【11号】定年に当り/阪本捷房

ラヂオの初まったのが大正14年、その翌15年が私が学生として大学の門をくぐった年でした。それから3年間諸先生の御教導によって昭和4年に卒業することが出来、引つづいて講師を拝命しましてから今日まで38年間同じ教室にいて先輩後輩の皆々様から並々ならぬ御配慮を頂き今回無事定年を迎えることの出来ますのは私にとりまして感慨無量であると同時に深く感謝の念を禁じ得ません。

私が卒業致しました頃は関東大震災で建物がかなりいたんだ後でしたので電気工学科は2号館に間借りをしていて、3階の西南にある2室に9人の先生方が雑居しておられました。鳳、渋沢、鯨井、西、瀬藤、大山、星合、山下、福田の諸先生がおられたわけですが私の卒業と同時に渋沢先生が工学部長になられましたので暫時私は渋沢先生の机をお借りして過しておりました。昭和15年に3号館が出来るまで多少の推移はありましたが大体はこれに近い状態の教官室であったことが今でも目の前に浮びます。

満州事変、2・26事変、日支事変、第2次世界大戦等、私が卒業しましてからの20年間は変動の甚だしい時期でありました。このような世情の変化は一一ここに記すよりもテレビ小説の「おはなはん」というのがそれをよく物語ってくれています。と申しますのはこれの原作者林謙一君は私の中学の同級ですので彼の生涯に起った世相の変化は全く私の場合と同一だからです。

私の卒業しました昭和4年は不景気の風がそれ程強くはありませんでしたが電力方面だけでは不充分であり,そろそろ通信方面にも広く眼を向けなければならない萠が見えかけておりました。大学ではそれ以前から鯨井先生が高周波工学としてこの方面を担当しておられましたが私にその方面の仕事をするようにとのことで同先生の御指導の下に通信方面の仕事を手がけ初めたのが私の一生を結果に於て支配することになりました。今から振返ってみますと今日隆盛になっている電子・通信というような分野を38年も前から手がけさせて頂いた幸福をしみじみ味っております。

私が最初に受けた大きな痛手は鯨井先生が私の卒業後2年程で御病気になられ医学の進んでいなかった当時とうとう昭和10年に御亡くなりになって了ったことでした。これから大いに進展しなければならない通信方面で先生の御逝去は私にとって晴天の霧震でありまして一時はどうして宜しいか途方に暮れたものでありました。併しその後も渋沢先生を始めとし西先生等から種々御教導を頂き特に星合先生及び講師に来て居られた古賀先生には常々若かった私を御指導下さいましたことは今猶記憶に新たなものがあります。

第2次大戦が漸く酷となり。卒業生は殆んど軍部に徴用されるようになりました昭和18年、理工系の仕事を強化する意味に於て大学院に特別研究生の制度が出来、宇都官敏男、中原裕一、小口文一の3君が第1回特別研究生としてそろって通信方面の仕事をしてくれることになりましたのは通信に関する研究に一段階を劃するものでありました。これを契機として昭和19年には田中春夫君というように毎年有力な新進の大学院の諸君が集合して新しい分野の開拓に情進しておりますうちに終戦となりました。軍部に籍をおいていた本学の教官にも通信方面のものがかなりおりましたため帰学後も引つづきその方面の仕事をすることになり遅ればせながら本学も通信方面がかなり充実出来ました次第です。

戦後は電子工学が盛んになり、昭和33年には電子工学科が誕生しましたがその建設を最初から計画しこれを約10年間育てあげることに精進出来ましたことは後年に於ける私の喜びと楽しみでありました。その結果現在は電気が8講座学生定員45名,電子が6講座、学生定員40名ということになっておりますがこのスケールは他の旧帝大に比べますと大体3分の2位に過ぎません。東大だけがそんな状態でいてよい筈はありませんので努力は重ねておりましたが末だ満足する形態になりませんでしたのが心残りに思えます。それには種々の理由もありましようが今後の方々に宜しく御願いする次第です。

もう一つ私の忘れ得ない思い出は同窓会のことです。従来卒業生の名簿だけが発行されておりましたのを卒業生も多くなってきたことなので同窓会を組織化した方が宜しからうという話の出ましたのが昭和30年頃でした。それにはどのようにしたらよいだろうかと教室会議で話し合っております間にたまたま私が同窓会を作った経験があることを申しましたところそれなら具体的に考えるようにということになりました。私の経験と申しましてもそれは中学校のことで私が府立五中(現在の都立小石川高伎)の第一回生でありそのため福島慎太郎君(ジャパンタイムス社長)等と若い頃ずいぶん時間を使って同窓会を創設したことがあったからに過ぎません。その時代から約30年経っておりましたが昔の事を思い出しつつ又その後の種々の経験を加味し、教室の方々にも御援助を頂き、同窓の皆様方の御賛同も得られて今日に及んで居りますのは御同慶の至りに存じます。今後ともますます発展しますことを種をまいた一人として御願いします。

もう最終講義も済ましましたしあとは残務整理をするだけになっております。退職後は丹羽先輩の御世話により東京電機大学に籍をおいて教育の一端を担わして頂く傍ら業界に於ても御役に立つような仕事をしたいものと思っております38年の長きに亘りよい環境で無事仕事をさせて頂きましたのは恩師、諸先輩の御指導はもとより、同窓の皆々様に負う所が少くございません。ここに厚く御礼申し上げる次第でございます。

<11号 昭42(1967)>

コメント1件 : “【11号】定年に当り/阪本捷房”

  1. 白須 宏俊 より:

    お世話になった阪本先生の声咳に接して懐かしさの余り筆をとりました。卒論で阪本研に集いましたのは斎藤正男兄(東大)と松下巌兄(富士通)、それに私(日立)でした(昭31電気)。3人で野方のお宅にお邪魔したこともあります。私が阪本研を志望した理由は真空管大好き人間だったからでした。阪本教授室は旧3号館の玄関真上にあり、毎朝8時の始業前登校してくる学生をチェックされているという伝説を聞きましたが、私はさりとは知らずに一番乗りの常習だったのが自慢です。卒業謝恩会のスピーチで先生が「隅の定石が大切」というお話しをされたのをよく覚えておりまして、私の処世に多大の影響を与えたと思っています。また軍隊が前進するときは鉄道と通信路の敷設が急務という話や、国鉄と電電の電柱の違いを教えられましたが、後年私は教壇に立って蘊蓄の受け売りをさせて頂きました。先生が委員長を務める鉄道通信の会議で久し振りにお会いしたのも遠く懐かしい思い出です。

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