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武田レポート

リトアニア史余談103:開戦前夜の言論“正義の戦いについて”/武田 充司

 1410年春、ドイツ騎士団もリトアニアもポーランドも、それぞれ、本格的な戦いの準備に忙しかった。西欧キリスト教世界の支援を得て全面戦争を準備しているドイツ騎士団に対して、ポーランド・リトアニア連合も負けてはいなかった(*1)。
 ポーランド王ヨガイラは先ず国内の結束を図った。ワルシャワ公ヤヌシュ1世は当初よりヨガイラに協力的であったが、今回は彼の弟マゾフシェ公シェモヴィト4世も、息子のシェモヴィト5世とともにポーランド軍に加わった(*2)。さらに、ヨガイラはボヘミアとモラヴィアからも傭兵部隊を募って戦力強化に努めた(*3)。

 ヨガイラが編成したポーランド軍には軽装備で俊敏に行動する軽騎兵軍団が欠けていたが、この弱点を補ったのがヴィタウタス麾下のリトアニア軍であった。その中にはスモレンスクの軍団(*4)やルテニア人(*5)、そして、タタール人の部隊まで加わっていた(*6)。
 しかし、ヴィタウタスには北方のリヴォニア騎士団の動向が気になっていた。プロシャのドイツ騎士団との全面戦争に乗じて背後からリヴォニア騎士団に襲われることを危惧したヴィタウタスは開戦が迫る緊迫した状況の中でリヴォニア騎士団との交渉に臨み、ついに合意を勝ち取った。それは、「互いに相手を攻撃する場合には、3か月前までにその意図を通告すること」というものであった。これはリトアニアにとって大きな意味があったが、リヴォニア騎士団にとっても、このような合意をのぞむ理由があったのだ(*7)。

 一方、ドイツ騎士団総長ウルリヒ・フォン・ユンギンゲンは、前年から西欧でこの戦いのための十字軍を募っていた。これに応じて主としてドイツ語圏から多数の勇猛果敢な戦士が集まって来ていた。勇名轟くジェノヴァの弩射手隊も招聘されていた。ドイツ騎士団支配下に入っていた地域のポーランド人貴族も駆り出された。近隣諸国からの傭兵も集められたが、その中にはボヘミアの傭兵もいた。リヴォニア騎士団からの援軍もいた。ドイツ騎士団のすべての分団領から集まった修道士たちが揃いのマントを着て中核部隊を構成した(*8)。

 ところが、こうした緊迫した状況の中で、ポーランドの学者や聖職者たちは、ドイツ騎士団の武力による非人道的植民地支配を正義の立場から糾弾する言論を展開し、西欧キリスト教世界の良心に訴える努力を続けていた。その中心にいたのが当時再建されたクラクフ大学の初代学長スタニスワフであった。彼は、1410年春、論文「正義の戦いについて」(*9)を発表し、その中で「異教徒(非キリスト教徒)もまた独立の国家をもち、それを守る権利があり、キリスト教徒は正統な理由なくして異教徒の国家を攻撃することは許されない」と論じ、「キリスト教徒でない者は人間でなく、したがって抹殺してもよい」という西欧キリスト教徒の独善性に一撃を加え、自衛のための正義の戦いを擁護した。

〔蛇足〕
(*1)リトアニア大公ヴィタウタスもポーランド王ヨガイラも、前年暮れのブレスト・リトフスクの会談でドイツ騎士団との戦いを覚悟して準備を始めていたものと考えられる(「余談101:ドイツ騎士団とポーランドとの短い戦い」参照)。
(*2)シェモヴィト4世(Siemowit Ⅳ)の父シェモヴィト3世は、カジミエシ3世(大王)没後にマゾフシェを統一してポーランド王からの独立性を回復した人で、その後、彼の2人の息子ヤヌシュ1世(Janusz Ⅰ)とシェモヴィト4世にマゾフシェを分割相続させた。その結果、ワルシャワを中心とする東部を兄ヤヌシュ1世が、プオツクを中心とする西部を弟シェモヴィト4世が統治した。したがって、シェモヴィト4世はプオツク公とも呼ばれるが、この経緯からも分る様に、マゾフシェはピアスト朝の末裔が統治していながら、独立性の強い地域で、ポーランド王も彼らを臣従させることに気を配っていた(「余談85:ポーランドに婿入りしたヨガイラ」参照)。特に、マゾフシェのドイツ騎士団領との位置関係から分かるように、この戦いではマゾフシェは重要な地域であった。ヤヌシュ1世は前年の「ドイツ騎士団との短い戦い」でもヨガイラに協力して戦ったが、彼の弟シェモヴィト4世は婿入りして王になったヨガイラには反抗的であった。
(*3)ボヘミアは現在のチェコ共和国の中央部と西部地域であるが、本文後半で述べるように、ボヘミアの傭兵部隊はドイツ騎士団側にもいた。ボヘミアはヴァーツワフ4世の国だからこれは彼らの足並みの乱れを示唆していた。モラヴィア(Moravia)は現在のチェコ共和国の東部地域だが、9世紀に成立したスラヴ人国家「モラヴィア王国」がこの辺りに存在したときには、もう少し広い範囲がモラヴィアであった。その後、モラヴィアはボヘミアの支配下に入った。
(*4)このときスモレンスクの軍団を率いたのがヨガイラの弟レングヴェニス(「余談99:ウグラ川の協定」参照)であった。スモレンスクは14世紀のアルギルダス大公時代からリトアニアの影響下にあったが(たとえば、ゲディミナス大公の2番目の后はスモレンスク公の娘オルガで、アルギルダスは彼女の子である)、1404年にヴィタウタスによって完全に征服され、リトアニア領になっていた(「余談95:ヴィルニュス・ラドム協定」参照)。
(*5)ルテニア(Ruthenia)は現在のウクライナ西部地域を指すが、当時、リトアニアやポーランドの支配下にあったヴォリニア(Volhynia)とガリチア(Galicia)のスラヴ人が兵力として召集されていた。指揮官はヨガイラの弟カリブタス(Kaributas)であった。
(*6)タタール人部隊の指揮官は、1406年に西シベリアで殺害されたキプチャク汗国のトクタミシュ(「余談77:リトアニアのタタール人」参照)の遺児ヤラル・アル・ディン(Jalal-al-Din)で、このとき、ヴィタウタスを頼って亡命してきていた。
(*7)リヴィニア騎士団はドイツ騎士団の支部的存在であったが、騎士団長を自分たちで選出するなど自治権と独立性を保持していた。したがって、本文後半で述べるように、ドイツ騎士団に援軍を派遣する一方、リトアニアとはプスコフやノヴゴロドなどの北方の支配権をめぐって独自の利害関係をもって交渉していた。
(*8)当時のドイツ騎士団国家は、中心に城をもつ26の分団領から構成されていて、それらの分団領の修道士たちがそれぞれ部隊を編成していた。彼らは、家紋をつけた陣中着などは一切身に着けず、家柄や出身地に関係なく、全員が同じ黒の十字をつけた白いマントを羽織っていた。
(*9)スタニスワフ(Stanisław ze Skalbimierza)はこの論文(” De bellis justis“)によってドイツ騎士団との戦いの正当性を擁護したが、このとき、彼より10歳ほど若い気鋭の学者パヴェウ・ヴウォドコヴィツ(Paweł Włodkowic)も「異教徒といえども自らの国家を保持し平和を享受する権利があり、国家は互いに尊敬しあい、平和的に共存すべきである」と主張して論陣を張っていた。
(2020年8月 記)
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大橋レポート

ユングフラウからトゥーン湖へ/大橋 康隆

  1998年7月19日朝、ヴェンゲン駅を8時33分に出発、南進してクライネシャイデック(Kleine Scheidegg)に8時55分に到着した。
  途中、ユングフラウを撮影したが、山頂は霧に霞みシルバーホルンだけが鮮明に映っている。(写真1)登山電車に乗り換えてクライネシャイデック駅を9時2分に出発してユングフラウヨッホ駅(Jungfraujoch)に9時53分に到着した。展望台からは霧にかすみ、期待していたパノラマ風景は無残な写真になってしまった。地図トゥーン湖周辺.jpg
地図:トゥーン湖周辺
写真1ユングフラウ.jpg写真2グリンデルヴァルト.jpg写真5 トゥーン湖.jpg
写真1
ユングフラウ
写真2
グリンデルヴァルト
写真3
トゥーン湖畔
  止むなくユングフラウヨッホ駅を11時に出発してクライネシャイデック駅に11時44分に帰着した。休む間もなく12時にクライネシャイデック駅を出発してグリンデルヴァルト駅(Grindelwald)に12時50分に到着した。ここで撮影したアイガーの勇姿を(写真2)に示す。しばし休憩して再びグリンデルヴァルト駅を13時50分に出発して山路を下り、インターラーケン・オスト駅には14時7分に到着した。ここからはユングフラウ三山が美しく見えるので不思議な気持ちになった。時間的に余裕があったので、インターラーケン市街を歩いて港のあるインターラーケン・ヴェスト駅に到着した。
写真4シュピーツ城.jpg写真3 トゥーン湖観光船.jpg写真6グルント.jpg
写真4
シュピーツ城
写真5
トゥーン湖観光船
写真6
グルント
  インターラーケン港から観光船に15時55分に乗船し、北西に進み(写真3)のような美しいトゥーン湖畔(Thunersee)を眺めながらシュピーツ港(Spiez)に到着した。シュピーツ港からトゥーン湖を横断して、グルント港(Grund)に向かって出発すると、まもなくシュピーツ城が現れた。急いで船尾から(写真4)を撮影した。トゥーン湖を横断して進んでいると反対方向に進む観光船とすれ違い(写真5)を撮影した。対岸のグルントに到着すると、一部の乗客は下船した。(写真6
写真7オーバーホーヘン城.jpg写真8オーバーホーヘン城.jpg写真9 トゥーン城.jpg
写真7
オーバーホーヘン城
写真8
オーバーホーヘン城
写真9
トゥーン城
  更に北へ進むとオーバーホーヘン城が現れた。(写真7)、(写真8)更に北西に進み、トゥーン港に18時4分に到着した。トゥーン市街では(写真9)に示すように何処からでも背景にトゥーン城が現れる。トゥーン駅を18時18分に出発して北西に進み、スイスの首都にあるベルン駅(Bern)に18時38分に到着した。

  PS:2003年に(写真8)を編集してF50号の油絵に描き、上野の東京都美術館で開催された新構造展に出展して準会員に推薦された。2014年には(写真7)をF50号の油絵に描き、六本木の国立新美術館で開催された新構造東京展に出展した。
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斎藤さんのお話

コロナウィルス/齋藤 嘉博

  コロナのお陰で徘徊もままならず、日々退屈をしています。諸兄はどのようにおすごしでしょうか。日本では数少ない良い季節、新緑に映える季節にStay Homeなんてまったく色気がありませんでした。
  昨年は天城を散歩しておりました。今年は妙高の高原を散歩したいと思っていたのですが、とてもコロナの猛威にはかないません。それでもと“密”を避けながら日本三奇橋の一、猿橋に出かけて橋の木組みと渓谷の流れを楽しみ、あじさいの道を散歩してきました。コロナ1.jpg
桂川を越える猿橋
  先の5月なかば、15日は葵祭の日でしたが御所車の行列は取りやめ。さぞ紫式部は嘆いていることでしょう。そして8月の祇園祭も山鉾の巡行も宵山もとりやめ。もともとこうしたお祭りは怨霊の災いを納める催しでした。今私の手許に「京都<千年の都>の歴史」という本(岩波新書、高橋昌昭著)があります。平安京の時代に疫病で皆が大いに苦しんだ折、その蔓延を防ぐために各種の神事、祭礼、法会が繰り返され、亡くなった人の怨恨を慰めるために御霊会が開かれたと書かれています。京都三大祭りのうち葵祭は加茂の神の祟りで生じた風水害と凶作を鎮めるために始めたお祭り、祇園祭は疫神でかつ疫病を除く神である牛頭天王をお慰めする祭、北野天満宮は菅原道真公の恨み怨霊を治めるためのお社。
  疫病神のお祭りを一層盛んにしなくてはならないときにお祭りの縮小は少し政策が違っているのではないかナ、全国民に10万円を配るよりもこれを神様にお供えしてお祭りを丁寧にするのが大切なんだがナ、(国家が宗教行事をすることはできないのでしょうが)なんて思いながらこのところの感染者数の推移を見ています。コロナ2.jpg
7月24日の
NHKテレビから
  いや確かにこのパンデミック、神の祟りかもしれないのです。人類はこれまでに技術進歩、快適な生活、経済活動の繁栄などの理屈をつけて自然をすっかりと破壊してきてしまいました。気候温暖化、近頃の大雨もその象徴でしょう。蝶々、とんぼ、それに蝉の姿も見る機会が少なくなりました。この神の怒りを治めるのにどのようなお祭りがいいのでしょうか。ほんとうにもう一度阿部清明に頼んで神泉苑で御霊会を行うのが良いのかもしれません。
  この騒ぎのおかげでクラスター、ソシアルディスタンスなど、もう50年も前に勉強した言葉が、いま巷間に滋く使われています。ソシアルディスタンスという言葉は、人と人の間の関係、親密度、距離、世の中の本質を象徴している言葉なのですネ。
  70年代の前半、未来学が盛んな頃、清水幾太郎さんの翻訳でロジェ・カイヨワの「遊びと人間、Les  Jeux et les Hommes」という書が翻訳されて話題をよびました。カイヨワはこの本のなかで遊びを

アゴーン(競争);スポーツ、囲碁将棋、

アレア(運);宝くじ、カジノ、競馬、パチンコ、

ミミクリー(模擬);演劇、映画、ライブショー、

イリンクス(眩暈);登山、スキー、ジェットコースター、観光

  と分け、人間にとって遊びはなくてはならない生活要素だと説いています。不思議にこれらの項はすべて今“自粛”を呼びかけられていること。そして「いずれの遊びも孤独ではなく、仲間を前提とする」と書いているのです。いくら危ないと分かっていてもパチンコに行く、ライブショーに参加する。三密を避けろ、夜の接待はいかんといっても、そうした人間生活の本質を制限することは無理なのでしょう。単に経済とのバランスということではないのです。

  社会経済は一時低下しても不死鳥のように蘇ってきます。戦後の復興、あるいはリーマンショックも同様でした。もちろんそこには大きな犠牲あるいは社会変化があるのですが、経済が完全にダウンすることはないでしょう。そして経済よりも人間の遊びへの欲求をどのように処理しながらコロナへの三蜜に対応するかが大切だと思うのです。

  一旦「東京アラート」を決めて橋の照明まで派手に宣伝したのに、一週間後にはそんな規定はもう無理だとなると、土俵をひろげてしまうなんてルール違反です。Go toキャンペーンにしても、目の前に感染者の増加が目に見えているのにメンツにこだわって強行。東京は除くなんていう姑息な手段。世の中が順調に行っているときの政治はだれでもできるのでしょうが、こうした危急の時にこそ政治家の手腕がとわれます。結果はほぼおなじでも、go toキャンペーンを人間の遊びへの性向を支える政策という点に軸足を置いて考え、人間を中心に設計すればずいぶんと異なった雰囲気になるでしょうに。この齢のわたしでも新宿に買い物に行くことが出来ない、自然の中を散歩できないということに大きなストレスを感じているのですから。

  戦後、私が結核を患ったとき、この疫病の当時の死亡率は諸病のなかで最大でした。1949年、戦後の疲弊がひどい時期でしたので報道もどの程度され、国がどのような処置をしたのかおぼえておりませんが、東京の郊外には隔離病棟が設けられていたものです。私は幸いにもそうした療養はせず、丁度治療薬のパスが開発されてその恩恵に浴した次第。このコロナの終息も治療薬の開発が唯一の終焉への道でしょう。

  定時のニュース番組ではあまり報道されませんが、ニューヨークやブラジルの惨状を視ると胸が痛みます。この稿は25日に書いています。皆様の眼に触れる時点ではまた様子がかわっているでしょう。とにかく一日も早くコロナの猛威が終息してほしいものです。諸兄どうぞお大事に。
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季節の花便り

7月の花便り/高橋 郁雄

  今回も新型コロナのために遠出はできずに、近所の公園(神木公園:家から徒歩で約10分)の周辺での取材となりました。3枚共に7月7日に撮影しました。また、3枚共に再掲です。
IMG_3407(tori).JPGIMG_3409(tori).JPGIMG_3414(tori).JPG
るりまつり(瑠璃茉莉)アガパンサスクリナム・ポウェリー
るりまつり(瑠璃茉莉):原産地:南アフリカ。別名=プルンバゴ、「青茉莉(アオマツリ)」。青紫や白の花を咲かせる、涼しげな花色が魅力。
  花言葉=「いつも明るい・ひそかな情熱・同情」。
アガパンサス:原産地:南アフリカ。明治時代中期に渡来。学名(Agapanthus)。ギリシャ語の「agapa(愛らしい)+anthus(花)」の組み合わせ言葉。別名=「紫君紫蘭(むらさきくんしらん)」、「アフリカンリリー」。
  花言葉=「誠実な愛・愛の訪れ、愛の便り・知的な装い・恋の訪れ・恋の便り」。
クリナム・ポウェリー:ヒガンバナ科、ハマユウ属。学名(Crinum powellii)。クリナムとは、ギリシャ語で「ユリ(百合)」の意。
  花言葉=「どこか遠くへ。汚れがない」。