第 Ⅲ 部 戦後編―会員の新たな活動の足跡
Z会は戦争で4名の友を失った。しかしその他の多くは軍務から解放され、既に軍務を免れていた者と、それぞれの人生に向かうことになった。しかし陸海軍に直接就職していた者、敗戦により禁止された航空関係の仕事、外地の企業や大学に就職していた者は、いずれも帰るべき職場を失った。その数は前記の就職先について見ると14名になる。
また軍需に依存していた企業で、事業の極端な縮小を行った者、戦災により勤務困難な者、外地にあって帰国が遅れたりして、実質的に復職できなかった者もいる。
しかし多くは日本復興のため、またそれぞれの人生の構築のため、戦後の困難な生活環境の中、歯を食いしばって活動を始めた。
官庁エコノミストとしてまず名を挙げた後藤誉之助
後藤は戦後外務省から、新設の経済安定本部に移り、大来佐武郎の下で経済調査を続け、毎年の『経済白書』の作成に携わった。後に調査課長となってからは、自ら主筆として完成した昭和31年度の白書の主題として掲げた「もはや戦後でない」の語は、広く社会にアピールして流行語になり、後藤の名とともに世に残されている。
その後、初代の景気観測官としてワシントン在米大使館に勤めたが、この時期から健康が思わしくなかったのであろうか、帰国後昭和35年に急逝した。大来氏のその後の活躍を見るにつけ、惜しい人物を失った感が深い。
思い出
彼は警句が得意だった。正門前から一緒に市電に乗ろうとしたら、電車がサッサと出ていった。後藤曰く「畜生『シリーズ』にして行ってしまいやがった」と。当時の彼はやはり電気屋であった。
学界・教育界で活躍した人々
本郷の第一工学部にいた滝 保夫は、戦後実現が目前に迫っていたテレビジョン放送に関する基礎から信号方式、雑音ならびにテレビ信号の符号化など幅広い研究を「電気通信学会」、新設された「テレビジョン学会」の中核の一人となって大活躍した。その功績により、2学会の功績賞を受けたほか会長も務めている。また「電波の日」郵政大臣表彰、日本放送協会文化賞を受けているが、ハイライトというべきは、日本のテレビの生みの親・高柳健次郎先生を記念する「高柳記念賞」を没後受けるという、異例の表彰を受けた。また教育者として数多くのテレビ関係技術者を世に送り出している。東大定年後は理科大学に移り、工学部第一部長を、また定年後請われて基礎工学部新設に尽力、学部長も務めている。
ある友人彼を評して「暖かくてノーブル」といった。70歳を前にして世を去られたのが惜しまれる。
齋藤成文は千葉の第二工学部に戻り、教育に打ち込んだが、組織の改変により、生産技術研究所に改組されてからは、戦前から引き続いてのマイクロ波通信、特に宇宙通信に不可欠な低雑音受信の研究に打ち込んだ。宇宙開発が始まると鹿児島県内之浦での打ち上げの仕事にも携わった。日本初の人口衛星「おおすみ」の打ち上げを始め、多くの科学衛星の開発などを手掛け、日本の宇宙開発で大きな役割を果たした。政府の宇宙開発委員会委員にも就任し、行政にも参画した。これら我が国の宇宙開発初期の自らの体験を『日本宇宙開発物語』及び『宇宙開発秘話』(三田出版会)として執筆した。平成10年には宇宙電子工学への貢献により、文化功労者として顕彰される栄に浴した。
市川真人は戦後九州工大から、名古屋大学に移り、電気加熱の分野で活躍、日本電熱協会会長も務めるなど、電熱技術の地位確立に努めた。定年後は国立豊田工専の校長として育英に当たった。
同じく名古屋出身の角 豊三は、戦後海軍から転じて神戸商船大学に職を得たが、昭和36年埼玉大学に工学部電気工学科が設けられることになり、推されてその専任教官に移り、学科の整備、教育に熱心に取組み大きな成果を挙げた。
楠 順三も戦後は東京商船大学の教官として、教育に打ち込んだ。
中村欽雄は海軍に就職していたが、戦後電機工専に就職(後に東京電機大学)、教育に尽力した。電気通信工学科の主任・工学部長・短期大学学長なども務めた。年配になって卓球に打ち込み、年配者の大会に出て、内外で大活躍をしたそうである。
飯島健一は横浜大学で、また日立製作所研究所から転じた須藤卓郎は法政大学工学部教授に転身、同じく日立製作所から転じた高林乍人は、三重大学教授から熊本工大で教育に打ち込んだ。
次に研究分野の人々に移ると、俊才が集っていた逓信省電気試験所は戦後機構が変わったが、ここに入った百田恒夫は終始工業技術院電子技術総合研究所で勤務し、所長も務めた。電熱部門が専門で活躍した。
三輪高明は戦後電気試験所に復職し、昭和24年に電機関係と分離して、電気通信省の傘下になり、マイクロ波電子管の研究に従事、その後通信研次長を経て退職。(株)富士通研究所に勤務、53年所長を経て、54年富士通化成(株)に入り、社長を経て63年退任した。
小平信彦は復員後日本電気に戻らず、国立気象研究所に入り、気象衛星の開発分野に進んだ。衛星研究部が新設されるや、小平は部長に就任した。昭和55年に気象研を退職後、(財)リモートセンシング技術センターに移り、マイクロ波による地球観測衛星のデータ処理とその普及の仕事を開拓し、この分野における先駆者となっている。
官業としての鉄道に入り、鉄道の交流電化の分野で大きな役割を果たした者に澤野周一がいる。澤野は鉄道省に入ったが、工作局で電気車両関係の仕事に従事した。とくに交流電化が始まりその推進、新幹線計画の推進などに重要な役割を果し、国鉄副技師長で退職。昭和43年に(株)東芝の交通事業部に入り、首席技監で53年退職、(社)海外鉄道技術協力協会に入り常務理事を務め、海外各地で業務に当たる。鉄道動力近代化の流れの中、大きな役割を果たした。この間に紫綬褒章、勲三等の叙勲。
粂沢郁郎は国鉄に復帰後、技術研究所に移り、新幹線計画が始まると、初代電気線研究室長として架線、集電装置(ダブルカテナリー)の分野の研究で役割を果たした。後に東京電機大学に勤務した。
湯原仁夫は陸軍から復員後、電波研究所に入り、最後は所長を務めた。
尾上通雄も放送協会に就職していたが、電波研究所に勤めている。
電気事業に従事した者は少なかったが、松岡 實と花形 澄は日本発送電(株)に入り、昭和26年の電力再編成で東京電力に移った。その後同社において終始電気事業の技術部門の運営に尽した。松岡は電力技術一般に従事したが、超高圧の地中送電に苦労して実現を進めた思い出を持つ。常務取締役に進んで退任し、電力九社の共同研究所の立場にある(財)電力中央研究所専務理事を務め、昭和61年より通産省の外郭団体である新エネルギー・産業技術総合開発機構という長い名前の特殊法人の理事長を務めた。この間電気学会会長に推されたし、勲二等の叙勲にも浴した。
花形は東京電力では給電、電力の総合需給の分野で働き役員となったが、のちに関係会社の社長・会長を務めた。
藤井亮一は復員後九州電力に入社した。電気事業連合会勤務なども経験したが、常務取締役を経て退任した。
電機メーカーに入った者の活躍
この分野には最も多くの人材が活動している。まず挙げるのは(株)東芝に行った佐波正一である。主として重電機の畑を進み、昭和45年取締役になり、その後昇進して55年社長、続いて61年会長に就任している。技術出身の経営者として、経団連副会長、その他多くの役職を務めるが、国際派でもあり、海外とのつながりも多い。平成2年勲一等の叙勲に浴した。
同じく東芝に入った西島輝行は送信管から半導体と進み、取締役を経て副社長に就任した。いくつかの工業会の会長も務めた。
若くして亡くなった杉下和也も戦後東芝に復帰、整流器に取り組み、将来を期待されたが、惜しい人材を失った。
今野与八は戦後中共に抑留され、昭和28年に帰国し、30年より東芝に入り電子管の製造に従事、43年より国立木更津工専において教職につき定年に至った。
河崎(森重)太郎は戦中は華北電業で勤務したが、帰国後は大分県の故郷で農業に従事後、電業社に入り水力発電機器の製造に従事し、昭和51年に東芝に合併していた同社を退職、関連会社に在籍して引退した。
三菱電機には、鷲尾信雄、加藤又彦が就職し、復員後勤務した。牧野六彦は戦後入社し、その後プリンス電機、日本真空電気に勤務、主として電球関係の製造・販売の業務に終始した。
日立製作所に就職した須藤卓郎は、中央研究所・家電研究所・本社技師長を経て、前記のように法政大学教授になった。高林乍人は日立大甕工場から日立研究所で重電関係で活動、昭和47年より三重大学を経て熊本工大での教職に進んだ。
電線関係に移る。住友電工には小松改造と藤沢喜行が入った。小松は通信ケーブルの領域で活動、光ファイバーの立ち上げにも努力した。セールスエンジニアとして世界各地にも出かけて働いた。常務取締役研究開発本部長で退き、東海電線(株)社長・会長を務める。
藤沢は電力関係電線、同軸ケーブルの開発製造に従事、日新電機に移って、大電流、低電圧のイオン・インプラ機器の企業化に取り組み業績を上げた。
藤倉電線に復員後復帰した庄司徳三は、一貫して通信ケーブルの開発・製造に打ち込み、常務取締役で退く。手堅い仕事振りで名を上げた。
通信・弱電関係に移ろう。国内通信の元締めであったNTTは戦前には逓信省のもと官業であったが、戦後電気通信省を経て、電電公社から民営化してNTTになったわけである。ここには卒業時栗山が就職したが、戦時中に惜しくも殉職した。戦後海軍に入っていた新堀達也が入省し、その後富士通に勤務している。
やはり海軍に入った阿部英三は安立電気に入り取締役から子会社安立電波工業(株)の社長を務めた。
日立をギブアップした中島俊之は、日本無線に入り、その後(株)アロカ副社長を務めた。平野宰次は日本無線を早々と退職、電元工業に入り、国際電気を合併して独立会社になり、工場長などを務めたが、病気で昭和54年に退職した。
昭和22年に復員した村橋秀雄は、日本ビクターに復帰、終始勤務した。藤原一夫も戦後、入社した沖電気に戻らず、同じく日本ビクターに入社した。退職後塾を経営、自ら教鞭を執った。
陸軍に勤めた西山 實、外地企業に入った大森 豊は戦後故郷に近い企業に勤めている。西山はクラボウに入社、大森はクラレに入り、繊維工業の発展を支えた。
久保原 弘は一時自衛隊にも勤めたが、一家を失った戦災地広島で印刷会社有文社を再興し自営した。また盛定義安はソ連抑留で昭和23年帰還、自衛隊に勤めたが、36年日本電気に入社、47年に日電アネルヴァ出向、53年社長になり、会長・相談役を経て退任した。
日下部正直は、戦後海軍から日本電気に戻らず、国鉄技研に入り、その後地崎電機製作所から自営で仕事をした。
町原 熙は戦後明電舎には行かず日立製作所系列の会社泰営商工(株)に勤務、職を全うした。
塙 宜良は不詳。星埜 衛は戦後警察庁などに勤めたとされる。
最後になるが、軍隊から昭和21年商工省電力局に復帰した武安義光は、いくつかの局の勤務後、新設の人事院に出向、公務員試験などの業務を扱ったのち工業技術院に復帰、科学技術庁が新設されると移り、基礎固めに尽力、一時通産省に戻り電力行政に携わったが、39年に科学技術庁に行き、そこが本拠になった。原子力関係に従事、動力炉開発などを手掛け、新設の動燃事業団へも出向、その後科学技術庁で事務次官を務めて退官、特殊法人理事長、政府の科学技術会議議員などを務めた。
本職以外の分野での活動
佐波正一は日本ボーイスカウト連盟理事長を務めた。
武安義光は学生時代からの「剣道」の縁で、( 財)全日本剣道連盟会長を務めている。
写真は2010年9月に中国・北京市で開かれた世界武術大会に国際剣道連盟会長として剣道部門の団長を務めて訪中、中国少年剣士の打ち込みの実演を披露した時のもの。