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【15号】東南アジアと日本の技術協力/野沢陞

私が始めて東南アジアヘ出掛けたのは、昭和29年の秋でしたが、それ以来ビルマの9年を始めとして、東南アジア8ヵ国に延べで12年の生活を送って参りました。卒業してから18年になりますので、3分の2は海外にいた勘定となります。同窓会に出席しますと、諸先生や同級の連中に「オヤ、日本にいたのか」と言われるのも、無理からぬ所でしょう。

入社した当時は、何をやる会社なのか自分でもよく分らず、ましてや他人に説明するのか全く困難でしたが、昨今はコンサルタントなる言葉も普遍化し、大小数百の技術コンサルタント会社も出来て参りましたので、大分話が通じ易くなって参りました。尤も未だに学生諸君や若い人達はメーカーのサービス部門位の認識しかなく、相当の識者でも測量屋や設計屋の集り位に思っている方が多い様です。これには色々な理由がありますが、兎も角、日本では仲々コンサルタントが育ち難い状況にあります。

所で、周知の通り、日本は開発途上国への経済協力として、GNP1%の援助とローンのアンタイドを努力目標としてコミット致しましたが、これに伴ってコンサルタントの育成の重要性が強く叫ばれる様になって参りました。理屈の上では、どこの国のコンサルタントであろうとも、機械や工事の受注に影響するものではありませんが、現実には仲々そうも行かず、コンサルタントの国のメーカーや工事業者が有利となり、或いは受注後の作業もやり易くなるのは事実で、日本のコンサルタントが充分進出してくれないと、下手をすれば日本は金だけ出して、機械や工事は始ど欧米にとられてしまう事にもなり兼ねない訳です。

ビルマのバルーチャン水カプロジェクトは、賠償協定以前に着手されたので、そのコンサルタント業務受注をめぐる欧米政府筋の支援は可成りのものでしたが、結局日本側に軍配が上りました 最近の例では、先進7ヵ国の贈与基金で実施された水カプロジェクトのコンサルタントを、フィージビリティ・スタディの頃から手掛けて来た私共の会社が受注しましたが、某国政府がその特命発注に強く反対し、自国のコンサルタントを送り込むことを要求した例もあります。各国ともこの様にコンサルタントの売込みに力を入れております。

尤も日本の重電機器の国際競争力は今や充分強力になり、アンタイド・ローンになっても余り恐れることは無いかも知れません。併し、安心はしておられません。ハード・ウェアは確かに立派で、価格も充分な競争力をもっておりますが、現地に於ける指導とか取扱説明書などのソフトに属するものは誠にお粗末であり、非常に不評を買っています。

これは詰る所、言葉の問題とも言えましょう。如何に立派な技術を身につけた者でも、言葉を解しない者はオシのツンボみたいなもので、自分の能力を発揮出来ません。ビルマでこんなことがありました。H社が汽船を引渡す時、電気系統が正常でないから、日本から同乗して来た電気技術者は一年間乗組員として残れと客側から要求されました 客側の機関長は交流の知識が余りなく、1kWの負荷に500ボルトを掛けて2A以上の電流が注れるのは、どこかが狂っていると頑張っている由で、H社の技術者が陳弁これ努めたが了解して貰えないと商社の人が私に相談に来たのです。又、T社のエア・コンディショナーが頻繁に焼損すると客先からクレームを受け、日本から技術者が飛んで来て調べた所、電圧が低すぎて起動時に過電流が流れる為と分りましたが、それを客側に説明し切れなくて、私に助けを求めに来ました。どちらの場合も、日本語では充分説明出来るのに、英語となるとシドロモドロとなり、余計に疑われて信用して貰えなかったり、意が通じなかったりしただけの話です。

勿論、言葉だけではなく、イニスとノーをはっきりさせない事、客側の責任を書面で確認することを避ける習慣、ひどい例では「そこを何とか一つ」と言う非論理的センス等、問題は可成りあります。この様なソフトに於ける後進性を改めて行かなければ、日本の技術協力は前途甚だ香しからぬものとなりましょう。

タイのブンチャナ経済相は「東南アジアの国々の発展の為、資本・技術の提供国として最もふさわしいのは、経済的・地理的にみて西欧諸国ではなく、日本である」と日本の役割を強調しており、日本は開発途上国への経済協力として数十億ドルに達する援助をコミットしつつあります。併し、物や金をバラまくだけでは本当の協力になりません。それに伴うソフト・ウェアの提供が肝要です。開発途上国の心ある技術者達は、人種的・文化的に親近感を抱く日本の技術者を高く評価し、その指導を望んでおります。にも拘らず、物を売ることのみを重視し、技術協力を軽視するどころか、むしろ厭がっている現実は誠に憂うべきことと思います。

国際的に太刀討の出来るコンサルタントを育成し、経験豊かな技術者が国際的感覚を養って技術協力に参加し、メーカーもハードのみならず、ソフトの提供にも力を注ぐ様になってこそ、30乃至40億ドルの巨額の援助も有効に活用され、開発途上国の求める真の経済協力が達せられる事でありましょう 電力と通信は、経済発展の基盤の重要な分野であり、経済協力に占めるウエイトは甚だ大でありますから、諸先輩・後輩の皆様方の御協力と御活躍が期待されます。

(昭和28年卒 日本工営KK電機部次長)

<15号 昭46(1971)>

【16号】成長ゼロの社会/小林宏治

昨年9月、ニューヨークの郊外で第2回イノベーション国際会議が開かれ、それに参加した。日本から私、アメリカからは、ハドソン研究所のハーマン・カーン氏、ベル研究所のモートン博士、RCAのヒリアー博士、ヨーロッパからフィリップスのラティノー博士など、著名人がおよそ40人ほど集まり、イノベーションについて討論した。

その時のテーマは、”クライシス・オブ・コーポレイト・アイデンティテイ”、つまり企業は一体どうあるべきかというものであったが、このパネル討議の一つで、ゼロ・グロース(経済成長ゼロ)の社会が考えられるだろうかということが話題になった。

その場では考えられるという結論になったが、私も、日本は100年以上前に成長ゼロの社会を持ったことがある、徳川時代250年間の社会がそれで、国外との出入りを禁じ、人口を三千万人に制限して平和なゼロ・グロースの社会を造った、という話をして参会者の関心を集めた。

ひるがえって歴史を顧みると、戦いに明け暮れた戦国時代に倦み疲れて国民の中に平和を求める声が強まり、天下泰平の徳川時代が生まれたのではないかと思う。三代将軍家光の時には、おそらくその平和をできるだけ永く維持するために、国を閉ざして外国へ出ていかず、代りに外からも入れない、また身分制度を採り入れるという閉鎖的政策をとったのであろう。これが全く奇跡とも言える250年の平和な社会を出現させた。

しかしこの間、日本人のバイタリティは内に閉じ込められてしまった。戦国時代には国の中は乱れていたが、なお国外との交渉があった。外国からは、ボルトガル人などの宣教師が訪ねてきたし、日本人も中国の沿岸で貿易を行ない、時には倭寇という海賊の姿にもなった。また中には、山田長政のように海外進出して、シャムにコロニーを作った者もいる。外に出る、外も受け入れるという空気があったわけである。徳川時代は、鎖国によりこれを閉ざすという代償を払って、平和なゼロ・グロースの社会を築き上げたのであろう。

ところが、これも250年立つと、外からの圧力により保持が困難になり、また一つには国民がそういう社会に倦み疲れて、国を開くべしということになった。明治維新である。いったん国が開かれると、外敵に侵略されては困る、逆に外国へ出て行かねばならないということになる。ここに250年間圧縮されていた民族のエネルギーが爆発するように噴出した。明治維新の先覚者が富国強兵を唱えたのも、そうせざるを得なかったからであろう。その後、日清、日露の両戦争を経て第一次世界大戦にも参戦し、我が国の文明開化は富国強兵と共に進んだ。そしてこれは、第二次世界大戦に捲き込まれるに及んで行き過ぎを露呈し、気が付いた時には全てが灰になっていた。それでも再び立ち上がろうという力は僅かに残されていた。これを頼りに戦後25年間に驚異的な経済復興をなしとげたわけである。

こうして明治維新から100年後、未曾有の経済繁栄を見出しているのが今日であるが、果して現状は満足のいく状態であろうか。

端的に言えば、現在の日本は世界中から、エコノミック・アニマルとしてひんしゅくをかっている。日本だけが高度成長を続ければ、いずれ問題の生ずることが分っていながら、外国、特にアメリカから非難されて愕然としている姿である。明治の先達が描いていた社会に波瀾を経て到達してみると、必ずしも良い社会とは言えない、今後日本は一体どこへ行けばよいのか、という問題に直面しているわけである。これは深刻に考えねばならぬ問題であり、子孫のためにも新しい道を見つけ出さなければならない。

そこで、私ども企業にある者としては、企業はどうあるべきか、つまり“社会の期待する企業像“とはどういうものかを探すことに努めている。昔の自由経済のように、企業は利益を上げればよいということでは済まされなくなっている。

むろんこれは簡単に答えが出てくるものではない。私自身は、経済同友会で経営方策審議会の委員長として一昨年から模索を続けているが、取り組むほどにますます難しさを感じている。

時には徳川時代のゼロ・グロースの社会に思いを至し、経済成長と社会について思索を廻らしている昨今である。

(昭和4年卒 日本電気(株)社長)

<16号 昭47(1972)>

【16号】脱皮/沢井善三郎

昭和10年電気工学科を卒業、航空研究所(いまの宇航研)の研究嘱託として東大に就職して以来ここに37年、生産技術研究所勤務を最後として、このたび定年で退官することになりました。最近各方面で脱何々といわれています。私の場合は定年退官ですから自発的な意味の脱東大というわけではありませんが、やはり一つの脱皮の時期であることを感じます。

ではどんな皮を脱ぐのかというと、まず第一が公務員生活からおさらばということです。公務員といっても大学の研究所勤務だったので、一般の役人や警察官などとちがい、自由で気楽であるともいえますが、それでも国家の機関にいるとなると、やや重苦しい点があり、物事を合理的に処置しにくいと感ずることも多々あります。先輩の先生から「定年後の生活はなかなかよいものだ」とかうかがったこともありますが、やはり公務員教授の皮を脱ぐことの気安さを示しているのではないでしょうか。

しかし一方別の面から見ると、公務員をやめるということは、いい年をして個人として社会の中に放り出されることを意味しており、親方日の丸に頼るわけにいかず、万事自分で考え、自分で責任を負う必要があるわけです。長年国立大学に暮らしていたものとして、このことはもう少し時間がたってみないと、どうも実感として捕えにくい感じです。

さてその次の皮は、学部学生時代から身につけてきた電気工学です 私は卒業後航空研究所にはいり、間もなく抵抗溶接の研究をはじめ、10年間以上もこの研究を続けました。その後、途中第二工学部で電気工学科の教官をつとめましたが、全体としては研究所勤務が多く、戦後は研究方向を主として各種の機械やプロセスの制御から、オートメーションヘと目指してきました。その間それぞれの制御やオートメーションの計画設計を行なう場合、単なる電気屋であってはならないことは当然で、電気にこだわらず、全体のプロセスに対して調和のとれた方策を立てるべきであると、自分にもいいきかせてきました。

ところが、いまになって自分のやってきたことを振返ってみると、一見電気の枠をはずして研究してきたと思っていたことも、実は放電管応用であったり、シーケンス制御の応用であったりして、やはり電気のカテゴリーを脱したものではなかったようであります。これには自分が大学院電気コースの教官を兼ねていたことにも関係があり、それはそれで当然だったと思います。

しかし制御やオートメーションに限らず、各種の企業において技術の発展はめざましく、特に電子計算機の発展などを考えると、今後電気電子の技術者が、電気応用、電子応用といった物の考え方で立向ったのでは、次第にその立場を失っていく心配があります。つまり電気の応用分野のレパートリーが無限に広がっていくのに対して、電気工学、電子工学のカテゴリーがこれに対応しうるかどうかという問題です。私自身も電気工学に属した一員として、電気から脱却できず、研究上なんとなく窮屈に感じたこともありますが、電気工学もいつか一度脱皮するときが来るのではないでしょうか。

定年退官後も私大の電気工学科に籍をおくことになりましたので、どうやら今後も電気工学から離れるわけにはいきませんが、この機会に一度皮を脱いで、その上で電気工学というものを考えなおすこときればよいがと思っています。

私をしばっていた第3の制約は長期にわたる病気です。学部の最終学年の工場実習に行ったときてすから、昭和9年の夏に胸に病気のあることが指摘されました。実習は無事にすませたものの、今日のような化学療法のなかった当時のことで、就職後次第に病気は進行していきました。休養を必要としたこともしばしばあり、人間の生命というものについて考えさせられたことも一度や二度ではありません。特に大喀血のあったときには、もはやこれまでかと思いました。その間家族経済のことが問題だったことも御想像のとおりです。

しかし人間というものは意外にタフなもので、昭和39年思い切って命がけのつもりで敢行した手術が成功し、おかげで命をとりとめることがてきました。その後自動車の免許をとったり、欧米への視察旅行に参加したり、学会長を拝命したりしながら、遂に定年まで到達したわけです。昨年還暦を迎えたとき、先輩の先生から「君、よくここまで来たね」といわれましたが、自分でも本当にそう思っています。

こんな状態で、皆様にはずいぶん御迷惑をかけたり、御心配をかけたりしましたが、それでもこの激動の時代を結構明るく楽しく過ごすことができましたのは、先輩、同僚の方々はもとより、御交際を願ったあらゆる方々の御支援によるもので、心から感謝をささげたいと思います。このようなことを含めて考えますと、はなはだ勝手な言い分ではありますが、日本という国も結構有難い福祉国家であるのかもしれません。

今回定年退官となりますが、人間は停滞することはできません ここで一皮はいだつもりで、さらに新しい人生にふみ出そうと思います。どうぞ相変らぬ御支援御鞭撻をお願い申し上げる次第であります。

(昭和10年卒)

<16号 昭47(1972)>

【17号】無限・有限/北川 一栄

観念的には宇宙の拡がりは無限だと思う。しかしわれわれにとって実在する宇宙は有限で、たとえば望遠鏡で観測できる距離を半径とし、地球を中心として描いた球体と考えることができよう。ある日、新しい望遠鏡ができて、可測距離が100倍に拡大されたとすると、その日から、われわれの宇宙の拡がりは、半径の3乗、すなわち1000000倍となる。われわれの宇宙、研究対象、仕事が一挙に100万倍に拡大されたということで、これに処する態度も革新的に変えなければならないであろう。

工業社会では情報処理はほとんど人間が行なっていた この場合の処理能力は文字でいえば、最大1時間数万字であったが、コンピュータの出現により、一部については、一挙に10万倍、100万倍に飛躍させる可能性がでてきた。

200年もつづいた工業社会の現象はこの間いろいろ究明せられたが、人間の情報処理能力には限界があるため、たとえば学問別に法・文・理・工科とか、機械・冶金・電気などに専門化して学習せられ、また企業では職種別・機能別などにわけて処理されてきた。しかし分化の過程で相関関係が一応解明せられているから、一つの専門に従事していても、この相関関係を通じて総合し、お互いが話し合えた。

コンピュータの活用により、工業社会ではとり扱えなかったような広汎な範囲、複雑な現象を処理しうる可能性がでてきたが、その程度と精度が10の4乗~ 10の6乗。と一挙に飛躍したため、 われわれの工業常識とのかい離をつねに念頭におかなければならなくなった。同時に問題究明のために新しいアプローチの技法を開発する必要がでてきた。

デルファイ法、関連樹木法などによる予測技術、テクノロジー・アセスメント等々新しい技法と科学がこのため、めまぐるしく発展しつつある。いわゆるsoft science、soft technologyが開発されているわけで、この処理にはコンピュータが必要である。

さきの日本列島改造論とか、公害対策、福祉社会への追究などには、すべてこうした新しい技法を用いる必要があると考えられるにも拘らず、案外工業社会の常識で、ことに年長者が大声をあげて論じているのではないか。新しい技法を展開していってもなかなか解けないであろうが、さりとてこの展開とともに取組まなければ、またそのために肉体的頭脳労働に適した若い人達の力をかりなければ、工業社会から一歩も前進しないことだけは確かである。

Soft science、soft technologyの開発は、いわゆる知的創造で、資源を浪費するものではない。現在の農業、工業自体の中で、これを展開することが、知識集約化を進め、また情報化社会への進行を、福祉志向へと具体化していくこともできるのだと思う。これに関する概念と教育とが一日も早く社会に拡散する努力を希うものである。

一方、上記の考え方とは反対に、有限の宇宙の中の相関関係を真剣に考え直さなければならない現象がでてきた。その一つはローマクラブで唱えられるように地球資源の限界である。資源のみならず、社会・産業・技術・経済などの仕組みについてもその成長の限界・質的変換、つまりエコロジー的に考えなければならなくなった。

考えてみると、宇宙の現象は無限というべき法則にしたがって存在していると思われる 一部解明せられたものを科学とすると、その中で人間に役立つように利用したものが技術といえる。その技術も経済的なもののみが主として活用されてきた。その経済のメカニズムも人間の欲望の対象として価値あるものについて考えられてきた。

しかし有限の中でこうした部分的な科学・技術・経済が異常にのびると、残りの部分との間に大きな摩擦・矛盾を生じる。公害、円切上げ等々今日の大きな問題は主としてこれに属する。また、今まで経済のメカニズムにおりこまれていなかった公共投資(公園をつくるのには投資が必要だが、使用は無料)とか、大気・水などを有料として考えなければならなくなった。人間経済学への転換がいそがれるわけで、従来の生産主体の経済に対し、さらに経済のメカニズムの中に社会現象・福祉・人間の心理をどう有機的に結合させるかということを質的量的に考えなければならなくなったということである。

また、世界の中での日本ということから考えると、10年以内に従来の重化学工業重点の産業構造の知識集約型への移行も必至という結論となるが、さてこの具体的な移行措置も判っていない。

有限の人間社会の中でこうした各種の活動が錯綜し複雑化してくると、従来の考え方の外挿的延長では福祉社会への移行は不可能で、 ここでも常識の転換、新しい指標の発見と複雑な情報を処理する技法の展開がいそがれるわけである。無限の成長を前提とした考え方から、成長の限界を考え、人間を主体として、社会・産業・経済・技術の新しい質的量的整合を考え直さねばならなくなった。大へんなことではあるが、それだけ若い人にとってやりがいを感じさせる、ものだと思う。

(昭和2年卒 住友電気工業(株)会長)

<17号 昭48(1973)>

【17号】放電屋放談/鳳 誠三郎

本年の3月末日で、東大を定年退職させて戴くことになりました。専任講師を拝命したのが昭和11年4月でしたから、37年間東大に御厄介になったことになります。学生時代の3年間を加えると、丁度40年になります。亡父秀太郎も東大に奉職して居りましたから、かりにそれを加えると、何年になるでしょうか。とにかく親子二代に渉り、通計100年に近い長期間、世俗の荒波から隔絶された温室になぞらえられる東大で、気儘な生活をすることが許された訳ですから、誠に感謝すべきことで、皆々様の暖かい御支援があったからこそと存じております。他面父子二代、東大以外の世間を知らずに生きて来たのですから、相当な唐変木になって居ることも確かで、不知不識の間に色々と御迷惑をおかけした面も多いことと存じ、茲に一括して御詫び申し上げます。

研究テーマについても、上司から命令されるようなことも無く、文字通り勝手気儘に自分の興味の赴くままに選択させて戴きました。まことにお恥しいことですが「これを研究して、人類社会に大いに貢献しよう」と言うような大それた意識が先行するのではなく、単に“interesting”と言う気持にさそわれるままに、研究を続けて居たと思います。このように社会意識の低い者に、飢えをしのげるだけのペイを貴重な税金の内から割いて下さった「納税者」に対しても、大いに感謝しなければならないと思っております。

今になって自分の研究テーマを振り返って見ますと、わずかの例外はありますが、殆どが「放電現象」の土俵の中にあることに気付きます。少々キザになりますが「放電一途に歩んで来た」と申せましょう。しかし、それを後悔するような気持ちはサラサラありません。「得体の知れない放電現象の何処がそんなに面白いのだ?」と聞く仲間も居りましたが、これに答えるには、小生は甘党なのでよくは判りませんが、若山牧水の「それほどに、うまきと人の問いたらば、何と答えんこの酒の味」を引用し、「うまき」を「面白き」に「酒」を「放電」に置き換えればよろしいかと存じます。

中学1年生の頃だったと思いますが、自宅で100ワットの電球を直列にし、火鉢の木炭を電極として放電を起こさせると、美しい光が出ました。今にして思えば、単なるカーボンアークにすぎませんが、当時の自分にとっては、一種の発明でもあり、発見でもありました。同じ木炭でも「土がま」はよろしいが「堅ずみ」ではこの現象が起こらないことも発見(?)しました。ところが、夜中に目がさめて、驚いたことに、両眼がはれあがって、開くことが出来ません。眼鏡も何も用いずに、このイタズラをして居たので、紫外線にやられたのでした。びっくりした母親が、朝まで手拭をしばって両眼を冷してくれましたが、幸いに一過性のもので、恢復することが出来ました。この小事件が自分と放電とを潜在意識として結びつけたのではないかと思います。

さて、電位差10億ボルトと推定される雷雲による電光も「放電」なら、48ボルトの電池を電源としている自働交換機の接点に発する小さい火花も同じく「放電」です。しかも、これらの現象は、共に現在でも難解な技術課題とみなされております。このように、「電圧」と言う角度から見ても、放電研究のレパートリーが如何に広いかが窺える訳で、これも大きな魅力となります。これは研究ではありませんが、放電に「グロー放電」と言う形式があり、これを学生に講義する際に、代表例として「ネオンサイン」をあげるのが便利なので、 よくその手を使いました。ところが、大平洋戦争が激しくなるにつれ、「ネオンサイン」を見たことのある学生が遂に1人も居なくなったのには弱りました。「ネオンサイン」は国民の精神をたるませるものとして、禁止されたからですが、星合先生が「… ネオンサインと人間との戦いは人間の負けか。」と結ばれた寸鉄の苦言を、某大新聞紙上に投稿されたのも、その頃のことだったと思います。

放電の応用のうち、一寸毛色の変ったものに「放電加工」があります。これは液体の中でパルス放電を繰返すと、一方の電極が著しく消耗し、他方の電極は殆ど消耗しない条件を作り出すことが出来ることを、加工に利用したものです。消耗する方の電極を被加工体とし、他方の電極を工具とすればよい訳です この方法によれば、硬度に関係なく、また工具は回転する必要がないので、円以外の複雑な形状の穿孔、型彫りなどを、高精度で行うことが出来、新時代の特殊加工技術として脚光を浴びています。偶然も手伝って、私がこの方面の「草分け」になってしまい、(故)倉藤教授と協力して、6年前に(社)電気加工学会を創立致しました このような方面にも足を踏み入れた結果、純粋な電気工学の分野から少し離れた所から、電気工学界を、眺める機会にもめぐまれ、これは自分をいくらか精神的に成長させてくれたように思われます。

東大を去ったあとも、自分の母校に当る成蹊大学で、(故)福田節雄先生の残された研究室を引経がせて戴き、研究生活を続けることが許されたことを感謝しております。相変らず「放電」とのくされ縁は切れない、いや切りたくないと存じておりますが、今後共相変らずの御支援を御願い中し上げます。

(昭和11年卒 東大電気工学科教授)

<17号 昭48(1973)>

【18号】イランの事情/松木昭

にわかに高まったエネルギー危機の中で、イランという国の名は、日本の方々にもすでにおなじみのものと思います。どんな所か、色々と情報はえられるが、そこに住んでいる人間の話も聞いてみよう、というのが幹事の御意向かと思います。

イラン王国は、面積165万平方粁(日本の約4.5倍)人口約3000万人、北部カスピ海寄りにアルボルス山脈が東西に、西部国境寄りにザクロス山脈が南北に走り、国土は、これら山岳地帯、カスピ海沿岸、中央高原、ベルシャ湾沿岸に大別されます。

カスピ海沿岸は、緑豊かな穀倉地帯で、オレンジ・茶・水稲の田畑が続き、わらぶき屋根の農家も見えて、穏やかな日本の田園風景さながら、首都テヘランからは、山脈をこえて車で約4時間、夏季には海水浴客でにぎわい、むし暑さも格別、 日本を思い出すには最良の所です。カスピ海は蝶鮫の生息地としても知られ、港にはイランの軍艦やソ連の貨物船が係留されています。

中央高原は砂漠地帯で、遠近の山々には一木もなく、奇怪な山容は異様な威圧感をもって迫ります。時に、遠く塩湖を望んだり、羊の群を見たりしながら、道路は赤茶けた砂礫の平原に、真すぐに果てしなく続きます。

ベルシャ湾沿岸は、亜熱帯性で、港には大型外航貨物船が着き、古い船着場は、シンドバッドを思わせるような、アラビヤ風の漁船や船員達でざわめいています。

国民の98%がイスラム教徒で、シーエ派に属し、黒いマスクとチャドールで顔をかくした婦人を見る地方もありますが、一般的には、実生活面での宗教の影響は、速かに後退しつつあるとみてよいでしょう。

テヘランは東京とほぼ同緯度、アルボルズ山脈南麓、海抜1200米の斜面にあり、人口約340万人。夏暑く冬寒い気候ですが、春から秋までほとんど晴天続きで湿度が低く、真夏でも日蔭ではさして暑さを感じません。冬季は雪が降って湿度が上り、風がないので寒さが緩和されます。茂ったすずかけの並木の下は、 トップモードの人々でにぎわい、自動車は街々にあふれています。あちこちで建築工事が盛んに行なわれ、次々と入居して行きます。大学出の初任給は、ばらつきがありますが、私のいるセンターで10万円程度、民間や地方都市ではずっと高くなります。日本のバーのような酒場、食事とショーを楽しむカバレ、映画館、バレーや音楽のホール、ゴルフ、ボーリング、水泳、スケート、近郊には非常に雄大なスロープに空中ケーブルを備えたスキー場があります。アパートは冷暖房つきで、暴風雨も地震もありません。

パーラビ王朝、第2代の現国王は、1941年即位、1949年以事逐次経済計画を進め、一方1963年には、農地改革等12項目の白色革命を提唱、鋭意近代化につとめています。今年度は、1978年に終る第5次計画の初年度に当り、総投資額約360億ドルで、GNPを年平均15.3%、 1人当り481ドルから851ドルヘと増加させる計画です。国際収支計画では、石油・ガス収入が経常受取りの78%、財政計画では歳入の約47を占め、他に対イラン投資・借款があります。近頃の情勢からみて、この比率がさらに高まることは想像に難くありません。

増加する石油収入の使途として、初中等教育を無料とし、1/2ℓミルクとクッキーを与え、教育TVに国内衛星を使用する。カナグから原子力発電所を購入する。これは今年2月24日付英字新聞の記事ですが、このような話題が連日紙面を飾ります。遠くペルシャ帝国の栄光をかりずとも、誇りが高くなるのも無理はありません。

強いて彼等に欠けるものがあるとすれば、それは技術です。先の5か年計画にも、現在いる外国人をイラン人に切り換えて行く方針が明記され、意気込みの程が伺われます。全体としてみれば、GNPはまだ低く、石油資源の枯渇に備えて手を打っておくことは当然の施策です。しかし、当分は安泰である強みが、かえって障害になる心配はないでしようか。知識層は、すでに石油の恩恵を受けており、欲しいものは輸入できます。

技術は、生活の必要から生れ、体験的なものをメンタルなものへと帰納させたものでしょう。これを逆の手順で行うことは、工業国でも未経験の分野ではないでしょうか。

人生観に優劣をつけることはできません。押しつけはいけない。相手の真に欲するものを与えよ。これが国際協力の原則です。欲しいものが物であれば問題は少ないでしよう。しかし、技術となると、単なる知識をこえた、行動を伴う精神活動のパターンの問題です。同じ技術という言葉を使っても、異なるパターンの間では認識は異なり、初めから噛み合わないところが出てきます。彼等も日本人も、おかれた環境からそれぞれのパターンを作った。結果として、日本人は技術を持ち、彼等は持っていない。彼等のパターンは、それ自体価値あるものであるにしても、私達の技術とは異質のものです。他人の精神活動に干渉し、是認されてきたものを排除して、なじまぬものを据えることは、特に異国民の間ではきわめて微妙な問題です。これを避けて手際よく伝える方法はないか、模索を繰り返していますが、いつも同じ所に戻ってしまいます。日頃の接触によって何等かの共感を持ち、何とか共通の場を作って行くより、 よい方法が今の所みつかりません これは、特に初期においては効果の測定は不可能に近く、無為の言い換えにすぎないととられなくもありません。当事者としては、忍び難いことです。

現在の恵まれた条件を、どの程度の歩どまりでマンパワーに変換できるか。これがこの国の将来をきめる鍵になるでしよう。ひるがえって、日本には資源がありません。
資源が無かったから今の日本ができたと考えることもできます。日本が人的能力の開発に全力を傾けるなら、資源・汚染等の袋小路を抜け、新しい道を開くことは不可能でないでしよう。その道はまた、世界の進むべき将来を示す道となるのではないでしようか。

(昭和30年卒 日本電信電話公社海外連絡室)

<18号 昭49(1974)>

【18号】ある海外援助―エチオピアを訪ねて―/荒川文生

(1)
昨年7月から9月にかけて、東アフリカは高原の国エチオピアを訪れる機会を得ました。エチオピア帝国政府の依頼で、同帝国の長期電力計画を策定するのが目的です。「長期とは何年か」とは現地でも議論になりましたが、電力需要の想定は、紀元2000年まで行うこととしました。エチオビアでは、1958年を起点とする経済25年計画が策定されており、5年毎にその逐次実施計画が立てられ、現在、第4次5年計画の内容が煮詰っているところです。我々の長期計画は、初期についてこの第4次5年計画を基礎とし得るものの、それをそのまま2000年まで延ばしたものとする訳にはゆかず、かなり思い切った判断と大局的な見方が、計画の策定に当って要求されます。

日本と比較すれば、エチオビアの国土は3倍、現在の人口は1/4、ひとり当り国民総生産は1970年63.6 USドル(1968年価格)で、日本の1/27となっています。電力事情について見れば、設備に関して日本ではMWの単位で使われる大きさの数字にkWの単位が付いており、1971年の発電電力量が日本で3856億kWhであるのに対し5.2億kWh(国連統計)といった具合に、規模に関する日本の常識は全く通用しない状況です。勿論、ひとつひとつの設備は、西欧や日本から入れた近代的なものを、丁寧に使っているのですが……

(2)
この様な状態が、20年30年後にいったいどうなると考えるべきか。発展途上国という点を考慮したにしても、日本の敗戦後30年との相似性は成立たないと思われます。それでは明治維新後の30年ではどうか。その答を出すには、ある国との相似性を見るのではなく、30年後の国際社会において、現在発展途上国と呼ばれる国々が占める位置や、アフリカ諸国のなかでのエチオピアの状況、その他の要因を大雑把にでも想定した上で、その国のあるべき姿を計画として描く必要があると思われます。幸い、我々の先輩に当る青木波磨顕氏(昭26-I工卒)が、 世界117国の統計分析から割り出された国民経済の発展段階に応じた電力需要の想定方式を、最近提案しておられるので、その想定における世界の平均的傾向をやや上回るところを計画値とした理論付けによって、2000年に到る想定を行うこととしました。

いわゆる発展途上国と先進国との区別として、ひとり当り国民総生産500 USドルを境とする見方がありますが、上記方式に従った想定に依れば、紀元2000年のエチオビアはまだ200ドル前後の状態にあると想定するのが妥当と考えられます。その根拠のひとつには、この国が実に着実穏健な発展を目標としていることが挙げられます。確かに国民の8割は、国民経済の貨幣部門に含まれていないのが実情ですが、為政者はそれをよく承知しています。従って、いたずらに外国借款を借り回って破産状態に陥るような、あるアフリカの国の轍を踏むことなく、外交的には非同盟主義を唱えつつも、米英ソ中いずれとも協力関係を保つなど、皇帝ハイレ・セラシェー世の政治は、巧みであると言えましよう。もっとも、 この皇帝が、封建的な地主と革新的な知識層を含む官僚との平衡の上に、独裁的な地位を保っていると聞けば、エチオピアの将来について、多くの複雑な状況も予想されない訳ではありません。

(3)
この皇帝が、まだ皇太子であった頃日本を訪れ、皇室に仕える女官のひとりを見染めたという話は、我々の母親が娘心をときめかせた昔話だと聞きました。また 日本に長く滞在したエチオピア人の書いた日本を紹介する書物が、エチオピアでひところベストセラーになったこともあるそうです。いっぼう、マラソンランナー・アベベ・ビキラの名前は、東京オリンピックに前後して、あの強さの故に、或いはあの哲学的な風貌の故に、日本で広く知られ親しまれました。

この様に、日本とエチオピアとは浅からぬ因縁に結ばれている感があり、実際、首都アディス・アベバには、150人以上の日本人が在住し、日工合弁企業も、繊維・タイヤから銅の鉱山会社まであります。昨年完成した首都と第二の都市アスマラとを結ぶマイクロ回線は、 日本電気(株)が受注した工事でしたから、エチオピアで仕事をされた同窓生の方が、或いは既に居られるのかも知れません。我々のような短期滞在者の印象からしても、人々の多くは親日的であり、また、 日本を知らなくても我々への接し方は、淡白かつ誠実と思われました。滞在したホテルのリセプショニストたちは、我々が部屋番号を慣れぬ現地語(アムハウ語)で告げると、実に愛想よく鍵を渡してくれ、お蔭でその他のサービスでも、随分気を配って貰いました。気持の上で義理固い所があり、握手よりはお辞儀が本来の挨拶であるなど、(古来の)日本に似た面も少なくないようでした。

(4)
地方の視察に出て見ると、雨期のせいもあり、なだらかな起伏をなす高原には豊かな緑に覆われ、眼下の谷あいを流れる雲の風情や、夕日の光が山の端と頭上の雲との間をぬって織りなす天然の絵模様は、実に印象に深いものがありました。願わくばエチオピア人々が、この自然の美しさを汚すことなくその生活を向上させ、我々の協力もその為に実を結んで貰いたいものです。特に、日本の海外援助の実態について、とかくの批判が聞かれるときに、我々が接したエチオビア人の親しみが、いつまでも温かく育くまれてゆくように、真剣かつ誠実な海外協力を、日本は日本なりに創造し実践すべきであり、私自身もそのささやかな一端を担いたいと思う此頃です。(1974年2月4日)

 (昭和40年電気卒 電源開発(株))

<18号 昭49(1974)>

【19号】不惑すぎれば/大越孝敬

ジュネーブ在住の同級の新井彰君(郵政省よりITUに出向中)が、デビ夫人とブリッジをした話を書いてくれるはずと聞いていたのですが、公務多忙の為、急に小生が埋草を書く破目になりました 世代間の共通の話題として、ひとつ年齢(とし)の話でも書いてみようかと思います。先輩諸賢は「そんな時期もあったっけ」と言うくらいの気持ちで、後輩諸君は「ヘえ、そんなものデスカ」といくらか同情の気持ちで読んで下されば幸いです。

≪世間とは、俺のことかと・・・≫
我々の年度(昭和30年卒)にとって、今年は20年会の年です。と言うことは、我々の仲間が満年齢で42歳、数え年で44歳あるいはそれ以上になったと言うことです。もはや「40にして惑わず」と言われる年をすぎて4年、男の厄年をすぎて2年。学生のころ、40すぎの中年などおよそ想像を絶する存在であったことを思いますと、誠に今昔の感に耐えません。

さて、「不惑すぎれば」何が起こるか。何かが変るだろうか。これはもう、ずい分変るような気がする。ちょっびり気負って言えば、世の中を見る全く新しい眼が拓けて来るような気がします。

それは、たとえばこう言うことです。私は、職業柄、若い学生・大学院生諸君に意見をする機会が、度々ではないがときどきある。人に説教するとき、 日本語には自分の責任を回避するうまい言い方があって、それは「君、そんなことは世間で通用しないぜ」と言うものです。この言葉の裏には、「何ら自分は許してやっても良いのだが」、「もちろんぼくは君の味方なのだが」と言うずるい含みがある。

「不惑」をすぎてどれ位経ってからであろうか、このような言い方をする自分がいかにも卑怯で許しがたく思えて来ました。本当に悪いことなら、「それはダメだ」となぜ言えないか。世間、世間と世間のせいにしているが。世間とは所詮ひとの集まりであり、さらに言ってみれば、中年すぎの考え方の頑迷固陋人間の「物の考え方の体系」のことではないか。一体自分はいつまでも若い気でいるが、その実、もうその世間の「こちら側」に移ってしまっているのではないか。

不惑すぎた人間は、遅かれ早かれ、ある日突然このことに気付き、愕然とする。それは半分「ああ、もうタメだ」と言う気持ちであり、そして半分は、また不思議に明るい、落ちついた気持ちであるのてす。「不惑」を言い伝え来た意味のなかには、こう言う一面もあったのでしょうか。

≪体を鍛えよう≫
体の調子もずい分変って来ます。「男の厄年」にどれ位医学的裏付けがあるか、確かには知りませんが、友人諸公にも数え年42歳前後で体の不調を訴えた人は確かに多い。それが、厄年をすぎるとの当節の物価の「高値安定」のように(ただしこちらは安値安定)。体の調子が低いなりに落ちついて来て、無茶さえしなければかえって調子が出て来る。

もっとも、これには「努力の結果」と言う一面もあるようです。30台までは、少々の無理なら大丈夫、と言う自信があった。しかし、厄年前後になると、大抵の人が、急にお酒に弱くなるとか、健康診断で何か言われるとかを経験する。そして、みずから健康に気を付けるようになる。かく申す私も、3年前医者にふとりすぎと血圧を注意され、このところほとんど毎日曜日、10~24 kmの山歩きをしているのです。小学校低学年生の遠足で有名な高尾山から登りはじめ、城山、影信山、陣馬山と縦走して、暗くなったころ陣馬裏からバスで八王子へ帰って来る。

こう言う、あまり高級でない山歩きをしていると、いろいろな年齢の人に会います。中でも40台ないし60台の人達が非常に多い。30台以下の人達は、もっと凄いアルプスかなんかに出かけるか、あるいは「健康のための山歩き」など想像の外であるか、どちらかなのでしょう。それにしても、 まだまだ体に余力のあった30台から、心がけて体を鍛えておいたらもっと良かったのに、 と思う今日このごろです。

≪次代に託そう≫
最後に、ちょっぴり真面目そうな話をひとつ。

不惑すぎての変化のひとつは、「次代に託そう」との気持ちが出て来ることです。言ってみれば、「もうダメだ」の論理的帰結でもあります。自分の能力の限界が見えて来る。自分ひとりでできることなどたかが知れている、ことを痛感するようになる。更には、自分の世代が成し遂げられることもたかが知れている、 と考えはじめる。このような弱気に裏打ちされて、今度は次の世代を育て、自分を育ててくれた世間にお返しをする番だ、と考えるようになって来る。その意味で、たまたま教職にある自分は、次代の教育と言う形でお返しができる訳で、大変幸せだと思っています。

それから、これからの世の中では、社会活動・社会奉仕の形でも、お返しをすることに努めるべきなのではないか。先頃、長女がお世話になっている小学校のPTAから連絡があり、50年度のPTA会長のなり手がなくて困っている、是非引受けて下さい、と頼まれました。

実はこの小学校は私自身の母校でもあり、また10年ほどまえには本電気工学科21年卒の大山彰先生(現在、動力炉開発事業団理事)もPTA会長を務められたとのこと。進退谷まって大山先生に御相談申上げたところ、「君、それはやりなさいよ」と一言で片づけられてしまいました。以来、初等中等教育に関する本を何冊か買い込んで、にわか勉強をしています。勉強してみればみるほど、今日の日本の教育は重大な岐路にある、 と思わざるを得ない。これまでは父親参観日にもろくに出掛けたことのない不熱心な父親でしたが、これからは自分の子供の為と言う訳でなく、次代に対する責任として、初等中等教育にせめて人並程度の関心を持つようにならなければ、と思いはじめています。

ひどく殊勝な話になりました こんなことを憶面もなく書けるようになることも、「不惑をすぎた」人間の特権と言えましょうか。

 (昭和30年卒 東京大学助教授)

<19号 昭50(1975)>

【19号】アメリカ惚けの記/山田尚勇

大学を出て一年程で渡米し、大学院生を6年、産業界で6年、大学教授として6年の、都合18年をアメリカに送って帰り、理学部に奉職する私にとって、もともとが台湾育ちの身だけに、 日本という国は不思議に見えて仕方がない。それで、本人は生真面目に事実を述べている積もりなのだが、いつの間にか「奇想な事を歯に衣着せずに言う男」とされてしまった様で、今年の幹事に狙われたのもそんな所なのかなとつい勘繰ってしまう。それでも、帰国後3年も経てば言う事もそんなには「アメション」の裏返しでもなかろうと、随想欄の執筆を引受けたりするので、やはり評判の正しさを裏付けするに破目なる。

日本に暮していていつも感じるのは、個人の尊厳が全々確立していないという事が、 日常生活のあらゆる面に顔を出している事である。一事が万事という事を、これ程如実に表わしている例は少ないのではないかと思う。

日本の社会で独創性が評価されないのもその顕現の一端である。私がアメリカのある大会社の一研究所で、マネジャーをしていた時に知り得た事実であるが、その会社の造船部門であった話である。昔の貨物船はデッキが何層にもなっていて、貨物は何等かの形で梱包されてから荷積みされるのが常であった。第二次世が界大戦中に、ある「街のギリシア人」この造船部門に私信を送り、船倉を今で言う所vertical holdにして上から下まで通した小部屋に割り、例えば小麦の様なものはばら積みにして各種の効率を上げる事を提案した。その当時は未だ造船技術も、積荷の技術もそれを可能にしなかったので、その手紙はそのまま出し表に返された。しかし、戦後間もなくその技術が実現し、vertical holdの船が続々と造られるようになった時、彼の「街のギリシア人」は、そのアイデアの先取権を主張して裁判になった。会社は彼のそうした手紙を受け取った事がある事を認め、何百万ドルというアイデア料を支払った。

これは私が研究所の一マネジャーとしての特訓を受けた時に、個人から会社に寄せられた時にいかに対処するかという教育の一例として聞かされた話であったが、この話からは私は二重の感銘を受けた。 第一に、大会社が、何年も前に一個人からそうした私信を受取った事を潔く認めた事である。個人の尊厳に対する深い認識無くしては出来る事ではない。 第二に、簡単な私信に盛られた、時期尚早のアイデアに対して払われた莫大なる報酬の額である。個人の創造性に対する評価の高さは、やはり個人の尊厳と密接に結び付いている。この個人を信頼するという思想は、アメリカで一寸した公文書を作った経験のある者はよく知っている筈である。大抵の場合に、文書は簡単な書式で、記入の後で街のnotary public(公証人)の処で署名して印章を貰えばよい。この公証人の印章が保証して呉れるのは、本人が文書に記入した事項は事実である事を誓った、という事だけであって、仮りにその文書が全くの出たら目であったとしても、公証人には何の答も無い。その代り、公文書で虚偽を述べた本人に対する処罰は実に重い。何処かの国の様に、一寸したした事の為に、 どうせ読みもしない書類を山程作らせるくせに、虚偽の申告に対しても大したお咎めのないという制度は、個人の無視が極度の非能率と煩雑に繋がる結果となる一例であろう。

上に書いたギリシア人は孤立した例ではない。ベバトロンの先取権を主張してアメリカ政府から巨額の金を貰った、別の「狂気のギリシア人」の話は諸兄の御存知の事と思う。そんな実利に繁がる話でなく、もっと知識の為の知識、即ち情報というものの評価に於ても、彼我には懸崖の差がある。アメリカのある大会社の研究所で、ノーベル物理学賞を受けたロバート・オッベンハイマー教授に講演を依頼したのは10年一寸前の話であるが、約2時間半の講演と質疑応答に対する礼金が2500ドルで、今の価値にすれば少なくとも百万円にはなろう。同じノーベル物理学賞受賞の江崎礼於奈博士に講演を依頼した日本の会社が、いくらお礼をしたのか、諸兄とて、意地悪でなくても聞いてみたくならないだろうか。

そんな具合だから、有形の物に関しての情報にはまだしも、無形の物に関する情報の価値の判断の実力がなかなか付かない。今仮りに何か簡単なオモチャを作った人が、そのオモチャについて書いた文を、機械とか電気の学会雑誌に論文として投稿したらどうだろうか。勿論相手にされないだろう。しかし、事がコンヒュータのソフトウェアとなると、少し話が違って来ないだろうか。諸外国で立派に実用になっているプログラムの、小さい小さい真似をして、従って速度その他でもオモチャとしか思えない様なものが、一人前の顔をして居ないだろうか。

独創力とか知識とかが尊重される例として、アメリカの大学の教授のコンサルティングの事を少し書いてみよう。私の教えていた大学の工学部の例であるが、第一に、教授は産業界に於てコンサルタントとして週に一日働く事を奨励される。それは、少なくとも工学部の先生は現実の問題に接触なしには机上の空論におちいるからである。(勿論学部長とか主任教授等は仕事が多いので、コンサルティングはあまりしない人が多い)週休2日であるので、後4日は大学に来る事を要求される。また、他大学での授業担当は(原則として)禁止されている。従って学生は充分教授との接触は出来る。さて、報酬であるが、大学の申し合わせとして、一日のコンサルタント料は大学の年俸の1%以上となっている。これは少なくとも一日200ドル位になるが、私の同僚の父は某州立大学の化学の主任教授で、一日のコンサルタント料が1500ドルとの事であった。こうした額はアメリカとしても少ない高ではない。従って、 日本に於ける名目だけの顧間などと異なり、会社は大体一年契約で、毎年の更新には部長クラスの決裁を必要とする。これは権限の分散しているアメリカの組織では重要項目に入り、従って、コンサルタントが本当に会社に知的貢献をしたかどうかの厳しい評価が更新の前提となる。だから、どこからもコンサルタントとして口の懸って来ない教授はその鼎の軽重を問われる事にもなる。

大学教授は只で使えると思っているどこかの国の政府や産業界は、結局は国民に安物買いの銭失いを強いている事にならないだろうか、自動車排ガス規制をめぐる中公審の節操の無さを見るにつけ、実に不思妻な国だと思う。

 (昭和28年卒 東京大学理学部情報科学研究施設教授)

<19号 昭50(1975)>

【20号】車両の磁気浮上の研究/山村昌

我が国では鉄道は交通量(man-km)の半分以上を運んでいて、依然として最も重要な交通手段であるが、いろいろな問題に直面している。技術的な面では騒音と保守の問題がある速度を増すと、加速度的に騒音と保守量も増加するので、これによって実用の速度が制限されている面が多い。これらの問題に眼をつぶるとしても、300 km/h以上の速度を考えると、車輪とレールの間の粘着係数が不足して、充分な推力とブレーキ力とを得ることができないし、安全性も低下してくる。これらの問題を解決する未来の軌道車として、非接触形の支持案内を行う車両の開発が先進諸国で行われている。非接触形に空気浮上と磁気浮上とがあって、前者の方がフランスやイギリスなどで早くから開発が進められたが、現在では磁気浮上の方が有利であることが定説となっている。

磁気浮上のことをmagnetic levitationという。Oxford辞典を引くと、levitationとは「神霊現象の力によって物体を空中に持ち上げること」となっている。車も翼も無くて、見えない力によって浮上する車両には、ぴったりした名称である。磁気浮上に起電導マグネットを用いる反発形と、常電導マグネットの吸引力による吸引形とがある。この他、 リニアモータで推進力と支持案内力とを同時に発生する方式など、いくつかの方式が提案されているが、世界的に見ても上記の反発形と吸引形とに、開発の努力が集中している。

超電導反発形では車の床下に設置された超電導マグネットの作る強い磁界(地表面で0.5Tesla=5,000ガウス程度)が走行して、地上に設置されたアルミ板または閉コイルの二次回路に発生する誘導電流と、磁界との間の反発力によって、車体を浮上させるもので、浮上高を大きく(10~20cm)取れる特長があるが、飛行機のように、地上を滑走してからでないと、浮上しないこと、浮上中の安定性(ダンピング係数)が小さいこと、超電導マグネットを液体ヘリウムで極低温に保たねばならないこと、強い磁界が車室の内外に広がること、抗力が発生して、特に加速中の抗力が非常に大きくて、加速に困難があること、などの問題がある。

常電導吸引形では、地上側に地面より高い位置に水平に固定された鉄レールに、車上の電磁石が対向して、両者の間の吸引力で車体を支持案内する。両者の間のギャップ長を一定に保つためには、電磁石の電流を閉ルーブ制御する必要があるので、制御回路の信頼性が高い必要があるが、速度が零でも浮上できる特長がある。浮上のための消費電力は、ギャップ長が15mm程度で2~4kW/tであって、推進の電力に比べて、小さい。高速を出すためには、地上レールの工作精度を高くしなければならない。

我が国では国鉄が5年前に、東京‐大阪間に起電導反発形の磁気浮上車によって第2新幹線を建設して、500 km/hで所要時間1時間のサービスを10年後に行うという計画を発表した時期に、これに刺戟されて、私の研究室では常電導マグネットによる磁気浮上の可能性の研究を開発した。1972年にドイツで常電導吸引形磁気浮上のテストに成功したとのニュースが入ったとき、先を越されて残念に思ったが、我々の考えが正しかったことに気を強くした次第でもある。その後の研究は順調に進んで、1点支持、ついで2点支持の浮上テストに成功し、一昨年1月には2m×1.2m、350kgのテスト車の浮上テストに成功した。これは室内実験ではあるが、 リニアモータも備えており、我が国においては最初に成功した磁気浮上のテストとして、記録されるべきであると考えている。

それまで起電導反発形に一辺倒であった我が国の業界も常電導吸引形に関心を持つようになり、一昨年日本鉄道技術協会内に低公害列車開発委員会が発足し、運輸省にも低公害列車総合委員会が設置されて(私が両方の委員会の委員長)、常電導吸引形磁気浮上車の開発に着手した。2年を経ないうちに2.8m×1.7m、2tの試験車と180mの試験線とを完成して、テストを開始したことを、昨年末に発表することができた。なお同様なテストの発表が他の団体からもあったが、上述したところの当研究室の成果から考えて、取り立てて大騒ぎをするには当たらない。むしろ今後の実用車を目指して研究開発の成果を挙げることが大切であると考えている。

当研究室の仕事は、助手諸君のほか、大学院生、卒論の学生諸君の努力によって支えられている。磁気浮上車はリニアモータによって非接触推進されるのであるが、 リニア誘導電動機の研究もここ10年余り続けていて、磁気浮上と併せて50編余の論文、報告、著書を発表することができた。なかにはリニア誘導接の端効果理論、浮上用マグネットの速度特性の解析など、常電導磁気浮上方式の理論的な基礎を与えたものもあって、アメリカ、イギリス、カナダ、ドイツ、イタリーの学会や大学から招待論文や講演をたのまれて、国際文化交流にもいささか役立っていると考える。

世界的に見ても、また我が国でも、常電導吸引形の方が理論的にも実験的にも進んだ段階にあって、低速から300km/h以上の超高速域までの広い速度範囲で、従来の鉄道のかかえる間題をすべて解決する新しい形の交通システムを生む可能性が大きい。エネルギー政策上から見ても、電力に変わるエネルギーならなんでも利用でき、エネルギー効率のよい未来の大量交通手段である点も、見落としてはならない点である。実用化までには技術的にも問題が残されているが、開発資金面での、またさらには交通政策上での困難が少なくない 同窓生各位の御支援をお願いする次第である。

 (昭和16年卒 東大教授)

<20号 昭51(1976)>