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武田レポート

リトアニア史余談98:ラツィオンシュの講和/武田 充司

 15世紀初頭のドイツ騎士団との戦いは武力衝突ばかりではなかった。互いに自陣営の聖職者や学者など、当時の知的エリートたちを総動員して、自分たちの行為の正当性を西欧キリスト教世界に訴え、理解と共感を得ようとする激しい政治的宣伝合戦でもあった。
 ドイツ騎士団は、リトアニアのヴィタウタス大公がキリスト教(カトリック)に帰依したといってもそれは形ばかりの偽装で、度々平和条約やその他の約束を破って攻撃をしかけきた異教徒であるから、武力によって征服されるべきだと主張した。これに対して、リトアニアやポーランドの聖職者たちは、西欧キリスト教世界の一員となって真摯に新しい国家建設に励んでいる我らを妨害し領土を侵しているドイツ騎士団こそ、同胞である我らキリスト教徒を攻撃する背信の徒として断罪されるべきだと応戦した(*1)。

 こうした外交的宣伝合戦を見ていた教皇ボニファティウス9世(*2)はドイツ騎士団に対してリトアニアを攻撃することを禁じたが(*3)、ドイツ騎士団総長コンラート・フォン・ユンギンゲンはこれを不服として、1403年、この禁令を撤回するよう教皇に迫った。こうして険悪な状況になったその年の夏、ヴィタウタウはドイツ騎士団に和平を提案して休戦交渉をもちかけた(*4)。ドイツ騎士団もこれを無視できず、この年の12月、両者の間で暫定的な休戦協定が結ばれ、翌年(1404年)の5月22日、ポーランドのラツィオンシュ(*5)において、リトアニア大公ヴィタウタスとポーランド王ヨガイラの同席のもとにドイツ騎士団との間で平和条約が調印された。

 この講和によって、先ず「サリーナス条約」(*6)が再確認され、ジェマイチヤをめぐってリトアニアとドイツ騎士団との間で紛争が起ったとき、ポーランドは介入しないことが決められた。そして、ポーランドはドブジン地方をドイツ騎士団から取り戻す代償として相応の金銭を支払うことになった(*7)。しかし、ダンツィヒについての合意は得られなかった(*8)。一方、ヴィタウタスが得たものといえば、ゲディミナス一族の者がヴィタイタスに反抗して内訌となった場合ドイツ騎士団は彼らを支援しないこと、そして、ヴィタウタスのルーシ諸公との戦いに対してドイツ騎士団は軍事的支援をするという約束であった。そして、ジェマイチヤを「サリーナス条約」に従ってドイツ騎士団領と認めることを再確認させられたばかりか、ジェマイチヤの反乱をドイツ騎士団が鎮圧するときにはドイツ騎士団に協力すること、リトアニアに逃亡するジェマイチヤ人をうけ入れないことまで約束させられた。

 この講和は老獪なドイツ騎士団総長コンラート・フォン・ユンギンゲンの外交的勝利であり、ヴィタウタスとヨガイラにとっては得るところの少ない敗北的合意であった。しかし、これがヴィタウタスとヨガイラの結束を強め、彼らを新たな挑戦へと駆り立てたのだった。

〔蛇足〕
(*1)この当時、リトアニアやポーランドから、こうした主張やそれを裏付けるドイツ騎士団の数々の悪行を記した文書が頻繁に西欧キリスト教世界の聖職者や王侯貴族に送られていた。
(*2)当時は教会大分裂(大シスマ:1378年~1417年)の時代で、ボニファティウス9世(在位1389年~1404年)はローマの教皇である。
(*3)これに先立つ1395年、ルクセンブルク家のボヘミア王ヴァーツラフ4世(在位1373年~1419年)にして神聖ローマ皇帝でもあったヴェンツェル(在位1378年~1400年)がドイツ騎士団に対してリトアニアを攻撃することを禁じている。
(*4)この年(1403年)、ヴィタウタスはスモレンスクを再度包囲して奪還しているが(「余談95:ヴィルニュス・ラドム協定」参照)、腹背同時の戦いを避けるためにもドイツ騎士団との争いをひとまず中断したかったのであろう。
(*5)ラツィオンシュ(Raciąż)はワルシャワの北西約85kmに位置するマゾフシェの都市である。
(*6)「余談93:クリミア遠征とサリーナス条約」参照。
(*7)ドブジン(Dobrzyń)はドイツ騎士団領とポーランドとの境界線上に位置するマゾフシェの土地で、これまでも度々両者の間で支配権をめぐる争いがあったが、1343年の「カリシュ条約」でポーランド領として認められた。しかし、その後、借金の抵当としてドイツ騎士団の手に渡っていた。したがって、ポーランドがこれを取り戻すには相応の金銭を支払う必要があった。
(*8)バルト海に面する港湾都市ダンツィヒ(Danzig:現在のグダンスク)はハンザ同盟の拠点として繁栄していたから、ドイツ騎士団にとってもポーランドにとっても重要な都市であった。しかし、ここで問題になっているのはこの都市を中心とする「ポモージェ・グダンスキエ」(Pomorze Gdańskie)と呼ばれる地域全体の支配権であった。オーデル川東岸からヴィスワ川西岸に至るバルト海沿岸地域はポモージェ(英語でポメラニア〔Pomerania〕)と呼ばれ、昔からポーランド人と同じ西スラヴ族の一派カシュープ人の居住地域であった。この地域はオーデル川寄りの西ポモージェとヴィッスワ川寄りの東ポモージェに分けられ、西ポモージェは北ドイツに接しているため早くからドイツ化が進み、ポーランドよりもデンマークとの関係が深かった。一方、東ポモージェ(英語でポメレリア〔Pomerellia〕)は、ポモージェ・グダンスキエとも呼ばれ、ピアスト朝のポーランドが成立したあとも、この地域は土着の豪族によって支配されていて半ば独立していた。しかし、ドイツ騎士団領とポーランドとブランデンブルク辺境伯領に囲まれた形のこの地域は早くからドイツ人移民が入り込み、ポーランドとドイツ騎士団の勢力争いに場になっていた。ドイツ騎士団は本国との往来を確保する上からもこの回廊地帯の支配に固執したが、ポーランドもこの地域を固有の領土と看做して併合することに拘った。一方、この地域を支配する土着の豪族は強力な2つの勢力の間に立って狡猾なバランス外交を旨として生き延びてきた。しかし、13世紀末にヴィェルコポルスカ出身のポーランド王プシェミスウ2世がこの地域の公と同盟したため、この地域はポーランドの支配下に入った。しかし、1296年冬、ブランデンブルク辺境伯の放った刺客によってプシェミスウ2世が暗殺されると、この地域はポーランドの支配から脱した。そして、1308年9月、ドイツ騎士団はダンツィヒを占領してポモージェ・グダンスキエ全域を支配下に置いた。こうしてこの地域は実質的にドイツ騎士団領になったのだが、1343年、ポーランド王カジミエシ3世(大王)がドイツ騎士団と「カリシュ条約」を結んでこの地域がドイツ騎士団領であることを認めてしまった。それ以来ポーランドは幾度かこの地域の奪還を試みるが成功しなかった。ところが、「カリシュ条約」から602年経った1945年、第2次世界大戦が終ると、東ポモージェだけでなく西ポモージェもポーランド領として認められた。
(2020年3月 記)
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不惑会54年会

★★ NTT技術史料館  見学  ★★
今年はNTT技術史料館見学に行きました。「電気通信技術の歴史的資産」を見学する良い機会でした。
見学に先立って吉祥寺駅近くのホテルのレストランで(いわゆる)バイキング方式の食事を楽しみました。

▲日時 2020年1月30日(木)  11:30~17:00
    (2019年度の行事がずれ込みました)
▲場所 東京都武蔵野市 メインはNTT技術史料館
▲参加者数 26名
▲幹事代表 伊澤、他幹事10名

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    行事の最後まで残っていた参加者の記念撮影です。

行事の詳しい様子は下のムービーをご覧ください。


行事の概要
1 懇親会・昼会食(11:30~12:50)
JR吉祥寺駅近くの「吉祥寺第一ホテル」2Fのバイキング・パークストリートでビュフェ方式の食事を取りました。
2 NTT武蔵野研究開発センタ(1330~17:00)
(1) 先端技術の紹介
次のような先端技術の説明がありました。
「秘密計算システム、算師Ⓡ」「イマーシブプレゼンス技術」「変幻灯」「VR体験でスポーツトレーニング」
電気通信技術もここまで来たか!という感想です。

(2) 技術史料館見学
地下1階、地上3階で、現代風でスマートです。また吹き抜けが大変おしゃれてす。
ここを説明担当の方が親切丁寧に説明してくれました。
何と江戸時代から今日に至る電気通信技術の成果物が網羅されていました。
古い電話機や交換機など時代物(といっても当時は最先端)が並んでおり、先人の意欲と苦労が伝わってきます。

3 まとめ
(1)参加者が多かった。(26名)
(2)NTT技術史料館は見るべきものが多かった。
  先端技術と歴史的な技術を双方勉強できたのは、まさに「温故知新」でした。
(浅井記)

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大橋レポート

ニュールンベルクと周辺の旅/大橋 康隆

  1998年7月13日朝、ホーエンシュヴァンガウ村のホテルに近いバス停からフュッセン駅に向かった。早朝にも拘わらず多くの観光客が乗車したので驚いた。
  フュッセン駅を8時5分に出発し、北進してアウグスブルク駅に9時44分到着した。車中では向かい席で女子大学生がスペイン語の本を熱心に勉強しており、ドイツ人の勤勉さを再認識した。
  中央駅は市街の西端にあり、先ずは東北に1km位歩いて大聖堂(Dom)を訪れた。(写真1)高窓のステンドグラスは世界最古と言われた。
地図ドイツ南部.jpg
地図ドイツ南部
写真1大聖堂.jpg写真2市庁舎.jpg写真3ベルラッハの塔.jpg
写真1大聖堂写真2市庁舎写真3ベルラッハの塔
  大聖堂から南へ400m位歩くと市庁舎(Rathaus)が現れた。(写真2) 市庁舎はドイツ・ルネッサンスの最高傑作と言われている。写真の左側にベルラッハ塔の一部が見えるが、その全景を(写真3)に示す。この塔に登ると市街の全景が見えると言われたが、残念ながら時間不足で諦めた。代わりに市街の美しい家並みの写真を撮影した。アウグスブルク駅を13時24分に出発し北々西に進みニュールンベルク駅に14時31分到着した。

 ニュールンベルク駅は旧市街の南にある。駅の北側のホテルにリュックを預け、ケーニッヒ通り(Konigstrasse)を北に500m位進み、ペグニッツ川を(Pegnitz)を渡ってハウプト広場(Hauptplatz)を訪れた。広場には聖母教会(Frauenkirche)が悠然と聳えていた。(写真4)教会の仕掛け時計は、正午に鳴り動き出すが、時既に遅しであった。近くに美しの泉(Schoner Brunnen)がある筈で、近傍の道を探し回ったが見つからない。散々尋ね回って、発見したらハウプト広場にあった。なんと19mもある八角形のピラミッド状の塔であった。(写真5)泉と言うから、もっと小さい噴水だと思い込んでいた。急いで北に500m位歩いてカイザーブルク城(Kaiserburug)を訪れた。中央に建つ見張り台から市街地を一望できる。(写真6)の左側にペグニッツ川が遥かに見える。
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写真4聖母教会写真5美しの泉写真6市街全景
   7月14日朝、R.U 教授夫妻がホテルを訪れ、車でエルランゲン大学(Universitat Erlangen)までお連れ下さった。U.R 教授は、1962年秋にシュトットガルト工科大学を訪問した際、案内頂いて以来クリスマス・カードを交換していたが、今回は家内が炭素薄膜の研究をしている自然科学学部物理学科を見学したいと希望したので、快く紹介して頂いた。先ず、物理学科での炭素薄膜研究の概況を説明頂き、次いで研究室の見学をした。研究設備の規模と光学的精密測定装置の精度に家内は感嘆していた。基礎研究を重視しているドイツの姿勢が伺える。大学訪問後R.U 教授夫妻は郊外の静かなレストランに案内され、昼食を共にして歓談した。奥様が「主人は日本を学会で訪問したことがあるが、私には日本は余りにも遠いです。しかし、ニュールンベルクには、多くの日本人が住んでおられ、日本文化に触れる機会は多いです。」と話されたのが印象的であった。昼食後、近くの静かな田園を散策して、(写真7)ホテルまで車で送って頂いた。

写真7田園風景.jpg写真8聖霊院.jpg写真9巨大噴水.jpg
写真7田園風景写真8聖霊院写真9巨大噴水
  ホテルに帰着して、まだ夕方まで明るい時間があったので、ペグニッツ川の博物館橋(Museums brucke)まで行き、聖霊院(Heilig GeistSpital)を撮影した。(写真8)この眼鏡アーチは、当地の代表的景観で、写生をしている人達もいた。次いで南西に進み、町角で奇抜な巨大噴水(Ehekarusserll)を発見して、撮影した。(写真9)この場所は、インターネットで調べたら、地下鉄のヴァイザー・トゥルム駅(Weisser Turm)の出口近くの町角であることが判明した。背景のドームはエリザベス教会(Elisabethkirche)である。
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季節の花便り

2月の花便り/高橋 郁雄

  今回はすべて大船植物園フラワーセンターからです。2月12日に撮影しました。初登場の花は、「冬知らず」と「サイネリア」です。
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ユキワリイチゲキバナセツブンソウスノードロップ
ユキワリイチゲ(雪割一華):(雪割一花)とも書く。3~4月に咲く(キンポウゲ科、イチリンソウ属)の花。一華は一茎に一輪の花を咲かせるという意味。雪を割って花を咲かせるという意味は、春先に咲くという意味。花の色は白、紫。この写真は芽が出たばかりの写真のようです。2014年4月1日号に登場の(雪割一華)には色がついています。
  花言葉=「しあわせになる」。
キバナセツブンソウ(黄花節分草):2014年4月1日、2017年3月1日に既に登場しています。今回で3度目です。根に「アコニチン」という有毒物質を含むので要注意。
  花言葉=「微笑み・光輝」。
スノードロップ:別名「松雪草、雪の花」。花言葉=「希望・慰め・楽しい予告」。
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冬知らずキンカチャサイネリア
冬知らず:別名「ヒメキンセンカ、寒咲きキンセンカ」。地中海沿岸が原産です。鮮やかな黄色の直径1~2cmの花を咲かせる。真冬でも次々と花を咲かせることから和名(冬知らず)がついた。日がさすと花が開き、夕方には閉じる。
  花言葉=「悲嘆・悲しみに耐える・別れが悲しみ・乙女の美しい姿・用心深い」
キンカチャ(金花茶):大船植物園フラワーセンターの温室内で撮影しました。2019年4月1日に紹介済み。中国の広西省地方原産。椿としては珍しい黄色花。
  花言葉=「円満」。
サイネリア:キク科、ペリカリス属。原産地=北アフリカ、カナリア諸島。別名(シネラリア・フウキギク・フキザクラ)。シネラリアは「死を連想させる」ということで「サイネリア」という名前が一般化した。豊富なカラーバリエーションが特徴。オレンジ色以外はすべての色がある。
  花言葉=「いつも快活・喜び・いつも愉快」。