晴れて爽やかな夏の朝となった(*2)。ヨガイラはいつものようにミサに出かけたが、そのとき、敵の大軍が直ぐ近くにいるという報せをうけた。敵の奇襲攻撃に対して何の備えも出来ていない自軍の状況を理解したヨガイラは、直ちにヴィタウタスに伝令をだして戦闘準備を急ぐよう要請したが、自分は何事もなかったかのようにミサにもどって行った。しかし、静かに祈っているヨガイラのもとに再び報告がとどいた。敵軍が既に兵力を展開して戦闘態勢に入っているというのだ。ヨガイラは自軍(ポーランド軍)にも戦闘準備を急ぐよう指令を出したが、またミサにもどって祈り続けた(*3)。
一方、素早く戦闘態勢を整えたヴィタウタスは、先鋒隊のみがやっと戦闘準備を終えたというポーランド軍の状況を知って苛立ち、矢継ぎ早に伝令を出してヨガイラを督促したのだが、ヨガイラは祈り続けていた。さらにヴィタウタスを驚かせたのは、このとき未だ武器や補給品を積んだ車両の一部が前夜の野営地からこちらに向かっている途中だという情報であった。
もう一刻の猶予もならないと感じたヴィタウタスは、総大将ヨガイラを差し置いて行動を起した。リトアニア軍を湖畔の野営地から北西に移動させ、騎士団軍の左翼前面に進出すると、そこで戦闘隊形を整えた。これに応えてポーランド国王ヨガイラの親衛隊長は、配下の部隊をヴィタウタス軍の左に移動させ、敵軍の右翼前面に展開した(*4)。こうして総大将不在のままリトアニア・ポーランド連合軍はやっと敵の大軍と対峙した。
もう一刻の猶予もならないと感じたヴィタウタスは、総大将ヨガイラを差し置いて行動を起した。リトアニア軍を湖畔の野営地から北西に移動させ、騎士団軍の左翼前面に進出すると、そこで戦闘隊形を整えた。これに応えてポーランド国王ヨガイラの親衛隊長は、配下の部隊をヴィタウタス軍の左に移動させ、敵軍の右翼前面に展開した(*4)。こうして総大将不在のままリトアニア・ポーランド連合軍はやっと敵の大軍と対峙した。
こうした状況の中でヨガイラのもとに急行したヴィタウタスは、「兄貴!今日は戦いの日だ!祈っている場合じゃない!」と呼びかけたという。これでようやく立ち上がったヨガイラは、鎧兜を身に着けるとテントを出て、全軍に戦闘態勢を取るよう命じた(*5)。
ようやく戦闘態勢の整ったヨガイラの陣営にドイツ騎士団総長の使者2人がやってきた(*6)。彼らは裸の剣を手にしたままヨガイラとヴィタウタスの前に進み出ると、剣を大地に突き刺し、「いまや、戦うべき時が来た!これら2本の剣は貴殿らの戦いに役立つよう、騎士団総長からの贈り物である」と言って戦闘開始を促した。この挑発的な口上と贈り物に対して、ヨガイラは、敵から剣を贈られなければ戦えないような我らにあらずと一蹴したが、「そちらが戦いをお望みならば、うけて立とう!」と言ってその2本の剣を受け取ると、2人の使者を追い返して戦闘開始の号令を発した(*7)。
〔蛇足〕
(*1)この小さな湖はラウベン湖(Lauben /〔ポ〕Lubien)と呼ばれていた。また、彼らが布陣した辺りにはドイツ騎士団の入植地があって、ファウレン(Faulen)と呼ばれていた。現在、そこにはポーランド語でウルノヴォ(Ulnowo)と呼ばれている村があるらしい。
(*2)この日の朝の天候については全く逆の記述もある。即ち、「夜が明けても嵐はおさまらず、ヨガイラはその悪天候も厭わずミサをはじめ・・・」と説明している文献もある。これは多分、早朝の天候が未だ安定せず、降ったり照ったりしていたからで、互いに矛盾する記述とも言えない。
(*3)このときのヨガイラの振舞いから、彼が敬虔なキリスト教徒であったことが想像されるが、彼は1386年に婿入りしてポーランド王になったときに洗礼をうけてキリスト教徒(カトリック)になっている。しかし、彼の母ユリアナ(アルギルダスの2度目の妻)は、ロシアのトヴェーリ公ミハイル2世(在位1368年~1399年)の姉で正教徒であったから、ヨガイラも幼いときからキリスト教の信仰には接していたはずで、そうした環境から彼が敬虔なキリスト教徒になったのかも知れない。あるいは、生れ持った素質であったのかも知れない。
(*4)このときの親衛隊の指揮官はクラクフの貴族ジンドラム(Zyndram z Maszkowic)で、彼がこのように対応したことで騎士団軍の左右両翼に、それぞれ、リトアニア軍とポーランド軍が対峙して、やっと形だけは戦闘隊形が整った。
(*5)ところが、このときヨガイラは部下に命じて俊足の馬を陣の背後に配備させ、敗北時には自分が素早くクラクフに逃げ帰れるようにしていたというから彼の本心は読みにくい。しかし、この話はヨガイラとヴィタウタスの性格の違いを物語っていて興味深い。ヴィタウタスは、ヨガイラと違って、父母ともにバルト族のリトアニア人で、特に、母ビルーテは勇猛で頑固といわれるジェマイシア人豪族の娘で、現在でもリトアニア人に人気のある伝説的な女性である。ヴィタウタスは勇敢で行動力のある優れた武将で、多くの人を引きつける人間的魅力もあったという。一方、従兄のヨガイラは注意深く深謀遠慮の粘り強い、あるいは、執念深い性格の人であったようだ。
(*6)この2人の使者のひとりは、ハンガリー王ジギスムントの紋章をつけた盾をもち、他のひとりはシュテッティン公の紋章をつけた盾をもっていた。シュテッティン(Stetten)はオーデル川下流西岸にある現在のポーランドの都市シュチェチン(Szczecin)で、この地域はポーランドの土地であったが、ポーランド王の支配を嫌って半ば独立した公国で、地理的位置から当時はドイツ騎士団の側についていた。
(*7)この劇的な出来事は、戦いが終ったあとヨガイラ自身が后のアンナに送った手紙に書かれていた。そして、このとき大地に突き刺された2本の剣は、その後、この戦いの象徴となった。たとえば、この戦いのためにポーランド軍がヴィスワ川を渡った地点近くの都市チェルヴィンスク(「余談104:ヴィタウタスとヨガイラの陽動作戦」参照)には、それを記念する大きな2本の剣をデザインした記念碑が立っている。なお、このとき、ドイツ騎士団総長ウルリヒ・フォン・ユンギンゲンがこのような挑発をしてきたのは、先に敵に攻めさせて罠にはめ、敵軍を一網打尽に殲滅する作戦だったからだ。彼らは陣地の前に溝を掘り、背後の見えない位置に火砲や弩の部隊を配置して待ち構えていた。したがって、自分たちが陣地を出て臨機応変に先制攻撃をすることができなかった。そのうえ、この日の朝の天候が不安定で、夏の強い日差しが照りつけたと思うと、ときには雨が降るという天気だったようで、重装備の騎士たちにとっては蒸し暑くて苦しいだけでなく、用意した火薬が湿るのを防ぐために苦労するなど、待てば待つほど苦しくなり、苛立っていたのだ。一方、戦闘態勢に入るのが遅れていたリトアニア・ポーランド連合軍にとっては、これが幸いしたのだった。
(2020年11月 記)
(*1)この小さな湖はラウベン湖(Lauben /〔ポ〕Lubien)と呼ばれていた。また、彼らが布陣した辺りにはドイツ騎士団の入植地があって、ファウレン(Faulen)と呼ばれていた。現在、そこにはポーランド語でウルノヴォ(Ulnowo)と呼ばれている村があるらしい。
(*2)この日の朝の天候については全く逆の記述もある。即ち、「夜が明けても嵐はおさまらず、ヨガイラはその悪天候も厭わずミサをはじめ・・・」と説明している文献もある。これは多分、早朝の天候が未だ安定せず、降ったり照ったりしていたからで、互いに矛盾する記述とも言えない。
(*3)このときのヨガイラの振舞いから、彼が敬虔なキリスト教徒であったことが想像されるが、彼は1386年に婿入りしてポーランド王になったときに洗礼をうけてキリスト教徒(カトリック)になっている。しかし、彼の母ユリアナ(アルギルダスの2度目の妻)は、ロシアのトヴェーリ公ミハイル2世(在位1368年~1399年)の姉で正教徒であったから、ヨガイラも幼いときからキリスト教の信仰には接していたはずで、そうした環境から彼が敬虔なキリスト教徒になったのかも知れない。あるいは、生れ持った素質であったのかも知れない。
(*4)このときの親衛隊の指揮官はクラクフの貴族ジンドラム(Zyndram z Maszkowic)で、彼がこのように対応したことで騎士団軍の左右両翼に、それぞれ、リトアニア軍とポーランド軍が対峙して、やっと形だけは戦闘隊形が整った。
(*5)ところが、このときヨガイラは部下に命じて俊足の馬を陣の背後に配備させ、敗北時には自分が素早くクラクフに逃げ帰れるようにしていたというから彼の本心は読みにくい。しかし、この話はヨガイラとヴィタウタスの性格の違いを物語っていて興味深い。ヴィタウタスは、ヨガイラと違って、父母ともにバルト族のリトアニア人で、特に、母ビルーテは勇猛で頑固といわれるジェマイシア人豪族の娘で、現在でもリトアニア人に人気のある伝説的な女性である。ヴィタウタスは勇敢で行動力のある優れた武将で、多くの人を引きつける人間的魅力もあったという。一方、従兄のヨガイラは注意深く深謀遠慮の粘り強い、あるいは、執念深い性格の人であったようだ。
(*6)この2人の使者のひとりは、ハンガリー王ジギスムントの紋章をつけた盾をもち、他のひとりはシュテッティン公の紋章をつけた盾をもっていた。シュテッティン(Stetten)はオーデル川下流西岸にある現在のポーランドの都市シュチェチン(Szczecin)で、この地域はポーランドの土地であったが、ポーランド王の支配を嫌って半ば独立した公国で、地理的位置から当時はドイツ騎士団の側についていた。
(*7)この劇的な出来事は、戦いが終ったあとヨガイラ自身が后のアンナに送った手紙に書かれていた。そして、このとき大地に突き刺された2本の剣は、その後、この戦いの象徴となった。たとえば、この戦いのためにポーランド軍がヴィスワ川を渡った地点近くの都市チェルヴィンスク(「余談104:ヴィタウタスとヨガイラの陽動作戦」参照)には、それを記念する大きな2本の剣をデザインした記念碑が立っている。なお、このとき、ドイツ騎士団総長ウルリヒ・フォン・ユンギンゲンがこのような挑発をしてきたのは、先に敵に攻めさせて罠にはめ、敵軍を一網打尽に殲滅する作戦だったからだ。彼らは陣地の前に溝を掘り、背後の見えない位置に火砲や弩の部隊を配置して待ち構えていた。したがって、自分たちが陣地を出て臨機応変に先制攻撃をすることができなかった。そのうえ、この日の朝の天候が不安定で、夏の強い日差しが照りつけたと思うと、ときには雨が降るという天気だったようで、重装備の騎士たちにとっては蒸し暑くて苦しいだけでなく、用意した火薬が湿るのを防ぐために苦労するなど、待てば待つほど苦しくなり、苛立っていたのだ。一方、戦闘態勢に入るのが遅れていたリトアニア・ポーランド連合軍にとっては、これが幸いしたのだった。
(2020年11月 記)