【12号】電気脱線記/大来佐武郎

電気工学科同窓会から日本経済発展などの問題について何か書くようにとの御依頼を受けた。平ぜいあちこちで日本経済や国際経済を論じているので、ここでは、同窓会幹事先生の許可なしに、テーマを変更し、電気脱線記を書いてみる気になった。悪しからず御海容を御願い したい。

私の電気工学科在学時代は、昭和9年から 12年までである。満州事変が昭和6年に勃発し、世相は次第に軍国色を濃くしつつある時代であった。大学2年の冬には、2.26事件が起り、当時の日記に軍国化の前途をうれうる一筋を記した記憶がある。一高から大学に進むときには、物理に行こうか、電気に行こうか迷った末、電気にきめたのであるが、在学中にだんだん興味の範囲が拡がり、とくに経済問題にひか れるようになった。2年生の当時、電気の実習のあとの4時-6時という時間に、馬場敬治先生の経済学と、諸井貫一先生の工業経済の講議があった。ともかくこの二つの講議に出席し、試験も受けた。ことに馬場先生は、電気科を卒業後経済学部で経営学を修めたという経歴の持主でもあったので、講議だけではなく、しばしば自宅に押しかけて、いろいろ御教示を仰ぐようになった。先生の「技術と経済」、あるいは、あとに出た「技術と社会」というような著書を 興味深く読んだ 先生はわれわれ電気科の学生をつかまえて。価値論について質問するなど、いささか面くらうことも多かったが大学を卒業し、さらに戦後になっても、いろいろ御会いす る機会があり、先生が組織された工業経済学会 や組織学会の御手伝いもした。とにかく、万巻の書を読破し、諸学の総合をはかろうとする志しを懐かれたまま、数年前に他界されたのは残念なことであった。わが国でまったく紹介され ていない海外の諸学者の所説を紹介され、とくに新しい社会の動きに着日しておられた戦後、昭和35年頃、ギンズバーグの「マンパワー・ ポリシー」を読めと勧められたのも、先生であり、当時私は経済企画庁について、人的能力問題をとりあげるようになったのも、この本が直接の動機となった。

電気科では、大山松次郎先生が電力応用の講議のなかで、「諸君は電気を勉強したからとい って、必ず電気屋にならなければならないというものではない。自分の級友には、電気をやって、帽子屋になっているのがいる」という漫談をされたのが、印象に残っている。これもそろそろ脱線の気配が芽を出しはじめていたためかも知れない。

大学の卒業論文は、定年で引退される最後の 年を迎えられた渋沢元治先生のもとで、「揚水発電の経済的効果」というテーマをえらんだ。 就職も、当時の逓信省電気局を志望した。これも電気科から行くところとしては、いちばん経済に関係がありそうに思えたためだ。当時、林銑十郎内閣の突然の議会解教があり、電力国家管理のために予定されていた定員がお流れにな り、大学卒業後半年近く待たされたうえ、逓信省工務局の定員で9月からようやく電気局に出られるようになった。ここでは、当時工務局調 査課長の松前重義さんの影響もあって、役所における技術者の地位向上の運動に加わり、当時の大和田電気局長のところに連判状をもって乗り込むというようなこともあった。

また当時、後藤隆之助、平貞蔵、笠信太郎、 その他昭和研究会の関係者が、昭和塾というものを開き、大学の最終年次の学生と卒業したての若年を集めて、日本の政治経済の講議をする という話をきいて、入塾試験を受けた。幸いそれにバスして、昭和14年の4月いらい、夕方6時頃からの会合に毎日出かけて、ここで、日本の政治経済問題や、中国問題などの話をきくことになった。やがてその年の6月、電気局技 術課長の森秀さん(4月から電力管理準備局の 第二部長)からの話で北京の興亜院華北連絡部 に電力担当の技師として赴任し、ここで電気事 業の監督、物資動員計画、電力需要調査などを 扱い、また北京在勤の若手の間で、孫文の「三民主義」や橘樸の「支那社会研究」などをテキ ストとする読書会に参加し、中国問題を勉強した。ことに当時北京に陰棲していた中江丑吉さん(中江兆民の息)に、ただ一人の工科出身の 弟子として可愛がられ、時折り、「戦後にはも っとよい社会が来るぞ」と教えられた。

昭和17年の春、東京の興亜院木院技術部に転勤となり、電力および工業を担当、やがて興亜院が大東亜省に改組され、総務局調査課で、資源、技術、経済など、広い問題の調査を扱うようになった 終戦の年の昭和20年の2月に 「本邦経済の大陸資源依存度に関する一考察」という報告書を作成し、大陸との交通断絶にそ なえて、鉄鉱石や銑鉄のかわりに、塩と大豆を1トンでも多く大陸から内地に輸送すべきだと 主張した 当時から、敗戦後の再建問題をひそかに考えていたので、終戦に先立って、経済学 者を中心とする戦後経済問題研究会の組織を準備していたが、たまたま終戦と同時にこれが発足することとなり、電気科の後輩故後藤誉之助君等と外務省調査局にうつりこの研究会の書記をつとめ「日本経済再建の基本問題」という報告書をまとめた。昭和22年には経済安定本部 (現在の経済企画庁の前身)調査課長に任命され経済白書作成の仕事などと取組むこととなり、ここで、電気屋からの脱線が決定的となっ た。

ふりかえってみると波乱の時代に生きて活動しているうちに、いつの間にか電気から脱線していたということになる。結局、その後も経済が本職となってしまったが、 今でも工学部の教育を受けたことが、その時の仕事に大いに役立ったと感じている。こと実証的なものの考え方は技術者の強来である。まだ回想録を書く年頃ではないが、筆のおもむくままに私事にわたり過去を記すことになったことを読者諸兄ならびに同窓会幹事諸先生に深く御詑びしつつ筆をおく。

(昭和12年卒 日本経済研究センター理事長)

<12号 昭43(1968)>

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