カテゴリー
トピックス

閑談会紹介など

昭和35年電気工学科卒業生有志による閑談会のご紹介です。一原君が会の運営を担当し、年に2回開催しています。話題は、参加メンバーの中から話したい人が提供します。病気、家族のことはなるべく避けることになっています。

先日11月27日に、2019年の2回目が開催されました。出席者は池田、一原、入子、桜井、杉本、正田、室谷、山崎。

いつものように12時からの昼食後、
(1)桜井君により「北海道のブラックアウトと千葉の長期停電」、
(2)正田君により「世界の食問題とDigital Gastronomy」
というテーマでの話題提供がありました。

(1)はNHK報道の録画を再生してくれました。
(2)については、配布されたレジメをご覧ください。次の下線部をクリックすると見られます。
それぞれの話題提供の後、意見交換をしました。

閑談会については、このブログのトピックスの中に2008年11月、一原君が紹介している記事があります。参加希望者は、一原君に連絡してください。

なお、閑談会にも参加された枡屋君が、10月7日に昇天されました。
謹んでご冥福をお祈りします。

(文責山崎)
カテゴリー
武田レポート

リトアニア史余談95:ヴィルニュス・ラドム協定/武田 充司

 ポーランド王ヨガイラの后ヤドヴィガは、1399年6月22日、長女エルジビエタ・ボニファチャを出産したが、不幸にも、その子は生れて3日後に亡くなった。そして、ヤドヴィガ自身もそれから1か月も経たない7月17日に亡くなった。
 ヨガイラはポーランド王位継承者であるヤドヴィガの婿としてポーランド王室に迎えられ、ポーランド王となったのだから、この不幸の連鎖はポーランド王としてのヨガイラの地位を不安定なものにした(*1)。一方、リトアニア大公ヴィタウタスは、それから間もない8月12日、クラクフから東へ1000kmも離れたヴォルスクラ河畔の戦いでタタール軍に大敗して面目を失い、政治的危機に直面した(*2)。

 戦場から帰還したヴィタウタスは直ちにクラクフに赴きヨガイラと会った。この時の2人の対面がどのようなものであったのか知る由もないが、不運にも苦しい立場に追い込まれた2人が、以前のように不信感を募らせて争うのではなく、互いにこの場は何とか取り繕って、今後のことを考えようとしたのではなかろうか。

 翌年(1400年)の12月、2人はガルディナス(*3)に会し、過去に2人の間で合意されていた事項を再確認したが、これが「ヴィルニュス・ラドム協定」である(*4)。この協定によって確認された要点は、ヴィタウタスをリトアニア大公としてリトアニアの統治を委ねるが、ヨガイラはヴィタウタスを監督する諸権利を保持する「最高君主」であり、ヴィタウタス没後は、ポーランド王ヨガイラ、あるいは、ヨガイラの合法的な後継者によってリトアニアは統治されるものとする。また、リトアニアとポーランドの貴族は互いに相談することなくポ-ランド王を選出しない、というものであった。

 1401年8月、リャザニに亡命していたスモレンスク公ユーリイ(*5)が、威信失墜のヴィタウタスの隙を突いてスモレンスクを奪還し、ヴィタウタスに臣従していたブリャンスクの貴族たちを処刑してブリャンスクも支配下においた。ヴィタウタスは急遽スモレンスクを包囲したが勝利することができず、ユーリイと休戦して撤退した。しかし、1403年、再度、スモレンスクを包囲したヴィタウタスは、その翌年、スモレンスクを奪還した(*6)。スモレンスクはこの時から1世紀以上にわたってリトアニアの支配下に置かれた(*7)。
 一方、后ヤドヴィガを亡くしたヨガイラは、1402年1月、スロヴェニアのツェリェ伯ヘルマン2世(*8)の娘(養女)アンナを後妻に迎えた。アンナはポーランドのピアスト朝の中でも大王と呼ばれたカジミエシ3世の孫娘であったから(*9)、ヨガイラのポーランド王としての地位は強化された。アンナはそれから6年後の1408年に女児を出産し、世継ぎ問題にも一条の光明をもたらした。

〔蛇足〕
(*1)ポーランドの貴族たちにとってヨガイラはリトアニアをポーランドに併合するための要であったから、そのことに執着していた彼らはそう簡単にはヨガイラを廃して新たなポーランド王を選出することなどできなかっただろうが、それでもヤドヴィガ没後のヨガイラの立場は微妙なものであったはずだ。ヤドヴィガについては「余談84:クレヴァの決議」参照。
(*2)ヨガイラの権力と智謀に対抗できるヴィタスタスの力の源泉は彼の軍事的才能であったから、ヴォルスクラ川の敗北は彼を窮地に追い込んだ。「余談94:ヴォルスクラ川の戦い」参照。
(*3)ガルディナス(Gardinas)はヴィルニュスの南西約150kmに位置し、現在のベラルーシの都市フロドナ(Hrodna)で、以前はグロドノ(Grodno)と呼ばれていた。
(*4)「ヴィルニュス・ラドム協定」については「余談91:ヴィタウタス大公時代のはじまり」の蛇足(6)参照。
(*5)ユーリイは最後のスモレンスク公となった人であるが、1395年にヴィタウタスによってスモレンスクを追われ、岳父であるリャザニ公オレグを頼って亡命していた。
(*6)このとき、ユーリイはモスクワのヴァシリイ1世に支援を要請したが、当時のモスクワ公国の力は未だ十分でなかったことと、ヴァシリイ1世にとってヴィタウタスは岳父であったことなどから(ヴァシリイ1世の后はヴィタウタスのひとり娘ソフィアである。「余談89:ヴィタウタスの娘ソフィアの嫁入り」参照)、ヴァシリイ1世はユーリイを助けなかった。
(*7)スモレンスクがモスクワ公国の支配下に入るのはヴァシリイ3世(在位1505年~1533年)時代の1514年である。それまでの100年以上の間、スモレンスクはリトアニアの重要拠点都市であった。
(*8)1396年のニコポリス十字軍がバヤズィト1世率いるオスマン軍に敗れたとき、ツェリェ伯ヘルマン2世は獅子奮迅の活躍で撤退するハンガリー王ジギスムント(のちの神聖ローマ皇帝)を助けた。その功績によってヘルマン2世はジギスムントの信任を得た。ジギスムントの后マリアはヨガイラの后ヤドヴィガの姉であるが(「余談84:クレヴァの決議」参照)、早世したので、ジギスムントはヘルマン2世の娘バルバラを後妻に迎えた。バルバラはヨガイラの後妻アンナとは姉妹の関係だが、アンナはヘルマン2世の養女なので実の姉妹ではない。ツェリェ(Celje)は現在のスロヴェニア北東部の都市である。当時、スロヴェニアやクロアチアはハンガリー領だった。
(*9)ヨガイラの後妻となったアンナは、ピアスト朝最後のポーランド王で世継ぎの息子に恵まれなかったカジミエシ3世(大王:在位1333年~1370年)の娘アンナがツェリェのウイリアムに嫁いで産んだ娘(母と同名のアンナ)であるが、彼女が幼いとき父ウイリアムが亡くなったため、父の従兄弟であるツェリェ伯ヘルマン2世が彼女を引き取り、養女とした。そこでバルバラと姉妹の関係になった。なお、1408年にヨガイラとアンナとの間に生れた娘は成人したが父ヨガイラより早く1431年に亡くなった。
(番外)ヨガイラ(Jogaila)はリトアニア人である彼の名であるから、ここではすべてヨガイラとしたが、ポーランド王としてはヴワディスワフ2世(Włładysław Ⅱ)、あるいは、ヴワディスワフ2世ヤギェウォ(Włładysław Ⅱ Jagiełło)である。「余談85:ポーランドに婿入りしたヨガイラ」の蛇足(6)参照。
(2019年12月 記)
カテゴリー
沢辺レポート

近頃思うこと(その46)/沢辺 栄一

   「山高きが故に貴からず。樹有るを以って貴しとす。」「人肥たるが故に貴からず。智有るを以って貴しとす。」という言葉を知り、書いてある「実語教」とそれと関連の有る「童子教」に興味を持ち読んでみた。
  このタイトルからは「実語教」のほうが高学年向きと思っていたが、「実語教」が低学年向けで「童子教」の方が高学年向きの内容になっている。「実語教」は平安時代の末期に、「童子教」は鎌倉末期にそれぞれ出来、両者とも作者不明で、その時代から江戸時代まで約千年の子供の教科書として読み続けられてきた。特に江戸時代には広く寺子屋でみっちりと読され、頭にたたきこまれた。人間社会における礼儀、道徳等の基本、勉学を進める智の重要性を教えており、江戸時代の平和な時代を作り上げるのに著しく貢献したと考えられる。西洋では聖書の中で人の道を教えているが、「実語教」「童子教」のような児童用の道徳の教科書は無いように思い、日本の名も無き先人の素晴らしさに感心している。
  福沢諭吉の「学問のすすめ」は「実語教」を下敷きに書かれており、二宮尊徳も「実語教」「童子教」を学んでいる。日本を発展させた明治に活躍した人間は皆江戸時代の教育を受けた人間である。西洋文明の嵐に見舞われて、「実語教」「童子教」は正式な小学校、幼稚園児童の教科書として採用しなかったのは、明治時代の教育者が西洋文明に眼を奪われ、伝統の有る日本文化を軽視し、日本文化、教育の良さを評価できない人間であった結果と思う。
  明治天皇が日本の歴史的な教えに基づき、仁義忠孝を明らかにし、道徳の授業は儒教によるものとすることをお示しになられたことを受けて、明治23年になって井上毅、元田永ざね等によって教育勅語が作成された。これがその後の道徳の基本となり、学校での各種の式には必ず読まれて我々の行動の指針となった。戦後は戦争に関係あるとされ、教育勅語は読まれなくなった。教育勅語を知っている人間が教育、指導している間はまだある程度道徳が守られ、教えられていたが、現在はそのような人間が高齢になり、学校で道徳を教えられない人間が多くなり、人間生活における規律が無くなり、凶悪な犯罪が多くなっているように感じている。
  このような状態に対処するため、学校で道徳の授業を採用することが伝わってきているが、古来から伝えられている「実語教」「童子教」を現代の言葉、内容に改め、幼稚園、小学低学年に徹底的に暗唱、記憶させることを行ない、人間社会での行動、思考の基本を身体に埋め込ませる必要があるのではないかと考えるこの頃である。
カテゴリー
トピックス

第11回S41年電気電子クラス会

第11回S41年電気電子クラス会は、2019年11月23日、冷雨でしたが銀杏並木の美しい黄葉に出迎えられて、昨年に続き東京大学本郷構内工学系二号館内松本楼で開催し24名の参加を得ました。

開会に先立ち、前回クラス会以降に訃報を受けた安原君、吉永君、青木正君の三君に弔意を表し黙祷を捧げました。続いて黒須君発声による乾杯で会を始め、コース料理を楽しみながら、賑やかな懇談に移りました。しばしの後、途中退席する小野君に、台風19号による軽井沢での中学同窓会への被害を交えての近況報告をしてもらいました。

その後、食事が一段落した中で、渡辺貞君の卓話を拝聴しました。今回は、「スーパーコンピュータの現状と応用」という技術話題で、注目される量子コンピュータにまで説明がありました。中でスパコンでは、中国の急成長、NVIDIAの戦略性、研究開発のための必須の基盤(インフラ)となっていること、量子コンピュータについては、アルゴリズムやソフトなどの今後の課題まで説明があり、全員、消化不足ながら質疑も続き大いに議論が盛り上がりました。

引き続き、久し振りに参加された諸君から優先で、藤原俊、高山、岡田、木村の諸君、さらに今井、片岡君から近況報告を頂きました。いずれも元気にされており、生活を楽しんでおられ、一部は、まだ現役を継続されておられます。中で、チェロ(高山君)、ピアノ(木村君)の音楽、さらに料理(片岡君)など趣味を継続され、ある者は、8050問題を回避しての孫の誕生心待ち、逆に可愛い孫が息子と共に渡米しての嘆きなどが聞かれました。なお、高山君には、高校時代からの学友として青木正君につき情報提供を頂きました。

その後、黒須君からの元気な話題、石井君からも健康関連の話題などに及びましたが、今回は、卓話での盛り上がりなどから、全員の近況に及ばず定刻を迎えることとなり、会を村木君による発声で一本〆とさせて頂きました。

 文末になりますが、卓話を準備し、また素晴らしいプレゼンで大いに会を盛り上げていただいた渡辺貞君には、感謝申し上げます。今回も、ご参加の皆さんの笑顔が目立つ素晴らしい一日であったと思いました。

                                    田中(記)


20191123S41電気電子クラス会.JPG


カテゴリー
大橋レポート

ストラスブールの思い出/大橋 康隆

 1998年7月5日は、日曜日だったのでストラスブールの旧市街の見物をすることにした。駅に近いホテルから南東々に300m位進むと、イル川に架かるキュス橋(Pont Kuss)に到着した。
 ここを渡ると旧市街で、東方に600m位進むとクレベール広場(Pl.Kleber)、更に少し進むとグーテンベルク広場(Pl.Gutenberg)に到着した。広場の中心には、グーテンベルクの像がある。(写真1)更に東方に500m位進むと、ノートルダム大聖堂に到着した。(写真2)大聖堂の近くに観光案内所があり、旧市街を囲むイル川を一周する遊覧船に乗ることにした。
写真1ルーテンベルク像.jpg写真2大聖堂.jpg写真3川岸の建物.jpg
写真1グーテンベルク像写真2大聖堂写真3川岸の建物
 出発点は、大聖堂の南300mにあるカルボー橋(Pont du Carbeau)の川岸であった。乗船すると、早速素晴らしい木骨組みの建物が現れた。(写真3)更に進むと旧市街東部にある小フランス(Petite France)に到着し、木骨組みの建物が密集して現れ、多くの観光客が川岸に溢れていた。(写真4)ここで川は4本に分かれるが、遊覧船は北西に進み、続いて西方に更に南西に進んで、旧市街の西部に到着した。ここでは、かって牢獄として使われたヴォーバン・ダム(Barrage Vauban)がある。(写真5)近くには現代美術館が見える。ここから旧市街の南部を見物して、何処を通ったのか記憶にないが、大聖堂から北西2kmにあるヨーロッパ宮を川から撮影している。(写真6)ここでは欧州議会と欧州評議会が開催されるが、壮大なガラス張りの建物であった。
写真4小フランス.jpg写真5ヴォーバンダム.jpg写真6ヨーロッパ宮.jpg
写真4小フランス写真5ヴォーバンダム写真6ヨーロッパ宮
 7月6日は、私も背広に着かえ、トラムに乗って国際炭素学会が開催されるストラスブール大学(Universite de Strasbourg)に向かった。大学は大聖堂から南東部の新市街にある。ここで家内と学会に登録し、私も同伴家族であることが認められた。学会が始まる前に、日頃家内がお世話になっている国内、海外の学会員の方々に挨拶した。一人で参加している日本人教授の方が早速私達のツーショットを撮って下さり恐縮した。学会の基調講演は私も拝聴したが、専門別の学会発表が始まると、私は判らないので、展示室を見学した。国際炭素学会は炭素の種々の形態を広範に扱っており、素人にも結構興味深かった。昼食と夕食は、家内の親しい参加者の方々と共にして、楽しんだ。学会は、同伴家族のためのプログラムを用意しており、7月7日夕方に大聖堂でパイプオルガン演奏、7月9日は貸切バスでドイツの黒い森(Schwarzwald)の見学ツアーがあり、早速参加登録をした。
写真7教会.jpg写真8教会.jpg写真9ライン川の橋.jpg
写真7教会写真8教会写真9ライン川の橋
 7月7日は、家内は学会へ、私はドイツのケールを訪れた。ドイツと言っても、ライン川を渡れば次の駅で10分で行ける。しかし、各駅停車の列車は少ないので、注意する必要がある。町には美しい教会や静かな池がある。(写真7)(写真8)一方では街角に小さな市場もある。とにかく静かな町であった。午後は早目に切り上げ、ライン川に架かる橋を歩いて渡り、トラムに乗って、ホテルに帰着した。(写真9)夕方は背広に着かえ、家内と共に大聖堂のパイプオルガン演奏を楽しんだ。大聖堂に響き渡るパイプオルガンは荘厳であった。
カテゴリー
季節の花便り

11月の花便り/高橋 郁雄

  今回も大船植物園フラワーセンターからです。10月29日~11月17日まで菊花大会が開かれていました。6枚すべて11月12日に撮影しました。
IMG_3236(29%).jpgIMG_3213(tori).JPGIMG_3215(tori).JPG
一文字菊フォックスフェイスの実フォックスフェイスの花
一文字菊:和名(ヒロノシ)、別名「ゴモンショウギク(御紋章菊)」「ヒラダイ(平台)」。花びらの数が16枚前後の一重咲きの大輪菊です。
  花言葉=「貞節・貞淑」。11月12日の誕生花。
フォックスフェイスの実と花:南アメリカ原産のナス属の植物。まるで、狐(キツネ)の顔のような黄色い実をブラブラと付ける「ナス」属の仲間です。花はナス属なので、茄子の花に似ていますね。
  花言葉=「偽りの言葉・私の思い」。
IMG_3223(tori).JPGIMG_3222(tori).JPGIMG_3233(tori).JPG
デンマークカクタスイトラッキョウハナカタバミ
デンマークカクタス:原産地はブラジル。サボテン科の多肉植物。別名:シャコバサボテン、クリスマスカクタス。花色は(赤、ピンク、橙、紅紫、桃、黄、白)など多種があるようです。
  花言葉=「美しい眺め・ひとときの美・冒険心・つむじ曲がり・熱意」。
イトラッキョウ:(糸辣韮)ユリ科アリウム属(ネギ属)の多年草。この花は優しさが匂うような可憐な色合いの花です。長崎の平戸島のみに自生する固有種です。
ハナカタバミ:(花片喰)、葉の先端が食べられたように欠けていることに由来して名付けられたそうです。
  花言葉=「あなたと過ごしたい・決してあなたを捨てない・輝く心・母親の優しさ・喜び」。1月15日の誕生花。