戦争と大学/宮本邦朋
1.入学当初
昭和17年工学系の充実拡大が国家的急務となり、東大工学部も二倍に拡大した。本郷だけでは収容できないので、千葉市の西郊に広大な敷地を確保して第二工学部を作った。私は第二工学部電気工学科に入学した。
下宿が見つからないので大学に斡旋して貰った。畑の中の農家の物置の様な二階だった。一応落ちついたが、食事は大学内食堂で食べた。国鉄に西千葉駅、京成電車に東大工学部前と言う駅が出来た。その後アパート「富士見荘」が出来たのでそこに入ったしかし大部分の学生や教授は東京から通った。
正門には二本の門柱があるだけ、敷地には草が背丈ほど茂り道路も工事中だ。各課毎に一画を占め木造二階建ての校舎があった。水高入学の当時も経験したが環境の激変で体調を壊し、虫歯がおこった。歯医者を捜すと女性だったが技術は良かった。
大学総長は「平賀譲」教授、船舶工学の大御所で海軍中将でもあった。軍艦の設計技術は世界一という。工学部長は「瀬藤象二」先生、電気が専門で「アルマイト」を発明した人、少年時代に郷里和歌山に水力発電所が出来たのを見て電気を勉強する気になったという。主任教授は「星合正治」先生、太閤記が得意で「電気工学第一」授業も面白く進めた。副主任の「福田節男」先生の「電気工学第二」は入学第一日の第一時限が目に浮かぶ。五十音順に点呼して、私をミヤモトクニアキと呼んだ。「邦明でなく邦朋です」というと慌てて、まだ一字も書いてない黒板に大きく私の名を書いてみた。福田先生には卒業後、兵器の研究でお世話になった。
当時日本の軍部は精神面に重点を置き、科学の力を軽視していた。海軍の訓練も「月月火水木金金」と励み、水雷戦隊は夜襲に絶対の自信を持っていた。所が「ツラギ」海峡の夜戦では、敵が見えないうちに敵弾がこちらに命中した。「敵艦には神様が乗っている」と思ったそうだ。「それは電波兵器というものだ」と聞かされて、科学の力に気が付いたが既に手遅れ。「早く電波兵器を作れ!」何事もこの有り様たった。
さて、クラスメートはさすがに皆優秀な人だ。40人の中に台湾から1名、朝鮮から1名来ていた。台湾の中山君は音楽感覚が抜群だった。戦後は台湾で活躍していた。朝鮮南部の裕福な家柄から来ていた文江君は私の同じ実験班だったが、戦後の消息はない。実験班には他に藤井君!日立製作所から九州産業大学の教授、松田君!東京工大から松山大学教授。お二人とも最近までおつき合いを頂いている。その他のクラスメートも何かとおつき合いを頂いている。
暇を見つけては旅行
水高の理科甲類の級友が10人くらい第二工学部に入った。学科は分かれてもよく顔が合う。入学間もない頃、第二工学部の野外パーティの日、早く抜け出して、銚子方面に出かけた。犬吠崎から歩いてヤマサ醤油を見学、香取神宮を参拝して、佐原から舟で潮来に向かった。舟に居た旅館の客引きの勧めで旅館に入ると、宿賃は七円と言う。銚子の宿は1円50銭たった。旅館を変えようとすると、「それだけの待遇はする」と引き留めだ。私たちは一夜眠ればよいのだ。金もない。話し合いの結果3円で泊まることにした。懐が寂しくなった。
私は電気の実験授業が本郷教場であるので、翌朝一行に別れて一人帰路についた。先ずバスで玉造へ、そしてぽんぽん船で浮島に渡る。乗客は私だけなので、3円50銭とられた。浮島を徒歩で縦断し、江戸崎に渡る手漕ぎ舟は10銭。バスにて土浦駅に着いたとき私の財布は殆ど空だった。しかし念願の浮島を訪ねることが出来だのは嬉しかった。あの時から50年後、千葉方面出張の帰途立ち寄ると、桜川村として陸続きになり、周りには堤防をめぐらせ今昔の感に打たれた。
冬休みに親しい友人、津田君、三上君と京都に行った。津田君の叔母さんの家に泊めて貰って名所旧跡を存分に巡った。戯れにそれぞれ「和尚」「上人」「法師」と名乗って、歌や句も読んだ。京都の冬は寒いというが、確かに寒かった。明け方雨戸の節穴から覗く空は何時も鉛色、時々時雨て、雪もぱらつく。
「樫の実のぱらぱら落ちるせきか亭」
「京の町電車の車掌はかるさんをはいて次は西大路千本町」
「鴨川の中之島辺のむれかもめ乱れつ下りつものをこそ思え」
嫌な顔も見せず歓迎してくれたあの叔母さん、その後の消息は聞いてない。
春休みには伊豆、修繕寺、湯が島、天義、下田と歩いた。野草の食べ方や夜の寒さは背中に新聞紙を入れて防ぐ等、山岳部の三上君に指導された。夏は伊豆の辺田港にある東大寮で海水浴合宿に参加した。東大鍛練体操の講習を抜け出して達磨山に登ったものだ。
二年の夏、級友の江森君と山口県小野田市の火力発電所建設現場で実習をした。中年の技術者が応対してくれた。
「大学は何処だね?」
「東大第二工学部です」
「家の倅は第二工学部に入れられると嫌なので工業大学を受けた」
少々皮肉に聞こえたが別に気にすることはない。実験設備は不十分なので、本郷に行くがその他は何も不都合はない。教授は優秀だし、何よりも開拓精神が漲っていたのだ。
宇部市にはセメントエ場や既設の発電所もあった。又北九州の門司、小倉、八幡の発電所も見学した。実習では電圧電流の測定など頼まれた。実験室とは違い抵抗器もない。バケツに水を入れて抵抗器の代用だ。当時この地方には、朝鮮からの労働者が多かった。もともと方言の強い地方、銭湯に行くと朝鮮語か日本語なのか話ている言葉の意味が全然わからなかった。
20日間の実習が終わると、近くで実習していた冶金工学科の三上君と打ち合わせて、山陰北陸まわりで帰った。切符は学割を使って上野迄通しで買った。山口県では秋芳洞、秋吉台、長門峡と歩いた。ここでは「肩の荷の重きに悩む」の長編詩をものしたが今は手元にない。萩から津和野、浜田、出雲とすすみ、大社に参詣した。参道には「武運長久」の幟旗が高々と並んでいた。宍道湖の夕日を見て松江についた。
「沈む日や宍道の湖に火の柱」
松江で宿賃7円とられ、手元の金は殆どない。この後は夜汽車で寝た。山陰は神話や伝説の国、初めて見る裏日本の景観は紺碧の日本海とともに強烈な印象で焼き付いた。天の橋立は昼頃、海水浴で賑わっていた。福井、金沢、能登、富山と商業都市が続く。親不知の難所は汽車で過ぎた。柏崎から長野に向かい、姥捨ての千枚田も見た。小諸から小海線、美しい野辺山高原を経て小淵沢、そして中央線、夜明けに上野駅に着いた。上野公園の水飲み場で歯を磨いていると、警官が近づいて来て、「いげつない真似をするな!」 私はむっとしたが、こんな単細胞の人間を相手にすることもない。静に説明した。戦局がまだ厳しくなかった時期の、束の間の平穏な学生生活の一こまだった。
本郷では味わいない経験
一年の時、利雄兄は第一工学部の応用化学の三年にいた。ある日私の所に遊びに来た。水高からの友達数人で歓迎した。稲毛海岸や千葉市内を案内した。みな下駄を履いて悠々と歩くので、兄から見ると至極のんびりして見えたらしい。「本郷の学生はもっとぱりっとしてるぞ!」
大学から南に向かって畑の中を行くと国鉄総武線、更に京成線-この電車はしょっちゅう故障していた。更に行くと坂を下りて海岸に出る。ここに国道一四号線、当時は千葉東京間の弾丸道路があった。台風が来ると道路一杯波が被る。海は三、四キロの遠浅、海水浴や潮干狩り、特に食糧不足の頃はアサリを採って電熱器で煮て食べた。農家にはさつまいもや野菜があった。運動施設がないのでもてあますエネルギーは、近辺の自然の中や旅行に向けられた。
勉学のこと
電気関係の指定された単位の講義の他、共通科目として、数学、機械工学、熱力学、測量工学等では他の学科の者と一緒だ。複素数は電気工学特有の便利な数学だ。電気については物事を簡単にするため入力と出力の間の四端子網で考える。この間で、切れるかつながるか、減衰するか増幅するか、そして電界ど磁界の関係、電磁波の性質。エネルギーの伝搬や変換等だ。目には見えないので実験も大切だ。講座は「何々工学第一」「**第二」。教授も自分の講義を面白く聞いて貰うため工夫して、余談を入れながらやる。居眠り等は出たこともない。原書や専門書も沢山読む必要かある。語学の足しにもなる。勉強は遣りすぎることはない。しかし高校時代のゆとりの気持ちが抜けきれないうちに戦局激化で軍に手伝いにかり出され、あげくは六ヵ月短縮で卒業させられた。
卒業研究は電気試験所で「送電に於ける万能消弧線輪の効果について」たった。短絡電流の減衰する様子をオシログラフに撮り、フーリエ級数に分解した理論値と比較した。コンピューターのない時代、計算に時間をかけたものだ。
2.戦争の影
電波報国隊
昭和17年4月18日、千葉の丸通に出かけたとき空襲警報が鳴った。「太平洋の彼方に敵空母が発見されたのだろう」丸通の職員はのんびりしていた。
この時敵機は既に水戸方面から東京圏に侵入していた。超低空なので、防空システムでの捕捉が遅れた。情報は混乱し迎撃体制も混乱した。本郷の兄は銃を担いて出動していた。皇居の守護だろう。「皇居は御安泰に渡らせらる」と放送していた頃は敵機は中国の方に飛び去った後だ。
18年の末頃になると、雲行きは怪しくなった。文化系は学業半ばで兵役に服し、工学部は卒業するまで待ってくれた。一九年戦局はいよいよ悪化し、軍部は兵器の生産に追われ学生にも手伝いを求めてきた。私どもは電波報国隊として相模原の練兵場で電波兵器の製作にかり出された。原理は超短波を発信し、方向性アンテナで敵機の方向、反射波を捉えて距離を測定、高射砲と連動させる。実験室と実際は大分違う。苦労の末一台出来上がる。大学としてはあくまで実習を兼ねた協力だ。
日曜日に近くの大山に登った。大して高くないが見晴らしはよい。丹沢山系と顔を見せている富士山が見事だ。スケッチしてきて藤井君に見せると、彼は一目で場所が解ったと言う。秦野から下りて食堂にはいると、さつま芋が主食で魚が副食だった。蜜柑は安かった。学生は何時も楽天的で自由奔放だ。戦争の重圧にも落ち込むことはない。
春の休みには皆帰省した。私は翌朝出発する予定だ。一人で練兵場で体操をしていると、陸軍から監督に来ている青木中佐が近づいて、
「良い体操を遣ってるね!」
「東大鍛錬体操です」
「友達はどうした」
「春休みで皆家に帰った。私も明日帰るつもりです」
「学生達は日本が今どんなに大変だか解ってないので困る。この電波兵器が一週間遅れると、南方の島が一つ占領されてしまうのだ。このさい休みを延ばして手伝ってくれぬかね?」
「友達と旅行の約束をしているので、こまるのです」
「約束なら電話か電報で断ればよい。宮本君だけでも手伝って呉れよ!」
それでも嫌とは言えない。宿舎の中心道場に訳を話し、宿と食事を協力して貰った。道場は80畳の大広間、押入の中には鼠の集団が暴れていた。俺も男だ、一人で頑張った。
徴兵検査と黄疸
卒業予定一年前、クラス全員が徴兵検査でそれぞれ帰郷した。父は村長だったが長男善次郎が丁種不合格、次男利雄は丙種なので、私に期待したようだ。鶏を一羽料理して私に食わせた。当時は家で飼育している鶏を殺して食るのは最高の御馳走だった。しかし私は吐き気がして食べられなかった。当日は大儀だったが我慢して検査を受けた。「第一乙種合格」を大声で復唱して帰った家に着いて寝込んでしまった。医者に診て貰うと、「黄疸」と宣告された。後で知ったが、クラス全員「黄疸」になったのだそうだ。私か一番重症で回復に約一月かかった。原因は不明だが、造兵廠の宿舎で罹病したのだろう。
在学は二年半に短縮されたが、実験は実戦で十分やったし、生涯学習の考え方をすればなんら不都合はなかったと思う。