赤門構内点描/岩崎敏夫

赤 門

赤門は、将軍の娘が三位以上の大名に嫁したとき、その大名が敬意と格式を表すため建てられたもので、正式には御主殿門というが、朱塗りのため「赤門」と呼ばれている。

徳川11代将軍家斉の第21女溶姫(1813~1868)が加賀藩主前田斉泰に輿入れした(文政9年、1826)。その行列は大仰なもので、江戸城中から侍11名、医師1名、女中74名が付き添って来たという。門は翌年完成したが、そのさい門前の町家数百軒がこわされ、また門を火災から守るため「加賀鳶」が設けられた。婚礼、門等の費用は全部前田家の負担であった。溶姫の住居は、現在「山上会館」のあるところに建てられた。

三四郎池

山上会館そばの森や池は、前田家上屋敷の庭園跡である。寛永から寛文(1624~1672)につくられ、4代藩主綱紀により「育徳園」と命名された。心字の池は、その景観にちなんで八景、八境などあり幽谷美を誇った。東大構内になってから、夏目漱石の小説「三四郎」(明治41)でこの池が印象的に書かれたため「三四郎池」と呼ばれるようになった。

池の南側の土手の斜面に横穴が掘られてあった。加賀藩の「お雪献上」といって、早春加賀の白山で採取した雪を江戸へ運び、7月始め将軍に献上したが、穴に貯蔵したといわれている。

蛇 塚

エ学部の中庭の植え込みの中に丸い石塔がある。加賀騒動のときに蛇責めで殺された 浅尾の局の碑だとのことである。延享5年(1748)首謀大槻内蔵允に加担したということで、浅尾も拷問・処刑された。その模様は「見語」(昭和年間)に書かれている。

「浅尾を大きな瓶に入れ、首を蓋から出し足は瓶の底に届き中腰になるほどにし蓋の穴から数百匹の蛇を打ち込み、塩を混ぜた酒を注入、蛇は苦しいので総身に絡みつき噛みつく。耐えがたさに泣き叫ぶ声は凄まじく、浅尾はついに責め殺された」

その石塔は、明治以後建物を建てるため、幾度か場所を移動されたがその度に運んだ人夫が死んだといわれる。今でも石塔に触れると崇りがあると囁かれ、それかあらぬか線香や花がよく供えられている。

安田講堂

大正10年5月、財界の安田善次郎が古在由直総長を訪れ、大講堂建設費として100万円の寄付を申し出、大正11年12月に着工、14年(1925)7月に竣工した。

昭和44年1月、大学紛争で学生が立てこもり警官隊と激しい攻防戦を繰りひろげたことで、一躍有名になった。

現在は、大講堂のほか学生部、生活協同組合が使用している。また、講堂前の石畳は庭園風に改装され、その地下には学生大食堂がある。

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