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武田レポート

リトアニア史余談105:両軍の探り合いと駆け引き/武田 充司

 1410年7月初旬、ドルヴェンツァ河畔のクルツェントニク(*1)を目指して北上するリトアニア・ポーランド連合軍の足取りは重かった。彼らは敵の罠にはまることを恐れて進路を慎重に探りながら進んだ。これに対してドイツ騎士団の動きは速かった。
   7月9日、リトアニア・ポーランド連合軍はドイツ騎士団のフリードリヒ・フォン・ヴァレンローデ将軍麾下の部隊が守るリズバルクの城を破壊すると、翌7月10日、ようやくクルツェントニク近郊に達した(*2)。ところが、そのとき既にドイツ騎士団は北上して来るリトアニア・ポーランド連合軍を阻む最後の天然の防衛線であるドルヴェンツァ川の水中に多数の杭を打ち、河岸には火砲を並べて待ち構えていた(*3)。野営地から送り出した偵察隊の報告をうけたヴィタウタスとヨガイラは重臣会議を開き、ここでドルヴェンツァ川を渡ることを諦め、上流に迂回して渡河地点を探すことにした(*4)。

 7月11日、クルツェントニク近くの野営地を離れたリトアニア・ポーランド連合軍はドルヴェンツァ川から離れて東に向かって森の中を進んだが、途中で進路を南東に変えてジャウドヴォ(*5)の近くまで来たところで野営した。このあたりは既にドルヴェンツァ川から東に50kmも離れていたが、まだドイツ騎士団領内で、ジャウドヴォの城にはフリードリヒ・フォン・ヴァレンローデ将軍麾下の部隊が配備されていた。リトアニア・ポーランド連合軍は彼らと戦うことを避け、翌7月12日、野営地を発った(*6)。
   この日、リトアニア・ポーランド連合軍は一転して進路を北にとり、ドルヴェンツァ川に並行して上流に向かって進んだ。しかし、彼らの進路はドルヴェンツァ川からは東に30km以上も離れていた。7月13日、ドイツ騎士団の城のあるドンブルヴノ近くに達したリトアニア・ポーランド連合軍は、そこで野営したが、その夜、リトアニアの兵士たちが密かに野営地を抜け出してドンブルヴノの街を襲って荒らしまわった(*7)。

一方、ドイツ騎士団は偵察部隊を繰り出してリトアニア・ポーランド連合軍の足取りを逐一把握していた。騎士団総長ウルリヒ・フォン・ユンギンゲンは、敵の動きを追うように、全軍を率いてクルツェントニクを離れるとドルヴェンツァ川沿いに15kmほど北上し、そこでドルヴェンツァ川を渡った。そして、ルバヴァ(*8)を経て東に移動し、ドンブルヴノの北東約8kmの地点まできたところで敵を迎え撃つのに適した地形を探して布陣した(*9)。

 7月14日、昨夜ドンブルヴノが襲われて多数の市民が犠牲になったという報せが騎士団総長のもとに届いたが、彼はこの報せに激怒しながらも、シフィエチェに残してきた3千の守備隊を首都マリエンブルクの防衛強化に向かわせる指令を出すとそのまま情勢を静観した。この日は雨で、強風が吹き荒れていた。両軍はじっと睨み合ったまま日が暮れた。

〔蛇足〕
(*1)クルツェントニク(Kurzętnik)については「余談104:ヴィタウタスとヨガイラの陽動作戦」の蛇足(10)参照。ドルヴェンツァ(Drwęca)川は、クラクフの北方約400kmに位置するポーランド北部の都市オストルダ(Ostróda:〔独〕Osterode)辺りに発し、南西に向って流れてドイツ騎士団の重要都市トルン(Toruń)の東郊外でヴィスワ川に合流している。この川の右岸(北西側)がドイツ騎士団領の心臓部で、首都(本部)マリエンブルク(Marienburg:現在のマルボルク〔Malbork〕)はこの川の上流の北西約65kmに位置し、その辺りがこの川とマリエンブルクとの距離が最短になっている。この川の下流部約70kmはポーランドとの国境になっていたが、それより上流は左岸(南東側)もドイツ騎士団領であった。クルツェントニクはオストルダ(前出)の南西約45kmに位置し、この川の中流部左岸(東側)にあった。河岸の小高い丘の上にはドイツ騎士団の城があった。また、クルツェントニクの南東約23kmにあるリズバルク(Lidzbark:〔独〕Lautenburg)と、東南東約45kmにあるジャウドヴォ(Działdowo:〔独〕Soldau)には、それぞれ、国境を守るドイツ騎士団の城があった。
(*2)「余談104:ヴィタウタスとヨガイラの陽動作戦」で述べたように、ナレフ川沿いにリトアニア軍が現れたという報せをうけたとき、ドイツ騎士団総長ウルリヒ・フォン・ユンギンゲンはシフィエチェから機動部隊を発進させているが、この機動部隊の指揮官がフリードリヒ・フォン・ヴァレンローデ将軍で、彼はジャウドヴォとリズバルクに部隊を駐留させて警戒していた。したがって、リトアニア・ポーランド連合軍は彼らが守るリズバルクを攻撃し、進路を確保してクルツェントニクに向った。こうしたことがリトアニア・ポーランンド連合軍の足取りを重くしていた。
(*3)ここに配備された守備隊は早くから敵の北上に備えて防禦柵の設置などをしていたものと思われる。
(*4)彼らはドイツ騎士団のクルツェントニクの城から少し離れたところに野営して敵情偵察を試みたのだが、城の守備隊のほかに、川の対岸には既にドイツ騎士団の大軍が到着していることを知ったため、ここで敵前渡河を強行することは危険と判断したのだ。しかし、偵察部隊は密かに渡河して敵の本陣も偵察し、帰路、茂みの中に隠してあった敵の馬を50頭ほど盗んで戻ってきたという。なお、このとき、ヨガイラはハンガリー王の使者を介してドイツ騎士団と何らかの交渉を行ったと言われている。
(*5)ジャウドヴォ(Działdowo)の位置は蛇足(1)で説明したが、リトアニア・ポーランド連合軍がこのようにドルヴェンツァ川から遠く東に離れた地域を彷徨っていたのは追尾してくる敵を惑わせるためであったのだろう。
(*6)このときも、野営地を発つ日にヨガイラはハンガリーの使者と会っているのだが、クルツェントニク近くで野営した時と同様に、この使者が執拗にドイツ騎士団との戦争回避を迫ったのではなかろうか。ハンガリー王ジギスムントはニコポリス十字軍の失敗などからオスマン勢力の進出を恐れ、キリスト教陣営の結束を乱す身内の争いを止めさせたかったのだろう。
(*7)ドンブルヴノ(Dąbrówno)はオストルダ(前出)の南々東約40kmに位置する双子の湖の間にある町だが、そこにはドイツ騎士団の城ギルゲンブルク(Gilgenburg)があった。このときまで敵を避けながらひたすら移動するだけで一向に戦いが始まらないことに苛立っていた兵士が、こうした行動に出たのであろう。
(*8)ルバヴァ(Lubawa:〔独〕Löbau)はオストルダ(前出)の南西約27kmに位置し、ドルヴェンツァ川からは東に7~8km離れている。
(*9)結局、ドイツ騎士団はリトアニア・ポーランド連合軍の行動を読んで先回りをして、敵がマリエンブルクを目指してドルヴェンツァ川の上流を渡る前に、敵の行く手を阻むような地点に布陣して待ち構えたのだ。
(2020年10月 記)
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お知らせ

銀杏電友会 令和2年度懇親会中止のお知らせ および 新たに東海地区に赴任された同窓の方へのお願い

東京大学電気系同窓会の皆様


 拝啓,清秋の候,東京大学電気系同窓会の皆様にはますますご健勝のこととお慶び申し上げます。

 本年度はコロナ禍のため,銀杏電友会(東海地区東大電気電子同窓会)懇親会の開催が可能かどうか状況を見ておりました。
 しかし,高齢者を含む20名規模の食事会を安心して開催できる状況にはまだなっていないように思えます。
 そこで幹事団で相談し,本年度の懇親会は,中止した方がよいという結論になりました。
 誠に残念ながら,皆様にお知らせ申し上げます。

 また、新しく東海地区に赴任した同窓の方がいらっしゃいましたら、下記懇親会連絡担当(田坂)までご連絡いただけますでしょうか。ご連絡いただいた方には銀杏電友会開催のご案内を差し上げたいと思っております。

 来年度にはコロナ問題が収束し,銀杏電友会が開催できることを期待しています。
 皆様も感染にはご注意され,お元気でお過ごしください。
                           敬具

 懇親会連絡担当 田坂修二 E-mail: denyukai@wh.commufa.jp
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お知らせ

銀杏電友会 令和2年度懇親会中止のお知らせ

銀杏電友会(東海地区東大電気電子同窓会)各位


 拝啓,清秋の候,銀杏電友会の皆様にはますますご健勝のこととお慶び申し上げます。

 本年度はコロナ禍のため,懇親会の開催が可能かどうか状況を見ておりました。
 しかし,高齢者を含む20名規模の食事会を安心して開催できる状況にはまだなっていないように思えます。
 そこで幹事団で相談し,本年度の銀杏電友会は,中止した方がよいという結論になりました。
 誠に残念ながら,皆様にお知らせ申し上げます。

 来年度にはコロナ問題が収束し,銀杏電友会が開催できることを期待しています。
 皆様も感染にはご注意され,お元気でお過ごしください。
                           敬具

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トピックス

第12回S41電気電子クラス会にかえて

2020年のS41電気電子クラス会は、例年通り11月開催予定でおりましたが、新型コロナ感染拡大による影響で休会せざるを得ない状況となりました。このため、会の開催にかえて、近況を投稿いただき、配信することにいたしました。9月末締め切りで40名という多数の方々から返信・投稿をいただきました。返信・投稿をいただいた方々は、ほぼ、どの方も元気にされておられる様子です。返信をいただけなかった方々もご無事であると幸いです。なお、この1年間、新たな訃報は受けておりません。また、嬉しいことに、田野君の連絡先が分かり、今後、情報交換をさせていただくことになりました。

                         田中(記)

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大橋レポート

モンブランと周辺の旅/大橋 康隆

  1998年7月22日朝、ツェルマット駅を氷河特急で8時18分に出発し、北に進みヴィスプ駅(Visp)を経由して西に進み、マルティ二―駅(Martigny)に10時37分に到着した。
  ここでモンブラン特急に乗り換え10時48分に出発し、西南に進み、シャモニー・モンブラン駅(Chamonix-Mont Blanc)に13時14分に到着した。予約してあったホテルに行くと、日本人団体客で溢れ、屋根裏の部屋に案内された。屋根裏部屋の天窓を覗くとモンブランが見えた。(写真1地図モンブラン周辺.jpg
地図(モンブラン周辺)
写真1天窓.jpg写真2展望台.jpg写真3銅像.jpg
写真1(天窓)写真2(展望台)写真3(銅像)
  早速ロープウェイでエギーユ・デュ・ミディ(Aiguille du Midi)に登った。(写真2)霧が深く、イタリア領に行くゴンドラに乗るのを諦めた。急いでシャモニーに降りて市街を探索した。山岳博物館(Musee Alpin)の近くでモンブランを初登頂したバルマ(Balmat)と後援者ソシュール(Saussure)二人の銅像(写真3)を撮影した。ソシュールは近代登山の父と言われるスイス人で装備、資金などを組織的に援助した。
  夕方になってホテルに帰着すると、夕食はホテル内の食堂が満席で、庭先の屋外テーブルに案内された。ここでは私達と同様な外国人観光客達が、日本人の団体客の横暴さに憤慨していた。「私達も日本人ですが、皆さんと同じように扱われているので、全ての日本人が横暴だと思わないでください。」と穴に入りたい思いで釈明した。
写真4展望台.jpg写真5モンブラン.jpg写真6カフェ.jpg
写真4(展望台)写真5(モンブラン)写真6(カフェ)
  7月23日朝は、シャモニーの北西にあるル・ブレヴァン(Le Brevent)にロープウェイで登った。展望台から(写真4)を撮影したが、ここで77才の日本人と遭遇した。奥様は高山病らしく、麓のホテルに置いてきたとのことだが、旅慣れた登山家らしく、カクシャクとしておられた。ここでモンブランの素晴らしい(写真5)を撮影した。近くのカフェでモンブランの勇姿を眺めながら昼食を味わった。(写真6
  ロープウェイで麓に降りて、近くのロータリーで(写真7)を撮影した。この構図が気に入ったので、帰国後、F6号の油絵に描き、NEC OB パレット会に出展した。次いでサン・ミッシェル教会(写真8)とシャモニー市街(写真9)を撮影した。
写真7モンブラン遠望.jpg写真8教会.jpg写真9シャモニー市街.jpg
写真7(モンブラン遠望)写真8(教会)写真9(シャモニー市街)
  シャモニー駅を13時55分に出発して東北に進み、マルティニ―駅に15時29分に到着した。ここで乗り換えてマルティニ―駅を15時37分に出発して北に進みモントルー駅(Montreux)に16時10分に到着。ここから登山電車でグリオン駅(Glion)に17時44分に登り、眺めの良いホテルに宿泊した。
  7月24日は、午前中ロッセ・ド・ナイユ(Rochers de Naye) を訪ね、午後にはシヨン城を観光船で訪れた。クラスブログ2011年1月1日「シヨン城」を参照して頂ければ幸いである。
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季節の花便り

9月の花便り/高橋 郁雄

  今回もコロナの関係で遠出はせずに、我が団地内での取材となりました。初雪草だけが初登場で、他の二つは2度目の登場です。
hatuyukisou.JPGkibanakosu.JPGtamasudare.JPG
初雪草黄花コスモス玉すだれ
初雪草:9月10日に我がグリーンハイツ内を散歩の途中に撮影しました。親切に脇に花名を書いてあったので、花名が判りました。
  北アメリカ原産。和名「初雪草」や英名「スノーオンザマウンテン」は、葉に入った白い斑(ふ)を、積もった雪に例えたのが由来。夏から秋にかけて葉の中心に、白い小さな花が集まってひっそりと咲きます。葉や茎から出る乳液は、皮膚の炎症を起こす場合があるので、取り扱いには要注意。
  花言葉=「祝福・穏やかな生活・好奇心」。8月31日の誕生花。
黄花コスモス:9月9日に我が団地内で撮影しました。2009年に本ブログに1度登場しています。
  メキシコ原産。7~10月頃開花。コスモスの仲間で、かつ黄色っぽい花が咲くのでこの名前になった。葉はコスモスより太くギザギザ(コスモスの葉は“線状”)。
  花言葉=「野生美」
●玉すだれ(玉簾):9月9日に我が団地内で撮影しました。2009年に本ブログに1度登場しています。
  西インド諸島原産。開花時期は(8/5~10/10)頃。白く美しい花を「玉」に、葉が集まっている様子を「簾」にたとえた。
  雨の後で一斉に咲き始めるところから、「レインリリー」とも言う。
  花言葉=「汚れなき愛・潔白な愛・期待」。