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斎藤さんのお話

おじいちゃん/齋藤 嘉博

  過日従弟のS君から「こんな記事を見つけました」とメールがありました。私のおじいちゃんが理事をしていた帝國飛行協会の会報の大正十一年正月号に寄稿した「夢に見る空中旅行」という記事です。まず概要を旧仮名遣いのままご紹介しましょう。

  【今年の新年は此頃開通された東京小田原間の飛行旅行を試みる為め、元日の屠蘇を祝ふや否や芝浦の日本航空輸送会社の東京発着所に駆け着けた。余は此会社のパッスを有って居るから満員なるにも拘らず直ちに乗込むことができた。賃金は東京小田原間片道が五圓、往復が八圓、汽車賃の二等に較べて約二倍であるが、時間に於いては約四倍の利益があるから急ぐ人には嬉しい。(中略)この輸送会社、客も漸次増加してこの頃は二梃宛午前、午後の二回の往復にも拘わらず常に満員の盛況なのは航空機の価値が一般に普及した徴候で誠に喜ばしい次第である。
  艇内は二列に籐椅子が五脚宛配列されて操縦士を含めて十三人が乗り込んでいる。後尾には喫煙室や便所があり、其上無線電信の装置があるから飛行中自在に通信が出来る。陸上の無線電信所は高大で而も煩雑な装置を要するが、飛行機では之が意外に簡単である。中径二十珊位の巻枠から垂鉛を附した長さ百米突許りの針金をくるくると垂下せば、これで受信が出来、中径同じく二十珊位の砲弾形の電気モーターの頭部に小さなプロペラを装着すれば強力な電気が起こって之を利用して発信できる。(中略)窓から外界を望めば彩色地図を観る如く、盆景を観る如く愉絶快絶真に羽化登仙して蓬莱に遊ぶの感がある。東海道の宿駅は次から次と活動写真の様に矢継ぎ早に展開する(中略)。小田原着水場が向ふに見える。富士は白扇を倒まにして雄姿を誇り、汽車は黒煙を棚引いて後方に疾走する。餘りの勝景に心を奪われ艇掌から窓外に頭部を出す事を差し止められて居るのも忘れて、うかと窓から頭を出した……と思う間もなく首から上が寒風に吹き飛ばされそうになって思わず…アッ—…と大聲を発した……此の一刹那に目が覚めた。(後略)】

  注;水上飛行機の絵は文に添付のものではなく私のイメージです。おじいちゃんは多分もう一回り大きい、双発の飛行機を考えていたのではないかと思います。

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水上飛行機の絵
  私は最初タイトルも見ずに読み始め、すっかりこの文に引き込まれて、そうかこの時代に芝浦と小田原の間に飛行便かアと以前バンクーバーで飛んでいたゲタバキの水上遊覧飛行機を思い浮かべながら読んでいました。が最後に夢!なるほどと私も夢が覚めた想い。

  このお爺ちゃんは1871年、明治4年の生まれで陸軍の軍人。日露戦争に乃木将軍のもとで二○三高地の戦いに加わり金鵄勲章をもらっているのです。折々母に連れられてその実家を訪れているのですが、みんながするような膝に上がって甘えるなんていう記憶は全くありません。いつも奥の部屋で怖い顔で何かをしていると言った印象。それでも退役後の仕事の一つとしていた印刷会社では講談社の仕事をしていた関係で少年倶楽部が数日早く手に入る。それをもらうのが大変な楽しみでした。私が中学一年生の折、お爺ちゃんは丁度七十の古希で、お祝いがあったのを覚えています。だいたい私がお酒を飲めないのも、左利きであるのもこのおじいちゃんの遺伝なんです。

  先の文、夢物語に託しながら飛行機による交通の未来論を述べているのですが、私が気にとめたのは空中アンテナのくだり。大正11年、1922年と言えばまだラジオ放送もはじまっていない時代に、軍人で専門でもない事柄をこれだけ書くのはよほど無線交信に興味があったのに違いありません。そしてハタと私が電気工学科に入ったのもこのお爺ちゃんのDNAがしからしめるところだ!と思い当たったのです。私の父は経済の畑で仕事をしているのになぜ私が電気工学を目指したのかというのは昔からの疑問でしたが、この文を読んで長年の難問が解けた!

  左利きの件などフィジカルな遺伝がDNAの組み合わせで出来上がっているというのはこのところの定説になっていますし、DNAを読めば顔形を非常に正確に再現できるのだそうですが、メンタルな部分にまでDNAの制御が行届いている?のかと思ってびっくりしたのです。昔は親の職業を継承するのは当たり前。歌舞伎にしても舞踊にしても家元がつないでいますし、鎌倉時代の三代の名仏師、康慶、運慶、湛慶なんて見様見真似で職を継いでいると思っていたのです。蛙の子は蛙と言う故事がありましたっけ。 “蛙は孫も蛙”と言ってもいいでしょう。あらためて祖先の大切さを思い知ったのでした。ただもう一歩考えてみると、戦時中に友人が陸士、海兵と言っているときに私は一度も軍人になろうとは思っていませんでした。このDNAは? 人間て全く不可解です。でも今年のお彼岸には久しぶりにお爺ちゃんのお墓参りをしようと思っています。

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武田レポート

リトアニア史余談104:ヴィタウタスとヨガイラの陽動作戦 / 武田 充司

 プロシャのドイツ騎士団本部攻略を目指すヴィタウタスとヨガイラは、その意図を隠してドイツ騎士団の兵力を分散させるために、休戦協定が切れる6月24日(*1)を待たずに陽動作戦を開始した。
 1410年6月14日、ドイツ騎士団本部にはリトアニア軍がニェムナス川下流にあるドイツ騎士団の拠点ラグニットに向って移動しているという情報がもたらされたが(*2)、同じ日に、リトアニア軍がマゾフシェのナレフ川沿いに結集しているという情報も入ってきた。しかし、それ以前に、ポーランド軍がプオツク付近のヴィスワ川に橋をかけているという情報が入っていた(*3)。そして、その後、ヴィスワ川下流の要衝ビドゴシュチ付近にポーランド軍が現れたことが確認された(*4)。

 6月3日、首都ヴィルニュスを発ったヴィタウタス率いるリトアニア軍はポーランド軍と落ち合う約束の地点チェルヴィンスクを目指したが、途中のどこかでナレフ川を渡らなければならなかった(*5)。一方、ヨガイラ率いるポーランド軍は6月26日クラクフを発って北上し、チェルヴィンスクの直前でヴィスワ川に浮橋をかけて渡河し、チェルヴィンスクに入った(*6)。そのとき、ヨガイラのもとに伝令がきて、リトアニア軍はプウトゥスク(*7)付近でナレフ川を渡るので敵の目を逸らす囮部隊の派遣を要請してきた。さっそく陽動作戦部隊が派遣され、リトアニア軍は全軍無事にナレフ川を渡ることができた。そして、7月2日、リトアニア軍はチェルヴィンスクでポーランド軍に合流したが、そのとき、マゾフシェのヤヌシュ1世とシェモヴィト4世の兄弟も手勢を率いて駆けつけた(*8)。こうして3万9千ともいわれる大軍に膨れ上がったリトアニア・ポーランド連合軍(*9)は、翌7月3日、ドルヴェンツァ河畔のクルツェントニク(*10)を目指して出発した。

 ところが、7月5日、戦争回避の最後の調停を試みようとするハンガリー王ジギスムントの密使がヨガイラの野営地にやってきた。これに対してヨガイラとヴィタウタスは和平の条件として非常に厳しい要求を突き付けて使者を帰した(*11)。

 錯綜する情報を分析していたドイツ騎士団総長ウルリヒ・フォン・ユンギンゲンは、先ず、どういう状況でも対応できるようにヴィスワ川下流西岸のシフィエチェ(*12)に主力を結集させたが、ナレフ川沿いに現れたリトアニア軍に対処するため、シフィエチェから機動部隊を発進させた。ところが、休戦協定が切れて3日後の6月27日、リトアニアの大軍がプロシャ北部に侵入したという情報がケーニヒスベルクから届いた。しかし、そのあと、ジギスムントの密使の情報に接したウルリヒ・フォン・ユンギンゲンは、敵の真の狙いに気づき、直ちに主力部隊を率いて敵が目指しているクルツェントニクに向った(*13)。

〔蛇足〕
(*1)休戦協定については「余談101:ドイツ騎士団とポーランドの短い戦い」参照。なお、ドイツ騎士団本部は現在のポーランド北部の都市マルボルク(Malbork)にあって、当時はマリエンブルク(Marienburg)と呼ばれ、難攻不落の城が築かれていた。現在、その城は世界遺産になっている。
(*2)ニェムナス川はリトアニア南部を東から西に向かって流れてバルトア海の注ぐ大河で、その下流南岸にはドイツ騎士団がリトアニア進出初期の1289年に築いた要塞ラグニット(Ragnit)があった。そこは現在のロシア領の飛び地カリーニングラード州の都市ネマン(Neman)で、リトアニアではラガイネ(Ragainė)と呼ばれている。
(*3)「余談102:権謀術数をめぐらすドイツ騎士団」の蛇足(10)参照。
(*4)ビドゴシュチ(Bydgoszcz)は、ヴィスワ川下流の大彎曲部(北西方向の流れが北東方向に転じる地点)の西側、ブルダ川がヴィスワ川に合流する地点に位置し、当時のドイツ騎士団領の南西端に接していた。
(*5)リトアニア軍は先ずヴィルニュス南西約150kmに位置するニェムナス河畔の拠点ガルディナス(Gardinas:現在のベラルーシ都市フロドナ〔Hrodna〕)に向った。そこで東方のリトアニア支配地域から召集された正教徒諸公の軍団やタタール人部隊が合流して兵力が増強されると、深い森の中をさらに南西に進んでナレフ川東岸に出た。ナレフ川は北東から流れて、途中でブーク川と合流してワルシャワの少し北でヴィスワ川に注ぐが、彼らが目指すチェルヴィンスク(Czerwińsk)は、その地点より更に25kmほどヴィスワ川を下ったヴィスワ川北岸にあったから、どこかでナレフ川を渡って西側に行かなければならなかった。本文で述べたドイツ騎士団の偵察隊が発見したナレフ川沿いのリトアニア軍は、このときナレフ川東岸沿いに渡河地点を探しなだら南下していたリトアニア軍であった。
(*6)チェルヴィンスクはクラクフの北方約265km地点のヴィスワ川北岸に位置し、下流のプオツクと上流のワルシャワとのほぼ中間にある。この辺りは完全にポーランド領内であるため安心してヴィスワ川を渡ったのであろう。全軍が浮橋を渡るのに3日を要したという。
(*7)プウトウスク(Pułtusk)はワルシャワの北方約50kmに位置するナレフ川西岸の都市である。
(*8)この兄弟については「余談103:開戦前夜の言論“正義の戦いについて”」の蛇足(2)参照。
(*9)これに対して、ドイツ騎士団側の兵力は2万7千といわれている。これらの数字には諸説あって信頼性には疑問があるが、数的にはドイツ騎士団側が劣っていたことは確かである。しかし、兵器や装備に関しては優劣が逆であったことも確かである。
(*10)クルツェントニク(Kurzętnik)は、現在のポーランド北部の都市ブロドニツァ(Brodonica)の北東約20kmに位置するドルヴェンツァ(Drwęca)河畔の町である。両軍が集合したチェルヴィンスクからは北々西に約125km、プオツクからは北方に約95km離れている。
(*11)中立の調停者を装ったジギスムントが実はドイツ騎士団の支援者であったから、この密使も敵陣偵察のスパイであったことは確かで(「余談101」と「余談102」参照)、これをどう扱うかはヨガイラとヴィタウタスにとって難しい問題であった。しかし、彼らは敢然と、「ドイツ騎士団がドブジン地方をポーランドに返還し、ジェマイチヤの領有権を放棄し、なおかつ、今回の戦争準備にかかった費用を補償してくれるならば和平に応じる」というとんでもない条件を出して、この欺瞞に満ちた調停を一蹴した。なお、ここで、1382年まではハンガリー王がポーランド王を兼ねていたことを想起するべきだろう(「余談84:クレヴァの決議」参照)。
(*12)シフィエチェ(Świecie)は先に説明したビドゴシュチの北東約45kmに位置し、ビドゴシュチより下流にあり、当時、そこはドイツ騎士団領であった。
(*13)このとき小規模の守備隊がシフィエチェに残された。
(2020年9月 記)
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斎藤さんのお話

観光時代/齋藤 嘉博

  前稿に小林兄から頂いたコメント、「大本営、大政翼賛会」と、なるほど言いえて妙ですネ。そして「東部軍管区情報、B29百機が大子上空を西南に飛行中」のラジオを聴きながら灯火管制の暗い部屋のなかでじっと耐えた頃を思い出しました。
  今の「マスク」はさしずめその時代の防空壕といったところでしょうか。そして焼夷弾ならぬコロナ菌の雨。でもこうした比喩を理解できる人も少なくなりました。
  コロナを恐れての灯火管制、外出自粛で一番大きな痛手を受けたのは観光業界のようです。広い駐車場にお客のないバスが並び、空港に飛行機が並んでいるのを見るとこのパンデミックの脅威についての実感がわいてきます。
  イリンクス、遊びの中でも旅は身体にも頭脳にも心にも大切なひと時。日常の生活から離れての時間。このブログ欄にもたびたび諸兄の海外旅行のお話を読ませて頂きました。大橋兄が大きな荷物をもってあれだけの旅をするのは大変。あらかじめの計画もトーマスクックやミシュランと格闘をして組まれたものと思います。私のアメリカドライブにしてもランドマクナリーの地図とAAA、ハーツの地図での計画策定でした。そして実行、記録(反省)と三度の楽しみと学びを得ることが出来る機会なのですから。子供たちが夏休みも短く、修学旅行もできずに旅の経験をコロナのために逃したとき、その明確な関連を見つけ出すことは難しいでしょうが、将来の発育に大きな障害が出るのではないかと心配です。
  このところ観光はブーム。バブルといってよい状況でした。観光白書(令和元年版)によれば日本人の海外への出国数は2018年に1900万人。一人当たりの回数にすると0.14回で、世界で18位とランクは下のようですが、ランクの上位は地続きの欧州の国々ですから地の利が違います。一方外国人の訪日人数は同じ年に3,000万人をこえているのです。この数値は2014年に比べて2.4倍。そのうちの27%が中国人、24%が韓国人。日本の美を楽しむよりは買い物に血眼。瀑買いなんていう言葉ができる時代ですから、バブルと言っていいでしょう。それにともなって様々な弊害も出てきています。春、お花見の頃の上野公園には大声で騒ぐ沢山の中国人。墨堤のお花見なんていう風流はどこへやら。一昨年の春、金閣寺を訪れた折にはあの鏡湖池の周辺がラッシュ時の新宿駅のホームのような混雑でした。観光収支は大幅に2.3兆円の黒字で、お国は稼いでいるつもりでしょうが私たちにとっては迷惑至極。迷惑よりもお客さん方ご自身も十分な観光の楽しみを感じていないのではないかと思います。京都の神社、仏閣は静かな佇まいの回遊式庭園が売り物。いや感じてほしいことなのでしょう。それがラッシュアワーなのですから。
  昨年この欄でご紹介したカチカチ山の山頂にしても富士山の展望がよい場所は新宿駅なみ。しかし一歩離れて三つ峠へのハイキングコースに入るともう人気はまばら。出会ったのは日本人が数人と外国はスウェーデンから来られた若い方一人でした。観光1.jpg
カチカチ山頂の混雑
  スイス、あるいはフランス、ドイツ、チロルなどアルプス地方をハイキングしているとそのあたりの観光施設が大変充実しているのに気付きます。グリンデルヴァルトから少し下ったグルントでロープウェイに乗り、メンリッヒェンに上がってここからクライネシャイデックまでのほぼ1時間半のハイキングは初心者のためのコース。観光2.jpg
メンリッヒェンから
クライネシャイデック
  何度か歩きましたが、正面にユングフラウとメンヒの頂、左下に広がる森を見ながらアップダウンもほとんどない、ゆったりとした歩きは素晴らしい感触でした。モンブランの裾野に位置するシャモニーからも縦横に登山電車、ロープウェイが用意されていて、モンブランの優しい山姿やグランドジョラスの威容を心行くまで楽しむことが出来るのです。チューリッヒには山岳交通の様子を上手に紹介した博物館があってロープウェイやアプト式鉄道の様子を楽しく勉強することができました。
  こうしたコースを歩きながら感じるのは日本の山々を歩くのとの違いです。それは森。日本の山を歩く道のほとんどがアップダウンンのきつい森の中であるのに気付きます。アルプスにはヴァルトと名付けるところは沢山あるのですが、多くのコースは木々のない展望のよい道。したがってどこもユングフラウやマッターホルンの山容を眺めながら歩くことが出来ます。わが国でのハイキング道では展望台として作られたところ以外での見晴らしはほとんどない。その代わりに木々と落葉、豊かなフィトンチッドの香り、谷合を流れる清冽な水と滝を思う存分に楽しむことができる。
  昨年このブログでご紹介した天城街道では私の歩いた道のすべてが太郎杉の森のなかでした。観光3.jpg観光4.jpg
踊子街道杉の道踊子街道七滝
  秋田の白神山地のブナ林を歩くなんていいでしょうネ。関東近郊の軽井沢、那須、日光などには白樺を含め、木曽路には檜、サワラなど。アルプスのような寒冷地、南アジアのようなジャングルとは違った温帯地域の恵みをもっているのです。ただわが国のハイキングコース、よく出来ているのにメンテが悪い。完成したときには大変に快適なコースなのですが、しばらくすると道は落葉に埋もれてわからなくなり、道標は朽ち、橋は錆びて歩く快適さが失われてしまっているのです。ということで観光立国を目指すのでればお土産屋さんの振興も大切ですが、ハイキングコースの充実と森全体を健康に保つためのメンテナンスに力を注ぐことが必要でしょう。

  しかしとにかくコロナが納まらないと何処にも出かけることが出来ません。と家で文句を言っているこの頃です。
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大橋レポート

ベルンからツェルマットへ/大橋 康隆

  1998年7月20日の午前はベルン(Bern)市街観光をすることにした。先ずベルン歴史博物館を訪れた。(写真1)次いでベルンを囲うようなアール川(Aar)を訪れ、ベルン市街を撮影した。(写真2)遠方に巨大なベルン大聖堂が見える。
  アール河畔に沿って歩くと(写真3)の様な美しい風景が現れた。帰国後、F8号の油絵に描き、有楽町交通会館2階ギャラリーで開催された本明会展に出展した。アール川の橋を渡って植物園を見学したが、再びベルン市街の中心地に戻り、街のシンボルであるベルン時計塔を撮影した。(写真4)仕掛時計が有名である。手前の女神の噴水は、正義の噴水と言われている。地図ツェルマット周辺.jpg
地図:ツェルマット周辺
写真1歴史博物館.jpg写真2大聖堂.jpg写真3アール河畔.jpg
写真1:歴史博物館写真2:大聖堂写真3:アール湖畔
  ベルン駅を14時26分に出発して南方に進みブリーク駅(Brig)に16時3分に到着した。これは急行列車だったが、エアコンが無く暑くて参った。昔、1970年代にジュネーブのITUの建物にCCITT(国際電信電話諮問委員会)が移るまでは、古い会議場でエアコンが無く、暑さに閉口した。「1週間のためにエアコンを設置する必要はない。」と言われたことを思い出した。ツェルマット鉄道に乗り換えて16時18分に出発して西に進み、ヴィスプ駅(Visp)を経由して南に進みツェルマット駅(Zermatt)に17時45分に到着した。
写真4時計塔.jpg写真5ゴルナーグラート.jpg写真6モンテローザ.jpg
写真4:時計塔写真5:ゴルナーグラート写真6:モンテローザ
  7月21日朝、登山電車でツェルマット駅を8時に出発してゴルナーグラート駅(Gornergrat)に8時44分に到着した。(写真5)あいにくマッターホルン(Matterhorn)は霧に隠れており、やむなく東方のモンテローザ(Monte Rosa)を撮影した。(写真6)天気が良ければここからリッフェル湖(Riffelsee)を訪れ逆さマッターホルンを撮影する予定であったが、諦めざるを得なかった。予定を変更し、ゴルナーグラートを9時55分に出発し、ツェルマット駅に10時39分に到着した。
写真7噴水.jpg写真8看板.jpg写真9幻の山.jpg
写真7:噴水写真8:看板写真9:幻の山
  引き続きスネガ駅(Snnegga)に登る予定であったが、ツェルマット市街を西方に進みマーモット(Marmot)の噴水までやってきた。(写真7)それでも諦めきれず「WELCOME TO THE MATTERHORN」の看板の写真を撮影した。(写真8)残りの時間はアルパイン博物館で過ごし、先駆的登山家達の苦難と悲劇をじっくりと味わった。
  7月22日早朝には、マッターホルンが現れるのを期待して通称「日本人橋」でしばらく粘ったが、遂に幻に終わった。(写真9)油絵仲間のR.T.さんはNEC OB パレット会で、この構図ですばらしい作品を描いていた。彼はスキーヤーでもあったので、冬期の旅行であると思う。
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季節の花便り

8月の花便り/高橋 郁雄

  コロナ禍のため、今回も近場からの取材報告です。(あべりあ)と(酔芙蓉)は我がグリーンハイツ団地内、(むくげ)は我が団地の隣のマンションの周囲からの取材です。コロナには感染しないようお互いに注意しましょう。
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あべりあ酔芙蓉むくげ1
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むくげ2むくげ3むくげ4
  あべりあは、2009年に1度、酔芙蓉むくげは、2009年、2010年に各1度本ブログに登場済みです。
あべりあ:我が団地内にて8月9日の14時45分に撮影しました。原産地は中国。春から秋にかけて開花期間がかなり長い。暑い夏にも負けずにキレイな花を咲かせてくれます。
  花言葉=「強運・謙虚・謙譲」。7月7日の誕生花。小さいけれども優しい香りを放ち、暑い夏でも可憐な姿を見せてくれるあべりあにぴったりな花言葉です。
酔芙蓉(すいふよう):我が団地内にて8月27日の13時22分に撮影しました。原産地は中国、日本。朝方は白色→徐々にピンク色→夕方には萎んでしまう。2010年には、13時53分撮影の写真を載せましたが、今回の方が良く撮れています。
  花言葉=「心変わり・しとやかな恋人・繊細な美・微妙な美しさ」。8月5日の誕生花。
むくげ(木槿)1~4:我が団地の隣のマンションの周囲で、8月7日11時50分頃に撮影しました。原産地は中国、日本へは平安時代に渡来。早朝の3時頃に開花した花は夕方には萎んでしまう「一日花」。韓国の国花であり、花色は(桃、藤、白、紫)と多く、八重咲品種も多くある。よく見かける白地で花の底が赤い(むくげ1)のような花の品種は「日の丸」と呼ばれるが、茶人の(千宗旦)がこの花を茶花として非常に愛したことから「宗旦むくげ」とも呼ばれている。
  花言葉=「デリケートな愛・尊敬」。色別の花の花言葉は特にないとのことです。8月28日の誕生花。