学徒動員の背景/矢部五郎

 1.国家総動員と学徒勤労動員

旧制第一高等学校の寮歌に歌われたように20世紀の東洋は戦争の世紀を迎えたが、欧州は既に17世紀から戦乱が続き、やっと1945年に第二次世界戦争終結で平和が回復した。しかし、東洋では1973年に米国が南ベトナムから撤退するまで、戦火が続いた。

18世紀になって欧州の諸国が組織的に軍隊を持ち、政治・経済的欲求を軍事力で達成しようとしたが、国民全体及び国家経済全体を戦争に動員する必要が生じたのは第一次世界戦争の経験に基づいている。日本も各国の国家総動員体制を参考に昭和13年に国家総動員法を制定した。

国家総動員法は戦時(準ずる事変を含む)に際し国防目的達成の為国の全力を最も有効に発揮せしむる様人的及び物的資源を統制運用する広範な権限を政府に与えた。

先ず、同年8月に学校卒業者使用制限令が出され、翌年には賃金統制令が出され、逐次国民徴用令などが出され、強制的に国民を労働させる体制が構築された。学生・生徒も例外ではなく、昭和13年6月には文部大臣通牒「集団的勤労作業運動実施に関する件」が指令され、中学校以上の学生・生徒を労働による実践的教育を施すことが始まった。昭和16年2月には「青少年学徒食糧飼料増産運動実施要項」が制定され、我々は旧制高等学校で出征農家の作業応援を体験した。これらの学生・生徒の勤労作業はドイツのアルバイツディーンストを模倣したもので、現在の学生語であるアルバイトの語源が生まれた。

戦争開始を決意した政府は、開戦直前の昭和16年12月1日に国家総動員法第五条による国民勤労協力令を施行し、文部大臣と厚生大臣との共同で出される出動命令が学校長に出されて学徒が動員されることになった。この命令を「報國隊出動令書」という。

戦況が悪くなった昭和18年6月25日の閣議で「学徒戦時動員体制確立要綱」が決定され、これに基づいて学徒は労働力の供給源となった。電波報國隊が動員された昭和18年9月時点では、学徒動員の手順はここまでしかなかった。

我々の電波報國隊が動員された後、昭和18年10月12日の閣議で「教育に関する戦時非常措置方策」が決定され、昭和19年1月18日の閣議で「緊急学徒動員方策要綱」が決定され、同年3月7日の閣議では「決戦非常措置に基づく学徒動員実施要綱」が決定され、4月1日には学校別学徒動員基準が発表され、同月6日には理科系学徒の動員要綱が決定され、同月17日には文部省訓令「決戦非常措置要綱に基づく学徒勤労動員に関する件」が出された。

つまり、我々が動員中に、学徒動員の体制がすっかり整備された。このことは、電波報國隊が体制不備のままスタートしたことが反面教師になって、急いで体制を整備したのではないかと勘ぐるのである。そして、ついに、昭和19年5月16日文部省は学校工場化実施要綱を定め、学校は教育の場所ではなくなり、8月22日に学徒勤労令が公布されて、学徒動員の体制は整った。

当時の新聞報道では、「学徒は時局を外にして安閑として勉学に耽っている場合ではなくひとしく産業戦士として出陣しなければならなくなったのである。」と述べている。

 2.学徒勤労動員の待遇と問題点

昭和19年9月6日に文部省が定めた基準によると、大学生は70円/月(注 当時の大学卒会社員の初任給は75円程度)となっていた。昭和20年9月第二工学部電気を卒業した豊田正敏氏の記憶(今岡和彦:東京大学第二工学部146ぺ一ジ)によると70円受け取ったというのでこの基準は実行されていたと解釈できる。

学生の勤労、又は実習教育(インターン)の待遇、報酬、義務、権利については、常に問題があって、平和な社会でも議論が多い。

電波報國隊の待遇に統一されたルールがなかったのはやむを得ないと思うが、一つの歴史として記録すると次のようになる。

①集団で合宿、三食給与、報酬なし。
②自宅通勤、弁当持参、少額の報酬(月額約15円)。
③白宅通勤、昼食給与、報酬なし。
④その他、詳細不明

幸いに軽い病気以外に労働災害や重病は発生しなかったが、災害発生のリスクが高い作業もあった。万一の事故の場合に補償問題はどうするつもりだったのか疑問に思う。というのは大学院学生が戦時研究中に事故で殉職したとき、急邊博士号を与えて繕った事例があったが、我々が事故で殉職した場合の対策はあったかどうか知らない。

その後、多くの学生・生徒が動員され軍需工場で空襲の被害を受けた人も少なくない。軍人の戦死者と比較して国家がどの程度補償したか疑問に思う。

 3.その後の学徒動員

昭和19年8月24日の文部省通達で理科系の第二学年以上のもので必要な学徒は動員から除外し、専ら研究に従事させるようになった。

したがって、次の学年(昭和20年9月卒業)は学徒動員されていないので、電波報國隊の体験は我々が「始め」で「終わり」ということができる。

 4.卒業証書に記載された証拠

東京帝国大学の卒業証書は2通あって、学士号授与の証書と取得単位の証明書であるが、取得単位の証明書に朱色で「在学中大東亜戦争学徒勤労動員出動」と記載されていた。

このような特別な卒業証書を受け取った卒業生は、学業半ばで出征した文科系の同期生も同様と推測する。

 5.当時の社会情勢

この記録の社会的背景が理解できないと思うので、少しばかり当時の社会情勢を説明する。

①物価

煙草:一番安い金鵄(ゴールデンバット)10本が23銭(昭和18年)
豆腐:10銭
市電:7銭が10銭に値上げ

②学制

小学校6年、中学校5年、高等学校3年、大学3年

③東京(帝国)大学第一・第ニエ学部

第一次世界戦争をほぼ傍観していた日本は好況に恵まれ、高等教育を希望する学生が増加したので、大正末期に旧制高等学校を増設し、大学の学生定員も増加させたが、昭和初期の不況で大学は出たけれど就職できない人が溢れて、学生の定員をほぼ3/4に削減した。

昭和10年ごろから産業界も活気を取り戻して、人材不足が表面化したので、昭和14年から旧制高等学校の定員が復活した。その結果、我々が大学を受験する時には、大学の定員を復活する必要が生じたが、たまたま、技術者の不足が問題になり工学部の入学者を増やすことが政治問題になった。そのとき、政治家の選択した解決方法は、東京に急いで工学の大学を設置することであったという。具体策として、東京(帝国)大学工学部を2倍に拡張することが決まった。

入学者を2倍にして、その半分を千葉市弥生町に急造したキャンパス(現在の千葉大学の敷地)で教育することになった。我々電気工学科の入学者はくじ引きで本郷(第一工学部)と千葉(第二工学部)に配分された。

このような事例は始めてではなく、九州(帝国)大学に医学部が新設されたときにも、東京(帝国)大学医学部と同時に入学試験を行って、くじで配分したと聞いている。

コメント1件 : “ 学徒動員の背景/矢部五郎”

  1. 松原正一 より:

    学徒勤労動員の待遇について
     私は昭和19年6月1日から昭和20年60月30日まで日本発送電の建設局電気部第一課(20年3月1日からは工務部線路課)に配属になり、私の記憶では技手待遇で供与月額30円でした。ただし学生に毎月渡されるのではなく、卒業時に一括して渡されました。昭和19年9月に文部省が月額70円と決めたというのははじめて知りましたが、9月以降は70円になっていたのかどうかはわかりません。なお豊田正敏君はニ工から、私は一工から合計8名が同時に配属されました。

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