想い出すこと/伊藤伊好
1.はじめに
入学早々の昭和17年4月18日(土)の昼休み、12時30分ごろ私は三四郎池のほとりに坐っていた。右手の低空を左に向かって飛行する大きな機体を見て、その後に空襲警報が鳴った。B25爆撃機16機によるドウリットル東京初空襲であることを後で知った。これが慌ただしく多難な戦時学生生活の始まりであった。
2.学業感想
卒業半年繰上の昭和19年9月までの2年半、電波報國隊に半年、その後は卒業実験と続いたので、講義を受けたのは1年半に満たない。海軍に入った後の20年4月、東京空襲で目白・下落合の自宅が焼け、そっくり置いてあった書籍・ノート類、卒業証書も含めて全部なくしてしまった。記憶も薄れ、今はただ諾先生方の面影と印象のみである。
最長老の西先生は「電力工学」のお話、ポケットブックを持参され、ぺ一ジ指示で詳しいことは憶えなくても、この辺に書いてあることを知っておればよろしいという調子であった。教授室にお伺いして質問にお答え頂いたことが思い出される。入学の年に急逝されて驚いた。大山先生はユーモアの溢れた元気なお話であった。「電気鉄道」の講義で宿題(ランカーブ)をさぼって不勉強だったこと、後年、国鉄に入った身として慙愧に耐えない。国鉄では「鉄道電化調査委員会」委員長として御世話になった。
山下先生は「電力機械」の御講義、黒板の字が美しく、消されるのが勿体ない思いがした。卒業実験に小型高速モータの性能改善(軍用研究か)の御指示を頂き、佐藤(亮策)助手の親切な援助を頂戴して何とか結果を出すことができた。
阪本先生は「通信」、配られるプリントが多数でノート整理に追われた。
山田先生は「電磁気」、いきなりMaxwell方程式の関数論で閉口した。
後年の名著とされる「電気磁気学」の原稿かと思われる。後に国鉄の交流電化調査委員会で御世話になった。
鳳先生は「送電」、電力系統安定論で見せて頂いた模型が懐かしい。
岡村先生は海軍技術士官の制服でお見えになった。通信アンテナ理論のお話で、専門書を買った覚えがある。
瀬藤先生は第二工学部長の要職におられたが、特別講義にお見えになった。Techno1ogyのTは広く知り、深く探求することだとのお話を記憶している。先生にも後年、鉄遣電化調査委員長として御世語になった。
電気科教室で受講する我々は、向って右から、アイウエオ順に座席を指定され、2名づつ並んで座ったが、最前列の6名の中、赤居君、石川君、小笠原君、岡村君は既に亡く、小倉君はクラス会に顔を見せなくなり、私ひとりとなっていることが淋しい。
一般共通学科として、「応用力学」、「水力学」、「電気化学」などを受講したが、特に「応力」は国鉄時代に送電線のコンクリート支持柱の設計に有用であった。
3.研修旅行
昭和18年8月の夏休みに、国策会社「満州電業」に招かれて研修旅行に行った。満州電業は満州における電力事業を行う会社で、内地では見られない最先端技術の220kv送電、10万kVA発電機を実現していた。同行5人で田畑君、岡村君、山内君、もう一人はたしか田中(春)君、何れも故人となった。阜新火力発電所では鹿野先輩の御世話になったが、私は「満州赤痢」で下痢が止まらず、却って御迷惑をかけた。豊満ダム、水豊ダムにも赴いたが、大容量発電機を5台、10台と並べる堂々たる規模であった。二工から参加した宮崎(仁)君は満州電業に入社し、戦後、鹿野先輩の縁で大蔵省に入ったと聞いている。
4.電波報國隊
昭和18年10月から19年3月までの「電波報國隊」では、川崎の東芝・柳町工場においてレーダ調整作業に従事した。海軍の若い監督官から現地で故障が多く、使いものにならぬとの話を聞き、輸送に伴う品質管理の問題ではないかと思った。論講報告会でこのことを話したら、東芝の下村先輩は当然ながら御不興で、再報告を求められた記憶がある。レーダ調整作業中にうっかりブレート(4~5kV)に接触し、電撃ショックを受けた。キャパシタ電圧の小容量で大事に至らなかったのは幸いであった。後年、国鉄の現場長をやっている時、変電設備に近づかないこと、ポケットハンドの習慣を身につけた。
18年10月21日の学徒出陣壮行会には、銃をかついで雨中行進に参加したことをはっきりと憶えている。
5.卒業後のこと
2年半の駆け足勉学で学力の不足のまま卒業を迎えたが、海軍技術士官の訓練のための浜名海兵団入隊が卒業式当日となり、卒業式には出席できなかった。
昭和19年10月~20年1月、海軍技術見習尉官として訓練を受け、20年2月~20年8月は海軍技術中尉として、海軍兵学校・大原分校にて物理教官として勤務した。8月6日、広島上空のキノコ雲を望見、8月15日(奇しくも誕生日)に終戦を迎えた。
昭和19年3月から運輸通信省・陸運関係委託生として在籍していた運輸通信省に復職した。その後は、岡有鉄道において鉄道電化計画や交流電化調整などに従事し、東海道新幹線の工事・保守の両方にささやかながら助力できたことは幸せであった。
6.近況
昭和43年3月、東海道新幹線支社・電気部長を最後に国鉄を退職し、三和テッキ(架線金具メーカ)に入社して18年在職した。昭和61年に退社し、無職をかこっていた所、今井春蔵先輩(山田先生と同期)と学友・岡田勉君の勧めで、技術文献情報処理(抄録・索引)の作業を始めた。近眼が幸いして、眼鏡を取ると、細かい字も読める。手書きからぺ一パレス、PCに移行する時には戸惑ったが、今ではJICST(科学技術情報センター)のJOIS(オンラインシステム)所定のPC作業を生活習慣とし、ささやかな頭の訓練となり、生涯学習~老化防止に役立っていると思う。
また、詳しい定義は判らぬまでも、技術用語には敏感となり、大学入試時代に返ったような気分で電気学会誌を拾い読みしている。ちなみにシンカンセンは世界的に通用する技術用語になった。
電気学会については、昭和62年4月に終身会員に編入され(45年間会費納入)の恩恵、以後毎月、学会誌・産業応用部門誌を無料送付して頂いており、感謝に耐えない。昔と違って、今の学会誌は解説主体のポピュラーなものになったと思う。テレビ・半導体などの講義のなかった時代の老学生が、その後の変遷と発展の流れの大きさを想うこと切なるものがある。
(昭十九会編「寄せ書き」<平成16年10月>より)
2010/3/8 at 6:13 PM
S51学部卒の畠山靖彦です。
3年前に亡くなった父は、大学も専門も違いますが、17年大学入学19年秋に繰り上げ卒業、旧軍の技術将校というところがまったく同じです。存命中は良く昔の話を聞かせてくれていたのですが、そのときは有り難味がぴんと来ませんでした。今、伊藤様の寄せ書きを拝読していて、亡父の思い出話のような感覚を覚えます。
このWEBサイトなら、20代の卒業生の皆様(ちょうど我々の子供の世代。伊藤様からすると孫の世代)にも読んでもらえます。
学業のみならず、当時の社会状況、電気の学生としての感じ方など、今後とも読ませていただければうれしいなあと思います。
ありがとうございました。
2010/3/8 at 6:18 PM
S51学部卒の畠山靖彦です。
ひとつ書き忘れていました。「海軍技術中尉として、海軍兵学校・大原分校にて物理教官として勤務した」とのことですが、
家内の父親が、海兵75期で終戦時は最上級生で大原分校にいたと聞いたことがあります。伊藤先生に物理を教えていただいたかも知れません。