電波報國隊の記録(一工)/島田博一

1.まえがき

平成14年10月の昭十九会(昭和19年9月卒東京帝国大学第一・第二工学部電気工学科合同同窓会)で、平成16年に迎える卒業六十年会を記念するため、人生を締めくくる会員相互の挨拶として「寄書」を集めること、併せて、我々大学時代の大きな出来事であった電波報國隊について隊員の記録をまとめて、記録として後世に残すこととなった。そして、第一工学部関係の報國隊記録は、当時、隊長を務めたことと、報國隊についての一資料がふとした縁で手に入ったことから、筆者が受け持つ運びとなった。

注―「工場勤労手記」。
「学徒勤労の書」(大室貞一著、昭和19年12月、研進社発行)
第17章に掲載。これは、当時、 筆者が求められて帝国大学新聞に書いた記事からの抜粋である。この記録に「付属資料‐1」として添付する。以上、本文中は、「当時手記」と略記する。

2.電波報國隊活動の経過

2-1発足

ガダルカナル撤退、山本元帥戦死、アッツ島玉砕と、ただならぬ時局の急が報ぜられだした昭和18年の初秋のある日、第一工学部電気工学科の一同は、阪本捷房教授から思いもかけぬ通告を受けた。それは:「本年10月から来年3月まで、東京所在の4大学、即ち:東京帝国大学、東京工業大学、早稲田大学、藤原工業(現慶応)大学の電気工学科学生は、電波報國隊として、原則として全員が陸軍或いは海軍指定の電波兵器工場に派遣され、直接国のため力を尽くすこととなった。諸君の派遣先は、東京芝浦電気株式会社柳町工場と小向工場である。目的は、電波技術分野の強化、そして国として今後学生を工場労働に動員する可能性の検証である。技術現場を体験できる有り難い機会でもあり、大いに頑張るように。」とのことであった。「とうとう来たか。」が、一同の気持ちではなかったかと思う。

このとき、筆者と田畑稔雄は、それぞれ隊長、副隊長を命ぜられた。そして教授のお宅に呼ばれ、体制、宿舎、勤務条件等の説明を承り、連絡事項、注意事項など、細かい指示をいただいた。

この記録は、断りのなり限り、東芝派遣グループに関するものである。

2-2体制

各大学の派遣先は、下記の通りであった。

東大一工・・・・・東京芝浦電気株式会社(海軍)
同二工・・・・・住友通信工業株式会社(現NEC)(陸軍)
東工大・・・・・同上(陸軍)
早大  ・・・・・同上(陸軍)
藤原工大・・・・・日本無線株式会社(海軍)

なお、陸軍・海軍の各委託学生は、別途、軍の研究所等の施設に配属された。また、特定の学生は、教授の研究助手に当てられたと聞く。

2-3参加者

第一工学部電気工学科学生は、東芝派遣が主体であった。この東芝グループが、会社幹部と一緒に撮った記念写真がある。(「付図」)この写真を見ると、派遣者は25名であった。以下にその名を示す。
赤居正太郎 島田良巳
石川伝二  田中好雄
伊藤伊好  田畑稔雄
小笠原直幸 高森三郎
岡村直彦  中村道治
岡田勉   藤井敬三
荻田敬直  舟引一郎
片山愛介  前野拓三
小林一治  増田耕
斉藤仁代  廻健三
粟冠俊勝  山内康平
柴橋貴恭  吉田得郎
島田博一

付記1:東芝派遣以外の学友諸君は、判明した限り次のようである。その派遣状況は、3.3の付記を参照。
     小倉 正美:陸軍委託学生
吉名 真:
斉郷 一郎:海軍委託学生
嶋田 正三:
田中 春夫:
平野 忠男:海軍委託学生
細島 博文:海軍委託学生
三上 一郎:海軍委託学生
矢部 五郎:海軍委託学生
吉野 淳一:海軍委託学生

付記2:西山長吉は休学中。吉野淳一もしばらくして休学。

2-4活動

東芝に派遣されたのは、当時の大詔奉戴日、10月の8日であった。清水与七郎社長他各位に挨拶の後、最初の勤めは、1週間の基礎知識教育の受講であった。会社幹部から、電波兵器の原理、種類、その構成、部品、材料、製造工程、調整試験、及び工場技術について説明を受けた。概括的だが具体的で生々しい話に、一同息を凝らして傾聴した。

その後、一同は、柳町と小向の2工場に、5班に分かれて勤務についた。柳町工場は、川崎市の中心部、駅の西側に所在。会社の本部とシステム関係が主体で、設計、製造、研究、さらに業務、管理の諸部門があった。一方、小向工場は、柳町工場から北北東約3㎞、多摩川寄りに所在。部品材料関係が主体の諸部門があった。工場はどちらも現存している(注)

配備された5班の編制は、柳町に3班、小向に2班であったと想像するが、正しく記録できないのが残念である。

各班に配属されるや、直ちに班毎に、担当すべき技術の実地訓練を受けた。そして、月改まる11月、一同は実務のスタートを切ったのであった。我々に与えられた仕事は、要約して、海軍納入電波兵器の本体或いは構成部品に関係する基礎研究、設計、試作、実験、或いは試験器・測定器の設計、試作、更に量産装置の調整・試験であった。主体的に任された仕事もあったが、会社責任者の助手的な仕事も少なくはなかった。一部の隊員は製造作業そのものを担当した。「当時手記」を見ると、筆者は、「米英撃滅のための重要兵器が我々の手に託され、敢闘精神で完成されて行ったことは、思い出すも痛快。」、或いは「全員、愉快に勤務し通し得た。」と書いている。今考えれば、いささか誇張の感を否めない。

「当時手記」は、又、「毎週水曜日午前に隊員全員に輸講の機会が与えられ、担当業務の発表・討論があった。学究的欲求を潤し、皆にも会え、楽しい思い出だ。」と書き留めている。かすかに、そんなこともあったかと思う程度の記憶である。もしその輪講の記録が手元にあったなら、この報國隊記録がどれ程充実したものになるか、の思いが空しく去来する。

なお、大学への報告は求められていなかった。機密維持のためかもしれない。

注.‐平成15年12月25日付け日本経済新聞朝刊に拠れば、柳町工場は郵便分配・白動改札等の設備を作ってきたが、東芝の新メモリーなど新事業の展開資金計画でキャノンに譲渡される。そして平成16年4月1日から、キャノンの全社的生産技術センターになるとのことである。

2-5宿舎`

一同に準備された宿舎は、街外れで小向工場に近い旧家らしい大きな平屋の農家であった。何人かの有志は各白の宿から通勤したが、殆ど全員がここに合宿して通勤した。家の所有者、相沢さんの一字をとり、相生荘と呼ばれていた。一切は我々学生の自治に任されていた。

2-6任務の終結

こうして昭和19年3月31日を迎え、それぞれ派遣先の任務を終えた。海軍関係工場派遣の各大学学徒は、翌4月、目黒の海軍技術研究所に参集した。受け入れ先の清水東芝社長を始めとする各社各幹部も参集した。そして海軍当局に実施業務と成果を報告し、報國隊は解散した。この時、筆者は隊長として、東芝派遣一工電気報國隊について報告を行った。その内容は、後に求められて帝国大学新聞に寄稿、昭和19年5月1日第983号に、「意欲と誠意と喜び一海軍某工場に奉仕して一」と題して掲載された。先に掲げた「当時手記」は、それらの転載であり、書き出し部分を削除している。また、○○の伏せ字は実名で埋めてある。その他の部分は同文で、省略はない。参考までに、「付属資料一2」に、「当時手記」で省略されている該帝国大学新聞記事の冒頭部分を示す。

3.実施業務

以下に、隊員諸君が担当した業務と活躍ぶりを述べる。順序は氏名の五十音順である。このたびの報國隊言己録作成にあたって、学友諸君から寄せられた情報に基づいている。

3-1電波兵器本体或いは部品の研究開発関係

  • ●測距儀装置用周波数逓減回路の試作(島田博一、柳町工場)独TFT誌発表の新回路を試作し、可能性と原理を確認。井坂栄課長の指示による。
  • ●送信機用空洞発振器の高出力化の研究(島田博一、柳町工場)三極空洞発振器の共振空洞形状、回路条件を変えて出力増大の方策を探求。林周一氏の研究の手伝い。
  • ●方向探知方式の実験(島田良巳、柳町工場)新しい方式について。富士山からの反射波を用いて。沢崎憲一課長配下として。
  • ●測距儀装置用3極出力管の開発。(中村道治、柳町工場)発振励起誘発に苦労。中西部長、島津課長の配下。石川伝二と同班。

3-2電波兵器量産装置の製造、調整、試験関係

  • ●電波兵器の性能測定、調整。(伊藤伊好、柳町工場)平行アンテナ短絡ロッドの移動によるレーダーの測定範囲調整。プレート高圧に触れて電撃ショックのミスを体験。
  • ●電波兵器の調整(岡田勉、柳町工場)3.3記載の業務に続き、任務期間の後半に従事。
  • ●標的方位指示装置の配線、調整。(斉藤仁代、小向工場)真空管の不安定、取り換えに苦労。柴橋貴恭、船曳一郎が近くで作業。柳町工場へ出向き、下村部長の指導を受ける。
  • ●電波兵器(第13号金物)の製造、調整。(粟冠俊勝、柳町工場)装置架裏面の半田付けを記憶。途中に徴兵、戦車兵として満州へ。大山教授の配慮により陸軍委託学生に合格して復帰。卒業。
  • ●方向探知装置の製造、調整、試験。(田中好雄、柳町工場、小向工場)志願して製造ラインに入って半田付け。深夜、富士山を標的にして実験、於両工場。原田課長の配下として、

3-3試験器、測定器等の研究、設計、試作関係

  • ●特殊回路用セラミックコンデンサの耐圧測定法の研究。(岡田勉、小向工場)個人で実施。小原清成氏の指導による。
  • ●コンデンサ合否判定用テスタの試作(高森三郎、小向工場)製造工程の効率化のため。小原課長、杉本係長の指導による。

ある大学派遣の報國隊では、生産現場に入って作業を分担し、まとまった電波兵器の生産に当たったと聞く。下村さんもある時、「学徒全員で、「勤労学徒号」の銘板入り電波兵器ひと揃いを造る行き方もある。」と話しておられた。然し我々東大一工電気の報國隊は、以上述べたように、各種の業務に分かれて会社の機能を補佐、強化するという形を取ったのであった。どちらも、意義ある行き方ではなかろうか。

付記:東芝以外に動員された学友の状況

第一工学部電気工学科の軍関係委託学生等の動員計画は阪本教授によって進められ、陸軍海軍の区別無く、9名が海軍関係機関に3班に分かれて配属されたようである。
参考までに、以下にこれを記録する。

  • ●海軍航空技術支廠(金沢八景)。(小倉正美、斉郷一郎、田中春夫)航空計器の作製等に従事。
  • ●海軍技術研究所(恵比寿)。(平野忠男、三上一郎、吉野淳一)電波探信儀(注)の基礎研究。同用マグネトロン性能向上の実験の手伝い。月島で実験試験。伊藤庸二大佐ドイツより昭和16年に帰国して研究開始。矢島技術大佐より厳しい指導。杉下和也先生(東大)、岡村総吾先生(東大)の配下。他に、斉藤成文先生(東大)、林竜男先生(阪大)の指導。
  • ●海軍技術研究所(恵比寿)。(細島博文、矢部五郎、吉名真)電波探信儀(注)ブラウン管表示装置の試作、研究。新川浩技師の指示により、茅ヶ崎砲台見学後、日本放送協会技研に派遣。高柳健次郎部長、城見技師の指導を受けた。菊池正士先生(阪大)要請の簡易電波探信儀表示装置2台を試作。更に矢部は、新川技師指示により住友通信工業(玉川向製造所)で検査業務。その後国際電信電話(上福岡)に移り、アンテナの設計、実験を実施。
注.―用語について
 陸軍は電波探知機、海軍は電波探信儀。海軍では既に音響探信儀が存在していたためとのこと。

参考―給与、食費などについて

ある自宅通勤海軍派遣学徒の記憶では、給与は工員相当の日給55銭。大学帰還後支給。食事、弁当は自給。残業弁当は支給。とのことであった。東芝派遣学徒の給与は、食費などの情報は得られなかった。筆者の記臆では、費用はすべて会社が支給、支弁。給与は海軍派遣学生並であったかどうか、何がしか支給されたような気もするが、思い出せない。

3-4学徒の所感

以上の担当業務と共に、次のような所感が、級友諸君から筆者のもとに寄せられた。(順不同)

  • ●海軍監督官から学徒に対して、現地到着製品に不備があった旨の苦情があった。直接、会社に当てるべきことであろう。
  • ●会社の流れ作業による生産体制を体験し、大きな感銘を受けた。
  • ●電波兵器とは何かが詳しく分かって良かった。
  • ●兵器生産に直接参加できたことに誇りを感じた。
  • ●今岡さんの殉職(4.5参照)に心を打たれた。写真を卒業論文に添付して弔意を表した。
  • ●終業時刻の後、試作回路基盤に孔を開けるため試作工場に行った。帰り支度で見回りをしていた班長さんが、ニッコリ外套を脱いで即座に面倒な仕事を椅麗に仕上げてくれた。助かった。有り難かった。今尚、忘れられない。東芝の皆さんは誰方も親切にして下さった。
  • ●ふとした縁で、休日に日本無線の藤原工大グループを訪問した。食堂長さんが山盛りのご馳走をしてくれた。日く「出来る時は誰方であれ喜んで頂きたい。」頭の下がる一言であった。
  • ●電波報國隊は、昭和13年の国家総動員法により政府が実質的な独裁権を得たが為に可能となった。無計画な徴兵で熟練工が不足して麻痺した電波兵器生産を救うための派遣であった。学徒が進んで学業を捨てて自発的に出来たものではない。あの戦争の背景を後世に冷静に客観的に伝えることができないか。それは学徒出陣、また特攻隊の友人達への申し訳になるように感ずる。
  • ●授業短縮、学徒動員と、暗濾たる時代であった。一人で直接お役に立つ仕事をしたいと思って、機器組み立てラインを志願した。
  • ●中学生の少年工、元呉服店主の徴用工や、多数の部下を見事に仕切る組長を知るなど、大変為になった。元呉服店主は見事な半田付け技能の持ち主で、極意を教わった。
  • ●仕事をしているうちに、現場の空気が分かってきた。また、国の行くえの限界が見えてきた気がした。
  • ●会社でご指導いただいた方々やそのご子息と、戦後も仕事上でご縁があって会議でお目にかかった。懐かしくまた有益であった。世問は狭い。
  • ●ある学友が健康を害し、父君が我々に挨拶して相生荘から連れて帰った。寂しかった。
  • ●天皇は40歳代の若さだったが、戦時中の決断は大したものだと思う。
  • ●日本の電波兵器は、海軍の大艦巨砲主義に押されて正論が届かず、後れをとった。
  • ●突貫で作って納入した兵器が、4月、目黒の海軍技研に集まったとき、入り口の部屋に置いて在るのを目撃、「あんなに急がせておいて」と、大変がっかりした。
  • この会社勤務の経験は、その後の希望、就職先の判断に、少なからぬ影響があった。
  • ●仕事で接した方々は、誰方にも尊敬の念を感じた。有り難いことであった。
  • ●あの大戦は仕方がなかったが拙かった。電波報國隊もその一駒であった。

付記:軍派遣学徒の所感

なお、海軍委託学生の諸君からも次のような所感が寄せられた。

  • ●電波兵器を理解でき、また海軍の雰囲気が分かり、大変有意義であった。
  • ●電波兵器のノウハウを体得でき、任官後新米ながら部下の信頼が得られた。
  • ●物づくりを体験して大変楽しかった。技術は理屈でないことが分かった。
  • ●技術開発は終わってみれば簡単だが、それまでが苦労だ。
  • ●宿直の深夜、枕元に響く貨物列車の音が忘れられない。

4.思い出すこと

4-1日々の生活のこと

三度の食事は会社の食堂で摂った。このため、出勤は7時20分までに着く必要があった。終業は5時40分。必要により残業、時には徹夜も、という一日であった。

休憩時間は一日三度。有志の者は屋上で東大鍛練体操、乞われて寒風の中、社員に手ほどきする事もあったと聞く。

相生荘は、小向工場には近かったが、柳町工場は歩いて20分。厚生課長の松井さんが止宿されており、毎朝の起床号令、「柳町!起きんかャ!」をはじめ、何かと大変お世話になった。ある隊員は、頂いた干柿の有り難さを今尚忘れない。松井さんの将棋は大変強かった。

往復一里の道も、やがて馴れれば肩の凝りをほぐす良い運動になった。湯に浸かって、ある隊員は、「イヤハヤ甘露!甘露!」の声をあげて喜んだとか。畳に座れば、或いは万葉集を吟じ、或いはマントをかぶって哲学書に読みふけり、或いは車座になって、「雨」だ「坊主」だに打ち興じた。

「当時手記」は、「最後の出勤の日の朝は、白い富士山がくっきりと見えた。そして、帰ってきた一同を、相生荘の梅がふくよかな香りを以って迎えてくれた。」と書きとどめている。

4-2学徒出陣壮行式への参加のこと

右、左の見当がだんだんついてきた10月21日、神宮外苑競技場に参集を命ぜられた。文科系学生の徴兵猶予制度が停止されて、軍隊に入ることとなり、それを壮行する学徒出陣式が行われたのであった。動員総数7万5千人、雨の一日であった。すぐ戦場に立たねばならず、故郷に帰っている文科系学生を呼び返すのは可哀相だという判断があったとかで、工学部の我々が代わって参加、銃を肩に水しぶきをあげて行進した。誰が下したか、美しい判断であった。

この時の情景は、今もなおテレビや新聞雑誌で何度となく報ぜられている。「大学旗を先頭に行進する顔々が、我々に見えて仕方がない。」とある隊員は述懐をよせている。

4-3「当時手記」で論じていることごと

「当時手記」はその後半で、学徒側、受け入れ側の間で逢着した諸問題と解決策、それぞれの反省点を論じている。その要点は次の通りである。

  • ●相互間に、色々問題があったが、それは双方に認識を深める努力が不足していたためであった。
  • ●仕事は同じでも、学徒は奉仕で一時的、従業員は生活がかかり恒久的で、大きな違いがある。同じ管理方式を採ることは適当でなく、工夫が必要である。
  • ●学徒に対して受け入れ側には、誠意と温情ある指導が望まれる。そうであれば要求は過酷であっても良い。一方、学徒は、学生の気宇は大切だが、学生気分を捨てて現場に融和する努力を忘れてはならない。大事な会社業務の邪魔にならないとも限らない。
  • ●要注意事項として、1ケ月ほど経つと、殆ど全員が体の不調を訴えた。これは環境の変化のためで、すぐ治る。心配はいらない。

相互間に色々問題があったと「当時手記」に記したが、一体その問題とは具体的に何であったか?手記はそれには触れていない。今思い出すのは、次の4.4で述べる正月休みの事だけである。このことを抽象的に一般化したような形で書いたため、針小棒大に、問題だらけとの誤解を呼ぶ恐れ無しとしない。今、大いに反省するところである。

4-4下村さんのこと

会社側の学徒担当責任者は技術部長下村尚信氏(昭和7年東大工電卒の先輩)であった。氏は比類ない学識・人格そして責任感の方であった。姿勢正しく闊歩される姿は凛々しく、技術者の鏡と一同敬慕したのであった。筆者は役目がら席が近く、接する機会に恵まれたので、特にその感が強かった。

お願いする事はすべて即座に聞き届けて下さった。しかし、一つだけ例外があった。頑として拒絶されたこと、それは正月には帰省させて頂きたいと云う希望であった。何度お願いしても同じで、実に恨めしかった。実際には年末休暇が出たので、万事解決であった。今思えば、下村さんは会社の最高技術責任者として、超非常時下の重い重い軍と国の要請と諸問題を双肩に担い、休みの話などは論外であったに違いない。未だ40歳には達しておられなかった筈なのにこの重責、凄いことであった。

この場で下村さんに、お詫びを一言申し上げさせて頂きたい。海軍技研での報告会の時であった。隊長としての筆者の報告に対して、下村さんが発言を求め、海軍担当官がそれを許さなかったことがあった。一方、筆者の報告は褒められたとか。下村さんの発言要求は、筆者の報告に黙っていられないお気持ちからのことに違いない。報告会で筆者が何を話したのか記憶はないが、それをもとに書いたのが「当時手記」であることは確かである。今考えれば、4.3で述べた、あの針小棒大な誤解を呼びかねない表現、内容に対してのご抗議ではなかったかと思う。

下村さんには、誠に申し訳ない事であった。心苦しい。もし、「若気の至りだ。」とお許しいただけるのであれば、誠に有り難いことである。戦後、二度ほどお目にかかったことがあった。報國隊の話はなにもなく、元気に、にこにこしておられた。みな忘れて下さっておられたのだと思います。

4-5今岡専務取締役のこと

今岡賀雄さんは東大物理の出身と聞く。学徒受け入れの所管役員であられた。にこにこと優しい方であった。然し、想像を絶する責務、激務による過労のため、帰宅の夜川崎駅での事故で一命を落とされたのであった。この報に全社、そして我々も、粛然とし頭を垂れたことを思い出す。筆者は、その今岡さんから大喝を受けたことがあった。「その服装は何事だッ!!」それは、全社防空演習のさなか、規定に違反してゲートルなしの姿でウロウロしていた為であった。隊長の面目もあったものでない。顔から火がでた。強烈な思い出である。

5.あとがき

われわれ電波報國隊の成果・教訓を待つことなく、時局は大学・高専さらに中等学校生徒まであらゆる生産分野に動員するに至った。緊迫度の高まりを見れば、やむをえぬこと、否、是非を越えた当然のことであったと云うべきであろう。しかし、それらの動員に対して、我々の実績が必ずや何か役立つところであったに違いないと思いたい。

受け入れ側から見て、我々の作業成果は、果たしてそのための諸経費に見合うことができたであろうか。我々学徒側が得た体験の価値の方が大きくはなかったろうか。

勉学の時間を大幅に献納したには違いないが、生産現場体験のプラスは大きかった。就職の判断のためにも、生涯にわたっても、言いしれぬ恩恵を受けたことは問違いない。

学窓での勉学は尊い。然し、もし筆者個人の意見を問われ牟なら、現在でも、報國隊の方を選ぶであろう。あの経験の感銘、その生涯を通しての意義が忘れられないからだ。

我々は、この恩恵の大本に感謝せねばならない。当たり前すぎて、当時、否、現在でもあまり意識することがない。それは、派遣先の業務と学んでいる学問とが合致していたという幸せである。後々、勤労派遣文科系学生の悩みや摩擦を耳にするに付けて、この思いを深くする。

一部の級友については、連絡不能、或いは困難のため、業績を記録することが出来なかった。やむをえない事とは云え、残念である。物故諸君の活躍の記録も僅かしか残せなかった。もし出来れば、大変良い供養になったのではと思われる。これまた、残念である。

筆をおくに当たり、当時ご指導をいただいた本学阪本教授、東京芝浦電気株式会社下村技術部長及び関係幹部・社員各位そしてお世話になった松井課長にたいし、報國隊参加学友一同とともに厚く御礼を申し上げる。

そして、この記録の筆者として、協力いただいた学友各位、担当各位、及び第二工学部電気の担当各位に深く感謝する。

[添付資料目録]
付   図:「冒波報國隊記念写真」
(東京帝国大学第一工学部電気工学科学生及び東京芝浦電気株式会社幹部各位による)
付属資料―1:「工場勤労手記」(略して「当時手記」)
(「学徒勤労の書」(大室貞一郎著、昭和19年12月研進社発行)の第17章より)
付属資料―2:「意欲と誠意と喜び」

(帝国大学新聞昭和19年5月1日第983号2面の抜粋)
付   図:「電波報國隊記念写真」
(東京帝国大学第一工学部電気工学科学生及び東京芝浦電気株式会社幹部各位による)

付属資料―1:「工場勤労手記」
(「学徒勤労の書」(大室貞一郎著、昭和19年12月研進社発行)の第17章より

付属資料―2:「帝国大学新聞昭和19年5月1目第983号2面の抜粋
(「工場学徒手記」との差異)
原新聞記事は、(一)から(五)に分けて掲載されている。「工場学徒手記」(即ち「当時手記」)は、そのうちの(二)から(五)までであって、省略無く全文が転記されている。参考までに、欠如する(一)の部分を下記に示す。伏せ字○○は、電気、電波、東芝など。工場の甲、乙はそれぞれ柳町、小向である。

附記:この帝国大学新聞第983号は4面構成で、そのうち2面全部を、「勤労の体験に省みる」と題して、学徒動員記事の特集に当てている。筆者の記事はその6記事のひとつである。掲載された6記事を以下に列記する。

  • ●意欲と誠意と喜び―海軍某工場に勤務して―工・島田博一
  • ●諮然一兵に徹す―相模原陸軍病院実習―医・西宮博道
  • ●選ばれた連絡使―労力供出に終わらしめぬために―経・高野祐治
  • ●いそしむ求道愛智―静岡県下勤労に思う―法・平岩新吾
  • ●より有意義な強カヘ―付添教職員の立場から―美術史研究室・嘉門安雄(上項記事関連)
  • ●理想は学徒工場―軍工場に奉仕して―八高・日比野静夫

そして次号から、帝国大学新聞は休刊となった。そういう時局であった。

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