三号館遺跡見学会の模様
2011/3/18に開催された三号館遺跡見学会の写真をまとめましたのでご覧ください。三号館が建つ前には明治43年竣工の動物学地質学鉱物学教室校舎がそこに建っていたそうです。なお、当日の説明資料はこちら<PDF(埋蔵文化財調査室より)>をご覧ください。
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2011/3/18に開催された三号館遺跡見学会の写真をまとめましたのでご覧ください。三号館が建つ前には明治43年竣工の動物学地質学鉱物学教室校舎がそこに建っていたそうです。なお、当日の説明資料はこちら<PDF(埋蔵文化財調査室より)>をご覧ください。
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エアトン先生-電信学-ポールエンジニア
この度、東京大学電気工学科卒業生諸君が、相互の親睦を密にするため、同窓会を組織し、会誌を発行することになり、余にその第一号に挨拶の語を述ぶるように委託された。そこで余はまず諸君に電気工学教育の発端について話そうと思う。
これは自分の生れる前および子供の時分のことであるから、もちろん自分で経験したわけではないが、確かなる筋から調べた結果を総合して、初めて日本で大学に電気工学科という学科が置かれた由来を述べて見たいと思う。
そもそもわが国における電気教育の初めは、次のようなことから起こっている。明治2年、東京横浜の間に電信がかかった。そこでこれに関する通信技術を司る技手を養成する目的で修技塾というものができた。次いで明治4年に工部省が置かれたとき、工学寮ができた。これは明治10年に工部大学校(虎の門、今の文部省の位置)となったもので、これに電信科が置かれて高等の電気教育を施すこととなった。工学寮電信科の教授として英国から有名なエアトン先生が招聘せられた。その教育は数学とか物理学とかに重きを置き、応用方面は初めは主として電信であった。後になって電灯とか発電機なども幾分は教えられたようであった。当時の教育の模様は故山川(義太郎)博士が『工部大学校昔噺』の中に話しておられるからその一部を次に抄録しよう。
『予科の2年のときに物理実験があってエアトン先生がその担当教官であった。その実験はすべてオリヂナルのもので教官がいちいち丁寧に指導したのであるが、一般学生には果たして完全に消化し得たか否か非常に疑問である。しかしこれは後になってふり返って見るとき非常にためになったように思われる。さていよいよ予科の2年を終わって専門に入るのであるが、何分にも電信学ばかりの時代であるからすでにこの専門の2年目において実地演習を行うに至ることは自明の理である(講義は高等数学と電信諸学科とで、その実験がかなり多かった)。その2年目において実習に行った例として、青森県の一戸へ行ったことを少しく話そう。当時一戸付近に電信の改築工事があって友達と2人で出張したのであるが、汽車のない時代のことゆえもちろん徒歩であった。丁度片道が20日。その服装は制服に草履、脚絆、振分荷物といった有様で、もって当時の状態がよくうかがえると思う。』
かように電信柱を建てることが主であったので、pole engineerと呼ばれたという。この電信改築工事に出張中、こんな笑い話があったと余らの学生中先輩の話として伝えられた。『あるとき、藤岡先生と中野先生とが、学生として実習中、田舎の宿屋へ泊っておられた際丁度、駆け落ちの若い男女があったとて警察がその宿屋へきて宿帳を調べた所、藤岡先生の名は市助、中野先生の名は初子(はつね)であるので、てっきりこの2人に違いないと夜中呼び出されたら、2人共当時田舎では、官員さん以上に尊敬されていた帝国大学々生であったので警官は平身低頭してほうほうの体で逃げ帰ったとのことである(真偽は保証しないが学生間に誠しやかにいい伝えられた)』
エアトン先生は学生の指導に創意を主とせされたばかりでなく、自分自身も非常に研究熱心で、マックスウェル先生が「電気学の中心英国を去って日本に移れり」と戯れにいわれたことが有名な挿話となっている位である。
電気記念日。明治11年3月25日、東京京橋木挽町に中央電信局が新設された。その開業祝賀式の宴を工部大学校で開いた際、エアトン先生が当時の学生藤岡、中野両氏を助手としてグローブ電池を開いてアーク灯を点火して参列者を驚かした。これが本邦における電灯点火の嚆矢であるとして、この日を記念日と定められた。
かように創意ということを主眼として教育されたのであるが、後の専門科の第2年になると実際電信の改築工事などにたずさわった。すなわち実地練習に重きを置いたことは一つの特色で、今日でも東京帝国大学にはその風が残っており、また貴重なる工学教育方法の一つとして保存されている。電信科の第1期卒業生は明治12年の10月に卒業された有名な志田林三郎博士1人であった。志田博士は卒業後海外に留学されたが、そのときエアトン先生は任期満ちて帰国され英人の講師グレー氏が招聘されていた。
次いで明治14年には藤岡、中野、浅野の諸博士が卒業されて工部大学校の教授補に任ぜられた。後グレー氏が講師を解かれるにおよび初めて日本人の教官のみとなった。明治16年に志田博士が帰朝して工部権少技兼工部大学校教授に任ぜられた。すなわち志田博士は本邦人として最初の電信科の教授であった。(以下こちらに掲載させて頂きました。幹事)
<1号 昭32(1957)>
昭和31年5月の同窓会懇親会の席上、同窓会の組織を作ることが発議され、ただちに準備会を組織し次の32名の委員を委嘱して検討を開始した。
その間、昭和31年5月15日(火)、6月26日(火)の2回の会合を開き、同窓会発足の準備を取りあえずの事業につき協議を行った。同窓会の発足するまでには当然若干の資金が必要であるのでこの調達方法が問題となったが便宜上準備会の責任において会費の徴収を行うこととし、特に有志会員にあらかじめ終身会員の納入を願ってこれを資金にあてることとなり直ちにこれを資金に当てることとなり直ちにこれを実行に移した。幸い同窓会諸兄の御理解ある御協力により無事発足に至ったことは感謝にたえない。また従来電気工学教室で発行していた卒業名簿が古くなりその改訂が各方面から要望されており、同教室においてもある程度改訂の準備が進んでいたので、これを準備会が引継いで新名簿の発行を行うこととなり、昭和31年11月に完成、会費を即納下さった会員におわかちした。
一方同窓会の組織については各方面の御意見を参考として十分に検討を行った結果、理事会制をとることとし、また会の性質上あまり固苦しいものとせず簡素にして機動性のある規則にすることを方針として後に示すような会則の案を作製した。その結果幸いにして設立総会の御承認を得ることができ同窓会は無事発足した。なお会則により各卒業クラスより原則として1名宛の評議員を選出することとなっているが、これは便宜上準備会において候補者を選定し総会において承認を得た。
また設立総会の際の御委嘱により、正式に理事会が設立するまでの御世話を準備会で行うこととなったため、去る6月理事の選挙を行った。理事は評議員会の選挙によることになっており、候補者の選定は準備会で行い書面をもって評議員各位の御投票を願った結果、下に示す各氏が御当選になり、7月13日(土)第1回の理事会が開催された。ここに準備会は任務を終了して解散することとなったが、この間事務上の不行届きも多く会員諸兄に御迷惑をかけた点も少なくないと思われるが、幸いに皆様の御援助によりここまで来り得たことを心より御礼申し上げる次第である。
-理事、評議員-
幹事
滝保夫(庶務)、柳井久義(会計)、尾佐竹徇(会報)、
山村昌、安達芳夫(名簿)
評議員(卒業年度)
太刀川(明35年)、益田(37)、米沢(39)、百田(40)、清水(41)、
八木(42)、大星(43)、岡部(44)、安川(45)、抜山(大2年)、
向山(3)、瀬藤(4)、及川(5)、別宮(6)、野口(7)、
大山(8)、高井(9)、尾本(10)、玉置(11)、井上(12)、
高橋(13)、駒井(14)、小林(正)(15)、駒形(昭2年)、篠原(3)、
宮本(4)、荒川(5)、高木(6)、岡埼(7)、中路(8)、
安部(9)、吉山(10)、河野(11)、大来(12)、青野(13)、
山川(14)、藤波(15)、三宅(正)(16.3)、百田(16.12)、新井(17)、
森(18)、栗冠(19.1)、丹羽(19.Ⅲ)、矢板(20.I)、野村(20.Ⅱ)、
大山(21.I)、長田(21.I)、田宮(22.I)、高原(23.I)、浜田(23.I)、
猪瀬(23.I)、関口(24.I)、有働(24.I)、林(友)(25.I)、鴨井(25.I)、
都甲(26.I)、黒川(26.I)、元岡(27)、東口(28旧)、宮川(28.新)、
菅野(29)、沢田(29分校)、秋山(30)、戸田(31)、田中(32)
<1号 昭32(1957)>
5月19日午後1時より、戦後永らく米軍に接収されており、昨年暮に返還された一ツ橋学士会館において、第21回の東大電気工学科同窓懇親会が催された。まず講堂に一同参集して同窓会発会式が行われ、山下英男教授(大12.3)から発会式挨拶を兼ねて、同窓会準備会の経過報告、名簿発行の経緯、会計報告などが行われた。ついで会則案および評議員案が提出されて、いずれも満場一致拍手の中に可決された。その後、梶浦浩二郎氏(大11.3)が発言を求められて同窓会発会の祝訶を述べられ、更に理事会などが軌道に乗るまでには、なお色々な仕事が残されているが準備会役員で引続き代行していただきたいと要請された。
以上、和気藹々の中に発会式を終え、引続いて現況報告会に入った。工学部について、山下英男教授から第1表の如き報告があり、次に山田直平教授(昭6.3)から、新制大学院に関する第2表の如き現況報告が行われた。森脇義雄教授(昭8.3)からは生産技術研究第3部に関する現況報告(第3表)があり、星合正治教授(大11.3)は、 3年間生産技術研究所長の職にあり、ロケットを始めとして多くの業績を拳げられたが、本年3月所長を退官されたこと、またElectronicsの講座が増設されて、教授、助教授の定員が各1名ずつ増加し、斎藤成文助教授(昭16、12)が近く昇任される予定であることなどが報告された。
現況報告会終了後、直ちに大食堂に移り、ビールパーティが賑やかに行われた。恒例のテーブルスピーチは、古賀逸策教授(大12.3)の司会で行われた。渋沢元治先生(明33.7)は奥様の3回忌の法要のため欠席されたので、録音テープにふきこんだメッセージが披露された「会員が随分増加したが、春秋2回に分けてもよいから全員出席できるようにしたい」との相変らず元気なお声が、スピーカーから流れ出て一同感銘深く拝聴した。
次に今般文化勲章を受賞された八木秀次先生(明42.7)は、まず同窓会の発会を祝され、Electronics、原子力などは皆電気工学の領分と考えることができるから、各部門の人々と連繋を密にして、広範囲な分野で大いに頂張ろうと、若者を凌ぐ御元気な発言があった。また高井亮太郎氏(大9.7)は、「若い人達は老人を敬うのはよいが、決して恐れず新しい知識を活用して大いに頑張ってもらいたい」と後輩を鼓舞された。
次に大山松次郎先生(大8.7)が立たれ、電力中研も施設の増設など資金需要が多く、借金して回っており、事務員のような仕事をしているが事務員になり下らず、大いに働きたいと最近の心境をお話になった。経済企画庁で活躍しておられる大来佐武郎氏(昭12.3)は、電気以外の分野に進出する人も、卒業生中の1~2%は出てもよいのではないかとの所感を述べられた。原子力委員の候補にのぼった瀬藤象二先生(大4.7)は、東芝にいる者が政策を決定するような役につくことはできないと、委員講退の理由を説明され、米英共に原子炉の売込みに躍起になっているが、本当のところをよく研究して上手に利用しないと、なかなか商売のうまい連中だからだまされる恐れがあるとの感想を述べられた。
次に新卒一同を代表して佐藤一夫君(原子力研)が、電気工学の名に恥じないように頑張りますと頼もしい後輩ぶりを発揮してくれた。防衛大学の麻生忠雄氏(Ⅱ昭23.3)は、防衛大学の情況を説明して、後輩の進出を希望し、三菱電機の加藤威夫氏(大9.7)は、 Three S Teamの一員として渡米した際の感意を、西洋料理から原子力に至るまで色々と述べられた。
最後に中途から出席された星合正治先生が、同窓会も盛んになり、もっと広い室が欲しい程になったが来年も大いに盛大にやろうと挨拶されてテーブルスピーチを終り、出席者中最長老の須山正膚氏(明40.7)の音頭で電気工学科の万歳を三唱し、 3時間48分なごりを惜しみつつ散会した。当日の出席者は334名(出席予定者420名の79.5%)であった。
<1号 昭32(1957)>
電信学を電気工学に改正(明治17年)
志田林太郎教授― 中野初子教授
志田先生の卓見
明治17年工部大学校では従来の電信科を電気工学科と改めた。而して電信のみでなく電燈、電力、電鉄、電話等電気工学一般の講義を始めた。このことは電気工学に関する教育の基礎を置き、本邦に於ける電気工業の急速なる進歩の源を開いたというも過言ではないと思う。我々斯学に志し又は斯業に従事する者は、エアトン博士は勿論であるが、志田教授を初め之を助けた前記の諸先生に感謝せねばならぬと思う。
明治19年工部大学校は帝国大学に併合せられて工科大学となり現在の位置に移った。なお当時の諸先生の電気工学に関する抱負と意気込とを知るため、電気学会が創立せられた明治21年6月25日、会長榎本武揚子、幹事志田博士の演説の一部を次に抄録しよう(電気学会々誌第1号)。
先ず榎本子が会長に推されたのは当時逓信大臣であったからで、副会長には逓信次官の前島密氏が推されている。学術界の先輩たる志田博士は幹事として学会の実際の事業を指導されたように見受けられる。榎本子の演説中に『又電気工学の如きも以前は土木学の部に包括して居りましたけれども、今日に於ては一大専門学となりましたし、又電気学の如きも嘗て物理学の一部分の如く看做されしも最早1個の独立学科を為さんとするの期に立至りました。其の有様たる恰も一大家に同居して居りし子供達が追々生長して厳然たる一戸主となりて各独立の門戸を立ると同断で御座います。』とあり、又『其他電気工業の進歩に関しまする電信、電話及び電燈の如きも駸々として進みまする今日に当りましては独り工学会のみにて専ら研究し得べきにあらざれば矢張り本会に於て分担すべきことでありますれば……云々』当時、工学会があるのに電気学会を設けて屋上屋を架する必要はないという声が高かったのに対し電気を一分派として学会を独立してその専門を特に磨くことの必要を唱えたものと思われる。
次に志田博士の演説は実に電気工学及び電気工業の進歩の予言といってよいものである。当時電信は相当に実用化していたとはいえ、電澄、電話、電気鉄道などは皆発明されて僅かに数年を出でず、海外に於てもさほど実用に供せられていなかった。殊に交流工学については極めて幼稚の時代であって、その発達を予察するということは実に難かしいことで、有名なケルビン卿の如きも1881年(明治14年)に交流で重力を輸送することは極めて困難であると述べている。
それから間もない時代に、電気界諸般の方面のことを予見して、電信、電話、電燈、電力輸送等に説き及ぼし、なお電車、電気船、電鍍、電気医術などへの応用までを述べ、更に電力輸送に関しては、『例えば大にしては彼の米国ナイヤガラの水力を紐育府に伝送し電燈に変じて以て該市街を不夜城となすこと小にしては我国日光山華厳の滝の勢力を東京に移し、或は東京市街に電燈を点じ或は馬車人力車等を運転せしむるの奇観を呈するも当た遠きにあらざるべし。陸に電気鉄道、海に電気船舶の使用愈々増加し、鉄道列車水路船舶に黒煙白汽を見ざる時節も亦期して待つべし。電気空船の改良に依り航空の術高度に達し空船に乗り空間に逍逢し或は佳山勝水を賞観し或は名所1日跡を投索するの時節もあるべし。』と予言し、その他学術の点に於ても或は電磁誘導に関し我は光と電気との関係、地球磁気、空中電気等、諸般の学術に関して論及してある。
今日から見て強いて当っていないところをさがせば、蓄電池を以て電気空船を、航行するという点がある位のもので、その抱負の大きく然も散密なること実に敬服すべきものがある。電気工学を学び之を応用する事業に従事している者は必ず一読すべく、又感謝すべきものであると思う。
志田教授は逓信省工務局長ともなり行政方面にも活躍せられしが、惜しいかな明治25年不幸38才で早去せられた。丁度、其前明治23年に中野初子先生が米国から帰国せられて教授となって居られた。
<2号 昭33(1958)>
昨年ソ連が長距離誘導弾と人工衛星の打上げに成功したことに端を発して、米国があわて出し、わが国でも科学技術を画期的に発展させなければならないという議論が、平生あまりこの方に熱心でなかった政治家諸君の間にも行われるようになった。而してそのためには科学技術教育を積極的に推進すべきであるとの意見も活発に交わされている。もっと早くからこの様なことに熱心であるべきであったのだが、今からでも遅くない。
大いに議論し、その結果を実施に移すべきであると思う。科学技術教育の振興には小学校から大学までバランスのとれた体勢を整えなくては真に効果を挙げられないが、茲では大学の場合を取り上げて見たい。
別行支部省調査局が出した統計によると、大正年間から昭29年迄に大学を卒業した者の総計は下表の通りになる。
法律政治 | 128,328 |
経済商学 | 192,411 |
文 学 | 70,99 |
学芸体育 | 15,851 |
理 学 | 22,43 |
工 学 | 87,64 |
農畜水 | 29,302 |
医学歯学 | 62,66 |
其の他 | 2,053 |
総 計 | 611,686 |
上表の工学の内、電気、通信を修めた者は通信を修めた者は19,237となっている。
東京大学工学部電気工学科の卒業者は、昭和31年迄で約2,450人(その内死亡者約450人)で大体全国の電気の卒業者の10%位に当ると考えられる。この表で眼につくことは、法文経の学問を修めた者が合計して39万人以上となり全数の64%弱に当ることであり、叉この趨勢は終戦後の学制改革、大学学部設置の情況から益々激化されて行く傾向にある。
一方大学卒業者の新規需要は今後どうなって行くであろうか。この問題について、私は嘗って東大在職中産業界の志を同じくする諸君と共同して当時の経済安定本部の岡田一郎君を煩わしSampling調査によって或る程度の推定をしたことがあるが、本務多忙のために結論まで到達しなかった。併しその時の調査方針と同様の考の下に文部省調査局が約3年間の調査の結果、昨年3月一応の結論を出した。この考え方は、経済5ヶ年計画に基づく産業の発展を一応の目標として、雇用拡大による新規需要と、減耗補充のための新規需要とを算定し、昭和30年から35年迄の卒業者推定数と比較してある。その結果を要約して示すと次表の通りである。
新規需要数 | 卒業者数 | 過不足数 | |
法文経 | 305,800 | 422,600 | 116,800 |
教 育 | 114,000 | 145,600 | 31,600 |
理 学 | 15,900 | 15,100 | -800 |
工 学 | 107,800 | 84,700 | -23,100 |
農 学 | 26,600 | 31,000 | 4,400 |
医 学 | 56,000 | 40,300 | -15,700 |
家 政 その他 |
22,800 | 73,900 | 51,100 |
計 | 648,900 | 813,200 | 164,300 |
勿論この種の推算には多くの仮定をしているので正確を期し難いのであるが、法文経の卒業者が過剰となり、工学の卒業者が不足するという形勢は動かし難いと思う。しかもこの推算の過程において、わが国の工業技術の外国依存度を速やかに減じて自主性を高めるための研究、開発、そのための要員というような考え方は取り入れていないことなど、わが国の産業界の体質改善的な面を考えると更に多くの工学修了者を必要とするであろう。
われわれ電気出身の大学卒業者約3万人そこそこの者が中核となって、わが国の電気百般、大は巨大な発電所から極微の電気応用までを受け持って、国民全体に電気の便益を遺漏なきまでに行き渡らせる大責任を負わねばならないのであって、このためには人数で表わした量もさることながら、その量と個人個人の質との相乗積が結局たよりになる目安と思う。質の問題は新制度実施以来約10年になるが、まだまだ改善の余地があり、量の問題にのみ関心を寄せては国家百年の大計を誤ることになるが、又一方質の向上だけを取り上げて量の問題特に法文経過剰、理科殊に工学系の過少をそのままに放置して長い期間無計画に過ぎて来たことに対して、ここで反省する必要を痛感する。量が不足すると大学卒業者に限らず一般に稀少価値の上に眠って奮発心を振い起たせる作用が欠けて来る。今はむしろ、各人が1人前以上に働いて不足分を補うべき時であろう。
<2号 昭33(1958)>
来る昭和34年3月31日,定年の故を以て東京大学を退官致すことに相成りました。大正11年4月に、東京帝国大学工学部講師嘱託の辞令を頂戴してから、満37年、本学に入学して以来を数えますと、丁度40年という長い年月を本学の中で楽しく過ごさせていただいたことになります。いま、本学を去るにのぞんで、この年月を省みますと、真に、文字通り、感慨無量と申す外ありません。
大正8年に入学した頃、大正11年に卒業した頃の教室の建物は、正門を入って、斜め左の方、いまの工学部の土木建築のある場所にあった練瓦造りの二階建。明治の初めからの、何でも由緒のある建物だったそうですが、その正面を入った、直ぐの右左が電気科でした。講義室は正面アーケードの直上の四号室というのでありました。
当時は山川義太郎先生、鳳秀太郎先生、鯨井恒太郎先生、西健先生、瀬藤象二先生、大山松次郎先生、大山先生は卒業されたばかりの一番若い講師で、私達のクラスが先生の最初の門弟だった訳です。渋沢元治先生は、その頃逓信省電気局技術課長が御本職であり、こちらへはまだ兼任で来て下さっていた時代でした。3年になったときに、一級上の尾本義一さんが卒業されて、講師として教室にお入りになりましたが先生を合わせても、 僅か8人です。それが40年後の今日では、教室だけで20人に近く、昨年私の還暦を教室でお祝い下さつた折に数えましたところ、教室の外、生産技術研究所、航空研究所、工学部応用物理学科、同総合試験所所属の方がたを合計しますと、東大、電気科連の総数が30余名、今後は電子工学科もできますので近くは、 40名を越す数となりましょう。大変な発展振りです。
その40年の間に、先ず起った大事件が、大正12年9月1日の大震災でした。この頃、教室は模様替の工事中でしたが、西先生と、一番若い山下英男講師と、 3人三階の室にいて、これから一緒に食事に行こうと立上った、その瞬時にガタガタときました。大きいよ、 とおっしゃる西先生の掛声と共に、飛ぶようにして、中庭に出ましたが、その直後に廊下の上のコンクリートの飾壁が大きな音をたてて、崩れ落ちました。いまもある、裏のアンテナ柱が、途中にノードができて、教科書にある通りの姿態で大きく揺れていました。
昭和6年9月18日の満州事変突発当時は、丁度ニューヨークに滞在中でした。朝の新聞を見て、これは大変なことになったと、逢かに遠い故郷を思い、如何とも仕様のない焦燥の念に駆られたことを、いまでもはっきりと思い出します。
昭和11年2月26日の晩の事件の折は、実を申すと、友人数名と共に、赤坂のさる料亭で酒を飲み、大雪だなあと感じながら遅く帰宅。翌朝のラジオ放送を聞いて、さて危ないところだったと、思わず胸を撫で下ろしました。
昭和12年7月7日に支那事変が始まり、非常時代に入って、早速、身近に起ったのは、若い沢井研究員に召集の赤紙がきたことでした。その時分は、当時の航空研究所に航空電気部を育て上げる仕事の最中で、昭和9年に卒業した井上均君、同10年卒の沢井善三郎君と、この若い2人を相手に、元気に航空電気関係の研究を始めたばかりのときでしたから、これは、私にとって、大問題でありました。幸にして、沢井さんが、身体が弱かったため、即日帰郷、大助かりでした。
昭和16年から始まった第二工学部の建設は私のその後の人生を大きく変えることになりました。昭和16年12月8日大戦が勃発、研究室の疎開までもしましたが、終に20年8月15日、戦争に敗れてから、同年12月には忽ち航空研究所が廃上になって、折角、育った航空電気部は解散。そればかりでなく、次には第二工学部の仕事そのものも止めになって、代りに昭和24年5月31日に生産技術研究所が発足、私自身も長い間の学部の生活から離れて、研究所の仕事に没入するなど、大学教授の生活としては、比較的起伏変転の多い、慌しい毎日が続きました。特に昭和31年3月、研究室の若い助手、島村道彦君の突然の急逝は、私にとってこの上ない大きな痛手でありました。だんだん年をとったせいかも知れませんが、振返ってみますと、年月だけが飛ぶように過ぎ去って、只アレヨアレヨと、呆然、自を失うばかりであります。そして、私自身の言動についての思い出は、真に過ちだらけの冷汗物で、よく、この長い期間を東京大学に甘えて過ごして参ったことと、甚だ申訳ない気が致します。
本年に入つて、いよいよ、定年のときが近づき、これまで、いろいろお世話になった同窓の方がた、ないしはその間にお近付きになった方がたに御挨拶廻りを始めましたところ、皆さん過去の私の不躾をお許し下さるばかりでなく、あたたかい態度で送って下さいます。その御厚情はしみじみと有り難く、東京大学で40年もの長い生活を送り得た幸を今更ながら、改めて感ずるのであります。
なお、私の退官後のことについても、同窓の方がたを始め、その他の知友の方がたから、大変、親切な御配慮をいただきました。何とも感謝に堪えません。お勧めによって、 日立製作所に入り、その中央研究所に勤務致すことに相成りました。10年この方の、生産技術研究所での生活の延長のようでもあり、それに引かれたことも事実であります。他面、同じく研究所は研究所ながら、また、大きく相違するところもあって、今後、あるいは、去就に戸惑うような場合がないとも限りません。甚だ厚顔しくはありますが、 これまでの御厚情を、今後の私にも御延長下さって、一層の御支援、御鞭撻を賜わらんことを、ひたすらにお願い申上げる次第であります。
<3号 昭34(1959)>
回顧などいうと、とても古い話でないとピッタリしない。この場合はせいぜい4、5年というところなのである。しかし、色々なことのある点では相当なものと思う。ともかく、昭和29年頃に大分一般に読まれた「ついに太陽をとらえた」を繙くと、わが国の原子力研究は、戦争末期の頃、仁科芳雄先生等によってなされたことがわかる。勿論、軍事目的であった。その後戦争が終って原子力の利用を平和目的に向けようと諸外国が努力し始めた。そしてその成果が間もなく断片的に世の中に流れ始めてきたのである。
しかし、わが国では、広島、長崎の惨禍が余りにもひどかっただけに、原子力というと、頭から恐怖をもって迎えられた。このことは、例えば昭和27年10月の日本学術会議の総会で茅、伏見両氏から「原子力問題の検討について」という議題で、問題の調査を行おうという提案がなされたが、次の総会での激しい討論の末、遂にその賛成を得るに至らなかったことでもわかる。私にはこのときの光景はいまでも印象に残っている。
ところで、世界の原子力平和利用の急速な進展と特にわが国における将来性に対する期待とから、昭和29年1月の第19国会で、当時の改進党、 日本自由党、自由党の三党の話合いにより、原子炉築造助成のため、二億三千五百万円を通産省工業技術院予算中につける修正を行うことになった。この主張は主として改進党の中曾根康弘氏、斎藤憲三氏、堀木謙三氏、稲葉修氏等によってなされたものであったが、 この予算修正には各界から厳しい批判が起った。しかし、結局は、基礎的並びに応用技術の研究のための「原子力平和利用研究補助金」という形になって国会を通過したのである。当時私は工業技術院にいて、当事者の1人となって、国会にかかる予算の世話役を引きうけたのであったが、何しろ頭から決まった予算に対し、すぐその内訳や説明が必要だというので一夜漬けの作業をしたり、予算委員会に呼び出されて油を絞られたり、散々で、わが国の原子力の夜あけ前の光景らしいといまでは思っているが、そのときは仲々どうして一生懸命であった。
この「原子力平和利用研究補助金」が、わが国原子力研究着手へのきっかけといってよいのである。およそ物事の踏み切りには決断を要する。政治家達が、大局に立って、 この重要問題の出発に火をつけた点に大いに意義があると思う。
昭和29年の4月には日本学術会議で、原子力三原則を政府に申入れている。これは、原子力基本法の精神にとり入れられているものである。また、政府は前述の予算に端を発して、原子力の将来の重要性から国としての基本方針を決めることとし、 29年5月国会終了後直ちに内閣に「原子力利用準備調査会」を作り、その基本方針に基づいて、予算を実施するために、通産省に「原子力予算打合会」を設けた。打合会の意向に従って29年12月、藤岡由夫氏を団長とする原子力利用調査団が諸外国に派遣されることになって、私もその一員として加わった。諸外国の情況を見て、とてもこんなことをしていては大変だと一層感じて帰ってきたが、調査団は小型炉の導入と国産炉への着手とをその報告書の中で提案した。そして原子力平和利用研究補助金の主なるものは国産原子炉の設計および材料の開発研究に向けられ、これには学界、産業界が一体となって仕事を進めたが、現在のJRR-3炉の前身をなすものであった。
30年6月わが国は米国と相互協定を結んで研究用ウラン6キログラムを導入できるようになった。四囲の情況からして早急に、研究実施機関を設立することとなり、一先ず財団法人組織で出発することとなった。財団法人原子力研究所の正式発足は30年11月で、石川一郎氏が理事長になられ、私も工業技術院をやめて移った。最初の事務所は工業倶楽部にあった。開所早々研究所の土地の選定、研究陣容の整備、湯沸し型原子炉購入の仕事で、それ等が一遍にやってきて、テンヤワンヤであった。何としても手狭なので、翌31年1月に当時改造中の旧東電ビル内に事務所を移したが、寒い中に火の気なく、工事の槌の音の中を、その進捗に従って、数回に亘って、室を移し変えて頑張ったことは思い出の一つである。
30年秋に原子力基本法など、31年の初めに日本原子力研究所法などが国会を通過した。31年6月に財団法人原子力研究所を解消して、現在の日本原子力研究所になった。先輩安川第五郎氏が理事長となられ、その下で一生懸命やった。また、渋沢先生、密田良太郎氏その他の先輩から数次の激励の御手紙をいただいて感激している。ともかく、それから2年半経過した。茨城県東海村の研究所も着々整備され、緑の松林の中に白亜の研究棟群が立ちならぶに至った。独特の研究もポツポツでき始めている。せっかちの人の多い世の中のことであるから致し方もないが、時間をもう少し与えていただきたいものである。しかしまた、私自身にとっても、わが国の原子力研究の出発の頃のことは相当昔のことのような気がしないでもない。とすると世の中の人が何をグズグズしているというのも、あるいは当然なのかも知れない。
<3号 昭34(1959)>
大正12年3月東京帝国大学電気工学科を卒業しまして、直ちに工学部講師嘱託、その後助教授、 教授として電気工学科に在職37年、 あと十数日でいよいよ定年退官することになりました今日この頃、改めて「光陰矢の如し」の言葉をしみじみと感じております。私の卒業当時、教室は現在の工学部1号館(土木、建築科)の所にあった煉瓦造の古い建物の中にありました。専任教授は鳳、鯨井、西三先生、助教授は瀬藤先生がドイツヘ留学され、大山、尾本、星合の三先生でした。私は、鯨井先生の室に机を並べていましたが、先生は毎朝8時から出勤しておられるのに、私は学生時代の気分がまだ抜けきらず、先生より遅れ勝ちで、気兼ねをしながらドアをソーと開けて室へ入ることが多かったのを記憶しています。
卒業後すぐ電気科の電気磁気実験を担当するほか、他学科の学生の電気工学大意という大講義を受持たされました。聴講学生は200人余りで、中には高等学校時代の上級生、同窓生も交っているようなわけで、なんとなくテレながら講義をしました。他学科学生に対する電気の講義は、 退官まで続けることになりました御蔭で、工学部卒業生には顔が相当広くなりました。国内やたびたびの海外出張先の思わぬ所で私の講義を聞いたという見知らぬ紳士から挨拶をされることがしばしばありました。最近は記憶力が大分減りましたが、さすがまだ電気科の卒業生諸君に私の名刺を出すようなことはありませんでした。ただ名前と顔とをidentifyするのに苦労することが時々あります。
大正12年9月1日の関東大震災で教室の建物が半壊した後、教官室は工学部2号館(機械科)に同居することになり、震災復旧費で現在の3号館が昭和16年に出来上るまで、 この居候生活が続きました。大山先生を筆頭に若い助教授連は、狭い室に机を一緒に並べていましたため、私は公私とも先輩から兄弟のように指導や面倒を見て頂くことができたことをいまでもありがたかったと思っております。大正13年には、兼任であった渋沢先生が専任の主任教授として教室の面倒を見られることになりました。
当時電気工学科の年間経常費は1万円前後(現在は約250万円)で図書、 学生実験等の諸経常費を除くと、教官研究費はほとんどなくなってしまう状態でしたが、渋沢先生はいろいろ工面されて、 とにかく若い教官は年間500円の研究費を自由に使えるよう捻出されました。実験補助者もほとんどないので、実験に伴う肉体的の仕事もかなり自分でやる必要があり、夜遅くまで実験室に残ることが多くありました。渋沢先生はわれわれの健康に絶えず注意され、夕方少し遅くなると実験室を見回りにこられて追出されたものであります。西先生も率先してテニス、 スキー、山の発電所の見学などに私達を引っ張り出されました。よく学び、よく遊ぶことを教室のモットーとして、工学部教官の懇親旅行、東西両大学の懇親運動会などには、電気科はいつも全員を挙げて参加するような有様で、教室の円満ぶりは常に他科の羨望の的でありました。
昭和10年4月から電気学会岩垂奨学資金により米国のMITに1ヵ年出張することになりました。当時文部省留学生は、生活費の関係から米国へ行く者はほとんどなく、大部分はドイツヘ行ったものであります。2.26事件や鯨井先生の御逝去をボストンで聞き大変驚きました。そのため1ヵ年を予定していた欧州諸国の出張を半年に縮めて昭和11年9月帰国しました。戦後は電子計算機や電気標準等の国際会議に出席のため、前後8回主として欧州へ出張する機会に恵まれました。
昭和16年大戦に突入、 千葉に第二工学部が設置されると共に、瀬藤先生を初めとして電気科教授陣の半数に近い教官が転出されることになりましたが、新規補充の若い教官はほとんど軍の技術官に徴集され、本郷の教官陣は誠に淋しくなりました。他方設備、定員拡張の伴わない学生増員、卒業年限短縮を強いられ、教育は非常な危機に陥りました。昭和19年平素御健康に見えた西先生が御逝去になり、私は同年から昭和24年まで主任教授の仕事を勤めることになりました。苛烈な戦争末期、終戦の混乱期と、私にとっては公私とも最大のピンチに襲われた時代でありました。
電気工学科の講座は、大正末期から戦争まで5講座でありましたが、戦時中通信工学の2講座が増設され、戦後第二工学部の廃止と共に電気材料講座が転換され、8講座(教授、助教授各8名、専任講師1名、学生定員45名)の大世帯に膨れましたが、最近電子工学の急速な発達に伴い、その教育と研究の必要が叫ばれるようになりましたので、工学部に電子工学科の新設を提言することにしましたところ、幸に各科の賛成を得て、 昭和33年度から4ヵ年計画で実現されることになりました。完成の暁は電気科を合せて講座総数13、学生定員80名となります。行政上電気、電子と二学科に分れてはおりますが、教育、研究的見地からは大電気工学科に総合運営さるべきものと思います。私は最近まで16年間事業生の就職事務を担当していましたが、何分にも卒業生数が少なく、御要求に応じられなかったことを心苦しく感じていますが、これで多少なりとも緩和されることを喜んでおります。
戦後科学技術の振興が叫ばれていますが、大学の研究費、教育費は物価指数を考慮しますと戦前にもまだ及びません。東大工学部の主な設備の99%は明治以来の戦前のもので、戦後の新設は1%にすぎない状態であります。渋沢先生の御尽力で電気科の実験設備が大分更新されたことがありますが、 電気科といえどもこの例にもれません。一二年前民間会社の寄付にすがることを考えたこともありますが、在職中遂に果さずに終ったことは心残りの一つであります。
大学入学以来正に40年、本郷の象矛の塔の生活をいま無事に大過なく終ることができますのは、偏に恩師の御指導はもとよりですが、同僚、同窓生諸氏の一方ならぬ御支援によるものと深く感銘しております。幸に自分では健康に恵まれているつもりでおりますので、今後は私学の教授を主な業とし、業界で御邪魔にならない範囲で御役に立つことができれば幸と考えております。いままでの非礼を御詫び申上げると共に御厚情を引続いて賜わらんことを勝手ながら御願い申上げる次第であります。
<4号 昭35(1960)>
電気工学科の同窓会報のために何か書くようにとの御注文を幹事から受け、また原稿を書かされるのかという感じがした。しかもそれは筆者が還暦に達したからだという。還暦の御祝いの意味だといわれると一応有難く御受けするのが当然だとは思うが。こともあろうに、原稿の御依頼を謹んで御受けするというのでは、書くことのあまり好きでない筆者にとっては、二重の有難迷惑である。
さて泣言はともかく、筆者も無事還暦を迎え得たのは、やはり幸せだったというべきであろうが、一面、誰からも、あまりにはっきり老人扱いにされるのはいささか不満でもある。しかしこれがすでに老人のひがみでもあるかも知れない。昨年も招かれるままに、米国の東南部にあるジョージア工科大学でしばらく先方の人達の仲間入りをしていた期間中のこと、たまたま年令の話がでて、他国人の年令はなかなかわかりにくいものだなどということから出発して、筆者が一二ヶ月で満60才になることを話したところ、先方ではびっくりして、なかなか信じてくれなかった。
読者は、筆者が御世辞をまにうけてそういっていると思うかも知れないが、実は50才代の人で誰が見ても筆者より年長に見える人がいたからである。しかし筆者はその際正直に白状したが、色々な点で自分はもう確かに老人の仲間にはいったことを自覚せざるを得ない。たとえば若い人より早く疲れがでる。書物を読むのに不自由で虫眼鏡を必ず用意しなければならない等は特に顕著な点である。ただしかし自分の気持ではいままでも若い人達に負けない位気だけは若いつもりでいる。日本では満60才になると人生の再出発というような考え方をして、御祝を述べる習慣があるが、自分も1960年から再び小供になったつもりで、大いに若い気で仕事をしようと思っているといった。
ところがそれを受けて仲間の一人が、われわれにも、同じような意味からだと思うがSecond Childhood という表現があるということを教えてくれた。なるほどうまい言葉だナと感心したが、あとでこの話をまた思い出し、一体それでは、反対に「老碌」というのは英語でなんというかしらと思い、和英辞書を引いて見たら、なんとこれがSecond Childhoodとなっていたのには、驚きかつ苦笑を禁じ得なかった。そればかりではない。なんといううまい文句だろうと一層感嘆したものである。確かに年をとると、小供のように聞きわけがなくなる、我儘をいいたがる、 いわゆる大人気がなくなる。その上筆者のように童心にかえって全く若返ったつもりでいるなどは、文字どおりのSecond Childhoodで、 まさに老碌の典型ともいうべきものであろう。これだから年はとりたくないものだ。いやそんなことを考えるのもやはり老碌のせいかナ。
<4号 昭35(1960)>