しかし、ヴィタウタスには北方のリヴォニア騎士団の動向が気になっていた。プロシャのドイツ騎士団との全面戦争に乗じて背後からリヴォニア騎士団に襲われることを危惧したヴィタウタスは開戦が迫る緊迫した状況の中でリヴォニア騎士団との交渉に臨み、ついに合意を勝ち取った。それは、「互いに相手を攻撃する場合には、3か月前までにその意図を通告すること」というものであった。これはリトアニアにとって大きな意味があったが、リヴォニア騎士団にとっても、このような合意をのぞむ理由があったのだ(*7)。
(*1)リトアニア大公ヴィタウタスもポーランド王ヨガイラも、前年暮れのブレスト・リトフスクの会談でドイツ騎士団との戦いを覚悟して準備を始めていたものと考えられる(「余談101:ドイツ騎士団とポーランドとの短い戦い」参照)。
(*2)シェモヴィト4世(Siemowit Ⅳ)の父シェモヴィト3世は、カジミエシ3世(大王)没後にマゾフシェを統一してポーランド王からの独立性を回復した人で、その後、彼の2人の息子ヤヌシュ1世(Janusz Ⅰ)とシェモヴィト4世にマゾフシェを分割相続させた。その結果、ワルシャワを中心とする東部を兄ヤヌシュ1世が、プオツクを中心とする西部を弟シェモヴィト4世が統治した。したがって、シェモヴィト4世はプオツク公とも呼ばれるが、この経緯からも分る様に、マゾフシェはピアスト朝の末裔が統治していながら、独立性の強い地域で、ポーランド王も彼らを臣従させることに気を配っていた(「余談85:ポーランドに婿入りしたヨガイラ」参照)。特に、マゾフシェのドイツ騎士団領との位置関係から分かるように、この戦いではマゾフシェは重要な地域であった。ヤヌシュ1世は前年の「ドイツ騎士団との短い戦い」でもヨガイラに協力して戦ったが、彼の弟シェモヴィト4世は婿入りして王になったヨガイラには反抗的であった。
(*3)ボヘミアは現在のチェコ共和国の中央部と西部地域であるが、本文後半で述べるように、ボヘミアの傭兵部隊はドイツ騎士団側にもいた。ボヘミアはヴァーツワフ4世の国だからこれは彼らの足並みの乱れを示唆していた。モラヴィア(Moravia)は現在のチェコ共和国の東部地域だが、9世紀に成立したスラヴ人国家「モラヴィア王国」がこの辺りに存在したときには、もう少し広い範囲がモラヴィアであった。その後、モラヴィアはボヘミアの支配下に入った。
(*4)このときスモレンスクの軍団を率いたのがヨガイラの弟レングヴェニス(「余談99:ウグラ川の協定」参照)であった。スモレンスクは14世紀のアルギルダス大公時代からリトアニアの影響下にあったが(たとえば、ゲディミナス大公の2番目の后はスモレンスク公の娘オルガで、アルギルダスは彼女の子である)、1404年にヴィタウタスによって完全に征服され、リトアニア領になっていた(「余談95:ヴィルニュス・ラドム協定」参照)。
(*5)ルテニア(Ruthenia)は現在のウクライナ西部地域を指すが、当時、リトアニアやポーランドの支配下にあったヴォリニア(Volhynia)とガリチア(Galicia)のスラヴ人が兵力として召集されていた。指揮官はヨガイラの弟カリブタス(Kaributas)であった。
(*6)タタール人部隊の指揮官は、1406年に西シベリアで殺害されたキプチャク汗国のトクタミシュ(「余談77:リトアニアのタタール人」参照)の遺児ヤラル・アル・ディン(Jalal-al-Din)で、このとき、ヴィタウタスを頼って亡命してきていた。
(*7)リヴィニア騎士団はドイツ騎士団の支部的存在であったが、騎士団長を自分たちで選出するなど自治権と独立性を保持していた。したがって、本文後半で述べるように、ドイツ騎士団に援軍を派遣する一方、リトアニアとはプスコフやノヴゴロドなどの北方の支配権をめぐって独自の利害関係をもって交渉していた。
(*8)当時のドイツ騎士団国家は、中心に城をもつ26の分団領から構成されていて、それらの分団領の修道士たちがそれぞれ部隊を編成していた。彼らは、家紋をつけた陣中着などは一切身に着けず、家柄や出身地に関係なく、全員が同じ黒の十字をつけた白いマントを羽織っていた。
(*9)スタニスワフ(Stanisław ze Skalbimierza)はこの論文(” De bellis justis“)によってドイツ騎士団との戦いの正当性を擁護したが、このとき、彼より10歳ほど若い気鋭の学者パヴェウ・ヴウォドコヴィツ(Paweł Włodkowic)も「異教徒といえども自らの国家を保持し平和を享受する権利があり、国家は互いに尊敬しあい、平和的に共存すべきである」と主張して論陣を張っていた。
(2020年8月 記)